十四年前のことだ。
 それなりに大恋愛の末、我が両親である匠平と雛子はめでたく結ばれた。で、その幸せの副産物として、俺という存在が雛子の腹へと宿った訳だがここでひとつ問題が発生する。
 ある日雛子は夢を見た。
 自分に良く似た女の子の手を引き、草原を歩いているという少女趣味丸出しなベタな夢を。
 米が無ければ無邪気に団子を差し出すような、某フランス王妃の非常識さも凌駕した恐怖の主婦はそれを勝手に正夢だと思い込んでしまう。そして、夫である匠平に伝えたのだ、とても幸福そうに『産まれてくるのは女の子よ』と。
 この時、匠平がその情報のソースがどこなのか、きちんと確認してくれていれば、俺の人生はもう少し違ったものになっていたかもしれない。
 だが、悔やんでも悔やみきれないことに、匠平はこの時『そうか』と感無量に呟いただけでそれ以上の追求をしなかった。まさか根拠が単なる夢とは夢にも思わず、雛子の言葉を医者から聴かされたものだと勝手に勘違いしてしまったのだ。
思い込みと勘違いから、二人は仲良く女の子の名前を考え始めた。
 しかし、この時点では取り返しがつかないほどのミスは認められない。俺が産まれて正しい性別を確認した後、改めて男の名前を選定すればちょっとした笑い話ですんだだろう。それなのに何故俺の名前はそのまま女の子のものになってしまったのか。
 冷静沈着なはずの我が父を愚行に駆り立ててしまった原因は大きく分けて三つある。
 何の疑念もなく女だと思い込んでいた俺が男だったことへの驚愕。
 初産の雛子が酷い貧血でふらふらになってしまったことへの心痛。
 そして、産まれた俺が重度の黄だんを患っていたことによる動揺。
 とくに最後の病というのが大打撃だったようだ。産まれた翌日、内心にやけながら会社帰りに病院に赴いたところ、一人だけ黄だん治療用のカプセルにオムツ一丁で放り込まれている俺が激烈ショックだったらしい。呆然と立ち竦む匠平の背中では通りすがりのおばさんが「あの子なんでひとりだけあんなところ入ってるのかしら」「良かったわね、あなたのお孫さんはちゃんと産まれて」と無神経なことを云って歩き去っていく。初めての子どもである俺がそんなふうに好奇の目に晒されているのが、親である自分の所為に思えて可哀想で仕方なかったそうな。
 顔面蒼白の匠平を診察室に招くと、医者は黄だんの症状と治療方法の説明をし、そして最後に『治療のために保険証が要るので、なるべく早く市役所に名前を登録してください』と告げた。
 説明の途中から匠平は眉ひとつ動かさず一人静かにパニックに陥っていた。
 医者は『なるべく早く』と云っただけなのに、診察室を出る頃には急がなければ俺が死ぬと、頓珍漢だがそれだけに返って強烈な焦燥に絡め取られてしまったのだ。
 とにかく速やかに名前を決めなければ。
 頭の中はそれでいっぱい。
 それで思わず勢いあまって診察室を出たその足で真っ直ぐ市役所に向かい提出してしまった訳だ、 で出生届を。
 ……以上が俺の命名に纏わる恥ずかしい話な訳だが、悪いけどもうほんとアホかと。
 いや、匠平の気持ちも解る、冷静な判断力が根こそぎ奪われるほど俺を案じてくれていたってことなんだからありがたいという感謝の念もなくはない。
 しかしさあ、それにしたってちょっと酷くないか?
 小学校の『私の名前・僕の名前』という作文で、俺はとてもじゃないが真実を記す勇気がなく、通りすがりの占い師が『』としないと死ぬと告げたと書いた。おかげでクラスメートにはウケたが、担任には真面目にやれとこっぴどく叱られた。





"ペインラー"



 まさしく苦い思い出だ。
 けど、ある意味災い転じて福と成すって感じだけどな。逆に女になった今となっては、この名前が役立っているんだから。
 ……って、おい。ちょっと待てよ。
 まさか、初めからこうなる運命だったとかいうんじゃないだろうな?
 冗談じゃねえぞ。
 恐ろしい閃きに俺はぶるりと身震いした。
? どうかしたの?」
「…いや、何でもないっす」
 おぞましい考えを追い払うように首を振りかけると、安良木がそっとそれを押し留める。
「そう? なら、顎上げてちょっとの間動かないでね」
 云われた通りに顎を上げ、揺れないように肩を踏ん張る。
「……はい、出来た。もう動いてもいいわよ」
「サンキュ、ラギ」
 俺は止めていた呼吸を再開する。
 ワックスと櫛をポーチに仕舞い込みながら、安良木がくすくすと笑う。
「ねえ、。私、動かないでとは云ったけど、息も止めてなんて云ってないわよ?」
 唇をへの字に曲げて思わず恨みがましい視線を向けてしまう。椅子に座っていたから、自然上目遣いで見上げるようになった。
「仕方ないだろ、なんかそうなっちゃうんだから」
 こんなずるずる長いことなんかなかったから、結んだりするのに慣れてないんだよ。
 本当はばっさりやっちまいたい。だってすっげえ邪魔だもん、洗うのだって倍の時間がかかってうざいし。でも、この二週間、何度も鋏で挟んじゃ結局踏み切れずにいる。
 あの日、怒りに任せてちょんぎろうとはしたものの、冷静に考えるとどっかの馬鹿の言葉じゃないが確かに切り落とすことに不安を覚える。
 どういう原理で変化が生じたのかは知らないが、もしも縮んだ身長や減った筋肉の分が髪とか胸に補填されていたりした場合が恐い。そんなふうに俺の体内で一定の質量が変動する仕組みなら、下手に切り落として男に戻った時元通りの身体に戻れなかったりしたら嫌だ。
 ま、こんなふうに戻った時を考え、多大な我慢をしているにも係わらず、元に戻れる目処も立ってなければ打開策も得られてないけどな。
 俺は仕方なくスカートはいて女の振りして女に混じって生活している(厳密に云えば肉体的にはフリじゃないけど、精神的にはフリとしか思えない)。
 溜息を吐きながら頭に手をやる。
「今日はふたつ?」
「ええ」
 左右の耳の上で結ばれた髪。縛ったゴムが見えないように、どうやら細いみつあみが巻かれているようだ。まったく安良木の芸は細かい。
 切るに切れないお荷物を俺は適当に括って登校したのだが、どうやら相当見苦しかったらしい。教室に辿り着くまでじろじろ見られたし、安良木には「どうしたの、その頭?」と困ったように云われてしまった。結んであげましょうか、という言葉に甘え、それ以来毎朝こうして邪魔にならないよう纏めてもらっている。
 囀るように笑いながら、安良木が俺の目を覗き込む。
「よく似合ってるわ」
 云われた台詞より、至近距離に迫った小さくて綺麗な顔に俺は赤くなった。笑みの形に細まった目は濡れたように艶がある。
 小さな手が俺の前髪をさらさらと分けていく間もその綺麗な顔はずっとそこにあって、危うく俺は咽喉を鳴らすところだった。
 その声がなかったら。
「おはよ〜、蓑本さん、
「あら、おはよう、須釜君」
 俺の機嫌は急転直下した。
 眉が歪んで瞳は細まり、唇は真一文字に引き結ばれる。自分で云うのもなんだけど、これでもかっていうぐらいあからさまだろう、嫌悪感だだ漏れの垂れ流しだ。普通の神経の持ち主だったら、こんな顔されたら声をかけるのを躊躇うだろうし、第一こうまで明確に拒絶されたら傷付くに違いない。
 生憎、普通の神経なんて立派なものを持ち合わせていない史上最低男は、表情を一変させた俺に構うことなく隣の机に浅く腰をかけたけどな(因みにあれからすぐに席替えがあったおかげで、俺は席に着く度にいちいち腹立たしい気配を背後に感じずにすむようになった。今は真ん中の列の後ろから二番目だ。入学以来守り続けた特等席を手放さねばならなかったが、それでもこいつから離れられるなら惜しくはなかった)。
、今日も可愛いね。セーラームーンみたいだよ」
「ラギ、空気悪いからあっち行こうぜ」
 髪に伸ばされるずうずうしい腕を邪険に払い除けながら、俺は横の男を完全無視して椅子を鳴らして立ち上がった。
 けれど、振り払った指にうっすら残った傷跡を認めてしまって顔を顰める。
 その傷は例の人生最悪の日に保健室で俺がつけたものだった。顔を背けると同時に俺は表情を消し去り、僅かに疼いた罪悪感を振り払う。
 あれから重田は当然のようにクビになった。
 新聞にも小さな記事だが載っていた。雛子が見つけてびっくりしていたが、そこに綴られた少女Aが実は俺だということは告げていない。
 二週間も経ってしまえば自然と重田の噂は薄れていったが、俺の中で燻る寿樹への怒りは鎮まることはなかった。
 寿樹の言葉を完全に信じたわけじゃない、願うだけでどうにかなるなんて自分の身体がこうなった今でも信じられない。信じられないけど、俺はこうしてここにいる。
 それに寿樹は自分の言葉を否定しない。あの日、頭が冷えてから俺は電話を待っていた。夜にでも寿樹が虚偽への謝罪をしてくるんじゃないじゃと甘いことを考えてしまった。でも、電話はかかってこなかったし、未だに寿樹は否定をしない。
 本当に寿樹の祈願が俺の変化に係わっているのか因果関係は定かじゃないが、少なくとも寿樹自身はそれを疑っていないのだろう。
 それが事実だと仮定するなら、寿樹の気紛れのおかげで悪戯に俺は人生を滅茶苦茶にされたということになる。俺を好きだなんて言葉、嘘に決まっている。こいつのことだからどうせ面白そうだからとかに違いないんだ。
 到底寿樹を赦すことは出来ない。
 この二週間、奴が何をしようが全部無視して、顔を拝む度に眉間に皺を寄せて嫌悪を明らかにした。なのに、この馬鹿はあれからも平然とこうして俺に話し掛けてくる。
 どういう神経してるんだ、こいつは。
 こんな身体になったことへのフラストレーションに加え、不感症のこいつの存在がますます俺のストレスを増大させる。毎日毎日苛々する所為か、声を聴く度に最近じゃ頭痛がするぐらいだ。日に日に頭痛が酷くなる。
 おまけにもうひとつ俺を苛立たせたのが野郎連中の告白ごっこだ。
 最初に呼び出された時は何を云われているのか本気で解らなかった。
『俺じゃ須釜の代わりになれないか?』
 意味が解らず不審げに眉を曇らせた俺を見て、体育で一緒に柔道までやったことのあるそいつは慌てた様子で云い募った。
『俺、ずっとが好きだったんだ、でもの傍にはいつも須釜がべったりで、ずっと云う機会がなかったんだ、俺が好きだ、ほんとに好きだ』
 俺はかっとなって、そいつの顔面を拳でぶん殴って帰ってきた。
 酷い侮辱を受けた気分だった。
 奴は『ずっと』という言葉を使ったけど、そんなのは嘘だ。俺はそのほんの二週間前までは男だったんだから。
 その後も揃いも揃って、『須釜がいた所為で云えなかったけど、ずっと好きだった』とかほざくんだよ、奴らは。女は女で飽きもせず俺と寿樹のことを別れただの喧嘩だの、ひそひそ噂をしてやがる。クラスの女子なんか隙あらばさりげなく寿樹とのことを何とか訊き出そうと試みてくるし、まったくうんざりだった。
 姦しい女どもに俺はもともと失望していたが、この身体になって、同じくらいイカレた嘘を吐く男どもにも失望していた。
 俺を裏切らなかったのは、安良木だけだ。
 安良木だけは何にも訊かない。
 俺が今もこうして寿樹を冷たくあしらっても、解ったような顔で嗜める真似なんて絶対しない。俺と寿樹のどっちの味方をするでもなしに、ただ寛容に苦笑して見守っている。
 安良木だけは男だった時も女だった時も印象は変わらない。
 俺にはそれが唯一の救いだった。
 女になって微かでも良かったと思えたことといったら、男の時より安良木と親しくなれたことだけだ。
 小柄な安良木の手を引いてその場を離れようとする俺の背中に、勿体つけるような溜息が追い駆けてくる。
「仕方ないなぁ……、女の子でもサッカー出来る場所知りたくない?」
 俺は足を止め即座に振り返ってしまった。
 畜生。
 こんなの罠以外の何物でもないのに。
 でも、俺は恐ろしくサッカーに飢えていた。
 全ての時間を捧げて狂ったようにやっていたのにそれが奪われたんだ、俺が寿樹を怨む理由のひとつにこの身体じゃ満足にサッカー出来ないってのがある。
 突き刺すような視線も寿樹には利かない。ことさら作戦の成功を喜ぶわけでもなく、寿樹は例によって胸糞悪い笑顔を浮かべてやがる。
「正確にはフットサル場なんだけどね。そこなら結構女の子も来るから、混ぜてもらえると思うよ」
「……そんなの知ってんならなんでさっさと教えねぇんだよ?」
 頬をぴくぴくさせながら俺は呪詛の滲んだ声音で呟く。
 寿樹は悪びれることなく、軽やかに笑う。
「だって、口利いてくれなかったじゃない。教える前にどっか行っちゃうんじゃ教えようがないよ。僕は大いに傷付いたなぁ」
 ああそうかい、俺が悪いのかよド畜生が。
 死ね、このやろう。
「なんてね、本当は最近ガラの悪い連中も出入りするようになっちゃったから、みたいに可愛い子は連れて行きたくなかったんだよ」
 嘘を吐け。
 俺はてめえの根性の汚さはよく解ってんだよ。
 今だって俺はたった一言で足をとめたじゃねえか、いくらでも口にする機会はあったのを隠していただけだろ。ガラの悪い連中だってどうせ嘘に決まっている。
 死ね、ほんっっと、死んでくれ。
「なら、三人で行きましょうよ」
 その言葉に俺は目を見張った。隣に並んだ安良木を慌てて見下ろすと、悪戯を思いついたような楽しげな顔をしている。
「何云ってんだよ、ラギ!」
「だって、がサッカーしてるとこ見てみたいんだもの。ねぇ、須釜君、別にいいわよね?」
「うん、いいよ」
「アホか!」
 俺は机をばんと叩いた。
「駄目に決まってんだろ!」
「どうして〜?」
「そうよ、どうして?」
 二人に視線を向けられて、俺は返答に窮する。
 何でって、え〜と…………何でだ?
「ほら、別に駄目な理由なんてないじゃないの、ねえ」
「ね〜」
 安良木が笑いながら首を傾げると、寿樹も同じ方向に笑顔で首を傾げる。
 止めろよ、気持ワリィな! 安良木は可愛いけど寿樹はキモイんだよ!
「場所は遠いのかしら?」
「いや、そんなに遠くないよ、だから学校終わってから行ってもゆっくり遊べるよ。ナイター設備もあるから、結構遅くまでやれるし」
「じゃあ…そうね、明日午前中だけだし、明日行ってみましょうか?」
「いいよ〜」
は? 明日大丈夫?」
「え、ああ、うん」
 俺はがくりと頷いた。
 ……え〜と、なんで安良木に仕切られてるんだ?
「じゃあ、決定ね。あ、鳴っちゃった、詳しいことはまた後で決めましょ」
 釈然としない思いに捕らわれつつも、チャイムに誘われ俺は半ば無意識の内に自分の席へと身体を向ける。歩き出そうとしたその時、俺は寿樹に腕を掴まれた。踵の浮いた中途半端な姿勢だった為、腕を引かれた反動で寿樹の胸へと転がり込むような形になる。
「ずっと口利いてくれないから、寂しくて死にそうだったよ」
 耳に唇を寄せると、寿樹は注ぎ込むように囁く。
 その途端、激しく頭が痛んだ。
 きっと怒りの所為で。
 俺は掴まれた腕を引き千切るように振りほどいた。
「ならいっそ死んじまえばいいのに」
 憎悪も露わに吐き捨てる。
 俺は寿樹の肩を突き飛ばすと自分の席へと向かった。
 頭が痛い。
 畜生。



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