ドアを開けた途端に冷たい風が頬を撫でていく。
片目を眇めつつ狭い中庭に視線を巡らせてみると、木々の隙間から覗く人影はまばらだった。ピンクのガウンを羽織った車椅子の背中を見つけると短い階段を下りる。足を進める度に靴の下でかさかさと物悲しい音を立てて枯葉が崩れていく。
車を押してやっていた看護婦が俺に気付いたが、は空の方を向いたままだった。

右斜めの位置に回って声をかけると、夢から覚めたみたいにがぱっと俺を見る。
「パパ」
はきらきらと純粋な笑顔を浮かべた。嬉しくて仕方ないとその表情が物語っている。身を乗り出しすぎてまた車椅子から転げ落ちたりしないよう、俺は伸ばされた腕に向かって身体を差し出した。
「おかえりなさい、パパ」
弱々しい腕がそれでも精一杯俺の首に絡みつく。艶の失せた髪を撫でてやり、その頬に口付ける。
「ああ、ただいま、。ちゃんといい子にしてたか?」
は「うん」と頷いた。俺は「そうか」と優しい父親ぶって頭を撫でてやる。
看護婦に目線で合図すると、彼女は軽く会釈して俺が出てきたばかりのドアの方へと歩き去る。葉の砕ける音が盛大に鳴ったが、は一生懸命俺を見上げているばかりでやはり周囲のことには無頓着な様子だった。
「あのね、サキエがイチゴくれたの、一緒にたべよう、パパが戻ってくるまで待ってたの」
「そっか、ありがとな」
「あと、デボラがね、プロットにお洋服作ってくれたの、デボラすごい上手なの、すごいかわいいの」
が俺のコートの袖を握って拙い口調でどれだけデボラの作ってくれた熊の衣装とやらが素晴らしいかを云い募る。俺は微笑を頬に張り付かせて黙って話を聴いていた。
俺や真之さんだけじゃない、カールビンセントのじいさんやフィッシャー教授、アズールやアルベルトまでもが東西奔走して何とかをもとに戻そうと尽力してくれたが、年を越してもは依然としてこの状態だった。
日本語と英語はもちろん、仏語も日常会話程度なら不自由しないくらい堪能だったのに、今のは簡単な英語しか話さない。幸い日常生活を送る為の最低限の知識は抜け落ちていなかったが、実の父母を始めとして人物の方は俺以外全滅だった。俺以外は誰のことも覚えていない。もっとも俺のことも父と誤認をしているのだが。
「こんどはね、別のお洋服も作ってくれるんだって」
俺を前にするとこうやってよく喋るのだが、俺がいないときはさっき空を眺めていたみたいにぼんやりしていることが多いらしい。声をかけても無反応だったり、食事をしていても糸が切れたように突然眠ってしまったりすることもあるそうだ。
俺にだけ顕著に反応し執着を示しているのだから、俺が出来るだけ傍にいて根気強く話しかけてやるしか現時点では記憶を回復させる為の有用な方策がないと医者に云われた。
「良かったな。あとで、パパにも見せてくれ」
「うん、みせてあげる」
が嬉しそうに笑う。
俺は自分がちゃんと笑えているのか急に不安になった。右手の傷が疼く。がこうなってしまったあの日以来、ふとどうしようもなくなる瞬間があり、俺は愚かな行為だと解っていながら壁を殴りつけるのを止められないでいる。レイやスタンから何度説教を喰らおうと本当に自分でもどうにもならないのだ。酷く暴力的な衝動が全身に充満してしまって、そうすることで少しでも発散させないと気が狂いそうになる。
それに自分を傷つけでもしていないと、俺はを害してしまいそうで恐かった。
をこんなふうにした自分も許せないが、こんなふうになってしまったも俺は心のどこかで憎んでいる。
俺は楯になれなどとこいつに頼んだ覚えはない。
一緒に戦えと云ったことはあっても、俺はこいつに護って欲しいなんて口にしたことは一度もない。
何故あんな馬鹿な真似をしたと首を締め上げて罵声を浴びせてやりたいのをこうしてに会いにくる度に最近いつも我慢している。
「パパ、パパ、よるのご飯いっしょできる? 、いっしょがいいの、パパといっしょがいい」
俺はガキなんて嫌いなのに、がガキそのものの開けっぴろげな好意を浮かべた表情で俺を見上げてくる。
「ああ。一緒に食べよう」
肉感的な色気には欠けていたが、は妙な色香を具えた女だった。わざと睨んできたときの目線とか、甘えてくるときの声とか、俺はこいつの前じゃいつだって平然としたツラを装っていたが本当はこの女のそういう仕草が好きで好きで仕方なかった。
なのに、それがこのザマだ。
目の前の女はもう俺の知っている女ではないのかもしれない。
それともやはり螺子が切れるまで動き回れる身体がこの世に存在する限りそれがなのか。
生まれたときにと名付けられた肉体であれば中身がいくら変質しようとそれがなのか。
俺がだと思っていたものの正体はいったい何だったのだろう。
さっきからと同じところとと違うところを探している。
向けられた瞳の中に今も在る愛情を見つけても、記憶の中に在るとの差異に落胆するだけなのに。もう何度も繰り返したことをまた反復して、俺はいったい何を確認したいのだろう。もう決めたはずだ。

俺はの手を取ると、コートのポケットから取り出した指輪をその薬指に嵌めた。
「これ、なぁに」
不思議そうにが自分の手を持ち上げる。こびりついた血は洗浄させたものの、結局サイズはいじらなかった指輪は今のには大きくて、指の中心にまっすぐ乗らずに石の重みで斜めに傾いでしまう。
「きれい…」
それを気にするでもなく、は太陽に石を透かしてみせる。
数ヶ月間身に着けていた指輪なのに、まるで初めてその目に映したように眺める姿に俺はまた苛立ちを覚えた。
俺はちゃんとこれを送った夜のことを覚えている。我ながら最低のプロポーズだったがそれだけに忘れられるわけがなかった。だってそうに違いなかったはずなのに、けれど現実にはあの夜の俺の言葉なんて灰のように呆気なく消えてしまった。
価値も解らないくせにじっと石を見詰めるその顎を掴むと、俺は身を屈めて触れるだけの口付けを落とした。
「それは未来を分かち合うことを誓った印だ」
告げられた言葉の意味が解らなかったのか、がきょとんと俺を見返す。
俺は堪らなくなって強引にその身体を自分の方へと引き寄せた。
「パパ、いたいよ」
そう云われて、俺はその身体をますます強く抱き締めた。
どれほど憎くても俺の為に命をかけたこの女を俺は生涯傍に置こう。だが、そうするのは医者に云われたからじゃない。責任感でもない。
こいつが俺だけを求めているように、俺にもこいつが必要なのだ。
「パパ…いたい」
「ああ。ごめんな」
俺は息を吐くと腕の力を緩めた。
この女が俺を恋人ではなく父と呼ぶのなら俺は望み通り父として振る舞おう。
幼稚な言動を目にする度に寂寥感が胸を塞ぐし、気が触れそうなくらいの苛立ちと呵責を覚える。を手元に置くことで責任を果たしているような自己満足が得られるかもしれないが、それ以上に常に傷口を抉られ続けるような毎日を送ることになるだろう。
それでも。
肩口に埋めていた顔を上げると愛しさを込めてもう一度口付ける。
額を合わせると、俺はにも理解出来る言葉を選び囁いた。
「…パパと一緒に暮らそう、