、危ないよ」
腕を掴まれてはっとなる。
目の前の信号は点滅を終えてちょうど赤に切り換わったところだった。金持ちくさいオバチャンがアルファロメオの運転席からさも迷惑って感じの視線を俺に投げつけ、交差点へとちょっと横暴なスピードで突進していく。あの忙しない様子じゃ寿樹が腕を引き止めなかったら俺は轢かれていたかもしれない。
俺はぞっとして唾を飲み込む。でも背筋を凍えさせたのはほんの斜め先の未来でミンチになってる自分の姿を想像しちまったからじゃない、そんなことよりむしろ自分が何でここにいるのか一瞬本気で心底不思議でならなかったからだ。
安良木の部屋を後にして、エレベータに乗って、管理人室に行って、マンションを出て、それらほんの数分前の一連の出来事は確かに思い出せる。それなのに思い出せるのに自分の足でここまで歩いてきたはずなのに、雲の上でも歩いていたみたいに現実感というものが見事に欠如している。汚れたフィルター越しに誰かの後姿を眺めているみたいに、まるで全部が全部他人事みたいだった。
「悪い、ちょっとぼーっとしてた」
俺は頭をふってしっかりしろと自分に云い聞かせる。いつまでもショックを引き摺って現実逃避している場合じゃない。
さっさと頭を切り替えなきゃ駄目だ。
ぼうっとしてる暇なんて俺にはないはずだ。
早く安良木を見つけなければ。
やすらぎ、とその名を胸の中で呟くことで霧散していた神経が収束してくるような感じがした。同時に空っぽだった頭の中にぐるぐると安良木の姿が溢れて巡りだす。武蔵森でのことからあの牢獄に閉じ込められるまでのこと、それからいっそ忘れてしまいたい痛々しい過去のことまで甦ってくる。
篠守って名前は何なんだよ?
安良木は蓑本なのに。あの『先生』の苗字?だとしたら安良木は赤の他人と暮らしていたのか?けど、どう見たって無関係とは思えないぐらい安良木とあの人はよく似ていた。やっぱりどこか血は繋がってるんだと思う。少なくとも叔父とか確実に親戚筋だろう。
その、いわば『身内』の人間が安良木をどこに連れ去った?
予定をムリヤリ繰り上げて引越しをしなきゃならない理由がこの世にどんだけあるのだろう。どうしても引っ越さなきゃならない、つまり引っ越さなきゃ都合が悪い理由はなんだ?
俺たちに連絡網にさえ載せてない住所を知られてしまったから?
それとも安良木を閉じ込めている檻を俺たちに見られてしまったから?

だったらどうなる?

全身に寒気が走った。
もしそうだとしたら、結果的に俺たちに秘密をバラしたことになる安良木は大丈夫なのか?
何しろあんな檻のような部屋に閉じ込めるような奴だ、絶対普通の神経してない。
身を案ずる、とかそんな綺麗な云い方では済ませらない、云いようがないほど深い不安が湧き上がる。ヘドロのような真っ黒い思惟が足元に絡み付ついてきて俺はぶるりと身を震わせた。
雲の上を散歩している暇なんてない、地に足を着け泥の中を這いずり回らなければいつまでも安良木を見失ったままだ。
「駅についたら少し休もう。駅前にスタバと、ちょっと離れたとこにマックもあったし」
危なっかしくて見てられなかったのか、寿樹がまた俺の手を引いて歩き出す。
「別に休む必要なんてねぇよ。なあ、お前はこの後どうする?」
顎を上げた瞬間、瞳が捉えた映像に俺は顔を顰めた。
俺の視線の先には寿樹の左肩があった。ほんの少し寿樹の方が歩くのが速くて前を行く所為で、見上げたそこには肩とせいぜい耳の辺りが映るだけだった。横顔の片鱗すら窺えないことに酷い裏切りを受けたような気分に襲われる。
何故ならその左肩は俺にとって不愉快な違和感を齎したからだ。
一緒に居る時、寿樹は大抵俺の隣か俺の後ろに立っていた。何か非常事態が起きた場合だって、すぐにカッとなりやすい俺の向う見ずで無鉄砲な性格に因るものなのか、超マイペースな寿樹の呑気で面倒くさがりな性格に因るものなのかは知らないが、いつだって前を行くのは俺のはずだった。幼稚園からの腐れ縁の俺たちにとってそれが『当然』のはずだった。
ただし俺が今腹を立ててるのは寿樹が俺の前に立ってる所為じゃない。くだらないプライドを振りかざしているんじゃなく、何で今その『当然』をわざわざぶち壊すのか、ってことに対して俺は苛立ちを抑えられなかった。
何で今このタイミングでわざわざ違うことをするのか、何でコイツはまたしても俺の目を見て話をしないんだとかそういうことに俺はムカついていた。俺の目を見ないのは寿樹が何か俺に隠し事をしているサインだ。今も何かを隠されているのかと思うと殴り付けてやりたいくらい嫌な気分だった。
けれど、隠し事なんて本当は存在せず、それは俺の単なる醜い疑心暗鬼だという可能性もある。きっと寿樹だって俺と同じように動揺しているに違いない。嘘吐きなコイツは痛くとも笑ってみせる、今も平気なようで平気じゃないのかもしれない、そうも思う。だから、俺の顔を見て話さないのも別にわざとやってるんじゃないのかもしれない。もしかして俺よりショックを受けていて、その弱ったツラを俺に見られたくないのかもしれない。ただそれだけなのかもしれない。
無意識に握り返していた指先から力を抜いてみる。でも繋いだ手は解けなかった。寿樹が俺の手を離さなかったからだ。理由もなく余計に腹が立つ。
俺は寿樹に大丈夫だって云って欲しかった。この不安を取り去って、安心を齎して欲しい。そんなふうに俺の頭の中には傲慢な要求をする俺が居る。
俺は本当に凄い自己中心的でヤな人間だと思う。寿樹だってダメージを受けてるに違いないとその心情を察して尚、それでも自分勝手な不満を抱かずにいられないんだから。
何様のつもりなんだと自分に云い聞かそうとするんだけど、上手に自分をコントロールすることが出来ない。それが余計に俺を苛立たせる。
、制服持ってきてるよね?着替えて学校に行こう」
「学校?何しに?」
本気で何云ってんだ、って思う。
平時より遥かに尖った声が零れた。
確かに俺は制服を持って家を出たが、これは家に帰るときの偽装工作用であって、学校に行く気があって用意してきた訳じゃない。
ロビーに戻ると約束通りあのおじいさんが管理人室から電話でどっかに問い合わせてくれたけど、安良木の転居先は解らなかった。
粘つく闇のような不安に駆り立てられた俺の目的は明確でも、一体全体どうすれば安良木に辿り着くのか、正直云って手段に関してはさっぱりだった。八方塞でどこを探せばいいのか俺には見当もつかないが、それでも机に向かうぐらいなら大声で叫びながら街を彷徨った方が何千倍もマシだ。
腹立たしいのに加え、寂しいような悔しいような、どこか哀しい気持ちになる。
寿樹がそんなこと云うなんてがっかりだった。何かを汚されたような苦いものがじわりと身体中に滲む。
俺は今度こそ繋がれたままの手を振り払おうとした。
「お前一人で行けよ。俺は行かない」
「ひょっとして担任のところに転居の連絡が行ってるかもしれない」
俺は目を見張った。
振り解こうとしていた腕から力が抜ける。云われるまでそんなこと全然考えもしなかった。自分でも馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、俺はやっぱり相当な大馬鹿者だったらしい。
突然射し込んだ希望の光に胸の中心がぽうっと温かくなるような感じがした。
「…そうだな、てゆうか俺たちラギが今日休んでるって決め付けてたけど、もしかして学校行ってるかもしれないんだよな」
俺を引き摺るようにますます大股で歩く寿樹の横に小走りで追いつく。行き止まりのところに突如出現した道標に嬉しくなる。それなのに笑いながら顔を上げた俺とは対照的に、漸く見つけた寿樹の表情は硬い。
「担任が知らなかったら武蔵森に電話してみよう。真偽の程は定かじゃないけど、あの人は武蔵森の大学の先生だって云ってたから大学に問い合わせてみる」
「ああ、うん、なあ、お前大丈夫か?どうかしたのかよ?」
相変わらず俺と視線を合わすことなく、どこか遠くを見つめたまま寿樹が目を細める。
「………僕は昨日君に先入観で先走らない方がいい、先生と呼ばれたあの人を頭から疑ってかからない方がいいと云ったよね。状況に不審な点は多いけど、蓑本さんの態度を信じるならあの人は安全だって。でもその意見を撤回しようと思う」
「どういう意味だよ?」
俺は強く眉を顰めた。
出現と同様に急速に萎んでいく希望の光に代わり、再びどす黒いモノが首を擡げて俺の足元を捕らえる。
本当に魔物に足首を掴まれてしまったかのように、俺は前触れもなく道の真ん中で立ち止まった。
寿樹も脚を止める。ちらりと俺を一瞥して、けれど云い辛そうにきちんと舗装された地面へと視線を落とす。
「正直に云ってしまえば僕が今ここにこうしているのは、蓑本さんよりもむしろ酷くショックを受けた様子の君のことが心配だったからなんだ。確かに昨日のあれは当事者じゃない僕でも衝撃的だったし、軽々しくお気の毒になんて云っていいような話じゃない。実際に彼女がどれほど深く傷付いているのか、一昨日君と一緒にこの目で見ている。だからこそ傷口を再び抉るようなことがないよう、僕は僕なりに考え抜いた末、秘匿することが最善なんじゃないかと思った。冷たい云い方に聴こえるかもしれないけど、僕らではどうにも出来ない、彼女自身が自分で努力して乗り越えるしかない問題だと思っていた。つまりね、、僕はあれは起こってしまった過去だと考えていたんだ」
「…違うっていうのか?」
だって『過去』じゃないか。
安良木は今より幼かった。あれは『今』じゃない、どれほど悔やんでも手の届かない過ぎ去った『過去』の傷だろ?
あの『過去』の所為で一昨日安良木が具合が悪くなったのは間違いないだろうけど、寿樹も自分で云ってる通りそれは俺たちがどうしようも出来ない問題のはずだろ。だからさっき俺たち一生知らない振りするって約束したんじゃねぇか。
『今』俺たちが立ち向かうべき問題はあの檻とこの失踪のふたつだろうが。
一瞬だけ寿樹が俺を見た。けれど、すぐに目を伏せて迷うように黙り込む。
話を打ち切って駅へと歩きだすことも、どういう意味だと追及することも出来ず、禍々しい言葉から逃げ込むように俺は空へと目を移す。
眩しさに目を細める。
俺は今初めてその絶望的な青さに気が付いた。
「…過去ではないのかもしれない。確証はない、でも気になることがあるんだ。あの映像とこの引越しは無関係じゃないのかもしれない。彼女を苦しめる何かは今もまだ続いているのかもしれない」
空の青さが突き刺さったみたいに寿樹の言葉に鳥肌が立つ。
なのに背中に汗の感触がする。
やっぱり寿樹は何かを隠していた。
けど、そんなことより。
どうして人は良い事よりも悪い事の方が簡単に想像出来てしまうんだろう。
俺の空っぽの頭を駆け巡る映像。
一昨日見た安良木の泣き顔。昨日見た映像の中の泣き顔。
今もこの空の下、安良木は泣いているんじゃないのか?
「あ、えと…」
聴こえるはずのない泣き声が聴こえる気がする。
痙攣するみたいに、無意味に開いた口からは本当に意味のない言葉が出た。そういう自分の愚かさが益々不安を煽り、俺の混乱はどんどん深化してしまう。気が焦るばかりで余計に頭が回らなくなる。どうでもいいことが滅茶苦茶に頭を掠めていく。
繋いだ手のひらも汗をかいているかもしれない、そう思った時前触れもなく寿樹が俺の手を離した。溶けていた体温が千切れて分断される。
瞬間、俺の脳裏を過ぎったのは安良木のことだった。
突如姿を眩ましてしまったことだった。
消えてしまったことだった。

(嫌だ)

堰が決壊したように不安が押し寄せる。
洪水みたいな勢いで悪い言葉が俺の内部を蹂躙していく。
捨てる気だ、俺を。取り残されるのは嫌だ。剥がれゆく体温が恐い。触れてないと駄目だ。目の前から消えてしまう。消失は不安だ。不安は、嫌だ。
(嫌だ!)
責め立てるその声に煽られた俺は空になった手のひらで必死で寿樹の指に追い縋る。
利己的な自我が軋んだ声で狂ったように叫ぶ。
その手を掴め、って。

がくりと身体が傾き、頬に硬い何かがぶち当たる。俺の視界一杯に寿樹の着ている上着の色が広がった。俺が寿樹の指先を捕らえるよりも速く、寿樹が自分の胸に俺を引き寄せたのだ。
街中で抱くんじゃねーよこのバカって思う。でも俺は寿樹を突き飛ばさなかった。
突き飛ばせなかった。
胸を押す俺の力に任せてそのまま寿樹が離れていってしまうことを俺は恐れた。
「ごめんね、不安にさせるようなことを云って」
謝るぐらいならちゃんと俺の目を見ろよ、嘘吐き。
上着の胸ポケットの中の硬い携帯から頬をずらしながら、頭上から一方的に降ってくる声を俺は胸中で密かに詰った。口に出して罵らない自分自身に屈辱を覚える。こんなふうに云いたいことを我慢して誰かの機嫌を窺うような真似をする奴らを俺は軽蔑すらしていたのに、その俺が今そいつらと同じことをよりによって寿樹相手にやっている。
「僕の単なる思い過ごしかもしれない、ううん、むしろその可能性の方が高いかもしれない。とにかくどうにかして蓑本さん本人に会おう。そうすれば何もかもはっきりするんだから」
俺は半分も寿樹の言葉を聴いてなかった。だって寿樹は嘘吐きだから。
ぼんやりとした頭に浮かぶ疑問。
俺の日常には学校があってサッカーがあって、家族が居て、友達が居て、寿樹が居て、安良木が居て、そういうのが『普通の毎日』だった。
笑うのが当然で、ふざけるのが常識で、怒るのが時々で、楽しいのなんて決まりきったことだった。
なのに、全部が全部急激に擦れ違っていっているような気がする。
何処も彼処も微妙にズレて全部ぶち壊されていく気がする。
どうしていきなりこんなことになっちまったんだろう。
一体誰の所為で?

触れることの出来ない言葉なんかよりも俺は確かにそこに在る寿樹の温度に安堵してそっと目を伏せた。







武蔵森の駅前に到着後、寿樹は休憩をとることを勧めたが俺は頑として首を縦に振らず、休むことなくすぐさま電車に飛び乗った。地元に着いて、改札を潜ると真っ直ぐ学校に向かう。
とうに時刻は午前九時を回っているから、本来俺たちみたいなガキはとっくに校舎に収監されてる時間だ。ゴミ捨てついでに井戸端会議でもしている主婦連中に見つかると厄介だなと思っていたが、そんなのは全くの杞憂に終わった。散歩途中と思しき老夫婦一組と擦れ違っただけで、こんな時間にふらふらしている俺たちを見咎めるような大人とは出くわさずにすんだ。
窓を開けて掃除機をかけている家が二、三軒あったくらいで、それ以外は人声どころかテレビの音すら聴こえてこない。沈黙に浸された道路の上を俺たちも黙々と進む。
死んだように静まり返った住宅街で、俺はわざと寿樹よりもちょっと遅れて歩いた。その上、ポケットに突っ込むことで両手を隠す。
手を引くことも出来ない寿樹は、何度も振り返っては俺の姿を確認した。
たかが二十分の間に寿樹は何回首を俺の方へと曲げただろう。
目線を道路に固定することで気付かぬ素振りを続けながら、俺は寿樹が振り返る度にどこか歪んだ安堵感を覚えていた。
学校付近に到着すると、俺たちの脚は当然のように正門じゃなく裏へと向かう。授業に出る気のない俺たちは一限が終わるまで時間を潰して、それから担任を捕まえる算段を電車の中で既に済ませていた。
素早く金網を乗り越え、教職員用駐車場を横切って四号棟へと難なく侵入を果たす。家庭科室や理科室とかしかないこの校舎はだいだいいつもがらんとしている。俺たちは土足のまま三階まで上がり、廊下を直進して突き当たりの音楽室を目指した。
寿樹がポケットから手品師のような手つきで鍵を取り出し、音楽室のすぐ脇、準備室とプレートのぶらさがった扉を開ける。寿樹が道を開けてくれたので、俺はその横をするりと横切り中へと入った。
デカイ太鼓やら楽器の入ったケースを避けながら窓辺を目指す。
窓の下に置かれた年代もののソファの上には、以前はなかった乙女チックなハート型クッションが並んでいた。ボロいソファに全然似合ってないし、ぶっちゃけ悪趣味だって思う。けど、いちいち退かす気にもなれず、俺はピンクのハートを押しつぶすように乱暴に腰を落とす。
勝手に溜息が出た。
「……なんかタバコ吸いてーってキブン…」
静かに隣に座りながら、俺の言葉に寿樹が微かに笑う。
「ああ、なんかそんな感じかもね。確かやっちゃ駄目よリストの6項目だったけど」
だったらなおさら吸ってやろうか、って云いかけて俺は止めた。あの人元気?連絡とってんの?と訊こうとして結局それも思い止まる。他にもいくつか台詞を選んで、でも最終的に俺は口を噤んだ。
代わりに横着に身体は前に向けたまま、咽喉を反らして背後の窓を見上げる。逆さまの空は普通に見上げるより鮮やかで高いような気がした。そのままの姿勢で腕を伸ばして窓の鍵を探るが上手く開けられない。
ここは吹奏楽部の部室件楽器置き場だ。
なんでそんなとこの鍵を寿樹が持ってるのかっていうと、去年卒業した吹奏楽部の女部長とコイツが付き合ってたからだ。別に寿樹は彼女が出来たって俺にいちいち報告なんかしなかったからどっちが告ったのかしらねーけど、いつのまにか付き合ってて、俺がそのことを知った頃にはあっさり終わっていた。
で、その年上の元カノから部活の邪魔はしない、楽器を壊さない、部屋を汚くしない、とかの禁止事項を守るって約束で、卒業式を境にこっそり譲り受けたのがここの鍵ってわけだ。
教室とは切り離された楽器だらけのこの部屋はちょっと別世界みたいな雰囲気があって、密かに俺も寿樹もここを気に入っていた。でも、俺たちだって年がら年中サボってる訳じゃないし、本当に気が向いたときにここには数回来ただけだ。
「まさかこんな日がくるなんて思わなかったね」
寿樹が俺が思っていたのと同じことを呟く。まさか女になって寿樹とこの部屋でこんなふうに並んで座る日が来るなんてまさしく想像もしてなかった。
モタモタやってる俺の代わりに、寿樹が身を捻って鍵を開けてくれる。仰け反らせた首はそのままに、目だけを動かすと苦笑しているような横顔があった。それが伝染したみたいに俺も笑う。
「でも大丈夫、蓑本さんはきっと見つかるよ」
それは俺が考えていたことと違うことだった。
外からは解らない程度に薄く開けた窓から冷たい空気が入ってくる。俺は不自然に咽喉を曝け出したまま中途半端な笑い顔で愕然と凍りつく。
いつのまにか俺は安良木のことを忘れていた。
ここにこうしているのは安良木の為のはずなのに、空を見ながら俺が考えていたのは安良木のことじゃなかった。
もっと下世話なことだった。
俺の知ってる限り、確か寿樹の通算四番目の彼女だった先輩。
寿樹はあの先輩と多分ここでキスとかしたんだろうなあ、ってことだった。
?」
寿樹と目が合いそうになって慌てて俯く。
勢い良く首を戻すと目の前には俺の膝があった。
細い膝だ。同じ俺の膝なのに、男の時はもっとごつごつしてたし、年がら年中傷だらけだった。こんなふうに綺麗で滑らかで弱そうな女の膝じゃなかった。俺の身体ですらこんなに弱そうなんだから、俺より小柄で華奢な安良木の身体なんてもっと壊れやすいに違いない。
俺は両手で顔を覆った。
何てことだろう。
最低だ、こんな時に俺は。
そんなこと考えてる場合じゃないのに。安良木が行方不明なのに。泣いてるかもしれないのに。苦しんでるかもしれないのに。また酷い目に遭ってるかもしれないのに、一体俺は安良木を忘れて何を考えてた?
「大丈夫だよ」
一瞬首筋に寿樹の温かい指が触れて俺は思わずびくりと身を揺らす。そんな俺にはお構いなしに寿樹は俺の髪を束ねると手櫛で整え始める。安良木の居ない俺の長い髪はただだらしなく背中を覆っているに過ぎない。
がそんなふうだと蓑本さんが心配するよ」
俺の葛藤の理由も知らずに見当違いの慰めを口にする。絡んだ髪を丁寧に解きほぐすその指にどうしようもない後ろめたさを感じた。
「……寿樹」
「うん?」
「俺は絶対ラギを助ける。絶対だ」
「うん」
口にすることで俺は誓った。
でもそれはきっと安良木の為ではなかったに違いない。
一時でも心から安良木を忘れた自分への罰としての誓約だった。
「絶対だ…」
両手で覆い隠しても足りず、さらに強く目蓋を閉ざす。そうしないと見たくないものが見えてしまいそうだったから。
これまで見たこともないような醜いもので身体中がいっぱいになっている気がした。


チャイムの五分前、俺たちは制服に着替えると部屋を後にした。
土足のままだった俺たちはまず下駄箱に向かう。一応、安良木の靴があるか確認してみた。
期待はするなと云い聞かせていたつもりだったが、それでもやっぱり期待していたらしい。その空白に酷く落胆している自分自身にそれを思い知らされる。
授業が終わり、三々五々廊下に溢れてきた生徒の隙間を縫いながら俺たちは職員室に向かった。けど、本当は下駄箱が二号棟で、俺たちが隠れていた四号棟の隣の三号棟に職員室だから、来た道を逆流していったと表した方が正しいかもしれない。
寿樹がノックしてから引き戸に手をかけた。律儀に「失礼します」と断る背中に続きながら、寿樹の斜め後ろから視線を走らせる。
学年主任のところに数人の先生がたむろっていたけど俺たちの担任の姿はない。じゃあと思って左に眼を向けると、すぐに見つかった。
ウチのクラスの担任の空知佳那は自分の席で何やら分厚いファイルを読み耽っている。
空知佳那、通称『カナちゃん』(これは別に寿樹命名じゃない。ヨシクニをそのまま音読みしてカナってわけだ)はウチの学校で一番若い上に背も高いし顔もいい。おそらくウチの学校の女生徒の支持率80%は堅いだろう。
そうなると男子ウケが悪くなりそうなもんだが、インテリ大学生っぽい童顔フチなし眼鏡の真顔で「今日は下痢気味だから速攻ホームルーム終わらします。確かに世界中には飢餓で苦しんでいる人々がいっぱい居る。しかし、もったいないからと去年の八月に賞味期限の切れたあんみつを喰べると、あんみつ一個の金額以上の医療費を支払わなければならなくなるので気を付けるように」とほざくような男だ。
お局と名高い独身家庭科教師・イチハラヨシエ(仮名・36歳)に花見の席で酔った振りして迫られた時の恐怖を俺たちにグチるわ、機嫌が良ければお勧めAV女優を教えてくれるわ、男子生徒の支持率は100%と断言してもいい。
ほぼ同じタイミングで発見したようで、俺が寿樹を見上げるのと寿樹が俺を見下ろしたのは殆ど同時だった。
目線で合図して寿樹が再び前を行く。
近付いてくる気配を察したのか、声をかける前にカナちゃんは顔を上げた。俺たちを目に留めるとカナちゃんはニヤリと笑って、俺から見たって可愛いとしか云い様がない童顔をわざわざ意地悪そうに歪めてみせる。
だが俺と目が合うと驚いたように皮肉げに吊り上げていた唇を元に戻した。
「おはよう、遅刻常習犯。お説教と行きたいとこだが須釜、はどうかしたの?ずいぶん顔色悪いみたいだけど」
寿樹がさり気なく俺を背後に隠す。
「遅刻してすみません。ですが御覧の通り今日は正真正銘故意ではなく具合が悪くての遅刻です。多分この後も具合が悪くて授業に出られそうもないんですけど、それも本日はサボリではなく病気の為です」
「あーのーねー…だったらお前ら何しに来たのよ?僕に喧嘩売ってるの?そもそも具合が悪いのはであってお前は関係ないだろ、須釜だけでも出なさい」
「先生、次の授業の準備はお済ですか?ちょっとお話したいことがあるんですが」
「おーい人の話聞けー。準備はそこのそれが…あ、こら何をする」
俺は指し示された教科書とファイルとチョーク入れに手を伸ばす。その間に寿樹が半ば強引にカナちゃんを立ち上がらせている。
「何よ話って?ここじゃ駄目なの?」
「ええ、僕は繊細なので職員室ではちょっと出来ない話なんです。ところで話を戻しますけど、関係ないなんて酷いですよ、先生。僕とは一心同体なんですからが出ないなら僕も出ないのは当然じゃないですか。古代の格言であるでしょう、お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの、すなわちの身体は僕のもの、って」
寿樹に促されるままに歩き出しながら、カナちゃんががくりと首を落とす。
「アホか、このリアルジャイアンめ。、今日は本当に大人しいな。いつもだったら容赦なくつっこみという名の殺人パンチを繰り出してるところじゃないか」
カナちゃんが心配そうに首だけで振り返る。
寿樹とカナちゃんの後に続きながら俺は曖昧に笑う。口を開くのが億劫、という状態を俺は病気以外の理由で初めて経験していた。
「僕のに色目を使わないでください。あることないことでっち上げて離職に追いやりますよ」
学年主任たちの群れを横切り、やっと職員室を脱出した。寿樹とカナちゃんに視界を塞がれていた俺は、出たところで誰かにぶつかりそうになる。入り口の辺りには人待ち顔の生徒が多かった。こんなとこじゃ話は出来ない。
寿樹が人気のない廊下の奥を小さく指差し、そちらに脚を向ける。
「……お前と話していると頭がおかしくなりそうだよ…ったく、お前が具合悪くさせたんじゃないだろうな」
相手に僕がそんな真似をするとでも?前後不覚になるぐらい責め立てるってのも確かに嫌いじゃないですけど、初心者相手にそれは鬼畜過ぎますよ。そうしたいのも山々なんですが、僕は紳士なのでの身体に負担かけるようなことはしません」
「あっそ、愛があってよろしいことだね、ってなんで中学生の君にこの手の話の趣旨が正確に通じちゃってるの?おまけに君、平然と何を云ってるの?オカシクない?君、やっぱり年齢サバ読んでるんでしょ?」
「先生こそ中学生にそういう冗談云うのは教育上宜しくないと思うので止めた方がいいですよ?本当に教員の免状持ってるんですか、その童顔で。居酒屋行っても未だに入り口で止められるんじゃありませんか?さて…空知先生、親睦を深めたところで教えて頂きたいことがあるんです」
半径5メートル圏内に人が居ない位置までやって来て、やっと俺たちは脚を止めた。何時の間にか背後にある職員室の扉は遥か彼方になっている。誰かに声が絶対届かないようにと思う内に、廊下の一番奥の視聴覚室のとこまで来てしまった。
「人をこんなとこまで連れてきといてくだらないことだったら僕泣くよ?」
カナちゃんは平和に笑っている。寿樹も笑っている、ニセモノの笑顔で。
偽笑を張り付かせた寿樹が内緒話をするようにカナちゃんの耳元に唇を寄せる。
「蓑本さんの新しい住所、知りませんか?」
寿樹の囁きにカナちゃんの表情が瞬時に強張った。
けれど、次の瞬間にはカナちゃんは元通りに笑ってみせる。
俺は大人のこういう反射的な誤魔化し笑いが一番嫌いだ。
「童顔で悪かったな、ついこの間も深夜にファミレス行ったら止められたよ。で、蓑本の住所って何なの?しかも新しいって?」
「ラギは昨日の内に武蔵森のマンションを引っ越した。カナちゃん、頼むから引越し先を知ってるなら教えてくれ、今朝ラギのとこから電話がなかったか?」
俺は一歩前に出て潜めた声で矢継ぎ早に言葉を投げた。
カナちゃんは一瞬何かを云いかけて、けれど結局黙って重々しい溜息を吐いた。シャツの胸ポケットからセブンスターの箱を探り出すと、箱を揺すって一本取り出す。
「カナちゃんは止めろっていつも云ってるでしょ……確かに今朝電話はあったよ、でも休ませる、ってことだけで引っ越したなんて一言も云ってなかったぞ。君らの勘違いじゃないの、それ?」
「絶対違う、俺たち今朝ここに来る前に武蔵森のラギのとこに行ってきたんだ。そうしたら管理人さんが昨日引っ越したって云ってて、部屋見せてもらったら本当にもぬけの殻になってた」
昨日、とカナちゃんが口の中で呟く。指に挟んだ煙草の尻を親指でくるくると数秒回してから、カナちゃんは漸く火を点ける。そうやって時間を稼ぎながら俺の言葉の真偽の程を計っているように見えた。
苦そうに煙を吐き出しながら寿樹を見て、それから俺を見る。
「まあ……連絡網に載ってない、本当の住所の方を知ってるなら、君たち蓑本の事情をそれなりに知ってるんだろ?心配するのは悪いことじゃないよ、でも、学校をサボってまで朝から見舞いに行く必要があるの?」
「あるよ、一昨日凄い具合悪そうだったんだ。なのに急に引越しなんてムチャクチャ怪しいじゃん、普通じゃないんだよ。なあ、教えてくれよ、引っ越し先」
「確かに何にも云わずに引っ越すっていうのはおかしいけど、それで余計に忙しくて単純に云い忘れただけかもとか、連絡がない理由は色々考えられるよね。そんなに深刻にする必要ないんじゃない?片付いてないところにお見舞いなんて行ったらきっと迷惑だぞ」
俺は絶句して、それから切れるほど唇を噛む。
違う、といいたい。そんな悠長なこと云ってる場合じゃないんだって。
あんな目に遭った所為であんなに具合が悪そうだったのに、それなのに檻みたいな部屋に安良木を閉じ込めて平然としているような人にどこかに連れ去られてしまった。
俺たちの見たのと同じものを見たなら絶対カナちゃんだってこんな呑気な態度が取れるわけがないのに。
でも云えない。俺たちの知ってることを云える訳がない。
だって、例えそうすれば安良木を救うことが出来るんだとしても、過去を暴かれることを安良木が望んでいるとは思えない。
話せないって思っているのに、今唇を開いたら全部話してしまいそうだった。口にすれば一発で協力を引き出せる事実を知っているのに、死んでもそれは口に出来ない。そのジレンマが俺から声を奪う。飛び出しそうな言葉を閉じ込める為に余計に唇を噛む。
黙り込んだ俺から顔を背けてカナちゃんが天井に向かって煙を吐き出す。よく童顔童顔からかわれているカナちゃんだけど、その横顔は全然俺たちとは違う大人に見えた。
「…あのね、僕、二年の時も蓑本の担任だったでしょ?あからさまに逃げ出すわけじゃないけど、他の女子と比べて蓑本はさり気なく僕と距離を取ろうとしがちだった。日直でもなければ自分からは俺に寄って来ようとしなかったのに、たった一回だけそういうの抜きで僕のところに来たことがあった。思いつめた目をして何て云ったと思う?無理なお願いなのは承知だけど、お願いだからと須釜と同じクラスにしてくれないか、って云ったんだ。勿論僕にそんな権限ある訳がない。一応、それとなく根回しはしたけどね、そんなのどれほどの効果があったか。今年のクラス編成表貰った時心底嬉しかったよ、極貧時代に一枚買った宝くじで五万当てた時より嬉しかった」
そんなの初耳だった。
そんなの俺は知らない。
安良木がどんな気持ちでそれを云ったのか、俺は知らない。
「そんなの俺…」
何か形のある言葉を発する前にチャイムが鳴った。
おっと、と呟いてカナちゃんが壁から身を起こす。指の間の煙草を目にして、急にはっとしたようにヤバイって顔をする。
「やっば…どうすっかな、これ……あのな、実際君らを見ていて本当に良かったなってますます思ったよ。二年の時より蓑本よく笑うようになったからさ。苛められたり孤立していた訳じゃないけど、二年のクラスには今のお前たちみたいに固定してつるんでる友達もいなかったし、ええとこれから僕がすることは見なかったことにするように」
窓を開けるとその桟で煙草を揉み消し、下をひょいっと窺った後、カナちゃんはぴんと吸殻を投げ捨てた。それから俺の抱えていた教科書をさらりと奪うと、カナちゃんはさっさと歩き出してしまう。俺たちもつられたように動き出す。
「君らが学校サボってまで見舞いに行ったことは教師としては褒められないけど、個人的には嬉しいよ。どうしてベテランの先生じゃなく、大学出立ての僕が二年の時に蓑本の担任になったかっていうと、君らの担任でもあった一年の時の倉田先生じゃ駄目だったからなんだ。僕が教育心理学専攻ってことも多少は関係あったかもしれないけど、押して駄目なら引いてみろってね、年が近くて気楽に話しかけられそうな僕が抜擢された。でも僕だってちっとも役に立たなかった、一度も相談されたことなんかなかったよ。僕じゃ力になってやれなかった。けど、蓑本には君たちがいる。教師なんて人種より君らの方がよっぽど当てになる」
最後の言葉に今度こそ俺は立ち竦む。
そんなの買い被りだ。
俺は全然そんなんじゃない。
ほんの数日前まで安良木の抱える闇に俺はこれっぽっちも気付いてやれなかった。
俺は偶然安良木の秘密を知ってしまっただけで、安良木の力になんてやれてない。
違う、と大声で叫びたいのに、声が咽喉に張り付いて出ない。
振り返った寿樹が痛そうに顔を顰めて、わざわざ数歩引き返して俺の二の腕を掴む。
凍りついた俺を引き摺りながら、使い物にならない俺の代わりに寿樹がカナちゃんの背中に喰い下がる。
「空知先生、論点をずらして煙に巻かないでください」
「あのな、ずらすも何も…さっき最初に云ったとおりだよ、神に誓って僕は引っ越し先を隠してないし、一言も引っ越したなんて話聴いてない」
「では、電話番号はいかがでしたか?以前と番号が違うとか携帯だったとか、背後で何か不審な音があったとか、何か気付いた点はありませんか?」
「職員室のボロ電話がナンバーディスプレイな訳ないでしょ、前と同じか携帯かなんて一切解らないし、不審な点もございません」
「先生に今朝電話をかけてきた方はどなたでした?蓑本さんが先生と呼んでいるあの人でしたか?保護者ということでしたが、何故蓑本さんはあの人をお父さんではなく先生などと呼ぶんです?苗字のことはご存知ですか?」
「あーのーなー」
温厚で声を荒げることがないカナちゃんだが、さすがに辟易したのか立ち止まって俺たちを呆れたように軽く睨んだ。
「僕は授業に行かなきゃならないの。第一君らの尋問に付き合わなきゃならない義務は僕にはない、解った?じゃあ以上この話題は終わり、いいね」
俺たちを見捨てるように再度向けられる背中。
それが朝のときと同じに俺の頭の中をぐちゃぐちゃにする。俺は自分でもよく解らない衝動に突き動かされて、寿樹の腕を振り切った。
「待って!」
「うわっ!?」
いきなりしがみつかれたカナちゃんが悲鳴を上げる。
チャイムの後で人が居なかったから良かったけど、さっきまでの細心の注意なんてゴミみたいに投げ捨て、俺は結構デカイ声で喚いていたと思う。
「なあ、どうしてラギは住所録と違うとこ住んでんだよ?」
「放すんだ、!須釜、見てないで助けろ!」
「絶対変なんだ、絶対おかしいんだ、なあ、頼む、知ってることあったら教えてくれよ!」
「すがっ、バカお前それ…っ」
背中の方からじしゃーっというどこかで聴いたことがある音がした。
「嘘じゃないんだ!時間がないんだ!頼むよ、教えてくれ…っ」
、もう放してあげて。さて、空知先生」
馴染んだ重さの手のひらを肩に置かれる。よく解らないまま、俺は寿樹の云い成りに腕をほどく。
振り返った視線の先では寿樹が例のごとくにこやかに微笑んでいた。悪魔さながらの微笑を浮かべながら、携帯電話で自分の首筋をとんとんと叩いている。それで漸くさっきのアレは携帯カメラのシャッター音だったのかと俺は合点が行く。
「まさかさっきの冗談を実行することになるとは思いませんでしたよ。淫行教師として華々しくネットデビュー、どうです、順風満帆な人生ぶち壊してみますか?」
「お前ら…」
喘ぐようにカナちゃんは苦々しい溜息を吐き出した。
俺が抱きついた所為で床に落としてしまった教科書たちを拾い集めながら、今度こそ本当に本気で俺たちを睨む。
「一体僕に何を期待しているの?何をどう答えてやればお前らは満足なの?云いなよ、その通りに答えてあげるから」
らしくもないきつい物云いに俺は自分が悪いのにちょっと傷付いた。
「申し訳ありません。でも、手段を選んでいられないぐらい切羽詰った状況なんです。お願いですから、先生の知っていることを僕たちに教えて下さい」
「……理由は?どうして君たちはそんなに必死になってるの?」
俺はきっぱりと首を振った。
「云えない」
「すみません。都合の良いことを云ってるのは自分たちでも解ってます」
「話にならないな」
吐き捨てられる。心のどこかが軋むのを感じながら、でも安良木の方がこの何倍も大変なんだからこんなの全然たいしたことないだろ、って自分に云い聞かせる。
「ごめん、でも頼む、カ…空知先生」
再度抱きつかれるのを警戒しているのか、俺が一歩前に出るとカナちゃんは一歩下がった。俺は仕方なくそれ以上動くのを諦める。
カーディガンの裾を握り締めながら、俺は懸命に言葉を選ぶ。
「理由は死んでも云えない。だってそれは絶対ラギの為にならないから。俺たちこれまでいっぱいサボってきたし、態度悪いし、全然信用できないかもしれないけど、でも今日のはそういのとは違う。……俺は、さっき先生が云ったような奴じゃないよ。全然ラギの力になんてなってやれなかった。でも今なら俺はラギの役に立てるかもしれない。理由は云えないけど本当に変なんだ、もしかしてラギの身に何か良くないことが起きているかもしれないんだ、今ラギには誰かの助けが必要かもしれないんだよ。先生、お願いだ、知ってることを教えてくれ」
俺は土下座しようと思いついて膝を突こうと屈み込んだ。
「うわっ!!?」
なのに膝が床にくっつく前に腕を両側から掴まれてしまう。おかげで寿樹とカナちゃんの間で俺の身体がぶら下がる格好になった。
「ああもう……あーもー何なんだ君らは!解ったよ、ああもう話しゃーいーんでしょ、話しゃー!ほら、ガキがバカなこと考えないでさっさと立つ!」
酷く投げ遣りな口調で云い放つと、カナちゃんは掴んだ腕ごと俺を寿樹に押し付けた。
俺がきちんと自分の足で立つ間に体当たりするような勢いで壁にもたれる。けど、態度の荒々しさとは反対に、いざ口を割って出てきたのは苦味を帯びた低音の小声だった。
「いい?僕だって詳しい話を知ってるわけじゃない。僕が知っているのは…蓑本が実の父親から虐待を受け、保護されてからも重度の後遺症、所謂トラウマに悩まされていたという程度のことだけだ。去年、僕が渋い顔の教頭から聴かされたのは本当にそれぐらいだよ、少々難しい生徒さんだから気をつけて指導に当たってくれって話だけで、それ以上具体的な内容は聴かされてない。どうも進んで受け入れるっていうよりは、校長のコネで断れなくて仕方なく、って感じっぽかった。住所に関しても連絡網に載せてるのとは違うところに住んでいるのは知ってるよ、去年家庭訪問行ったし。けど、何故そんなことをする必要があるのか正確な理由は聴いてな…おい、大丈夫か?」
俺は口元を両手で押さえた。首が勝手に下に向かって垂れていく。
また吐きそうだった。
それに気付いた寿樹が俺の肩を抱く。
「では本当に新しい引越し先を御存知ではないのですね?」
「ああ」
「先生どうもありがとうございます、それでは失礼します」
寿樹の腕によってくるりと身体を回される。職員室とは反対の方に向かう。何だかさっきから俺たちは行ったり来たりばっかだ。
「あ、おい…ああもう!僕は授業に行くけど、具合悪いなら我慢しないで保健室行くんだぞ、いいな!」
背後でカナちゃんの走り去る足音。
俺たちは階段を使って一階に下りた。寿樹に便所の前まで連れてってもらうと、俺はまた吐く。
頭が麻痺したみたいに、もう何で吐いてるのか全然解らなかった。ぐるぐると迷走する言葉や映像は山のようにあったけれど、今の俺にはそれを上手く整理して解釈することが出来ない。
昨日から何も喰ってないからか、一回吐いたらそれで吐き気は治まった。
口を漱いで外に出る。ちらりと映った鏡の自分は、カナちゃんの云うとおり結構悲惨な顔色をしていた。
「女便所の前で待ってんなよ、セクハラ野郎」
居るだろうなとは思ってたけど、女子トイレの前に突っ立っている寿樹はこんな時なのに何だか滑稽だった。
俺の台詞に軽く肩を竦めてみせたが、すぐに真面目な顔つきに戻る。
「待ってる間に武蔵森に電話してみたんだけど、どうもおかしいんだ。篠守先生か蓑本先生という方はいらっしゃいませんか、って訊いたらそのようなことにはお答えしかねます、って一方的に切られちゃった。自宅の住所とかならそれも解るけど、普通その名前の先生がいるかぐらいは教えてくれるはずだよね。特に大学なんて著名な先生目当ての学生が受験することだってあるんだから」
俺の頬からも波のように笑みが引く。
「じゃあ…」
一歩詰め寄った俺を押し止めるように、寿樹が大きな手のひらを肩の辺りに翳す。
「大丈夫、東京選抜には確か武蔵森の藤代君と渋沢君が居るよね?椎名君ならきっと彼らの連絡先を知っている。椎名君経由で彼らのどちらかに連絡をとろう。武蔵森は大学までの一貫教育だし、あそこは年に何度か上の二軍が下の一軍に練習試合をしてやるそうだから、大学に顔見知りのOBが居る可能性は十分ある。
 空知先生も知らなかった今、僕らに残された蓑本さんへの細い糸はあの『先生』だけだ。直接対決なんて賢いやり方じゃないけど、でももうあの人から多少強引にでも訊き出すしかないんじゃないかと思う。それには本当に武蔵森にあの先生が居るかどうかをきちんと確認することが先決だ。事務課が教えてくれるならそれに越したことはなかったけど、残念だけどどうやら当てにならない。なら、例え時間がかかったとしても内部の人間に教えてもらう方が正確な情報が得られる」
俺は数秒寿樹の言葉を噛み砕くように反芻してから頷いた。電話で教えてもらえなかった、って聴いて俺の頭を過ぎったのは直接俺たちが武蔵森の大学部まで行って尋ねることだった。けど、電話で駄目なものが実際に行ってどうにかなるとは限らない。喧嘩っ早い俺じゃ押し問答になるだけかもしれないし。
寿樹の云うとおり、時間がかかっても内部の人間を使う方が確実だろう。下手に事務課で問題を起こして、結果的にそれで却って身動きが取れなくなったりしたらまさに本末転倒だ。
携帯をポケットにしまいながら、窓の向こうの四号棟へと寿樹が首を傾ける。
「吐き気が治まったなら、とりあえずあそこに戻ろうか」
寿樹の提案に俺は静かに首を振った。
「俺コンビニ行ってくる。寿樹、何か喰いたいもんとか飲みたいもんは?」
「僕が行ってくるよ。何が欲しいの?」
「いいよ、ちょっと歩きたいんだ。外の空気吸いたい」
半分は嘘で半分は本当だ。
俺は何より一人になりたかっただけだ。
と同じものでいいよ。じゃあ、僕はあそこに戻るけど、気を付けてね」
俺は頷くと寿樹と別れて今度は一号棟の方に歩き出した。一号棟脇のフェンスを越えて、ちょっと行ったとこにローソンがある。
どこを通れば人目につかないかはとっくに研究済みだ。どれだけぼんやりしてたって無意識に身体は運ばれていく。
制服姿の俺が自動ドアを潜ってもごく自然にいらっしゃいませという声が掛けられる。昼時になれば制服が長蛇の列を成すぐらいだ、ウチの生徒は相当ここの売り上げに貢献している。ヘタに注意して利益が減るより見て見ぬ振りってヤツだろう、明らかにサボりと解る俺が出した商品でも店員は何も云わずにレジを打つ。
何事もなく買い物を終えると、俺は来た道を引き返しフェンスを飛び越えまんまと校内に舞い戻る。
買ったのは自分用にポカリと、寿樹に100%のグレープフルーツジュースと肉まんピザまん。寿樹は俺と同じもんでいい、っていったけどアイツはポカリもアクエリアスもあんまり好きじゃない。お茶系もそんなに飲まないし、100%フルーツジュース系かミネラルウォーターばっか飲んでる。
安良木は午後の紅茶が好きだった。青いラベルのミルクティー。おにぎり喰べてるときだってアレを飲んでた。変だって云ったら別に変じゃないわよ試してみるって云われて、おにぎり喰った後に飲んでみたらやっぱりゲロマズであとちょっとで吐くとこだった。
思い出した光景に脚が止まる。
踏み躙られた枯葉がかさかさと啼く。
我慢していた分俺の視界は唐突に曇り始めた。
ビニルを持ってるのとは反対の袖で目元を隠す。
大人びた表情や大人びた考え方に時には驚かされたけど、それは単なる個性だと思ってた。
俺は普通じゃないかもしれないけど、安良木は『普通の女の子』だと思ってた。
なんで。
なんで、安良木なんだよ。
俺の方がよっぽど悪い子なのに、どうして安良木ばっか酷い目に遭わなきゃならないんだよ?
小さな頃にあんな目に遭ったり、実の父親に虐待されたり、今この瞬間にだってあんな檻のような部屋に囚われてるのかもしれなくて。
それなのに安良木はそんな素振りひとつ見せなかった。
俺は何にも気付いてやれなかった。
思い出されるのは笑顔ばかりだ。
空耳の笑い声が鼓膜を打つ。幻の小さな手が俺の髪を撫でる。
閉ざした眼裏に甦る俺だけに向けられた笑顔。
俺は顔を覆ったまま幻影を追い払うように小さく首を振る。
嫌だ、こんなの。
飲み込もうとするのに変な形の息が漏れる。
嫌だ、こんなふうに懐かしんだりするのは。
安良木は記憶の中の友達じゃない。
ちゃんとこの世にいるんだ。生きてるんだ。会えるんだ。いくらだって明日がある。いくらだって取り返せばいい。安良木は何も悪くない。痛々しい奇禍にみまわれたかもしれないけどそれで安良木の何が変質する訳じゃない。汚れた訳じゃない。害われた訳じゃない。だから俺が哀しむ必要はない。こんなふうに俺が泣くなんて馬鹿げてるんだ。
泣くな、男のくせにみっともねぇ。
そう云い聞かせて俺はカーディガンで顔を拭うと、磨り潰れるほど奥歯を噛んで歩き出した。


泣いたのが寿樹にバレるなんて冗談じゃなかったから、俺はまた途中で便所に寄り道して顔を洗ってから例の部屋に戻った。
ボロいソファから寿樹が俺を見てちょっと笑う。
「椎名君にメールしたよ。この時間じゃ彼も当然授業中だろうから、きっと返事は速くても午後になると思う」
「うん、解った」
楽器の隙間をすり抜けると、俺は寿樹にビニルを差し出した。自分のポカリは気を落ち着かせようと道すがら飲んできたので、すでに口を切った状態で俺の手の中にある。
「何?…肉まんとピザまん?はどっち?」
「いらね。お前に買ってきただけだもん。喰えば?」
ぴくりと寿樹が反応した。眉間に僅かに皺を寄せ、厳しい顔で俺を見上げる。
「人の心配する前に自分が喰べなきゃ駄目だよ、。昨日から何にも喰べてないでしょ」
云い当てられて内心驚く。食欲が湧かないというよりはとにかく喰いたくなくて、指摘通りに昨日の晩から何にも口にしてない。でも俺は「食欲がない」とも「実は喰ってないんだ」とも云ってない。なのにどうしてコイツはそれが解ったんだろう?顔色が悪いだけでなんで昨日から喰ってないって解るんだよ。
ビニルから肉まんを出すと半分に割り、寿樹はたじろぐ俺に突きつける。
「べ、別に一日二日喰わなくたって死なねーよ」
「うん、そうだね、死なないかもね。ただし僕も蓑本さんも君がそんな顔色をしているととても心配になるんだけどね。せっかく居所を突き止めても、君のそんな顔を見たらきっと蓑本さんは酷く気に病むよ。それでもいいの?」
確かにさっき便所で目にした俺の顔色は近年まれに見る最低ぶりだった。返す言葉に詰まった俺の手に寿樹が半月型の肉まんをねじ込む。
いつもなら食欲を誘う匂いも今日は全然効果がない。
寿樹から肉まんに視線を移し、再び寿樹の顔色を伺う。例の笑ってない笑顔どころか、思いっきり真顔で俺を凝視してやがる。その表情に俺は押し返すことを諦め、仕方なく肉まん片手に寿樹の隣に腰を降ろす。
俺はしぶしぶ肉まんを齧った。けど、ほんの端っこが欠けただけで全然口に入っていかない。在るんだか無いんだか解らない量をもぐもぐと咀嚼する。
寿樹は呆れたみたいに溜息を吐くと俺の手から肉まんを奪う。普段だったら喰い物を取られたりしたら怒り狂うとこだが、今は返ってありがたい。
が、ほっとして再び首を反らして逆さまの空を見上げた俺に、寿樹は思わぬ作戦に出やがった。小さく千切ったものを俺の口の前に差し出してきたのだ。
「……何だよ?ガキじゃねーんだから止めろよ」
「いいから喰べて。子供扱いが嫌なら、雛鳥みたいに口移しでも僕は構わないんだよ?」
三秒ぐらい我慢比べみたいに睨み合って、結局俺が口を開いた。やると云ったらコイツは本当にやりかねない。コイツの唾液で離乳食状になった肉まんなんて心底ごめんだ。
俺に餌を与えながら、自分も肉まんを口に運ぶ。ピザまんは無理だと判断してくれたらしく、そっちは寿樹が全部喰った。寿樹が1.5個を喰い終わったのに0.5個の俺の方がまだ喰ってるような状態で、嫌がらせみたいにのろのろと咀嚼する俺に寿樹は本当に根気良く付き合ってくれたと思う。俺だったらフザケンナと確実に途中でキレている。
「喰べ終わったなら寝てなよ。どうせ午後にならないと連絡はこないだろうから」
最後の一口をポカリで胃に流し込むと、俺はゆるゆると首を振った。
「いい、眠くねえもん。それより訊きたいことがある。朝はうやむやになって訊きそびれたけど、お前が云ってた気になることって何?なんでお前はあの映像と引越しが無関係じゃないって思うんだよ?」
寿樹は苦いものを噛み潰したような顔をした。
誰に何を云われてもさらりと笑顔で受け流すコイツがこうも露骨に嫌な顔を示すのは酷く珍しい。
「間違ってる可能性があるからいいよ、聴かなくて」
「別に間違っててもいいよ。気になるだろ、云えよ」
また数秒睨み合う。今度は寿樹の方が折れた。
軽く息を吐くと、軽く前屈みになって指を組んでその上に顎を乗せる。別にそんなところから秘密が漏れるわけないのに、俺は腕を伸ばして薄く開けていた窓を閉めた。
「…あのね、ある国の銀行に強盗が押し入ったんだ。その犯人たちは人質を取って数日間銀行内に立て篭もった。結局、人質となった人々は無事に解放されることになるんだけど、解放後、人質となっていた人々の多くがとても不思議な行動をとった。ねぇ、、君がこの人質だったら犯人たちをどう思うだろう?」
「ふざけんじゃねーよこのクソ野郎とか、絶対隙見て銃奪い取ってぶっ殺してやるとかそんな感じ。解放後もやっぱしそんな感じにスッゲエむかつきまくってると思う」
寿樹がちょっと苦笑しながら頷いた。
組んでいた指から顎を離すと、今度は指を解いて右腕で肘を突く。考えをまとめるように少し遠くを見詰めながら、右手の中指がこめかみの辺りで単調なリズムを刻んでいる。
「中には気の弱い人もいるだろうから全員が全員そうとは限らないけど、理不尽な拘束に腹を立てている人がいてもそれは何ら不思議ではないよね。生殺与奪の権利を握られている恐怖、自己の不運に対する悲歎、神に対する怨嗟、そして犯人に対する青白い憤怒の炎…。少なくとも通常はマイナスと判断されるような感情こそ生じることはあっても、その反対の感情が犯人と被害者間に生じるとは考え難いよね。むしろ解放後の安全な状況なら、人質となった人々の殆どが犯人に強い憤りや憎しみをあからさまに示してもいいぐらいだ。何しろ理不尽に自由を奪われ生命の危機に晒されていたんだから、そうすることがとても自然なことに思える。でも、そうはならなかった。不思議なことに、解放された人々は憎むどころか犯人を庇うようなことを口にしたんだ」
「………なんで?」
本気でどっか聴き逃したかと思った。それともどっかで聴き間違えたのかって思ったけど、でもやっぱりそんなはずはない。残る可能性は俺の頭が悪い所為で普通の人に通じる話が俺には通じてないってことぐらいだ。
だって、変じゃん。
なんで人質になってた人間が犯人を庇ったりすんだよ?
本当は仲間だったとか、そういうオチなのか?つーか、大体寿樹はなんで今こんな話してんだよ。俺は朝云ってたことが聴きたかったんだけど。
「ごめん、俺全然解んないんだけど。もっかい説明してくれるか?」
俺がお手上げのポーズを示すと、寿樹は溜息を吐いて緩く首を振る。
「僕こそごめん、上手い説明じゃなかったね。あのね、今の話で僕が云いたかったのは、要するに犯人と長時間過ごすことにより意思の疎通が生まれ、人々が犯人側に連帯感や同情、そして好意を抱くようになってしまうこともあるってことなんだ。異常な状態に置かれた被害者が、自分の心を守る為に犯人が自分にこんな酷いことをするのは自分が憎いからじゃない、自分のことを大事に思うからだ、って思い込むこともあるらしい。そうやって容赦なく自分を傷つける厳しい現実と崩壊しそうな精神との間で折り合いをつけるようなんだ、一種の自己防衛システムみたいなものなんだろうね、きっと。つまりね、監禁みたいな精神的負荷の強い状況下において人間の心は普通に考えたら有り得ない、思いもよらない反応を示すこともあるってことなんだ」
俺は漸く寿樹が云いたいことがおぼろげながら理解できた。
泥水のような濁った予感が胸に広がっていく。
「だとしたら…」
だとしたら、もしかして安良木が先生と呼んだあの人に対して示した態度は…。
石のような唾を飲み込む。
あれは異常な状況が生み出した、屈折した歪んだ感情だったのか?
だったらやっぱりあの『先生』は少しも信用できなくて、やっぱりあの部屋は監禁目的で、昨日急に引っ越したのは俺たちにあの狂った部屋を見られたからか?
突き刺さっている針の痛みを堪えているみたいな顔で寿樹が頷く。
「そう。だとしたら檻と信頼関係という矛盾について説明がついてしまう。檻のような部屋に囚われているにもかかわらず信頼しているように見えたのは、それが純粋な信頼ではなく、蓑本さん本人ですら明確に意識してない歪んだシステムによって生み出されたものだからだ。そんなふうに認識を捻じ曲げさせるほど過去に辛い目に合わせた張本人だからこそ、あの人はかえって捩れた形で蓑本さんの信頼を獲得している。そう考えると一連の全てに納得がいくんだ」
「えっ?」
俺は思わず変な声を上げてしまう。
「あれ?一連て何が?今の話って監禁のこといってたんじゃないの?」
前屈みにしていた身体を起こすと、寿樹は腰をずらして俺と目を合わせる。
明らかに冗談を云ってる顔じゃない。
「下衆の勘繰りって言葉があるけど、今から僕が云うことは本当にくだらない憶測に過ぎない。情報は足りないし、それこそ気のせいだの一言で論破されてしまうほど根拠は脆弱だ。僕は嘘吐きだから、僕の云うことなんて容易く信じちゃいけない。僕はこれから酷いでたらめを口にする」
俺は頷いた。
頷いたけど、それは寿樹の話が嘘だと了解したという意味じゃない。そうじゃない、一種の覚悟を示しただけだ。
何故なら寿樹が今から口にするのは嘘なんかじゃない。
俺より全然頭のキレる寿樹が考えに考え抜いて導き出した、『嘘だと思いたいような限りなく最悪の本当の話』だってことだろうから。
「…今朝あの不審な引越しを目にして、それからさっきしたような話を思い出して、僕はまず蓑本さんが見せた先生への信頼に疑念を抱いた。それから連鎖反応みたいに僕は恐ろしいことを思いついてしまった。
 あの映像の中で蓑本さんに圧し掛かっていたあの男と、あの先生の背格好はとてもよく似ていると思わない?二人が同一人物だとするとどうなる?すると、そもそもの発端はあの映像の方であって、あの部屋は過去から連々と繋がっている事態の単なる延長線上の一部でしかないことになる。目的は監禁ではなく、監禁は暴行という目的に付随して派生している事態でしかない。それからさっき空知先生の話にあった実父による虐待、何故実の父親を『先生』などと呼ぶのか疑問はあるけど、空知先生の云っていた虐待は単なる暴力というよりはあの映像のような性的な虐待を指しているんじゃないの?
 だとしたら、問題の根幹にあるのは、あの人が彼女を閉じ込めたり僕たちの知らない場所に連れ去ったことなんかじゃない。重要なのはあの人が今も傍に居て彼女を支配し続けているということなんだ」
「………そ、んな……」
寿樹の真剣な表情。
その瞳に映った俺は背筋を伸ばして目を見開いたまま微動だにしない。
凍り付いていて瞬きすら出来ずに、続く言葉を呻くように唇の隙間から押し出す。
「…そんなことって…」
そんな馬鹿なって云おうとしたのに、俺の口を吐いて出たのはまるきり肯定の言葉だった。
安良木を抱えていった後姿と、安良木を組み敷いた後姿。
ふたつを脳裏で比較してみる。
監禁を疑いはしていたけど、暴行とは完全に切り離して考えていた。監禁だって十分酷いけど、でもだってそんな身近に居る人間があんな非道な真似をしといて平然と傍に居るなんて普通考えられないじゃんか。
あんな酷いことが繰り返されているなんて考えたくないじゃんか。
「そんな…」
でも本当は比較するまでもなく、話の途中に指摘された時点で答えは出ていた。
安良木を抱きかかえ暗い檻へと運んでいった後姿。
安良木を組み敷いて圧し掛かり乱暴を働いた後姿。
黒髪も首筋も肩幅も、確かにふたつは良く似ていたから。
可能性を最初から除外していただけで、俺も本当はちらりとそう思った気がする。思いついてはいたけれど無意識に拒否していた。安良木の信頼が捩れて生まれたかもしれないように俺の意識も都合よく耳を塞ごうとしていた。
そんな人でなしの真実は視たくなかったんだ。
身体ががたがた震えだす。
冷水に投げ込まれたみたいに熱がどんどん干からびていく。奪い去られる体温の代わりに頭の中で嵐がどんどん酷くなっていく。
安良木はそんな相手とずっと生活を?
檻の中に閉じ込められて?
たった一度だって酷いのに、あれが一度じゃなかったっていうのか?
そして。
そして、それを俺は何もせずにただ黙って見過ごしてきたのか?
馬鹿みたいに毎日笑いながら?
目の前の景色が横に流れて黒一色に染まる。と名を呼ばれる。俺の名を呼ぶ声は耳と同時に肌からも伝染してきた。何故と思いそれが余りにも近くにいるからだと悟る。ゼロの距離に寿樹がまた俺を抱き寄せたことを知った。
「さっき僕は云ったよね、間違ってる可能性があるって。一旦保護された子供が虐待をした親元にそんな簡単に返されるのか謎だし、たった一回会っただけの人とほんの数分見ただけの映像じゃ一体どれだけ記憶が正確か怪しい。銀行強盗の話だって昔ちょっと本で読んだだけだ、間違って覚えてる可能性があるし、蓑本さんが本当にこの話と同じ過程で信頼を形成したのかそんなの解らない。もしかして、本当に蓑本さんは暗所恐怖症で、今日だって忙しくて新居の連絡がまだなだけかもしれない。本当に僕の語ったことに信憑性なんてないんだ」
重箱の隅みたいなことを云いながら、寿樹が子供にするみたいに何度も背を撫でる。
けど、その云い訳みたいな言葉の中にあの映像と檻のことは出てこない。
あんな醜い話を否定したいなら、あの映像の子だって本当に安良木かどうか怪しい、って云うのが一番簡単なのに。
寿樹も解っているのだろう。
他がどれだけ間違っててもそれだけは間違ってないことを。
そしてどれだけ仮説が穴だらけだろうと、きっとあの映像と檻は無関係じゃない。
寿樹の云うとおり、安良木の傷口はきっと癒されないまま血を流している。
悪い夢はまだ終わってない。
寿樹が壊れたみたいにと俺の名を繰り返す。
、お願いだから眠るんだ。ごめんね、やっぱり君にこんな話するべきじゃなかった。昨日から何も喰べずに眠らずでそんなふうに切れそうなぐらい張り詰めていたら君がおかしくなっちゃうよ、休息を取るんだ、。お願いだから眠って」
まただ。
どうして喰ってないことだけじゃなく、寿樹には寝てないことまで解るんだろう?
髪や背中を撫でながら、寿樹が何度も何度も眠るんだと囁く。
繰り返される言葉に誘われるように、俺の意識は電気のスイッチを切るように唐突に千切れた。


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