Dec.22


昨日の夕方、の両親は病院に着くなりまず俺に向かって頭を下げ、そして「娘が世話をかけました」と詫びた。
久しく忘れていたその日本的な感覚に俺は軽い困惑を覚え、同時に酷く居た堪れない気分に襲われた。
がこんなことになった根本の原因は俺に在る。俺を庇った所為でが血を流す破目に陥ったのだ、現状を鑑みれば頭を下げるべきはどう考えてもこの人たちではなく俺であるべきだろう。それなのに、先制されてしまったことで俺は狼狽え、凡庸で愚鈍な返答と謝罪を口にするのがやっとだった。
長旅と心労で倦み疲れた二人の横顔に俺の罪悪感はますます膨れていく。
俺が浮かれた気分でいられたのも精々昨日の午前中までだった。午後の診察を終え、医者から告げられた内容に俺の胸は冷えた。
の容態ははっきり云って思わしくない。


「あら、亮君」
咲枝さんが偶々当たってしまった俺の手を見つめて小首を傾げた。ほどのガキがいるんだからこの人もウチのお袋と同じぐらいの、それなりに結構いい年をしているはずなのに未だにどこか少女染みた空気を漂わせている。
「何だかずいぶんと手があっついわよ? 大丈夫?」
「どれ」
背後からいきなり首に手を回されて俺は危うく肘を振るうところだった。この人のことだから万が一にも喰らうことはないだろうが、当たらなかったとしてもそんな真似をした時点で一生イビられることは確実なように思える。
「何でもありません、平気ですよ」
「熱があるな」
素早くその手を振り払い、せっかく余裕を装った笑顔を浮かべたというのに真之さんに一刀両断される。
熱なんてありませんよ、勘違いじゃないですか、と言葉を重ねかけて俺は抵抗を諦めた。そんなことを口にしたら最後、余計藪蛇になることが目に見えていたからだ。
フィッシャー教授の自宅で開かれた三年前のクリスマスパーティ、真之氏は上品で魅力的な笑顔を浮かべながら『ウチの娘泣かしたらぶっ殺すぞコラ』と初対面の娘の恋人にカマしてくるような強烈な個性の持ち主だった。俺はその時何故畑違いにも係わらず二人の突出した頭脳が友好関係にあるのかを問答無用に悟ったわけだが、そんな人間相手に嘘を重ねるのはまさしく無駄な抵抗というものだろう。
「あらやだ本当に? あ、すみません」
「本当に大丈夫ですから、座ってください」
立ち上がって慌てて看護婦を呼び止めようとする咲枝さんを俺は笑顔で無理矢理黙らせる。でも、とさらに云い募ろうとする咲枝さんを封じる為に、適当な理由を口にしようとしたところで突然シャツの襟首が締まった。
「ちょ…っ!」
「お前は座ってなさい、彼は私が連れてくからを見てておやり」
真之さんが猫の子のように俺をナースセンターの方に引き摺っていく。
畜生、これが他の奴だったら速攻でマジ蹴り入れてるところだが、この人相手じゃそうすることも出来ない。手出し出来ないことに腹を立てながらも俺はふとこの状況に既視感を抱いた。
特に意識せずとも自動的に掘り起こされた遠い記憶の中の俺は黒いユニフォームを着ていて、右腕で今や世界的有名人となったエースストライカーを引き摺っていた。……やべえ、今頃になってあのアホと同列の扱いを受けてるのかよ、俺…。
屈辱に脱力した俺の襟首を掴んだまま、流麗な英語で看護婦に事情を説明してからやっと真之さんは俺を解放した。
厭味ったらしく俺が襟周りを整えていると、じろりとその目を向けてくる。真之さんはこの年代の人にしては背が高く、俺と視線の高さはそう変わらない。
「君、煙草は?」
「止めてませんが」
教授やにも散々止めろ止めろ云われていたが、今のところ俺に止めるつもりはない。あんまり煩いので気さえ向けば何度か禁煙したことはあるが、結局仕事が忙しくなる度に呆気なく紫煙は俺の日常の一部へと逆戻りしてくる。
「そう。まあ、それはひとまず置いておこうか。ところで、ムカついてしょうがないことも事実だが、私は君のことが嫌いではないよ」
説教か、と身構えた俺に真之さんはある意味説教より恐ろしげな台詞を吐いた。
急に何を云い出すんだこのオッサンは、と思わず怪訝な顔をしてしまった俺からの眠るベッドへとごく自然に視線を移しつつ真之さんは続ける。
「能力に関してはロバートのお墨付きだ、君はそれを活かす術も心得ている。この先ウチの大事な一人娘をド貧乏な生活苦に引きずり込むことはないだろう。容姿に関しても文句は云うまい、タレ目なのが気になるっちゃあ気になるが、と君の子ならどっちに転んでもまあ美形なガキが産まれるはずだ。性格に関しては生意気だし問題点も多いが、がそれでいいっていうのなら仕方ないわな」
さっぱり何を伝えたいのか読めない。おまけに褒められてるのか貶されてるのか微妙な内容だ。
意図を掴みきれないながらとりあえず黙って耳を傾けていると、真之さんは息を吐き出しながらもう一度「仕方がないんだ」という台詞を口にした。
「…仕方ないんだよ、が自分で選んだんだから。君は昨日からずっと責められたそうな顔をしているけど、私たちは君を責めないよ。この事態は君の所為じゃなく、云うなればの所為だ。君がの腕を引き摺り寄せて盾にしたというのなら即刻縊り殺しているところだが、が自分の意思で君を庇ったんだ、君に何ら非はない」
「……でも、そもそも俺に会わなかったら撃たれることはなかったはずだ」
昨日の午後、警察が来て俺の事情聴取をしていった。
を撃ち抜いたのは俺と何の面識もない男だった。
そいつは俺が大学を出てから四年ほど勤めていたアスペルツイーストマンの清掃員をついこの間までやっていた男で、そのアスペルツに飾ってあった俺の写真を見て俺の存在を知り、俺が自分の脳に大切に仕舞っていたアイディアを盗んだという妄想に取り憑かれ、あの日会場設営のアルバイトとしてホテルに潜り込み設営後はトイレに潜みそしてあの瞬間俺に向けて引き金を引いた。
どう考えたって理不尽過ぎる。
俺はこういう性格だから恨まれることもあるし、これまで恨まれたって別に構いやしねえよってそういうスタンスで生きてきた。だから、話を聴くまで今回の事件だって俺のこれまでの振る舞いが跳ね返ってきた結果だと思っていた。
俺が悪い俺の所為だ俺の責任だって思ってたのに、それなのに実際は俺とは殆ど無関係の頭のおかしい奴の犯行だった。
最低なことに俺はその時心の奥底で安堵した。
俺だって本当は刑事からこの話を聴いて少しは思ったさ、ああ何だじゃあ俺の所為ってわけでもねえんだな、って重く圧し掛かっていた罪悪感が少しばかり薄れた。
でも、すぐにそうじゃないことに気付いた。
銃を向けられるだけの理由は俺には無かった、それは確かだがそれよりも根本的な前提としてが撃たれる理由はさらに無かったのだ。
犯人側の動機が正当であろうと理不尽であろうと、俺が狙われたことには変わりはない。は狙われたのが『俺』だから飛び出したんだ。つまり、俺が居なければあいつは銃口の先に飛び出すこともなかったはずだし、そんなふうに俺を庇ったりしなきゃあいつは今も普通に笑ってたはずなんだ。
ならばやっぱりあれは俺の所為じゃねえか、それ以外の何がある?
「俺の傍に居たからこうなった。だったらそれはやっぱり俺の責任でしょう、違いますか?」
真之さんは肩を竦めてみせた。
「頑固だな。まあ、いい……正直云うと君を怨みたい気持ちも確かに在る。だが、自分のやったことは自分で責任を持てというのが我が家の教育方針でね、あれが小さい時からそう云い聞かせてきた。だから、親である私たちが勝手に飛び出したあの子の行為を棚に上げ、無責任に君を罵ることは出来ないし、したくない。君にそんなふうに責めてくださいと云わんばかりの顔をされてると迷惑なんだよ、うっかり醜い言葉をぶつけそうになる。我々のプライドを守る為にももうちょっとマシな顔をしてくれ、陰険そうな顔とか得意だろ?」
そう云って真之さんは苦く笑った。そのぎこちない笑顔と冗談のような台詞の影に見え隠れする本音に俺の胸は軋んだ。
「…努力します」
「そうしてくれ。医者が来たようだな、ちゃんと診てもらえよ」
背を押される。現れた医師に手招かれるまま、俺はナースセンター脇の処置室に足を踏み入れた。
「熱があるそうですね。疲労も蓄積しているでしょうし、とりあえず上を脱いでそこに座ってもらえますか」
俺はぎくりと身を強張らせた。本当は診察なんて必要ないぐらい発熱の原因に心当たりがある。
「大したことはありません、何か薬を出してもらえませんか?」
「診察しないことには何も出せませんよ」
何やらカルテに書き記している医者から妙にきっぱりした返答が返ってきた。
俺は刹那躊躇して、内心溜息を吐きながらボタンを外しにかかる。往生際悪く殆ど前を広げずに腰を下ろしはしたものの、発覚は免れないだろうしその後で確実に浴びせられる言葉にも覚悟はしていた。
「じゃあちょっと」
向かってきていた聴診器が空中で止まる。失礼します、と云い掛けていたはずの医者は無言になって俺のシャツの右側を捲った。
やっぱりあさっさりバレたな。右の脇腹へと注がれているその視線の鋭さに俺は目の前の医者が饒舌な説教好きじゃないことを祈る。
だが、数秒後に盛大な溜息と共に吐き出された言葉は俺が予想していたのとは少し違ったものだった。
「……罰を与えているつもりですか?」
俺の想像していたのはもっと直情的な罵声だったので、その静かな口調も語られた内容もどちらもが意外だった。
立ち上がって奥の看護婦へと指示を出すその背中に、悪戯が露見した時のような妙な後ろめたさを覚える。
「別にそういうわけでは」
そう口にしながらも俺は先程真之さんに云われたことを思い出していた。俺は『責められたそうな顔をしている』と、そう云っていた。
「では何故? 傷は痛むでしょう? どうして病院にいるのに黙っていたんです、治療が必要な傷なことぐらい解るでしょう?」
畳み掛けるような質問に返答に窮して俺は声を詰まらせる。
の身体を突き抜けた弾丸は俺の脇腹の肉も少しばかり抉り取っていった。
あの夜はが気懸かりでそれだけであとは自分のことなんてどうでも良かった。の手術が無事に終わった後、病院から最も近いホテルでシャワーを浴びているとまた凝り固まった血が剥がれ、赤黒いものをそこから吐き出し始めたが別に気にならなかった。とりあえずその場はタオルを巻いて俺は病院に戻ったが、それはに付き添う為で腹の傷を診てもらおうなんてそんなこと微塵も考えちゃいなかった。今は完全に血は止まっているが、傷口の周囲は腫れて熱を帯びている。良くなったか悪くなったかで云えば明らかに悪化だろう。今朝には熱が出て身体を僅かに捻るだけでも痛みを訴えるようになっているのだから。
別に罰だなんてこれっぽっちも考えちゃいなかったが、云われてみればその通りだったのかも知れない。確かに俺は放っといたら拙いのを承知の上でこの傷を放置していた。
「……すみません」
「私に謝られても困ります。とりあえず処置をして、その後点滴しますから。一応お尋ねしときますが、昨夜と今朝のメニューは何でしたか?」
看護婦の持ってきたトレーを受け取りながらさり気なく投げかけられた質問にどきりとする。
俺は答えられなかった。辛うじて水は飲んでいるが、昨日も今朝もメシを喰ってない。
「…抗生物質の後、栄養剤の点滴も受けてください」
再び頭上から盛大な溜息が降ってきた。俺がまたしてもすみませんと謝ると、まだ若いその医者は椅子に戻って俺と視線の高さを合わせてゆっくりと微笑んだ。
「セラピストを紹介しますから一度足を運んでみてください。あなたは今ご自分を酷く責めているようだが、それは違う。少し落ち着いて考えればすぐに解ることです。あれは不幸な事故ですよ、決してあなたの所為ではないんです」
イエスともノーとも返答する気になれず、俺はただ奥歯を噛んだ。
善意からの言葉だと頭では解っているのに、どこか胸の方で苛立たしさが燻ぶる。
落ち着くもクソも、どう考えても俺の所為じゃないか。
俺のことなんて放っといてくれていい。
俺を慰める暇があるならを救うことに全力を注いで欲しい。
それが俺の本心だった。