「ラギッ!」





考えるより先に腕を伸ばす。
傾ぐ身体を俺は何とか受け止めた。
「…っく」
けど、幾ら安良木が小柄だといってもそれなりに重い。俺は右腕にぶら提げるようにして受け止めた身体を支えきれずに、安良木もろとも後ろに倒れそうになる。
ヤバイと思うのと同時、よろけた背中が硬いものにぶつかった。
寿樹だ。
顔も見えないのに、俺にはそれが誰だか解った。
寿樹は安良木ごと俺を抱き止めると、そのまま俺の腕に自分の右腕を重ねるようにして安良木の転倒をも防ぐ。
脚を踏ん張って体勢を立て直すと、俺はすぐさまその胸から身を起こす。安良木と寿樹の間に挟まっている腕を俺が引き抜くと、寿樹が素早く安良木の身体を抱き上げる。
「スイマセン!通して!」
安良木の落とした鞄を拾い上げると、俺はざわめき始めた人々の隙間に無理矢理腕を突っ込んだ。肩でこじ開けるようにして強引に道を切り開く俺の隣にすぐに直樹が並んだ。そうやって俺たち二人がブルトーザーのように人垣を掻き分けていく後ろを安良木を抱えた寿樹が付いて来る。
照明を落とされた暗闇でも出口の方向は明確に示されていた。
非常灯の黄色いような緑のような、ぼやけた光がまるで道標みたいに行く先を教えてくれる。
薄暗がりの中、障害物にまみれてもみくちゃになっている俺にはそれは希望の光といってもいいはずだ。なのに、その鈍く濁ったような光は俺の胸に叫び出したいような不安を湧き上がらせる。
「退いてくれ!」
叫び出したいような、じゃない。俺は実際に叫んでいた。
俺は不安を振り払うようにさらにがむしゃらに人波でもがく。
扉の両脇にはもう五助と六助が待ち構えていた。
俺たちが辿り着くのに合わせて扉が開かれる。
弾かれたように飛び出した俺の背後で、最後尾の翼を吐き出すとすぐに扉は重い音を立てて閉まった。振り返り様、俺は寿樹の腕に縋りつく。
ぎょっとした。
怯えたように縮こまった小柄な身体は可哀想なくらい震えていた。
青白い蝋のように肌は色を失い、瞬きさえ忘れたみたいに大きくその瞳は見開かれている。
まるで叫びたいのを我慢しているみたいに、安良木はてのひらで硬く口元を覆っていた。
「ラギ!」
狼狽えて小さな身体に手を伸ばそうとする俺の肩を翼が掴む。
「退け、。須釜見せろ」
、蓑本さんに持病があるって聴いたことは?」
「ないよ!俺、聴いたことないよ!」
寿樹が片膝を突いて屈む。翼が強引に安良木の手首を取った。
脈を計りながら翼が射るような眼差しを安良木の身体のあちこちへと向けていく。俺は何にもできずに、ただ呆然と突っ立ってその様子を見ていた。
目を見張ってぶるぶる震えている安良木。翼に奪われて片手だけになった今も、何かに耐えるみたいにその手は唇に押し当てられている。
その姿から想起させられるものは深い恐怖だった。
何もできない無力な俺は意味もなく拳を握る。
闇の中に居たのなんか、せいぜい3分だ。
ほんのさっきまでは俺をからかってたくせに。
何で急に、って、そんな言葉ばっかが頭をぐるぐるしている。
「脈拍・呼吸の乱れ、発汗、震え。蓑本お前何か内臓疾患があるのか?」
安良木が弱々しく首を横に振る。
たったの2往復。
俺はぶるぶる小刻みに震えている脚の横に跪いた。
「以前にこうなったことはあるのか?」
今度は縦に一度。
「病院に行ったほうが良いのか?」
横。
「ならどう対処すればいいのかお前は解っているのか?」
「…いえ、に………えれば……」
家に帰れば?
聴き取れないほど、細く擦れた声。
翼が機敏に振り返る。
「おい、五六、ゲートの受付に行ってタクシー呼んでもらってくれ。蓑本の様子次第で俺たちもそっちに移動するかもしれないが、タクシーが来たらとりあえず俺んとこに連絡を寄越せ」
「了解」
五助と六助が駆け出して行く。
脈を計っていた翼の手からするりと腕を引き抜くと、安良木はその手の甲で今度は閉ざされた目元を覆って表情を隠した。小さく開いた唇からは苦しそうな短い呼吸が繰り返されている。まだ震えは収まってないけど、それでも漏れ聴こえる呼吸は少しはマシになってきているように見えた。
「ラギ、だいじょぶか?」
大丈夫なわけねぇだろって自分で突っ込みつつ、それでも俺はそれしか言葉を思いつかなかった。なんて馬鹿なんだろう、俺は。
それでも俺がそう云った後に、ほんのちょっと安良木の唇が笑った気がした。
押し当てていた手を退かすと、安良木はゆっくりと目を開けた。
口元が動く。けど声はスカスカで聴き取れない、でも多分「ごめんなさい」って云ったんだと思う。もう一度瞬きして、溜息のように息を吐き出す。
そうやって何度か呼吸を繰り返すと、今度はしっかりと音になった。
「ごめんなさい…大丈夫です、どうもありがとう」
震える声。震える身体。
青白い頬で微かに微笑む。
嘘だ。
全然、ダイジョブなんかじゃねぇじゃん。
「私、もう帰るわね。ごめんね、皆はまだ遊んでってちょうだい」
「ら」
俺が口を開くより速く、安良木は寿樹を押し退けるようにしてその胸から身を起してしまう。でもやっぱり直後によろけて、慌てて差し出した俺の腕に飛び込んでくる。
「ラギ、全然大丈夫じゃねぇって、休めよ、もうちょっと」
俺は膝立ちの姿勢でなんとか安良木の腰を抱き締めて支えた。
「おい、寿樹手ェ貸せ」
「うん」
身動ぎした寿樹の足元で、なじられた砂がじゃりっと音を立てる。
瞬間、俺の腕の中で安良木の身体が強張った。
「大丈夫だから止めて!」
え?
軟体動物のように力の抜けていた安良木の腕が俺の首へと絡みつく。
まるで縋るように。
ちょうど鎖骨の辺りに、壊れそうなほど激しく早鐘を打っている胸の震動が伝わってくる。
……なんか今の、反応、って…。
俺は安良木越しに寿樹と翼を見た。
怪訝な色で安良木を凝視したのはほんの一瞬で、すぐに二人は無言で目配せをし合う。そして二人揃って、すっと俺たちから一歩退がる。俺は安良木を安心させようと、必至にしがみつくその背中をあやすようにぽんぽんと叩いた。
「ラギ。送ってくからちょっと待っててくれ、な?」
それから俺は安良木を落とさないよう気を付けながら、赤ん坊を抱くようにその身体を膝にのっけて抱きかかえた。
安良木の体重を受けてコンクリートの上の砂利が俺の膝に喰い込む。安良木が弱々しく頷き、俺の胸に埋めるようにしてまた両手で顔を覆う。
俺はその細い身体を益々抱き締めた。
安良木はこんなに具合が悪そうなのに、日の光は酷く眩しく目を刺してくるから俺の胸の中で理不尽な怒りが燻る。
体育館の中から人々の朗らかな笑い声がここまで届く。ほんの扉一枚隔てただけで、異質な空間に嵌っちまったみたいにこっち側は恐ろしく静かだ。
一度は収まりかけたように見えた呼吸も震えも、段々また酷くなってきた。なす術もない俺は唇を噛んで、とにかくタクシーが速く来るようにそれだけを祈る。
力なく肩に凭れた黒髪を撫でながら、俺はこっちを見ている寿樹と翼と視線を交わす。
安良木のさっきの反応…。
なんか俺には寿樹には触られたくない、っていう風に見えた。
寿樹っーか、俺がこうしててもいいってことは、正確には男にってことか?
無理して立ったのも男に抱かれてたくなかったから?
現に注視はしているけれど、二人とも黙ったまま手出しはしてこない。多分俺と同じように感じたってことなんだろう。
すぐ真下にある安良木の顔。
目を硬く閉じて、小さな唇で喘ぐように息を継ぐ。
その唇は今や色をなくして青いくらいだ。こうして抱いていると、どれだけその身体がぶるぶると小刻みに震動しているのかが生々しくダイレクトに伝わってくる。
どうして。
電気が落ちる前は普通だった。
暗所恐怖症ってヤツか?
暗所恐怖症って、暗いだけでこんなになっちまうもんなのか?
俺はパーカの袖口を引っ張って、てのひらに握り込むとそれで安良木の額の汗を拭ってやった。
視界の端でぶるるって翼のポケットが揺れる。
「……解った。まださっきの場所だ、すぐ出せるよう待機してもらっててくれ。…蓑本」
翼が携帯を戻しながら、安良木に一歩だけ近付く。俺の憶測通り、やっぱりその仕草は安良木に気を使っているように見えた。
眉を苦しそうに歪めたまま、安良木がそれでも薄っすらと目を開ける。
「車が来た。歩けるか?」
安良木が頷く。
立ち上がろうとする動きに合わせて、俺も膝を立てる。
でも駄目だった。
安良木は途中でよろけて、倒れそうになる。俺と翼で咄嗟に支えて、翼はすぐに手を引っ込めて軽く舌打ちした。
「蓑本、無理だ。須釜に運んでもらえ」
安良木が俺に凭れたまま緩く首を振る。
「じゃあどうするんだ。歩けないだろ、そんなんじゃ」
「俺が運ぶ」
俺は安良木を胸に抱えたまま、どうにか立ち上がる。
翼が我侭を云うなというふうに苛々した目で俺を睨む。
「無理だ」
「だって」
だって、翼たちには見えてなかったけど、首を振った時の安良木の顔、ほんとに嫌そうだった。
ほんとに、どんだけ今が辛くっても、それでも自力で歩いた方がまだマシってぐらい、嫌そうだったんだぜ?
俺はそれをどう云ったらいいか、云ってもいいものか迷って厳しい顔した翼と対峙した。
じっ、というファスナーの音。
沈黙を破ったのは寿樹だった。
「蓑本さん、できる限り君に触らないようにするから我慢して。君が自力で歩くのもが運ぶのも無理だ。井上君、君の上着も貸してもらえるかな」
そう云って脱いだ上着で安良木の身体を包む。
慌てて直樹も上着を投げて寄越し、それを安良木の膝に捲きつけると寿樹は逃げようとする安良木を半ば強引に抱き上げた。
顔を強張らせた安良木が怯えたように身を捩る。
「…ぃ…やっ…!」
「ごめんね、急ぐから少しだけ我慢して」
「ラギ、我慢してくれ」
俺も急いでパーカーを脱いで、寿樹と安良木の身体の間に突っ込む。
安良木を抱え直すと、寿樹は走り出す。俺も翼も後に続く。
あんなに混んでいたのは映画に合わせてみんなが移動していただけだったのか、来た道は楽に逆走できた。それでもやっぱりぞろぞろ大所帯が疾走しているもんだから、まばらにすれ違う人が何事かって顔をして俺たちを見送る。
芋虫みたいにぐるぐる捲きにされた安良木はついに泣き出した。
「ごめんね…ごめんな、さい……」
泣きながら謝って、それでも寿樹から少しでも距離を取ろうと腕を突っ張っている。
俺は訳が解らなかった。
口では謝罪して、態度で拒絶して、それって自分でもどうにもできないってことか?
年頃の女の子が羞恥心から男に触られたくない、ってだけじゃないのか?
具合が悪いのに、それでも、泣くほど触られたくない?
何もかもがさっぱり解らない。
解んねーけど、俺、馬鹿だから解んねーけど、でも、とにかく悔しかった。
こんな風に泣いてぶるぶる震えてる安良木は嫌だ。可哀想だ、こんなの。
チクショウ、って胸ん中で呟いて俺はまた唇を噛んだ。


「こっち!」
ゲートを抜けると五助と六助はすぐに見つかった。良くも悪くも飛葉の連中はみんな目立つ。
寿樹が開いたドアの中に即座に安良木を下ろす。
宣言通り、奴は可能な限り安良木の身体に触れないようにしていた。身体に寄り掛からせた方が腕の負担は少ないだろうに、それでもずっとここまで隙間を空けて、供物を運ぶような恭しさで安良木を抱いてきた。
足に捲かれていた直樹の上着を返すと、俺もその横に乗り込む。寿樹は助手席を開けてもらった。
「翼ごめん」
「いいから早く行け」
寿樹が運転手に出してくださいと告げる。
俺は遠ざかる5人に手を合わせ、安良木の身体を抱き寄せた。
まるで安良木だけ南極にでも居るかのように、ぶるぶる身を震わせている。
寒さの所為なんかじゃないのは解ってる。でも俺はどうしてやることもできず、その背中を少しでも温めようと悪足掻きするみたいにごしごし撫でた。
、蓑本さんの家知ってる?」
「確か…」
記憶を辿る。確かウチの学校のギリギリ指定学区の地区だ、って云ってた気がする。うろ覚えの住所録を思い出しながら喋ってたところで、俺は弱々しく腕を掴まれた。
「…違う…、そこには住んでないの……すいません、そこじゃなく……」
俺はその行き先を聴いて目を丸くした。
寿樹もびっくりした顔で安良木を振り返り、俺に視線を流す。俺は慌てて首を振った。
俺だって初耳だ!
もう一度安良木に視線を戻し、けれど結局寿樹は何にも云わずに正面に向き直った。
俺の腕の中で震えてる少女。
Tシャツの裾を無理矢理引っ張って涙を拭ってやる。
俺は安良木が好きだ。
可愛くてかっこよくて頭が良くて面白くて、馬鹿な俺を見捨てないでいてくれた。
知り合ったのは中一のときで、一緒にどっか行くほど仲良くなったのなんてつい最近のことだ。
それでもスゲエ大事な友達だと思ってる。
俺にできることなら何でもしてやりたいって、俺を見捨てなかった安良木を俺も絶対見捨てない、そう思ってる。
でも、もしかして俺は安良木のことなんて何にも解ってないのかもしれない。
安良木の告げた行き先は少なくとも俺たちのガッコに歩いて通える場所じゃない。
チャリでも駄目だ。そういう距離じゃない、明らかに電車を使わないと通えない距離だ。
だってむしろ今居る武蔵森に近いんだから。
俺たちは今日は地元、いや、俺と寿樹にとっては地元の駅で一旦待ち合わせしてから武蔵森の最寄駅に来た。つまり、こっちで合流した方が楽なのに、安良木はわざわざ往復したってことだ。
何でそんなことを?
安良木からは引っ越したとかそんな話は一言も聴いてない。どこ住んでんだって訊いたのは確かに一年以上も前のことだけど、でも自己申告がないんならこっちは当然そのままそこに住んでるもんだ、って思うじゃんか。
云わないってことは、俺たちに住んでるとこバラしたくなかったってことか?
大体なんで電車使ってまでウチのガッコに通ってきてるんだ?高校や大学ならともかく、中学なんか普通引っ越したんなら一緒に転校するだろ。
携帯だってそうだ。
ウチの学校じゃ番号は俺と寿樹しか知らない。内緒だって云ってた、だから他の奴らは安良木が携帯持ってることすら知らない。俺は最初、そういう風に俺にも秘密にされていたことにちょっと傷ついて、でもその後は俺と寿樹しか知らないってところに馬鹿げた優越感を感じていた。
でもやっぱりそれって変じゃないのか?
学生でガキの俺たちじゃ、携帯なんて友達に番号教えてこそ威力を発揮するんじゃねぇのか? 何の為に持ってんだよ?
信号で車が止まって、俺は身体が前に傾がないよう脚でふんばる。
フロントミラー越しに運転手のオッサンが迷惑そうな顔でこっちを見た。
「お客さ〜ん、そっちの子吐いたりしないだろうね〜?」
頭がカッとなった。
安良木を護るように抱きしめ、俺は助手席のシートを蹴りとばす。
「ウルセエな!吐いたら吐いたで俺に向かって吐かせるからボロ車の心配してねえで速く行けよ!」
運転手ははいはいとヤル気のない返事をして、青信号になるとのろのろと車を発信させた。俺は腹立ち紛れにミラーに映るそのふてぶてしい顔を睨む。
「…めんね……」
安良木が呻くように呟いてそっと俺の手を握った。
俺は酷く情けない気分でいっぱいで、その手を中途半端な強さで握り返すことしかできなかった。


寿樹が金を払っている間に俺は安良木を降ろした。
身長差があるけど、俺が屈んで肩を貸すことで何とか歩けるようにしてやる。理由は解んないけど泣くほど男に触られたくないのだけは解ったから、多少歩き辛かろうとこっちの方がマシなはずだ。部屋までなら何とかこれで平気だろう。
「ここでいいんだな?」
寿樹を待ちながら、下から上に向かって視線を這わせてみる。
デカくてキレイなマンションだった。
エントランスには蔓が絡んだ繊細なアーチが連なって出入り口へと導き、その両脇に植えられた青々と健康そうな木々が落とす葉もきちんと掃き清められている。
手入れが行き届いた、上品な印象を受けた。
寿樹が後部座席から俺のパーカーと安良木の鞄を持ち出すと、愛想のない勢いでドアが閉まり、すかさずタクシーは走り去った。
ちらりとその後ろ姿を見送ってから、寿樹が俺たちの後ろからアーチを潜る。
「須釜君、鞄に鍵、入ってるから、出してもらえる?」
自動ドアを跨ぎながら、安良木が消え入るような声で云う。
エントランスホールも天井が高く洗礼された雰囲気だった。
「女の子の鞄をごめんね……これ?」
「ええ…あそこのドアを開けて」
管理人室らしき小さな受付を通り過ぎ、奥のガラス張りのドアの横にある楕円形の置物に近付く。近付いてみると、俺がただの置物かと思ったその表面には小さな液晶画面と大量のボタン、それから鍵穴があった。寿樹が鍵をそこに差し込むと、接近しても開かなかったドアが開く。
「あっち……あの、エレベータで8階……」
ドアの向こうには中庭があった。俺たちは安良木の指差した左側のエレベータに向かい、8階のボタンを押した。
もう安良木は肩を貸していても立っていることさえ困難で、箱の中で俺はその両脇に腕を通して抱きしめることで、何とか共倒れするのを防いでいた。
苛々と階数表示を睨む。
ぽーん、という緊張感のない音でさえ今は憎らしい。
寿樹がドアを抑えてくれている間に、俺は引き摺るようにして安良木を連れ出した。
「ラギ、どっち?」
「はちまる、きゅ」
俺の後ろの方を指差す。
寿樹が俺を追い越して、幾らも行かないうちに立ち止まる。俺は必死で安良木を運んで、寿樹が先に開けてくれていた専用ポーチを通り、やっとの思いで玄関に到達した。
「ラギ、着いた、ぞ」
荒い呼吸で俺が告げると、安良木が廊下の奥に青白い顔を向けた。
「向こうに行きたいのか?」
俺の問いに寿樹の方が先に反応した。長身を折り畳むようにして屈むと、安良木のサンダルのストラップを外して脱がせてやる。俺も靴箱に腰だけ寄り掛からせながら、踵を使ってスニーカーを乱雑に抜き取る。
俺はぜーぜーやりながら奥に安良木を連れて行った。意思に反して、この身体は本当に持久力がなくて最悪だ、弱々しくて嫌になる。
廊下の途中で、安良木がノブに手を伸ばしたから俺は慌てて立ち止まる。
寿樹が開けてやるとトイレだった。
安良木がよろけながら俺の腕から抜け出し、便座に縋りつくように跪くとそのままいきなり嘔吐した。
「ラギ!」
びっくりして、俺も急いでその横にしゃがみ込む。
「大丈夫か、ラギ!?」
とりあえず背中を擦ると、再度胃の内容物を吐き出す。
その後も安良木は落ち着いたかと思うと、また吐いた。
止まったか?って思うとまた吐く。
何度も、何度も。
終いには黄色い胃液だけを吐き出し始めた。
戻した胃液が喉を焼くのだろう、余計呼吸が辛そうになり、咳が混じり始める。震えも収まってない。
狭いトイレの中は汚れた安良木の顔を拭う為に俺が使ったトイレットペーパーだらけになってしまっている。
どうすりゃいいのか解らなくて、俺は救いを求めるように後ろの寿樹を見上げた。
でも口を開くより先に、再び安良木が呻いたから俺は慌ててその背を擦ることに専念する。
だが、吐瀉物を見てぎょっとなった。
黄色い中に赤っぽい塊が混じっている。
これ……
これ、血じゃないのか!?
駄目だ、これもう病院行ったほうがいいよ。
安良木が嫌がっても連れて行こう。
そう思って寿樹に声をかけようとしたら、奴は警戒するような顔つきで入り口の方を機敏に振り返ったところだった。
尋ねるより先に、俺も新しい空気が流れ込む気配を感じる。
寿樹の緊張が感染したみたいに俺も唇を引き結び、無意識に安良木を背に庇う。
静かな閉塞音。
「…誰だね、君は?」
低くて艶のある声。
初めて会う、しかも勝手に家の中に上がりこんでいる寿樹に取り乱したような気配は微塵もない。気味が悪いほど寂々と落ち着いた声音だった。
「蓑本さんと同じクラスの須釜といいます。今日は共通の友人と共に武蔵森学園の学園祭に行ったんですが、体育館が真っ暗になった瞬間、彼女の様子がおかしくなり、送ってきました。けれど、彼女はここに着くなりずっと吐いています」
きしきしと微かに床が鳴って、こっちに向かって来るのが解る。
「失礼ですが、蓑本さんのお父様ですか?」
寿樹の質問と、その人が長方形に切り取られた俺の視界に現れたのは同時だった。
無礼だとかそんなことを考える暇もなく、現れたその人物を俺は思わず凝視していた。


全然若い男だった。
安良木ほどの子どもを持っている年齢には到底思えない。どう見たって30代前半ぐらいにしか見えない。
それにいい男だった。安良木との血の繋がりを感じさせる整った造作。
でもそんなことより俺を驚かせたのはその目だった。
冷静、というよりは感情を感じさせない無表情でこっちを見下ろしているその目の色。
安良木とよく似た真っ黒な左の目。
なのに、宝石みたいな青い右の目。
左右の目の色が違う人間なんか、俺は初めて見た。
俺の甚だ無礼な視線を全く意に介さず、蹲る安良木に手を伸ばす。
「安良木の保護者だ。君たちがついさっきまで居たという武蔵森学園の大学部で教鞭を取っている。失礼。お嬢さん」
「え?ああ、退きます!」
俺は急いで狭いトイレから出た。
入れ代わりに黒いスーツに包まれた身体が中に入る。
「安良木。部屋に行くか?」
安良木がここに来て初めて顔を上げた。
青白い顔は涙と汗と唾液で汚れている。痛々しくて、俺は哀しくなる。
「ごめ、なさい……先生、仕事は?」
「修論の中間発表を聴いてきた。今日はそれでもう仕事はない」
「そう……」
安良木が安心したように再び首を項垂れた。
『先生』と呼ばれたその人がスーツの上着を脱いで、後ろの廊下へと放り投げる。何となく俺がそれを拾い上げている間に、『先生』は安良木を軽々と抱き上げて寿樹を横切り、廊下のさらに奥へと進む。
俺たちは一瞬顔を見合わせて、廊下の終点、居間に続くドアの前まではついて行った。
『先生』はすたすたと居間を通り過ぎ、その向こうの部屋のドアノブを安良木を抱えたまま器用に回す。
開かれたドアの向こう。
俺は上着を取り落とした。

頭に浮かんだのは『異常』という文字。

全然安良木らしい部屋じゃなかった。
物が少ない。ベッド、タンス、机、机の上のパソコン、それが全て。
窓はふたつある。けれどベランダ側の大きな窓は昼間だというのにぴたりと雨戸が閉まっていた。その所為で部屋は薄暗い。それでも電気がなくとも部屋の様子が解ったのは、もうひとつ雨戸の引かれてない窓があったからだ。
ただ、その窓には格子が取り付けられていた。
部屋の内側から、風呂場に付いてるような格子が。
立ち竦む俺の目の前で安良木はその部屋のベッドの上に降ろされる。
その光景は。
確かに俺の目の前で起こっていることのはずなのに、現実感は皆無だった。
何か安良木が囁く。けど、話の途中でまた吐いた。
自分に掛かった吐瀉物を全く気にした様子もなく、枕元のティッシュを引き抜くとそれで安良木の唇を拭ってやる。再び泣き出した安良木に何事か囁き、『先生』はすぐに立ち上がった。
『先生』だけが立ち去って、その格子の嵌った部屋に安良木ひとりを残してゆっくりとドアは閉められていく。
まるで遠く離れた舞台の上の出来事のようで、俺はただ黙ってそれを眺めているしかできない。
だが、かちり、という音に俺は正気に返った。
どこかで聴き覚えのある今の音。
…鍵、掛けたのか?
何で?
「あの」
考えるより先に俺は声を発していた。
ネクタイを緩めながら、呆然と突っ立っている俺たちに『先生』がふっと視線の焦点を合わせる。
瞬間、何だか酷く後ろめたい気分になった。
自分から呼びかけたくせに、俺は僅かに後悔する。
その無機質で浮世離れした瞳は、見てはいけないものを見てしまったことを咎められているような、そんな気分にさせた。
俺が何か云うより先に、出鼻を挫くように『先生』が薄っすらと微笑む。
笑うと硬質な印象が少しだけやわらかなものに変わった。
「安良木が世話を掛けたね。あの子は暗所恐怖症で、何の心構えもないとああいう発作を起すんだよ。一時的なものだからそう心配しなくていい」
「はぁ…」
間の抜けた声を返す。
はっきり云ってそんなんじゃ全然腑に落ちなかった。だって暗所恐怖症だけじゃ説明がつかないことが多すぎる。
けれど、質問するのはもっと躊躇われた。
訊きたいことの何もかもが容易く口にしちゃならないものに思えた。
かといって、物分り良く『ハイ解りました』なんて台詞はもっと云えない。
だから結局どうしようもなくて、ただひたすら突っ立っている。
そんな俺たちに向かって『先生』が音もなく歩み寄ってきたから俺は内心ビビった。寿樹より10センチくらい低いのに、指先の動きひとつで他人を緊張させる。
「わざわざここまで安良木を送ってくれてありがとう。とても助かったよ」
そう云って、拾っておいて俺がまた落としてしまった上着を拾う。
俺ははっとなって、微妙に背筋を伸ばす。目の前の男に俺は完全に呑まれていた。
「あ、スイマセン、落っことしちゃって」
「いや、ここまで持ってきてくれてありがとう。さて…大通りに出ればタクシーも通っている。これで武蔵森に戻って安良木の分まで楽しんできてくれないか」
そう云って上着から財布を取り出すと5千円札を抜き取って俺たちに差し出す。
って云われても…。
金なんかいらねぇよ。
俺は安良木が心配なだけだ。
『先生』の肩越し、安良木が閉じ込められている密室へと俺の視線は自然と吸い寄せられていく。
「結構です。ここに来るまでそんなにかかっていませんから」
俺が黙っていると、寿樹がみんなが騙されている、例の人当たりの良いインチキ笑顔でやんわりと断ってくれた。
その寿樹を見て、『先生』はくっと喉の奥で小さく笑う。俺たちの警戒を見抜いて、そしてそんな必要はないんだとサインを送っているような苦笑だった。
「安良木の保護者だといっただろう?私を警戒する必要はない。あの子はあの部屋が一番落ち着くんだ。誓って私があそこに閉じ込めているわけではない」
俺はまた鍵で閉ざされた扉へと視線を向ける。
落ち着く……?
あの牢獄のような部屋でか?
俺には到底そんな話信じられない。
君」
俺は驚いて『先生』を振り仰いだ。
寿樹はさっき名乗ったけど、俺は名乗ってない。
何で、俺の名前を。
俺の視線から『先生』は逃げなかった。
黒くて青い目と真直ぐに視線が交わる。
「大丈夫だ。私はあの子を瑕つけない」
夜の海みたいなその目からは何も読み取れない。
けれどこの人は嘘を吐いてない、根拠もなくそう思う。
俺はどこにも嘘の見当たらないその瞳を射抜いているのに。
何故かその言葉のどこかに違和感を感じて、でもどこがそう思わせるのかまでは解らない。
上手く言葉にできない自分を恥じて俺は唇を噛んだ。
けれど、『先生』はろくな返事も返せない、愚かな俺を赦すみたいにそっと笑ったのだった。
ピントのぶれた写真のように、何だか酷く哀しげなその微笑みに安良木の姿が重なる。
あ、と思う。
紗が掛かったようなヴィジョン。
いつ見たのか、どこで見たのか解らない。
でも、きっと俺は安良木のこういう顔を見たことがある。
なのにいつどこでだったかはっきりと思い出せないから、何か大事な義務を怠っているような焦燥感が俺を焼いた。
「あの、俺」
だが俺が闇雲に口を開いたときにはもう『先生』の顔からは笑みは消え去っていて、最初に姿を現した時のような感情を感じさせない無表情へと戻ってしまっていたのだった。
「さあ。君たちをこれ以上拘束していては余計安良木の気が滅入ってしまう。そう気難しい顔をせず、月曜に安良木に楽しい話を聴かせてやってくれ」
寿樹の手から安良木の鞄を受け取ると、有無を云わさず札を握らせてしまう。
丁寧に対応してくれてはいるけど口を挟める雰囲気ではなく、俺も寿樹もあれよあれよという間に玄関で靴を履き、「ありがとう」というお礼の言葉と共に気が付けば外のポーチに突っ立っていた。要するにやんわりと追い出されてしまった。
寿樹と顔を見合わせる。
口角と眉尻の下がった微妙な表情。多分俺も似たような顔をしていることだろう。
お手上げだというふうに、寿樹が肩を竦めて見せた。
「どうする〜?」
「どうするって……帰るしかねぇだろ」
「だね」
溜息のような返事をして、寿樹が歩き出す。
俺も溜息を吐き、その後に続く。
ポーチを出るとき、最後にもう一度だけ振り返ってみた。
閉ざされた扉。
そのさらに奥の不可解な檻の扉。

俺は安良木のことなど何にも知らなかったんだ。


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