Dec.19


名を呼ばれた気がする、あの瞬間。

それともそれはそれを望む俺によって都合よく改竄された記憶だろうか。
だが、俺は叩きつけるようなピンヒールの靴音を耳にするより先に振り返ったはずだ。俺の立つ場所からほんの一メートルほど奥の舞台の袖、そこから今まさに駆け寄ろうとするの姿はあの日から俺の網膜に焼き付いている。だから、やはり俺はに名を呼ばれてそれで振り返ったんだろう。
走り寄るその姿に何考えてんだって思っただけで、俺は何故がそんなにも必死な目をしていたのか見透かしてやれなかった。
愚かにも俺は条件反射的においと咎める為の台詞を口に乗せようとしただけだった。いや、これも実際に俺は口にしていたのかもしれない。
ただ掻き消されただけで。
どこかで聴いたことがある音に。
自分の身体を投げ出すように俺に抱きついた
頭の中で勝手に音の正体が検索される。聴いたことがある音だった。俺はやレイと起業する前四年ほど正規従業員としてある大企業に勤めた。その間、技術屋としての俺を上司は自らの出世の為に家畜のように働かせやがって今思えばあの頃が俺の人生で最もストレスに苦しめられた時期だった。その反動か頻繁に通った場所がある。射撃場だ。日本じゃ手にすることは叶わない本物の拳銃。人を殺すことが可能な武器が自分の手に在る、何か特別な力を得たようなガキ臭い錯覚は束の間俺をいい気分にさせたものだ。
ばしゃっと生暖かいものが顔に掛かった。
俺の腕は当たり前のようにを抱き留める。
けれど、の腕は俺の首に回されはしなかった。


  EXTRA EROTIC


俺は俺の腕の中でずるずると崩れ落ちていくと一緒に床に膝をついていた。
俺が右手で肩を抱くようにしているの首は力なく後方に仰け反っている。左手で頭を支え、その顔を覗き込む。
の目は閉じられていた。
唇は少し開いていた。
頬に赤いものが付いていた。俺はそれを拭いてやろうと指を伸ばした。なのに益々赤いものが広がった。俺が拭えば拭うほどそれはの頬を汚した。
何故だ。
俺は苛立って自分の左手を見た。
赤かった。赤というよりは黒に近いぐらい深い赤。粘性を帯びたその液体は俺の指紋を埋め爪の隙間にまで入り込んでいる。
俺が再びの顔に視線を戻そうとした瞬間視界がブレた。
いきなり腕を掴まれて俺は掴んだ相手を睨んだ。
「馬鹿か小僧」
けど相手は鬼みてぇな形相で俺を睥睨して俺より先に罵倒してきやがった。
カールビンセントの爺様はそのままジジイとは思えない力で俺を引き摺っていこうとする。
「おい、ちょっと」
待てよと云う前にいきなり横っ面を殴られた。
「貴様が死ぬのは勝手じゃがその娘を道連れにすることは許さんぞ」
何を云ってんだ、と問おうとして一気に耳に音が戻った。
鼓膜に突き刺さる大声に俺はびくりと肩を揺らした。
何故今の今までその喧騒に無関心でいられたのか不思議で仕方ない。
音源に目を向けて、つまり、俺の居る壇上から高が一メートル下のさっきまでは優雅なパーティー会場だった場所で展開されている光景にさらに驚かされる。
これが本能だとでもいうのか、悲鳴や怒声を上げ出口を求めて蠢く人間どもの余りの凄まじさに俺は思わず目を奪われた。
「速くせんか!」
また殴られた俺はを抱えて中腰の姿勢で爺様の後に続く。
袖に引っ込むと爺様はを下ろせと俺を急かした。
爺様はまるで本当の医者みたいだった。はまるで人形みたいに動かない。
聴こえてくる悲鳴は鳴り止まない。だが、こうして逃げ惑う人々の姿が見えなくなってしまえば、その声はスタジアムで耳にする歓声と大差ないように思えてきた。
俺と同じような黒いフォーマルジャケットを脱ぎかけていた爺様が突然そこに突っ立ったままだった俺を振り仰いで声を荒げた。
「電話ぐらいしろ!」
怒鳴られてばかりだ。俺はポケットに手を突っ込んだ。大体電話ってどこに、ああそっか救急車か。けどいくら探っても指は何も掴まない。ポケットの中に携帯はなかった。
「貴様はこれを抑えとけ、電話はわしがする!」
今にも憤死しそうな表情をした爺様にまた怒鳴られる。俺は云われた通りに膝をつき、爺様がやっていたようにジャケットでの腹を押さえた。
抑えると同時に何か鈍い音がした。
「こ、の…馬鹿者がぁ!」
背中に衝撃。よろめいた俺を押し退けて携帯片手に爺様が再びの脇に座り込む。
ばたばたと足音が奥から聴こえてくる。そういえばさっきまでは煩かった会場の方も今はもう静かになっていた。ほんの二分前の馬鹿騒ぎは何だったんだってぐらいの呆気なさ。結局銃声は一発だけだった。
近付いてきた人間たちがと爺様の周囲に次々と群がる。
それを視界に収めながら俺の頭は鈍重に思考する。
ああ、さっきの衝撃は爺様に蹴られたんだ、って思った。
ああ、さっきの音は、音は

俺は両手で顔を覆った。
さっきの鈍い音は肋骨の折れた音で間違いない。おそらく弾丸によってヒビが入っていたか何かしらの損傷を受けていた骨が俺が力任せに抑えたばかりに折れた。
は……このまま死ぬのだろうか。
撃たれた。血が大量に流れた。俺が骨を折った。
何故だ。
何故が。
どうして。
なんでだ。

俺は床に座り込んだまま血で濡れた手のひらで目を覆い未だ鳴らないサイレンを待った。