"ペインキラ"
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 あの乱闘事件の日から、俺は毎日が楽しくて仕方なかった。
 椎名と夜中に悪巧みの電話をしたり、作戦会議の為に飛葉中に行ったり。
 驚いたことに、椎名と黒川、畑六助の三人は東京選抜のメンバーだった。風祭も入れて、俺は何百分の一のはずの選抜メンバーに一日で四人も会ったことになる。偶然とは恐ろしい。
 飛葉のサッカー部は椎名たちが無理矢理(そう突っ込んだらマシンガントークの餌食になった)作った部で、必要な時には他の部から人手を借りてくるという弱小部で、正式な部員はこの三人とあとは畑五助とサル井上しかいないらしい。
 そのおかげで俺は下校のピークが去った頃に顔を出しては、椎名たちの練習にこっそり混ぜてもらうことができた。
 男の時は強引に服を掴まれたりショルダータックル喰らってたような局面でも、腕でガードされることさえ殆どない。そうやって明らかに手加減されているのは辛かったけど、身体のハンディは関係なしに純粋にテクニックだけで黒川たちを躱す瞬間の高揚感はどこまでだって飛んでいけそうなほど気持ちイイ。
 初めて飛葉に行った日、俺も混ぜろ、って云った時には口には出さなかったけど、表情は雄弁だった。
 お前にできんのか、って。
 しょうがねぇなって顔の奴らを、無理矢理コートに押し込んでミニゲームをスタートさせた。俺と椎名、黒川チーム対、畑 兄弟、井上チームだった。
 椎名からボールを貰った俺の元に、やる気の感じられない動きで井上がマークに付こうとする。
「なぁ、サル」
「サルゆーな、このアマホンマに口が悪いな!」
 俺はポケットに手を突っ込んだまま、適当にボールを捏ねる。
「もし俺からボール取れたら何でも云うこときいてやるよ。ジュース奢れでも、宿題見せろでも、あ、これはガッコ違うから無理か、まぁ、どうでもいーや、何ならエッチさせろってのでもいいぜ?」
「なっ何云っとるんやろか、アホかお前!」
 井上の顔は引き攣りつつも喜色を滲ませる。
 解りやすい男だなぁ、さすがにサルだけのことはある。
「取れたらだ、取れたら。取れてねーのに喜ぶなよ、エロザル」
「サルゆーなっちゅーの!」
 爪先を閃かせる。
 井上の足はボールに触れることなく空を切った。
「あらら、どうしたの〜?」
 空から垂直に降ってくるボールを肩で受け、再び爪先に落としてリフティング。井上はぽかんとその様を眺めて、それからやっと顔つきを改めた。
「ふうん、やっとったんか、アンタ」
「だから最初っからそう云ってただろ。人のハナシ聴いとけよサル」
 戯言を交わしながらお互い顔色を窺う。入りかけたスイッチの存在を感じる。
「自分こそ人の話聞けっちゅーねん」
「あ、ごめん、俺サル語解んねえから」
 毒突きながらポケットから手を出す。
「サルサルうるさいちゅうねん……しまいにゃ泣かすぞ!」
 井上が突然足を出す。
 俺はそれを躱す。
「やれるもんならやってみろっつーの…っ」
 それだけ云い返すのがやっと。
 目まぐるしく踊る四本の足、その下で生物のようにボールが彷徨う。
「……こっ、の!」
 業を煮やした井上がついに腕を出した。俺の前へと身体を割り込ませようと手を伸ばす。けれど、その腕が俺の胸に触れた瞬間、感電したように腕を引っ込める。
「わっワルい! わざとやないから怒るなよ!」
「気にすんなよ」
 今のは当たり前のプレーだろ。
 なのに、真っ赤になって井上は怯んだ。俺は笑う。身を引こうとするその胸に逆に擦り寄ると、俺はボールを浮かす。零れ落ちそうなほど見開かれた井上の瞳と視線を絡めて俺は笑いながら囁く。
「サッカーは格闘技なんだから、よ!」
 ボールを蹴ると同時に、巧妙に足を引っ掛け井上のバランスを崩す。
 よろめく身体を置き去りに、俺はゴール目掛けて駆け出した。
 ぼけっと突っ立ってる五助の胸目掛けて蹴る。咄嗟にトラップしたものの、それは俺の足元に狙い済まして帰ってくる。俺の挑発に漸く動き出した畑兄弟の顔にはほんの微かに焦りが見えた。僅かだろうとそれが嬉しかった。
「黒川!」
 畑兄弟に突っ込みながらインサイドキック。黒川がワンタッチで返したボールは正確で速くてそして強い。血が沸きあがる。俺は訳も解らず大声で笑いたくなった。
 これだよ、これなんだよ。
 考えるよりも先に身体が勝手に動く。
 脳の指令を追い越していくこの感覚。
 背後の六助をドラッグターンで振り切りシュート。
 一瞬曲がりが緩やかで外れるかと思ってひゃっとした。けれど、見えない力に導かれるように、左隅ぎりぎりへとボールは吸い込まれていった。俺は会心のガッツポーズを取る。
 気持ちがいい。
 全神経が絞り上げられて、気持ちよすぎて背筋がゾクゾクする。肌が粟立つ。
 身体の深いところから歓喜の笑いが込み上げてくる。
 ほら、やっぱり大丈夫だった。俺は何も変わっちゃいない、俺は俺なんだ。
 本当はずっと恐かった。
 シャツを脱ぐと嫌でも膨らんだ胸が目に入った。それは俺の中では長い髪と並んで女の象徴だった。服を脱ぐたびに突きつけられる事実に崩壊しそうになる自信をいつも何とか踏み止まらせていた。
 持久力とパワーは確かに低減したけどテクニックまでは失っていない。もともと俺のウリはパワーじゃなかった、ボディバランスやボールコントロール、それにゴール勘、それらは今も俺の中にあるはずだ。
 男の時と完全に同じとはいかなくとも大丈夫だ、俺はやれる。
 大丈夫だってずっと自分に云い聞かせていた。大丈夫なんだ。 
 俺は俺だ。
 変わったのは身体だけで、俺は何も変わっちゃいない。
 笑いながら俺は後ろの連中に指を突きつけて叫ぶ。
「真面目にやれよてめえら! じゃねえとつまんねえだろ! 終わった後に女だから手加減しましたなんつーのは負け犬の遠吠えなんだからな!」
 俺の挑発に椎名はふんと鼻を鳴らし、黒川はくくって笑って、畑兄弟はどうするって感じに顔を見合わせる。
「井上!」
 足元を掬われ、尻餅をついたまま微動だにしていない井上に指を突きつける。唖然として目を丸くしているその顔を俺は笑い飛ばす。
「別にチチ触ったぐらいで俺は怒らねえからお前らも気にすんなよ! 井上もさっさと立て、それとも何か下半身に今すぐ立てない事情でもあんのか!?」
「お前下品な女だなあ!」
 井上が勢いよく立ち上がる。
「下品? 何で? 足でも捻ったのか、って俺は云いたかっただけだけどそれが何で下品なの?」
 俺がしらっと云い返すと井上がうっと詰まる。
 それを見てみんなげらげらと笑った。俺も笑った。
 その後はもう常に罵声の飛び交う酷いゲーム展開で、帰宅した俺を見て雛子が悲鳴を上げたほどだった。
 服は掴んで引き摺るわ、怪我も恐れずガンガン削りに行くわ、逆にわざと勝負から逃げると怒り狂う俺を最初は『何だこの女は』って顔していたけど、終いには奴らも遠慮しなくなってきて、何度か吹っ飛ばされたりした所為で俺はよれよれのぼろぼろだったのだ。
 けれど、久しぶりの痛みに気が触れたみたいにそれでも俺は笑っていた。そうでもしないと俺を止められなかったって事だから、俺にとっちゃ誇るべきことだったんだ。むしろ俺の希望通りに手加減忘れるほど本気を出してくれた連中に感謝していた。
 本当は俺解ってた、椎名たちがこれからやろうとしていることの頭数に俺を数えたくない理由が。
 簡単だ。それは俺が『女』だからだ。
 そんなの差別だろうけど、俺にも女を見下しているとこがあるし、仲間として女が信用できるかといえば俺には出来ない。
 体力もない力もない、なのに煩くて恐がりですぐ泣くような奴は足手纏いなだけだ。
 そう考えるのも当然だってそう思うから、俺を排除しようとする椎名の意図が俺にはよく理解出来た。
 だから、俺は示した。
 俺は恐れないし泣いたりしない。傷を負うことも泥に塗れることも厭わない。
 俺は今確かに女の身体になっちまっているけれど、中身はお前らと何ら変わらないし、お前らと同じことが出来るし、お前らと同じ目線で物事を見ていることを行動で示した。
 それが通じたのかは解らない、でも日が暮れる頃には連中の俺を見る目は少し変わっていた。日を追うにつれどんどん遠慮がなくなっていく代わりに、俺は仲間としての信頼を少しずつ手に入れていった。
 それと同時に『居場所』を手に入れた。
 俺は何よりそれが嬉しかった。
 最初の二週間ではっきりしたことがひとつある。
 寿樹以外のこれまで友達だと思っていた奴らは全員、俺との記憶を書き換えられていた。
 今までの直接的な付き合いの全てが寿樹を介してのものに掏り替わっていて、俺は寿樹の付属物のように認識されていた。前のように話しかけてこない、遊びにも誘わない。友達だったはずなのに、どこか距離を置くようになった。
 でも、だからと云って女どもとの距離が縮んだ訳じゃない。確かに前より接触する機会は格段に増えたが、それですぐさま親しくなれる訳じゃない。相変わらず俺には女が何を考えているのか理解不能だし、馴れ馴れしくされる度にいつだって戸惑いを覚える。
 云うなれば俺は『男』でも『女』でもなくて、女の中にも上手く雑じることが出来ないが、かといってもうどう望んでも男の中にも戻れない中途半端な存在だった。
 俺が寿樹を怨む最大の理由がそこにある。
 居場所を奪われた俺はどこに行けばいいのか解らなかった。
 けれど、椎名たちとの最初のゲームの日以来、俺は毎日が楽しくて仕方なくなった。
 放課後になると飛葉中へと向かう。一応例の事件への作戦会議という名目で通っていたが、椎名は準備が整ったらなの一点張りで俺には何も教えてくれない。椎名にもう俺を排斥する意思がないのは解っていたので、俺は大人しくそれに従うことにした。だから、することがないはずなのにそれでも通い続ける俺の目的はサッカーにあった。
 この身体になる前みたいにサッカーして大声で笑っていれば、俺は自分が何なのか忘れずにすんだ。
 それに比例して、俺にとって学校はどんどん価値の無いものになっていった。
 どうして俺は飛葉中じゃないんだって、放課後までの長い時間を苛々と過ごす。
 安良木は大好きだけど、もう一番じゃなくなってしまった。
 相変わらず懲りもせずに寿樹は毎日毎日話し掛けてくるけれど、それだって大して気にならなくなった。
 俺を孤独に陥れた犯人の知らないところで俺は新しい仲間を手に入れた、サッカーも取り戻した、寿樹の存在がどうでも良くなったのもそういう優越感が俺をほんの少しだけ寛容にさせたのかもしれない。
 例の頭痛もしなくなった。
 シャーペンをぶらぶらさせながら、今日も俺は待っている。
 早く放課後になることを。
 俺の居場所に還ることを。


 眉間に皺を寄せながら俺は乱雑に箒を動かしていた。
 やっと来た放課後に俺はうきうきと教室を出ようとしていたのに、捕まっちまったんだよ、同じ班の女子に。
 一人相手なら逃げられたかもしれないけど、四人に囲まれてしまった俺はしぶしぶ箒を受け取る羽目となった。掃除なんか今日もサボってさっさと飛葉中の方に行こうと思ったのにまったくついてない。
「オイ、これで文句ねーだろ!?」
 偉そうに川村が頷く。俺はその態度を忌々しく思いながら、箒をロッカーに放り込んだ。腹立ち紛れに着替えの詰まった鞄を乱暴に引っ掴むと、大股で出口に向かう。とっとと行こう、そう考えていたのに俺はさらに思わぬ足止めを喰らった。
、待って!」
 廊下にいた安良木が押し殺したような声で俺を呼び止めたのだ。軽く走り出そうとしていた俺は慌てて振り返る。
 安良木は妙に険しい表情をしているように見えた。らしくもない表情に俺は首を傾げる。
「何?」
「来て」
 それだけ云うと、安良木は俺の手を取って歩き出す。
 小さな手のひらは振り払うのなんて簡単だったけど、俺はそれを我慢する。本当は早く帰りたかったけど、相手が安良木だったから黙って腕を引かれて付いて行く。
 俺たち三年のいる校舎から渡り廊下を渡って、結局安良木は人気のない職員玄関前まで俺を連れていった。職員室の真下だし、まず誰かが来ることはなさそうな場所だ。
「どうしたんだよ、ラギ?」
「これ」
 安良木が怒ったような上目遣いで、俺の前にメタリックブルーの携帯を突き出す。
 携帯を受け取ると、俺はその液晶画面へと目を落とした。表示されている文字を目で追っていく内に、込み上げてくる笑いが堪えられなくなっていく。
 メッセージは至って簡潔だった。

   『蓑本へ に伝言頼む。
   準備は整った。部室に来い。 椎名』

 携帯の番号は椎名と交換してあったが、安良木が再び飛葉中に行くことはなかった。親しくないのに、わざわざ伝言までして俺を呼びつける理由はひとつだろう。
 今日やるつもりなんだ、椎名は。
 例の麻薬密売グループをやっつける作戦。
 俺は試合が始まる前の控え室独特の空気を思い出していた。熱気と緊張、それから期待。もうすぐだと想像するだけで、高揚感が身体の心を貫く。
 俺は耐え切れずに結局声に出して笑った。嬉しくて楽しみで仕方ない。
「サンキュ、ラギ、助かった」
「ねえ、準備って何? アナタたち何をしようとしているの?」
 それなのに、笑顔で携帯を返す俺と対照的に安良木は詰問口調だった。
 何が気に入らないのか解らなくて、半分笑いを引き摺りながら俺はきょとんとしてしまう。
「なにって……あの日だって云ってただろ? ヤクの売人に仕返しするんだって」
「そんな馬鹿なこと本気で考えていたの!?」
「何だよ、馬鹿なことって」
 カチンときた俺はついついキツイ声を出してしまう。
 でも、安良木は怯むことなく、より表情を厳しくして俺を睨みつけてくる。
「馬鹿なことって云い方が気に入らないなら、無謀なことって云い直してあげる。そんなこと出来る訳ないでしょ」
「やる前から決め付けんなよ」
「決め付けてるんじゃないわ、事実を云ってるの。止めなさい、危険よ」
 安良木に引き下がる素振りは見られない。まさか安良木にこうも強固に反対されると思ってなかった俺は溜息を吐く。
 だから黙ってすっと踵を一歩ずらす。
「…あ〜…もういいよ、時間ないから俺もう行く。じゃな!」
「あ、待ちなさい! !」
 俺は安良木の声を振り切って走り出した。
 下駄箱で靴を履き替えると再度駆け出す。
 校門を潜った頃には安良木の小言なんか俺は綺麗さっぱり忘れてしまっていた。この後始まることへの期待感が爪先まで充満しているようで、それが蹴り足の力を強くさせる。
 飛ぶように駆け帰り、怒鳴るように帰宅を告げるとさらに階段を駆け上がった。
 制服をハンガーにかける時間すらも惜しく、部屋の中央でばたばたと脱ぎ散らかす。動きやすいカーゴパンツとTシャツに着替えると部屋を飛び出し、今度は逆に階段を駆け下りる。
「雛子ー! 俺今日遅いからさ、メシいらねぇ!」
 スニーカーの紐を縛りながら怒鳴ると、台所から雛子の「え〜」という声がした。
「もうちゃんの分も準備しちゃったよ〜、手羽先と竜田揚げとチキンカツ〜」
だから、なんでそう非常識な献立を……。
「いいよ、明日喰うから」
「遅いってどうして〜?」
 台所から出てきた雛子がいきなり核心を突く質問をする。
「ええと、多分、友達が今日試合でさ、一日で全試合やるから、勝ち残ったらどんどん遅くなるわけよ、解る? んで、多分、決勝まで行くチームだからさ、多分遅くなるから」
「多分なら、もしかしてお夕食いるかもしれないじゃない〜」
「…う、うん、かもね!いちお用意しといてよ、まぁ絶対勝ち残ると思うんだけどさ!」
「どこのお友達〜?」
「飛葉! じゃいってくっから!」
 これ以上ボロが出ない内に俺は玄関を飛び出した。
 安良木が頭頂部でひとつに纏めてくれた髪が、走ると風に煽られて首筋から浮き上がる。男の時は当たり前だった項に触れる空気の気配に自由な気分が湧き上がってくる。
 あんなに心配するなんて、やっぱり安良木は女の子だ。
 俺は別に危険なことは恐くない、だって俺は本当は男なんだから。
 ちょっと身体が変わったけれど、俺は何だって出来る、何も恐くない。
 この後のことを想像するとどうも口が緩んでしまう。
 俺は俯き加減で街を駆けた。


「おう、なんや、ヤル気満々ってカッコやね」
 部室を開けると、椎名以外の4人は顔を揃えていた。
 なんか適当にだらだらしてて、俺はちょっと戦闘意欲が削がれる。
「っーか、お前たちがヤル気なさ過ぎ。椎名は? どしたの?」
 俺はキャップを取ると、ぱたぱた扇ぐ。さすがに走りどうしで熱くなった。
 黒川が投げてくれた飲みかけのお茶に口をつけながら、適当な所に座る。
「小道具取りに行ってる。俺たちはここで待機」
「ちぇーつまんねーの」
 せっかく走ってきたのに、そんなに急ぐことなかったのかよ。まぁ確かにメールには急いで来いなんて書いてなかったけどさ。
 椎名を待つ間、サッカーのこととかお互いの中学のこととかを話して時間を潰した。
「なぁ、そういやぁは何でウチまでサッカーしに来るん? 別にウチまで来んともお前の学校にもあるやろ、サッカー部? 女子部がないにしろ、お前がもともと所属していたチームとかはどうしたん? そんだけ上手いんだから入ってたんだろ、どこかに?」
 井上が不意に口にした質問に俺は思い切り顔を顰めた。
 そりゃ、ウチの中学にだってサッカー部くらいあるよ。
 でも俺は学校のサッカー部じゃなくてマリノスユースに入ってた。
 ユースの練習あるから駄目だっつてんのに、しつこく勧誘する先輩がいて一年の時揉めて以来サッカー部は鬼門なんだよ。
 じゃあそのマリノスの方はどうかというと、そっちはもっと駄目だ。
 勇気を出して電話してみた。
 エースストライカーだった俺の姿はそこにはなかった。
 居るのは寿樹の幼馴染で、非公式のマネージャーやってただ。
 受話器を握りながら俺は比喩でもなんでもなく、目の前が真っ暗になった。
 超最低。
 二度と俺があそこに足を踏み入れることはないだろう。
 あの夜は女になった最初の夜と同じくらい最悪の気分だった。
 塞がらない傷口を抉られてしまった俺は、必要以上に棘だらけの声を井上に投げ付ける。
「うるせぇな、くだらねえ詮索すんじゃねぇよ、てめえに関係ねえだろ」
「云いたくないなら云いたくないって普通に云やあいいのにいちいち癇に障る女だな! ちょーっと顔が可愛いからって調子にのって世の中舐めてると痛い目みんぞ!」
「別に調子になんかのってねぇよ、何云ってんの、お前。バッカじゃねぇ?」
「会いたくない奴でもいる?」
 その言葉に思わず動きを止めてしまう。
 居場所がないだけじゃない、何よりもユースに顔を出したくない理由がそれだった。
 ユースに行けば寿樹がいる。
 俺からそこにいる権利を奪ったくせに、自分だけはのうのうと顔を出しているに違いない。俺にそれが赦せる訳がなかった。ほんの一瞬、見慣れたユニフォーム姿を思い出してしまっただけでも、今もこうして身の内に巣食う羨望と嫉妬と憎悪がどろどろと溢れ出してくるのを止めることは出来ない。
 フィールドの上の寿樹の姿を見たら、きっと俺は本当に奴を殺してしまう。
 奥歯を噛む。
 どす黒い感情が身体の奥底から涌いてくるような感じだった。
 俺はゆっくりと声の発信源へと目を向ける。睨み付けているというのに、黒川が憎たらしくにやっと笑う。
「例えばスガマって名前のさ」
 テメエは人の心が読めるのか!
 怒りなんて瞬時に霧散した。俺は無茶苦茶動揺する。
 何でコイツが寿樹の名前を出してくるんだよ!
 俺はこいつらの前で寿樹の話をしたことなんてない、誓って無い、絶対無い!
「な、なん、なんでおまえ…なんで寿樹を」
 狼狽えて口篭る俺を、四人は珍しい珍獣でも見るような目つきでしげしげと眺める。
「明らかに慌てふためいてるけど、こりゃやっぱ彼氏かあ」
「この間きてたんなら、どんな男か拝んでみたかったな」
「云えてる。この容姿でこの性格している人の彼氏なんか絶対猛毒か聖人だよな。中途半端ないい人ってのはない」
「あっ、解ったぞ、お前がサッカー好きなのも実はその男の影響なんだろ! アナタが好きなものはアタシも好きになるわぁ〜んって感じに始めたんだろ! うっわ、不純、汚ッ、サッカーに対する冒涜!」
「サル、気持悪いからシナを作るな」
「大体ただの僻みじゃん、アンタのは。自分がモテないからって、みっともないぜ」
「ちゃうわ! 僻んでなんかおらへん、こんなクソ根性女が彼女にいる奴なんか」
「黙れよ」
 どん、と拳を叩きつける。
 ぴたり、と騒音が止む。
 こいつらが何で寿樹のことを知っているのかなんて、井上の台詞ひとつでどうでもよくなった。
 俺にとってその内容は頭から泥水を浴びせ掛けられたに等しいものだった。
 寿樹の影響なんて冗談じゃない。
 先にサッカーに興味を抱いたのは俺の方だった。すぐに恐ろしく上手くなって今じゃアンダーに選ばれるぐらいになったけど、寿樹は俺のついでに始めたようなものだ。
 寿樹は昔からそうだった。やれば何だって出来るくせに、いつも俺任せで自分からは何も動こうとしない。俺がお前はどうするって訊くと決まってと一緒でいい、そう云うんだ。
 俺があいつを真似たんじゃない、寿樹が俺の真似をしたんだ。
 怒りに任せて俺は井上の胸倉を掴み上げた。恐れることなく、井上は幼子みたいにぱちぱちと瞬きをする。
「俺がサッカー始めたのは俺の意思だ。あいつは一切関係ねぇよ」
 吐き捨てると井上のTシャツを解放して、今度は云い出しっぺの黒川に向き直る。
「てめえらもどこで聴いたか知らねえが、二度とその名前を口にするな」
 けど、黒川も可愛げのない笑みを唇に刻んでいるだけで、そのクソ生意気な面からは到底反省しているような素振りは窺えない。ムカつくったらありゃしない。
 がりがり床を引っ掻いて椅子を引き摺り出すと、俺は四人に背を向け乱暴に腰を下ろした。だが、俺の背後では性懲りもなく四人はひそひそ言葉を交わしている。
「なんか、メッチャ恐いやね、カルシウム足りておらへんやないか?」
「あの様子じゃ何かあったっぽいな、しかも相当深刻な何かが」
「酷いふられ方でもされたとか?」
「いや、でもさ、自分が彼氏だとしてふる? てゆうか、普通ふれるか?」
「見かけでダメだしはありえないから、ふるとしたら性格の方に問題がありましたってことだよな。でも、俺はサンの性格の方も結構気に入ってるし、フラねぇ」
「あー…うん、俺も。見た目置いといても、付き合いやすいし嫌いじゃない。実はって口が悪いだけで我侭を云ったりはしないんだよね。さっきの井上じゃないけど、あれだけの容姿なんだからもっと調子付いててもおかしくなさそうなのに」
「そうそう、鼻にかけるような節はまったくないよな」
「重いもんでも一人で片付けようとするし、変な根性あるよな。持つっていったら逆に怒られて追っ払われた」
「勿体無いことすんなあ、スガマ君は」
「だな。あ、でも、普通の人ならデレデレ甘やかしそうなところをきっぱりふったっていうのは逆に凄い男らしくねえ?」
「おっまえら、あほとちゃうのか!? 俺は絶対嫌や、あんな性格悪い女!」
「いや、その前にお前は付き合ってもらえないと思うから」
「あっそやな、ってなんっっじゃそらー!」
ああああ、超ウルセエ超ムカツク。
何で寿樹が俺の彼氏ってことで決定なんだよ気持ちわりい。違うって否定したらしたらで煩そうし、その名を口にもしたくないから黙っているけど、超ふざけるなって感じだ。
 舌打ちしながら俺は手近に在ったぺらぺらな冊子を手に取った。で俺は硬直した。
 雑誌を持つ手がわなわなと震えだす。
 俺はぶちりと堪忍袋の緒が切れた音が聞こえた気がした。
「っ……てめえら嫌がらせか! 何でここにこんなモンが在るんだよ! 嫌がらせか?嫌がらせだな! 俺が手にとると思ってわざとここに置いたんだな!」
 俺が今両手で握り潰している小冊子には、東京、関東を含んだ全地域の選抜選手のポジションとプロフィールが顔写真入りで載っていた。
 めくった瞬間、嘘くせぇ笑顔の寿樹と目が合った。
「あれって……翼が監督から借りてきたやつだったけ?」
「何いきなりキレてんだ?」
「あ」
 黒川がニヤリと笑った。
「解った。それにスガマの写真が載ってんだな」
「テメーはさっきっからなんなんだ超能力者か畜生!」
 殆ど肯定としか受け取れないことを叫びながら、俺はさらにぎりぎりと憎らしげに雑誌を捻り上げていく。
 しかし、俺が叫ぶと同時に四人はがたんと一斉に立ち上がった。妙にいきいきとした顔で俺を取り囲もうとする。
「よーし、みんなー狙いは解ってるなー」
「悪趣味な男のツラ拝んじゃる」
「冗談じゃねぇ!」
「てゆうか、、それウチの監督のなんだから返してよ」
「ダメだ!」
 伸ばされた井上の腕を叩き落す。
 俺は狭い部室を逃げ回る。ぎゃーぎゃーやっていると、ノックもなしにドアが開く。
 椎名の登場に俺たちは揃いも揃って固まった。五対の視線に晒されても椎名にたじろぐ気配はまったくなくて、さらりと室内を見回すや否や愛らしい美貌で酷薄に微笑んだ。
「ここはいつから動物園になったワケ? 馬と鹿の放し飼いなんて僕は許可していないはずなんだけど?」
 通常よりも低く掠れた冷たい声音に皆一様に凍りつく。
 椎名翼様の機嫌を損ねないよう、馬で鹿な俺たちは慌てて散らかした物を片付けなければならなかった。
 もちろん椎名様は片付けを手伝うなんてことはなさらず、部屋の片隅で一人だけ午後ティーを片手に俺たちがあくせく動いているのを眺めておられましたとさ、畜生。
 くっそ〜大体なんでこいつの顔色窺わなあかんのじゃ。
 俺は椎名の横顔を盗み見る。
 コイツは顔も超ド級に可愛くてサッカーも上手くて腕も立って、それだけじゃなくて頭も良くておまけに実家は金持ちらしい。
 まったく神様は不公平だよな。
 恨めし気にじとっとした視線を向けていたら不意に目が合ってしまった。
 まさしく蛇に睨まれた蛙状態で息を飲む俺に、椎名がとろけそうなほど優しく微笑む。
「何僕に見惚れてサボってんだよ、ぼけっとしてないで手を動かせ愚鈍な奴め。個人差は仕方ないとは思うけど、反面、己の緩慢な行動が常に他人を苛立たせているって事実を認識した方がいいぜ、社会の迷惑だから」
 そ……その顔でそういうこと云うなよな!
 ヘコむよ、何か普通の人に云われるより、この顔で云われると倍ヘコむよ!
 俺は今度は椎名翼の愉快な下僕たちを哀れみを込めてこっそりと眺めた。
 何かこいつらが椎名の云うことに問答無用で従っちゃう理由が解った気がしたのだ。
「何だ?」
 俺の視線に気付いた黒川が手を止める。
「何でもね」
 俺は首を振った。
 かわいそうに。
 こいつもこんな顔して椎名にすっかりチョウキョウされちまってんだろなぁ。
 うん、憐れなサルにももう少し優しくしてやろう。
 俺が一人でそう決心している間にあらかた部屋は片付き、女王様のお許しを頂けたので、俺たちは何とかテーブルに着席することが出来た(やれやれ、これで漸く本題に入れる)。
 わくわくして身を乗り出す俺とは対称的に、椎名は特別興奮した様子もなく冷静に切り出した。
「予定通り神聖なグラウンドをヤクの密売で穢した不届き者に鉄槌を下す」
 俺はうんうんと首を振る。
 心臓がどきどきしてくる。
「作戦は単純だ。件のフットサル場をマサキと六に張らせて、怪しい動きをしている輩の目星は付けさせた。その中でも、この前の倒した黒いTシャツの男と接触していた男がまずは最初のターゲットだ。こいつから、ああいう下っ端に路上販売するための薬を流している本締めの居場所を聴き出す。
 この先のパターンは複数考えられるが、一番楽なのが、どこか特定の店に出入りしているパターンだ。最も最悪なのが、向こうからの連絡待ちで下っ端が居場所を知らないパターン。この場合、警察送りに出来るのは下っ端のザコのみで、実にツマラン成果しか上げられない」
 俺は目をらんらんとさせて話に聞き入っていた。
 椎名が自分の人差し指で実に賢そうな唇をなぞる。
「もし、店、路上等の出現場所が解った時は次のフェーズに移行する。今度はそこを張る」
 そう云って、椎名は持ってきていた紙袋から、どう見ても女物の25×15センチぐらいのきらきらした銀のスパンコールだらけのバッグを取り出した。
「小型カメラが仕込んである」
「えっ?」
 咄嗟にマスクにグラサン、ベレー帽という重田の姿が思い浮かぶ。小型カメラなんてものは危ない変態か犯罪者が持っていそうなものであって、健全な中学生が手にすべきものではないだろう。
「お、お前、どこでそんなモン……」
「アキバ。最近じゃこんなの誰でも手に入れることが出来んだよ。
 出現場所が解ったとしても、それが複数箇所あった場合にはその内のどこが最も出現確率が高いのか選択を迫られる。さらに的を絞ったとしても、今日そいつが現れるかどうか俺たちは解らない。今日現れるかもしれないし、一月後に現れるかもしれない。この辺りは運次第だな。
 長期戦はない。顔を覚えられるのは拙いから、タイムリミットはどんなに長くても一週間だと思え。その間に本締め、ヤク密売現場、売人の顔、客、出来るだけ多くの情報をビデオに収めて警察に匿名でタレこむ」
「えっ!?」
 俺は最後の言葉に驚いて素っ頓狂に叫んだ。
「何だよ?」
 椎名が鬱陶しげに秀麗な眉を顰める。
「タっ、タレこむって、俺たちで捕まえんじゃないのか!?」
 俺が机から身を乗り出して尋ねると、思いっ切り馬鹿にした溜息を椎名が吐き出した。瞳を細めて心の底から呆れ果ててますという風情で胸の前で腕を組む。
「お前そんな事考えていたの? 捕まえるって俺たちがそんなことしたって無意味だろ、下手すりゃ俺たちのほうが肖像権侵害や傷害罪で捕まるぜ。大体、俺たちに殴られて犯罪者どもが改心するわけがないだろ? 俺たちは戦隊もののヒーローじゃないんだから、警察に逮捕してもらって合法的に裁いてもらうのを待つしかないんだよ。お前公民の授業ちゃんと聴いてるの? 民主主義って言葉の意味解ってる?」
 ううう……氷柱のような椎名の視線が痛い。
 でも、悪を倒す! っていったらやっぱり直接対決だろ? だから、ぼこぼこにしてぐるぐるに縛り付けて警察署の前に放置、とかそんなイメージだったんだよ、俺の中じゃ。
 唇をへの字に曲げた俺の横では井上たちが爆笑している。
「ア、アホや!こいつほんまモンのアホや!」
「珍しく指輪なんかしてるって思ったら……サン、アンタ危ない女だなぁ、それで殴るつもりだったのかよ」
「純粋っーか天然っーか」
「悪意がない分質悪いな」
「あーもうウルセェなぁ! 誰にだって間違うことは在るだろ!」
 俺が我慢できずに真っ赤になって怒鳴ると、ますますげらげらと笑い声は大きくなる。椅子の上で身体を左に回すと、俺は奴らに背を向けて膝を抱えて小さくなった。「いじけたぞ!」という井上の声に腹が立つやら恥ずかしいやら。
 畜生と思いつつも俺が何にも云えずにいると、最も意外なところから援護射撃が放たれた。
「まぁ、そう笑うなよ、お前ら。が常軌を逸した発言をするのは今更だろ、間抜けな発言にいちいち反応していたんじゃこっちの身がもたないぞ。
 第一この作戦はに全てがかかっていると云っても過言ではないんだから、お前らもうちょっと敬ってやれよ」
 さらりと超失礼なことを云ってのけた前半部分はさておき、俺は後半の台詞にぴくりと反応してしまう。
 ゆっくりと振り返ってみると、椎名が天使のように優しく微笑んでいた。
「……なんですと?」
「だからお前が一番重要な任務を担ってんだよ、本作戦において」
 次の瞬間には俺はテーブルにスライディングするようにして、一番奥に座っている椎名の手を握り締めていた。片付けたばかりのものが再び落下しまくって、井上が「にゃー!」とまたしても悲鳴なんだかよく解らない奇声を上げる。
「隊長! 俺、頑張ります!」
満面の笑顔で椎名の手を握る俺の背後で、「……操ってる?」「操ってるよな、あれ」「しかも本人あっさり引っかかってるし」「やっぱアホや」という囁きが交わされていたが、無視だ。
「で、隊長、俺は何をすんですか!?」
「嬉しいよ、俺もヤル気のある隊員を持って」
 常にない優しげな微笑みを絶やすことなく、椎名はここに来た時肩に担いでいた紙袋に手を伸ばす。
 そこからずるり、と取り出されたものに俺の満面の笑顔が凍りつく。
 そんな俺に向かって椎名が極上の笑顔で問答無用に云い切ったのだった。
「とりあえずこれに着替えろ」


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