Dec.21


は良く眠っている。
手術から丸一日経過した今日になっても殆ど目を覚ますことはなかった。点滴の中に入っている鎮静剤の所為なのかもしれないし、それとも大量の血液を失って消耗した肉体が強制的に休息を促している所為なのかもしれない。
だが、どちらにせよ昨夜の目は俺を捉えた。確かに俺を見た。
今は例え閉じられていても、いずれまたその目蓋は開く。
マスカラのない睫毛はずいぶんとやわらかそうだ。
化粧をしていないはガキ臭く見える。徹夜仕事になる度に他の連中から見えないところで肌が荒れるじゃない、どうしてくれんのよ、とかって本気でキレそうな顔して俺にパンチしてきやがったけど、別に化粧がなくたって汚くなんかねえじゃん。
こんなまじまじと観察したことが発覚したらそれこそマジギレしてボコられそうだけど。
握っているの手はやけに白くて血管が透けて見えるし、手術の際に外されちまったから俺がやった指輪はその指に今はない。なのにスッピンの顔や血の気の失せた指とは不釣合いに爪だけは綺麗に着飾ったままでいる。
その爪だけが酷く異質だ。
その口元には酸素マスクがあって、その頭上には心電図があって、その腕には点滴の針が刺さってて、は集中治療室のベッドに寝かされているというのに、その爪だけは一昨日のパーティの名残を引き摺ってきらびやかなままだ。
しばらくその長い爪を眺めた後、俺は身体を倒して自分の頬をの手の甲に押し当ててみる。
さっきからずっと握っていた所為で俺の体温が移ってしまったその手は温かい。本当はもっと冷たいはずだ、最初にさわった時は氷のようだった。
何となく俺はそのまま目を閉じた。
ベッドの足元の方を通り過ぎる足音が聴こえる。すぐ向こうにゃナースセンターだし、明らかに人目があるのに恥ずかしげもなく平然とこんなふうに女の手に縋ってられる自分は我ながらどうかしてるとしか云い様がない。
みっともねえなって蔑むように嗤う自分は確かにいるのだが、いつもなら俺の行動を最も大きく左右する理性的でシニカルなそいつらの言葉はどうでもよく聴こえる。
情けねえことに今俺の頭の中はお花畑もいいとこだ。
まだ経過を見守る必要があるとか云われたが、それでもこいつは生きている。
君が生きているだけで僕は幸せなんだ、なんてのは自分に酔った勘違い野郎の口にする台詞だと馬鹿にしてたのに、それはこんなにも真実だった。
君と目が合うだけで僕は天にも昇る心地がする、なんて正気の人間が口にする台詞じゃねぇだろって嘲笑してたのに、どうやら俺にはもう笑う資格はないらしい。
畜生。
次にが目を覚ましたなら絶対両方囁いてやる、嫌がらせに。
しかも今日だけじゃなく、今後は毎日毎晩その手の台詞を呟きまくってやる。そんな鳥肌が立つぐらいダサくてクサい台詞、あいつだって最悪だって思ってるに違いないからな。
そうだ、どうせならどんだけ暇だろうと死んでも読みたくねえって思ってた女を口説くハウツー本とか世界の口説き文句集とか身の毛のよだつ本を買ってきて、それを連日連夜忠実に再現してやろう。君の瞳に乾杯、とか最早死語とかそういうレベルを超越した破壊力を持つキモイ台詞を吐きまくってやる。
俺はその時が浮かべるであろう最高に嫌そうな顔を想像して、本気で可笑しくて危うく声に出して笑っちまうところだった。
それを誤魔化そうと目を開けて身を起こすと、俺は再びの手を取る。
すぐそこにあるの身体は一歩間違えれば物云わぬ骸と成り果てていた。そうならなかったことへの感謝や安堵や歓喜が今はただ胸の中で渦を巻いて荒れ狂っている。
そこにという心を残してそこにの身体が確かに存在することが俺には魔法のような奇跡のように思える。
……って、おい、魔法のような奇跡って。
オイオイ、ヤバクねえか、俺? 何素で語ってんだ、ポエマーか、俺?
くそ、本当にお花畑だ、俺の頭の中は。その上花弁が舞うその頭上で天使がラッパを吹き鳴らしまくってる、って感じだ。
俺は溜息を吐く。いくらなんでも浮かれすぎだろ、馬鹿じゃねえの、俺。
まだどうなるか解らないんだから、と己に云い聞かせる。
それなのに、今回ばかりはこれまで絶大なコントロールを誇ってきたはずの慎重派ペシミスト連中がいくら諫めたって聞く耳持たないって感じで、隙を見せるといったい今までどこに隠れてたんだかエキセントリックポエマーな俺がそりゃあもうこっそり墓場まで持ってくしかないような気色悪い台詞を脳内で垂れ流しにしてきやがるわけで。
その度に俺は我に返って自主ツッコミをしたり、つい一人笑いをしそうになったり、本当に散々だった。
畜生、頭の螺子が緩みまくりだ。イカレてる、最悪だ。はっきり云ってこれが自分じゃなかったら思いっきり罵ってるところだ、テメエ気持ちワリィんだよって。
それでも…焦燥に胸を焼かれて絶望さえ臨んだ昨夜を思うと俺はどうしようもなく幸せな気分を押し殺すことは出来なかった。この先の未来にもちゃんとが俺の隣にいるんだと思うと…って、だからポエムを詠むなっつーの、俺……。