グラウンドにはすでに一軍以外にも、二、三軍が居た。
天野は恐る恐るフェンスの中に入ると、素早く人垣に混ざり込む。
グラウンドに目をやると、誰かボールを蹴っている。
藤代だった。
しなやかな動きでボールを捕らえる。次の瞬間には火が点いたようにボールは飛び出し、それはポストを超えるかと思うところで不自然なぐらいに曲がってネットに吸い込まれる。
鳥肌が立つ。
藤代なんか馬鹿で馬鹿で、ホントに馬鹿で、でもアイツはサッカーの女神に溺愛されてる。
ああいうのが本物の『才能』というのだろう。
自分の『才能』は所詮、偽物だったのだ。
また蹴った。
それは今度は横に曲がりネットを揺らす。
「イエー、俺様絶好調!」
藤代が一軍、おそらく笠井にでもピ−スを向けるが、笠井は冷たい視線を藤代に返す。聴こえなかったが、あの口の動きは「バッカじゃないの?」だろう。
「藤代、準備は良いか?」
その声にどきりとなる。
決して大きな声でも、威嚇するような口調ではない。
けれど彼の声音は魔法のように場を支配する。
彼もまた、本物の『才能』の持ち主だった。
渋沢克朗がグローブを嵌めながらグラウンドに降り立つ。
「いいっすよー。準備万端、絶好調っす!キャプテンこそ、いいんですか、練習?」
藤代があの渋沢相手に挑発的な台詞を吐く。二軍や三軍などは、聴いただけで何人か青くなっている。
何を賭けているのかは知らない、だが少なくても藤代は真剣だ。
目がぎらぎらしてる。
渋沢はまったくそれに気付かない素振りで、グローブを絞めている。
「いや、いい。事情があってすぐに始めたいんだが、構わないか?」
右目だ。
さっき云っていた。
天野は渋沢をじっと見つめてみた。一見して調子が悪そうに見えない。
だが、云っていたことが本当なら、左に来たらヤバイのではないか?
藤代が自分が散らかしたボールを外に蹴りだし、どす、とゴール前にボールを据えた。
「後悔してもしんないですよ?」
藤代がにっと笑う。
「やり直しはなしだぞ」
渋沢もぱしんとグローブを合わせ、にこやかにゴール前に立つ。
「もう一回は今回ばかりはなし、だ」
渋沢がぐっと腰を落とす。
雰囲気が一変した。
踵を上げて爪先立ちになり、藤代を睨みつける。
ボールの前の藤代はじっとゴールを見据えてる。
皆が息を詰める。
藤代は、まだ蹴らない。
まだ蹴らない。
まだ…。


蹴った。
渋沢から見て左。
這うように低い弾丸。
それが、突然跳ね上がる。
「あー!!!」
藤代の絶叫が響き渡る。
「何でー!何で捕れるンすか、今のが!絶対オカシイっす!」
弾かれて空に舞い上がったボール。緩やかな回転を帯びながら、頭上からゆっくりと下りてくるそのボールを渋沢は笑顔でキャッチする。
「もう一回はなし、だ」
「ヤダよー、今更さんなんて呼びにくいっすよー」
駄々を捏ねる藤代を見て、一軍が一斉に爆笑する。
「藤代、何、お前、そんな事賭けてたの?すーげぇ真剣にやってると思ったら、の呼び方?お前ら馬鹿?」
中西が腹を抑えながらからかうと、藤代が往生際悪く尻馬に乗る。
「そうっすよねー、おかしいですよね、こんなの。で良いじゃん、別にアイツも怒ってないんすから」
「約束は約束だろう?男らしくないぞ」
男らしくない、という言葉に藤代がうっと詰まる。単純なのだ。
「渋沢さー、まさか、の彼氏になる奴は俺からゴールを奪わなきゃ認めない、とか時代錯誤なこと云うなよー?」
近藤が呆れたように云うと、渋沢が全開の笑顔を浮かべる。
「あはは、それ良いな、そうしよう」
「げぇー」と近藤が悲鳴を上げる。
そう云えば、と天野は人波を見渡した。の姿が先程から見えない。
の許可を取ってからやれよー。可哀想だろ」
「馬鹿だな、こういうのは裏でこっそりやるから良いんだよ。大体、俺に刃向かえないような男はには不釣合いだよ」
「そんなのウチじゃ三上と藤代と間宮しかいねーよ」
中西の突っ込みにどっと笑い声が上がる。
「まぁ、冗談はさておき。
どうだ、お前ら?やってみないか?」
渋沢がにこやかに二、三軍を振り返る。
度肝を抜かれて、皆が唖然として渋沢を凝視した。誰もが渋沢が本気なのかからかっているだけなのか量りかねて、反応に窮している。
「マジかよ、渋沢?」
「ああ、俺と勝負して勝ったなら、とつきあえるように責任を持って取り計らおう」
「だーから、お前が決めるなってー」
「問題ないさ、俺が負けるほどの男なら。どうだ、お前たちでも良いぞ?」
完全に乗り気になってしまっている渋沢に、一軍メンバーは呆れたような視線を投げる。
渋沢の実力を熟知しているため、当然誰も名乗り出ない。
「はーい、せんせー、しつもーん」
隅でボルヴィックを黙って飲んでいた三上がだらしない仕草で挙手をする。
「一軍MFやFWなら兎も角、二、三軍の連中が天下の武蔵森正ゴールキーパー渋沢克朗様からゴールを奪うのは不可能に近いと思うんですけどー」
揶揄するように笑っている三上に気を悪くした様子もなく、渋沢が少し考え込む素振りを見せる。
「…そうだな。一軍以外には右手を封じよう」
「おお、太っ腹!おーい、二軍以下でと付き合いたいと思ってる連中ー、今がチャンスだぞー」
三上の野次で場がざわめきだす。
天野は部内に、自分の他にもに好意を持っているやつらを知っていた。
そいつらの顔を盗み見る。
残念そうに、だが、諦めた表情で何か小声で話していた。
てのひらが何時の間にか汗ばんでいる。
チャンスだ。
片手で、そして右目がよく見えないなら。
これから先自分が一軍に上がれないのは自分が一番良く解っている。
もしこれを逃したら、本当にもうと関わり合う事は無いかもしれない。
じっとりとした手を握りこむ。
汚かろうと、チャンスはチャンスだ。
「誰も居ないのか?」
息を吸い込む。
「やります」
天野は緊張のあまり肘の曲がらない腕で、真っ直ぐに手を天に差し出した。





「何やってるの?」
用具室にビブスとライン引きを返して。
部室で部誌を書いていただが、書き終わっても誰も戻ってこないのでグラウンドに出てみると、どういう訳か皆がまだ一軍専用グラウンドに残っていた。
そんな予定は聞いていなかったから慌てて駆けつけ、藤代を捕まえる。
争奪戦だよ」
「はあ?」
ほら、と指を指される先には渋沢と、二軍の天野が向かい合っている。
真剣勝負をしている時の渋沢は恐い。
逃げ出したくなるほどの殺気を放っている。
事情が良く飲み込めないまま、けれどはその姿に見入ってしまう。
ふと、渋沢が利き腕である右手を背中に回していることに気付いた。
藤代に訳を尋ねようとする前に、天野が蹴った。
右サイドに。
決して悪い球ではなかった。
正確にぎりぎりのところを狙ってきた。
だが。
渋沢克朗だった。相手が。
左腕で、しかもそれをそのまま大きな手でキャッチした。
よろけた身体を、使わなかった右手をポストに突いて支える。
何でもないことのように渋沢が振り返った。
「約束だ。諦めろ」
主語が抜けていてには何のことか理解できなかったけど、天野は目に見えてがっかりとした様子で膝を突く。
に気が付くと、渋沢が掴んでいたボールを投げて寄越した。
「それから天野、及び二軍。
最近片付けを三軍に押し付けたり、練習の手を抜いている連中が居るようだが…。
見ての通り、そんなことをしていては、俺からゴールを奪うことは出来ない。
厳しいことを云うようだが、それでは何時までも補欠止まりだ。
二軍も、三軍も、下積みや努力することに意義を見出せず、嫌気が刺す気持も解る。だが、基礎というものがすべての技術の礎になるんだ。一軍に居る連中は素晴らしい技術を持っているが、同時に無意識に身体が動くほど基本を己に染み込ませている。
上達に近道は無い、この言葉を各々しっかりと考えて欲しい。
以上、解散!」
っりしたぁぁ!!
いつもよりも気合に満ちた大音量がグラウンドに響き渡る。
二、三軍が熱の篭った眼差しを皆一様にキャプテンに向けて去って行く。一軍の連中は無言で渋沢の肩を叩いて、同じように部室へと消えていった。
は藤代と笠井と一緒に散らばったボールを集めている。
仔猫がじゃれあうようなその様に瞳を細め、グローブの止めを弛めていると背後からやる気の感じられない拍手が送られてきた。
「よ、公私混同、名奉行。上手いねー、いやー、感心しちゃうよ、ホント」
「三上。お前、もうちょっとマシな云い方出来なかったのか?学芸会以下だぞ」
「賭けには俺の演技力のことなんか含まれてねーもん」
ケッと顔を背ける三上に、渋沢はあからさまな溜息を吐いてみせる。
「目が届かないことを良い事に最近二軍がだらけてる、と云い出したのはお前だ」
その言葉に三上の目の色が変わる。
伸ばされた腕を渋沢はあえて避けなかった。
胸倉を掴まれ、射殺すような眼差しを至近距離で受け止める。
「俺はお前のやり方が気に入らないって云ってんだよ…ッ。綱紀粛正は構わねェよ、ただそれはにちょっかいかけようとするのが気に入らないからって、周到に餌を撒いてまで天野を生贄にしてやることじゃねーだろが!」
睨みつける三上に渋沢は場違いに微笑む。
「面倒なことは一遍に済ませた方が効率がいいだろう?」
信じられないと云いたげに三上が目を見開く。
じわりと開かれる指。
「お前、最低」
吐き捨てると三上は踵を返す。スパイクがグラウンドを抉って、渋沢の足元を飛び散った土塊が汚した。
皺の寄った胸元を直す気にはなれなくて、苦笑を浮かべてその潔癖な背中を見送る。
視線を戻すと、ボールを籠に仕舞い終えた三人も荒々しい足取りでグラウンドを出て行く三上を呆気に取られた顔で見送っていた。
「どうしたんすか、三上先輩?」
真面目な顔をしているつもりなのか、唇をへの字にまげて藤代は遠くなる背中を目で追っている。
「何でもないよ、ちょっとした口喧嘩だ」
渋沢はいつものように微笑んで嘘を吐く。
本当は喧嘩ではなく断罪だ。
間接的に手を貸した事が、思ったよりも天野一人を傷つける結果に終わったことに三上は心を痛めているのだろう。
三上は自分などよりよっぽど優しいから。
「藤代、笠井、悪いが片付けを頼む」
うーす、と応えて二人は籠を運んで行く。
意図を汲んでが渋沢の元に駆け寄る。
の可愛らしい表情を見ると、心が弛む。
天野がに手を出そうと画策することはもう無いだろう。
あんなふうに泣いたり怯えたりするを見ずに済む。
天野に対して行ったことに関しては罪悪感など抱いていない。
あまつさえサッカー部を利用し、選りによってを辱めようとした。
せいぜい妥当なものだと思っているし、それどころかあの程度の屈辱では足りないとさえ思っている。
だから胸に滲む苦さは、巻き込んだ三上に対してのものだ。
自分の代わりに要らぬ罪悪感を背負い込んでしまったかも知れない友人に。
「三上に嫌われたよ。慰めてくれないか?」
半分以上冗談のつもりだった。
自分が彼女の為にしたことを知って欲しくないし、知って欲しい。
ただ云ってみたかっただけで、実際は慰めなど期待してはいなかった。
なのに。
はその大きな瞳で一回だけ瞬きをして、渋沢の手を取って微笑んだ。
「大丈夫」
に手を引かれて歩き出す。
「大丈夫です。三上先輩、口は悪いし、いっつも機嫌悪そうにしてて、とっつき難そうにしてるけど、本気で怒る時は他人が絡んでいる時だけですもん。
自分勝手そうに見えて、優しいからすぐに仲直りできますよ」
だから、大丈夫。そう繰り返す揺るぎない瞳。
渋沢は自由な左手で口元を覆った。
柄にもなく頬に血が上る。
「なんか妙な感じだな…」
「え?」
「大丈夫って響き。いつもは云う方の立場だから。人から云われると新鮮だ」
一段低い隣からくすくすと囀るような軽やかな笑い声が零れる。
その声音が余計に体温を上昇させていく。
もっと子供だと思っていたのに。
本質を見抜けず、驕って見下すなど、自分のがよっぽど子供だ。
繋がれた手は、自分なら簡単に砕くことが出来るほどに細い。
それを一度ほどいて、それから恋人がするように組み替えた。
一瞬強張ったのてのひらからすぐに力が抜け、幼い力で握り返してくれる。
「絶対大丈夫です」
「うん。そうだと良いな」
そう呟くと、の身体が労わるように寄り添ってくる。
それぐらいのことが何故こんなにも胸に優しいのか。
どうして今自分はこれほどに悦んでいるのか。




                                    よろこびは、日が落ちてもなお心を暖め続けた。