"ペイキラー"
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「………ここまでやる必要あんの?」
 俺は心の底からげんなりして呟いた。
が素顔覚えられて後々面倒なことになったり、万が一公園でのした奴らに出くわした瞬間一発でバレて、あ、あの時の女だってことになりたいんならいいんだよ、別に僕はこんなことしなくても」
「お願いします……」
 俺は重々しい溜息を吐き出す。俺の唇に何やら塗ったくっていた椎名は眉を顰めて手を止める。至近距離からじろりと睨まれて俺は慌てて呼吸を止めた。
 綺麗な顔が離れてから、俺は再度盛大に息を吐く。
 椎名の用意した肩丸出しのワンピースに着替えて、カツラ被って化粧して……俺何やってんだ?
 椎名が鏡を差し出してきたが、俺は恐ろしくて正視出来ずに顔を背けた。
「何だ? 見ないのか?」
「エエ結構デス」
 半笑い気味にそう云うと、椎名は怪訝な顔で鏡を引っ込める。
「やっぱり変な女だな、お前は。おい! もう入ってもいいぞ!」
 女じゃねぇもん、男だもん。
 今度は自分の髪をいじり始めた椎名に心の中で舌を出す。
「翼、はいっぞー」
 五助の声にぞろぞろと外に追いやられていた奴らが戻ってくる。されるがままになっている間、外からはボール蹴る音がしていた。ほんとは俺、そっち混ざりたかったなぁ…。
 床に向かって三度溜息を吐く。
 一間の部室だ、隠れるような場所はない。覚悟を決める。
 俺は椅子から立ち上がると、何か云われる前にやけくそにくるりと一回転して、おまけに両頬に手を当ててにっこりしてみる。
「ハーイ、ワタシちゃん、よろしくネ!」
 畜生、笑いたきゃ笑え。
 どうせ俺が変なのは今更なんだろ、どんとこいだ、くそっ。
 俺は作り笑いを浮かべたまま、爆笑の渦が湧き上がるのを待った。
「おお〜」
「いいんじゃん?」
「うん、中坊には見えねぇよ」
「ちゅうか詐欺やな!」
 …………。
 ……………………。
 …………ちっ……チガウ!!
 違うだろ、お前らそこは笑うところだろ!?
 俺はがくっと肩を落とした。
 もしやアレか? 笑えないほど酷いのか? 洒落にならんのか?
 うおー! 俺を余計惨めな気分にさせないでくれ!
 ああああ、笑われた方がマシだったな、これじゃ……。
 虚ろに視線を彷徨わせていると不意にふっと笑いが込み上げてきた。
 まぁ、やったのは椎名だしな、別に似合ってなくても俺の責任じゃねぇしもうどうでもいいや。そうだよ、そもそも男の俺じゃ何着たって女の服なんて似合うわけがないんだし。
 いよいよやけっぱちに拍車がかかってきた俺は、椎名に渡されたグレイピンクのサングラスをかけてみる。眼鏡ですら普段かけてないから、そこにさらに色がついているとなると違和感てんこ盛りだ。椎名はリスクを減らす為だと云っていたが、俺だということを見抜かれるリスクは縮減出来たとしても、慣れない視界に転倒する可能性は増加する気がする。
 なんかやだなあ、靴も踵が高いし、これでこんなのしてたら絶対こけるって、俺。
 わざと忘れていくかと汚いことを考えつつサングラスを外すと、今度は机の上のカメラ付きバッグに手を伸ばす。
 持ってみると意外と軽い。顔の前に掲げて、ミラーボールみたいなバッグをくるくると廻してみる。しかし、どこにカメラが付いているのかまったく解らなかった。
「椎名、コレどこにカメラついてんだ?」
「ファスナーの金具にスイッチが溶接してあるだろ、そのスイッチが在る方の側面の下だ」
 云われた通りに金具のある方の側面を覗き込む。すると確かにスパンコールに紛れて小さなレンズがあった。
「暗がりでの撮影を想定して赤外線LEDを搭載しているから光がなくとも二メートル以内なら撮影可能だ。外部電源なしで一時間は持つ。一応マイク内臓だが本体が中に入ってるから音声は期待出来ないだろうな」
「すっげぇなぁ……こんなんで撮れんだ」
「最近はどんどん技術が進歩してきたからこのサイズでもかなり鮮明に写る。ボタンを押せば録画スタート、あとはのカメラワーク次第だ。防水仕様じゃないから水は厳禁、強い衝撃を与えるのも避けろ。それとファスナーは絶対に開けるなよ、万が一配線が傷付いたら使い物にならなくなる」
「了解」
 ファスナー部分に目を移すと、シャツのボタンくらいのスイッチが金具にしっかりくっついている。これがスイッチだろう。本当に良く出来てるなぁ。
「そろそろ行くか」
 がたんと椅子を引く気配。やっとかと俺は笑顔で振り返り、そして立ち上がった椎名を一目見るなり思わず目を丸くした。
「か…」
 それは禁句だと体内で警鐘が鳴り響く。まだ死にたくはない俺は、続く言葉を無理矢理飲み込んだ。
「何?」
 けれど、迂闊な俺の発言を聴き逃さなかった椎名は胡乱な表情で足を止める。俺は慌てて首を振りまくった。
「か…蚊がいた、ホレ!」
 俺は自分の手をばちーんばちーんと叩いてみせた。
 何となく可哀想な人を見るような目つきで俺を一瞥すると、椎名は先頭切って部室を出ていく。
 安堵の吐息を吐き出すと、俺は一緒に用意されていたGジャンを腰に捲き付けた。
 いや、しかし、まぁ……。
 長めの前髪をすっきり上げた椎名はまさに超絶美少女以外の何者でもなかった。
 すっげえ可愛い、見たことないぐらい可愛い、それはもう半端じゃなく可愛い。
 写真とりたいなぁ。きっと高値で売れると思うんだよなぁ。でも、そんな商売したのがバレたら確実に殺されるんだろうなぁ。
 あ〜俺この場にいれてラッキーだなあ。お目にかかれただけでも眼福眼福。
「おい! 行くぞ!」
 その超絶美少女に怒鳴られて俺はびくりと出口へ急いだ。
 だが、ヒールの高いサンダルに慣れていない為、部室前の短い階段を下りたところで俺はよろける。あっと思った時にはつい一番傍にいた椎名にしがみついてしまい、その結果、ごめんと云うより先に「セクハラ?」という冷たい言葉と白い目を俺は頂戴してしまったのだった。


 昼が終わり夜へと足を踏み入れようとする境の時刻、空の色はいよいよ変わり始めていた。
 擦れ違う人々は揃って俺たちを奇異の目で見送っていく。
きっとあの人たちにはが悪い奴らが美少女を連行しているように見えるんだろなぁ、ほんとは美少女が悪の親玉なんだけど。

 そんなことを思っていると、悪の親玉もとい椎名がわざわざ最後尾にいた俺の位置まで下がってきた。
「お前指示通りに動くってこと苦手だろ」
 横に並ぶなりずばりと云い切る。
「…良くご存知で」
 寿樹が入っていた例のアンダーのセレクション、実は俺も最終選考までは何とか残っていた。
 選に漏れたその訳は落選というよりもクビに近い。どうにもこうにも監督の方針と合わなかったんだ。
 フィールドで実際戦っているのはそれぞれ自立した考えを持つ生身の俺たちだし、一度だって同じ瞬間なんて在る訳がないのにまるで機械のような動きを要求された。定石定石、本来ならそうじゃねぇだのそこはパス出すべきだの、俺たちを全自動サッカーロボか何かと勘違いしているとしか思えねえようなくっだらねぇ事ばっかぬかしやがるもんだから、あったまきて大喧嘩して俺はその場で退場宣告。
 何遍云っても通じなかったけど、でも俺解るんだよ。
 例え傍から見たら無茶に見えるかもしれなくても、その瞬間は視界がこう、粒子みたいにざらざらしたのになって、全部がゆっくり見えるんだ。
 そうなると、そこに打てば絶対入るって閃くんだよ。
 実際、俺はそういう時には一回も外したことねぇし。
 なのに、ぎゃあぎゃあ指示に従えってそればっか云ってきやがって。寿樹は何とか俺を宥めようとしていたけど、やっぱり我慢出来なくってさ。いや、監督の云うこと成すこと全部に逆らいまくった俺も悪いんだろうけどさぁ……。
「そのとおりでゴザイマス」
 やっぱりねと云うように、呆れたように椎名が鳶色の瞳を細める。
「お前の思考パターンは読みづらい、というか予測不能だ。そんなこと普通やらないだろって無茶をやって、しかもそれが上手く行ったりする。ある意味類稀な才能かもな」
 ほ……褒めてる? 椎名に褒められてるよ、俺!
 誉められたことにまずびっくりして、それから俺は嬉しくなる。だって褒めるってことは俺のことちょっとは認めてくれてるってことだろ? 女になってから他人から遠ざけられることはあっても、認められることはなかった。しかも、相手はあの氷の女王・椎名翼だ。これが嬉しくない訳がない。
「いやぁ、それほどでも」
 えへへ、と後頭部を掻く俺に椎名は調子に乗るなと云いたげな眼差しを向けてきた。
「反面、お前のプレーはチームプレーとしては最低の可能性がある。お前のやりたいことを回りが理解することが出来ず、余計な混乱を招く恐れがあるからだ。足並みが乱れたその結果、チームは取り返しのつかない損害を被ることにもなりかねん」
 うわあ、落としたよ、この人!
 持ち上げた直後に落とす! さすが椎名! 鬼だ!
 舞い上がったのは束の間、一気にしょぼーんとなる俺。
「まぁ何が云いたいかって、本作戦の最重要優先事項は何かってこと。お前、何だと思う?」
「え〜と、ヤクの密売の本締めは誰なのかを掴むこと」
「マイナス百点」
 椎名は心底呆れ果てたように重苦しい吐息を長々と吐き出す。
 思わず馬鹿でスイマセンと謝りそうになってしまった俺の手首を椎名が何の予告もなしに掴んだ。
 見た目は女の子なのに、その力はまるきり男で俺は眉を顰める。放せと云う代わりに足を止めると、椎名も立ち止まった。腕を捕らえたまま、細めた瞳で椎名はじっと俺の目を覗き込む。
「まずは自分の身の安全を確保することだ。いいか、イカレ野郎の陣地に侵入するんだぞ? 常識は通用しないと思え、当然向こうは向こう側に都合のいい勝手なルールで動く。用心に用心を重ね、何の成果が上げられなくても少しでもヤバイと感じたらすぐさまその場から離れろ。欲の皮突っ張らせて引き際を見誤るな。解ったな?」
 握られた手首が痛い。
 俺が頷くとやっと手首を開放してくれた。
「…解ってるよ、そんなの」
 掴まれていたのなんてほんの数秒のはずなのに、手首には見事に赤い痕がついてしまった。それをさすりながら俺は唇を尖らせる。
 椎名はちらりとそれに目を留めただけで、謝りもせずに歩き出す。
「解ってなさそうだから云ってんだろ。俺たちはチームで、これはお前の苦手なチームプレーだ。お前が無事に帰ってこなかったら、俺たちに多大な迷惑が掛かるってことをちゃんと頭に叩き込んでおけよ」
 半分嫌がらせのつもりでこれ見よがしにさすっていた手を止め、少しだけ前を行く睫毛の長い横顔に目を落とす。
 俺だって底なしの馬鹿じゃない、云い方がきついだけで椎名が俺のことを心配してくれているのはちゃんと解った。椎名たちの不利益になる行動は慎めとはっきりと告げることで、俺が無茶をしないように不可視の拘束をかけようとしていることも。
 けれど、椎名には悪いが、そんな気遣いよりも俺は『チーム』というその響きが切ないくらいに嬉しかった。女になってからずっと持て余していた空洞が少しだけ埋まった気がする。
「そうそう、お前が捕まってもわしら助けに行かへんで、せいぜいしっかりマジメにやれやー」
 なのに、その後続いた井上の台詞はしんみりした気分を台無しにしてくれた。俺はぎろりとバカを睨む。
「ウルセー! こっちだってサルなんかに助けられたくねぇよ!」
「云いよったな!? しかと聴いたで、ぜーったい助けになんか行かんからな!」
「おお、いらんわい! 第一お前じゃあるまいし捕まったりしねーよ、バーカバーカ!」
「うおおお! 止めんなや、六! このアマ一発殴らせろ!」
「殴れるもんなら殴ってみろや、ああ?」

 黒川に突付かれて、俺はファイティングポーズを取ったまま振り返る。
 椎名がにっこりしていた。
 ただし、目だけはまったく笑っていない顔で。
「お前らこんな道端でデカイ声を張り上げて一体誰の注目を集めたいんだ? 作戦を台無しにしたいんなら、そんな遠回しなことはせず面と向かって俺にそう云えよ」
 俺と井上は激しく首を横に振り、お互い仲良く貝のように硬く口を閉ざした。
 何かさあ、さっき気を付けようって思ったばっかりなのに、俺もこいつら同様椎名の云うことは絶対きかなきゃ! って体質にどんどんなりつつあるような……。
 やばいじゃんと一人もんもんとしていたら、黒川に肩を掴まれて俺はびくりと立ち止まる。顔を上げたらもうフェンスが見えていて、例のフットサル場まではあと僅かだった。黒川が小さく指を差した後方で椎名たちは既に足を止めている。
「ぼうっとしてんなよ」
「わり」
 行き過ぎそうになった俺は焦って戻り、反対に黒川はぶらりと公園に入っていく。
 俺がその背を見送っていると、椎名が口を開く。
「黒川が戻ったら俺との出番だ。俺とで例の男から平和的に情報を訊き出す。お前らは適当に俺たちから距離を取ってぶらぶらしてろ。ただし俺たちの方をじろじろ見るなよ、男付きだって思われたら警戒される」
「質問」
 俺は肘を曲げて手を上げる。
「平和的に訊き出すって、どうやって?」
「おっまえ、ほんま好戦的なやっちゃなぁ〜。ボコらな気ィすまんのか」
「ちっ、ちがわい! 俺はただどうやんのかなって思っただけだ!」
「ストップ」
 再度勃発しそうになった醜い争いを、寒気を誘う地を這うような低い声音が遮った。
「お前ら本当に学習能力がないな。目立つな騒ぐなって云うのがまだ解らないのか?」
 不機嫌そうに眉を寄せても可愛い顔は可愛いんだなぁって、怒られているのに俺はついつい見惚れてしまう。
「口を割らせる役は俺がやるから、は横でにこにこ笑ってればいい。お前に頭脳プレーは期待してない、云ってみれば相手を油断させる為の餌だ、お前は」
 いや、それなら椎名だけで十分だと思うけど。
 そう思ったが、俺は黙っておいた。しつこいようだが我が身は可愛い。
 じゃりっと砂が鳴り、人の気配に振り返ると黒川だった。
 こんだけ近付かれて漸く解るぐらい、こいつも大概気配ってモンがない。
「翼。一番奥のコートの左側の花壇の前に座り込んでる。趣味のワリィアロハ、20代前半、体型は標準、髪は金髪の男。今は丁度一人だったぜ」
「よし、行くぞ」
 椎名が歩き出しので、慌てて俺も横に並ぶ。残りの奴らは指示通りすぐにはついて来ない。
 フットサル場に入り、黒川の云っていた一番奥のコートに向かう。
 周囲を木で囲まれている所為か、フットサル場の中は夜の訪れが一足早いようだった。闇を木陰に追いやるかのごとく、力を失いつつある陽光に代わって既に人工的な光が煌々と辺りを照らし始めている。時間が時間なので、この前来た時より大人の姿が目に付いた。
 椎名は平然とした顔をしているけど、俺はやたらとじろじろと見られている気がして落ち着かない。やっぱり自分の格好が可笑しいんじゃないかと気になりだしてくる。
「なぁ、椎名…」
「しっ、黙れ。アレだ。頼むから余計なことは云うなよ、何か聞かれてもアタシわかんなーいって馬鹿キャラで押し通せ」
「お、おう」
「顔、笑顔」
「おう」
 俺は云われた通りに何とか笑顔にした。というか、したつもりだ。
 横をこっそり窺うと椎名の奴はもうめろめろに可愛らしく微笑んでいて、悩殺される必要のない俺が悩殺されそうになる。
「こんにちは」
 椎名がいつもよりも高い声を出す。
 花壇に背を預け、地べたに腰を下ろしているのが目当ての男だった。確かに黒川の云う通りだっせえアロハを着ている。
 男は苛立たしげに舌打ちすると、面倒臭そうに携帯に落としていた視線を上げた。上げた瞬間、睨むような半眼が見る見るうちに零れ落ちそうなほど見開かれ、咥えていた煙草が口元からポロリと落ちた。
 口を開いたまま動かなくなってしまった男に、「アンタの気持ちは良く解る」と肩を叩いてやりたい心境だ。
 俺はニセモノの笑顔を浮かべながら、心の中でうんうん頷く。
 だってこの椎名は反則だよなぁ……。
「あのさ、君から買えるって友達から聴いたんだけど」
 椎名が男の傍にちょこんと屈み、内緒話をするように顔を近付ける。男の頬がぴくぴくしてる。俺には嬉しくて仕方ないのを必死で堪えてるように映った。
「友達って? エイコ、あ、ジュスカ? それともチャナ?」
「うん、エーコ」
 嘘を吐け。
 にこにこしながら俺は椎名の面の厚さに俺は感心していた。
 黙って聴いているだけの俺のほうがどきどきしてくる。
「ああ、エイコのね。アイツ口堅いのに教えるって、ずいぶん仲良いんだ。でも知らなかったなぁ、こんなカワイイ友達いたなんて」
「エーコ元気? 最近メールしても返ってこないんだけど」
「ああ、元気元気。この前またリストカットしたみたいだけど、別に死ななかったみたいだし。んで、何がほしーの? バラ? MDMA? MM? アヤファスカとかどう?」
「ううん、あのさ」
 握っていた拳を上げると、椎名は軽く開いてまたすぐ閉じる。
 男が息を飲み、そんな男を見ている俺は静かに唾を飲み込んだ。
 俺からは見えなかったが、椎名の手のひらには小麦粉入りのパラフィン紙があったはずだ。
 椎名はある実験を行った。実験といっても簡単なものだ、例の物質を三種類の液体に入れてみたのだ。結果、水とアルコールには溶けたけど、エーテルに入れても溶けなかった。つまり、結論としてはあの白い粉は十中八九コカインで間違いないそうだ。
 で、椎名が云うにはコカインとは高価なもので、使い走りの下っ端売人が持ち歩くようなものではないらしい。
「これの中身が何かは君なら見当つくよね? こっちが欲しいんだけど、ある?」
「それ……何で持ってんだ? アンタ誰かのオンナなの?」
「二番目の質問は内緒。最初の質問は『シド』から」
「シド? シド……ああ、宍戸さんか?」
「そう。シシド。最近姿見ないんだよね、どうしちゃったか知ってる? 手に入らなくて困ってて」
 俺は胸の中で宍戸、と呟いてみる。
 鼻血まみれだったからあまりはっきりとは顔を思い出せない。けれど、最初の猫なで声とその後の獣のような喚き声はよく覚えている。
 弱い者苛めのクソ野郎だ。
「宍戸さんは一週間くらい前に鼻折られて大変だって噂。そんなだからしばらくここにはこねぇと思うぞ。俺はCなんか持たせてもらえねぇし、どうしても欲しいならジョーイさんのとこ行ったらどうだ?」
「ジョーイ?」
 眉間に寄せた皺すらもいっそ麗しい。
 椎名は相変わらず有り余るほどの美少女っぷりを如何なく発揮して、更なる情報を男から引きずり出す。色仕掛けだよなぁ、これも。
「ジョーイさんだよ、知らねぇの? 宍戸さんはそもそもこの人から回して貰ってるって話だけど?」
「他の奴から買えないようにって、シドは意地悪して教えてくれないんだ、そういうことは」
「はは、らしいや」
「ねぇ、どこに行けばジョーイに会える?」
「え〜と今なら……エーリューズニルに行けば会えるかも。最近開いたばっかで、ジョーイさんが名前つけたって噂の店。でも夜になれば大抵そこに顔出してるって俺が聴いたの一週間前だからもう解んねぇ、あの人気紛れだから。ジョーイさんが来る店なら、宍戸さんも来るかも知れないな」
「場所は、エーリューズニルの?」
「渋谷近辺ってことしか俺解んね」
「そう…それにしてもふざけた名前付けたもんだな。行くぞ、
 椎名は用済みだと云わんばかりに笑顔を引っ込めると立ち上がる。
 慌てたのはアロハ男の方だ、突然の豹変ぶりに驚き、縋るように椎名の手を掴む。
 止めときゃいいのにと俺は瞳を細めて薄墨色した遠くの空を眺めやる。この後の悲惨な末路が目に見えるようで、俺は早くも心の中で念仏を唱え始めた。
「待てよ、なあ待ってよ、まだいいじゃん、ほんと可愛いね、なあ名前ぐらい教えろよ」
「……可愛い?」
 椎名が不愉快そうに眉を顰めると、男はさらに怯えたように云い繕う。
「ああマジで綺麗だし可愛いし、そうだ、俺の分のやるよ、MDMAだけどないよりマシだろ?」
「そういう話なら向こうでしようぜ?」
 椎名がにっこりしながら男の背後の植え込みを顎でしゃくった。
 アロハ男がそれはそれは幸せそうな笑顔を浮かべる。男は必死で話し掛けているというのに椎名は完全無視、この後の状況は推して知るべしって感じだろう。予想通り二人の姿が薄暗い雑木林の闇に中へと溶け込むと、十秒もしない間にくぐもった男の声が俺の耳に届く。
 ごりごりとヒールで穴を穿っていると、ほんの二、三分で椎名は戻ってきた。何故かティッシュで拳を拭いながら。
「行くぞ。もう用はない」
 汚いものでも見てしまったような、不機嫌そうな顔で赤く染まったティッシュを投げ捨てる。
 胸糞悪いヤクの売人といえど悲惨だよなあ。誰が見たって可愛いとしか云えないような格好と振る舞いをしといて、それを正直に口に出したらこれだもん。
 その暴君振りをまざまざと目の当たりにしたことで、どれだけ危険な地雷を自分が踏みそうになっていたのか実感する。ぽろりと口にしてしまうことのないよう、俺は椎名を可愛いと思うのを自分に禁じることにした。
 可憐な容姿の少年に続きながら、俺は胸の中でぶつぶつと同じ言葉を繰り返す。
 どれだけ可愛かろうがあれの中身はジャイアン、ジャイアンなんだと。


「とりあえず駅まで行くぞ」
 フットサル場から駅の方へと移動しながら、椎名は合流した黒川たちに今しがた得たばかりの情報を手短にまとめて聴かせた。話し終えると、次に椎名は電話を取り出す。
「…………あ、もしもし桜庭? 俺、選抜の椎名、解るだろ? ちょっと頼みたいことあるんだけど……悪いけど、急いでんだよね、戯言はまたにしてくれる? 渋谷の『エーリューズニル』って店、知ってる?…………多分、クラブ、ドラッグパーティーやってるような、アングラな。…………別にどうだっていいだろ、そんなこと、お前に関係ないよ、いいから教えろよ……何だよ、使えない男だな……ああ、うるさいな、だから急いでんだよ、こっちは。誰かそういうクラブに詳しい奴いない? …………ハイハイ、解った解った、じゃ頼んだぜ」
 さすが椎名、頼むと云っているわりには物凄い高圧的な口調だ。鬱陶しそうに眉を顰めて椎名はぶつりと電話を切る。
「どう? 解りそう?」
 ここまできて店の場所が解りませんでしたなんてオチは冗談じゃない。電話が終わるなり俺はそう詰め寄った。
「何て顔してんだよ」
 ポケットに携帯をしまい込みながら、椎名が仕方ない奴だなって顔で息を吐く。上げていた前髪を元通りに崩すと、呆れたような目で俺を見る。
「別にこれで解らなくても手がない訳じゃない。どうしてお前はそう急いで危ない方危ない方に行きたがるんだ」
 言葉に詰まる。
 隠し事を見抜かれたみたいに酷くどきりとした。
「俺は別に……」
「馬鹿には一遍云ったぐらいじゃ解らないだろうからもう一遍云っておくけど、これはヴァーチャルなゲームじゃない。リセットは利かないんだ、慎重にことを運べ、そして必ず自分の身の安全を最優先させるんだ、解ったな?」
 俺よりちっちゃいくせに、椎名が俺の頭をぽんぽんと撫でた。
 何となく歩みが鈍くなって、俺と椎名の背中の距離はどんどん離れていく。いつのまにか最後尾を俺は歩いている。
 惨めな気分だった。
 どうして突然そんな気分に襲われたのかは、自分でも上手く説明できない。ただとにかく自分がとても情けない存在のように思えた。
 駅に着いたけれど、椎名の携帯はまだ鳴らない。連絡待ちですることがない俺たちは改札の傍で待機した。その間に井上と黒川がマックに行ってテイクアウトしてくる。
「ホレ…………なんじゃ、くわんのか?」
 差し出されたポテトに俺は黙って首を振る。慣れないサンダルに疲れて、俺は膝を抱えてしゃがみ込んでいた。
 井上がちょっと心配そうな顔をする。いちいち腹の立つタイミングで余計な一言を発射するだけで、実はいい奴なんだよなぁ、こいつもさ。
 本当は今こういう顔をしているべきじゃないって解っていたけど、俺は押し黙り胸に渦巻く嫌な気分の理由についてずっと考え込んでいた。


 椎名たちがテイクアウトしてきたものを平らげてしまってからほんの数分後。
 布越しのくぐもった着メロの音に俺はびくりと顔を上げる。
 この曲、確か坂本龍一だったっけ。
 座っているのは俺だけだったから、ガリバー旅行記の巨人の国のようなアングルで椎名を見上げる。
「もしもし……だから急いでるって云ってんだろ、前置きはいいから解ったのかどうかだけ云えよ……お前こそ誰にもの云ってんだよ、お前みたいなヘボミッドフィルダーが考えなしに前突っ込んだり、ライン塞いだりするおかげで僕がどれだけ迷惑してると思ってるの? だいたいさぁ」
 俺は聴いていられなくて、顔を引き攣らせて思わず顔を背けた。
 こんなこと云われたら俺ならしばらく立ち直れないかも、って感じの内容が麗しい口から雪崩のように止め処なく溢れ出してくる。
 誰だか知らないが、電話の相手に心の中で合掌。
 結局、急いでいるから早く云えと口にしていたくせに、椎名は長々説教してから漸く本題に戻った。
「うん………うん? 解んないだろ、そんなんじゃ。もっとちゃんと説明しろよ………自分の表現力とボキャブラリーの貧しさを棚に上げてよくそういう事が云えるね? ………………だから……ちょっと待て…もういいよ、お前ちょっと出て来い、埒が明かない、案内しろよ……うるさいな、どうせ暇だろ、ゲームやるかテレビみるかしかすることないくせにがたがた吐かすな…………あっそ、残念だなぁ、凄い可愛い子紹介してやろうかと思ったのに」
 椎名はちらりと俺を見下ろした。
 え……ちょ、まさか…可愛い子って俺かよ!?
 そりゃ、マズイだろ、相手怒るぜ!
 だが、焦って顔の前でぶんぶん手を振る俺にはお構いなしに椎名は話を進めてしまう。
「ほんとだって、超可愛いぜ…ちゃんと女だって、馬鹿? お前? …………それはお前次第だろ、そこまで俺は責任持てないよ、とにかく出てこいよ……ああ…………ああ……うん、じゃな、急げよ」
 電話を切ると、椎名はニヤリと「性格に問題があるけどさ」と呟いた。
 あ〜あ、切っちゃったよ、いいのかよ。
「詐欺だーって云われても、俺知らないぜ?」
 俺は呆れながら立ち上がった。
「僕は虚偽の証言はしてないぜ、ただ事実を隠匿しただけだ。渋谷に移動するぞ、桜庭にエーリューズニルまで案内させる」
 それは詐欺にならないのか? と突っ込みたかったが、さっきの電話の内容を聞いた後に、そんな肉をぐるぐるに巻きつけて飢えたライオンの檻にダイブな真似は俺にはできなかった。
 椎名の先導で桜庭とやらとの待ち合わせ場所に黙って向かう。
 あーもう、やべぇよ、冗談抜きでマジで椎名に逆らえない体質になりつつあるよ、俺。
 桜庭とやらに文句云われたらどうすっかなー。椎名が勝手に云っただけで俺は知りません、文句なら椎名に云ってください、って云えりゃあ楽なんだがそれはそれで後が恐いような気が……(って、こんな思考回路しているようじゃ、俺もめでたく愉快な下僕の仲間入り決定って感じだな)。
「なぁ、サクラバってどんな奴だ?」
 電車に揺られながら、俺は近くに立つ黒川に訊いてみた。黒川は一瞬首を傾げて「チャラい感じのニィチャン」とだけ答える。
 お前に訊いた俺が馬鹿だった。
 そう思ったのだが。
「マジ!? うお、スッゲー! 俺九割方絶対可愛くねぇって思ってたのにスッゲー! 椎名、お前、いい奴だったんだなぁ、あ、俺、桜庭雄一郎、雄ちゃん、って呼んでね、いやぁしかしカワイイねぇー、名前なんてゆーのー?」
 現れるなり椎名顔負けにべらべら話しかけてくる桜庭に、俺は顔を引き攣らせて椎名の背後に隠れた。(いや、物理的に俺のが椎名よりでかいんだから全然隠れられないんだけどさ)
 ハヤリの服装にロンゲにヘアバンド、黒川の云う通り確かにチャラい感じの男だった。男女関わらずこういうノリの奴は苦手だ、俺。
「ナンパは後にしな。とりあえず案内しろよ。そうだな、ついでにお前にも協力してもらおうか」
「え? 協力って何をー?」
 へらへらしている桜庭に対して、椎名はこれまでの経緯を理路整然と語っていく。こいつに話して大丈夫なのかよと思いつつ、俺は椎名を盾にして出来るだけ桜庭を遠ざけながら黙って話を聴いていた(桜庭の奴、油断するといつのまにか人の横に来てんだよ!)。
 最初は驚いた様子だったが、話が進むにつれ桜庭の表情は変化していった
「お前ら…危ねぇことしてんなぁ…………でもいいぜ、協力してやるよ、面白そうじゃん」
 俺たちが何をしようかという件に及んだ時には、すっかり乗り気になったようで挑発的に唇を歪めて笑ってみせた。ビビるんじゃないかとも思っていたから、俺は桜庭をちょっと見直す。
「で、何すんだ、俺は? あ、地味な役は止めろよ、俺に似合わないから」
「お前にはと一緒に店に行ってもらう。どこで何してようと頭の悪そうなカップルが一番疑われ難いからな。サルは論外だとしても、マサキにでも一緒に行かせようかと思ってたけど」
「ちょお待て! わしは論外ってなんじゃ!」
「あ、俺そういう不健康そうなとこパス」
「バカをバカと組ませたらフォローする奴が居ないだろ。ま、そのチャラい外見といい、マサキや五六よりもお前のが適任だね」
「椎名じゃ駄目なのか?」
 俺は一縷の望みをかけて云ってみる。桜庭じゃもし乱闘になった場合に背中を預けられる相手なのかも解らないし、どういう訳か頭おかしいんじゃないかと思うほど嬉しそうにしているこいつと組まされるのははっきりいって不安だ。
 だが、馬鹿をいうなと云いたげに、椎名は冷たい視線を向けてくる。
「指揮官が前線に出ちまったら誰が指示を出すんだよ? 大体張り込みや密偵なんて地道な作業は手下どもがあくせくやるべき仕事なんだよ」
…………サイデスカ。
 はぁ、と俺は気付かれないよう細い息を吐く。
 まぁ仕方ないよな、椎名がそう云うんじゃさ。
「でもさ、ちゃんはいいの? 女の子なのに危ないよ」
 にやけた顔を引き締めると、桜庭が気遣うように俺と椎名を見比べる。
 女扱いされたことで瞬間的に血が沸いた。やっぱり嫌だ、こいつと組むのは。こんな役に立たなそうな奴と一緒に行くくらいなら俺一人の方が気楽でいい。
 けれど、俺が何を云うよりも速く、肩に触れた椎名の手の甲が俺の発言を封じた。
「ご心配なく。説明しただろ、そもそもの発端はこいつが密売人グループの一人を殴ったことなんだぜ。おまけに踵落としを喰らわせた相手の頭を何の躊躇もなく踏み躙るほどの残虐ファイター振りだ、お前はお前で自分の身を守ることに専念してればいい」
「えっ!?」
 踵落としのくだりで桜庭の顔色が怖気づいたものに変化する。アレは相手が相手だからで普段はあんなことしねーよ、って抗議しようとしたところで再び椎名の携帯が鳴った。
 画面を見てほんの僅かに眉を動かす。
「……もしもし…ああ………ちょっと待って。、蓑本だ」
「ラギ?」
 俺はびっくりして急いで電話受け取った。
「もしもし、ラギ、どうしたんだよ?」
 今まで安良木が電話をわざわざかけてくるようなことはなかった。だから、俺はよっぽど何か大変ことが起こったのかと思ったんだ。
、今何処に居るの?』
 なのに、安良木の声には特に動揺した様子もなく、いつになくただ厳しいだけだった。
「どこって……渋谷だけど? 椎名たちと一緒、これから密売の証拠掴みに行くとこ」
『何云ってるの! 危ないから止めなさい!』
 俺は安良木の言葉に失望した。
 安良木は他の女とは違うって思っていたのに、こんなつまらないことをしかも高圧的に云ってくるなんて本当にがっかりだ。
『アナタには黙っていたけど、私たちが逃げてからあの男たちはやってきた警官に怪我を負わせて逃げたらしいの。警官を殴るような人達なのよ、まともじゃないわ。須釜君だってアナタが心配で同じようにずっと走ってあなたを探してくれてたのよ。アナタが公園に現れるまで、須釜君、何回も電話してきて凄く心配してたんだから』
 俺はそれを聴いてぴーんときた。黒川たちが寿樹の名前を知っていたのは、きっとその電話の所為なんだ。おそらくは俺のいない間にあったという電話で、安良木がその名を口にしていたんだろう。そういえば、最後の電話の時に安良木は寿樹からだって云っていたような気がする。
 俺は舌打ちした。
「ラギ、だから何だよ? そんなのあいつが勝手にやったことで俺の知ったことじゃねぇし、相手が危ない奴らだって事は承知の上だ、今更止める気はねぇよ。じゃ、切るからな」
『止めないなら、私、須釜君に云うからね』
 俺は瞬間湯沸し機みたいに全身がかっとなった。
 何でそこで寿樹の名前が出るんだよ?
 俺はアイツの所有物だとでも云いたいのか?
「黙れよ、ラギ」
 焼けるような苛立ちが俺の声を擦れさせた。
 俺の声音に椎名を挟んで並んで歩いていた桜庭がぎょっとなる。
「寿樹にチクってみろ、ただじゃおかねぇからな」
 俺は初めて安良木を鬱陶しいと感じていた。あんなに大好きだったのに、それが嘘のように思える。今はこんな大事な時にくだらない電話をかけてきやがってと邪魔で仕方がなかった。
 電話の向こうとこっちで痛いほどの沈黙が降りる。
『……、アナタ女の子なのよ』
 よりによって安良木が口にしたのは、俺が今一番聴きたくない言葉だった。
「俺は女なんかじゃねぇよ」
 吐き捨てると俺は一方的に電話を切った。
 まるで炎が渦巻いているようで、胸が苦しくて呼吸が上手く出来ない。二度ほど意識的に深く息を吸い込んでから、俺はささくれ立った気分で携帯を返す。
「……サンキュ」
 椎名は揶揄するように薄く笑っていた。
「俺は女なんかじゃない、ね。勇ましい台詞だな」
 言外に女のくせに何を云っているんだかという響きが滲んでいる。
 俺は椎名を睨む。
 例え女みたいな外見をしていても、椎名は紛れもなく男だ。
 俺の気持なんか解る訳がないのに解ったような面すんな。
「まぁ女の喧嘩に口出す趣味はないから別に良いけど」
 俺の視線を意に介した素振りもなく、椎名は髪を掻き上げる。僅かに伏し目がちになったその横顔はちゃんと男の顔に見えた。俺は唇を噛むと椎名から目を逸らす。今日初めて履いた踵の高い靴が目に入る。
 こんなきらきらしたサンダル履いて、何をやってんだ、俺は?
 いっそ俺に起こった事実を椎名たちにぶちまけてやりたくなる。俺の立場に立ったら椎名だってこんな余裕ぶってられないはずなんだ。

 俺は自分の足元を睨みつけたまま、返事もしなければ顔も上げなかった。
「桜庭はああ見えて信用出来る。もし奴が信用出来ないというなら俺を信用しろ。俺まで信用出来ないとはまさか云わないよな?」
 椎名が励ますように俺の背中を叩く。けれど、それは返って惨めな気分を甦らせた。
 思い切り歯を喰い縛る。
 そうしていないと視界が滲みそうで、俺は恐かった。


 黄泉路。
 脳裏にそんな言葉が浮かんだ。
 地下に向かって伸びる階段は一人が漸く歩けるぐらいの狭いものだった。傾斜が急で、段のひとつひとつの幅も狭い。そんな危険な階段のくせに、天井に五つ埋め込まれた丸型蛍光灯はひとつしか点灯していなくて、自分の影が足元を隠すと階段がどういう形状をしているのかすらまったく見えなくなってしまう。
 かろうじてスロープが右側についていたおかげで、俺は真っ逆様に転落することなく階下に辿り着くことが出来た。
 エーリューズニルには看板なんてなかった。駅からずいぶん歩いて、やってるんだかやってないんだかさっぱり解らない飲食店の脇にある地下へと下る階段、それが店への入り口だった。
 ぼろい扉を押し開け、店内を軽く一瞥しただけで深い嫌悪感が湧き上がってくる。
 エーリューズニルというのは北欧神話のヘルヘイムを治めるヘルの館の名前だ、って椎名が教えてくれた。その館には『空腹』を意味するフングという食器、『飢え』を意味するスルトというナイフ等、縁起の悪いものが所狭しと並べられているらしい。
 店内は名前に劣らず嫌な雰囲気だった。
 赤と黄色の濁った照明。
 換気していないのか、煙草の煙は空中に留まって視界を白く汚す。
 たいして広くもない店内には等間隔でソファが置いてあるのに、殆ど真っ直ぐに置かれていなくて雑然とした雰囲気がしている。
 でも、そんなことより俺が一番嫌だったのはテクノっぽいバックミュージックの隙間を縫うように、到底正気とは思えない気味の悪い笑い声が絶えずあちこちから上がっていることだった。
 馬鹿じゃないかってぐらいに身を寄せ合ったカップルでさえ会話をしているわけじゃない。自分勝手にぶつぶつ呟いたり突然奇声を上げたり、にやにや薄ら笑いを浮かべながら目蓋を閉ざして別の世界に旅立ってしまっている。中には目を開けている奴もいたが、そいつらはそいつらで焦点の定まらない虚ろな瞳で虚空を覗き込んでいる。
 精気を失った青黒い肌と似たり寄ったりのその顔が俺にマネキンを連想させた。
 空いている席を探していると、ソファじゃなくて床に寝転がって涎を垂らし痙攣している男がいた。その顎の辺りにはゲロで出来た小さな池がある。
 気分が悪い。
 俺は入って五分も経たないうちに、こんな所は早く出たいと思い始めていた。
 桜庭がカウンターバーで買ってきたドラッグとドリンクを受け取る。錠剤のドラッグは椎名の指示通り口に入れた振りして、服の隙間に落とす。
 ドリンクに口を付けようとして俺は眉を顰めた。持った時からなんかぬるぬるしていたが、暗がりで見ても明らかに小汚い。こっちの方も振りだけで口をつけるのを避けると、俺は溜息を吐いてしぶしぶ隣の桜庭の肩に頭を預けた。これも椎名からの指示の内だ。
 調子に乗って桜庭が肩に手を廻してきたけど我慢した。黙っていると、さらに桜庭が顔を寄せてくる。
「なぁ、ラギって誰?」
「友達」
 俺は桜庭の態度にも質問にも腹が立って、つっけんどんに云い返す。
 肩に触れる手は汗ばんでいて気持悪い。暑さというより、緊張の所為かもしれない。
「じゃあ、トシキは?」
 俺は同じ轍を踏まないよう、裏拳を出しそうな自分を落ち着かせた。敵は桜庭じゃない、作戦ぶち壊しにしたら椎名に怒られるぞ、と無理矢理云いきかせる。
「桜庭」
「何、ちゃん?」
「黙れ」
「…………」
 やっと桜庭が静かになる。
 俺はカメラの向きを少しずつ動かしながら、ソファの人たちの顔を盗み見ていった。
 高校生ぐらいの奴もいれば、俺より全然年上のOL風のお姉さんまでいる。
 桜庭の肩に凭れたまま、俺はそうやって視線だけ動かして店内を眺めていた。
 どうしてこの人たちはこんなところに来てしまったんだろう?
 椎名が薬に溺れていく人たちは一番最初に味わった幸福感が忘れられなくて、それを求め、けれどそれを得ることが出来ずに量を増やしてどんどん深みに嵌っていくことが多いって云っていた。
 俺にはここにいる人が幸福なようには見えない。それでもここに来るということは薬が齎してくれる幸福感から抜け出せないってことなんだろう。つまり、生きていても薬以上に楽しいことが見当たらない。
 ここにいる人は現実には辛いことや苦しいことが溢れている、孤独な人たちなのかもな。
 俺は薬に頼ったりするのなんかやっぱり逃避だと思うから、この人たちの行動を肯定は出来ない。でもその反面そんなもんに縋らなきゃやってられないほどの日常ってもんがどんなものか俺は考えつかない。だからここで死体のように幻に酔っている人より、その人たちに贋物の幸福を売る奴こそ憎く思う。
 その名の通り、ここでは醜悪な晩餐が開かれている。同じ北欧神話でもヴァルキリーやオーディンとか、俺でも知っているようなもっと有名なのがある。思いつきで付けた名前とも思えない、その悪趣味さと悪意に俺はますます憂鬱になった。
 どうかこの人たちの悪夢が終わればいい。
 奥の方の俺と同い年ぐらいの女の子を見てそう思う。
 多分、そんな風に柄にもなく考え事をしていた所為だ。
 注意が足りなかった。
 俺はミスを犯した。
 そいつが俺をじっと見ていたことに気が付かず、視線を流して目を合わせてしまう。
 鼻と顎のガーゼ。最初に認識したのはそれだった。
 次に疑惑と獰猛さの混じった目。見覚えがある。
 捲られる記憶。それが誰だか思い出す。
 俺は思わず「あ」と呟くと表情を動かしてしまった。
 男ががたん、とスツールから立ち上がる。
 シドだった。


 俺は舌打ちしてあまりの失態ぶりに顔を歪めた。
 変装の意味がまったくないじゃんかよ、自分からバラすような反応していちゃよ。
「どしたの?」
 急に頭を擡げた俺の肩を再度桜庭は引き寄せようとする。
 俺はその間抜け面を引っぱたいた。
「って!」
「桜庭、お前は店を出ろ。気付かれた」
「えっ!」
 傍から見たらカップルの痴話喧嘩に見えるよう、俺は桜庭を邪険にソファから突き落とす。さらに情けない格好のまま目を丸くしている桜庭を睨む。
「速く店を出て椎名たちに合流しろ」
 向こうではシドが足に絡むジャンキーを邪険に振り払っている。
ちゃんはどうすんだよ!」
 足手まといだから速く行けよって云いそうになって唇を噛む。
 そんなこと云ったら桜庭のプライドを傷つける。
 第一きっと余計意地になって退かないだろう。
 俺が女だから。
「女一人のほうが油断する。頼むから椎名たちに知らせてくれ」
 一瞬の間の後、何かを決意した顔で桜庭が身を屈めたまま向こうのソファ影へと消える。俺は綺麗な石のついたサンダルでしっしとその残影を追っ払うと、高々と足を組んでわざとらしくソファにふんぞり返った。
 胸元に引っ掛けていたサングラスを今更ながらかけてみる。
 階段があまりに真っ暗だったから降りる時に外したままにしていたやつだ。せめてこれがあったら目が合った時、俺の表情の変化など解らなかったかもしれない。まったくもって自分の迂闊さを呪うばかりだ。
 本日何度目か解らない溜息を吐いたところで、シドが目の前に立った。
「よお、今日は男連れかよ、女王様」
「鼻と顎の具合はどうだよ、シド?」
 余裕ぶっていたシドの顔色が僅かに変わる。
「おっと冗談。あんなのここへの道案内にすぎねぇよ、あんたが居るなら話が早い、これ売って欲しいんだけど」
 俺はワンピースのポケットから小麦粉入りのパラフィン紙の包みを取り出す。
「ある?」
「……お前が盗んでたんだな、あの時。それがなくなったおかげで俺は危うく海に沈められるところだったんだぜ」
 シドの顔つきが隠しようもない怒りによって凶悪さを増す。
「宍戸さーん?」
 奥から一人、ひょろひょろと不健康そうな男が出て来た。
 平然として腕と足を組んでいる俺と、憤怒の形相のシドを不思議そうに見比べる。
「どしたんすか?」
 男が媚びるように意味もなく笑い、そして俺を見る。下卑た顔つきだった。
「…………金はあるのか?」
 しばらく黙っていたシドが急に表情を変えて、ニヤリと笑う。
「あるよ」
 ねぇよ、そんなん。
 俺は腕にぶら下げている隠しカメラ内臓の鞄を見せびらかす。
 シドがますますにやにやしながら、横の男に嫌な感じの目配せをする。
「いいよ、売ってやるよ。立て。ついてこい、クラックはここにはない」
「サンキュー」
 俺は鞄をぶらぶらさせながら立ち上がる。
 予想通り狭い店内を移動するにつれて、前後左右を男に囲まれていく。
 手元のカメラをちらりと見下ろしながら、俺は逃走経路を考えた。
 頭の中に間取り図を広げてみる。
 ここの奥に連れ込まれるんじゃなくてラッキーだ。このごちゃごちゃした中で全方向に気を配って一人で何人も相手をするのはキツ過ぎる。
 どう考えても一列にならないと上れない階段だ。二人が前、二人が後ろに付くだろう。
 店を出たその時がチャンスだ。
 靴がサンダルだということが気になったが、それでもこいつらから突破口を開き、逃げ切る自信はあった。
 反面、計画の破綻は最早避けられないことを確信せずにはいられない。
 身の安全を確保しろって云っていたから、逃げたこと事態は怒らないだろうけど、どう考えてもシドにバレたのは不可抗力でも何でもなしに明らかに俺のチョンボだもんなぁ。
 あ〜あ、絶対椎名に嫌味云われるよ。
 せめていっぱい撮っておこうとセコいことを考え、俺はカメラのレンズをあちこちに向けていた。
「あ、ジョーイさん」
 階段を目前にして先頭のシドが突然立ち止まる。降りてきたばかりなのか、そいつはぽつんと一人だけそこに立っていた。
「どうした、シド」
「いえ、ちょっと」
 俺はシドの肩越しに何となくその男を見た。
 男と目が合う。
 
 
 次の瞬間、身体が勝手に動いていた。
「っぐぁ!」
 その声に振り返ったシドの鼻っ柱をバッグの角で打つ。
 したばかりの意思決定を翻し、俺は肘と膝を使って強引に道を開けさせる。階段へと一直線に突っ込んでいきながら、俺は擦れ違うその瞬間までそいつから視線を外すことは出来なかった。
 辿り着くと無我夢中で階段を駆け上がる。
「…ちやがれ!」
 髪を捕まれる。首が一瞬仰け反る。
 留めていたピンが弾け飛ぶ。
 頭皮の引き攣る痛みと共に、ずるりとカツラが抜け落ちて一気に頭が軽くなる。
 階段を出たところで一瞬だけ進路を迷う。けれど、どっちに椎名たちがいるのか考える暇もなく細い路地に飛び込む。俺はとにかく走った。
 手にバックはないし、Gジャンもいつのまにか消えている。サングラスもないが全部いつ落としたのか解らない。
 狭い路地をゴミを蹴散らして疾走しながら、俺は肌が粟立つのを止められなかった。
 あの男。
 あのジョーイと呼ばれたあの男。
 普通じゃなかった。
 ぱっと見はどこにでもいるような男だったと思う。
 でも、容姿じゃなくて、そんな上っ面なことじゃなくて、上手く云えないが目が合った瞬間とにかくぞっとした。
(本当に人間か?)
 自分のその問いにさらに肌が粟立つ。
 悪魔にでも遭遇した気分だった。
 精神の奥深く最も臆病な部分に無遠慮に指を捻じ込まれたような、例えようもなく深く強烈な恐怖が俺を駆り立てる。
 擦れ違うぎりぎりまで視線を逸らせなかったのはあの男を警戒していた訳じゃない、そうではなくて単に目を背けたらその隙に咽喉を引き裂かれそうな気がして恐ろしくて外せなかっただけだ。
 まるで神経に直接猛毒を注入されたようで冷たい汗が止まらない。この時の俺は、おそらく錯乱という言葉がぴたりと当て嵌まる状態だった。
 いったいエーリューズニルからどれほど離れたのかまったく予想も出来なかった。ひょっとしたら混乱のあまり方向感覚を見失い、離れているつもりが逆に店の近くに戻ってしまっていたのかもしれない。
 俺はただひたすら闇雲に走り――
「あ…っ!」

 そして突然世界は闇に閉ざされた。




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