Dec.28


ごちんという音が車内に響いた。
はっとして顔をあげると、スタンとレイがまじまじとこっちを見ている。
軽く見開かれたその二対の視線に責める色はないのだが、居眠りした上、側頭部を窓ガラスに打ちつけるという三流コントまで披露してしまった俺の方は文字通り居た堪れない。
恥ずかしさを誤魔化すように髪を撫でつけ、もう一方の手を軽く上げて謝意を表す。
「すまん、クロックのTMON波形の辺りからもう一度頼む」
「ごめんね、アキラ、疲れてるよね。あと十五分くらいしかないけど寝てよ。続きはのとこに着いてからにしよう」
俺の正面に座っているレイが申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「いや、今の一撃で完全に目が覚めたから平気だ」
書類の束を鞄に戻そうとする腕を引き止める。
移動と会議で疲れているのは事実だし、少しでも眠りたいのは山々だ。だが、俺は明日の朝にはホテルを引き払い、本社のあるサンフランシスコに戻ってしまう。時間を気にせずの傍に付いていてやれるのは今夜が最後だ、病院に着いたらもう仕事の話はしたくない。
「そう? なら続けるけど…」
そうは云いつつもレイはどうにもあとが続かない。俺が笑顔で促すと何年経っても変わらない小動物じみた仕草ではにかむようにレイも笑う。
世辞なんかではなく、レイもスタンリーも本当に良くやってくれた。の抜けた穴を埋める為に奔走してくれたことに加え、公私に亘って俺を支えてくれた。
けれど、もう甘えてもいられない。
年が明けてすぐにラスベガスで開かれるエレクトロニクス・ショーで、ウチとLQDがジョイントベンチャーで新会社を設立することが正式発表される。MEを売却して以来、俺とステファンが公の形で手を結ぶことはこれが初めてだし、大学に残ったアズラエルを技術顧問として迎えている。3Gの再来として経済誌や専門誌上で春から注目も集めていたし、なにより製品の質には期待外れで終わらせないだけの絶対の自信があった。確実に来年のヒット商品のひとつになるはずだし、そうするべく多くの人間が目標達成の為に邁進していた。
そんな中、突如起こった今回の事件はタイミングとしては最悪だった。
この時期にがプロジェクトチームから脱落することも、何よりこんな形でうちの社名が世に広く流布してしまったことも。
うちは最終商品が直接消費者の手に届くような企業ではない。半導体や半導体測定治具、回路設計といったものが主力商品で、一部のマニアや業界関係者の間では有名でも主婦や学生には殆ど知られていない会社だった。それが今やすっかり奥様の井戸端会議の格好のネタになっているのだからまさしく一寸先は闇だ。
俺の血塗れのタキシード姿があまりにも巷間に流布してしまっているので、ショーのブースのイメージカラーだった赤の変更も余儀なくされた。自分で云うのもなんだが、あの写真が悲劇のヒーローとして大衆受けするのは間違いなく、こっちの迷惑も考えず使いたがるマスコミの気持ちも解らなくはない。俺がプロデューサーや編集長でも絶対に使うだけのインパクトとアピール力を備えているので、見かける度に責めるよりも諦めの溜息が漏れる。すべてがマスコミの所為とばかりは云えないが、結果として既に発注をかけてしまっていたブース機材のキャンセル料と再発注費用、併せて新たなコンセプトの創出と共に消費者向け広告の見直しも求められることとなり、それによって発生するコストをうちが負担することになった。
今回の事件が会社に与えた損害はこれだけじゃない。世間では俺に対して同情的な意見が大多数を占めているようだが、三流マスコミがしつこく虚偽情報を発信してくれるおかげで未だに事実を誤認したままの人も存在する。植えつけられた悪印象を鵜呑みにして製品を敬遠する消費者も予想されるし、その消費者が周囲の人間に与える影響力如何によっては特に悪い印象を持っていなかった消費者までもがウチに嫌悪感を抱くようになる。たかが数千ドルの損失よりも将来的にもっと甚大で深刻な被害を及ぼす可能性を孕んでいるのだ。また、ニュースが流れた翌日には株価は最安値を記録している。今は再び持ち直してきてはいるが、会社に多大な不利益を齎したその責任を俺はこれから全身全霊を賭けてとらなければならない。
もう病室でぼんやりと時を過ごしてなどいられないのだ。
レイの口から零れる馴れ親しんだはずの単語に懐かしさを覚えながら、波のように押し寄せて自分を包み始めた日常を強く意識する。目まぐるしく過ぎ去った十日間は徐々に落ち着きを取り戻し、二ヵ月もすればは再び俺の隣に寄り添うようになるに違いない。
が帰ってくるその日まで、が命をかけてまで護ろうとしたものを今度は俺が護ろう。必ず成功を収めてみせる。
不確実な未来を望みうる最高の形で迎える為の戦略を練る裏で、けれどまだ冷徹な実業家に立ち戻れないでいる俺の心は病室に横たわるのもとへと飛んでいた。



最早無意識に歩けるようになってしまった廊下を控えめな笑い声と共に進む。
四肢に力が満ちていて、全てが上手く行っているような前向きな気分だった。
容態が落ち着き次第サンフランシスコの病院にを移すことや、退院祝いパーティーとか明るい未来を頭の片隅で思い描いている。返しそびれている婚約指輪と用意しなければならない結婚指輪のこと、二人で新しい生活を始める為の新居を探すことも。
スタンがニヤニヤしながらの快気祝いパーティーにはグスタフも呼んでやれよと云ってきて、俺がハゲのヅラ被ってくるなら呼んでやると返すとレイが廊下に響くほど思い切り盛大に噴出す。
しかし、笑いながら角を曲がったところで、冷水を浴びせかけられたように一気に頭の芯が冷えた。
病室の入り口の前で男が顔を覆い蹲っている。
不吉な光景だった。
微かに聴こえてくる女の泣き声が嫌な予感に拍車をかける。
俺たちは計ったようにぴたりと口を閉ざした。
代わりに床を蹴る脚が早まる。壁に背を預けて床に座り込んでいた真之さんが顔を上げた。視線が絡まると燃えるような目で俺を睨みつける。全身から血の気が引いたがそれは向けられた憎悪に竦んだからではなく、の身にとてつもなく悪いことが起こったことをその視線が激しく物語っていたからだ。
俺は走り出していた。革靴がリノリウムの床を打つ。真之さんの前を素通りして病室に駆け込む。
中には顔馴染みになった看護婦と担当医たちと枕元に咲枝さん、そしてベッドの上には泣いているの姿があった。
膝から力が抜けそうで、口元に生温い笑みが浮かぶ。
目の前に広がっていたのは俺の頭の中を瞬く間に染めていった最悪の想定よりは遥かに優しいものだった。
良かった。
ちゃんと生きているじゃないか。
俺は真之さんの尋常じゃない様子なんて綺麗に忘れて、ちゃんと息をしてちゃんと動いているの身体に果てしなく安堵してベッドへと足を踏み出した。
「……たい…や……ったい、いたい…」
はしきりに泣きながら痛い痛いと繰り返していた。俺は子供のようだとまた少し笑った気がする。呆れたことに可愛いとすら思った。あの人前で感情を露わにすることを嫌う女が人目を憚ることなく流す涙は俺の為に負った傷が原因で、おそらく同じ立場に置かれた人間にしか理解出来ないような歪んだ愛しさがひたすら胸を塞いでいた。
「い…た……どして…………なんで…いたい……の……」
纏わりつく視線の意味に気付くことなく、どこまでも俺は鈍感に看護婦と担当医の間を擦り抜けて咲枝さんとは反対側の枕元に立った。

額の髪をかきあげると涙を溢れさせていた眸がゆっくりと開かれていく。
瞬きの間にも新たな涙がとめどなく湧いてきて、俺はそこに口付けたいのを我慢した。

「…ぱ、…のね…いたいの……」
「ああ」
俺は床に膝をついた。目線が同じくらいになって、が俺の方に首を傾ける。の瞳に映った俺はみっともないくらい幸福そうに微笑んでいた。
「いたい…」
「ああ、ごめんな」
俺はの手を取った。冷たくてやわらかさに欠けていたが、そんなことどうでもよくてに命のあることが死にたいぐらいに嬉しい。痛みを感じてくれていることに感謝すら覚える。
「…ど……て…」
「うん?」
乾燥した白い唇がたどたどしく動く。
「…いた、の…なんで……」
「ごめんな、我慢してくれ。痛いのは解るがこれ以上鎮痛剤を増やせないんだ」
が再び目蓋を閉ざし、嫌々をするように頭を振る。
「どうして……は…
俺はひとつ瞬いた。
生きている無事だった、そのことばかりに気を取られていたのがやっと別のことにも意識が及ぶようになった。
何だ?
ガキじゃあるまいし何故こいつは自分のことを『』だなんて云っているのだ。
?」
ぐずぐずと涙を溢れさせるばかりで俺の呼びかけには答えなかった。
よく見ると点滴も外されている。痛みの所為かやたらとは身を捩るから、血管を突き破らないように外したのだろう。だが、いくら痛むからとはいえここまでするだろうか、あのが。だいたい今朝までは大人しく寝ていたじゃないか。
数日間に亘る点滴ですっかり鬱血してしまっている肘の内側に何気なく目を落とし、その周囲の白い皮膚に走った紅い引っ掻き傷を見つけてしまって俺は恐くなる。後先も考えず爪をたてて自分で傷をつけたようなこの痕は何だ。
墨をたらしたように胸の真ん中から不安がじわりと広がっていったが、それを無理矢理勘違いだ思い違いだと俺は捻じ伏せた。

嫌な想像を頭から必死で追い出し、縋るように俺は折れそうな手を握りしめた。もう一度「」と繰り返すと、やけに茫洋とした眼が俺を捉える。
小さな唇がやけにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……いた…よ……たすけて…ぱぱ…」
俺は咲枝さんへと目を向けた。
それから、ベッドを囲む人間の顔に視線を巡らす。
誰も何も云わなかった。
けれど、皆が同じ顔をして俺を見ている。
の方に顔を戻すと、は真っ直ぐに俺を見上げて再び「ぱぱ」と俺を呼んだ。
自分がどんな顔をしていたか解らない。
…お前…」
何も云えずにただその顔を見詰めていると、は「ぱぱ、いたい、ぱぱ、いたい」と声を上げて泣き始める。
全身が錆びついてしまったかのように、俺は膝立ちの姿勢のまま泣いている女をただただ黙って見下ろしていた。
わんわんと子供のように泣く。そのの髪を幼子にするみたいに優しく咲枝さんが撫でてやっている。俺はの手を離した。
気持ち悪い光景だと思った。
はどっからみたって大人なのにガキみたいにわあわあ泣き喚いている。
自尊心とかその手のものを一切忘れたみたいに恥も外聞もなく声を上げ続けている。
何だこれは。
このみっともない女はなんだ。
しかも「ぱぱ」だって? この、俺が? ふざけんな。
何だ。
どうしたんだ、いったい。
俺のいない間にの身に何が起こったのだ。朝までは普通だったのに。
いったい誰がこいつをこんなふうにおかしくしたのだ。
「……誰だ」
立ち上がった拍子に点滴台に肩が触れてけたたましい音と共に床に転がった。大きな音に驚いたのか、の泣き声がいっそう高くなる。
「俺がいない間に誰がこいつに何をしたんだ!」
だが、俺はそれ以上の音量で怒声を発した。
「お前らいったい何をやってた! どうしてこいつをちゃんと見てなかったんだ! 何があったんだ、誰がこいつをこんなふうにした!」
けれど誰も答えなかった。ただ俺を見ている。の泣き声は苛立たしいほど酷くなり、破れた点滴液が床を汚していく。俺は漸くさっきから自分に向けられている視線の意味を悟った。
一方的に与えられる憐れみにますますはらわたが煮え繰り返る。俺は転がった点滴台を腹立ち紛れに蹴りつけた。
「答えろ! そいつを殺してやる、どこにいる誰がを」
「誰も何もしていないわ」
その声は日本語で、俺はたった今自分が口にしていたのも英語ではなく日本語だったと気付いた。間抜けな真似をしたような気がして、煮え滾っていた怒りの衝動が僅かに揺らぐ。
動揺を振り払うように荒々しく振り返って、声の主である咲枝さんに目を止めて俺はぎくりと身を強張らせた。さっきは少しもそんなふうには感じなかったのに、あの万年少女のような人がたった一日ですっかり老け込んで見えた。
の頬を拭ってやりながら、感情の起伏のない淡々とした口調で言葉を紡ぐ。
「誰もこの子になんにもしていないわ。あなたが朝出かけて、その後眠って、お昼を食べてまた少し眠って、次に起きたときにはもうこうなっていたの。私のことを覚えていないし、お父さんのことも知らないんですって」
嘘だ。
そんな話信じられるものか。
俺は奥歯を噛み締めて咲枝さんを睨まないように自分を戒めた。だが腹の中じゃ新たな怒りが猛烈な勢いで湧きあがっている。嘘だ。こんなことがあるのものか。朝は普通だったのに、身体だって回復に向かっているって話だったじゃないか。それがどうしてこんな、俺をパパだなんて呼ぶんだ。
「脳波とかいろいろ検査したのだけど、別におかしなところはないんですって。お医者様もどうして急にこんなふうになってしまったのか解らないそうなの。小さな頃に戻ったみたいで、記憶の喪失と混同が起こってしまっているみたい。私のこともあなただあれ、って…それでも」
泣き続けるの髪を撫でながら、疲れた顔で咲枝さんは静かに呟いた。
「こんなになってもこの子はあなたのことだけは覚えているのね」



沈黙というものには重苦しい不可視の色が着色されているらしい。
痺れた頭で俺はそんなことを考えていた。
何を詫びているのかも解らないまま、すみませんと何度目かの謝罪を口にする。けれど、薄暗い病室で返事を返す者はいなかった。
薄いカーテンを透過して注がれる月光が眠るの肌を青白く発光させている。
そのの枕元に咲枝さん、その隣に真之さんが座っていて、彼らは眠るの手を黙って握り続けていた。
家族ではない俺にそこに入り込む余地はなく、入り口のそばに引き摺っていった椅子に何をするでもなくぼんやりと腰を据えている。
富と名声も手に入れた。
カールビンセントなんて銀のスプーンを咥えて産まれてきたような本物の上流階級の人間と今じゃ普通に茶を飲む仲になった。
東京の一介のサラリーマンの息子にすぎなかったのがたいそうな出世をしたもんじゃないか。
それなのに中学生の頃に戻ってしまったかのように俺はどうしようもなく無力だった。
本当に大切なもののことはどうにも出来ない。
医者になればよかったのかと考え、それではと会うこともなかったかと思い直す。
一番可哀想なのは誰だろう。
記憶を失った女。
忘れ去られた父と母。
何度も抱いた女に父と呼ばれる男。
少なくても三番目の男じゃない。
どんな形であれの中で俺の存在が消えていないことが嬉しかった。
この悪夢のような現実の中でそれだけが救いだった。