「…おかしな事を云う」
ぎしり、と男の椅子が鳴いた。
胸倉を掴まれて怒鳴りつけられて、それなのに目の前の男は顔色ひとつ変えてなかった。
感情の窺えない無表情で俺を見返して明瞭な口調で言葉を紡ぐ。
「あの子はいつから君のものになったんだね?」
俺は歪に笑った。
何だそれは。
フザケルナと思った。
得体の知れない熱で頭の神経が溶けてぐにゃぐにゃとよじれる。腹が立つとかそういうレベルはもうとっくに飛び越えていて、頭がどうにもならない熱で充満していて爆発しそうだった。
自分でも何で笑っているのか理解できないまま、締め上げていた左手を解放する。足元を探り靴の下敷きになっていたボールペンを掴む。
ペンをくるりと回して、人差し指と中指の間に挟んだ。
殺そうとは思ってなかった。
けど、そんなことしたら確実に死ぬのが解ってる上で、俺は目の前の男の咽喉に手の中のペンを突きたてるつもりだった。
傷をつけないとかほざいていたくせにそれは嘘だった。
こいつはとんでもない真似をした。
矛盾だろうと何だろうと殺意なんて俺にとってはどうでもよくて、俺はただ赦せなかっただけだ。
目の前でのうのうと生きている嘘吐きな男が赦せなかっただけだ。
安良木に深い傷を負わせておいて自分だけ平然と呼吸している男が赦せなくて、俺はとにかく最大限の苦痛を与えたくて、それで結果的に死ぬことになってもそんなのはどうでもよくて、今俺の望みは出来る限り深い痛みと恐怖を目の前の男に味あわせたい、それだけだった。
なのに。

それより早くボールペンを握り込んだ俺の手をさらに寿樹が握り込んだ。
「止めるんだ、
それは静かな声だった。
俺の味方のはずの寿樹がどうして俺の邪魔をするのか完全に頭に血が上った状態の俺には解せない。解せない分余計に腹が立つ。俺は寿樹を激しく睨む。
「離せ寿樹」
「駄目だ。君がそれを放すんだ。何をしにここに来たのか思い出して、。落ち着いて思い出してごらん、僕たちはここに蓑本さんの居所を訊きに来たんだ。いい?僕らは裁きに来たんじゃない、蓑本さんを助けに来たんだ。事を荒げることで蓑本さんを余計な窮地に追い込むことにもなりかねない。解ったらそれを放して。そしてそこから降りるんだ」
染み込ませるようにゆっくりはっきり語られる声。
ああ、と思う。
そうだった。さっきスタバで穏便に安良木の居所を訊き出そうって云ってたんだった、俺もそれを反対したりしなかったんだった。
なのに、声を聴いただけで俺の頭はぶっ飛んで寿樹の言葉なんて綺麗さっぱり消去していて目の前の男を赦せなくて獣みたいに飛び掛ってしまった。出来るだけ穏便にって話だったのに俺のおかげでメチャクチャだ、さり気なく聴き出すとかそんなのもう無理だろう。完璧俺の所為だ。俺が悪い。
でも、頭では寿樹の云うとおりだと自分の非を認めたのに、沈静化するどころか余計に鈍い怒りが湧き上がってくる。
俺はひたすら悔しくて解ったけど素直に解ったとは云えなかった。寿樹からも目の前の男からも視線を逸らして、折れるぐらいに奥歯を噛んで手のひらから力を抜く。
転がり落ちたボールペンを寿樹が素早く掠め去る。
俺は意思の力を総動員して未だ胸倉を掴んでいる右手の指もじわりと開かせた。
握り込む布を失えば、糸の切れた人形みたいに俺の腕はぱたりと机に落っこちる。
腹が立って悔しくて堪らなくて顔を上げられない。
悪いことをしたのは目の前にいる男のはずだ。
それなのにどうして俺の方が我慢しなくちゃならない?
「話があるのなら伺おう。ただし、そこから降りて二度と声を荒げないと誓いたまえ。野良犬のように喚いていては隣の先生方が警備員を呼びかねない」
今度こそ殴りかかろうとした俺を強引に寿樹が背後から抱え込んだ。
、降りるんだ!」
もがく俺を腕に抱き、寿樹が机から引き摺り下ろそうとする。自由の利かない腕の代わりに、振り上げた脚が机上を荒らして辞書みたいに部厚い洋書を床の上に撒き散らした。
結局床に下ろされたが、荒い息を吐きながら俺はメチャクチャになった机の惨状にざまぁみろってクソみてーな満足感を覚える。
だが、ざまみろざまみろって目を向けた先の篠守忍比斗は別段気にした様子もなく、俺が最初に踏み躙ったと思われる紙の皺を伸ばしていただけだった。
「…駄目だな。せっかく書いたのにこれでは使い物にならない」
その呑気な台詞にまた俺は激昂しそうになった。けど、寿樹がそれを許さない。拘束は解いたが、馬鹿力で俺の左手首と右肩を抑え込む。
「無礼を働いたことをお詫び致します。どうもすみませんでした。篠守先生、とお呼びしても構いませんか?」
電話に手を伸ばそうとしていた腕が止まる。そして「ああ」と呟いて俺たちを見あげた。まるで俺たちなんて目に入ってないかのような態度に今度こそ明確な殺意が芽生える。
「ああ、別に構わない。すまないがちょっと待ってもらえないか。今日中に出さなきゃならない書類なんだ。新しいのを貰って、早く書き直さなければならない」
「ふざけんな、後にしろよ」
俺は速攻で吐き捨てた。
「僕らの用事は簡単です。申し訳ありませんが、先にして頂けませんか?」
一瞬だけ間をおいて、篠守忍比斗は既にその手に合った受話器を置いた。やはり荒れた机上をこれっぽっちも意に介さず、無表情で肘を突き組んだ両手に顎を当てる。
「では訊こう。何故ここに?」
「ラギはどこに居るんだよ?」
「何故そんなことを問うのかね?学校には具合が悪いので休ませると連絡したはずだが」
血管が切れるんじゃないかってぐらい苛々する。
茶番だ。
こんな会話無意味だ。寿樹にゃ悪いがやっぱり俺はこんな奴とちんたら交渉する気になんかなれない、だから胎を探り合う必要もない。
俺はこんなところまで来て何をやってるんだろう。
ムカつき過ぎて眩暈がしそうだった。
早く安良木に会いたい。
「どこに居るのか訊いてんだよ。アンタにラギは任せられない。ウチに連れて行く」
篠守忍比斗は薄く笑った。
でもそれは嬉しくて笑うとか楽しくて笑うとか、そんな自然発生的なもんじゃない。
ただ単に相手の気を緩める為の手段だ。ニセモノだ。作為的だ。故意だ。
嘘だ。
「心配しなくてもいい。確かに私の居ない日中、病の身で独りきりになってしまうが、あの子は…」
「見たんだよ、俺たちは!」
俺は声を荒げて遮った。
もう嘘はたくさんだった。
遠回りも時間の浪費ももう嫌だった。騙されて隠されて、こんな男の何を信じろっていうんだ。俺はこんな茶番をさっさと終わらせて安良木の顔を見たかった。一秒でも速く安良木をこの男の手の届かない安全な場所に連れて行ってやりたかった。
「ア…アンタが…ラギをアンタが無理矢理…」
確実に安良木の居所を引き出す為にはこれが一番なんだと自分に云い聞かせつつも、口にしていて俺は悔しくて泣きだしそうだった。
怒りなのか何なのか、いつのまにか拳に握った両の手がぶるぶると震えている。
「ラギ、を、む、無理矢理…安良木を、アンタ安良木のこと…」
頭の中ではあの映像のあの幼い安良木の悲鳴が木魂している。
なのに土壇場で俺は声にするのを躊躇った。
急にあれは無かったことなんじゃないかって、俺は夢でも見たんじゃないかって、真っ白い気分に襲われたからだ。
でも震えの治まった左手によって現実に引き戻される。
俺の拳を強く握り込んだ寿樹の大きな右手。
目の前が霞みそうで恐くて俺は俯いて強く目を閉じた。
あれは俺が見た幻なんかじゃない。
どれだけ俺がそれを望んでも。
息を吸い込む。
「見たんだよ俺たちはアンタが安良木のことレイプしてる映像をさぁ…っ」
最後は息と一緒に吐き出した俺の声は無様に震えて奇妙な抑揚を帯びていた。
でもそんな体面、気にする余裕は俺になかった。
頭がぐらぐらする。
ああ、そうか。
俺は声にしなければまだどこか逃げ道があるような気がしてたんだ。
こうして今俺が示している目の前の男への怒りを考えたらおかしな話かもしれないが、それでも俺は心の奥底ではアレが安良木だってことを認めていなかったんだ。
そういう前提で寿樹と話もしていたくせに、否定も肯定もしないことで俺は逃げ回っていた。午前中に感じていた吐き気や気分の悪さは拒否反応だったに違いない。あんなの全部なかったことにしたくて、声に出して自分の意見を云わないことでずっと根っこの部分で俺は拒んでたんだ。情けねぇな、俺。
俺は奥歯を噛むと目を開けた。
目の前に映る灰色の床。俺がどれほど情けなくて弱くて最低でも、それでも俺には今やらなきゃならないことがある。息を吸い込むと俺は引き結んでいた唇を意思の力で抉じ開けた。
「ラギを返せよ…返せっ…!」
足の先まで苦いものでいっぱいでぐちゃぐちゃになりながら、俺は顎を上げて諸悪の根源とも云うべき男を睨みつける。
けど、数秒男を見詰めた後に俺の眉は訝しげに顰められていった。
さっきの騒動にも眉ひとつ動かさなかった男の顔色は明らかに変わっている。ただし、何かが違う気がするのだ。何か妙だった。
最初は罪を暴かれて怯えているように見えたからざまぁみろって思った。でも違う。秘密を云い当てられて単に驚いてるとかそんな感じでもない。犯罪を露呈させた告発者を逆恨みしてるような顔つきとも違う、事実、篠守忍比斗は俺たちを見向きもしない。
呆然と一点を見詰めつつも、けれどその目は何か強烈な感情に支配されている。
どこか虚空を凝視しながら真摯でまともで至極まっとうな激情に取り憑かれている表情だ。
…何だよ。
何の権利があってこいつがこんな顔する?
全然こんな顔する資格なんてないはずなのに、なんでこいつは後ろめたいことなんてちっともなさそうな正義面して怒ってんだ?
そう。
そうだ。
篠守忍比斗が今この瞬間に示している激しく深い感情に名を付けるとしたら、それは『怒り』が最も相応しかった。
男は緩慢に青い方の右目を覆うと、やはりゆっくりと唇を押し開く。
「なんて真似を…」
予想だにしない反応にさっきから同じとこに突っ立ったまま、俺は理解不能の弾劾を告げる声を聴いた。
一度強く目を瞑ると、右手を退かして両の目で俺たちを見据える。
「見たというのか?君たちが?いつどこでどうやって?」
一拍遅れてどこか責める響きを帯びたその言葉たちは俺の心にすとんと落ちた。
さらに意味を量る為にもう一拍。
そうやってやっと篠守忍比斗が何を云ってるのか理解した瞬間、再び猛烈な勢いで怒りの炎が沸きあがった。
だってそんなのはどうでもいいことだ。
人の話聴いてたのか?自分が何したか解ってんのか?
そうだ。
そんな顔してみせたって俺はこの男が安良木に何をしたか知っている。
誤魔化されて堪るかと俺は悲鳴みたいに叫んだ。
「そんなのどうだっていいだろ!いいからラギの居所を教えろよ!」
俺の恫喝に動じることなく、篠守忍比斗はまるで俺たちを睨みつけるようにしながら喰い下がる。
「お願いだ、教えてくれ。何故君たちがあんなものを目にした?まさかあの男が君たちに接触してきたのか?」
あの男?
脳裏に例のオタク野郎が浮かぶ。
けど、やっぱりどうでもいいことだ。
、ちょっと待って」
再度要求を突っぱねようとした俺を寿樹が止める。
寿樹は一度俺を見て、それから篠守忍比斗に視線を向けた。
「僕たちが蓑本さんの映っている映像を目にしてしまったのは全くの偶然です。僕らはある人物から、彼が一年かけてインターネットのアダルトサイトから集めたという映像の詰まった6枚のディスクを譲り受けました。その中にある事情から僕らの目的としていた映像が含まれていたのですが、その目的のものを検索している最中に偶々蓑本さんの映っているものを発見してしまったんです。
 篠守先生がどなたを想定しているのかは解りませんが、僕らがそのある人物と接触できたのはそれこそ本当に偶然です。電車一本違えば会うことはなかったし、彼が僕らに気付かなかったり、僕らに気付いた彼の存在にさんが気付くことがなければ、僕らがディスクを手にすることはありませんでした。意図的に彼が僕らに接触を試みた可能性を完全に否定するとなると難しいかもしれませんが、それでもあれが計画的だとすると余りにも薄氷を踏むような状況でした。なので、僕らが第三者の意思でもってあれを手にしたとは考え難いです」
寿樹の話を聴き終わると本当に腹の底から安堵したような息を漏らして、篠守忍比斗はどさりと椅子の背凭れに背を預けた。
「そうか……煙草を吸っても?」
寿樹が「どうぞ」というと篠守忍比斗は床から煙草の箱を拾い上げ、一本咥えて火を点した。
けど、火を点けたのに結局最初の一口だけで煙草は灰皿に放置されてしまう。
篠守忍比斗は組んだ両手に額を押し当て黙している。
煙草はただ燃え尽きて灰になっていく。
静かになった部屋にはいつの間にか闇が満ちていた。
その中で頼りない炎が生き物の瞬きのように時折ゆらゆらと大きさを変える。
それを見詰める俺の胸には得体の知れない焦燥感が去来していた。
安良木を傷つけたのはこの男のはずなのに、例の言葉通りこの男はきっと安良木を傷つけない。
こうして改めて対面して確信した、あの映像のあの男は目の前のこの男だって。ほんの数分間の後姿でも余りにも似ている。安良木を傷つけたのはこの男に違いない。
なのに、こうして間近に接することで、やっぱりこの人は嘘を吐くような人じゃないとも思う。安良木を傷つけるような人じゃないと感じる。外見上の特徴は一致しているのに、この人からはあんな非道を働くような汚れた臭いがしない。
外見からいくらそうだと思おうとしても、内面との矛盾が生じてしまう。
ふたつは共生し得ないというのに、俺はどっちも棄却できない。
さっきまで目の前の男に向けられていた、俺を今日突き動かしていた怒りとも憎悪ともつかない感情の矛先が揺らいでいる。
暗がりの中で俺は道を失いかけていた。
蛍のようだった火が消える。
あんなちっぽけな炎でも意外にも明るかった様だ。
さっきまではぼんやりとネクタイの柄まで見えていたのに、今はもう塗り潰された黒い輪郭しか捉えられない。
薄闇の中、その闇の塊が囁く。
「…これから語る全てにおいて私は一切の偽証をしないことを誓おう。その代わり君たちはここで聴いた全てを決して口外しないことを誓ってくれないかね?」
寿樹がちらりと俺を見た気配がした。
「僕は構いません」
この部屋に入った瞬間の俺だったら絶対突っぱねたに違いない。
でも俺は今迷っていた。
闇の中、耳に滑り込むその声はやっぱりどこまでも誠実な響きを持っていたから。
「……嘘は吐かないんだな?」
「ああ。誓って詐称も隠匿もしない。あるがままを語ろう」
「だったら聴く」
微かに安堵に微笑んだような吐息が聴こえた。
「ありがとう。そこに適当に掛けてくれ」
ぎしり、と椅子が鳴く。真っ黒なシルエットが立ち上がり、俺たちを通り過ぎる。入り口の方まで行ったかと思うと、ぱちりという音と共に電気が点いた。
眩しさに目を細める俺に、どうぞと云うようにテーブルの椅子を指し示す。
それでも俺たちが突っ立ったままでいると、もう一度奥の机に戻って背後の窓のブラインドに手を伸ばす。
「すみませんが初めにひとつ質問をさせてください。正直に云いますが、僕はあの男性が先生だと疑っていました」
ブラインドを下ろしていた手が止まった。
直球ど真ん中の寿樹の質問に俺の動悸は速度を増す。
けれど、振り返った篠守忍比斗はさっきと違って表情を変えてなどいなかった。
「確信していたといってもいいです。それぐらいよく似ていましたから。あれは篠守先生ではないのですか?」
「違う。私ではない」
真っ直ぐに俺たちを見て云い切る。
何に対してなのか、その返答に俺の胸は微かに安らいだ。
「じゃあ、誰?」
「それをこれから話そうと思う。掛けてくれ、立ち話で簡単に済むような話ではない。長い話になる」
俺たちは今度は云われたとおりに質素なパイプ椅子に着いた。
ブラインドを下げ終えると、自分も俺たちと向かい合わせに腰を下ろす。
両手を組んで顎を載せ、篠守忍比斗は口を開いた。
「私の生まれたところは山の奥深く、閉鎖的な土地だった」


「地域や親戚といった他の社会的領域から分離された核家族が大多数の、いわば近代家族の見本市のような東京で生まれ育った君たちにはおそらく理解し難い話だろうが、近代以前、地域社会というのはそこに属する地域住民にひとつの人生の『型』を提供するフレームワークとしての役割も果たしていた。
 そして、私の生まれ育った村は戦後の高度経済成長からも完全に取り残されたような村であり、十九世紀後半になっても依然としてその傾向が強い土地だった。
 人々は日が昇る前に起床し、畑を耕し、山に入り、家畜を育て、そして日が落ちる前に家に帰る。それが毎日死ぬまで繰り返される。ただ夏至に催される祭が円環し続ける時間の転回点であり、祭とはそもそも絶対服従といった意味の古語のまつらうからきているという説があるが、まさに文字通り、村人たちはこの祭の為に毎日を労働に費やすことを良しとしていたと云ってもいい。
 村に唯一存在する乙比良神社の夏祭であるその祭には村人の全員が参加する。村で生まれた子どもは十二になると一人前と見なされ、若武と呼ばれるようになり祭に参加する。若武と呼ばれるようになった子どもは年長者から神輿の担ぎ方だけではなく、村に伝わる口伝をも教え込まれる。祭は単なる豊穣を願うだけの祭ではなく、若武を一人前の村人にする為の教育機能を持ち、子どもから若武、若武から介手、介手から帯締、年寄りといった村人としての人生の『型』を長年かけてその身に馴染ませる役割をも担っていた。
 そして、この祭の全てを取り仕切っていたのが私の生まれた篠守の家だった」
 
「乙比良神社の宮司を務めていた篠守のその苗字は『死の森』から派生したものだと教えられた。村の北東には『死の森』と呼ばれる不可侵の森があり、その森に関する古い民話が村には存在し、それが乙比良神社の縁起にもなっている。
 つまり、こうだ。
 昔、村の一人の若者が村の北東の森に入り木を伐っていた。だが突如強い風が吹き、つい誤って手に持つ斧を手放してしまう。慌てて斧の飛ばされた方に駆けて行って男は魂消た。飛んでいってしまった自分の斧の傍に左腕がごろりと落ちていて、女なのか男なのか判然としないヒトが蹲っていた。
 泡を喰う男に突如礼を云うと声が掛けられた。声の主は美しいのか醜いのか判然としないヒトであった。そのヒトはなんなりともそなたの願うままと云って森の奥に去っていってしまった。
 男の斧で左腕を落とされた残った女なのか男なのか判然としないヒトの方はなんということをした、腕がなくとは刀が触れぬと苦しんでいる。手を突いて詫びる男にそのヒトは代わりにお主が刀を振れと命じた。だが、男にはどうしたことか刀が振れず、そのヒトはならば仕方がない、その刀で我を突けと云う。男が云われたとおりにそのヒトを刀で突くと、先程の美しいのか醜いのか判然としないヒトが消え去った方角から凄まじい叫び声がした。
 女なのか男なのか判然としないヒトは男に礼を云うと、自らを乙比古と名乗った。そして、続けてこの刀を森深く隠し人目に触れぬようにしろ、さもないと土地は祟られるであろうと男に告げた。
 男は云われたとおりに刀を隠し、わけを話して北東の森を神籬とし、以降立ち入らないよう村人に頼んだ。
 けれど、村人は男の話を信じずに男を嗤った。ある日、三人の村人が悪ふざけを思いつき、刀を捜しに北東の森に入っていった。するとどうしたことか翌日全員死んで川を流れて村に戻ってきた。
 それを見つけた村人は男の話は本当だと思い、嗤ったことを男に謝った。そしてやがて村人全員で社殿を建築し乙比古を祀ることにし、男は末の娘を巫女とし、自らも神主、今で云う宮司となった。そして、村の北東の森を『死の森』と呼ぶようになった。
 この話の中の男が篠守の祖先であると云われている。…昔話は退屈かね?」
見抜かれて俺は慌てて首を振った。
…正直云って指摘どおりにつまんねーってゆうか、わかんねーっていうか、日本昔話はどうでもいいから早く安良木に会わせろーとか思ってたけど。
それを知ってか知らずか、小さく苦笑して話を再開する。
「話がなかなか核心に辿り着かなくてすまないが、もう少し我慢してくれ。
 さて…そもそも神社とはそもそも産土神や天神地祇、皇室や氏族の祖神、国家に功労のあった者、偉人・義士などの霊を神として祀ったものだが、この口伝の女なのか男なのか判然としないヒトと表現されているような乙比古とは一体何者なのか、祀っている村人も、そして篠守の者であろうと誰も知らない。
 例えば、特定地域にのみ流布している民話の中で病を鬼に例えることや天候の擬人化がなされていることはそう珍しいことではない。従って、乙比古が当時の何らかの流行り病や天災であり、刀というのがそれを鎮める為の何かだった可能性もある。その上、口承されてきた民間説話には長い年月の間にモティーフの省略や混同が生じていても不思議ではなく、オリジナルと現存する口承の間に差異があることも十分考えられる。事実、物語として破綻している感が否めない。本当に『死の森』と呼ばれる森のどこかに男が祀った刀があるのかも誰も知らない。
 しかし、私は根拠や起源が曖昧な民話を受け継ぎ、語り継ぐことが悪いと云いたいのではない。
 問題なのは私の生まれたその閉鎖的な村では、ほんの数十年前まで何百年も昔から続いた因習を踏襲し続け、それを疑問視する者が誰も居なかったという点だ。
 つまり、村人は北東の森への立ち入りを禁じ続け、古い云い伝えを縁起とする乙比良神社を祀り続け、若武から始まる村人としてのフレームワークに拘り続け、そして、愚かにも何百年も村は得体の知れない乙比古の求めに応じ続け、現代においては非人間的としかいいようのないある儀式を執り行い続けてきたということなのだ」

「私には珠比良という姉と赫比古という双子の弟が居た。
 正直に云って、私と赫比古は村では浮いた存在だった。私は無口で可愛げのない子どもだったし、赫比古は逆に我が強く暴れ者で、おまけにろくにテレビも映らないような村でこの異人のような目だ。先祖が異人と姻戚関係を結んだという記録もないから、おそらくは近親婚を重ねたことによる弊害だろう。篠守という村の中核を成す主家の直系だからこそ表立って指を指されることもなかったが、我々兄弟は村人からは気味悪がられ疎まれていた。畏れられていたといってもいい。
 反対に、二歳年上の珠比良は村人からは敬われていた。弟の目からみても美しく優しい姉で、両親ですら持て余していた我々兄弟をよく可愛がってくれた。父を相手に逆らうことの多かった赫比古ですら珠比良のことはとても慕っていた。私と赫比古は偶に反目することもあったが、それすら珠比良に宥められれば治まった。珠比良を媒介することで我々は仲の良い兄弟であったと思う。…少なくともその珠比良と離れ離れにされるその日までは。
 ある日、突然私と赫比古は父から珠比良との別離を云い渡された。
 今日をもって珠比良は人を降りると父は口にした。珠比良は巫女になり、社殿に篭り、務めが終わるまで人と見えることは赦されない、と。
 兎にも角にもとても承服できず、我々は父に激しく抗議した。突然の話に私も赫比古も混乱していた。十二に満たなかった我々は若武となると教えられる、散々聴かされた昔話の裏にある儀式について何も聴かされてなかったのだ。二人で暴れに暴れ、村の掟を破り漸く聴き出したのはこんな話だった。
 篠守の娘は十になると一度死ぬ、つまり一度死んで人を降りて巫女になる。神輿に乗って死の森の奥の、禁忌とされていた土地へ運ばれる。そこで具体的にどのような儀式が執り行われていたのかは私は解らない。伝え聞いた話では、ストーンヘンジのような石の積み上げられた場所で、一種の死と再生の儀式を執り行う。
 その儀式を経ることにより巫女と成って人としての身も名も捨て零に還り、人の二年間が一年と数えられるようになり人とは異なる時を過ごすようになる。
 儀式が滞りなく終了すると、巫女は社殿に運ばれる。そこに一度脚を踏み入れてしまえば、巫女は十二の年、つまり二十四年もの間巫女を降りることはおろか社殿から一歩たりとも外へ出ることも赦されない。原則として人と口を利くのすら赦されず、食事や入浴の世話は巫女を降りた老女や空木羽と呼ばれる分家の女衆が面倒を任されていた。
 私たち兄弟は姉と引き離され、二十四年もの間見えることが叶わないはずだった」
 
「私たち兄弟の落胆は深く、特に赫比古は日を追うごとに目に見えて荒れていった。狼藉を働くようになり、父と何度も衝突していた。だが、それもやがて落ち着くようになり、赫比古が乱暴な振る舞いをすることは減っていった。
 村は元通りの単調な円環運動へと戻っていった。例えどれほどその儀式が人権を無視した非人間的なものであったとしても、ある意味とてもこの時機村は平和だった。
 しかし、私たち兄弟が十五、珠比良が十七を迎えた年だった。
 あってはならないことが明らかになった。
 人との接触を断ち、巫女として仕える身であった珠比良があろうことか身籠っていることが発覚したのだ。
 口を利くことは禁忌のはずなのに、父も母も年寄りも老女たちも皆が珠比良を責め質した、相手は誰だと。
 けれど、珠比良が相手の名を口にすることはなかった。村中の男が疑われ、空木羽の女は不始末を詰られた。村中が荒れた不穏な空気に包まれた。
 何を祀っているのか誰も解らぬくせに、その何かに罰を下されることを村中が畏れていたのだ。
 社殿で産むか、それとも掟を破り巫女を下界に出して産ませるか、それとも堕胎させるかで村の権力者たちは揉めていた。けれど、誰かがこう云った。孕んだのが例の乙比古の子であったのなら、だとすれば堕ろすことや外に出すことこそ逆鱗に触れるのではないか、と。
 結論が得られないまま時が満ち、結局珠比良は社殿の中で子を産み落とした。
 珠比良は相手が誰かを決して口にしなかったし、巫女としての務めもまだ残っていたこともあり、年寄りたちの再度の話し合いの結果、生まれた子を表向きは篠守の分家の若夫婦の子どもとして扱うことにした。だが、実際はその赤ん坊は珠比良と共に社殿に籠められ、村人の前に一度たりとも姿を現すことはなかった。
 珠比良が身籠り出産した後も畏れていたような異変は特になく、村人たちはやがてまた単調な日常に返って行った。
 けれど、二年後、また変事が生じた。
 珠比良は二十歳を前に亡くなった。病に伏せったところで、また社殿から出すか男の医者を神聖な社殿に入れていいものかで揉めて、そんなことをしている間に珠比良はあっという間に儚くなった。そして、まるで珠比良の後を追うように父も亡くなった。
 私は十七で篠守の当主となったが、発言権など無きに等しかった。私は年寄りたちの話し合いにろくに参加することもできず、ただ黙って成り行きを見ているしかなかった。
 これまで一度社に入った巫女が務めを果たす前に亡くなることは滅多になかったが、その場合妹や従姉妹といった娘が居た場合、その娘に後を継がせていた。それに倣って村人は空位となった巫女の座に当時まだ二歳だった珠比良の子を立てた。
 珠比良と父の葬儀が済むと、母までもこの世を去った。
 赫比古は……珠比良の四十九日が過ぎると村から姿を消した。この頃には…いや、珠比良の懐妊以降、私と赫比古の仲は急速に疎遠になっていた。どこで何をしているのか、赫比古は家に寄り付かなくなり、一週間もの間屋敷で姿を見かけなくとも珍しくも何ともないことになっていた。偶に口を利くとしても精々が二言三言、事務的な会話でしかなかった。そんな冷え切った兄弟仲だったから、私は特に赫比古を探そうとは思えなかった。家からは大量の金が消えていたからしばらくは生活の心配はないはずだし、両親の葬儀に赫比古は参列すらしなかった。それが許せなかったのかもしれないし、あるいは本当は心の底では私だってうんざりしていた因習に縛られ続けている牢獄のような村から開放してやりたかったのかもしれない。
 私が村で最後に赫比古の姿を確認したのは、霧雨の中、傘も差さずに珠比良の墓の前でじっと立ち竦んでいる後姿だった。その晩に何の書置きもなく赫比古は居なくなった。
 私は卒業したら正式に家を継ぐことを条件に叔父に家を任せて京都の大学に進学した。だが、私が大学四年生の時、村は凶事に襲われた。
 珠比良の子が篭っていた社殿が全焼した。
 知らせを受けて慌てて村に帰ってみると、社殿は跡形もなくなっていた。放火の線が濃厚だと云われたその焼け落ちた社跡からは人骨が発見された。立ち入ることが許されないその場所から発見された一揃いの骨が誰のものかはわざわざ口にするまでもなかった。一度も会うことなく私は姪を亡くした。
 この火事騒ぎの所為か、国に忘れ去れたような土地だったのに突然村にダム開発の話が転がり込んできた。巫女共々社殿という祭の中心を失った村人たちはついに村を捨てることを決心した。お飾りとはいえ篠守の当主になっていた私もそれを赦し、村は解体された。私も村を捨てた。
 京都に戻った私は大学院に進んで、ひたすら勉学に励んだ。
 私は村のことなどすっかり忘れていた。
 だが六年前、私が二十六になったばかりの頃だった。ある日、朝刊の片隅にあった記事に私は我が目を疑った。
 そこには村を捨ててからずっと行方知れずとなっていた赫比古の名があった。
 小さな記事には三日前男を刺して逃亡していたところを昨日逮捕されたと記されていた。慌てて京都から東京の警察署に赴いた私は、思いもよらなかった話を聴かされた。失踪した十年たらずの間に、赫比古は日本だけではなく、中国マフィアやアジアを拠点とする売春グループと手を結び、未成年者を中心とした買売春の元締めになっていたというのだ。それ以上に、身柄を確保された時に赫比古が連れていたという少女の名を聴いて私は耳を疑った。その少女の名は死んだはずの姪の名だった。私は訳が解らず、とにかく赫比古に会せてくれと赫比古の弁護士に頼んだ。
 接見した赫比古は約十年ぶりに顔を合わせた私を見て……笑った。
 暗い笑いだった。そして云った。アレは俺のモノだ、と」

「珠比良も安良木も俺のものだ、と」

「私はその時になって漸く自分が漫然と過ごしていたあの閉ざされた世界で何が起こっていたのかを理解した。
 姉が誰の子を身籠ったのか、誰が何の目的で社に火を放ち身代わりの人骨を置いていったのか、その連れ去られた子が一体どんな目に遭ってきたのか。
 そして、慣習を盾に流されるままに悪習を受け容れてしまったことがどれほど罪深い真似だったのかを」
からからの咽喉から渇いた声が漏れた。
「じゃ、あ…」
忍比斗さんは真っ直ぐに射抜くように俺を見た。
「先程の質問に改めて答えよう。君たちの見た映像の中の男は私ではない。あれは…篠守赫比古。私の双子の弟で、そして安良木の父親だ」
俺は言葉も出なかった。


忍比斗さんが立ち上がる。
「禁忌を破り、社殿に忍び込んだ赫比古は実の姉である珠比良との間に子をもうけた。珠比良が既に亡き今、それがどういう関係だったのかは解らない。ただ珠比良が死んだ数年後、赫比古は今度は安良木を求めた。身代わりに骨を置いて社に火を放ち安良木を攫っていった。全てを知った後、私にはそれがまるで珠比良を社から連れ去らなかったことへの後悔と、口伝を守り珠比良と自分を引き裂いた村への復讐のように思えて仕方なかった」
嵐が通り過ぎたような机の上から煙草の箱を取り上げると、一本抜いて火を点ける。
煙を吐きながら忌々しそうに目を細めたけれど、俺の目にはそれは煙の所為だけではないように映った。
「戸籍上は既に死亡したことになっていたが、正規の手続きを経て安良木の戸籍は回復した。あの子は篠守の分家のひとつ、私から見れば叔父夫婦の蓑本の娘ということになっていた。その時に私の養女とすることも考えたが、篠守という苗字に抵抗があったようなので戸籍は蓑本の娘のままにして、私は安良木の身柄を引き取った」
忍比斗さんがそこまで語ったところで、寿樹がちょっといいですかと軽く手を上げた。
「三年もの空白があるのは何故です?」
「三年?」
何のことだか解らず、俺は小首を傾げた。
なんでもないような顔をしながら寿樹は真っ直ぐに忍比斗さんを見ている。
「篠守先生が十七歳の時蓑本さんが二歳なら、先生が三十二歳の今蓑本さんは十七歳ですよね。それなのに僕たちと同じ中学校に通っている点について教えて頂けませんか?」
ええと…。
話を理解するのに精一杯だった俺は寿樹がどっから忍比斗さんが三十三で安良木が十七ってことを導き出したのかイマイチ理解できず、でも寿樹が何かを試そうとしているのはその顔で解ったから黙ってその横顔と忍比斗さんを見比べた。
煙のような溜息のような、どちらにしても苦いものを吐き出しながら忍比斗さんは微かに笑う。
「疑うのも無理はないかもしれないが、最初に約束したとおり私は嘘は語っていないよ。その三年は即興のでたらめ故の齟齬などではなく、事実、君の指摘どおり、あの子は本当に君らより三歳年上なんだ。赫比古の罪は逮捕の直接の原因となった傷害以外にも未成年者の売春斡旋等の余罪を含め、君らの目に触れてしまったような安良木への暴行も含まれている。
 赫比古の逮捕と同時に保護された安良木は度重なる暴行によって、非常に不安定な精神状態だった。PTSDと云われるような深刻な状態で、フラッシュバックや侵入的想起に苦しまされ、感情は鈍麻し、過剰警戒や驚愕反応に陥っていた。なので、学校はおろか外出すらままならなかった。一年間は殆ど外に出ることすら叶わず、とにかく自らのコントロールを取り戻す為の安定化を図った。後の二年はさらに安全な人間関係を築き、それから安全だと思える環境を作ることに費やされた。また、生まれてからずっと社殿に籠められ、赫比古に攫われてからは奴に囚われていたあの子は絶対的に教育が足りなかったので、平行して一般的な学力のみならず、コミュニケーション能力といった社会的知性を上げる必要もあった。三年間の遅れはその為だ。
 それに…日もろくに当たらない社殿に幼少時から閉じ込められ、その後赫比古の支配下で極度のストレスに晒されていた所為かあの子の身体は平均よりも発育が悪い。君たちがあの子が自分と同い年であることを疑うことがなかったのも無理はない」
俺は……もう何を聴いたって驚かないってぐらい信じられない話を聴いてたはずなのに、それでも呆然とせずにはいられなかった。
安良木が、あの明るくて俺なんかよりよっぽど社交的な安良木が外にすら出れなかったなんて。
「ついでに云ってしまうのなら君たちが不審に感じたあの窓の格子はあの子の安心の為のものだ。保護された直後、あの子は窓が開いていると強烈な不安に襲われて極度の興奮状態に陥ったり、パニックを起こすことがあった。それが例え大きかろうと小さかろうと、とにかく窓というものがあの子にとってトラウマを想起させる不安の象徴なのだ。安良木が云うには赫比古は老女たちが出入りしていた正面脇の扉ではなく、裏に面した引き戸から侵入して安良木を連れ去ったらしい。その記憶、赫比古は扉ではないもの、あるいは正面ではなく裏から来るというイメージから、またそこから赫比古がやって来て自分を連れ去るのではないかとあの子は扉ではなく窓を恐れていた。かといって窓のない物件を探すのは困難だ。従って対処療法として、窓を塞ぐことにした。扉の鍵も同じだ。密室、閉じた空間、誰も侵入出来ない、それがあの子にとっての『安心』なんだ。
 だが、中学に通い始めてからは安定していたので雨戸も開けられるようになったし、雨戸のない窓に取り付けていた格子の方も外していた。健常者と何ら変わらなく、普通に過ごせるようになっていた。それを再び取り付けたのは一月ほど前のことだ」
俺はどきりとした。
それは丁度安良木の様子がおかしくなり始めた頃だった。
声が震えそうになる。訊くのが怖い気がしたけれど、訊かないでいることも出来なかった。
「何故?」
忍比斗さんの目にさっき見せたような強く険しい光が宿る。
「赫比古の出所だ」
俺は息を呑んだ。
四角い画面の中で見た後姿が脳裏に閃く。
出所って…刑務所から出るってことだよな?あんな酷いことしたのに出てくるのか?
「たった六年でもう出てくるの?」
「ああ。おそらくは既に出所しているのではないかと思う」
(死ぬまで入ってれば良かったのに)
俺は本気でそう思った。
人権保護がどうのって云ってるような奴らにはスゲエ怒られそうだけど、でも俺は本当に本気でそう思った。
だって俺は安良木の傷口を知ってる。
あれはたった数年ムショに入ればチャラにされちまうものなのかよ?法律ってゆうのはそんなモンなのか?
俺はムカムカと腹が立って腹が立って仕方がなく、テーブルの下で骨が軋むぐらいぎゅっと拳を握った。
「赫比古は……おそらく安良木を諦めまい。あれの珠比良と安良木への執着は度を越している。保護観察期間といえど何ら安心出来ない。あの子もそれをよく解っていて、赫比古の出所予定日が近付くにつれ窓が開けられなくなっていったし、眠ることも薬がなくては難しくなっていった。あの後、安良木に武蔵森で何があったのか聴いたよ。一ヶ月以上前なら耐えられたんだろうが、どうしても暗闇や人に囲まれているといった状況に耐えられなかったそうだ」
俺はそこではっとなって背筋を伸ばした。
テーブルに額をぶつけそうな勢いで頭を下げる。
「あ、あの、俺、ごめんなさい。俺、ラギが元気ないって云うか、何か変だって思って、それで一昨日誘ったんだけど、元気どころか、あんなことになっちゃって」
しどろもどろの俺の言葉に忍比斗さんが優しく微笑んだ。
「君が気に病む必要はない、事情を知っていた訳でもなければ、わざとだった訳でもないのだから。むしろ誘ってくれてありがとう。前日に君と出かけることを安良木はとても喜んでいたよ」
それでも俺は申し訳なくて、もう一度すいませんと頭を下げた。
忍比斗さんは煙草を揉み消すと再びこっちに戻ってくる。
君は安良木の憧れだったんだよ」
…………あこがれ?
俺は云われた意味が解らなくて頬を顰めて忍比斗さんの顔を見た。
「入学式当日、君は君を揶揄したクラスメートを殴りつけ屈服させたそうだね。単なる力という意味だけではなく、安良木は君のその強さに憧憬を抱いていた」
そう云って忍比斗さんは少し笑った。
笑っているのにどうしてか酷く哀しげな微笑み。
それは一昨日忍比斗さんが俺に見せたものと同じ類のものだった。
いつ見たのか、どこで見たのか解らない、それでもそれは安良木がいつか俺に見せたものとよく似通った笑みだ。
思い出せと自分に命令する。ざらざらと溢れてくる記憶。その中のひとコマ。薄暗い廊下。俺は咄嗟にそれを捕まえた。薄暗い廊下、それから水道の音。音。声。
瞬間、頭の中で何かがスパークした。
「思い、出した…」
血の気が引くような感じがする。
一昨日忍比斗さんの笑顔に俺が覚えた既視感。
それはあの日、安良木が見せたものに良く似ていたんだ。
入学したての一年の時、俺が上級生から何度目かの呼び出しを喰らった日、放課後廊下で偶然出くわした安良木は女のくせに全然俺の返り血に動じることなく云ったんだ。
どこか哀しそうに笑いながら。
「ラギ、前に俺にこう云ったんだ……身を守れるだけの、力があるのは良いことだって…」
安良木にはなかったんだ。
幼い安良木には身を守る術は何もなかったんだ。
吐き気があるわけでもないのに俺は口元を押さえた。
そうでもしてないと今度こそ俺は泣き出しそうだったのかもしれない。
寿樹の大きな手のひらが慰めるように俺の頭を撫でた。
俯いた俺の向こうで忍比斗さんの「そうか、そんなことを」という独り言みたいな台詞が聴こえた気がする。
「社会的な生活が送れるレベルに達したと判断したとはいえ、それでも学校にあの子を送り出すことに不安はあった。勉強熱心で学力的には何ら問題はなくなったものの、これまで自分と同年代の子どもと接する機会のなかったあの子が果たして環境に適応できるのか、それは実際に経過を見てみないと何とも云えなかった。結果的にはあの子は環境に適応できたし、情緒も安定し社会的知性も格段に向上した。そして、それは君たちが、特に君の存在によるところが大きいと私は考えている」
「違う!」
違うと思った瞬間、俺はもう叫んでいた。
「俺はそんなんじゃない!全然っ…ぜんぜん、そんなんじゃない……っ」
何で。
何で何で何で皆してそんなに俺のこと買い被ってんだよ?
俺なんか全然馬鹿で鈍感で役立たずで、ついさっきまで現実から逃げ回ってたような奴なのに。
「赫比古や私を恨むよりも、あの子は自分の無力さを嘆いていた」
駄々をこねるみたいに俺は首を振る。
「だってそんなのラギの所為じゃないじゃないか!ラギは被害者だろ、子供なんだから無力で当然だろ、酷いことをする大人が悪いのにどうしてラギがそんな責任感じなきゃならないんだ!」
「それが社会通念的には正しい認識だろうね。通常の道徳に照らし合わせれば、悪いのは安良木ではない、赫比古であり、珠比良であり、私だ。けれど、あの子に云わせると、自分は通常許されるべきではない関係によって生まれてきた。だから、社会一般に適応されている道徳が自分に適応されることはおかしいということになってしまうらしい」
気が振れたみたいにぶん回していた首が止まる。
…なんだそれは?
何か変じゃないか、それ?
俺は返す言葉を見失って忍比斗さんを見上げる。
忍比斗さんはやっぱり哀しそうに微笑っていた。
「だからこそ外部環境に左右されることのない、君個人の内的な性質や能力に余計に惹かれたんだろうね。周囲から孤立することすら恐れない確固たる自尊心と、それを貫くだけの力を君は持っていた。あの子の語る世界に存在する君はいつだって歪んだところのない真っ直ぐな存在だった。こう在りたい理想像だ、という表現を使ったこともある
 あの子は私のことも赫比古のことも珠比良のことも怨んではいないと云う。三年の間にあの子は自分の生い立ちを受け容れたし、この先の未来を生きていこうとする意欲も手に入れた。
 しかし、仮定の話をしても詮のないことだが、ここ数年、私はあの子が理想像とした君の話を語った後にどうしても思わずにいられないことがあった。その理想通りにもしあの時赫比古の甘言に惑わされない心とあるいは伸ばされた手を振り払うだけの力があったら、あの子の今はもっと違ったものだったかもしれないのだから」
俺は忍比斗さんの気持ちが痛いほど解る気がした。
そうだったら、どんなに良かっただろう。
確かにそんなこと考えたって無駄かもしれないけど、それでも『もしそうだったら』って思わずにいられない。
だって、安良木が好きなんだ、俺も忍比斗さんも。
好きだから起きてしまった過去が悔しくて哀しくて、例え無理だと解っていても考えずにはいられないんだ。出来ることならタイムマシンに乗ってでも安良木を救いに行きたくて仕方がないんだ。
「さて…済まなかったね。長々と楽しくもない昔話をしてしまった」
短い沈黙の後、忍比斗さんが再び机の方に戻り、散らかった本を拾い始めた。俺も慌てて立ち上がり、もう何度目なのかまた頭を下げる。
「あの、さっきは俺スイマセンでした」
バネ仕掛けのように頭を起こすと、俺は今度は机の下のペンを拾う為に床に這いつくばった。そのすぐ脇で寿樹も紙を集め始めている。
「誤解をするのも仕方がない。私と赫比古は一卵性双生児だ、顔も体つきも瓜二つだからね。ただし見分けるのは簡単だ、赫比古は私とは反対の目が青い。だから私たちは普通の双子がやるような、入れ替わることで周囲の人間を欺く様な遊びは叶わなかった」
膝をついたままペンを机の上に戻して、俺は忍比斗さんの横顔を仰ぎ見た。
目の前の忍比斗さんとは反対の目が青い男。
クリップを拾い集めながらあの後姿とその顔を結びつけようとしてみたけど、どうも上手くいかない。
三人でやれば片付けはすぐに終わった(ただし中身が折れ曲がったりした本とかがあって、俺はひたすら平謝りするしかなかったけど。しかも最初に忍比斗さんが書いていた例の書類、事務課とやらが五時に閉まってしまうそうだから新しいのを貰うことも今日はもう不可能ということだった。本当に俺サイアクだな……)。
項垂れる俺に「どうせ事務課に怒られるのはいつものことだから」と意外な台詞を吐きながら、忍比斗さんは鞄に手を伸ばす。
「日も暮れたし私は帰ろうと思う。安良木に会っていくかね?」
「いいの?」
「君らならあの子は拒むまい。ただし、先程私が語った内容に関しては秘密にしておいてくれ。
 それと図々しいお願いなんだが、学校での安良木のことを頼めないだろうか。流石に赫比古が学校に忍び込むとは思えないが、赫比古の問題だけではなく精神的な問題もあの子は抱えている。この先、あの子が先日のようなパニックに陥る可能性は十分ある。出来得る範囲でいい、あの子の傍に居てやってくれないか」
俺は大きく頷いた。
そんなのお願いされなくても俺は当然するつもりだった。
「うん、ずっと一緒に居るよ、クラスも一緒だしトイレだって俺なら付いてけるし。行きとか帰りはどうするの?学校行くなら、俺朝とか迎えに行くよ」
「僕も協力します。トイレは入れませんけど、送り迎えとかは協力可能ですから」
寿樹の言葉に俺は噴出しそうになる。
忍比斗さんもちょっと笑って、でもすぐに真剣な表情に戻った。
「ありがとう。それから…確かにあの子は普通とは少し違うかもしれないけれど、どうかあの子を憐れまないでやって欲しい」
俺は頷くとそのまま俯いてその言葉を噛み締めた。
俺は憐れんだりしない。
でも守る。全力で守る。
安良木が欲しいと望むのなら俺の力を使えばいい。
それで俺が何を失っても構わない。
だって安良木が俺にしてくれたことに比べたら全然薄っぺらい。
女になったあの日、盗撮魔を追いかけようとした時。
それから、ジョーイの尻尾を掴もうと躍起になって無茶をした時。
安良木がどうしてあんなに必死で俺を止めようとしたのか。
だって、安良木は知ってたんだ。
この世にどれだけ汚い大人がいっぱい居るのかを。
俺を守ろうとしてくれたんだ。なのに俺は聴く耳を持たなかった。全部無視した。
フットサル場でシドに絡まれた時だって、安良木は自分を置いて俺に逃げろと云った。
俺と違って連れ去られたらどんな目に遭わされるか予想がついてたろうに、それでも俺に逃げろと命じた。
一体俺は安良木をどれだけ踏み躙ってきたんだろう。
安良木の目には俺はどれだけ愚かでもどかしい存在に映った?
自分勝手で解らずやな俺をどんぐらい心配した?
思いが伝わらなくて哀しかった?
でも、一生知らない振りを貫く限り、俺はごめんなって声に出して謝ることは出来ない。
だからその代わり俺は何を犠牲にしても安良木を守ろう。
絶対に赫比古なんかに渡して堪るものか。
もう一度心の中で像を結ぼうと努力してみる。
忍比斗さんとは反対の目が青いという男。
自分の姉と自分の娘に執着するイカレた男。
敵だ。
コイツが、俺の敵だ。
忍比斗さんはロッカーからコートを取り出しながら、ふと思い出したように俺たちを振り返った。
「そういえば、解せないのは何故ネット上にあの子の映像があるのかということだ」
「それは誰かがビデオの映像を…」
寿樹が云い辛そうに語尾を濁す。けれど、忍比斗さんはコートに袖を通しながら軽く首を振ってみせた。
「ああ、そうではない。私が疑問に思っているのは手段についてではなく、発信元に関してだ。確かにあの子は赫比古によって行為の映像を何本か撮られていた。それは間違いない。しかし、それを収めたテープはとうの昔にこの世には存在していないはずであり、つまり何故今頃になって存在し得ないはずの映像がネット上に流失したのかという点が私には理解出来ないんだ。赫比古が安良木との行為を記録したものは全部で八本あったが、それらは全てマスターテープが一本存在しただけで、販売目的のものはおろかダビングですら存在してないはずなのだ」
「マスター一本しか存在していなかったのですか?」
寿樹が軽く驚きの声を上げる。忍比斗さんは苦い顔で頷く。
「ああ。犬にも劣る行為なことに違いはないが、それでも赫比古は奴なりに安良木を大事にしていたんだ。他の少女とは一線を画し、客を取らせたりもしなかったのだよ。安良木に触れていいのは赫比古だけだった。アレはむしろ赫比古自身の為のものであり、上映会と称してあれを流したことはあったそうだが、赫比古は上客にさえダビングテープを売ることすらなかったそうだ。そして、押収されていたオリジナルは私の手で処分した。ダビングもマスターも存在していないはずのものが一体何故この世にあるんだ?」
「それは……確かに妙な話ですね」
寿樹の不信げな声。忍比斗さんの真剣な表情。
話を俺は確かに聴いていたけど、最早どこかふわふわとしていた気分でいっぱいだった。
大事なことかもしれないけど、俺には今はどうでもいいことのように思えたから。
だってそれよりもやっと安良木に会える。
逃避かもしれないけど、過去よりも未来のことを考えたかった。この先安良木と一緒にいる為に俺がすること出来ること、そういうことに比べたらそんな話物凄くどうでもいいことのように思えて、俺は二人の話から心を逸らしてふらふらとブラインドの下りた窓へと歩み寄った。
人差し指で隙間を作って、そこから覗いてみた空には月がもう浮かんでいる。
俺は意味もなくその月に向かって微笑みかけた。


俺と寿樹は忍比斗さんの運転する車で新しい引越し先へと向かった。昨日急に引っ越したのにはちゃんと訳があった。ただし朝俺が想像したような理由ではなく、一昨日の夜マンションの下に不信な車両が停まっていたらしいのだ。それで万が一のことを考え、急遽引越しを繰り上げたらしい。
今度のマンションには受付があって、ホテルのロビーみたいに制服を着た男の人が居たから俺は軽くビビった。
けど、忍比斗さんが一緒だったから、おかえりなさいませとかこそばゆい台詞を吐かれてそれでエレベータまで難なくスルー。物珍しさに通りすがりに良く見てみたら、受付の後ろの扉のない小部屋の奥に警備員の人たちが詰めていた。エレベータにもカメラがついてるし、人が容易く侵入できそうもない。そのことに俺は安心した。これなら赫比古だって忍び込めまい。
音もなく揺れもない乗り心地のいいエレベータを七階で降りる。忍比斗さんは迷うことなく廊下の奥へと進む。
忍比斗さんが取り出したのは俺が見慣れているのとはちょっと違った変な鍵だった。
期待に心臓がどきどきする。
がちゃり、という音が待ち遠しい。
やっとこれで安良木に会える、ってわくわくしていた俺は忍比斗さんが開けた扉の脇から待ちきれないみたいに中を覗き込む。
けどその瞬間、冷水を浴びせられたように胸が凍った。
「安良木」
忍比斗さんの声が廊下の壁に跳ね返る。
返事はない。脈が速まる。急速に膨れ上がる嫌な予感。
俺は知ってる、この静けさが何を意味するかを。
返事がないことは重要じゃない、返事より、音だ。
音が無くて余りにも静かなんだ。
例えばウチなら玄関を開ければ洗濯機やテレビや台所の音、時にはヒナコの歌声が聴こえてくる。
そういうのが全くないんだ。人の生活音がない。
つまりそれは人の居る気配がないんだ。
この静けさの名は、『不在』だ。
「安良木…?」
忍比斗さんがもう一度呼びかけたけど返事は返らない。
一瞬後、火が点いたような性急な仕草で靴を脱ぐと忍比斗さんが足早に奥へと向かう。
俺はくらくらと眩暈を起こしそうになりながら、それでも靴を脱ぎその後を追う。
開け放たれた居間へと続く扉を潜る。
入ってすぐにテーブルの上に載っている真っ白い紙が一枚目に飛び込んできた。
忍比斗さんが大股でテーブルに歩み寄り、その紙を挟むように両手をつく。
その手の指がゆっくりと木目を抉るように拳に握られていく様を俺はじっと見詰めていた。
「…赫比古」
呻くような低い声。
「忍比斗さん…?」
俺の声なんて届いてないみたいに、忍比斗さんは拳を振り上げた。
絶望じみた激しさで叩きつけられた拳。
暗く重い音が室内に響き渡った。
その音は俺の空っぽの頭の中で何度も何度も反響して跳ね返る。
「…赫比古……赫比古、貴様という奴はどこまで…っ」
もう一度拳を叩き付けると、忍比斗さんは踏み躙るような荒々しい足取りで電話へと向かう。
風圧で舞い上がった白い紙がふわりと俺の足元へと滑り落ちてきた。
さっきは気付かなかったけど、テーブルの上には見たことのあるブルーの携帯も置いてある。
俺はしばらくその蒼い携帯をぼんやりと眺めてから、足元の白い紙に視線を落とした。


『ごめんなさい。今までありがとうございました。  安良木』


…………何だ、これ?

何だよ。
ラギいないの?
今度こそ会えるはずだろ?
何だよごめんなさいありがとうっていうのは。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
こんな現実俺はいらない。
こんなの俺は見たくない。
嫌だ。
「なあ…忍比斗さん……冗談だろ?ラギ、本当はどこいんの…?」
俺の声のはずなのに、頭の方から抜けてくみたいに全然どっから声が出てるのか解らなかった。
忍比斗さんは背を向けたまま答えてくれない。
俺は馬鹿みたいに突っ立ってる。
見たくない世界をその目で捉え続けてる。
「…ねえ…ラギはどこ……」
ぐらりと身体が傾いた。
寿樹が黙って俺の肩を抱き寄せてその胸で俺の目を塞いだ。


、そんなに乗り出したら危ないよ」
肩を掴まれた。
俺は覗き込んでいた水面からのろのろと顔を上げる。
ちらりと寿樹を見て、俺は結局顔を戻す。けど、相変わらず暗いだけで何も見えない。
「なあ寿樹…俺って幸せだったんだな」
忍比斗さんはずっとどこかに電話をし続けていた。捜査ナントカの誰々さんとか云っていたような気がするから警察にかけていたのかもしれない。
俺と寿樹は一時間ほどあそこに留まっていたけど、その間有力な情報が転がり込んでくることも安良木が帰ってくることもなかった。
たった一時間の間に酷く憔悴したふうに面変わりしてしまった忍比斗さんがふと顔を上げ、俺たちにぎこちなく微笑んでとりあえず今日はもう帰った方が良いと告げた。
だから、俺たちは安良木に会えないまま辞去してきたんだけど、どうしてか俺は今地元にある橋の上からこんな時間じゃもう何にも見えない川面を覗き込んでたりする。
「…でも、こんなふうに誰かの不幸せと比較して自分の幸せを量るなんて行為、間違ってるよな」
俺の両親は普通の恋愛結婚で一緒になった。
ヒナコとショウヘイは時々バッカじゃねーのって思うぐらい未だにイチャイチャしやがる。絶対毎日最低五回はキスしてるに違いない。
ウゼエ時も確かにあるけど二人は俺を可愛がってくれる。
あったかい布団があってあったかい食事が毎日俺の為に用意されている。
自由にどこだって行けて、小遣い貰ってるし金にだって別に不自由してない。やりたいことをやらせてもらってる。
でも、そんなのどこにだって転がってるものだと俺は思ってた。
自分を愛してくれる両親も安全な家庭も、ちっとも特別なことなんかじゃないって思ってた。
誰でも持ってる当たり前のもんだって思ってた。
持ってない奴がいるなんてこと、考えたこともなかった。
「なぁ…ラギはどうしてあいつのとこに戻ったんだろ…」
不意にどこか篭ったメロディが流れた。
それまでただ黙って俺の横に立っていた寿樹がポケットに手を入れる。音の発信源は寿樹の携帯だった。
ちらりと画面に視線を流した後、寿樹は俺に携帯を差し出す。
、ヒナコさんだよ」
別段変なことを云われた訳じゃないのに俺はびくりと凍りついた。
電子音は単調に鳴り続けてる。
俺は寿樹と目を合わせたまま一言も言葉を発せなかった。
やがて携帯は留守電メッセージに切り換わる。アナウンスの後、聴き慣れた呑気な声がちょっと篭った調子で周囲に零れ落ちていく。
『もしも〜し、トシ君、ヒナコで〜す。あのね〜ちゃんがまだ帰ってこないんだけど、トシ君一緒にいるかしら〜』
「寿樹切って」
ヒナコの声は平和そうで、平和すぎてヒナコは悪くなんかないのに俺は堪らない気持ちになって酷く自分勝手な台詞を吐かずにはいられなかった。
ピッて音と同時に夕飯はって云い掛けたヒナコの声が突然千切れる。
辺りはまた静かになった。
俺は欄干を握り込んだままずるずると地べたに座り込んだ。額を冷たい鉄の棒に押し付ける。
「寿樹……俺、どうしよう…家に帰りたくない」
俺は酷く疲れていた。全身が泥のように重い。
でも家に帰ることも出来ない気がした。
幸せな自分が赦せなくて、俺は今家に帰ったりしたら何かをメチャクチャにしてしまいそうだった。
「そう」
蹲った俺のすぐ横、天辺から降ってくる声。
「いいよ、帰りたくないなら僕はずっとと一緒に居てあげるよ」
俺は見えない糸に引っ張られているみたいにのろのろと顔を上げた。
寿樹の背後では月が輝いている。
雲のない澄んだ夜空、透明な月光を受けながら寿樹は笑っていた。
全然優しくない顔で。
「泣いてもいいよ、そうしたら僕が慰めてあげるから。今僕の腕に縋るのなら一晩中ずうっと抱き締めて君の心をやわらげる気持ちのいい言葉を囁いて、そして今日見たことを思い出さないようにしてあげるよ」
呆然と寿樹を見上げる俺に向かって大きな手が差し伸べられる。
それは今日何度も俺を励ましてきた手のひらだった。
が本当にそれを望むのならね」
………俺の、望み?
アスファルトの上で拳を握る。
「…れは…ラギに会いたい」
今の俺にそれ以外在る訳ない。
会いたい。会えない理由が在るというなら、それを排除する。安良木を傷つける奴らを俺は赦せない。
安良木を助けたい。
「俺は、ラギを助けたい」
もう一度はっきりと口にすると、泥が絡み付いて完全に機能停止していた心がゆっくりと再び動き始めるような気がした。錆び付いた神経に血という油が巡り始める。
首が痛くなるような角度で寿樹を見上げながら俺はうわ言のように口を開く。
「あの置手紙…字はラギの字だった…でも、変だ。赫比古が来るのをあんなに怯えていたのに、どうしてまた自分からあいつのとこに戻るんだよ」
寿樹が真剣な顔で頷く。
「そうだね。僕もその点が納得いかない。絶対何か裏があると思う」
そうだ、絶対何か裏があるんだ。絶対何か理由があってそれで仕方なく安良木は赫比古のところに戻ったに違いないんだ。
だったら俺に何が出来るだろう。
俺は自分の手元へと視線を移した。拳に握られている手を裏返して開いてみる。
空っぽの手のひら。
俺の手は何も掴んでなかった。
いったい俺は今日何回祈ったのだろう。
そしてそれが何回叶っただろう。
どれほど祈ろうと俺の手は何も掴めなかった。掴んだと思ったら悉く指の間を擦り抜けて落ちていった。
でも、本当に俺の手は何も掴めないままなのだろうか?
ここでこのまま蹲って嘆いているならきっと空のままだろう。
何を呪っても失ったものが魔法のように元通りになることもない。
どれだけ叫んでも千切れるぐらいに泣き喚いても神なんて当てにならない。
そして、どれだけ酷いことが起こったとしてもそれで世界が終わる訳じゃない。
深く息を吸い込む。
目が、覚めた。
咽喉の奥で掠れた笑い声。俺は愚かな自分を嗤う。
祈ることは自分の支配権を明け渡すことだ。
運命だからと自らの境遇を諦めることは可能性を放棄することだ。
神なんて存在しない。今この世界の全てで起こっていることは運命なんかじゃない。自分と誰かの行動が絡み合ってその結果として現実というこの世界が形成されているだけだ。
未来は決まってなんかいない。
だったら俺は掴めるはずだ。
空の手のひらを強く握り締めると俺は勢いよく立ち上がる。
俺は認めない。
こんな現実は赦さない。
安良木のいない未来を俺は選ばない。
俺は取り返す。
必ず安良木を掴まえてみせる。
俺は寿樹と目を合わせた。
「俺はラギを助け出す。ラギがアイツのとこに行ったのは、お前の云うとおり絶対何か理由があるはずだ。仕方なく行ったに決まってる。俺はラギを助け出す。だからお前にも協力して欲しい」
俺の言葉を最後まで黙って聴いた後、寿樹は穏やかに微笑んだ。
「いいよ。がそう望むなら僕はそれに従うよ」
何か堪らない気持ちが込み上げてきて俺は俯いて歯を喰い縛った。
息を吸って吐いて、俺はもう一度顔を上げる。
「俺」
「待って。気持ちは解るけどそれはあまりにも無謀だよ。どこを探すというの?何の手掛かりもないのに」
見透かされて俺は一瞬言葉を見失う。それでも狼狽えながら寿樹の言葉に抗おうと必死で言葉を捜す。
「でもラギが、でもだって俺」
「明日の朝もう一度篠守先生のところに行こう。蓑本さんが帰ってきてるかもしれないと期待するのは余りにも楽観的過ぎるけど、何か行方を示す有力な情報が舞い込んでるかもしれない。それから、あの赫比古という人について詳しく話を聴こう。敵を知らなくちゃ戦略も立てようがないからね」
寿樹の云うことは凄く正しい。なのに俺は素直に頷くことが出来ない。頷く代わりにすぐ横の真っ黒い川面に目を逸らす。

寿樹の大きな手が俺の頭に置かれた。その重みで頭が傾き、視線がさがる。
「今日はもう家に帰ろう。家に帰ってご飯を食べてお風呂に入ったらすぐに寝た方がいい。君は疲れてるよ」
俺は寿樹と自分のスニーカーを睨みながら唇を引き結ぶ。
斜めに傾いだ俺の頭を寿樹の大きな手のひらがゆっくりと撫でている。
「…ねえ、。僕も蓑本さんも君が酷く愛しい。僕らにとって君はとてもかけがえのない人なんだ。君が幸福であることを望むことはあっても、それを妬んだり嫉むことはないよ。ましてやそれを不公平に思い、君を嫌いになることなんてあるわけがない。だから、心配しないで、。僕らが君を遠ざける日は決してこない。
 それに、君は誰かの幸福を盗んだ訳じゃない。
 君がそんなふうに自分の幸福に罪悪感を感じる必要はないんだよ」
頭が軽くなる。
去ってゆく手のひらを追いかけるように俺は顔を上げた。
寿樹はくるりと月光を振り返ると、「帰ろう、家へ」と云って歩き出す。
釘で縫い付けられたように動けなくなっていたはずなのに、磁石に引き摺られるみたいに俺もふらふらと脚を踏み出す。
少し前を行く背中。
その後に続きながら、俺は寿樹の指へと手を伸ばす。
手を握ると寿樹は一瞬驚いたように俺を見て、それから照れたように笑ってとしっかりと握り返してくれる。
意地でも俯くもんかと顎を上げ前を睨みながら、俺は息を詰めて涙を堪えていた。


寿樹がいて、良かった。


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