Dec.26


いきなり雑誌が消え失せた。
しかし、これは別に怪奇現象でも何でもない。
単に背後から近付いてきた人物に予告もなしに取り上げられたのだ。
薄っぺらい雑誌の丁度真ん中、そこを掴まれたと思った瞬間には俺の手は空っぽだった。殆ど力を入れてなかったから良かったものの、しっかり持っていたなら手のひらを切っていたかもしれない。
非難するでもなく乱暴な強奪犯に目を向けてみると、被害者のはずの俺の方が頭上から思い切り睨みつけられてしまった。
射殺すような眼差しで俺を見下ろしている我が社の敏腕弁護士スタンリー・ヒューバックは、さらに上司に向かってありえないぐらい獰猛な声を浴びせ掛ける。
「こんな胸糞悪い雑誌を眠り姫の傍で読むな」
「胸糞悪いって知ってるってことはお前も読んだんだろ。返せよ、まだ途中までしか読んでない」
腕を伸ばしたが素早く躱される。これにはさすがに舌打ちが漏れた。
だが、そんな俺を無視してスタンリーは雑誌を横にして両手で握り込む。まさかと思う。
「あー読んださ、読んだ後びりびりに引き裂いて床に散らばったそれを踏みつけてからだんごにしてクソと一緒に便所に流したさ!」
制止の声をあげる間もなかった。
まさかの予想は的中し、スタンリーは雑誌を中央から真っ二つに引き裂き始める。
時既に遅し、今更止めても既に不良品。
仕方がないので黙って見てたら、最後はやけに小気味いい音と共に、スタンリーは本当にひとつの雑誌をそれは見事にふたつに分裂させてしまった。
薄いとはいえ雑誌は雑誌だ、半分まで行けば良い方だろうと思っていたのに。
人のものに何てことをという怒りより、思わずその万国ビックリ人間ショーばりの芸当に俺は感心してしまった。ここが病室でなく、横にが寝ているんじゃなきゃ口笛でも吹いているところだ。
だがしかし、雑誌をゴミに変えたくらいじゃスタンリーの怒りは治まらないらしい。
「あのクソ野郎が! 誰かあいつをゲイの群れに放り込んでやればいいんだ、あんなブタはガバガバになるまで掘られた後に生ゴミ突っ込まれて中から腐って死んじまえ!」
とてもWASPのエリート弁護士さまの言葉とは思えない。
それでも一応を慮って声を抑えている辺り、辛うじてまだ理性は残っているようだ、口にしている台詞の内容はともかくとして。
「グスタフを殺るのは構わんが、その時はウチに迷惑がかからないように退職願を出しといてくれよ。あと、デボラに離婚届と慰謝料も忘れるな」
肩を竦めてそう云うと、スタンリーはイヒヒとしか聴こえない笑い声を零した。
前言撤回、理性は既に燃え尽きて、あるのは残りカスだけだったようだ。
「バーカ、命を奪うだけが殺すことじゃないだろ、社会的抹殺なら罪に問われないし、上手くやれば死ぬより辛い苦痛を与えられるだろうが」
イヒヒヒヒという濁った笑い声を右から左にスルーしながら、俺はへと目を移す。会社に戻る頃には、スタンリーがちゃんと正気に返ってくれるといいのだが。
周囲の喧騒を他所にはよく眠っている。その寝顔に苦しそうなところがないことに安堵して、俺は空いた両手でその右手を握った。
酸素マスクやら何やらは未だにその身に繋がれているし、頬はこけて目の下には青黒い隈が浮いている。それでもほんの二日前と比べて本当に薄っすらとだけどその肌には赤みが見て取れるし生気も感じられるようになった。
医者ももう心配ないだろうと云っている。おそらく今週末か、遅くとも来週の頭には一般病棟の方に移れるだろうとも。
とりあえずに云いたいことは山ほどあるが、果たして伝えられる日が来るのか。
午前中にはほんの数分目を覚ました。長い睫毛が震えて開くのを、俺たちは固唾を呑んで見守った。黒い瞳に力はなかったが、自力で目を開けた、たったそれだけのことが酷く嬉しかった。
咲枝さんが名を呼ぶとは茫洋とした視線を彷徨わせ、最後に俺を認めると渇いた唇を動かした。
ろくに音になってないその掠れた「あ」という響きだけで俺は胸が一杯になってしまって、管の絡んだその身体を抱き潰してしまい衝動を堪えるのに必死だった。
皮肉や嫌味は俺の標準装備のはずなのに、何だかそんなものこいつの前じゃもう一生出てくることはないような気さえする。
の薬指を撫でてみると、こんなところまで肉が落ちたように思えた。これでは指輪がゆるくなってしまったかもしれない。
サイズ直しという考えが頭を過ぎったが、この痩せっぷりは一時的なものだという希望的観測でその案は却下する。
幸いにも時間はまだたくさん残されているはずなのだから、俺が未だに持ったままの指輪は身体がもとに戻ったら返してやればそれでいい。
「……おい、おい、アキラ。聴いてるのか、今一番大事なとこなんだぞ」
「え? 悪い、全然聴いてなかった」
スタンリーは思い切りちっと舌打ちした。最早どっから見てもその顔つきは立派なマフィア、仕立てのいいスーツが返ってチンピラ臭を倍増させている。
「何だよ、その態度は。やる気あるのか、お前」
「やる気って云われてもなあ」
さっきからスタンリーが熱く語っていたのはいかに法の網を掻い潜ってグスタフを不幸のどん底に突き落とすかについてのはずで、そんなもんを聴いて俺がやる気というかむしろ殺る気を出したりしたら拙いだろう。
そう云うとスタンリーは見事に青筋を浮かびあがらせた。
「お前は腹が立たないのか、あんなこと書かれて!」
ついさっきゴミへと変わった昨日発売の三流ゴシップ誌。
近年ますます3Kに磨きがかかっているピーター・グスタフがその巻頭ページで意気揚々とインタビューに答えていて、曰く、奴によると今回の事件は自分の女を利用した三上亮の汚い売名行為だそうな。
あれは落成式というおめでたい席で恋人が自分を庇って撃たれてしまうという悲劇の主人公になることによって、世間の注目を集めようとした三上亮の画策で、犯人であるグロウ・ストラーだってその三上亮に金で雇われたので間違いないらしい。ちょっと調べれば解ると奴は紙面で述べていたが、そりゃ根拠のない妄想の話ならちょっと調べるまでもなく都合のいい傍証は山ほど落ちてることだろう。
で、その三上自作自演説の根拠としてグスタフが熱烈大プッシュしているのが、奴のところと競合してウチが大勝利した某大口契約の件。自分のところでほぼ本決まりだったはずなのに、あの事件の二日後にいきなりそれが覆り、ウチに契約をかっさらわれてしまった。あれはどう考えてもおかしい、つまりあの三文芝居で自分の方へと注意を引き付け、製品とは無関係のことで三上亮は契約を掠め取った卑しい人間なんだそうな。俺に云わせればそんな割りに合わないことを俺がすると考えられる奴の頭の方がどう考えてもおかしいが。
スタンリーに没収されてしまったから途中までしか読めなかったが、記事の後半には俺の昔の女関係だの、マゾヒスティックな性交が大好きだとか、ドラッグ中毒の可能性が見受けられるとか、他人のアイデアをパクったとか、そりゃあもう俺の職業ロックスターか何かだっけと勘違い出来そうなぐらいに面白い中傷がてんこ盛りだった。
で全編通してまんまと俺に騙された頭空っぽ尻軽売女みたいな書かれ方で、ある意味俺よりもえげつない扱いをされていたし、まあ、腹が立たないのかと訊かれれば、少しは立つような気がしないでもないが。
「正直云ってどうでもいい」
「何だと?」
顎が外れたみたいにスタンリーの口がぱかっと開く。
しかし、呆気にとられたのなんてほんの一秒で、次の瞬間にはスタンリーは猛烈な勢いで喋り出す。
「何云ってるんだ! お前は三上亮だろう!? 三上亮ならやられたら三倍返しは当たり前、他人のものは俺のもの、名刺一枚差し込めないほど心が狭いはずなのに、何故こんなにもあからさまな暴言に無関心でいられるんだ!? いつもなら魔王のような笑みを浮かべて率先して血も涙もないような陰険な報復を捻り出してるとこじゃないか!」
…………日本に里帰りした時、上司に恵まれないときはなんたらというCMを見かけたが、部下に恵まれないときはどこに電話をすればいいんだろう。
「なあ、ここ病院だしまだ時間あるし、ちょっとMRIとかCT撮ってもらってこいよ。実はお前、あの時どっか酷く打ったんじゃないか?」
「落ち着け、スタンリー。俺の身体は正常だ」
片手を挙げて制すると、漸くスタンリーの口が閉まる。
「じゃあ、何故だ?」
番犬が不審者に対して咽喉を鳴らしているような顔でこっちを見ている。そこまで怪しいか、極悪復讐鬼と化さない俺は。
魔王とまで讃えられてしまった俺は少々切ない心持で嘆息する。溜息と同時に飾り気のない本音がぽろりと口を吐いてしまった。
が無事ならそれでもういいんだ」
スタンリーが息を呑んだような気配がした。
迂闊にもそれで漸く今を口を滑り落ちたのがあまりにも魔王らしからぬ台詞だったことに気が付く。
おいおいおい、何云ってんだよ、俺。
ポエムとまでは行かないまでも、素面で口にするには十分寒いよな。
ひょっとして発言者が俺ということを加味すると寒さ倍増か?
頭というか顔が熱を帯びそうになる。
しかし、ここで赤くなったりしたら余計最悪だ。スタンリーの視線から逃れる為に、俺は平然とした顔を装ってへと顔を動かす。
「CEOとしての意見を述べるなら、そんな三流ゴシップ記事では俺に毛ほどの傷もつけられない。B2Cの企業なら多少の影響は受けるかもしれないが、ウチは今のところB2Bが売上の八十パーセント以上を占めている。良識ある連中はそんな雑誌相手にしない、つまり業務に支障が出ることはまずない。下手に騒ぎ立てたら、今度こそ売名行為だと痛くもない腹を探られるぞ。
それに、俺よりグスタフの方がその記事のおかげで不味い立場になる。ちょっと調べれば解るのは、その中でぼかされている大口契約っていうのがカタリスク相手のものだってことの方だ。カタリスクは歴史ある保守的なコングロマリットだ、新興企業の小僧ごときに売名行為の尻馬に乗った恥知らず呼ばわりされてそれを許すとは思えない。本社との取引停止だけならまだしも、最悪子会社や下請けにグスタフを締め出すように指示を出すだろう。
大口株主が何故放っておくんだとでも怒鳴り込んでこない限り、俺は今回の件で動くつもりはない」
あからさまに何かを誤魔化す為の長台詞、自分でも喋りすぎな感は否めない。
鍛えぬかれた鉄面皮を心の内で装着するとスタンリーの方を窺う。
からかうネタをゲットしたとばかりに、心底嬉しげに揶揄してくるかと予想したのに、スタンリーは笑っていなかった。
納得したのかしてないのか、微妙に眉間に皺を寄せている。
「…亮のくせに、大人になったな」
のび太のくせにみたいな云い方すんな。
キャスター付きの小テーブルを引き寄せる時、俺はわざとスタンリーの腰に角をぶつけてやった。スタンリーをうっと唸らせた武器、もとい小テーブルは見るに見かねた看護婦が好意で貸してくれた物だ。
さすがにパソコンは持ち込めなかったが、必要なものを全て紙媒体として送ってもらうことで、俺はに付き添いながらも何とかここで仕事をこなしていた。
そうやって眠り続けるの傍らで、膝の上に書類を広げてサインをしている姿を不憫に思ってくれたらしい。
「それに別に俺やお前がわざわざ頑張ってグスタフに仕返しする必要はない」
「何故だ? そりゃ確かにカタリスクはグスタフに報復するかもしれんが、それはグスタフ個人というより、奴の会社であるフォスに対してだろ。俺は奴個人を痛い目に遭わせたいんだ」
「だから、グスタフってちゃんと云っただろ。会社じゃなくて奴個人を狙い撃ちしたのがあるだろうから必要ないと云ってんだ」
「え?」
貼り付いたような笑顔を思い出して背筋が冷たくなる。
あの顔に比べれば中学時代にコエーとか思った渋沢の笑顔なんて全然余裕だと思った。書かれているのが俺だけだったら、あの人たちは怒るどころか大笑いだっただろうに。
いわばグスタフは禁忌に触れてしまったようなものだ。
夕方には戻ると云っていたが、今頃何をしているやら……。
「なあ、何故云い切れるんだ?」
「とにかくこの話はもういいって。それよりいい加減その鞄の中身を出せ」
「ああ、そうだった、これを届けに来たんだった」
スタンリーが本気で忘れてたって顔をしやがった。
こいつ、もう一発喰らわしてやろうか。
だが、テーブルの上に並べられていく書類に免じて、スタンリーに向けてキャスターを蹴りとばすのを止めてやる。
話がひと段落したところで、スタンリーは覚悟を決めたように俺に問いかけた。
「なあ……本当のこと云ってくれよ、は本当にもう心配ないんだよな? 顔色も良くなってるように思えるし、危険な状態を脱したっていうのは嘘じゃないよな?」
顔色、他の人間にもやっぱりそう見えるんだ。
自分だけの思い込みではなかったことに嬉しくなる。
「ああ、本当だよ。もう大丈夫だ」
眠っているを振り返る。
再びその手を握ってみたが、目を覚ます様子はない。一昨日まではこのまま息をしなくなるんじゃないかと怯えもしたが、今は眠り続けることに対してあまり不安はない。
「午前中と、さっきもほんの少し起きたんだ。意識もはっきりしているようだし、医者も障害とかは残らないだろうって云っていた。ただ、さっきはやたら痛い痛いって子どもみたいにぼろぼろ泣いてたけどな」
「え? が泣くの? しかも子どもみたいに? 可愛いなあ、それはちょっと見てみたい」
妙に目を輝かせて身を乗り出してきたスタンリーに、俺の顔から笑みが消え去る。
「用はすんだんだから早く帰れ」
俺が睨むとスタンリーは破顔した。
「なんだ、やっぱり心狭いんじゃないか。ああ、良かった、やっぱ亮はそうでなきゃ」
殴ってやりたかったが、良かった良かったを連発しているスタンリーのツラには悪意や嫌味は全くない。
心の狭さを純粋に喜ばれている自分自身に、俺は少なからずへこんだのだった。