覚醒を促したのは穏便とは云い難い声だった。
「だーかーらーなぁーんでお前がそんな事決めんだよ!? 俺はちょっとちゃんの様子見ようってだけだろ、それを何でいちいちお前に指図されなきゃならないワケ!?」
 意識の中に無遠慮に滑り込んできたその声には聞き覚えがあった。
 え〜と、サクラバだ、確か。
 そうそう、桜庭だよ、この声。
「すみませんけど、が起きてしまうから静かにしてもらえますか〜」
 こっちの語尾を伸ばした人を小馬鹿にしたような喋り方は寿樹だ、間違いない。
 機嫌悪いな、これは。多分他の奴は解んないだろうけど微妙に低音になっている。
 目蓋を開けると蛍光灯の光が瞳を刺した。眩しさに目を細めつつ僅かに左に首を傾けると、短く刈られた後頭部が四十センチほど上にあった。
 俺、どこで寝てんだろ?
 寿樹の頭がこの位置にあるってことは二段ベッドかなんかか?
 てゆーか何所だよ、ここ?
 もう少し首を倒すと、今度は今にも胸倉に掴みかかりそうな顔をした桜庭が見えた。その唇の脇には夕方には無かった絆創膏が張られている。
「静かにしろだあ? 何様のつもりだよテメェは。テメエが退けばそれで話は終わるんだよ、解ったらデケエ図体さっさと退けろよウスラバカ」
 ウスラバカ呼ばわりされた寿樹は愉快そうに咽喉を鳴らすと、すうっと腕を伸ばして桜庭の額を指先で突付いた。
「理解してもらえないようなので頭の弱い可哀想な子にも解るよう優しい言葉に云い直しますね〜。僕はさっきから煩いから黙れって云ってんですよ、見るからに単細胞で他人の迷惑なんて考えたことなさそうな桜庭君。それからちゃんなんてその汚らしい口で軽々しく呼ばないで下さいね〜。お願いしている内に従ってもらえないとその首へし折って黙らせたくなっちゃうので、次は永遠に口を閉ざす覚悟をしてから口を開いてくださいね〜」
 そう云って軽やかな声で笑う。
 こいつマジやべんじゃね? って感じに頬を引き攣らせて桜庭が二、三歩後退する。
 オイオイオイオイ、あの顔マジで引いてんぞ。
 俺は肺から息をゆっくり吐き出す。
 しょうがねぇなぁ、こいつも。老け顔のくせに大人気なくて。
「止めろよな、そういう冗談」
 俺は肘を使って上半身を起こした。
「お前が云うと本当にやりそうなんだよ」
…っ」
 機敏に振り返った寿樹は滅多になく真剣な顔つきをしていた。
 飽きるほど見慣れたはずの顔なのにどこか懐かしさを覚える。ああ、そうか、こいつの顔、真正面から見んのも久しぶりなんだよなあ。
 俺は何だか照れくさくて、ようって手を上げてその擽ったさを誤魔化した。
「気が付いたのか、。気分はどうだ?」
 あ、椎名だ。
 L字型のソファから立ち上がった椎名の髪は濡れて艶々と光ってる。首からタオルを掛けているところを見ると、どうやら風呂上りのようだ。その椎名を囲むように座っていた黒川、井上、畑兄弟も揃って俺を見上げている。
「別にわるくねーけど?」
 適当な返事をしつつ、俺はきょろきょろと室内を見回す。
 俺が寝かされていたのはロフトだった。で、そのロフトの下がスゲー広い、ウチの居間より絶対広い。でかいステレオにパソコン、テレビまである。何かソファとか絨毯とか内装も高そうだ。
「本当か? 吐き気や眩暈は? だるさや手足の痺れはどうだ?」
「や、ほんと何にもねーよって、おいコラちょっと」
 呆然と突っ立っていた寿樹がいきなり腕を伸ばしてきて、ロフトの柵を間に挟んで俺を抱きしめた。
 その腕が背中の火傷に擦れて、俺は痛みに一瞬眉を歪める。けど、どうしてか突き放す気にはなれなくて、俺もへへって笑ってその背を抱き返してみた。
 試合が終わった時みたいにその背を叩きながら、顔を上げているのが気恥ずかしくて俺は寿樹の肩に額を埋めた。寿樹の服からはあの煙の臭いが未だにしている。今更ながらに自分がどれほどの危険に晒されていたのかを思い知らされ、同時に駆けつけてくれた奴らへの感謝の念が改めて心に満ちていく。
「寿樹サンキュ」
 躊躇いが生まれる前に息を吸い込むと、俺はそのままの姿勢で一息に告げた。寿樹の肩が一瞬震えたような気がした。
「無事で、よかった…」
 俺だけに聴こえる小さな声で囁くと、寿樹の腕に一層力がこもって微かに背骨が軋む。思わず息を詰めたところで、ガラスの破片で切ったのか、寿樹の耳に薄っすらと真新しい傷を発見する。苦しくて嬉しくてぐちゃぐちゃで俺はほんの少し笑った。
 もう、いい。
 寿樹が俺をどう思っているかなんか、もうどうでもいいや。
 だって、俺は結局寿樹のこと嫌いになれそうにないからさ。
 ずっと一緒にいて腹の立つこともそりゃあったけど、それでも楽しいことのが多かった。裏切られたと思ったけど、それでも今日こいつは俺を助けにきてくれた。俺のこと気紛れに女にしたんだろうと、今日だって気紛れで助けただけだろうと、そんなのもうどっちでもいい。
 俺は寿樹を赦そう。
 そう決めた。
 ばしっと寿樹の背を思いっきり叩く。
「苦しーんだよ、離せ馬鹿力め」
「酷いなあ、感動の再会なんだからもうちょっとひたらせてよ、その胸で」
「おめーに顔を埋めさせるようなチチは持ち合わせちゃいねえっつの」
 俺は寿樹の頭を軽くはたくと、桜庭、そして椎名たちと順々に目を合わせていった。
「なあ、お前ら、ほんとにありがとな。俺、もう駄目だって思ってた、もう死ぬんだって。お前らが来てくれなかったらマジで人生終わってた。お前ら人生の恩人だよ、一生感謝するよっていい加減離れろよこのタコ!」
 俺は真面目にお礼を云おうとしてんのに寿樹のバカがしつこく人の腰から離れなくて、仕方無しに寿樹の腕を纏わりつかせたまま礼を云ったわけだが、連中、椎名と黒川を除いて微妙な顔して俺(たち)を見ていた。桜庭はショック受けたような顔で五助六助は気まずそうな顔、井上も桜庭と似たり寄ったりな感じ。 
 とりあえず寿樹のアホの所為のような気がしたので、後頭部に肘鉄喰らわしてやろうとしたらさっさと離れた。枕をぶつけてやろうと腕を振りかぶったら、じっと俺を見ていた椎名と目が合う。
、俺は」
「ストップ!」
 俺は持っていた枕を寿樹じゃなくて椎名に投げた。
 当然椎名は枕ごときを受け止め損ねるわけもなく、呼吸するみたいに当たり前な感じにあっさり掴む。でも、当てるつもりなんてさらさらなくて、言葉を遮れれば良かったのでそれで十分だった。
 せっかくの綺麗な顔を責過の念で曇らせているその表情を見たら何を云いたいのか俺には一目で解ってしまった。それを云わせたくなくて、俺はあのマシンガントークの椎名が口を挟む間もないくらいの勢いで捲くし立てる。
「あのさぁ試合ん時負けたからって誰か吊るし上げたりするのかお前んとこのチームは? スライディング喰らって怪我したらそれをキャプテンの所為にするのか? しねーだろフツウ。仲間だったらどういう結果になったにしろ誰かひとりだけが責任感じる必要なんてねーんだよ。部外者を巻き込んだんだったら土下座でもしてきっちり詫びいれるのが筋なんだろうけどさあってあれ? 椎名さんその顔なに? 何その今にも謝りだしそうな顔? あれー俺もチームの一員だって云ったのは俺の聞き間違いだったのかな〜?」
 わざと嫌味ったらしい口調で云ってやる。
 でも、俺は内心それでも椎名が謝るんじゃないかって恐かった。
 椎名の罪悪感の原因は俺が『女』だからだ。俺が男のままだったなら、ここまで気に病むことはなかったに違いない。でも、俺は椎名の謝罪なんて聴きたくなかった。俺が『女』だから与えられる謝罪なんて、それはもう対等な友達として扱ってもらえなくなるような宣言に等しい。一方的に女だからって烙印を押されて、一方的に庇護されるのなんて俺は嫌だ。
 頼むから何も云うなと奥歯を噛んで俺は祈っていた。
 椎名は数秒俺を見詰めて、それからふっと片方の唇だけで悪魔的に笑った。
「……まぁね、どっちかっていうと俺の作戦ミスっていうより誰かさんがあっさり正体バレた上、あれだけ何度も云っておいたにもかかわらず乱闘した挙句、拉致られたのが最大の敗因だよね。あ、別に僕はその大失態によって多大な迷惑をかけてくれた奴が誰かなんて言及するつもりはないよ、だって僕らはチームらしいからその責任は皆で仲良く分散しなくちゃならないみたいだから」
「すいません! 俺が悪かったです! 土下座して詫びるべきは俺っす!」
 俺はがくっと項垂れた。
 そうだよ、俺が全部悪いんだよー俺が馬鹿だったんだよー解ってるよー。
 うおーどうしてこう傷口を抉る台詞があの可愛い顔からああも湧き出てくるんだ……。
 頭を抱えた俺の脇では、戻ってきて柵に凭れた寿樹がくすくす笑ってやがる。その顔は良かったねって云ってるみたいだった。胸の中の安堵を盗み見られたのがちょっとだけ癪で、その頭を「笑ってんじゃねぇよ」って俺は半分笑いながら小突く。
 うん、俺、椎名も好きだな。
 良い奴だよな、見かけによらず男らしいし。
 また腰に纏わりつこうとする寿樹を引き剥がそうとしつつ、俺はテーブルの箱を指差す。
「ところで椎名サン、できればそのピザ喰わしてもらえると嬉しーんですけど」
 冷めたチーズが硬そうなLサイズの最後の一枚。はっきり云って不味そうだが、でも、俺腹減ったんだよ。椎名たちは途中マックで喰ってたけど、俺喰わなかったし。
「止めとけ」
 椎名のつれない言葉に俺はガーンとなる。
 よっぽど情けない顔をしていたのか、そんな俺を見て椎名は溜息を吐く。
「別に意地悪してるわけじゃない。お前の分はちゃんと別に取って置いてやったからそっちを喰えよ。六、あっためて持ってきてやれ」
 六助が頷いて部屋を出て行く。
 つーことはここは畑家か? いや指示を出してるあたり椎名の家か?
 再度首を傾げた隙に膝裏に腕が差し込まれ、その手を振り払おうとしている間に背も押えられてしまう。またしても寿樹のアホにお姫様抱っこされてしまった俺は身を捩って暴れた。
「アホ! 下ろせよ、みっともねぇだろ!」
「駄目〜。怪我人は安静にしなきゃね〜。またしても自覚ないようだけど、手と足見てみなよ、。云っとくけど、君、満身創痍なんだからね〜」
 え?
 慌てて両手をパーに広げて目の前に翳してみる。
 指には絆創膏、甲から手首に向かって白い包帯が巻かれていた。首を伸ばして自分の脚を覗き込んでみると、両膝には醜い斑模様の痣。抱っこされたまま片足を上げてみるとそっちも絆創膏やら痣やらかすり傷だらけだった。うーわー…確かにこらひでー……。
 嘆息しながらてのひらをくるくると廻してみる。包帯は病院で巻かれたみたいに綺麗に巻かれていた。
「コレ、お前がやってくれたの?」
「僕と椎名君」
 ソファに俺を下ろしながら、寿樹が椎名に笑顔を向ける。だが椎名の方はいっそ清々しいまでにそれを無視する。
「そっか、ありがとな、寿樹も椎名も。あとさ、悪いんだけど、湿布あったら貰えねぇかな」
「湿布? ちょっと待ってろ」
 椎名が立ち上がったのと入れ違いにいいにおいのする箱が運ばれてきた。でも確か取りに行ったのは六助のはずなのに、何故か運んできたのは桜庭だった。
「ありがとな、んじゃ遠慮なくいただきまーす」
 手のひらを合わせると、俺は満面の笑顔でソファを降りて絨毯にぺたんと座り込んだ。
 飯が喰えるって良いことだよなー。
 俺、空腹って嫌い。動けなくなるもん、腹が減ると。
「はい、ちゃん。熱いから気をつけてね、あ、これで手ェ拭いてて。ちょっと待ってね、今切り分けてあげるからさ」
 さっきの恐喝を根に持ってるのか、寿樹を睨みつつ桜庭がやけに甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
 屋久杉の年輪並みのツラの皮の厚さを誇る寿樹は当然そんなガンくれられたくらいで動じるわけがない。俺の背後に席を移すと、平然と手櫛で人の髪を梳き始める。
 俺はもうこういう状況に慣れっこなので知らん顔でピザを頬張っていた。寿樹を嫌っている奴らはこいつのこういう図太さが気に喰わないらしいのに、このアホはそれが解った上で嫌味に対して慇懃無礼な返事を笑顔で返したりするんだよ、そんなことしたらますます反感を買うだけなのにさ。遙か昔は仲裁しようと試みたりもしたが、寿樹の方に歩み寄る気が全くないのに気付いてからは放って置くことにしている。
 なので俺は空気の悪さをまるっと無視してひたすら喰うことに集中していたのだが、不意に髪を梳いていた寿樹の手が止まった。
、髪が焦げてる。ごめんね、脱出の時に髪まで気を配る余裕がなかった」
「あ〜……それね、チガウ、そん時じゃない」
「ほら、水も飲め」
 戻ってきた椎名が一リットルのボルヴィックをどんとピザの横に置く。桜庭がそのキャップを捩じ切り、俺に渡してくれる。
 みんな怪我人に優しいよなあ。包帯ぐるぐる巻きのわりにそんなに痛くはねーんだけど。
「お前、奴らに何か飲まされたな? 何を飲まされたか解るか?」
「ああ、え〜と」
 ペットボトルをラッパ飲みしながら、記憶をほじくってみる。
「日本史に出てくるGHQみてーな名前の錠剤二錠と、何だっけ、ほら、ウイスキーじゃなくてバーボンじゃなくって、ほら、なんつったっけ? まあつまり何とかって酒って云ってた」
「……もういい。お前に期待した俺が馬鹿だった。とりあえず水は大量に飲んでおけ。それと、ほら。どこに張りたいんだ?」
 椎名が湿布を差し出す。
 でも、ピザを口に運ぶのに忙しくて生憎俺の両手は塞がっていた。
「背中。多分、火傷してる」
「火傷? 逃げる時に火の粉でも被ったのか?」
「いんや〜チガウ、寿樹、暇なら貼ってくれよ」
 俺は四枚目に手を伸ばす。
「いいよ〜」
 ひたすらがつがつピザを貪り喰う俺の視界の端で、椎名の手から寿樹の手へと湿布が移動する。
 寿樹の骨ばった指が首に触れて、髪を左側へと流す。
「じゃ、ファスナー下げるよ〜」
「うん」
「えっ!?」
「ん? 何?」
 上擦った声に俺は残りのピザに固定していた視線を上げた。
 俺の正面に座ってる桜庭が落ちそうなほど目を丸くしてる。
「何って、ちょ、待ってよ、いいの、それって?」
「だから何が?」
 俺は桜庭が何を云っているのか解らなくて睨むみたいに眉間に皺を刻む。別に桜庭の台詞が気に障ったんじゃなくて、よく解んねー理由で食事を妨害されたことにちょっとムカついただけだけど。
 じーっとファスナーが下ろされていって、背中が急にすかすかした感じになる。
「…………ああ、ここかな〜?」
 寿樹の指が右の肩甲骨の上辺りでくるりと円を描く。
「解んね。だって見えねーもん。うん、でも、確かその辺が痛かっゥヒャウ!」
 六枚目のピザを取り落としそうになる。
 桜庭が目ばかりか、口までぱかっと開ける。
 俺は何とかピザをキャッチして肘を後方に振るう。
「キタネーな! 舐めるなよ!」
「あはは、酷いなぁ、消毒だよ消毒〜」
「お前のがよっぽどバイ菌だっーの! さっさと貼れよ!」
 他は大丈夫かな〜とか云いつつエロジジイが調子に乗って人の背中をぺたぺたまさぐる。けど、そんなことよりピザの方が大事な俺は、時々頭や肘で牽制しつつも意地でも口はもぐもぐ動かしていた。
 寿樹がセクハラを終えてファスナーを戻すのと、ピザが全部俺の胃に収まったのは殆ど同時だった(餌がなくなったのに撫でていたら俺が本気で噛み付くのが解ってるんだろう、エロジジイは)。喰い終えて満足した俺が顔を上げると、何だか泣きそうな顔で桜庭がまだこっちを見ていた。
 変な男だなあと思いつつ、腹がいっぱいになった俺はやっと当初の疑問を口にする。
「なぁ、ここ誰ん家? 今何時なの?」
「ここは俺の家だ。何だ、お前。訊かないからもう察しがついてるんだと思ってたんだが違うのか?」
 椎名が大きな瞳を細める。
 その顔にはありありと馬鹿か? と書かれていて、俺は口をへの字にして目を横に泳がせる。
 どうせ意地汚く喰うのを優先させましたよ。いいじゃん、どうせ俺が馬鹿なのは今更だろ、いちいちそういう顔すんなよ。
 イジケる俺に寿樹が携帯を手渡してきた。
「……何だよ?」
「お腹いっぱいになったなら、蓑本さんに電話してあげて。彼女酷く心配してるから」
 俺は携帯の小さな液晶画面に視線を落とす。表示されている時刻は午前三時五十六分だ。
「駄目だよ、こんな時間じゃん、寝てるよ」
 寿樹が微かに笑って、ゆっくりと首を振る。
「大丈夫。早くかけてあげて、きっと待ってるから」
 俺はちょっと迷って、結局通話ボタンを押した。
 でも五回鳴らして出なかったら切るつもりだったんだ。
 なのに。
『もしもし』
 本気でびっくりした。
 ワンコールが終わるより速く安良木は出た。
『もしもし? 須釜君?』
「ごめん」
 固く緊張した声に俺はそれだけしか云えなかった。
 電話の向こうで息を飲む気配がして、いったい何を云えばいいのか解らなくて、俺は沈黙に怯えているみたいに無意味に唇を動かした。
「えと、あ、のさ、俺、大丈夫だから、ごめん、大丈夫だから」
 すん、と小さく鼻を鳴らして、そして安良木は震える声を吐き出した。
『……よかった…』
 俺はもう堪らなくて、胸を鷲掴みにされたような心地がして、周りに寿樹や椎名がいなかったら俺の方こそ大声で泣き出していたかもしれない。
「ごめん、ほんとにごめんな、ラギ……」
 はぁって潜めていた息を吐き出すような音がして、安良木は少し涙声でふふと笑った。
『いいわ、が無事なら、もういいわ。じゃあ、私、寝るわね。あ、、お母様には今日は私の家に泊まってることになってるから、本当のことをぽろっと喋っちゃわないよう気を付けてね』
「ん、ありがと……ほんと、ごめんな……」
『だからいいのよ、起こったことは消せないんだもの。でも…そうね、悪いと思うのなら今度何かアナタにお願い事をするわ。それでおあいこよ、いい?』
「いいよ、ビンタ千回でもうさぎ跳び百週でも何でも云うこときく」
『馬鹿ね、どうして私がそんな事アナタにするのよ? そんなことしないわよ。ももう寝て。アナタ明日学校どうする? お休みする?』
「ん〜解んね。授業は出ねぇかもしんないけど、ラギには会いに行くよ」
『ほんとに馬鹿ね……おやすみなさい』
「おやすみ……ほんとごめん、ありがと」
 咽喉に詰まった熱を散らす為に俺は唇を噛み締めて瞬きを繰り返した。
 本当に俺は愚か者だ。
 自分のことだけしか考えられなくて、周囲の声を拒んで、狭視野に陥って、楽しいことだけを追求した。そうやって苦しいからって自分を守ろうとした挙句、もう少しで俺のことを思ってくれている人たちを哀しませるところだった。
 この先ここにいる誰かや安良木の身に何か起こったなら、俺は同じように力を尽くそう。
 寿樹に携帯を返すと髪をくしゃりと混ぜられた。俯いているから見えるわけないのに、寿樹の奴がやわらかい笑顔を浮かべているのがどうしてか解る。
 ああ、そうだ。
 顎を上げて寿樹と目を合わせる。やっぱり寿樹は目を細めて笑っていた。あれだけ冷たくしたのに。傷つけたのに。
 俺はその右手に指を伸ばした。
「さて」
 その声に伸ばしかけた腕を止め、俺はソファの椎名へと視線を上げた。腹の上で腕を組み、怜悧な表情で俺を見てる。
、桜庭には気付かれたと云ったそうだがエーリューズニルで何があった? 何故俺たちの居る方に逃げなかった? どういうふうに捕まった? あそこで何があった? そして奴らは何故お前を残して去っていったんだ?」
「ちょっと待て! いっぺんに云うな、解んなくなるから!!」
 この台詞のおかげで俺は椎名サンからとても冷ややかな視線を頂戴致しました……。
 しょうがねぇじゃんよー。俺と椎名じゃ頭の出来が違うんだよー。
 俺は椎名にひとつずつ質問してもらって、順々に答えていった。
 喋っているのは椎名と俺だけだったけど、その周りにみんな集まって黙って話を聞いていた。
 俺は出来る限り正確に記憶を巻き戻して語ろうと努めた。
 エーリューズニルで俺が感じた事。
 その所為でぼうっとしてて、シドにバレた事。
 そしてあの男、ジョーイ。
 俺はそれでもあの一瞬の感情を説明することを躊躇って、少し嘘を吐いた。
 あの瞬間、チャンスだと思って逃走した、逃げるのに必死で椎名たちの方向を選択する余裕がなかったっていう風に。
 後は俺でさえ曖昧だ。汚い路地を走っていたところで、どうやってか気絶させられたんじゃないかとしか説明できなかった。次に気が付いたら、もうあの廃屋に吊るされてたんだから。
「奴ら、俺をマワしてビデオ撮ってそれを売り捌きつつ、俺の方も薬漬けにして売っぱらうつもりだったらしい。んでまぁ、薬飲まされて、手錠で繋がれたまま、半分剥かれたり、ライターで炙られたり。薬は回ってくるし、移動範囲は限られてるし避けらんなくってさ、髪と背中が焦げた」
 二本目のボルヴィックの詮を捻じ切って、俺は漸く部屋がしーんとなってることに気付いた。椎名も桜庭も、井上までも深刻な顔して黙りこくってる。
「何だよ?」
「……ちゃん、ほんとに無事でよかった」
 桜庭が痛そうに顔を歪めて呟く。
 あ。そういうこと?
 まーた、あれか。女なのにそんな目に遭って可哀想とか気に病んでんのか?
 俺は思わず笑ってしまった。ちょっと前まで女扱いされると瞬間湯沸かし器みたいに頭にきたのに、むしろ俺は本当は男なのにこいつらは俺のこと女扱いしなくちゃならないんだから大変だなーって可笑しくて仕方なかった。
「だーかーらー無事だったろ〜、お前らのおかげでさぁ。なーんでそんな顔すんだよ? おい、サルはサルらしくしてろよ、難しい顔したって所詮人間にはなれねぇんだから」
「じゃあお言葉に甘えてウッキーって待てコラァ!」
「お、すげーこのサル、人の言葉喋れるんだ〜」
「すげ〜だろ〜ウッキーってだから待てコラァ!」
 井上と俺につられてみんなも笑う。
 目尻の涙を拭いながら俺は口を開く。
「だいだい俺だってやられっぱなしじゃなかったんだからな。二人潰してきたし、火ぃ点けて奴らがケツまくって逃げ出すしかないようにしてやったんだぜ」
「あれはお前の仕業か!」
 椎名が大きな目を見開く。
 俺は一か八かで零れていた農薬目掛けてライターを蹴り込んだことを語った。そして狙い通りに引火して、それから土や壁にも燃え広がったことを。
「お前、よくそんなこと考えついたの〜」
 井上が感心したように俺を見る。
 俺はふふんと胸を張った。
 思い知ったか、人はサルより賢いのだよ、サル君。
「髪焦げた時にさぁ、嫌な臭いするじゃん? それでそういえばって思ったんだ。あそこ、最初っから変な臭いしてたんだよ、んで温室だろ? じゃあ零れてんの農薬なのかなって。だからもしかして火が点くんじゃないかって思ってさ」
「本当に馬鹿だな」
 俺は鼻高々だったのに、椎名の一言で一瞬にしてぽきっと折れてしまう。
 わけが解らずソファの椎名を振り仰ぐと、盛大に眉間に皺を寄せて俺を睨んでいた。
「もしその薬品が劇薬だったらどうするつもりだったんだ? ケツをまくるどころかその一瞬で炎に捲かれてあの世行きだ。それに窓が偶々割れていたから何とか換気されていたが、もし密閉状態だったなら火を待つより早く窒息死か中毒死だ。それどころかもし有毒ガスを発生させる成分が混ざっていたら……」
 俺は絨毯の上で体育座りをして延々椎名のお説教を聞いていた。
 畜生、ガッコのセンコーの説教でさえバックレてんのに、なんでタメに説教されなあかんのじゃ。
 そう思うものの俺は椎名のお説教を途中で遮るなどという、恐ろしい真似は出来なかった。とゆーかそれを恐ろしいと認識する辺り俺ももう終わってる気がするが……。
「まったく…もう少し考えて行動しろよ」
 椎名に説教されてる俺を黒川や井上はニヤニヤ笑って眺めてやがる。俺はそいつらをじろっと睨んでから、口を尖らせて椎名に抗議した。
「だって、俺、あの時はマジで死んだ方がマシって思ったんだ。あんなクソヤローどもにヤラれるぐらいなら死んだ方がマシだって」
 またマシンガンみてーに反論されるかと思ったけど、椎名は苦々しく嘆息してみせた。そして、説教というよりも諭すような口調で静かに語りかけてくる。
「誇りと命をどう天秤に掛けるかはお前の自由だ。だが、今回のことが真に命を懸ける価値があるようなものなのか? 違うだろう?
 これまではお前のその直情径行で衝動的な行動をどうせ須釜がフォローしてまわっていたんだろうが、それでどうにかなるのはガキ同士のいざこざレベルだ。頭のネジが数本緩んでるような連中が相手じゃ、迂闊に手を出せば火傷だけではすまなくなることが今回の一件で身に沁みただろう。
 俺たちのことを仲間と呼ぶというなら、俺たちに余計な心配をかけるような行動は慎め。死んだ方がマシだなんて台詞を吐きたくなるような状況に陥らないよう、次からは無分別にすぐに突っ走るのを止めて一息入れてから行動に移せ」
「…うん…ごめん」
 俺は目を伏せて自分の指へと視線を落とした。椎名の言葉の、心配をかけたという部分が重く圧し掛かってくる。そんな俺の頭を寿樹が慰めるようにぽんぽんと撫でた。
「そういやあ、何だっけ〜、捕まったりしないとか俺の助けなんか要らんとか散々誰かさん云っとらんかったっけなぁ〜、なぁ〜
「……………………さぁ? 何の話それ? それよりさぁ、何で俺があそこに居るって解ったの?」
「ああっ! 無視かいワレ! 俺にも謝らんかい、クソアマ!」
「桜庭に感謝するんだな」
「桜庭?」
 思いもよらない名前に俺は椎名から桜庭に視線を移す。
 口元に絆創膏を貼った桜庭がにっこりと笑う。
「お前に逃げろと云われた後も桜庭は店に留まったんだよ。他の客に混じってお前を監視していたんだ。お前が階段脇で暴れてから、すぐに奴らは後を追った。桜庭も距離を取りつつ後を追い、地上に出てすぐに俺に連絡をつけようとした。ただ」
 そこで椎名が冷ややかな目でちらりと寿樹を見た。
「その時ちょうど須釜からの電話を受けてて俺は対応が遅れた。須釜と合流の約束をしたそのすぐ後、桜庭から連絡があった。奴らもお前を見失ったようだが、桜庭の方もお前を見失っていた。そこで桜庭は店を飛び出した一味の一人をマークしたんだ」
 俺はある意味感激していた。
 だって俺が先に一人だけ桜庭を逃がそうとしたのは、そのチャラい外見から当てにならないと判断したからだ。どうせビビって足手纏いになるのが関の山だって、俺は一方的に侮った評価を下していた。
 なのに桜庭は全然違ったんだ。
 俺を見捨てたりせず、それどころか危険を冒して俺を救ってくれた。
 尊敬の念さえ抱いて、俺はじっとにこにこと笑っている桜庭を見つめた。
「桜庭が尾行を開始して数分後、その男の携帯が鳴った」
 俺を捕えたという内容だったらしい。桜庭は男に殴りかかった。格闘の末、そいつを気絶させた桜庭は再度椎名と連絡を取り、そこで寿樹も含めた椎名一行と合流。あとはそいつに俺が運び込まれた場所をゲロさせ(寿樹と椎名の拷問だ。考えるだけでも恐ろしい)、あの廃屋に急行したらしい。
 だが、そこから出火していた。
 声がした、という寿樹の言葉(間違いなく嘘だ)に従い二チームに分かれ、外からドアをぶち壊す奴らは何か適当な道具を探しに、天井がガラスなのを利用しそこから侵入を試みるチームは隣のビルへと散っていった。
 あのビル自体は廃ビルだったそうだ。勝手に道具を漁って、おまけにあれだけ騒いだのに誰も出てこなかったらしい。
 一方椎名と黒川、そして寿樹は隣のビルの屋上を目指していた。こっちはまだ一応僅かに入居者が居るようで、三階と五階に消火器が置いてあった。それをかっぱらいつつ上に出ると、椎名の指示を無視して寿樹がびよんと飛んでしまったらしい。(椎名が妙に寿樹に冷たいのはその所為か?)
 後は俺も知っての通りだ。
 気絶した俺を担いでとにかくそこを離れた。俺を椎名の家に運び入れ、安良木に連絡を入れて俺の家に連絡してもらった。その間、俺は六時間ほど死んだように眠り続けていたようだ。
 聞き終えると、俺は目を閉じて長々と溜息を吐いた。
 こうして改めて全体を通しで聴いてると、一介の中学生のやることじゃねぇよなぁ…。
 よく生きてるよなぁ、俺………。
 もう一度溜息を吐くと、俺は気を取り直して顔を上げた。椎名の方に向けていた身体を桜庭の方に向けて、俺は誠心誠意勢い良く頭を下げる。
 瞬間、ごんっという音と同時に目から火花が散った。
ちゃん!?」
 バカとしか云い様がない、俺は古典芸能のごとくテーブルに額を打ち付けていた。
 片手で額を抑えながら、膝立ちになった桜庭を俺は手で制す。
「い、だ、ダイジョブ…桜庭、ありがとな、ほんとにありがと。お前、俺に何かして欲しいことないか? 俺なんでもするよ」
「えっ!?」
 その口元の絆創膏。俺は桜庭の勇気を称えて微笑んだ。
 中途半端な姿勢のまま動きを止めていた桜庭だが、数秒間の停止の後、期待に顔を輝かせてがばっと机に身を乗り出す。
「じゃ、俺と付き合ってよ!」
「うん、いいよ。どこ行きたいんだよ?」
 そんなんでいいのか?
 きょとんとした俺の後ろで、寿樹がくすくす笑って俺の方に身を乗り出してこっそりと耳打ちする。
「違うよ、。桜庭君はね〜、君とお買い物に行きたいんじゃなくて、君とエッチすることを前提とした欲望いっぱいの男女交際をしたいって云ってるんだよ〜」
「はぁ!?」
 俺は思わず深い時間だということも忘れ、近所迷惑な声を出してしまう。
「何そういうこと!? ムリムリ、ワリーけど無理! なんか別のにしろよ」
 俺がぶんぶん顔の前で手を振ると、みるみるうちに桜庭が肩を落としていく。そのあまりの落胆振りに、何だか悪いことをしたような気分にさせられる。
「なぁ、桜庭、他は? なんか他にはないのか?」
 今度は俺がテーブルに身を乗り出して、桜庭の精気の失せたような顔を覗き込む。
 どろりとした目の桜庭が不意に呟く。
「………雄ちゃん」
「は?」
「雄ちゃん、って呼んで」
「雄ちゃん?」
 なんだそりゃって俺が首を傾げると、桜庭がに〜や〜って笑う。
ちゃん?」
 そう云って満面の笑顔で俺を指差す。
 つられて俺も「雄ちゃん?」って桜庭を指差してしまう。
ちゃん」
「雄ちゃん?」
ちゃん」
「雄ちゃん」
「よしっ!」
 桜庭ガッツポーズ。
 やっぱり、駄目だこいつ……。
 俺の中でついさっき急騰した桜庭の株が大暴落する。
「いい加減馬鹿な真似してないで寝るぞ。がソファ使うから、お前ら適当に寝ろ。ロフトも誰か使え」
「俺がソファで、誰かがロフト使ったら、椎名はどうすんだよ?」
 俺は疑問に思って訊いてみた。
 椎名は今座ってる、L字の短い方をぽんぽんと叩く。
「俺は起きてる。お前が何飲まされたのか解らないんじゃ、寝ていて容態が急変する可能性があるからな。ロフトじゃなく、俺の目の届くそこに寝ろ。経緯がばれるから医者に行きたくないが最悪の時は仕方ない。お前も覚悟しとけよ、その場合俺とお前は事情聴取は免れん」
 俺は自然と唇が綻んだ。
 椎名ってほんといいリーダーだよなあ。
 普段虐げられても黒川たちがどうして椎名を慕うのかって、そりゃ当たり前だな。俺だってこいつならって思うもん。
「うん。ありがとな、椎名。あ、でも、あとちょっとだけ待ってくれないか?」
 椎名が頷いて脇の雑誌を手に取る。
 黒川や畑たちも慣れた様子で立ち上がって、予備の寝具を用意し始める。でも桜庭は相変わらず俺の前の席に陣取っていたし、寿樹も座ったままだった。
 俺は小さな決意を結ぶと振り返って両手で寿樹の右手を取った。
?」
「お前もごめんな」
 右手の小指に残る傷跡。俺がつけた傷。
 俺は殆ど消えかけた傷跡を指でなぞった。
「ごめんな。痛かったろ、あの時…」
 大人しく手を預け平静を装っちゃいるが、寿樹の頬が微妙に緊張したのが解った。一瞬にしてその目が翳りを帯びたから、俺は苦笑いしながら首を横に振る。
「別に今更あの時のことをぶり返してお前を責めようってんじゃねーよ。そうじゃなくて単に怪我させたことを謝りたかっただけだ。俺さ…お前に裏切られたって思ったんだ。俺は………その……お前のこと親友、だって思ってたのにさ、でも、その、今でも信じられないけど、お前が俺をこんな身体にしたんだろ? お前に取っちゃ、俺はそんな冗談半分で玩具にされる程度のもんだったのかーって結構傷付いた。でもさ」
「違うよ、それは違うよ」
 目の前で小さな嵐が起きた。
 腕を振り払われ、無理矢理の抱擁で言葉を遮られる。見開いた視線の先、寿樹の肩越しに驚くというより呆れたような顔をした畑兄弟と黒川の姿があった。
 抱きしめると呼ぶよりしがみつく強さで寿樹が俺の肩に顔を埋めてくる。それは陸の上にいるのにそうしていないと沈んでいってしまうとでも云いたげな必死さで、俺はどうしていいのか解らずすぐ横の寿樹の頭を黙って見詰めた。
「僕は君を絶対に裏切ったりしない」
 長い付き合いなのに初めて聴くような余裕の無い口調と擦れた声が耳の横で囁かれる。
「いくら謝っても赦されないのは当然だし、僕は君に悪いと感じはしても後悔はしていない。だから僕は君に赦してくれとは云わない。でもこれだけは信じて、僕はそんなつもりで君を女の子にしたんじゃない、君の思っているようないい加減な気持で君の姿を変えたわけじゃない、そうじゃないんだ、逆だよ、
 僕はね、この世で一番が大事だよ。
 僕は君にずっと傍に居て欲しかった。君を女性にして秘密を共有すればそれが叶うと思った。卑怯な手でも何でも、君を手元に置いときたかった。誰かに心を奪われる君を見たくなかった。だからそんなことをしたら君が苦しむと解っていても、それでも願わずにいられなかったんだ」
 密着してる所為で、その言葉の群れは耳というより、むしろ身体に注ぎ込まれていくような感覚だった。
 ただし、俺は最初に告げられた寿樹の一言にすっかり気を取られてしまっていて、その後の矢継ぎ早に告げられた言葉の方は殆ど聞き流してしまっていたけど。
 寿樹は別に俺を裏切ったわけじゃなかった。
 傷口がみるみる塞がっていくような感じだった。腹の底が擽ったくて笑いが込み上げてくる。俺は湧き上がってくる笑いを堪えきれず、寿樹の肩に額を押し付けた。
 なーんだ、もう。別に俺のことどうでもいいってわけじゃなかったのか。
 つか、なんかよく解んねーけど、要約するとむしろ逆? 何だこいつ、俺が他の奴と仲良くするのが寂しかったのか?
 いひひってキモチ悪い声で笑いながら、俺は寿樹の肩に頬を埋めてその脇腹にパンチする。
「最初っから素直にそう云やぁいいのによ。したら、俺だってあんな怒ったりしなかったかもしれねーのに」
…」
 ウヒヒってサルみたいな笑い方してたら、突如身体が後ろに倒れた。
 ええっ? って思う間もなく、俺は襲い来る寿樹の唇を本能的に顔を捩って避けた。状況を理解して血の気が引く。
 お、おお、おしたおされてるよ、おれ!
 寿樹の手が俺の後頭部に潜り、無理矢理俺の顔を固定しようとする。
 現実逃避したいが、この状況でこのバカが何を狙ってるかは明白だ。鳥肌が立つ。
 圧し掛かる重たい身体を両手で押し返しつつ、俺は恥も外聞もなく叫んでいた。
「椎名椎名、たすけてしいな――――!!!」
 どすっ、という鈍い音がして寿樹の身体が僅かに浮き、その力が緩む。俺はその隙に死に物狂いで寿樹の下から這いずり出して、どういうつもりか両手を広げている桜庭を擦り抜け椎名の背中に隠れた。
 うわー最低だー!!
 お姫様抱っこに続き、女の子押し倒したこともないのに男に押し倒されちまったよー!!
 ぐわぁぁ〜〜〜〜最悪だー!!
「全く信じられないぐらい無神経な男だな。が今日どういう目に遭ったのかその目で見たくせに、その数時間後によくそういう真似が出来るな。人としての理性や配慮って物がない訳、お前?」
「だって僕には愛があるし〜」
 蹴られた脇腹を擦りつつ、寿樹があっけらかんと笑う。
 椎名が恐ろしいほどの冷笑を返す。
「バッカじゃない? まんまストーカーの言い種だね。嫌い嫌いも好きのうちなんて、そんなのは現実に適合出来ない馬鹿の妄言以外の何物でもないんだよ。みっともない画策も見苦しいから止めろよ。いい加減現実を直視して、自分がにどうも思われてないって受け入れろよ、ストーカー野郎」
「あはは〜、事情をよく知りもしないで人のことをストーカー呼ばわりすると恥をかくのは君の方ですよ〜、椎名君。僕とは十年来の付き合いなんですよね〜、それに比べて知り合ってたった数週間の椎名君にの何が解るというんでしょうねえ。限定された情報しか得ていないくせに、すべてをお見通しみたいな顔をするとお馬鹿さんに見えますよ〜。そうそう、馬鹿繋がりで思い出しましたが、己の采配ミスで女の子を危険な目に遭わせ、その上大事な身体に怪我まで負わせたくせに謝らない人がこの世にいるんですって〜。まったく信じられませんよね〜、本人がいいって云っていても男なら責任とって土下座どころか腹でも切って死んで詫びろって感じですよね、そう思いませんか〜、椎名君〜?」
が謝罪を求めるなら俺は逃げも隠れもしないぜ? それこそお前が口出すことじゃないんだよ、時間の長短と人間関係は比例しないんだからお前こそ勘違いも甚だしい発言をするな」
「そうですよね〜勘違い発言ってして欲しくないですよね〜」
「まったく同感だね。気が合うな、俺たち」
「ええ、まったく〜」
 ……………………。
 …………うっわ〜居心地わっるぅ〜〜〜。
 にこにこ笑ってる寿樹と唇を笑みの形にしつつも瞳には剣呑な光を浮かべてる椎名。
 毛布持ったまま畑兄弟が立ち竦んで動けずにいる。黒川も同様だ。
 動いた奴は死ぬ! みたいな空気が全員の肩に重く圧し掛かっている。
 なんか空中に幻覚見えそうだ……。
 ほら、竜と寅が見合ってキシャーっとかやってるやつ。
「おい………何とかしろよ、ナオキ」
 俺は椎名の背後をそっと離れ、小声で傍にいた井上のシャツを引っ張った。
 井上がぎょっとして引き攣った顔のまま超高速で首を振る。
「アホぬかすなっ! お前が原因なんやからお前が何とかせェよ!」
「っや、やだよ! 無理に決まってんじゃん! あんなガメラ対モスラみたいのに割って入れるわけないじゃん!」
「じゃあお前はその無理なことを人にやらそうとすんなや! そや、お前、ほら、可愛らしくお願いしてみいや、喧嘩は止めてワタシの為に争ったりしないで! って」
「するかアホ!」
「いーからやれ! 前にそうやって可愛い女に可愛くお願いされて場ぁが丸く収まったことあんねんから!」
「おい」
 いつもより低い椎名の声。
 俺と井上は滑稽なくらいびくりと肩を揺らした。
「さっきから何をぶつぶつ云っているんだ?」
「な、なんでも…」
「ほらっ! やれっちゅーねん!」
 適当に云い繕おうとした俺の背中を井上がぐいぐい押してくる。抵抗虚しく、結局俺は二人の前に押し出され、二対の視線に晒される羽目に陥った。
「ほら、はよう!」
 サル後でぶっ殺すと思いつつ、俺は可愛らしいお願いとやらをぐるぐる考える。
 …………(五秒経過)。
 ……………………(十秒経過)。
 …………そんなもん知るかボケー!! と叫びだしたいのは山々だったが、俺は最早これ以上氷の視線を注がれることに耐えられず、ヤケクソに胸の前で両手を組むと可愛く可愛くと呪いのように呟きながらムリヤリ笑顔を浮かべた。
「あの、ふたりとも、け、ケンカなんてダメよ、仲良くしろ、いや仲良くしてね、えと、
お…お願い?」
 寿樹がきょとんと目を丸くする。
 椎名も大きな目を余計に大きくして俺を凝視する。
 その表情を見た瞬間、俺は激しく後悔した。
 この場から逃げよう、そう思った瞬間天井を突き破らんばかりの大爆笑が起こる。
 寿樹や桜庭はもちろん、椎名まで大口を開けて爆笑してる。黒川や畑兄弟も腹を抱え、俺にそんな恥ずかしい真似をさせた張本人の井上に至っては笑いながらソファをばんばん叩いてやがる。
「いっ、云っとくけどなぁ――っ! 今のはサルが云わせたんだからな! 俺が云いたくて云ったんじゃないからな!」
 俺が真っ赤になって怒鳴ると、さらにげらげら笑い転げる。つーかみんなして笑いながら崩れ落ちるように蹲ってしまっていて、なんか死屍累々って有様なんだけど。
「ほ、ほんまに……云うとは、思わんかった……」
 俺は床に四つん這いになってひーひー笑ってる井上をふんずけてやった。げふっという声に馬鹿どもがまた喜ぶ。
サン、頼む、俺と結婚してくれ、俺を一生笑わせてくれ」
 黒川の言葉に一層笑い声がでかくなる。
「まてよ黒川、俺のがちゃんを幸せにでき、ぶふっ!」
「プロポーズ中に噴き出すような人には任せられません。は僕が責任持って幸せにするので桜庭君はこのまま笑い死んで下さって結構ですよ」
「つかお前らとなんかぜってえ結婚しねえ!」
「だっさいのーふられてやんの。じゃあしゃあないからこの俺が」
「サルなんて問題外だっつーの!」
「ヒドっ! 差別や!」
「や、普通差別するだろ、人間とサルは」
 くたくたと力の抜けただらしない姿で笑い転げてる男どもの中で、俺だけは真っ赤な顔して腰に手を当て憤慨していたはずなんだけど。
 いつのまにか俺も一緒になって笑ってた。

 結局、この日は太陽が空を明るくするまで俺たちは馬鹿話を延々交したのだった。





原因不明の頭痛もこの日を境に消えた。


"ペインキラー"




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