ぱちん、というプラスチックな音。
俺の目はぱちりと開いた。
「ああ、ごめんね、起こしちゃった?」
声と同時に温もりと重みが身体から離れ行こうとする。俺は目の前に映った去り行く指を咄嗟に捉えた。
「どうしたの、まだ夢の中?」
寿樹の指を掴んだまま、その声の方に首を振り仰ぐ。
右手に比べて左手だけが何だかやけにあったかい。多分この態勢から察するに、寿樹が肘で俺の肩を包むようにして俺の左手を握っていた所為だろう。
数秒ぼんやりとその顔を見詰めて、俺は閉じ込めていた指先を解放した。
「…おれ………あれ…なんだっけ…」
俺は枕にしていた寿樹の腿から頭を持ち上げた。上半身を起こした拍子に、学ランが肩から滑り落ちた。寝ぼけた様子がおかしかったのか、微かに笑いながら寿樹が手櫛で俺の髪を整え始める。
「眠れた?」
俺は頷く。本当だった。眠る前に比べてずいぶん頭がはっきりした気がする。
「そう、良かった。ちょうど今椎名君からメールが着てね、昼休みの間に藤代君を通じて渋沢君に連絡を取ってくれたらしい。で、ありがたいことに渋沢君が仕事の速い人で、早速放課後OBの人を紹介してくれる段取りになったよ。四時十分に武蔵森中等部前で一旦渋沢君と落ち合って、それからOBの人たちと四時半に会う予定。まだ二時過ぎで時間は早いけど、もうここを出ようか。掃除が終わったら吹奏楽部の子たちが来るからね〜、さすがに僕らがここにいるのはマズイ」
「うん。なんか……ごめんな」
俺はいつのまにか脱がされていた靴に足を突っ込みながら、もごもごと詫びを口にした。
背後の窓の戸締りをし、自分の座っていた痕跡を消していた寿樹が手を止める。
「何が?」
心底不思議そうな顔をしている。
俺はその顔から何となく視線を逸らせた。
「全部お前にやらせてんじゃん。学校来るのも渋沢に連絡取るのも全部お前が考えたことだし、俺、全然役に立ってない。おまけにお前だって疲れてんのに、一人だけぐーぐー寝たりしてさ。ほんとごめんな」
「ああ、そんなことか〜」
軽い笑い声。俺は顔を上げた。その笑顔に今更気が付く。
寿樹もあんな鉛弾のような仮説をひとりで抱えていて苦しかったんだ。
睡眠をとって少しはすっきりした頭で振り返るとそれが良く解る。さっき珍しく露骨に嫌な顔したのも話の途中でやたら指を組んだり肘を突いたりと落ち着きなかったのも、朝からずっと秘めていたものが重かった所為だろう。その重さ故に俺に話していいものか迷ったし、その重さ故に吐き出してしまいたかったんだ。
寿樹はさっき話すべきじゃなかったって詫びたけど、そうじゃないだろう。
むしろ俺が寿樹と同じぐらいに物を識ってて、寿樹と同じぐらいに思慮深ければ、こいつもそんな気苦労しなくてすんだんだからやっぱり詫びるべきは俺の方だ。
「…寿樹、俺、ほんとごめんな……」
ますます自分の不甲斐なさを痛感する俺の手をごく自然に取ると、寿樹はすいっと立たせてしまう。俺の退いたソファの上を手早く整えつつ、寿樹は何でもないことのように云い放つ。
「どうしてが謝るの〜?別にが謝ることなんてひとつもないのに。この前みたいに何をしてるか秘密にされて、危険なことに首を突っ込んでるのを知らされずにいる方が僕は辛いよ。無茶をしてるんじゃないかって無益な心配しか出来ないよりは、こうして君の手助けをしている方がよっぽど気が楽だ」
…なんだろう。
俺は肩に羽織った寿樹の学ランを握り締めた。
目の前に寿樹はいるし、周囲の風景は何ひとつ変わってない。なのに、どこか遠い砂漠に一人ぼっちに置き去りにされたような気がする。
「それに朝も云ったでしょ、そもそも僕は君が心配だからここにいるんだ。自分の意思で勝手に君にくっついてるんだから、君が気にする必要はないよ」
なんだろう。
どうしてだろう。
どうしてかそれは俺の欲しい言葉じゃない気がする。
何だか釈然としない思惟に溺れたまま、俺はその広い背中をぼうっと見詰めていた。


俺たちは例によって裏から脱出して駅へと向かった。制服と私服、どっちにするかで迷って結局制服にした。渋沢は当然制服だろうし、制服の方が受験に備えて学校案内してもらってるように見えるんじゃない、って寿樹が云ったから(つまり意訳すると止むを得ず軽犯罪に抵触している行為に及び、それを発見された場合には『あ、スイマセ〜ン、僕たち知らなかったので〜』でゴリ押ししようということだ)。
朝は急行に乗ったが、今度は時間があるので各駅で座っていくことにした。それにしても本当に今日の俺たちは行ったり来たりを繰り返している。
時間が余っていたのと、僅かながら空腹を感じるようになったので、俺たちは朝は無視したスタバに入った。
寿樹がオーダーをすませる間に俺が手近な席を確保する。
待ってる間に何やら変な奴らに声を掛けられたが、無視していると寿樹が来るなり勝手にどっかに散ってく。キャラメルマキアートをじゅるじゅる啜りながら、俺は今更ながら寿樹と一緒に居ればクソヤローどもは寄って来ないんだというメリットに気が付いた。
ストローを齧りながら俺はじとっとした目つきで寿樹を改めて眺めてみる。
…まあ確かにこいつは性格抜きの見てくれだけならいいからな。自分より明らかに高アビリティのオスが横にいるならそら普通怯むわ、デカイし笑顔で威嚇が得意技だし。
けどなあ、百歩譲って顔が良いのは認めてやってもいいが、それにしたって寿樹を好いてる女子連中は心の底から揃いも揃って節穴だと思う。通りすがりに『須釜君て優しいし紳士だよね』という頭が沸いているとしか思えない台詞を耳にして、俺は危うく階段から転落しそうになったこともある。
だって、寿樹はシャレで借りた獣姦モノがけっこうどころかかなりエグくて、その場にいた奴ら全員トラウマになりかけてた中、ただ一人だけ平然としてたような奴なんだぞ(俺なんか未だに競馬の宣伝見ただけで軽い鬱に襲われるのに)。しかもその後、じゃあ次行ってみようとか云って、止めてくれという悲鳴のような制止を笑顔で激烈無視して、やっぱりシャレで借りてたスカトロモンをデッキに投入しやがって、そこに居た奴らの心に今度こそ一生消えないトラウマを植えつけたような男だぞ、それが紳士?笑かすな(まさに現場は阿鼻叫喚。フツーのは飽きた、もっとスゲーのないの?とか調子ぶっこいてスイマセンでしたと寿樹に土下座していた連中の姿が未だに忘れられん。アレ以来、こいつは悪い意味でも帝王と呼ばれるようになった)。
思い出したくもない映像を思い出しかけた俺は、ぶるりと身震いして野蛮な記憶から逃避しようと寿樹が買ってくれたパウンドケーキに手を伸ばした。
邪念を払う為に一心不乱に喰うことに専念していて、いつのまにかマーブルパウンドまでぺろっと平らげてた俺を見て寿樹は「やっと顔色が良くなってきたね」と笑う。
その笑顔にいい加減呆れた思いで俺は咥えていたストローから唇を離した。
だからどうしてこいつは俺の顔色ひとつでこんなに嬉しそうに笑うんだろう。
俺に構ったって何にも出やしないんだから、俺のことなんか放っておけばいいのに。
そう云おうとして、なのにどういう訳か俺の声は咽喉のところで引っ掛かった。ベタベタされんのはウゼエはずだし、これまでだって同じような台詞を寿樹に浴びせてきたはずなのに今日に限ってどうしてか言葉が詰まる。
俺の躊躇に気付くことなく、肘を突いて僅かに首を傾げた寿樹がゆっくりと口を開く。
、解ってると思うけど僕らは喧嘩しに行くんじゃないからね。蓑本さんを保護する為にはとにかく連れ去られたのがどこなのか訊き出す必要がある。さっきは多少強引な手段って云ったけど、まずはできるだけ穏便な話し合いによって蓑本さんの居場所を訊き出そう。もし腕力に訴えて人を呼ばれでもしたら事だよ、そんなことになったら蓑本さんどころじゃない。お見舞いに行ったら引っ越したって聴いて、先日先生がこちらで教鞭をとっているとおっしゃっていたので、偶々武蔵森に通ってる従兄弟に電話で訊いたところ本当だったので来てしまいましたとか適当に切り出そう。もしシラをきるようなら、僕らも切り札を出す。君は嫌かもしれないけど、あの映像のことを突っ込めば必ずボロを出すはずだ、思い切り犯罪だからね。腹が立とうとぐっと我慢して、とにかく蓑本さんの居場所を引き出す、それが僕らの使命だよ」
「あーってるよ、説教ジジイ。ラギの居所、それが俺たちの一番の最優先事項だろ」
訳も解らず躊躇う自分とガキに云い聞かせるみたいなその口調が相乗効果で腹立たしくて俺はふてくされたような返事をする。その返事の合間に両手で包んで持っていたカップから水滴が涙みたいに零れてテーブルの上で砕けた。
「そう、それが一番大事だよ」
俺の言葉に腹を立てた素振りもなく、むしろ笑いながら寿樹はわざわざ右手を伸ばして水滴を紙ナプキンで拭ってくれる。何となくその手の動きを追ってると、小指の付け根に薄っすらと残る傷跡に勝手に視線が吸い寄せられた。
いつだってその傷を見る度に俺の胸は疼く。
わざとじゃなかった、あの時俺には寿樹を傷つけるつもりなんてなかった。
でもそれでもそれは俺が寿樹に与えた傷跡だ。
頭の中で性急に謝罪と懺悔を大声で唱えようとしたところで、いったいどうしたことかいきなり頭の中で目覚ましが大音響で鳴り響いているような感覚に襲われた。
大脳新皮質の片隅に投げ捨てられてた記憶が呼んでもないのに甦る。
セピアの記憶が一瞬で鮮やかな色に塗り替えられた。
鮮明になったのはジョーイとの一件のあの夜。
溺れているみたいな必死さで痛いぐらいに俺にしがみつきながら、これまで聴いたことがないような切羽詰った声で確か寿樹はこう云った。
がこの世で一番大事だ』って。
誰よりも俺を信じてるって。
あの時は裏切られてなかったんだ、ってそれだけで俺はもう有頂天で全く気にも留めてなかったけど、なんか…ちょっと…なんかそれって……それってどういうイミだ?
テーブルを片していた寿樹が俺の視線に気付いて顔を上げる。
目が合う。当然、寿樹は何の脈絡もなく固まった俺を不思議そうに見ている。
「どうかした、?」
「寿樹、あのさあ…………いや、いい。やっぱなんでもない」
俺は首を振って追求を断ち切ると同時に疑問を胸に封じ込める。
昨日から今朝にかけて俺の頭は本当にぐちゃぐちゃで、さっき肉まん喰って昼寝してそれで漸く落ち着いて普通に話が出来るようになったぐらいヤバイ状態で、寿樹の云うとおりあんなんじゃ安良木を助ける前に俺のがどうにかなっちまいそうだった。
だから、くだらないことでも考えられる余裕があるのは返って良いことなのかもしれないけど、でも、いくら今時間が余ってるからってあの時の寿樹の真意を今確かめる必要なんかないんだ、きっと。
俺は溜息を吐いた。
なんで今日に限って変なことばっか気になるんだろう。
あ、逆なのか?むしろこういう時だからこそ現実逃避みてーにくだらねえことが気になるのかも。
そうかもしれない、そうに違いないと俺は自分を納得させる。
とにかく今は安良木を助けることが先決だ、そう云い聞かせて俺は最後の一口を咽喉に流し込んだ。


渋沢に会う前に大学の方の下見でもしようかと思って、かなり余裕を持ってスタバを出たのだが、結果的にこれが幸いした。
武蔵森は本当に冗談じゃなく馬鹿でかかったのだ。
この間来てちょっと歩いたあの辺りは実は大学の校舎があるばかりで、高等部はその奥、中等部に至ってはさらにその奥で、なんと敷地に入ってから中等部の校舎に辿り着くまでに二十分も要しやがったのだ(途中いちいち掲示板で現在地を確かめたりしてた所為もあるけど)。
しかも校舎が全部レンガ造りの三、四階建てに統一されてるもんだから、どれもこれも同じに見えてますます人を迷わせる。
なんつー学校だと俺はあとちょっとで銀杏並木に八つ当たりキックをお見舞いするところだった。
そうせずに済んだのは偏になんとか時間前に中等部を発見できたからだ。
正確には目的の顔を見つけることで、俺たちはそこが待ち合わせの中等部前だと解ったんだけどさ(渋沢たちが先に来てくれてなかったら、俺たちは通り過ぎていたかもしれない。だって『中等部』って看板は確かにあったが、蔦に隠れて半分ぐらい見えなくなってたんだもん)。
門というよりは花壇みたいな、俺たちの腰ぐらいしかないレンガ塀の前に渋沢克郎と、それから何故か藤代誠二までいた。ある意味二枚看板揃い踏み。けど、渋沢は制服だけど、藤代は練習着だ。だから渋沢と一緒に案内役を務めてくれるて訳でもなさそうだけど、じゃあ何で?って俺の疑問は次の一言によって呆気なく粉砕された。
「あ、本当に須釜だ!マジデケー!」
どうやら寿樹が来ると聴いて、ただ生で見たかっただけらしい…。
まあ気持ちは解らないでもないがな。俺にとってはもう珍しくもなんともないが、確かにデカイもん。
こら、と渋沢が叱責し、隣に居た小さな女の子も咎めるように藤代のシャツを引っ張った。けど全然効果なしで、俺たちが目の前に辿り着いてもなんだよーとか云って不思議そうに女の子を見下ろしている。
渋沢が心の底からっぽい溜息を吐く。
「謝れ、藤代。失礼だろうが」
「スンマセン、つい。それにしてもでかいっすねー。やっぱり毎日牛乳飲みまくってたんすか?」
へらっと藤代が紙より薄い謝罪をした。それを見た女の子がますます渋い顔になって藤代の脇腹に軽いパンチをお見舞いする。
俺は思わず笑ってしまった。俺たちの世代じゃ天才と名高い藤代なのに、なんかまるでお父さんとお母さんに怒られてる子供みたいだった。
再度苦い表情で口を開こうとした渋沢を寿樹が笑顔で制する。
「ああ、いいんですよ、僕は上下関係とか苦手なので。こんにちは、藤代君、そちらはマネージャーさんですか?」
小柄な女の子が慌てたように頷く。
安良木みたいに美人じゃないけど、小動物ぽくて可愛い子だった。ちまくて髪が長くて、おままごとの人形みたいだ。渋沢の紹介に合わせてやっぱり小動物っぽくぴょこって感じにお辞儀する。
俺が何か癒し系だなーかわいいなー頭撫でてみてーなーとか無駄にチェック入れてる間に寿樹が渋沢たちに俺を紹介する。
「メ、ァでっ」
藤代が俺に向かってまた何か云おうとしたが、何事か声を発する前にその口は渋沢の手のひらによって塞がれた。流石ナイスセーブ。…つーか結構痛そうだったぞ、今の、ばちーんって。
「それじゃあ、行きましょうか。後は頼んだぞ」
イタイ!ヒドイ!と喚いている藤代にというよりは、女の子の方に後半の台詞を残して渋沢は歩き出す。それがまた藤代が変なこと云う前にさっさとここを離れたがってるっぽくって俺はおかしかった。
武蔵森って一軍から三軍まであって、すっげえ体育会系ってイメージあったけどそうでもないんだなあ。
俺が内心笑いを堪えていると、ふいに寿樹が振り返る。
長年の経験から、瞬間俺は悪い予感がした。
「あ、藤代く〜ん、因みに僕が飲んでいたのは牛乳じゃなくてめんつゆなんです〜。めんつゆをね〜、一日1リットル飲んでいたらこんなになっちゃいました〜」
背後で「マジっすか!?」って声。
こいつは……。
渋沢が頭が痛いというふうに額に手を当てた。
「須釜…云っておくが藤代は今の話信じたぞ」
「う〜ん、多分次に会ったら僕はめんつゆの人って呼ばれるんでしょうね〜。しまったな〜、豚肉の脂身を毎日1キロ喰べたとかもっとかっこいいのにすればよかったな〜」
寿樹…渋沢が今物凄い微妙な顔してたぞ、一瞬だったけどな。
これで寿樹は藤代からはめんつゆの人、渋沢からは変人という称号をめでたく獲得した訳か。ったく、コイツは本当に他人をおちょくるのが三度のメシより好きだから質が悪い。
俺は内心呆れ果てながら背後を振り返ってみた。
何となく藤代の背中が興奮しているように見える。……渋沢の云うとおり信じちまったんだろうなぁ、あの様子じゃ。そして戻ったらチームメイトに吹聴しまくるんだろうなぁ、あの調子で。
ウソツキとかアホ呼ばわりされなきゃいーけど。
視線を前に戻そうとして、けれど藤代の隣の小さな背中に目を奪われる。
黒髪に小柄で華奢な後姿。
馬鹿げたことに安良木を髣髴とさせる少女を横に連れている藤代に俺は嫉妬を覚えた。
あの子は安良木じゃないのに、引き返してその腕を掴んで自分の方へ引き寄せたい衝動に駆られる。
「それはそうと、本日は急にすみませんでした」
寿樹の声に俺は正気に返った。
自分のやろうとしていたことに驚いて、内心どっと冷や汗が出る。危なかった。あとちょっとで俺は踵を返すところだった。
後ろめたさもあって俺は顔を戻すと渋沢に頭を下げる。
「スイマセン、ありがとうございます」
渋沢はやわらかく微笑んで首を振った。
「気にしないでください、一日くらい留守にしても問題ありませんから。何やら事情がおありなんでしょう?」
あ、と思う。
そういや寿樹、翼になんて云って頼んだんだ?当然渋沢に本当のこと云える訳ねーし、俺が内心焦って寿樹を盗み見ると、寿樹はさも深刻な表情を装って重々しく口を開くところだった。
「僕たちは小学校のときの友人を探しているんです。卒業と同時に引っ越してしまって行方知れずになってしまったんですが、昨日ある人からその子のお父さんがこちらの大学で先生をしてらっしゃると教えて頂いたので、三年経って漸く掴んだ手がかりに居ても立ってもいられずに無理を云ってしまいました。突然の引越しの理由は不仲による離婚だったと僕らは大人に教えられました。なので、婿養子だったそのお父さんは蓑本ではなく旧姓の篠守の方を今は使ってるんじゃないかと思うんですけど、どちらを名乗ってるにせよ僕たちにはその人に会うしか友人の居所に関する手がかりがないんです」
「そうですか…探してる人が見つかるといいですね」
寿樹の嘘に渋沢は何の疑問も抱いた様子はない。
俺は黙って『そうなんです友達探してるんです』って深刻な顔を作って相槌を打っていたが、心の中では相変わらずの寿樹の口からでまかせぶりに無駄に感心していた。寿樹は絶対将来詐欺師になればいいと思う。
「ただ連絡のついたOBが経営学部なんです。武蔵森には、法学、経営、経済、文学、芸術学部があって、さらに文学部に至っては日本文学科、英米文学科、人文学科、心理学科に細分化されています」
「そんなに?」
俺はびっくりして思わずデカイ声で反応してしまう。
渋沢が俺が驚くのも無理はないといったふうにひとつ頷いてみせる。
「ええ。経営も情報ネットワークと経営学部に分かれてるし、芸術の方も確かいくつか分かれていたはずです。椎名から聴いたところによれば、武蔵森の大学で先生をしている、ってことしか解らないんですよね?お探しの先生が経営学部で、これからご紹介する先輩方がその先生を知っているなら話は簡単なんですが、他学部だと見つけるのに結構時間がかかるかもしれません」
実際に大学に通ってる奴を捕まえれば、それですぐに見つけ出せると思っていた俺は内心青褪めた。
スタバを出てからは安良木に会えたらまず何を云おうとか俺はちゃんと普通にできるかなとかそんなことばっか気にしてたのに。ここまでくればあと一時間後には安良木に会える、ってそれぐらい俺は簡単に考えていた。
なんで…何でこんなにもいちいち上手く行かないんだよ。
俺は唇を噛んで在るか在ないか解らない神を呪った。
寿樹が励ますように肩を抱く。
俺はますます俯いた。前を見なくても寿樹が誘導してくれるからそれに従って黙って歩く。隣で寿樹と渋沢が何やら話していたけど、俺の耳には欠片も届かない。
もし、これから会う人に心当たりがなかったら、見つけ出すのにいったいどれぐらいの時間がかかるだろう。
もし、そんなことでぐずぐず手間取ってる間に安良木の身に何かあったらどうしよう。本当は第三者なんか当てにせず、スタバでお茶する暇があったら先に来てとにかく大学に訊くだけ訊いてみた方が良かったんじゃないか?
昨日あんなオタク野郎に係かったりしなければ、俺は今安良木を見失うことはなかったかもしれない。同じようにまた俺は選択を誤ったんじゃないのか?判断ミスをしたんじゃないのか?
と肩を揺すられる。仕方なく顔を上げると目の前に白いテーブルと白い椅子が並べられた、ちょっとしたテラスが広がっていた。
いつの間にと戸惑う俺の横で渋沢がああと呟く。
「もう来てますね。あちらの二人です」
渋沢の後に続きながらテーブルの隙間を縫う。渋沢の向かう先には三つほど人の居るテーブルがあったが、二人組みはひとつだけだった。
棗先輩、真木邑先輩と渋沢が声を掛けると二人同時に顔を上げる。
俺はとりあえず挨拶しようと口を開きかけたのだが、俺たちを目にした瞬間、二人のうちの一人が突如弾けるように笑い出した。
「マリノスの須釜じゃん!つーかお前ほんとにでかいなあ、何喰ったらそんなにでかくなるの?巨神兵かお前は!」
俺たちの挨拶はおろか、渋沢が何か云う隙もなかった。二人の片割がどっかで聴いたばっかの台詞を口にする。
その豪快すぎる馬鹿笑いに鬱屈していた気分もどこへやら、俺が呆気に取られているとひょろりとした方の先輩が爆笑している方の先輩の額をぺしっとはたく。
「いくらなんでも姿見ただけで笑うのは無礼すぎ。てゆうかお前が何にそんな笑ってるのかさっぱり意味解らない。ちびっこの自分と比べて余りに縦の長さが違うからもう笑うしかないって感じなの?悪いね、須釜君、コイツ馬鹿だから許してやって。僕は棗、この馬鹿は真木邑。どうぞ座ってください」
俺たちはそこで漸く二人に挨拶することが叶った。
やっと笑いを収めた真木邑先輩が俺を見てそれはそれはにっこり笑って自分の左隣の椅子を指す。
「制服かーいーねー。さ、おっちゃんの隣に座りな」
おっちゃん…?
間違ってるかもしれないけど、この人多分寿樹どころか渋沢よりも小さいぞ?肩幅の感じから俺や藤代とそう変わらないように見えるし、おっちゃんどころか全然高校生でも通じそうな顔をしてる。
毒気を完全に抜かれた俺が云われたとおりに隣に座ると、真木邑先輩は横からしげしげと人の顔を見詰めて妙にうっとりとした顔で夢見るように呟く。
「最近の女子中学生はなんでこんなに美人なの?おっちゃんビックリ。つーかおっちゃん今年でハタチなんだけどダメかなあ?おっちゃん未だに頑張れば中学生で映画見れるし、何とかギリギリ犯罪じゃないと思うんだけどなぁ」
「止めろ変態」
ずびしっとまた棗先輩が真木邑先輩の後頭部を殴った。
「お前はちょっと黙ってなさい、この子達は今日は用事があってきたんだから。渋沢だって暇じゃないし、さっさと返してやらないと桐原に怒られるだろ」
「いーじゃんちょっとぐらいさー。見ろよちゃんのこの美貌をよー。モー娘だって敵じゃねーぞ、これは」
「渋沢、戻ったら桐原監督に真木邑の所為で遅れましたって云っていいから」
「はい」
「はいじゃねーだろこの渋キチめー!!あーったよ、真面目にやるよ棗のケチっ、お前なんか絶対将来植毛のお世話になるんだからな!ミヨシクログロだ、バーカ!」
また真木邑先輩が殴られた(しかもグーで。もしかして気にしてるんだろうか?あんましそうは見えないが、ってここで棗先輩の生え際をチェックしてしまった俺も相当無礼者だな)。
パワハラだドメスティック・バイオレンスだとか俺にはよく解んないことを喚きながら騒ぐ真木邑先輩を物凄い冷たい顔で綺麗さっぱり黙殺して棗先輩が俺たちに説明を求める。
なんかもうさっきから俺の中でどんどん常勝武蔵森のお堅いイメージが崩壊していってるんだが…。
寿樹がさっきの話を繰り返して、それでやっと本題にはいった。
難しい顔で棗先輩が胸の前で腕を組む。数秒考えてから、真木邑先輩に視線を移す。
「シノモリかミノモト……マキ、心当たりある?」
「自分のとってる講義の教授でさえよく覚えてないんだぞう!知るか!」
「ひとつ訊いていい?なんで君えばってるの?まあ、とりあえず自分とこの時間割調べてみよっか。なかったら教務課行ってみよう」
「あの」
俺は鞄を探ろうとする二人を引き止めた。
名前なんかよりもっと大きな手がかりがある。
道ですれ違っただけでも忘れる訳がないんだ、あんな特別な男は。だから本当にここに居るなら噂になっててもおかしくない。例え名前を知らなくても、あの容姿だけは知ってる可能性はある。
「背が高くてちょっと威圧的な感じで、年は三十代ぐらいで、そんでもって片目が青くてかっこいい人なんです、絶対一目見たら忘れないような人です」
「え?」
棗先輩が軽く目を見開く。真木邑先輩が何故か挙手する。
「ちょっと待って、それなんかどっかで聴いた気がしまーす。え〜と、アレだ、ほらフリッパーズの、相田じゃなくて、横田じゃなくて、澤田、浜田〜、松田〜じゃなくて〜、ほ〜ら〜あ〜の〜子〜」
「町田リョーコ?」
「そうそう!マチダリョーコちゃん、あの子何学部だっけ?俺あのサークルの新歓コンパん時あの子から聴いた気がする、今日試しに覗いてみた講義の教授がすっげーいい男で驚いたって。うんうんうん、片目が青いって云ってた気もするぞう!」
棗先輩が携帯を取り出し、慣れた仕草で操作する。
「町田リョーコ……あの子だったら、心理か英文だった気がするけど」
棗先輩の耳に当てられた携帯を祈るような気持ちで見詰める。
これでもし解ればこれ以上余計な回り道をしないで済む。散々肩透かしを喰らわせたんだ、これぐらいのラッキーは恵んで欲しい。
いつのまに携帯番号ゲットしたんじゃ、このムッツリめという真木邑先輩の呪いじみた呟きを棗先輩が目線で黙らせる。
それでも負けじと真木邑先輩が重ねて口を開くより先に、漏れ聴こえていたトゥルルルって旋律が不意に途切れた。
俺はテーブルの下で両の手を拳に握る。そして散々肩透かしを喰らってきたのに、それでも祈ってしまう。
「あ?もしもし、こんにちは、経営の棗です。今ちょっといい?あのね、ウチのガッコに片目が青い教授って居るかな?…あ、ほんと…?それって三十代ぐらいの人?………そう、名前解る?……うん、…うん、うん?ああ、ちょっと頼まれてね、うん、ありがと、それじゃ」
通話を終えるとぱちんと携帯を閉じる。
「あの…っ」
声が変に裏返った。
通話内容から予想はついたけど、それでも答えを聴くまで安心できない。
棗先輩はにやりと笑った。
「居たよ、心理に。片目が青いシノモリオシヒトって助教授が」


悪いから、って固辞したけど二人の先輩と渋沢は教授棟まで俺たちを案内してくれた。どうやら大学には職員室の代わりに教授棟というのがあって、先生たちは研究室と称してそこに一部屋ずつ貰えるらしい。
教授棟は他と違って七階建てで、エレベータホールに貼られていた案内表によると篠守という名の研究室は五階にあった。制服姿の俺たちでは怪しまれることを危惧して、棗先輩たちはわざわざ五階まで送ってくれた。
俺たちだけを降ろして、折り返し下っていく電気仕掛けの箱に俺は深々と頭を下げた。
ここに来る道すがら東京選抜や関東選抜とかサッカーがらみの話をしてたんだけど、その中で二人がもうサッカーからは脚を洗ったという話もちらりとでた。閉まる間際の真木邑先輩の『怪我には気ぃーつけろよ!』という台詞で俺は二人がサッカーを捨てざるを得なかった理由を悟った。こんな時じゃなければもっと話をしたかった。
頭を上げて閉ざしていた目蓋を開けば、それでもう俺の脳裏からは渋沢と二人の先輩の面影は消え失せる。
寿樹と顔を見合わせて歩き出す。
目指す部屋はエレベータホールを右に曲がった奥から二番目の部屋だ。
暮れなずむ薄闇の流れ込んだ廊下を進む。
リノリウムの床を踏みながら裏切られることに馴染んでしまった頭にまた悪いことが浮かぶ。
篠守なんて部屋、なかったらどうしようって思う。
そうと決まったわけじゃないのに、空白のネームプレートの妄想に先回りした苛立ちが込み上げてくる。
けど、そんな訳なかった。
ちゃんとあった。
堅苦しい書体で書かれた『篠守忍比斗』ってプレートが。
けど、嬉しいとは思わなかった。良かったとも思わない。
言葉に出来るような感慨なんて何も無く、鼓動が乱れて血流が猛スピードで巡っているような感覚に全身が支配される。
朝から右往左往して、細い糸を手繰り寄せ漸くここに辿り着いた。
これで安良木の居所が解るはずだ。
安良木に会える。
唾を飲み込むと咽喉はごくりとみっともなく音を立てた。
重たいドアをノックする。
ごんごん、と音を奏でた俺の手は震えているように見えた。
「…はい」
扉一枚隔てた声に全身の血が沸騰する。
間違いなかった。
唇が勝手に声も無く笑った気がする。
それは一昨日耳にした、『あの声』だった。
俺は無言でノブを乱暴に押し下げた。
、冷静に」
寿樹の囁きを無視するように肩で扉を抉じ開ける。
両の壁は全面本の詰まったスチール製の本棚。
入って直ぐ目の前に飾り気のないデカイ六人掛けテーブル。
その先の窓を背にしてこちら側を向いてるデスク。
薄蒼い空を背にしてそこに男が座していた。
男が顔を上げる。
目が合う。
青と黒。
ああそうだよ。
やっぱりだ。
朝思ったとおりだった。
冷静でいられないと思ったんだよ。
ふらりと引き寄せられるように脚を踏み出す。
靴が空を切り裂く間にああ、そっかと合点が行く。
ネームプレートを発見したあの時、何も言葉に出来なかったんじゃない、言葉にならなかったんだ。
ノックに震えた俺の手も、怯えた訳でも不安だった訳でもない。
単純すぎて、でも、あまりにも度を越して強烈過ぎたから自分でも気付かなかっただけだ。
言葉を失わせ、動悸や血脈がおかしくなるほどの『怒り』なんて俺はこれまで知らなかったから。
靴底が平面に接触する。
その瞬間、スイッチが入ったみたいに俺は思い切り床を蹴って飛び出した。
「っ…!」
伸ばされた寿樹の腕を掻い潜り俺はたかが数メートルを駆けた。
大股のほんの三歩で机は目前に迫る。
机を回り込むのさえ煩わしい、そう脳裏に閃いた時にはもう勝手に身体が獣のように宙に向かって跳ねていた。
どん、と衝撃で机が撓み足元でぐしゃりと紙の捩れる音がする。
紙が舞い上がり綺麗に並べられていた本が崩れ落ちていく。
けどほんの30センチ上から見下ろす形になった男は椅子を引いて逃れることすらしていない。
至近距離で目が合う。
安良木とよく似た顔。
それが余計に許せなかった。
殴りつけるみたいな勢いで腕を伸ばしてスーツの首元を捻りあげる。
「安良木を返せよ……!」


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