"ペインキラー"
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 分厚い水の壁越しに聴こえてくるようだった。
 かきん…、かきん…、という規則正しい金属的な音色。
 鮮明なくせに、反面ぼんやりとたわんだように遠くから響いてくる。
 顔面に何かがぐるぐる巻きにされているのか、とても息苦しい。
 視線の先には綺麗な石があった。
 きらきらしている。
 それが横にいくつも並んで列を作っていた。
 その石の列は二つある。
 きらきらしているその石をじっと見ていると、その先に生えている指に気が付いた。
 サンダル。椎名が用意したサンダルだ。それはサンダルを履いた俺の足だった。
 かきん…かきん…という音は未だ続いている。それ以外にも沢山の音がしているのは解るのだが、スロー再生されているみたいにざわざわと歪んだものに聴こえる。
 手の甲には何か硬いものが喰い込んでいるし、引き千切れそうな力で腕が引っ張られていて痛い。
 首も痛い。圧迫感によく似た痛みがうなじの辺りから身体中を侵食していた。苦しさから無意識に顔を上向けようとしていたが、頭を動かした途端にそこから全身へと感電したような痛みが走り抜けて俺は呻く。
 砕けていた膝に何とか力をいれて自力で立つと、腕への負荷は軽減した。
 痛みを殺す為にゆっくりと鎖骨の隙間にくっついている顎を擡げていく。息苦しさは気道が塞がっていた所為だったようで、一気に呼吸が楽になる。
 深く息を吸い込む。
「おはよう、お嬢さん」
 俺は上手く反応出来なかった。
 顎を上げきったその先の、目の前に突きつけられた光景があまりにも思いもよらなかったから。
 広いけれど、汚い部屋だった。妙な刺激臭が微かに漂っている。
 汚いとかそれ以前にこれは人が住んでいる部屋ではないと思い直す。
 ここはきっと朽ちかけた温室だ。
 人々の記憶から忘れ去られ滅びかけている廃墟。
 破れた袋から撒き散らされた土、倒れた鉢植えから零れた土。
 割れた瓶から溢れた薬液なのか、それとも腐っているのか、異臭を放つ水溜り。
 ひび割れた如雨露と何だか解らないプラスチック製の容器たち。ビニール袋、ゴミ。
 錆びてぼろぼろになった背の低い白い棚、そこに置かれたまま枯れてしまった植物。
 キャンプで使うようなランタン型の電灯がひとつ床の上に置かれている。
 そんな電灯ひとつで十分だったのは俺の正面の壁と天井が白く曇ったガラス製だったからだ。一メートル四方のガラスが鉄骨の枠に嵌っていて、外からの灯りを透過している。ところどころ割れた隙間からは見たことあるような看板が覗いているし、ガラス越しにはネオンサインが透けて見える。ここはどこかの屋上なのかもしれなかった。
 そして。
 驚きのあまり開いてしまっていた唇を閉じると、ゆっくりと奥歯を噛む。同時に返事の代わりに俺は正面の男を睨みつけていく。
 三メートルほど離れた直線上、錆びた棚のひとつにそいつは腰掛けていた。
 かきん、と黄金のジッポを最後にもう一度鳴らして、くるりとそれを手のひらに収める。
 ジョーイ。
 場違いな優雅さで脚を組んで笑ってやがる。
 こうして改めて見ても、やっぱり妙な雰囲気のある男だった。
 椎名みたいに特別整った顔をしているわけじゃない、むしろ十人並みだろう。それなのに見栄えのする容姿に感じるし、日本人のようで純粋な日本人には見えなかったし、若いような三十路過ぎのような、年齢さえもいまいちはっきりしない。
 ただ、あの瞬間に感じた威圧感はもう消えていた。
 内心俺はそのことに酷く安堵していた。用心深く視線を動かす。
 ジョーイの他にはシドと、それからあのクラブに居た奴と見たことない奴が五人。一人はビデオカメラを俺に向けていた。どいつもこいつもにやにやと腹の立つ笑い方をしている。
 そのにやけ面を忌々しく思いながら、どういう訳か万歳したままになっている両手を下ろそうとして俺はぎょっとなった。
 下ろせなかった。
 頭上でじゃらりと鎖が鳴る。漸く俺は金属の冷たい感触に気が付いた。
 間違いないと思っても、それでも信じたくなくて縋るように顔を振り上げる。
 俺から見て正面に向かって天井は緩い角度に斜めにカットされていた。左右の壁から鉄骨が一本伸びていて、部屋の中央で十字架のように縦の柱と交わっている。俺が立っているのは丁度その真ん中を貫く柱の傍らだった。
 見上げる視線の先には、横の梁に架かった手錠に繋がれた俺の両手首があった。
 青褪めるとか、そんな生温いもんじゃない。
 最悪だ。
 これ以上は無いぐらい最低な状況だ。
 縄ならまだしもこんな鎖で拘束されているんじゃ、自力でほどくことはまず不可能。
 相手が悪い、ジョーイは普通じゃない、五体満足で解放されるとは思えなかった。
 殺されるかもしれない、そう思った瞬間、内臓を握り潰されるような恐怖に襲われた。
 馬鹿だ何捕まってるんだ俺。
 安良木の云うことをもっと真剣に聴いておけば。
 何故俺がこんな目に遭う? どうしてだよ?
 帰ってこない俺にきっと雛子は泣くだろう。
 誰でもいい、誰か助けろよ。
 警察は何してるんだよ? 椎名は? あいつらは何やってるんだ?
 冗談じゃない、こんなとこで死んで堪るかよ畜生、そんなの嫌だよ。
 嫌だ、死ぬなんて。
 恐い。

 コワイ

 恐かった。
 俺は痛みも忘れて自分の置かれた状況に絶望し後悔し、呪い罵り、救いを求め、そして最後に果てしなく恐怖した。今まで俺の胸に宿ったことのある恐れなんてものはまやかしだったと思えるほどに、それは気が狂いそうなほどの圧倒的な力で俺の心を覆い尽くしていった。
 結局、俺もチキンヤローだった。
 ただひとつ自分を誉めてやれるとしたら、惑乱して叫びださなかったことだ。
 まぁ、それだって本当は単に余りにも魂消ていた所為で、声をあげることすら儘ならなかっただけだけど。
 その証拠に呆然と鎖を見上げたままでいる俺の正面へと、いつの間にシドが移動していたのかまったく気が付いてなかった。
「おい」
 顔に影がかかる。それに促されるように俺はのろのろと視線を動かす。
 シドは鼻にはガーゼがなかった。鼻の下は固まりかけの鼻血で汚れている。問題はその鼻本体で、右方向に不細工に曲がってしまっていた。さっき俺がバッグの角で痛打したせいだろう。
 こんな状況じゃなかったなら笑い出していたところだ。
 それぐらい変な顔になっていた。
 だが、シドの燃えるような憎悪を宿した瞳に至近距離から睨み付けられ、いくら無神経な俺でも笑うことは叶わなかった。
 正直云って、すげえみっともねぇけど、本当は云いたくねぇけど、俺はこの時シドに怯えていた。
 シドが恐かった。
 目を見開いて硬直している俺をシドが凶悪な面相で見下ろしている。
 その右手が唐突に閃く。
 咄嗟に奥歯を喰いしばり、殴られる力に合わせて顔を背ける。
 ばん、という閉塞した音が耳の中で弾けた。衝撃に視界がたわむ。よろめく俺に合わせて鎖が鉄の梁に擦れ、耳障りな音を立てる。三半規管が揺れて瞬間的な吐き気を催す。このバカ野郎、頬じゃなく耳の辺りを張りやがったんだ。
 けど、逆にこの一撃が俺を正気に戻した。
 じんじんとした熱。
 身体から送られてくる信号を無視して、俺はすぐさま顔を起してシドを睨む。
 正気に戻ったって云っても、それはちょっとばかし恐慌状態を脱したって意味なだけだ。本当は恐怖で縮み上がりそうなのは変わってねぇ。
 下手すりゃなんて馬鹿な真似をしたんだって泣き出しそうだ。
 それでも例え内心は震えだしそうなほどビビってたとしても、それを死んでもこいつらに悟られて堪るかって俺は自分を必死に奮い立たせた。
 覚悟を決める。嘘だそんなもの全然決まらない。ありったけの意地を総動員して虚勢を張りまくる。可哀想な張子の虎だ。
 命乞いをするつもりはない。
 別にカッコつけてるわけじゃない、俺だって死にたくない、泣いて謝ればこの鎖を外してくれるならいくらだってそうする。
 そうじゃなくて例え命乞いをしたところで通じないっていう確信があったからだ。そんなことをしたってすればするほどこいつらを喜ばすだけだっていう。
 現にシドの肩越しに覗くジョーイの表情に変化はない。さっきと変わらず組んだ脚の膝のところに片肘を付いた姿で、殴られた俺を見て微笑んでいる。
「シシド。顔は殴るな。鼻血を流しているような顔では商品価値が下がる」
「顔はやってませんよ」
 シドが投げやりに答え、乱暴に俺の顎を掴み上向けた。
 ぎりぎりと骨が砕けそうな力で締め上げてくるが、俺は瞳を緩めない。絶対に俺の方から目ぇ逸らすもんか、って身体全部の力を目に込めて睨み続ける。
「おい、お前ら」
 ふいっとシドの方が先に視線を外す。
 意味のない勝利感に浸る間はなかった。シドの声に男たちが二人寄ってくる。一人が俺の頭を掴んで喉と垂直になるほどに無理矢理に上向け、さらにもう一人が頬を押して強引に口を開かせる。
 横目に歪に笑うシドの顔と見せ付けるように掲げられた拳が映った。拳は俺の顔の上へと移動してくる。止まって、そして開かれる。
 舌の上に何かが落とされた。
 そして液体が注ぎ込まれる。
 吐き出したかったが、その前に鼻も口も塞がれてしまう。
 もがいてみたものの、顔を上向けた状態では上手く力が入らず、空しい抵抗なだけだった。苦しさに負け、得体の知れないものを飲み込む。
 ごくりと喉を鳴らすとやっと拘束が解かれ、俺は激しく咳き込んだ。食道に物が留まっているような感触が残り、熱を帯びた蛇が這いずっているように喉から胃にかけてが焼けるように熱い。
「て、め、…何、飲ませやがった」
「GHBとウオッカ」
 答えたのはシドではなくジョーイだった。
「お嬢さん、今日何か薬を服用したかね? そう悪い薬ではないし滅多にないとは思うが、運が悪いと飲み合わせが悪くて死んでしまうよ」
 ジョーイは死という言葉を口にしながら、なお笑っていた。
 俺だって死って言葉ぐらい使うよ。
 こんな身体にされてから寿樹に対してそう思わない日はないぐらいだった。
 それでも俺とジョーイじゃ根本的に違う気がした。
 俺も誉められた子どもじゃない。
 売られた喧嘩に売った喧嘩、相手を殴って俺も殴られた。殴り合いに突入しちまえば倒すことしか考えない。血を流し、血を吐いた。やりすぎて相手に怪我を負わせたこともある。
 死んじまえという言葉を拳に乗せて叩きつけた。
 それでも違う。俺の中にある幻想的であやふやな死ではなく、こいつは人が死ぬという意味がどういうことかを理解した上で死という言葉を使っている。
 無駄だと知りつつ、俺はジョーイを睨み続けた。
 『死』という重さがこいつと俺じゃ違う。
 怪物め。
 そうやってジョーイに気を取られてる間にそっと背後に回り込まれていた。
 気配に気付いた時には背中でじっという音が滑っていた。俺は反射的に廻し蹴りを放つ。鎖が鳴っただけで、踵は虚しく空を切った。
 服と肌の隙間に新鮮な空気が入り込み、クソ野郎どもが一斉に囃し立てる。
 俺は舌打ちした。
 中途半端にファスナーを下ろされたベアワンピは腹の辺りにエプロンのように垂れ下がっている。当然のようにノーブラだった胸は隠すものもなく丸出しだ。
 それを恥ずかしいなんて思わなかったけど、こいつらが見て楽しんでいるって事実が俺は気に喰わない。人のチチみて喜んでんじゃねぇよってムカムカしてくる。
 睨むことしか出来なくて、にやにやしている男どもを睨んでいくと、どいつもこいつも余計にニヤけるばかりだった。
 胸糞悪い奴らだ、本当に。
 手錠に繋がれた俺がろくな反撃も出来ないことに優越感を感じている。
「素敵な身体をしているね」
 俺はジョーイに視線を戻す。相変わらず脚を組み場違いに微笑んでいる。
「良い値段で売れそうだよ。ただ、もう少し怯えた表情をしてくれるともっと高値で売れるんだが」
 云っている意味が解らなかった。
 売るって何を売るって云うんだ。
「そうだな……この先君がどんな境遇に落ちるか話したらちゃんと怯えてくれるのかな。これから君はそこにいる男たちに代わる代わる犯されるんだよ」
 俺は目を見開く。
 てっきり俺はこいつらにボコられるもんだと思っていた。
 死ぬまで殴られて後は適当に捨てられると想像していた。
 だから、云われて初めて自分が思い違いをしていたことに気が付いた。
「その様を延々ビデオに撮られるんだ。そうだな、その後は薬がないと生きられないように調教して、店に出すか、それか売るか。どの道、君がこの先御両親や友人に見えることは一生涯ないだろうね」
 ジョーイは穏やかな口調でこれからの俺の人生を語った。
 俺は信じられない思いでその顔を見つめていた。
 語られた俺の今後について俺は驚いたわけじゃない、そうじゃなくて。
 俺は男と女の嬲られ方の違いなんか考えたこともなかった。俺は身体は女でも今でも男のつもりだったから、当然これまでのパターンで行くとボコられる、しかも薬売ってて拉致ることまでする奴らだ、普通に帰してもらえるなんて考えてなかった。
 だから殺される、って思った。
 この状況でこの先があるとは思えなかった。
 そう思っていた。
 でも女なら違うようだ。
 この場ですぐに殺されることはないらしい。
 その代わり殺されない代償にこの馬鹿どもに散々犯されて、一部始終撮影されたその様子で何の了承もなしに勝手に商売された挙句、売り飛ばされる?
 冗談じゃねぇ。
 余計救われないじゃねぇか。
 『女』だってことでそんな目に遭うのかよ?
 単純に身体を痛めつけられるだけじゃないのか?
 それって身体じゃなしに心を殺されることじゃないのか?
 そっちのが男の時よりよっぽど非情なことなんじゃねぇのか?
 畜生。
 ここに居るこいつらは狂ってやがる。
 人を傷つけてそれでも笑えるなんて異常だ。
 ここのところすっかり忘れかけていた頭痛がゆっくりとぶり返してくる。
 『どうして急いで危険なことをしたがるのか』
 椎名に云われたことだ。
 今ならどうしてか説明できる。
 俺は『男』だってことを忘れたくなかったんだ。
 無茶をして危険に首を突っ込んでも平然とした振りをすることで勇気を示そうとした。
 そうやって強がることで本当は不安で仕方ない自分を守っていた。
 でもそんなの間違っているってこいつらを目の前にして、やっと解った。
 ルールを乱すのは勇気なんかじゃない。ましてや男らしさの証明なんかじゃない。
 とても愚かだった。
 そんなこと今更悔やんでも遅いけど。
 俺はぎっと奥歯を噛みしめる。
 今や恐怖は消えていた。
 今俺を支配しているのは恐れではなく、紛れもない怒りだった。
「ジョーイさん、もう始めてもイイっすよね?」
 頭の弱そうなツラした男が媚びた声と視線でジョーイにお伺いを立てる。
 ジョーイが頷くと、堪らなく嬉しそうに顔を緩ませて足を踏み出す。ベルトをかちゃかちゃ外しながら、俺の胸に手を伸ばしてくる。
「おい、これから俺のをお前の…」
 男の台詞は途中で途切れた。代わりに絶叫が汚い部屋を満たす。
「っあぁ、うっ、ぁあぁぁ!」
 俺は汚れた床でのたうちまわっている男を冷たく見下ろした。
 押えた左頬の肉がごっそり削げている。
 代わりに俺の右足のサンダルの石には肉片と血が付着していた。
 ごろごろと俺の足元に転がり込んでくる。俺は無表情で脚を上げる。そのままヒールの踵で思い切り股間を踏み潰してやった。「げうっ」と醜い声を上げて男の動きが止まる。
 沈黙が場を満たす。
 無言で顔を上げると、シドたちは驚愕に立ち竦んでいた。
 俺は男の身体を向こうに蹴り出す。
 絶対に俺はこんな奴らに屈服したりしない。
 絶対だ。
 俺は真正面のジョーイを睨む。
 俺と目が合うと、奴は笑った。
「続きはどうした?」
 ジョーイの声にシドたちはびくりとして、動き出した。
 警戒しているんだろう、ゆっくりと俺の周りを取り囲む。
 俺は手錠を手首まで潜らせて、手で鎖の部分を握った。そうしないと輪っかに擦れて皮膚が裂けそうだったからだ。
 伸ばされる腕を躱して蹴りを放つ。
 だが、間合いの限られている俺は圧倒的に不利だった。射程外に簡単に逃げられ、撫でる程度のヒットしか喰らわすことが出来ない。
 始めは恐る恐る手を伸ばして来ていたくせに、蹴りが決まらないことが解ると俺で遊び始めた。にやにやしながら、胸やスカートに手を伸ばしてくる。
 ほんの数分、そんな状態が続いた。
 俺は何度目かの空振りをする。
 通り過ぎた脚が帰ってきたところを捕え、男が俺の脚を自分の腹に抱え込む。
「ヒャハハ! おい、パンツ丸見えだぜ、中映せよ、押えとくから!」
「しっかり押えとけよ」
 俺の言葉に男が「え?」と振り返る。振り返った顔が瞬時に恐怖に歪む。
 掴まれた脚を軸に、俺は身体を捻りながら飛び上がり男の眉間に膝を叩き込んだ。
 がつんと膝に衝撃が走り、拘束が緩み俺は宙に投げ出される。どすん、という肉の倒れる音、同時にぎゃららららと鎖が悲鳴を上げ、室内に不快な音が響く。
 距離が足りなくて俺は鎖を掴んでいた手を離さなければならなかった。おかげで摩擦で甲の皮膚が破れ、そこから溢れた血が腕を伝い始める。
 でも手の皮一枚と馬鹿一人というのは十分釣り合いの取れる戦果だ。
 俺は足元に白目を剥いて倒れ臥している男を嘲笑った。
 パンツ見えてたってどってことねんだよ、バーカ。
「シシド。何をしてるんだ? これでは売り物にならないぞ」
 シドはその声に大げさなほど肩を揺らして見せた。
「ジョーイさん、でもこの女」
「シシド」
 ジョーイがシドに向かって何かを投げる。それは黄金の軌跡を描いてシドの手に収まった。
「それを使って躍らせろ。薬が回ればどちらにしろ動けなくなる」
 俺はその台詞にぎくりとなった。
 薬。
 もしジョーイの云う通りなら、俺は自分の意思で戦うことさえ叶わなくなる。
 冗談じゃない。
 女の子とヤったことも無いのに男にヤられて堪るか。
 シドは手元を怪訝そうに見つめて、それからニヤリと笑う。
 睨みつける俺の視線の先で、シドがかきんと蓋を跳ね上げた。俺が覚醒間際に耳にしていた音、例のジッポにぼっと火が灯る。
 炎は尾を引いて薄暗い室内を移動した。その眩い軌跡に眩惑され、俺は目を細めた。
 シドが俺の射程ぎりぎりに立ち、獰猛な目の色で見下ろしてくる。
 でも、もう恐いとは思わない。
 突然、俺に向かってジッポを突き出した。
 何とか避けたものの、脇腹の辺りを掠めた熱の感触が残った。
 シドはもう射程外に脱出してる。
 そういうことかよ。
 ぎりぎりと奥歯を噛む俺の向こうで、残りの奴らもなるほど、とかほざきながらポケットからガスライターを取り出す。
 俺は三本の炎から文字通り踊るように逃げた。
 だがすべてを躱しきれず、背中に火が触れる。
 俺は唇を喰いしばった。
 俺は絶対にこいつらの暴力に屈服して、泣いたり声を上げたりしないことを自分に誓っていたから。
 廻し蹴りはまた避けられた。
 その拍子に鎖を掴んでいた手がほどけて、裂けた甲に手錠が食い込む。
 俺は痛みに顔を顰めそうになるのを耐えながら、けれど、内心マジでヤバイと思わずにはいられなかった。
 今の廻し蹴りの後、不意に眩暈のように一瞬意識が途切れたんだよ。
 薬が回り始めた。
 そうとしか思えなかった。
 本当にこのままではこいつらにいい様にされる。
 ぞっとした。
 炎を避けつつ、ジョーイを盗み見る。
 笑ってやがる。
 笑ってるんだよ、俺を見てよ。
 冗談じゃねェよ。
 なんで俺がこんな奴に好きにされなきゃならねェんだよ。
 死んだ方がマシだ。
 長すぎる髪が身体に付いて来れずに炎に焼かれた。
 特有の嫌な臭いが鼻につく。
 だが。
 その異臭のおかげで大分鈍くなった頭にひとつの可能性が閃いた。
 俺はよろけるように炎から逃げつつ、見回せる限り室内を物色した。
 在った。
 俺は笑い出しそうだった。
 やっぱり薬が回ってるんだ。
 腹を括る。
 そう。
 冗談じゃなく、

 死んだ方がマシだ。

 俺は突き出される腕を待った。
 ガスライターじゃ駄目だ。
 シドの持つジッポじゃないと消えちまう。
 段々ゆっくりと腕が差し出されるようになってくる。
 別にこれは奴らのスピードが遅くなったわけじゃない。
 例のアレだ。
 視界がざらざらとした感じになる。
 俺に確実なゴールの方向を示してくれる、アレだ。
 俺はガスライターを無視する。
 めんどくせえ。
 速く来ないかな。
 また違う。
 躱す。
 これも違う。
 避ける。
 ああ。
 やっと来た。
 無防備に突き出される腕。
 俺は手錠にぶら下がるようにして身体を反らす。
 腹の目の前を手首が通過するのを狙って、右膝を跳ね上げる。
 手首を打たれてライターも跳ね上がる。
 『あ』という声もゆっくりと聴こえる。
 俺だけが静止した時間の中稼動している。
 ジッポがくるくると回転しながら落下。
 右膝を素早く下ろし左足を後ろに引く。
 足元に落ちてくるのを待つ。
 全神経を集中させて、俺はジッポを蹴った。


 キィン、とサンダルの石とジッポがぶつかった。
 振りぬく脚の先にジッポは黄金のラインを描いて真っ直ぐ飛んでいく。
 気味の悪い微笑を浮かべてるジョーイを通り過ぎ、そしてガラスの嵌っている細い枠に当たり、跳ね返った勢いで狙い通りぱちゃと沈んだ。
 ジッポが接触した瞬間、部屋にぼっとオレンジの塊が出現する。ドミノ倒しのような猛スピードで、それは一気に床を走って増殖し、壁を茜色に染めた。
「テメエなんてことしやがる!」
 腹を蹴られる。
 それが誰だったのか解らない。もしかしてシドだったのかもしれない。
 零れていた農薬に引火した火は、リンを含んだ堆肥にまで燃え移り、瞬く間に広がっていった。もう外の灯り以上にこの内部の方が煌々と眩い。
 シドたちは俺にライターを突き出すどころじゃなくて、おろおろし始める。
 ざまぁみろ。
 蹴られた所為で咳き込みながらも俺は小さく笑っていた。ざまあみろともう一度胸で叫ぶ。アレが農薬かどうかは一か八かだった。俺は賭けに勝った。せいぜい慌てやがれ。ざまあみやがれだ、バカヤロー。
 あはは、という笑い声。
 だが、生憎俺じゃない。俺には笑う気力さえもうない。訝しんで俺はのろのろと目線だけ上向ける。
 ジョーイが始めて声を上げて笑っていた。
「君の矜持は素晴らしいね。非常に高貴だ、さもなくば、死を、とはね」
 炎を背に、ジョーイは拍手をしていた。
「シシド、引き揚げる。そこで寝ている者の処分は君に任せよう。捨て置くなり連れ帰るなり好きにするといい」
「女は?」
「ここに置いていく」
「えっ!」
 シド同様、俺も驚いていた。ジョーイが撤退を宣言するまで俺はその可能性を考慮してなかった。とにかく回らない頭で思いついたことをやったまでだ。
 だから撤退、と聴いた時は振り出しに戻ったようなどん底の気分になったのに。
「でも、ジョーイさん」
「二度は云わない。置いていく」
 シドはそれ以上何も云わなかった。
 無言で他の男に指示を出し、倒れている男を運ぶよう云いつける。
 俺は信じられない思いでジョーイを見つめた。
 炎に慌てることなく、ジョーイは俺の前に立つ。くるりと手首を閃かせた。
 その指に小さな鍵が現れる。
「これはプレゼント」
 ジョーイは俺の顎を掴むとくちびるを割ってその鍵を捻じ込んだ。
「君は悪魔に呪われたお姫様だ」
 俺はその言葉に目を見開いた。
 寿樹の言葉。
 確か悪魔に俺を女にするよう願ったって云ってた。
 その事を云っているのか?
 何故こいつが知っている?
 至近距離で三日月形に歪んだ瞳は炎を受けて黄金を宿すばかりで何ら真意は窺えない。
「君に命をかけてくれる男が居たら、君もその男を愛してやるといい」
 最後にやっぱり場違いに微笑んで。
 ジョーイは俺の顎を解放した。
 その後は振り向きもせず、シドの待つドアに向かう。
 ジョーイを先に通し、シドが最後に部屋を出る。
 その際に、シドは強烈な怨嗟の視線を俺に向け、そしてドアを閉めた。
 鍵の閉まる音。
 それから鉄の非常階段を下っていくような、かんかんという音がしばらく続いた。
 それが終わってしまえば、後は火のはぜる音だけになった。
 大分視界が白くなってきて、俺は軽く噎せる。
 もしガラスが割れてなかったら、もっと酷いことになっているだろう。俺は中世の火刑の死因は、実は火よりもその煙による窒息死だったとかいう話を思い出す。全く縁起でもない。
 よりによって今そんなことを思い出す自分の思考回路に、俺は首を前に落とした姿勢で少しだけ笑った。
 このままじゃ俺は死ぬ。
 けれど不思議とついさっき感じたような猛烈な恐怖心は全く湧いてこなかった。
 諦め、とも違う。
 ただ心が『静か』だった。
 これも薬の所為なのかもしれない。
 雛子と匠平の顔を思い出す。
 せっかくここまでおっきくしてもらったのにごめんな。
 安良木も。
 俺が馬鹿だった。
 せっかく心配してくれたのに、それをなじったりしてごめん。
 椎名と黒川と畑兄弟と、それからサル井上とエロ桜庭も。
 お前らの責任じゃないんだからな。
 俺の所為なんだから、俺が悪いんだからお前らが変に後悔とかすんなよ。それから。
 それから。

 寿樹。

 意地でも男であることに俺が拘ったもうひとつの理由。
 俺はスカートはいてへらへら笑える自分が嫌だった。
 そして、そんなみっともない姿になっても生きていられる俺を知っている寿樹。
 アイツにそんな俺を見られたくなかった。
 口でなんと云おうと心の底では軽蔑して嘲笑ってるんじゃないかって、ずっと卑屈に疑っていた。
 裏切られたって思った。
 俺は友達だって思ってたのに。
 下手すりゃ、親友だって云ってもいいよ、それぐらい信頼してたのに。
 なのに、アイツはただの気紛れで俺の身体を女に変えた。
 アイツの中じゃ俺はその程度のどうでもいい人間だったことにスゲエ傷付いた。
 今、心残りがあるとすれば、ひとつだけ在る。
 アイツが俺をどう思っていようと、怪我を負わせたのは事実だ。
 寿樹の指を傷つけたこと、それを詫びたかった。
 もう、
 そんなのは叶わないけれ、ど…………

 がん! という音に俺はびくっとなった。
 どうやら意識がトんでいたらしい。
 さらにがんがんという音。白い煙の先、ドアが叩かれているようだった。
 俺は声を出そうとして、そして文字通り凍りつく。
 ほんの僅かに口が開いただけで、声は全く出なかった。
 ごん、という一際強い一撃がドアを揺らす。
! 居ないのか!?」
 割れた窓ガラスから風に乗って叫ぶその声が届いた。
 椎名の声だ。
 俺は驚いた。
 どうしてここが解ったんだ?
「おい! 居るのか居ないのかどっちだ!」
 もう一度、ごんという音。
 俺は返事をしたくても出来なかった。からからの唇を数センチ開くのが精一杯だった。
「駄目だ、こんな状況だ、もう移動してるはずだ、奴らを追うぞ!」
「待って」
 その声に俺は動かない身体でもうどうしようもなくびっくりした。
 寿樹だった。
 どうして椎名たちと一緒に居るんだよ?
「居るよ。この中に居る。今声がした」
 嘘だ。
 そんなの。
 俺、声なんか出ねぇもん。
 泣きそうになって俺は目をぎゅうっと閉じた。
 寿樹。
 俺、
 やっぱり、
 死にたくねぇよ…………
 ……・・


 手の甲の痛みに俺ははっとなる。
 さっきまでは確かに立っていたのに、いつのまにか俺はまた手錠に吊りさがっていた。
 また意識が途切れていたらしい。
 火はいつのまにかさっきより広がっている。
 俺は炎に音や臭いがあるのを知らなかった。どうして意識を失えたのか不思議なぐらいばちばちと野蛮な音を立てているし、燃料が農薬や堆肥な所為か、最早小さな裂け目からじゃ排出が追い付かなくて胸が悪くなるそうな臭いが充満している。
 よろよろと膝に力を入れ、鎖を掴む。
 煙の色もさらに濃くなっている。
 それ以外、部屋の中は何ら変わってなかった。
 咳き込みながら、ボーっとした頭で考える。
 さっきのアレは俺の生み出した幻聴だった、そう思えた。だって助けに来てくれたんなら、もっと騒がしくてもいいはずだろ。ドア開けようとしたりさ、そういうのしてたら、こんな静かなわけねーもん。
 最後に聴いたのが寿樹の幻聴だったことに気持ちだけで苦笑する。
 意地になってただけで、結局俺は寿樹を嫌いきれてなかったってことか?
 ある意味あいつの所為でこんな目に遭ってるのに、俺も大概めでたいよなあ。
 ぎこちなく息を吐くと、俺はゆったりと瞬きを繰り返した。
「オイ、ちょっと待て!」
 聴いたことあるその怒声に俺はびくっとなる。正確にはびくっとする力もなくて、もうちょっとでくっつきそうだった目蓋がぱっと開いただけだったけど。
 わけが解らないまま、無意識に目線だけ上向ける。椎名の声はそっちの方から聴こえた気がしたから。
 次の瞬間、心臓に突き刺さるような音が天井で弾けた。


 それは俺が十四年間生きてきた中で、初めて耳にする繊細な破壊の調べだった。
 時間にすればきっと瞬きひとつするぐらいのものだったはずなのに、それなのに俺の目にはすべてがはっきりと見えていた。
 天井のガラスが一瞬にして蜘蛛の巣状の罅に覆われる。
 ほんの少し表面が撓んだが、一秒と持たずに破裂して壮絶な音を発しながら砕け散っていく。
 そのまるで雪のように白く淡く光るガラスの破片を纏いながら堕ちてくる身体。
 しゃらしゃらと細い音色が幾重にも重なって大音量を紡ぎ、鬣みたいに翻るシャツがばさばさと無粋な声で吠える。
 空を切り裂くその姿はどこか現実感を欠いていたが、地上に下りるとどんと重い音を上げて間違いなく重力の支配下にあることを教えてくれた。
 頭上から零れ落ちるあまたの破片が、床に落ちて鋭く跳ね返る破片が、衝撃を吸収する為に膝を屈したその頬や腕を容赦なく掠めていく。
 けれど、その痛みに怯むことなく、よろめく身体を片手を突いて支えると素早く顎を上げ前方を睨む。
 ガラスの雨が降り注ぐ中、視線が重なる。
「………っ…」
 咽喉に痞えてたった三文字も声にならない。
 信じられなかった。
 寿樹だった。


 煙が猛烈な勢いで穴から吸い出されていく。
 すぐさま立ち上がった寿樹のスニーカーの裏でさらにガラスが砕け、蹴り脚の力で後方に弾き飛ばされる。
、鍵は!?」
 俺は朦朧とした意識でそれでも何とか口を開き僅かに舌を突き出した。
 すかさず指を突っ込まれる。
 寿樹の指は埃や鉄の味がして苦かった。
 その肩越しに、寿樹のぶち破った穴から椎名と黒川が続けて飛び込んでくるのが見えた。外からもドアを打ち付ける音が聞こえ始める。
 薄れたとはいえ、未だ煙って視界の悪い俺の頭上に寿樹が手を伸ばす。
 小型の消火器を使い切った椎名が今度はそれでドアノブを叩き壊しにかかる。内と外からのごんごんという音が部屋に響く。
 ばきん、と唐突にノブが落ちて奥に向かって転がっていった。
「開いた!」
「須釜!」
 じゃりりり、という音と同時に俺の身体は重力に引かれて頽れる。
 だが俺が跪くより先に、弛緩した俺の身体を寿樹が抱き止める。俺を肩に担ぎ上げると直ちに寿樹は走り出す。
俺たちが脱出して、しんがりの黒川が消火器を放り投げて出てくる。
「行くぞ!」
 いったい何人いるのか。
 鋼鉄の非常階段ががんがんがんがん、滝のように連打されて煩い。
 すげえ煩い。
 それなのに。
 俺の意識は灯りがゆっくりと消え行くように再び閉ざされていった。



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