Dec.20


コツコツという靴音が俺の左側から近付いてくる。
だが俺は組んだ指に額を押し付けたまま顔を上げようとはしなかった。
手術室は右側にある。
左手から誰が来ようが俺には関係ない。俺が待っているのは右手の手術室の中に居る医者の言葉だ。無事に終わりました、ってその言葉だけが今俺が望む全てだ。
それ以外のことはどうだっていい。
「小僧」
その嗄れた声音に俺は半ば仕方なしに首を擡げた。この国でこの俺をそんなふうに呼ぶ人間は一人しかいない。エルセルバート・F・カールビンセント老だけだ。
「…さっきはどうも」
目が合うとあからさまに顔を顰めてみせた爺様に俺は笑ってみせた。けれど身体のどこかが捩れているような気持ちの悪さが付きまとっていてまともに笑えたかは定かじゃない。
「わざわざご足労すみません。見ての通りまだ手術中です」
カールビンセントの爺様相手に座ったままでいることは無礼だなと思いはしたが、立ち上がる気力はなかった。顔を上げるだけでも頭が酷く重く感じる。
これ以上喋りたくもないので、俺は視線を自分の手元に戻す。額を乗せる為に無意識に組んだはずの指はよく見ると祈る形をしていた。
滑稽だ。
普段は無神論者を標榜しているくせにこんな時だけ祈るというのか? 俺が神ならそんなふざけた奴の頼みなんかどれだけ暇でも聴き入れてやらないだろう。
指を解く俺の頭上で鼻を鳴らすと、爺様は俺の顔の横に紙袋を突き出す。
俺は億劫でしかたなかったが、それでも胡乱に顔を上げた。
「何ですか、それは?」
爺様は相変わらず顰めっツラで俺を見下ろしている。
「着替えじゃ。向こうにトイレがあるから着替えてこい、いつまでそんなナリをしているつもりだ」
を乗せた救急車に同乗した俺と違って、よく見ると爺様はさっきの礼服を既に着替えて身奇麗な姿をしている。
爺様のその清潔なシャツと紙袋を数秒見詰めて、俺は首を振った。
「結構です、ここを離れたくないので」
そう云って再び手元に視線を戻そうとした俺の左手をいきなり爺様は掴む。相変わらずジジイとは思えぬ馬鹿力だった。
の血で赤く染まったその手を俺の眼前に突きつけながら、苛立たしげな口調で爺様は吐き捨てる。
「貴様のおかげで廊下に血の臭いが充満していて堪らん。いいからさっさと着替えて来い」
放り投げるように俺の手を解放すると爺様は短く溜息を吐き、それから少しだけ目元を和らげて俺を見た。
「…小僧が苦しいのはそれぐらいわしだって解っとる。だが、もうちょっとしゃんとせんか、普段あれだけふてぶてしいくせに情けない。もし貴様がトイレに篭ってる最中に手術が終わったら、わしがすぐさま走って迎えに行ってやるからとっととその顔を洗ってこい」
爺様は俺の膝の上に無理矢理紙袋を乗せて、自分はどかりと俺の隣に腰を降ろす。それでも俺がまだ座ったままでいると、じろりと横目で俺を睨んだ。
「速くせい、小僧」
ぐずぐずしているとまた怒鳴られそうで、俺はやむを得ず立ち上がる。
後ろ髪を引かれる思いで爺様がやってきた方に向かう。T字路に差し掛かったので、とりあえず右方向を確認してみると奥にトイレの標識が見える。歩きながら紙袋を開けてみるとジーンズとシャツ、それにタオルが入っていた。
ドアを押し開けたが、誰も居ないトイレは電気が消えている。
明かりを点け、まずは手を洗おうと洗面台に近付いた俺は何気なく鏡を覗いて瞠目した。
……爺様が俺を見て顔を顰めたはずだ。
顎の一部を除いて俺の額や頬は血塗れだった。
首から胸にかけても同様の有様で、いっそ笑っちまうぐらい赤い。
改めて両手を見てみる。こっちも顔同様真っ赤だ。既にペンキのように固まって、ところどころ赤というよりは暗褐色の斑模様を描いている。
爺様の台詞の『そんなナリ』を俺は単に礼服のことだと勘違いしていたが、アレは悪鬼のようなこの姿のことを指していたのだろう。俺はもう何も感じないが、これでは確かに鉄錆びた臭気を辺りに撒き散らしていたかもしれない。
カランを捻る為に指を曲げると、その動きだけで凝固したものがさらに粉末状になってぱらぱらとボウルに散っていく。
一瞬洗い流すことに妙な逡巡を感じたが、結局俺は溢れ出る水の下に手を差し出した。
置いてあった石鹸を使ったが、一回洗っただけでは到底落ちない。力を入れて擦ってみたが、三回洗ってもそれでもまだ爪の隙間に赤いものは残っていたし、薄っすらと手全体が朱に染まっている感じだった。
それ以上は諦めて顔の方を落としにかかる。どうせ三回洗っても完全には落ちないだろうと最初から諦観の念を抱きつつ、ふと水を掬いながらどうもやりにくさを覚えた。
俺は水を止めた。
ジャケットなんか着ていたら洗い難いのは当然じゃないか。
額に落ちてきた髪を掻き揚げ、俺は己の馬鹿さ加減に息を吐き出す。
上着を脱いで空いている隣のボウルに放り込む。タイを外して、ドレスシャツのボタンを外していく。その途中、腕の時計に目が止まる。
そういえば今は何時だ?
だが、文字盤にまで血液は付着しており、肝心の時刻を判別出来なくさせている。再度カランを開くと、俺は腕ごと時計を水に晒して爪でこそげ落とすように凝固した血の塊を削った。
大体落ちたところで腕を振って水を払う。
洗浄過程で気付いたのだが、手首の周りにもまだ血が付着しており、改めて俺は自分の手際の悪さを思い知らされた。先に上に着ているものを全部脱いでしまってから顔でも何でも洗うべきだった。
時刻は深夜二時半に指しかかろうとしている。
狙撃されたあの総電源を入れる瞬間、予定ではそれはちょうど零時のはずだった。救急車に乗ってからこの病院まではそう時間は掛からなかったし、少なくともの手術が開始されてから一時間以上経過していることになる。
俺は数秒意味もなく時計を眺めて、不意に胸苦しさを覚えて大きく息を吸い込んだ。
時計を外すとそれも隣のボウルに投げ込む。中途半端に寛げられた状態だったボタンを外し、シャツを脱いだところで突然右の脇腹に痛みが走った。
何だと思って目を向けると、直線にして五センチほど肉が抉れている。その傷の上で瘡蓋のように凝り固まっていた血液の一部が剥がれ、そこから新たな血が溢れ始めていた。
こんな傷を負った覚えはない、そう思った矢先、脳裏を過ぎった考えに俺は左手に握ったままだったシャツを慌てて持ち上げた。
想像通りだった。
の血で前身ごろの殆どを朱に染めたシャツは腹と同じ場所が裂けている。
「畜生…」
俺は洗面台に両手を突くと強く目を閉じた。
何故だ。何故、あいつは俺を庇ったりしたんだ。
おかげで俺はこの程度ですんで、あいつは今生死の境を彷徨っている。
馬鹿じゃないのか、あの女は。
「畜生…ちくしょう……」
手術はあとどれぐらいかかるのだろう。
医学的知識に乏しい俺にはその予測も立てられなければ、果たしての状態がどうなのか手術の難度がどうなのか何もかもが解らない。
無事に終わりましたというその一言を恵んでもらえるなら俺は何だってする。
金が必要ならいくらだって払ってやる。高価な薬でも最高の医者でも必要なら用意してやる、それでが助かるのなら俺は全財産を失っても惜しくない。
もし、の手術が無事に済んでアイツがちゃんと生きているなら、俺は教会でも何でも建ててやる。それとも代償が必要なら明日にでも俺の脚でも命でも持ってけばいい。
どっかの誰かが死ぬことであいつが助かるって云うなら頼むからそいつは死んでくれ。何様だと詰られようが人でなしだと誹られようが、見ず知らずの誰かとあの女一人の命は俺にとって比べるまでもないものだ。
世界中の誰でもいいから。存在するんだか解らない神でも何でもいいから。
奪わないでくれ。殺さないでくれ。消さないでくれ。死なせないでくれ。
「……助けてくれ…」
口にすることでより一層無力感が胸を塞いだ。
腹の傷は不思議なことに少しも痛まない。なのに、無傷のはずの胸はどうしようもないほどの息苦しさを俺に訴え続けていた。



トイレを出て来た道を戻り、T字路を左に折れたところで俺は驚いて脚を止めた。
「アキラ!」
いち早く俺を発見したレイが声を上げる。
レイだけじゃない、スタンリーとデボラ、それにフィッシャー教授までいた。
「アキラ、は大丈夫だよ、銃で撃たれたってその後ぴんぴん生きてる人間なんかいっぱいいるんだから!」
駆け寄ってきたレイは何故か泣いていた。どう見ても寝巻きみたいなスウェットの上下を着ている。
思わず唖然として立ち竦んだ俺の肩をスタンリーが労わるように抱き寄せた。涙目のデボラも無理矢理笑ったような顔をして「はきっと大丈夫よ」と口にする。
「アキラ」
フィッシャー教授がいつもみたいに穏やかに笑いながら俺の横に並ぶ。
「先生…」
何でここに、と問う前に教授の手が伸びてきて俺の頭をくしゃりと撫でた。
くんのご両親には僕から連絡しておいたから。今、学会があってイスラエルの方に居るらしいんだけど、何とか明日には戻るようにするって云ってたよ」
フィッシャー教授にそう云われて初めて、俺はこんな時なのにの両親に何の連絡も取ろうとしていなかったことに気が付いた。
それだけじゃない、長椅子に腰掛けたままこっちを見ているカールビンセントの爺様に目を向けてみる。
フィッシャー教授たちに連絡してくれたのはおそらく爺様と断定して間違いない。着替えを用意してくれたのも、取り乱した俺の代わりにの応急処置をしてくれたのも爺様だ。
それなのに、俺はまだ一言もまともに礼を云ってない。
俺は急激に自分が恥ずかしくなってきて口元に手をやった。
レイが袖でごしごしと顔を拭いながら空いてる方の手で俺のシャツを掴む。
「大丈夫だよ、絶対。弾は貫通してるそうじゃないか、だったら全然余裕だよ」
そう口にしているのにレイの目からはひっきりなしに涙がボロボロ零れてくる。そのアンバランスさが可笑しくて、俺はつい笑ってしまった。
笑ったつもりだった。
「…ああ…大丈夫に決まってる、あいつがそう簡単にくたばるわけがない…」
下ろしかけていた右手で今度は口ではなく目を覆った俺をフィッシャー教授が自分の肩へと引き寄せた。



の手術が終わったのは明け方近くになってからだった。
手術は成功した。