よろこびはからだをながれいでて
夜とまざり
朝になればうたとなってふりそそぐのです





よろこびのうた




はあまりの眩さに瞳を細めた。
どうして屋上に続く階段はこんなに暗いのだろう。ドアを開けた途端に九月といえど強烈な日光が瞳を刺す。その落差がの視力を一時的に奪う。
日常から闇に突き落とされたようで恐くなる。
少しでも速く逃げたくて必死で瞬きを繰り返すの頬に影が差した。
強張らせていた身体が弛む。
自分の手を包み込むてのひら。
、大丈夫か?」
視線を上げると見慣れた肩が黒い輪郭となって映る。
もう、安心だ。この人が居れば恐いものの方から逃げていくのだ。
光を取り戻した目に渋沢の顔がいつも通りに優しくて。
それだけで嬉しくなる。
が微笑むと、渋沢がその手を引いて歩き出す。
屋上には他にもたくさん人が居た。日差しは強いが、風が爽やかな所為だろう。渋沢の向かう方には給水塔の影があって、群がるようにその一帯だけが込み合っている。けれどにはすぐに藤代に笠井、そして三上の姿を見つけることが出来た。
いつも不思議に思うことがあった。街中や校舎にどれだけ人が集まっていようともあの三人や、そしてもちろん渋沢も、簡単に見つけることが出来るのだ。
まるで視線の先に糸が付いているかのごとく、引き寄せられて焦点が合う。
そのことに気が付いてからしばらく後に『カリスマ』という言葉を知り、とても納得が行ったことを鮮明に覚えてる。
「お前過保護もいい加減にしろよ。
たかが十メートルを迎えに行くな、手を繋いで帰って来るな」
コロッケパンを片手に三上がうんざりした口調で吐き捨てる。
「三上、男の嫉妬は醜いぞ」
「うわ、さっみー」
渋沢の笑顔に三上がぶるりと身を震わせる。腕にはうっすらと鳥肌が浮かんだので、本気で嫌がっているようだ。
、じゃない、さん、チョーダイ!」
が渋沢の横に腰を下ろすと、間髪入れずににこにこと藤代が両手を差し出す。笠井と三上のパンはまだ残っているのに、倍の量を食べるはずの藤代のポリエチレンのビニルにはすでに質量が感じられない。
期待に満ちた眼差しに応えるべく、自分の昼食を準備するよりも先には藤代の望むものを紙袋から取り出し、曲がってしまったリボンを急いで直す。
「ちょっと待ってね………はい、どうぞ」
「イエー!!のケーキー!」
、じゃなくて、さんだろう?」
ひんやりとした空気が流れたが、藤代の浮かれたオーラの前ではすべて跳ね返される。うきうきと緑のリボンを解き、オレンジ色の和紙のラッピングから長方形のバウンドケーキを取り出す。ふんふんと匂いを嗅いで、満面の笑みになる。
「おお、ミカンケーキだ!」
「違うよ、誠二。オレンジだよ、それ、きっと」
「オレンジケーキ!あー、良かったー。キャプテンが作り方教えたっていうからニンジンケーキだったらどうしようと思ってた」
「藤代、どれぐらい食べるの?切ってあげるから」
が持ってきたナイフを出すと「ここまで!」と半分を指し示す。
「いや、喰べていいけどさ、喰べ難いから三等分にしようね?」
「うん、そうしてそうして!」
無糖コーヒーを飲みながら三上が藤代の興奮振りに冷たい視線を投げる。
「ったく…ほんとオメデテーよな、お前って」
「三上」
「わーかってるよ、うるせーなぁ」
バウンドケーキの切り口から強い柑橘系の匂いが立ち上る。の切り分けてくれた、てのひらの上のケーキはずっしりと重たい。薄黄色をした生地にオレンジの水玉が散っている。視覚で味わっても、とても美味しかった。
藤代はにっこりと笑う。
「ありがと、、いただきまーす!」
笠井と渋沢に切り分けている間に、藤代はもぐもぐ喰べ続け続け、瞬く間に再びてのひらを見せる。
、も一個チョーダイ!」
不安そうに眉を寄せてが藤代を覗き込む。
「藤代、美味しかった?」
「うん、美味しかった!」
だからもっとチョーダイ!
がほっとしたように笑って、再度藤代の為にナイフを入れる。
三上が「あーあ」とコーヒー片手にけだるげに溜息を吐く。
「うん、これほんと美味しいよ」
笠井が感心したように手元のケーキを眺め、渋沢も自分のことのように誇らしげに頷く。
「ああ、俺が作ったのより良い出来だよ、何しろ藤代も美味いって云ってるし、なぁ、三上?」
その渋沢の言葉に、二個目をほうばっていた藤代がえ?と動きを止める。
「ぶぁーか!ばかばか、まったくエロガキがころっと引っかかりやがって」
三上が丸めた空のビニルを投げつける。それは力なく空を走り、藤代に辿り着く前にコンクリートに落ちた。
「え?引っかかるって?」
「三上、己の敗北を他人に当たるのは止せ」
きょとんと眼を丸くした藤代を、渋沢がすこぶる笑顔で庇う。
「俺の勝ちだな?」
「はいはい、どうせ俺の負けですよ、嫌味たらしく確認しなくて結構ですよ」
投げやりに応える三上に満足げな渋沢。とりあえず喰っとけとばかりに残りをもぐもぐと口に収めた藤代に笠井が呆れたような眼差しを向ける。
「まだ解んないの、誠二?が作ってくれたこれ、ニンジンケーキだよ」
ごくり、と藤代の咽喉がひときわ大きく嚥下した。
「だってニンジンの味、しなかったぜ」
うっそだぁ。
「だからそういうふうに作ったんだってば。ねぇ?」
多少イライラしたように笠井がに話を振る。
藤代の首が左から右へと動いて、きょとんとした顔がに向けられる。その表情が完全に自分を信じきっているから、酷いことをしてしまった気分になる。
「うん、人参入ってるんだ、ごめんね」
すまなそうに謝ると、今度はの前に置かれたケーキに視線を移す。
「摩り下ろした人参とりんごをレモン汁で煮込み、アーモンドプードルとオレンジの絞り汁、そしてダミーとしてオレンジの果肉を入れれば一見してオレンジバウンドとしか見えん。さらにが作ったという付加価値が加われば完璧だ」
の頭を撫でてやりながら、渋沢が親バカ丸出しの表情で自慢げに解説を垂れる。もっともその説明の殆どが藤代には良く解らないものだったが。
「藤代、ダイジョブ?気持ち悪いの?吐きそう?」
黙りこくってしまった藤代をが気遣う。
「ほっとけ、ほっとけ、このイヤシイ奴が喰ったもん吐き出したりするかよ」
笠井や渋沢があまりにも美味い美味いと絶賛するので、甘いもの嫌いの三上も興味を引かれてナイフで少しだけ切り分けようとしていた時だった。
のバカッ!美味しかったけどヒドイよいつからキャプテンの手下になっちゃったのさ、裏切り者めー!」
いきなり叫ぶと藤代は残りのバウンドケーキをがっと掴み、出口に駆け込んで消えていった。
屋上に居た物が何事かとたちと藤代の去ったドアを交互に見やる。
三上の手には中途半端な位置で止まったナイフが虚しく握られていた。
爽やかな風が四人の髪を揺らしていく。
「…………なー、渋沢。今日やたら俺のボールがウチの点取り屋目掛けて飛んでっても、それって気のせいだよな?」
「ああ、気のせいだろうな。事故だろ、すべて」
剣呑な光を宿した瞳で手元のナイフを玩んでいる司令塔。
一見したところ表情に変化は無いが声の渋さが増した守護神。
心配そうに未だドアを見送っている心優しきマネージャー。
笠井は黙々と、三上が投げたままになっていたビニル、藤代の喰い散らかしをひとつに纏めた。
ビニルの口を閉めたところで、渋沢が「笠井」と、至極真剣な表情で名を呼ぶ。
「前から訊きたかったんだが、あいつはもしかして頭が悪いのか?」
「俺に訊かないで下さい、そんなこと」
真面目に失礼な発言をする渋沢に、笠井はそっけない返事を返すのだった。




「…………いいや、バカだ、アイツは大バカヤローに違いないんだ……」
同時刻。
たちの居る棟と平行に建てられた棟の屋上の片隅。フェンスにへばりつくようにした少年がぶつぶつ云いながら、八つ当たりのようにがつがつとメロンパンを喰べている。
「藤代の大バカやロー、俺にもちゃんのケーキ喰わせろ、チクショウ」
少年の名を天野聖夜という。
彼はが好きだった。
正確には彼女の髪が大好きだ。
セルロイド人形のように一本一本がつるつると濡れた質感でとても美しい。
髪を染めている女子も居る中、手を加えない天然の黒髪な事も素晴らしい。
こうして遠くから眺めていても、彼女の髪は僅かな光にも艶々と輝き、風にそよいではさらさらと流れる。
白い肌と大きな目がその髪をさらに魅力的にする、とはリカちゃん人形が等身大になったような、どこか幼げな雰囲気を持つ少女だった。
あの髪を梳ることが出来たら、どんなに幸福だろう。
けれど彼は彼女の価値に気付くのが遅すぎた。
自信があった。
サッカーも。
容姿にも。
だから近い将来必ず自分はあのフィールドに立つのだと当然のように思っていた。
あの渋沢克朗や三上亮のように、自分も男女問わず持て囃されるのだと予言された未来のごとく信じていた。
だから誰が洗濯女なんか相手にするものか、と声をかけられても酷くつっけんどんに返した覚えがある。
それが。
二年が過ぎ、藤代や笠井のような連中は順調に二軍に上がってきた。それなのに、未だ二軍で燻っている自分の才能に疑問を感じ始め、仕事に慣れたが三軍を離れ二軍付きになった頃。
やっと彼女の価値が解った。
それからすぐに好きになった。
だがもう口を利くことさえままならなかった。
ただのクラスメイトならせめて普通に声をかけられただろう。
けれど上下関係のはっきりとした部活において、マネージャーといえど今や一軍付きになった彼女は雲の上の人だった。刷り込まれた一軍というブランドは、軽々しく声を駆け、下らない話をすることさえ躊躇われた。
だから頑張って桐原監督と寮母を説得し、あのかくれんぼ企画を立てたのに。
見事にすべった。
一緒に隠れてみっちり二時間語り合い、一気に距離を詰めようと画策していたのだ。
それがまず露と消える。
鬼になった。
ならば一番に見つけた上で彼女を匿い、優勝者にし、それをきっかけに口説き落とそうと必死で捜索を行ったのだが。
発見できなかった。
完全な空振りに終わった。
様々な意味で半泣きになりつつ、公約していた賞品を買いに走り、帰ってきたら彼女はどういう訳か渋沢克朗と酷く親密になっている。
買ってきたウニを三上には「不味い」と罵られ、渋沢への豆大福は何故か藤代のものということになっていた。
最後の頼みとの為に買ってきたハーゲンダッツたちは、『キャプテンのプリン喰べるからいらない』という残酷な一言によって、これまでもが藤代の胃袋に消えていった。
俺はお前のお財布じゃねーっーの。
その夜、送っていくのだろう、仲良く手を繋いで松葉寮を去って行くと渋沢を天野は魂が抜けたような顔で窓から見送った。
何故、俺が考えていたプランを、渋沢がすべて実践しているのだ、と。
そして今、数十メートル離れたフェンスの向こうでは、渋沢と三上と笠井が、あの素晴らしいの黒髪をみつあみにして玩んでいる。
もはや、齧るパンさえ無い。
「チクショウ、渋沢め、三上め…」
呟いてから、はっとしてあたりを見回す。
誰も聞いていなかったことに安心して、さらなる呪詛の言葉を呟くの天野だった。






の髪を合計三つのみつあみが飾っている。
右の一本が渋沢の、左の二本が三上と笠井の作による物だ。
渋沢の物は網のひとつひとつが均一で、とても丁寧に編まれていた。
三上の物は、渋沢の手による物よりも細く、所々編みが乱れたところもあったが際立って不細工な出来ではない。それでも渋沢がからかうと「俺はほどく専門だから、編めなくていいんだよ」と不貞腐れていた。
笠井は無表情で黙々と編んでいたが、彼が三上の方に合わせてくれたのだろう、二本並んでいてもバランスが良くておかしな印象は無い。
いつも部活の時間になるとひとつに縛り、さらにくるくると纏めてクリップで留めていた。ちゃらちゃらしてるなどと云われないように。
はお飾りのマネージャーになりたいわけではない。そういうふうにやっかまれた事なんか数え切れないけど、何を云われても顔を俯けたりはしなかった。
だって恥じることが無いのは自分が一番知っているから。
は速く走ることも出来ない。
高く飛ぶことも出来なければ、正確な技術を身に付けることも出来なかった。
でも努力で差を埋めることの出来ない、持って生まれた身体能力だけしかなくても出来ることは在った。
洗濯も出来るし、掃除も出来る。
怪我の治療やテーピングの処置。
そして頑張れと叫ぶこと。
にとってサッカー部は『憧れ』なのだ。
自分には叶えられないことを叶えてくれる。
自己満足でもいいから、彼らの勝利に自分が微かでも貢献することがにとっては喜びだっだ。
だから嬉しかった。
渋沢に認めてもらえたことが、嬉しかった。
いい子だよって云ってもらえて、頭を撫でてもらって、優しい笑顔をもらって。
あの日以来、渋沢とは個人的に話すことが増えた。
笑い合う機会が増えた、優しくしてくれることも増えた。
もっともっと渋沢が好きになった。
でも部活になれば渋沢は決してを甘やかさない。ミスをすれば怒鳴られる。
嬉しかった。
仲良くなっても、フィールドでは対等に扱ってくれることが。
特別扱いは仲間であることを拒否されているのと同義だから。
あの人たちが大好きだ。
だから今日も頑張ってユニフォームを絞る。ばしっと開いて干してゆく。
横でひらひらと舞う髪は正直とても邪魔だったけど、いつものように括ってしまう気にはならない。
『せっかくだから、今日はそのままにしてろ』
三上がそう云って、渋沢も頷いて、笠井も珍しく微笑んでいた。
にとってこれは今日限りの勲章だった。




「はぁ〜、可愛いなぁ〜」
天野はグラウンドの端からを覗き見ていた。体育倉庫の陰、部活終了後の面倒臭い片付けはすべて三軍に押し付けて、自分はサボってフェンスの向こうのを眺めている。
そのは今片手にビブスの束を持ち、もう片方でライン引きを運んでいた。
石灰が減ってなければ、あれは結構な重量だ。それをきちんと引き摺らないで運んでいく。
「くそ、俺があそこに入れたら、俺が運んでやるのに…女の子にあんなの運ばせるんじゃねーよ」
俺が居れば、と何度も繰り返す。あのフェンスは境界線だ。一軍専用のグラウンドに天野が無断で立ち入ることは許されない。
ぶちぶちと云いながら、喰い入るようにを見つめる。
いつもは纏めている髪を今日は下ろしている。
こんなことは初めてだ。
あの髪に何時でも自由に触れられる渋沢が羨ましくて仕方がない。
夕日を浴びた黒髪が、風を受けるたびにオレンジ色の光のかたまりを次々と滑らせていく。
あまりの美しさに魂消ていた。
「マジ?」
その声にびくりとする。
知っている、この声。三上だ。
天野は三上が苦手だった。
サボっているのがばれると拙い、と可能な限り身を縮み込ませる。
「早く保健室行けよ」
「いや、その前に藤代とPKの約束がある」
渋沢だ、渋沢の声だ。
二軍の方に様子見に来てたのだろうか?
ならサボっていた言い訳を考えなければ……。
「んなの後にしろよ」
「そんなに大した事じゃないさ。砂が入ったのか、右目がちょっと見難いだけだから」
「十分大変だっつうの」
「すぐ終わるさ、一本だけだし」
「負けたらどうすんだよ?」
「負けないよ、に関わることだしな」
「はっ、これだから自信家は!」

ちゃんのことか?
言い訳を捏造するのに必死だった頭が一気に切り替わる。
視線を上げると、渋沢と三上は一軍グラウンドに向かっていく。
何だよ、ちゃんに関することって!
天野は立ち上がると、二人の後を着いていった。



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