「安良木…大丈夫かなぁ」
の顔見れば元気が出ると思うよ〜」





ごとごとと揺れる電車内、その返答が不服で俺は口をへの字に曲げる。
朗らかに微笑んでいる目の前のノッポを俺は上目遣いに睨みつけた。右の手摺に背中を預ける俺と向かい合うように、寿樹は丁度扉の中間辺りに寄り掛かった姿勢で腕を組んでいる。
「いい加減なこと云う奴は嫌われるんだぞ」
「別にいい加減なことを云ってるつもりはないんだけどね〜、蓑本さんはがお見舞いに行けば十中八苦喜ぶから。それに」
睨む視線にたじろぐどころか、寿樹は妙に嬉しそうに目を細める。そして例のお得意のエセ笑顔を浮かべると、垂らしたまんまでほったらかしの俺の髪を一房すくってその指にくるくると捲きつけていく。
「誰に嫌われようが、僕はに嫌われてないんなら別にそれでいいんです」
俺は短く息を吐きだすと、半眼にした胡乱な眼差しを窓の向こうへと飛ばした。
バカバカしくって返事をする気にもなれないっつーの。
俺が女になってからというもの、寿樹はよくこの手のことをほざくようになった。最初の時はついええっ?って反応しちまってたが、いい加減慣れたぞ、俺はもうおもしろいリアクションなんかしてやんないんだからな。
車両がカーブに差し掛かったところで、見えない力によって俺の右肩が背後の手摺へと押さえ付けられる。
扉と俺の間で潰れたりしないよう、俺は急いでお見舞いの花束を右手から左手へと持ち直した。その移動の合間に目に飛び込んできた花の色に俺は僅かに頬を歪める。
カスミソウとマーガレット。これは俺でも知ってる白い花だ。
それからオレンジとピンクのガーベラって花が3本。
どれにしますか、って優しそうな花屋のおばさんに尋ねられて、俺が安良木の為に15分もかけて選んだ花。安良木が好きなのはどんな色だろうとか、どんな花が好きだろうとか、俺の知ってる蓑本安良木って女の子を一生懸命想い起こしながら喜んでくれそうな色と花を選んだ。
ふわふわの真っ白い中にぱあっとあったかそうな色。
小さな蕾と大きな花びら、折れそうな茎としっかりとした茎。
可愛くて繊細で凛としてる花たち。
同時にそれはそのまま俺の中の安良木のイメージでもあった。
けれど、俺は今そういう経緯で誕生したこの花束に後ろめたさを感じている。
安良木らしいとか、安良木っぽいとかってのは、そんなの俺の勝手な幻想だ。
ほんとは俺、なんにも安良木のこと解ってないのに、それが昨日嫌って程解ったばっかのくせに、いかにもあの子のことは解ってますって顔すんのは、そんなのは俺の傲慢な自己満足だ。
買った後に漸くそのことに気が付いて自己嫌悪した。そんな選び方しなきゃよかったって。安良木のことなんかこれっぽっちも知らない、あの花屋のおばさんに適当に選んでもらった方がきっとまだマシだった。
手元の花束から視線を上げ、ガラスを隔てて流れ行く景色を見送る。
ユースに通わなくなってから二日連続で電車に乗るのなんか久々だった。でも俺の心にはあの頃のうきうきとした晴れやかな気分とは対極の、もやもやと重苦しい雲が渦巻いている。
昨日は結局武蔵森には戻らず、一応翼に連絡を入れてから俺たちはそのまま家に帰った。
連絡つっても、『安良木を家に送り届けたら丁度お父さんが帰ってきたから俺たちは帰ることにした、やっぱり暗所恐怖症だったらしい』って、云ってる俺の方が嫌になるような説明しかできなかったんだけど。
翼はそうか、ってその一言だけで済ませてくれた。きっと変に思っていることがいっぱいあっただろうけど、詮索しないでいてくれたことに俺は心から感謝した。
どうせそれ以上のことを訊かれたって、俺たち自身に釈然としないことが多すぎてちゃんと答えられないのも事実だったけど、黙っていることがあるのも事実だったから。
俺は嘘が嫌いだ。質問されたのならきっとあそこで見たことを喋っちまったはずだ。だから訊かないでいてくれたのは本当にありがたかった。
安良木は……大丈夫だろうか。
流れていく景色とは反対に、俺の頭の中では次々と記憶が逆流して押し寄せてくる。
例のあの麻薬事件の翌日、学校はサボったけど俺は安良木とは放課後待ち合わせて会った。
頭を下げて心配をかけたことを謝罪して、何でも云えって迫った俺に安良木は笑顔で『早く怪我を治すように』とそれだけを望んだ。
もちろん、そんなの俺の気が収まらねぇよ。
でも、他には?って訊いても『一緒に写真撮って』とか昨日みたいに『これ着て頂戴』とか、そんなんばっかし。
俺は全然借りを返した気にはならなくて、そうこうしているうちに安良木の様子がおかしくなって、それで気分転換に映画でも行くかって誘ってみたんだ。
そうしたら確か『飽きっぽいから2時間も座ってられないわ』って断られた。なら星とかどうだ、プラネタリウムは?って訊いてみてもこれも『私って星とか好きそうな乙女チックな子に見えるの?』って笑われた。それで翼に教えてもらった武蔵森の学園祭に誘ってみたんだ。
だから…多分だけど、やっぱり暗いところは駄目なんじゃないかと思う。
でも、あれは本当に暗所恐怖に対することだけなのか?
嘔吐するほどの嫌悪。
そして泣くほど寿樹を拒んだ。
もしかして男性恐怖症とかってやつなんじゃないのか?
俺がまだ男だった中二の時、ブルー(注・山下ナオユキ、フェルナントカって画家の青いターバンのナントカに似ていると例によってまたどっかの馬鹿が云い張ったことに由来する)に安良木のこと紹介してくれって頼まれたことがある。ブルーはいい奴だし、いいよって俺は仲介を請け負った。
じゃあ捕まえとくから昼休みにコレ返す振りして俺んとこ来いよってCD渡して、そんでもって昼休みに俺は適当に安良木に話し掛けて、ブルーもちゃんと打ち合わせ通りにCD片手にやってきた。
でもブルーが『おい、ー』って話に混ざろうとした途端、俺が引き止める暇もなく安良木は『あら、お友達よ』って笑顔ですいっと去って行ってしまったのだ。
残ったのは唖然としてその後姿を見送るしかない俺とブルー。
それからCDが漫画やゲームに変わっただけの同じような作戦を4回やって、でも流石に4回目には俺も俺に向けられる安良木の苦笑の意味も解ったし、ブルーも脈がないことを悟らざるを得なかった。
ブルーは本当にいい奴なんだぜ?
背だって高いし、顔だってカッコイイ部類だし、何より寿樹の一億倍は性格が良い。
俺だって変な奴だったら、安良木に紹介しようなんて思わなかった。現にブルーの前にチャラくて別に友達でも何でもねー奴に頼まれた時は断ってる。
紹介するにしたってブルーならいいかって、ちゃんとそれぐらいは俺だって考えたんだ。
でも、ブルーの一件で安良木にとってはそういうのは迷惑なんだって解ったから、それからはもう誰に頼まれても断った。中には男の俺から見てももったいないかなって奴も居たけどさ。
実は安良木はかなりモテる。
マジで安良木を好きな奴は割と多い。
確かに安良木は可愛いんだ。
あのちっちゃい身体で、黒目の綺麗な大きな目で見上げられると男なら結構クるものがある。
それに……なんていうか………クラスどころか学年で一番小さいかもしれないくせに、時々物凄い色っぽいことがある。胸がデカイとかそういうんじゃなくて、目を伏せた瞬間とかふとした声とか、そういう仕草がさ。
安良木のことをマジで好きな奴は、大抵そういう姿に悩殺された経験がある奴だ。何で好きなのか理由を質すと、表現は違えど大体そんな風に『あのときの蓑本さんは…!』と同じようなことを語りだす。
俺はどっちかってーと星川とか遠山とか、ああいうのの方が好きだったから、男のときは安良木をそういう対象として意識したことなかったけどさ(今はもし男に戻ったら絶対結婚してもらおうと思ってるけどな!)。
当時の俺には蓑本ファン(奴らは何故か絶対安良木じゃなく、蓑本さん、とさん付けの苗字で呼ぶ。俺には信じられないが、どうやら他の奴らにとって安良木は近寄り難い存在らしい)の熱弁を聴かされてもふぅ〜んとしか返事のしようがないんだけど、そうするとお前が羨ましいよと心底恨みがましい眼差しを向けられたものだ。
安良木はどうしてか俺と寿樹とだけは仲良くしてくれていたから。
確かに本気で安良木に惚れてる奴らにしてみれば俺や寿樹はぶっ殺したい害虫以外の何者でもなかったに違いない。羨ましがられるのも当然で、安良木が俺たち以外の男と気安く話しているところは全くと云って良いほど見たことはない。
そんなんだから、ろくに口を利いたことがないような奴らは俺と寿樹のどっちかが安良木の彼氏だって思っていたぐらいだ。
初めにマツがニヤニヤしながらその噂を持ってきて、俺は否定しとけよって怒ったのに、安良木は放って置けばいいって笑ったんだ。おもしろいから、そのままでいいって。
もしほんとに安良木が男が嫌いなら、そういう噂がある方が却って都合が良かったんだろう。
俺は痛いぐらいに唇を噛む。
もし安良木が真実暗所及び男性恐怖症だったと仮定するならば、示される記憶の欠片はまるで無作為に千切ってばら撒かれた証拠のようにその仮定を鮮明に裏付けているように思える。
でも、こういうのって、ただの予断ってやつなのかもしれない。
仮説に当て嵌まるものだけを強引に寄せ集めて、それ以外の相反する情報からは都合よく目を背けているだけなのかもしれない。
思い出せないだけで、俺が知らないだけで、ほんとは逆の証拠の方がいっぱい在るのかもしれない。
そうならそれでいいんだ、別に。
下衆の勘繰りでごめんって謝るまでだ。
それに俺は安良木が暗所恐怖症でも男性恐怖症でも、別にどっちだっていい。
暗いところが恐いのなら俺が明かりを灯してやる。男が嫌なら俺が絶対近付けさせない。
俺のこの重苦しい不安の原因はそんなことじゃない。
学校の連絡網に載せている住所とは違うところに住んでいるのは何で?
わざわざ余計な金と時間をかけてまででうちの学校に通っているのは何で?
そんな疑惑でさえ些細なことだ。
それよりもあの部屋だ。
あの、異常な檻。
あの人は『閉じ込めてなんていない』って云っていたけど、本当に?
じゃあ何で鍵をかけたんだよ?
暗いところが恐かろうと男が嫌だろうと、そんなの全然あの部屋の説明にはならない。
あの部屋だけは絶対おかしい。
格子の嵌った部屋なんて尋常じゃない。
目に飛び込んできた瞬間、強烈なパンチを喰らったような気分だった。あんな部屋に友達が住んでいるなんて物凄いショックだった。
どうして窓に格子を嵌める必要があるんだよ?もうひとつの窓だって昼に雨戸を閉めきって。俺には逃亡を防ぐ為だとしか思えない。
俺は昨日、あの人の目を見てこの人は嘘を吐いてないと思った。
でも今はそのことに確信が持てない。
保護者だって云ってたし、確かに安良木と良く似ていた。きっと血が繋がっているのは事実だ。
それでも俺は昨日の夜後悔した。安良木をあんな部屋に残してきてしまったことを。
だって絶対変だ、あんな部屋。

普通じゃない。

眉間をとん、と突付かれてはっとなる。
「皺寄ってるよ」
慌てて顔を上げたら、寿樹が珍しくほんとに優しい顔で笑っていた。
いつもの人をさりげなく小馬鹿にしたような笑い方でもないし、プロモーション用の偽笑顔でもない。本心からの気遣いが透けて見えるような笑い方だった。
けれど同時に何だか寂しそうで、物珍しさも手伝って俺は思わずまじまじと見つめてしまう。
なんだ?どうしたんだ、こいつ?
「確かにあの部屋は気になるけどね、でも普通に学校には通って来ていたでしょ?普通に朝登校してきて普通に夕方下校していた。監禁されているならそれなりのリアクションがあったと思うけど」
監禁。
あえて避けていたその単語に俺は硬直する。
ガチンと真顔でフリーズしてしまった俺の髪へと寿樹が手を伸ばす。でかいくせして器用な指が、迷うことなく俺の頭を滑っていって真ん中よりも左寄りの辺りですうっと分け目を作っていく。
云われた内容か、それとも寿樹の指にか、俺は僅かに眉を顰める。
「それは…それはお前、誰かに云ったら殴るぞ蹴るぞ酷いぞとかって……」
寿樹は適当に梳いただけでほったらかしな俺の髪を撫で付けながら、今度は慰めるように少し笑ってみせる。
「確かにそういうふうに恐怖によって支配されてて逃げ出せなかったケースもあるみたいだけど、外界に助けを求めるチャンスがいくらでもある状況で蓑本さんほどの人にありうると思う?」
「………思えません」
俺は負けを認めるしかなくて溜息を吐く。
そうなんだ。
あの部屋は絶対変だ。
でも安良木が何もせずに唯々諾々と虜囚の身に甘んじているというのは、もっと変なんだ。
俺と違って頭だっていいし、見掛けほどヤワじゃない。突付けばすぐに泣きだしそうな外見のくせに、安良木は突付いた棒を笑顔で掴んだ挙句、ぼきりと折って相手に思いっきり投げつけるような奴なんだ。やられてやられっぱなしのタイプじゃない。
でも。
そうなんだけど、そうなんだけれど俺は何か嫌な予感が胸の中でどんどん膨らんでいくのを止められない。
「でしょ?」
すっと寿樹の手が俺の頭から離れる。頭が軽くなったような感覚が何となく不安を誘った。何だか物悲しい気分で俺は骨ばった指の行方を追う。
ポケットに吸い込まれて行ったその指が再度姿を見せた時には、どういう訳かきらきら光るかわいいピンどめが握られていた。中学生男子には不釣合いな品だ。俺は思わず嫌な顔をしてしまう。だって気持ちワリイじゃねぇか、寿樹は俺とおんなじ一人っ子だし、女の姉妹なんかいないのになんでそんなモン持ってんだよ。
「どうしたんだよ、それ?」
「昨日、半分受け取ってくれなかったでしょ?だから現品支給」
寿樹の指がこめかみを掠めて俺の髪に潜り、耳の後ろに毛束を流す。
俺はまた言葉と行為のどっちになのか、自分でも解らないままに顔を顰めた。
「だってタクシー代払ったのお前じゃん。当然だろ?」
「タクシー代なんて千円以下だよ。それを差し引いても二千円づつ分けるのこそ妥当だと思うけど」
「だって特別何かしたわけじゃないのに金貰うのなんか嫌じゃんか」
「その嫌なお金を僕一人に押し付けないでよ」
苦笑して寿樹は片手を俺の耳の横に添えたまま、もう片方の手だけで器用にピンを開いてすっと俺の耳の上に差す。本当にナリの割に寿樹は器用なんだよな。
このアホは腐るほど背が高いけど、流石にまだ身体はできてない。胸や腰は意外と薄い。だから身長にあわせてパンツ買うとウエストががばがばで、ウエストにあわすと今度は丈が足らなくなる。仕方ないからそういう場合自分で直すんだと。
男のくせに下手な女より裁縫上手いんだぜ?信じらんねーよ。
「ん。よく似合うよ」
寿樹が満足そうに笑う。
安良木にしてもこいつにしても、なんで俺を着飾って楽しそうなんだろうな。俺にはさっぱり解らん。
昨日はいらねぇって受け取らなかったけど、確かに寿樹にだけ押し付けるのも悪いよな。特別何かしたわけでもないし役に立ったとも思えない、何より友達を金に換算するみたいで嫌だけど。
俺は溜息を吐く。
「えーと、まぁありがとな」
「あはは、僕のお金じゃないけど、一応どう致しまして」
ガラスに映してみると、緑のラインストーンが嵌った綺麗な蝶々がこめかみの傍にあった。窓ガラス越しの陽光を跳ね返してきらきらと光る。その煌びやかな列を目にした途端、俺は唐突に閃いて思わず縋るように寿樹の腕を掴んでいた。
「もしかしてラギは何か弱みを握られて脅されてるのかもしれない!」
寿樹が目を丸くする。
口にするともうそれしかないような気がして、俺は急激に心臓がどきどきしてきた。
袖口に痕がくっきり残るほど強く握っていたくせに、みるみる指から力が抜けてぱたりと俺の腿を打つ。同じように自然と首が下がって、俺の視線は寿樹の顔から花束へと急降下する。目に飛び込んできたその花の色に俺は慌ててへろへろな指先に力を込めた。
馬鹿げているけど、もしこれを落としたりしたら何か悪いことが起きそうな気がしたのだ。
花束を握り締めながら、俺は声が震えないよう懸命に咽喉に力を込める。
「どうしよう、だからラギは誰にも云えなかったんだよ、なぁ警察に」
「落ち着いて、
寿樹が俺の台詞を遮り、大きな両手で俺の頬を包んで強引に顔を上向かせる。
今度は俺が目を丸くする番だった。
寿樹の顔はふざけていない。
フィールドで俺にパスをくれる瞬間みたいな真剣な目をしていた。
こんなときなのに、俺の心は一瞬だけ輝かしい光景で溢れ返る。
後衛と前線でどれだけ距離が離れていようとも、全部が融け合ったみたいに寿樹がどこにパスを出すのか何を狙ってるのか何もかも理解できたあの刹那が何だか酷く懐かしかった。
「落ち着いて、。もう一度よく考えてみて、蓑本さんの様子を思い出してみて。
 いい?この際父親が娘を強迫する訳はないなんていう常識的な意見は置いておくとしても、あの時の蓑本さんの態度を思い出して。少なくても嫌悪を抱いている素振りはなかったでしょ?僕にはむしろ信頼さえ感じられた。彼女、僕に抱き上げられることは拒んだけど、あの人に対しては違った。引っかかる点はあるけど、あんなに具合の悪い状態で憎むべき脅迫者にそういう演技ができたとは思えない。
 僕もあの部屋はおかしいと思う。住所のことにしたって変だと思ってる。でも何かそうしなければならない事情があるのかもしれない。異常だという先入観で先走らない方がいい。それを確かめるために今日これから行くんでしょ?」
「…………うん」
放たれた言葉を時間をかけて咀嚼して、それから漸く俺はこくりとガキみてーに頷く。その動きに合わせて、寿樹の指もゆっくりと緩んで離れて行った。
そうだよ、な。
まだ決まったわけじゃないもんな。
寿樹の云う通りだ、先入観に捕らわれて先走っても自爆するだけだ。
でも、確かめるったって、別に全部白状しろなんていう気は毛頭ない。
俺が知りたいのはただ一個だけだ。
安良木が大丈夫なのか知りたい。
それだけが気懸かりだ。
俺は溜息を吐いて、そして深く息を吸い込んだ。
「ワリ。フライングしすぎだ、俺」
頭上で寿樹の小さな笑い声。
あ、まただ。また微妙に寂しそうな笑い方。
「いいよ。仕方ないよね、は蓑本さんが好きだから」
…うん?
俺は何だかおかしなことを云われたような気がして、顔を上げて寿樹と目を合わした。
「お前だってラギ好きだろ?」
訝しげに眉を寄せた俺の視線の先で、何故か寿樹は苦く笑う。
「僕も蓑本さんは好きだよ、が好きな人だから」
「なんだよ、それ?」
意味不明で迂遠な回答に刺々しい声が出た。
ごく自然な動きで寿樹は窓へと視線を流し、俺から目を逸らす。
だから……これだから俺はコイツが大っ嫌いなんだよ。
演技が上手くて平気で嘘を吐く。相手に腹を立てているときだって笑って見せるし、内心焦っていたってコイツは平然とした顔を貫き通す。
寿樹は昔っからそうだ。
全部自分だけの腹に溜めて、誰にも本心を明かそうとしない。
今だってこいつは『何か』を隠した。
「ごめんね、
「何がだよ?」
質問をはぐらかされたことで余計に俺の声は尖る。
なのに、睨み付ける俺の視線なんか全然気付いてない振りをして、寿樹は相変わらず窓の向こうへと顔を向けたままだ。
こうして俺の目を見ないってことは、絶対何か俺に隠したいことがあるに違いない。
付き合いが長い所為で、目を見れば嘘を吐いているかいないか俺が見抜いてしまうことをコイツも経験上知っているのだ。
「君を女の子にしちゃったこと。もし、僕が君を女の子にしなければ、きっと今頃蓑本さんと付き合ってたよね」
……………はあ?
なんでそうなるんだ?
何云ってんだ、このバカは?
確かに俺は安良木のこと好きだよ?
もし男に戻れたら土下座してでも嫁に貰うつもりだよ?
でも、なんでよりによってコイツがそんなことを云うんだよ?
なんでよりによってコイツが、今、この俺に、そんなこと云うんだ?
……うわ…何だろ、これ。
なんつーか、胎の底の方からめらめらと焔が沸き上がるカンジっつーか。
…何だか知らんがとにかくスゲエムカついたぞ。
「あのさぁ」
怒り心頭・怒髪天モードスイッチオンになった俺が今まさに悪口雑言を発射しようとしていた時。
俺は直前で罵詈雑言ミサイルの発射を断念せざるを得なかった。
強烈な視線を感じたからだ。
こいつと一緒に電車に乗っていればじろじろ見られるなんて、そんなのはいつものことだ。
大抵は手摺よりも額の位置が上にある寿樹へと物珍しげな視線が注がれる。ついでに目立つ髪色の所為で一緒に居る俺も眺め回される。そういえば、女になってからはその髪がケツに届くほど長くなった所為か余計じろじろ見られるようになった。
とにかく、俺も寿樹も電車や街中で珍獣扱いされるのは慣れっこだ。
昔は嫌で嫌で仕方なくて、小六ぐらいまではガン付けまくってたけど今はもういちいち腹を立てることもない。俺は大人になったのだ。
さっきからオバハン三人組がこっそり指さしたり、ひそひそやってんのだって気付いているが大人なので無視している。このクソババアどもめ、チョークスリーパーかまされてぇのか。
まぁ、そういういつも通りの不躾な視線の束の中、急に一本異質なものが出現したんだ。
ちょっと普通じゃなく強烈な。
ちらちら窺うとかじゃなく、明らかに俺を見ている。
中途半端に口を開いた状態のまま、余りにも強烈な眼差しに俺は咄嗟に目だけをそっちに差し向けた。
目が合う。
視線の主は、連結口の扉を今まさに越えてこようとしている男。
一見してオタクだって解る。
よれよれのネルシャツにアニメキャラのTシャツ(俺は百万積まれても着たくない)、だぼだぼのジーンズにやけにデカくてぱんぱんに膨らんだディパック。
うわ、キモ(ごめん俺正直者だから)。
そのキモいオタク野郎が幽霊でも見たような顔をして俺を凝視してやがる。
俺は半開きだった口をすぐさま閉じ、思わず逃げるように扉の方に身体を寄せた。ヤンキーは恐くないけど、俺オタクは恐い。
やべえよ、何だよコイツ、なんで俺のこと見てんだよ?
俺の表情の変化にオタク野郎がはっとして、気まずそうに俺から視線を逸らす。そして、言い訳するみたいに口をもごもごと動かした。


『テ
 ジ
 ョ
 ウ
 ノ
 コ
  ダ』



「………何だって?」
俺はゆらりと扉から身を起した。
「どうしたの?」
寿樹が漸く俺に視線を戻す。だがもう俺は寿樹どころじゃない。
一歩踏み出した俺を見て、オタク野郎が慌てて再び連結口の扉に縋り付く。
「寿樹これ持ってろ!」
花束を押し付けると、俺は揺れる列車内を走り出した。
ものスゲエ迷惑な行為だってのは解ってる、スイマセンスイマセンとあんまり誠意の篭ってない早口で謝りつつ、それでも俺は踊るように人波を泳ぎつつ奴を追う。
あの距離だ、聴こえた訳じゃない。でもあいつの唇の動きはきっと見間違いじゃない。
『手錠の子だ』
俺のことだな?
あの麻薬事件のとき、手錠で繋がれて吊るされていた俺のことだな?
でも、あいつはあの現場に居なかった。
ジョーイの仲間にも見えない。
何故だ?
どうして知っている?
連結口に辿り着いたものの、ご丁寧にきっちり閉められた扉を開けるのに俺が手間取っている隙に奴はもう次の車両の中程まで達していた。
怯えたような顔で俺を振り返る。
その顔を見て俺は確信した。俺を知ってるんだ、やっぱり。
扉を乱暴に開け、再度謝罪の声を上げつつ奴の背を睨む。
『次は〜…』
駅到着を知らせる俺の気も知らない呑気なアナウンス。
失速していく車内を駆ける。
まばらに立っている人にぶつからないようにする所為で、思うように走れない、距離が縮まらない。こんな公共の車内で鬼ごっこする俺が悪いんだけど、それでも舌打ちしたくなる。
さらに次の車両へと追撃は続く。
ついに駅構内に車両が滑り込む。
扉側に人が寄るおかげで走りやすくなる。
もうちょっとでクソでかい鞄に手が届く。
そう思ったのに。
「い…っ!」
「え?」
俺は髪を引っ張られて、急停止を喰らった。
振り返り睨みつけた先には大学生ぐらいの兄ちゃん。テメエフザケンナと思ったら、きょとんとしたそのツラの下、ウエストバッグの金具に俺のクソ長い髪が絡んでいた。
「あ、ああ、ごめんね、大丈夫?」
舌打ちする俺の視線の先に気が付いて、妙に嬉しそうな顔で金具に手を伸ばす。
「ちょっと待ってねー…なかなか取れないや」
苛々しながら首だけ方向転換すると、丁度開いたばかりの一個先の扉から奴が飛び出していくところだった。
俺の目の前を通り過ぎ、人波に乗って早足に去っていこうとする。
怯えと安堵の混じった顔で俺をちらっと振り返る。その微妙に勝ち誇ったようなツラ。
そのツラに俺は猛烈に腹が立った。
ふざけんなよ。
テメエ俺に勝ったつもりか、それで?
発車ベルが鳴り出す。
「あのさぁ、これ取れないから、あ、え?」
俺はのろのろ蠢く兄ちゃんの手を邪険に振り払うと、絡んだ髪を一気にぶちぶちっと引き千切ってホームへと飛び降りた。
直後、背後で扉が閉まる。
だが、既に目の前のホームは閑散としている。
あのオタク野郎が幾ら鈍臭くてもすでに改札ぐらいはくぐったはずだ。この駅で俺は降りたことはない。改札を抜けた先の土地勘はゼロ。追跡するには最悪の条件。ヤツが地元民でチャリでも持ってたら絶望的だ。
畜生畜生と心中で呟きながら、素早く首を巡らして俺は目を丸くした。
2.5車両分ぐらい先の階段の手前。
そこで寿樹が片手に花を、片手に項垂れたオタク野郎の首根っこを掴んでにこやかに立っていた。



「なぁーんでキミが俺のこと知ってるのかぁ、その辺のこと教えてほしーんだけどなー」
俺たちはにこやかな笑顔でオタク野郎を連行し、階段脇のベンチに座らせた。俺がその隣へと腰を下ろして、寿樹は向こうのホームから見えないように俺たちの前に立つ。
「……………………」
オタク野郎、黙秘。
俺から視線を逸らして至極大事そうに例のデカバッグを胸に抱えたまま無言。
さらに十秒待ってやったが喋る気配なし。
「オイ」
がっとオタクTシャツの襟首を掴む。
力任せに引き摺り寄せて、引き攣った顔に向かって俺はにこやかにどす黒い声で囁く。
「云っとくけどテメエに選択権はねぇんだよ。教えてっていうのが殴られる前にゲロしろって意味だって解んねぇのか、アァ?」
オタク野郎の顔色が変わった。
何が入ってるんだか知らないが、ますますぎゅうっとデカバッグを抱き締める。
「ネ、ネットだよ!ネットで見たんだよ!」
「ネット?」
眉を顰めた俺を見て、オタク野郎がちょっと元気になって得意げな顔になる。
「インターネットだよ」
「テメエ俺をバカにしてんな?そんぐらい解るっつーの」
今度は笑顔抜きで低音を吐き出した俺に、再び怯えたような顔になる。忙しいことだ。
「そうじゃなくて何でネットで俺を見たのかってことが知りてーんだよ」
「そ、それは……」
「それは?」
「…そ…それは…それが……」
俺はごんっとベンチを拳で殴った。
びくっとわざとらしいぐらい大げさにオタク野郎が肩を震わせる。
云い淀むオタク野郎の眼前に俺は笑顔で拳を突き出す。回りくどい交渉は苦手だ。俺は軽くヒビの入った板っきれを空いてる方の指でこつこつと叩く。
「アンタ骨は丈夫な方?」
「ア、アダルトサイトで見つけたんだよ!あんたが手錠に繋がれて火攻めにされてる動画を!」
思いも寄らないその返答に、俺はびっくりしてついついそのモテなさそうなツラをまじまじと見詰めてしまう。
驚きすぎて拳を引っ込めるのを忘れた所為か、オタク野郎は堰を切ったようにべらべらと捲くし立て始める。
「そこ修正無しの画像とかも扱ってるんだけど、無修正モノよりあんたの超美少女丸秘映像ってヤツのがアクセス制限かかるほど大人気だった!アレは誰だ、ほんとは続きがあんじゃないのかって単独スレッド立ったぐらいで、だからさっきあんたを見たとき本物だったから思わず見ちゃったんだよ!で、でも、いくら待ってもあれ以上続きは出てこないし、あんた変な顔したから、もしかしてアレ、モノホンのレイプで、アンタは公開されてんのし、知らないんじゃないかって、だから俺ヤバイと…思っ、て……」
俺の表情の変化に気が付いたのか、段々その声に勢いがなくなって終いには中途半端に途切れた。
怯えたようにバッグを抱えなおし、ずりっ、ずりっとケツで移動しながら俺から距離を取ろうとする。俺はもうこのエロマニアからとっくに興味は失せてたんだけど。
今俺の眉間に皺を寄せ唇を一文字にさせている犯人はジョーイであって目の前のチンケな男じゃない。
確かにあの時ビデオを回されていた。
でも最後までヤラれたわけじゃないし、せいぜい痛み分けで俺はビデオのことなんか忘れていて、今の今までそんなの撮られたことさえ忘れていた。
クソ野郎。
むかむかと腹が立ってくる。
俺に無断で金儲けしやがったな?
唐突に見えないビンタを喰らったような気分だ。
「ね〜、僕、インターネットとか良く解んないんだけど、それって誰でも見られるもんなの〜?」
頭上から能天気な寿樹の声。
「え?…え、あ、まあ見ようと思えばな、ただし大体国際電話経由になったりするから金はスゲエムチャクチャかかるけど。でも、いっぺんダウンロードすれば何遍でも見れるし、無修正だし」
「ふーん。そういうのいいね。レンタルビデオじゃモザイク入ってるもんね〜」
「だろ!しかも種類もすげーんだよ、普通じゃ店に置けないようなのまであるんだぜ!」
「へ〜、でもあんまりいっぱい落とせないよね?パソコンも容量とかあるんだよね、確か。そういう時どうするの〜。やっぱもったいないけど消しちゃうの〜?」
「ばっかだなぁ、これだから素人は」
俺の横でエロマニアがバッグを漁り始める。
ジョーイとシドのことを思い返してシリアスに怒りを燃やしていた俺は、そのがさがさやってる音が無性に苛立たしくてじろりとエロマニアに視線を投げる。
だが最早自分の世界の住人というか、さっきまであんなに俺にビビってたくせに、この至近距離からガンつけてることさえ気付きゃしねぇ。
じゃーん、といっそ誇らしげに数枚のCDを取り出す。
末期だな。現実で女作れよ、そんなエロ映像持ち歩いてねーで(無理そうだけど)。
「ほら。今はDVD-Rっつーのがあんだよ。落としたら今度はこっちに移すんだよ」
「へ〜賢いね〜。移したらパソコンからは消しちゃうの〜?」
「ああ、あんまり残してても重くなるだけだからな」
寿樹がエロマニアから6枚のDVD-Rとやらを受け取り、一番上のを裏返したりしてしげしげと眺める。
「彼女の画像ってまだそこで公開されてるの〜?」
「いや、3日ぐらいですぐにリンク切れになったから、超プレミア映像だったな。あんたが今持ってるやつに隣の姉ちゃんのも入ってんだけど、そりゃもう売ってくれって云われても売れないね!俺がこの一年、集めに集めまくったお宝映像だからスゲエ濃いぞ!」
「そ〜ありがとうね〜」
「え!?」
エロマニアの顔色が変わる。
おお、まさに天国から地獄ってカンジか?
俺は話の途中から寿樹の目的が何なのか解っていたから、頬杖をついてくだらない三文芝居を黙って見守っていた。
「な、何だよありがとうって!か、返せよ!」
寿樹が口だけでにっこりと笑う。
あ〜あ、目が笑ってねぇよ。
「彼女の半裸を見たってだけでも万死に値するよ、君は。とりあえずこれに入ってるだけみたいだし、僕らも今日は忙しいからそれは勘弁してあげる」
「勘弁してあげるって、ふざけんな、か、かえ、せ…」
寿樹に見下ろされて、エロマニアの声がまた段々小さくなっていく。
笑ってない笑顔のまま、寿樹は鷹揚に顎で階段を示す。
「これでも俺はかなり譲歩してるんだけど?気が変わらないうちに失せろ」
オタク野郎、がたん、と顔面蒼白で立ち上がる。
「ばいばーい、ありがとな〜」
俺はひらひらと手を振った。
ファスナーが開いたまんまのバッグを抱き締め、半泣きの恨めしそうな顔で未練たらしく俺たちをちらちら眺めながらエロマニアは下りの階段へと飲み込まれて消えていく。
大事なものは持ち歩かずに金庫に、今日という日の教訓を胸に刻んで清く正しく生きてくれ。
しかし……。
俺は溜息を吐く。
まったく次から次へと。どうかしてるよ、最近は。
花束とDVD-Rの束をベンチに置くと、寿樹が再び俺の髪に手を伸ばしてきた。さっき留めてくれたピンを外して、もう一度留め直してくれる。
「どうする?蓑本さんのとこに行く?」
俺は隣の二つの束へと目を向けた。
俺は財布をポケットに突っ込んだだけの軽装だし、寿樹も似た様なもんだ。DVD-Rをしまうような鞄を俺も寿樹も持ってない。
もう一度溜息を吐く。
「こんなの持ってラギんとこ行けねーよ。パソコンあったし、見せてって云われたらどうすんだよ。それに」
俺は一番上の一枚を手に取って顔の前に翳してみる。
細かい傷のいっぱい付いたケース。
へったクソな字で『美少女』とか書いてある。
「中を確認したい」


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