Dec.25


朝、ホテルを出ようとしたところで渋沢から電話があった。
渋沢は確か開口一番大丈夫か三上、と口にした気がする。昨日になって初めて今回の事件のことを知り、慌てて連絡を寄越してくれたらしい。だが、午後には肺合併症を起こしたの再手術を控えていた俺にとって、この時はその気遣いすら疎ましく鬱陶しく感じられ、八つ当たり気味に乱暴な返答をして殆ど一歩的に電話を切ってしまった。
午後になって行われたの手術は、医者の話に依ればそれほど難しいものではないということだった。だから、安心して待っていてくださいと云われたが、そんな言葉で俺の心が休まることはなかった。
病床に伏したままのは日を追うごとに明らかに痩せて頼りなげになっていっていたし、元々白かった肌は水底に沈んだように青みを帯びるようになっていたからだ。
真之さんや咲枝さんもその青さを気にしていたが、医者に尋ねたところ外傷性気胸による酸素の欠乏の所為なので、今回の手術をすれば追々元に戻っていくから心配しなくとも大丈夫ですよと告げられた。
大丈夫です、治りますよ、医者や看護婦からのそういう言葉を聴かされる度に俺の心は容易く安易な期待に揺れ動いたが、一方で自分がに傷を負わせたことは棚に上げ、を癒すことの出来ない彼らへの不信感や憤りが自分でも御しきれない激しさで時折首を擡げるようになっていた。彼らがベストを尽くしてくれているのは解っている、解っているのだが喪失への恐怖はいとも簡単に激情へと俺を駆り立てる。
手術が終わるのを待ちながら、俺はずっと不安だった。
悪い予感ばかりが押し寄せて脳髄の奥に最悪の結末を積み上げていく。息をしているのに苦しくて仕方がない。無駄に鼓動は速度を増していてそれがまた余計に不安を増大させていく。口を覆い目を閉じて俺は隙を見せれば醜悪な呪罵を喚き散らそうとする己の体内に巣食う狂気を捩じ伏せようと戦っていた。
だが、前回のものに比べると手術は呆気ないほどの短さだった。手術室から出てきた医者は、今度こそは回復の方向へ向かうだろうと微笑んだ。
それでもまだ臆病な俺はその言葉を鵜呑みにすることは出来ず、一時間ほど経過してから漸く案内された病室でと対面し、そこで初めて手術が無事に終わったんだという認識に辿り着いた。非常に馬鹿げた話だが、案内された先には冷たくなった遺体が寝かされているのではないかと、俺はこの目ではっきりと確認するまで疑っていたのだ。
全身から力が抜けていく代わりに安堵感が身体を満たしていった。どこがどうそんなに違うのか上手く説明は出来ない、だが、確かに先程の医師の言葉通り眠るのその顔はとても穏やかになったように俺の目に映った。
面会時間ぎりぎりまでに付き添い、どうせ同じホテルなのだから一緒に乗って行けという二人の誘いを断り、俺は歩いてホテルへと戻った。
吐き出す息は真っ白で、頬を撫でる風は冷たかったが全くと云っていいほど寒さは感じなかった。煙草を買う為に財布を出した時、ふとそういえば医者に出された薬を今日は飲み忘れたことを思い出した。必ずするようにと釘を刺された消毒もしていない。
一瞬足早になりかけたが、俺は結局歩き煙草のだらだらとした歩調を変えることはなかった。雲ひとつない夜空は綺麗だったし、今更急いだところでたかが数分の差だ、大して意味があるとも思えない。
悠々と部屋に戻ってルームサービスを頼み、薬を飲んだところで再び渋沢から電話がかかってきた。
俺は朝の非礼を詫びたのだが、渋沢は別に気にしてない、俺のタイミングが悪かったんだと本当に何でもないことのようにさらりと謝罪を受け流した。こんなふうに他人の後ろめたさを上手に取り除いてやるなんてこと、俺には死んでも真似出来そうにない。
それから渋沢はの容態や俺の体調について質問したが、俺は自分でも驚くほど素直に問われたことに答えていた。あからさまに興味本位と知れる知人や記者からの電話と違って、渋沢は撃たれた状況や犯人については一切触れようとしなかった所為もあるかもしれないし、あの押し付けがましいところのない深みのある声音の所為かもしれなかった。
十分近く話してから、徐に渋沢は真面目腐った声で「何か俺に出来ることはないか」と云った。
思わず俺は笑ってしまったが、多分それは咄嗟の照れ隠しだったのだろう。今となっては思い出すのも恥ずかしいようなクソ生意気なガキだった頃の記憶を共有しているような悪友に、冗談やからかい抜きでそんな台詞を口にされてしまって俺は狼狽えたのだ。
俺は笑いながらもう大丈夫だと云い、それで電話を切った。
上着を脱いで腹の傷を消毒しながら、そういえば今の『大丈夫』には嘘がなかったことに気付く。
レイやスタン、教授やアズールからの電話に俺は大丈夫だと云い続けていた。既に多大な迷惑をかけているというのに、実情を語ることでさらなる心労を背負わせたくなかったというのが表向きの理由だが、本当はただ単に俺自身が真実を直視出来なかっただけだ。俺は誰に何を訊かれても最後には『でも大丈夫だ』と付け加え、そうやって嘘でも何でもは大丈夫だと自分に云い聞かせることで忍び寄る恐怖を追い払おうとしていた。
けれど、ついさっきの渋沢に対しての大丈夫は意図的に言葉を選んだ結果ではなく、ごく自然に吐き出されたものだった。
肌寒さを覚えたところで我に返り、俺は薬を塗ってガーゼを当てて元通り上着を羽織った。
俺はカウンターからミニボトルを取り出すと、一週間ぶりに酒を口にした。
薬を飲んだばかりだということが頭を過ぎったが、まあいいかと飲酒を止める気は起きない。ここ数日と比べると気味が悪いぐらいに楽観的な気分で俺は窓の向こうの夜景を見ながらグラスを傾け続ける。
高が数日の間に、俺は自らの欲深さや利己心をまざまざと思い知らされた。
命が助かっただけでそれだけでもう何もいらないとすら一週間前のあの時は思ったのに、この数日俺はが死ぬことだけでなく植物状態になることも危惧していた。生命が在ったとしても心が伴わずただ眠り続けるは嫌だった。
単に呼吸するだけではなく、元のように俺を見て名前を呼んで欲しい。
ちゃんと生きて笑って欲しい。
一週間前までは当たり前だったことを俺は切望していた。
けれどはきっともう『大丈夫』だ。
今度こそ回復に向かう。俺の名を呼ぶようになるし、俺を見て笑う日はいずれ訪れる。生と死で断絶されかけていた俺たちの関係は修復された。
まったく、人でも神でも万物に感謝ってとこだ。ああ、そういえばどうでもいいけどメリー・クリスマス。おかげ様で手術が成功したから俺は今幸福に湧く世界中の人間に呪いを吹きかけずにすみそうだ。
夜景に向かって俺は一人寂しくグラスを掲げてみる。ぼんやりと煌びやかな光の海を見詰めていると、ふと口を衝いて出た言葉があった。
「…ありがとう」
誰も居ない部屋でのほんの小さな呟きは僅かに空気を震わせただけだった。
何に対して礼を云ったのかは俺自身にも良く解らない。
ただ何となくそういう気分だったのだろう。それとも単に酔っていたのかもしれない。
俺はグラスを手にしたまま、いつのまにか眠りに落ちていた。