信じられない。
 何だこれは。
 ベッドにぺたりと座り込み、俺はただひたすらシーツの上の小さな手を凝視していた。
 細い手だ。指も手首もやけに細い。初めて見るのに、その折れそうに華奢な手は俺の意思で動く。
 心臓が頭の中にあるようだ。全力疾走した後のようにがんがん鼓動が乱反射している。
 咽喉を鳴らして唾を飲み込む。
 躊躇いながらも左手を顔の前に掲げてみる。そうっと力を込めていくと指は何の抵抗もなく曲がる。
 それでも俺は信じられずにじっとその手を見詰め続けた。
 こんなのは俺の手じゃない。
 けれど、小指に残る傷跡は俺のものだった。
 小学生の頃の話だ。掃除の時間に図工室でパイプ椅子の残骸を発見し、それを使ってちゃんばらごっこに及んでいた最中、幼馴染からの一撃で偶々切ってしまった時のものだ。家に帰ってからも血が止まらないぐらい傷は深く、この怪我の後、右に比べて第一関節から上が薬指の方にちょっとだけ傾いてしまった。
 ゆっくりと手を下ろす。
 そもそも傷の有無以前に、俺の思うままに動くのだから明らかにこれは俺の手だ。その手の先の二の腕も俺の二の腕だし、二の腕の繋がった肩も俺の肩で、全部まとめて俺の身体であることは疑いようがない。
 でも。
 下ろしたばかりの手を上げると、恐る恐るもう一度昨日までは存在しなかった膨らみに触れてみる。
 ふにゃりとした感触に俺は笑い出しそうだった。
 もちろん可笑しいからでも楽しいからでもない、もう馬鹿馬鹿しくて笑うしかないとかそういうヤケッパチな心境だ。
 ここが自分の部屋なことは間違いない。
 これが俺の身体であることも間違いない。
 けど、たったひとつだけ間違っていることがある。

 俺は女じゃない。
 昨日までは間違いなく男だった。


                                darlinghoney


 俺の名前は
 なんて女みてーな、というよりほぼ完全に女の名前をしていようが、それでも俺は確かに男だった。
 名前がちょっと妙だということを除いたら、昨日までの俺はサッカー馬鹿な至って普通の標準的男子中学生だったはずだ。
 それなのに、何で朝起きてみたら腕やら足やらひょろっと細くなって、おまけにぷくっと胸が膨らんでいるんだよ?
 俺はこれまでの十四年間の人生を振り返っても堂々第一位、はっきり云ってショック死しそうなほどの驚愕を現在進行形で味わっているといっていい。
 頭の中は真っ白、というより真っ暗だ。
 どうしたらいいのか解らなくて、理解不能な現実に俺は微動だにすることも出来ずにひん曲がった枕をただひたすら見詰めていた。
 けれど、しばらくすると何だか無性に目が痛くなってきて、俺は漸く瞬きって行為を思い出す。
 眼球が乾いてしまうほど俺は茫然自失に陥っていたようだ。
 慌ててぱちぱちしていると、今度は薄茶の髪がいきなり目に付いた。それまで全然気にも留めていなかったそれはずるずる長くて、布団に達してもまだ余っているくらいに長い。俺はそれを一房掴んでみた。
 ……この純粋な日本人には有り得ない茶色を通り越して金に近いぐらいに明るい髪色は俺の地毛だ。悪目立ちするこの髪のおかげで上級生にボコられそうになった経験は両手で数え切れないぐらいある。
 でも、俺のこの髪の毛は昨日眠りにつく前まではもっと短かった。
「…って!」
 ぐいっと思い切り引っ張ってみたら超痛いでやんの。
 視界が滲んできたけど、それが痛みの所為かこの状況の所為か、俺にはもう解らなかった。
 病気、って言葉が頭を過ぎりはしたものの、いくらなんでもこれは変だろ。世の中には俺が知らないだけで男が女になっちゃうような病気もあるのかも知れないけど、一晩でこんなふうに髪まで一気に伸びるっていうのはどう考えても普通じゃない。
 今度は異常、って言葉が頭に浮かんで俺は身震いする。
 そうだよ、異常だよ、これは。
 変じゃん、どうしちまったんだよ、俺の身体は。
 俺は女なんかじゃない、俺は男のはずなのに。
 本当に何なんだよ、どうしちゃったんだよ。
 俺の身体に何が起きたんだ、一体?
ちゃーん、起きてるのー? 遅刻しちゃうわよー」
 階下から飛んできた雛子の声に俺はびくりと肩を揺らした。
 考えるよりも先にベッドを飛び降り部屋から飛び出す。縺れそうになる足を必至で操り裸足のままで階段を駆け下りる。
「ヒナコ!」
 裏返った声を上げながら食堂に飛び込んできた俺を振り返ると雛子は唇を尖らせた。
 今日も今日とて、この万年頭が春としか思えない母親は年甲斐もなくヒラヒラのワンピースなんか着てやがる。
「何てカッコウしてるの、はしたな〜い」
「お、おれ、オンナになっちゃったよ!」
 呑気な台詞の上に無理矢理被せるように俺が叫ぶと、雛子が悩みなどなさそうな顔をさらにきょとんとさせた。
「ど、どうしたらいいと思う!? どうしよう、俺、俺……」
 俺は云っているうちに半泣き状態になってきた。
 後になって振り返ると超情けねぇけどさ。
 でも、俺はこの時本当に切羽詰まっていてそんなことに構っていられなかった。誰でもいいから何とかして欲しかった。
 だがしかし、なんと驚くどころか雛子は半ベソかいてる俺を見てぷっと吹き出したのだ。
 その予想外の反応にびっくりして、重ねて己の困窮を訴えようとしていた言葉が思わず咽喉に張り付いた。
 息子が娘になったのに、いくら雛子が天然ボケでもこの反応はないだろう。
「やぁ〜だ〜、何云ってるの〜?」
 雛子は朗らかに笑みを零す。冗談とか嫌がらせとか、全然そんなのなさそうな顔で。
「なに、って…」
 ただでさえ朝から死ぬほど驚いて混乱しまくっているというのに、俺は余計に頭が混乱してきた。何云ってるんだってそれは俺の台詞だ、いくらなんでもボケるのにも程があるだろう。
 ふざけるなと腹が立ってきて、俺は雛子を睨むと声を荒げた。
「だからぁ、俺オンナになっちゃったってさっきから云ってんだろ!」
 鬼気迫る俺とは対照的に、ここまで云っても未だ雛子は呑気にやわらかく笑んでいる。
 本気で母親がアホに見えた。
 怒鳴りつけたろかと俺は拳を握る。しかし、俺が口を開くよりも速く、次の瞬間、にこにこと悪気のない笑顔で雛子はとんでもなく衝撃的な一言を云い放ちやがったのだ。
「だから、ちゃんは最初っから女の子でしょ〜?」
「は…はあっ!?」
 握り拳のまま、俺は思わぬ言葉にまたもや唖然としてしまう。
「寝ぼけてるの? どうしたのよ、嫌な夢でも見ちゃったの?」
 片手におたまを持つ雛子の顔はやっぱり呑気なもので、嘘を吐いたり演技をしているようには到底見えない。そもそも頭が一年中春で天真爛漫を絵に描いたようなこの母親にそんな高等テクニックが出来るとも思えん。
 混乱ここに極まれり、って感じで俺は眩暈がしてきそうだった。
「な、に、云ってんだよ、なぁ? 俺、だってほら、俺は男だったじゃん? ほら、サッカーばっかしててさ、いっつも勉強もしろとか、早く帰ってこいとか煩かったろ?」
 本当に頭がくらくらしてきた。俺は壁に片手を突いて何とか身体を支えたが、同時にあることに気付く。
 そういえば……俺、髪伸びてるんだよな。
 それだけじゃなく、胸んとこが盛り上がってるし、手足だって細くなってるんだし。
 じゃあ、本当なら一発で解ったはずなんだよな。俺がわざわざ口にするまでもなく、昨日までと比較して明らかに変だ、って。
 なのに、最初から雛子は俺を見ても驚かなかった。
 全然平気で笑っていた、俺が女になっていることにこれっぽっちも違和感なんて感じてないみたいに。
 俺は雛子の顔へと視線を戻した。やはり笑っている。こんなに異常なことが起きているのに。
「そうよ、あなた、女の子と遊ばないで、ちっちゃい頃から男の子に混じって危ない遊びばっかするんだもん。サッカーだって怪我が心配だし、それに遅いと今度は帰りが心配だもの。何時までたってもオレって云うのも直してくれないし〜。そりゃ煩くなります〜」
 空いている方の手で目元を覆う。
 何だよ。何なんだよ本当に、これ。
 俺だけ目隠しされて取り残された気分だ。
 何が『現実』で何が『俺』だったのか、それすら解らなくなってくる。
 雛子の云っていることの方が正しいのか?
 俺が、俺の方が間違っているのか?
「違う、そうじゃなくてさ、俺、男でさ、その」
「まだ云うの〜? も〜、保険証でも母子手帳でも見せましょうか〜?」
 雛子の軽やかな笑い声を振り切るように食堂を飛び出す。そのままの勢いで駆け上がり、俺は自分の部屋の本棚へと直行した。
 確かめる方法を思いついたんだよ。
 写真だよ、写真。
 そうすればはっきりする、俺の方が正しいって。
 小学校の卒業アルバムを強引に引き抜くと、同時に隣の本まで数冊ぼろぼろと飛び出してきたがそんなことには構っていられなかった。
 自分が映っているはずのページを求めて乱暴にめくっていく。
 ページを繰る指はぶるぶると震えている。
 その所為で破れはしないかふと心配になったが、さっきは本の落下にまったく無頓着だったくせに、今度はそんな下らないことが気にかかる自分が我ながら不思議だった。
 もともと卒業アルバムなんてそう厚いもんじゃない。
 目的のページはすぐに発見できた。
 でも。
 そのページを穴が開くほど見詰めた後、叩きつけるようにしてそれを放り出す。
 俺は気が狂ったように今度は机の引出しを開けまくって、あるはずのスナップ写真を探した。
 見つけては数秒眺めて放り投げるを繰り返す。
 結局、ありったけの写真を引っ張り出してみたものの、それら全ての写真はアルバム同様、落胆という名の奈落の底へと俺を突き落としただけだった。
「…………何でだよ……」
 俺は床に散らばった本と写真の中にへなへなと座り込んだ。
 認めたくはないけど、確かに俺はどっちかっていうと女顔をしている。父親の方は顔のパーツがほぼ直線で構成されているような男顔なのに、俺はあの通り年齢不詳で万年少女な母親の方に顔立ちや髪の色までそっくりなのだ。
 おかげで幼稚園の時には「可愛い女の子ね」って云われることもしょっちゅうだった。それでも、間違われたのなんかせいぜい小学校低学年までの話で、成長するにつれ誰も俺を女と勘違いするようなことはなくなっていった。
「どういうことだよ、これ…」
 いくら俺が女顔だって、男か女かは一目見りゃ判別がついたんだよ。
 なのに、写真に写っているのは見間違うことが出来ないぐらい完全に女の子だ。
 卒業アルバムの中の俺も、スナップ写真の中の俺も、『俺』がいたはずの場所に『俺とよく似た髪の長い女の子』が写っている。
「なんで……」
 俺は強く目を閉じ視界を塞いだ。周囲に散らばるおかしな写真も、小さく綺麗な女物の手も長い髪も全部見たくなかったから。
 いっそこのまま暗闇の中で石のように固まってしまえばいい、俺はそう思った。




 どれぐらいそうしていたのか。
 虚ろに座り込んでいる俺の耳に、しなやかなリズムで階段を上る音が聴こえてきた。
、遅刻するよ〜ん」
 ノックもなしにドアを開ける。
 寿樹だ。
 須釜寿樹。
 俺の腐れ縁の悪友。
 家が近所で物心つく頃には気が付けばいっつも一緒に遊んでて、親に云えないアホな真似も死ぬほどしてきた間柄だ。
 そいつがドアノブを握ったまま入り口で硬直している。
 老成と呼べば聴こえはいいが、要するに若さがなくて爺むさく、何事にも動じることのないはずの男が今はその目を見開き深い驚きに染まった表情を浮かべていた。
 中三にして早くも百九十センチという、その中身の通りにふざけた長身を僅かに折るような姿勢で入り口に立ち尽くしたまま俺を凝視している。
 喰い入るような眼差しを俺は奥歯を噛んで正面から受け止めた。
 どうかちゃんと気付いて欲しかった、俺がおかしいことに。変だって、異常だって、大変なんだって、ちゃんとそう思えよ、って祈りにも似たやり場のない怒りをぶつけるように寿樹を睨む。
 重い沈黙の後、俺を見詰めたまま寿樹は躊躇うように小さく首を傾げた。
「……もしかしてなのかな?」
 何か云おうとしたのに咽喉の奥に熱い塊が込み上げてきて上手く言葉が出ない。だから俺はその困惑の響きに縋るかのように立ち上がった。
 訝るように眉間に皺を寄せ、俺から視線を外すことなく寿樹は後ろ手にドアを閉める。
「なぁ! 俺、昨日までは男だったよな!?」
 駆け寄ると寿樹の腕を握りしめ、俺はまるで懇願口調で声を荒げる。
 そうしながらも俺はあることに気付いてしまった。昨日までと見上げる角度が違う。性別と共に百七十六センチあった身長までもが奪われたらしい。
 悔しくて哀しくて視界が滲んできそうだ。
「なぁ、男だよな、俺は男だよな」
 声が震えた。
 寿樹の返事が速く聴きたかった、でも、同時に聴くのが恐かった。
 厳しい顔つきで俺を見下ろしていた寿樹がふっと息を吐く。
 そして、その唇を笑みの形に変化させる。俺の目には吊り上がるその動きがやけにゆっくりと感じられた。
 ムカつくぐらいににっこりすると、寿樹は幼子をあやすみたいに俺の頭を撫でる。
「うん、昨日までのはちゃんと男の子だったよ〜ん」
 こんな時なのに語尾をだらしなく延ばしやがったその口調に、俺は膝が砕けて再度へろへろと座り込んだ。
 傷だらけのフローリングの上で拳を握る。
 やっぱり俺は男なんだよ。
 その爺むさい雰囲気も女子連中に云わせれば穏やかの優しいだのになるらしいが、穏やかなんて本当は寿樹から最も対極にあるものだ。
 表向きは常に温和ぶってにこやかにボケ倒しているくせに、蓋を開ければ実は酷薄で笑顔で人を殴り倒すような性悪男、それが寿樹だ。本当っぽい顔で本当っぽい嘘を吐いて人を欺くのがこいつの生きがいといっても過言ではないほど、その根性は捻くれ曲がっている。
 それくらい寿樹は嘘吐きだけど、でもさっきコイツは一目見るなり、俺に対して奇異の眼差しを向けてきた。
 あれが寿樹が真実を語っていることの何よりの証拠だ。
 さっきのあの驚き様、あれは本物だった。嘘じゃなかった。俺の言葉の尻馬に乗っていい加減なことを口にしたんじゃない、寿樹は初めから雛子と違って俺の姿に驚いていたんだから。
 やっぱりそうだよ、そうなんだよ、俺はやっぱり昨日までは男だったんだよ。
 なのに、なんで今日になったらいきなり女になってるんだ?
 …………やべえ、なんかマジで泣けてきた。
「凄いなぁ、本当に全部女の子になっちゃったの?」
 寿樹も一緒になって俺のすぐ隣へと屈み込む。そして、わざわざ背中を伸ばして、項垂れた俺の顔を覗き込もうとする。
 人の気も知らず、むしろ心底感心したようにしげしげと人を検分してくる様が腹立たしくて、俺はその無神経な面を思い切り睨みつけた。
「うるせえな、じろじろ見てんじゃねぇよ」
 なのに、寿樹は凄んでいる俺なんて全然目に入ってないんじゃないかってぐらい平然としていた。
 まるで珍しい蝶の発見に心躍らせている昆虫博士みたいに、切れ長の目を楽しげに細めてくすりとその唇を綻ばせる。
「そんな乱暴な口をきいたら駄目だよ、。女の子になっちゃったんでしょ、だったらもっと女の子らしくした方がいいんじゃないかな?」
 身体が勝手に動いた。
 思考が行動に追いつかない、狙いを定める暇もなく左ストレートをその横っ面目掛けて放つ。自分の視界に自分の拳の影が侵入して、それで瞬時に煮えくり返ったはらわたの存在を自覚する。
 ばちん、という音。殆どノーモーションで繰り出した俺の拳を寿樹は当たり前みたいに楽々と右手で受け止めた。
 掴まれた拳の向こう側で、未だ場違いな笑顔を寿樹は浮かべている。
「これも感心しないなあ。これからは女の子になっちゃった君を僕が全身全霊を賭して守ってあげるから拳は封印しようよ」
 今度こそ俺は心の底からマジギレした。感電したみたいに爪の先まで怒りの粒子が行き渡る。
「オンナオンナ連呼してんじゃねえ!」
 捕らわれた拳を引き千切るように奪い返す。
 俺は立ち上がりざまに寿樹の顔面目掛けて膝をお見舞いする。それを避けつつ、その長身からは考えられないくらい身軽な動作で寿樹も立ち上がった。
 フック気味に突き上げた右の拳が寿樹の頬を掠め去る。続けて繰り出した左は軽く往なされて殺された、だが舌打ちしているその瞬間に俺は蹴りを放つ。
 ……正直云って突然変異へのフラストレーションがついに爆発したようなもので、俺をこの時駆り立てていたものの正体は、寿樹への怒りというよりも信じられない状況への憤りだった。俺が寿樹に向けていた拳には八つ当たりが九割以上宿っていた、それについては言い訳しようがない。
 だがしかし、寿樹の発言はショックを受けている人間に対して見事に配慮を欠いている上、明らかに神経を逆撫でする類のものであったことも間違いないだろう。
 それに、何よりもこれから数時間後には、本当にこの時ぶっ殺しておけば良かったと思う事実が判明することになる。
 ただしこの時俺がそんなことを知っている訳はなく、この場はプッツン切れた俺が寿樹に当り散らしているだけだった。完全に頭に血が上っている俺はひたすら急所狙いで四肢を振るう。
 ガチンコの殴り合いはサッカーとゲームを除いたら唯一俺の得意科目だ。中学に上がってサッカー一本に絞る前には空手もやっていたし、ありがたいことに実戦経験は山ほどある。俺は悪目立ちするこの髪の色の所為、寿樹は身長の所為で目をつけられることが多かったから(…まぁ、二人とも大人しく殴られてやるような性格じゃないことも大いに関係してそうだが)。
 大抵、喧嘩の時はどっちかがどっちかの加勢に加わるか、または双方当事者で、喧嘩をしに行くなら当たり前のようにこいつが横にいた。
 つまり、寿樹も俺と同じくらい喧嘩慣れしている訳でさっきから腹の立つことに拳も蹴りも全然まともに入らねえんだよ、ド畜生!
 くそうと思いつつ繰り出した裏拳はガードされる、骨に衝撃が響いたが脳が沸いてる今の状態じゃ痛みなんて感じない。そのまま、すぐさましゃがんで両手を付いて足払いを掛ける、がこれは紙一重で避けられる。
 やけっぱちで放った蹴りが漸く一発ヒットしたが、痛手と呼ぶには程遠い。
(畜生、畜生)
 いつしか俺の頭の中はその言葉で溢れかえっていた。
 弱っちい女の身体に腹が立つし悔しいし情けない。
 女の身体はスピードはともかく、全く重さというものが感じられなかった。筋肉が弱いのか身体は軽いし、今までと全く勝手が違う。同じ感覚で蹴りを放っても軽すぎて重心を崩すし、こんなんじゃ当たったってダメージなんか高が知れている。
 おまけに体力もない。
「……てめ、はな、せ、よ……」
「放してもいいよ、『寿樹くん、ごめんね。もうしないからのこと嫌いにならないでね』って上目遣いで可愛くお願いしなおしてくれるなら」
 死ねこの野郎。
 結局、寿樹のクソ野郎は俺の攻撃をひたすら躱し続けただけで、いっぺんも殴り返してこなかった。男の時は平気で殴り返してきてたのに、こいつは拳を握ることさえしなかった。
 なのに、俺はと云えば一人で空回るだけ空回って、ぜーぜー息切れしたところを捕まえられてしまっている。寿樹の方は息も乱れてないのに。まったくもって、俺にとっては二重三重の意味で屈辱的だ。
 おまけに何だよ、この捕縛方法は。
 何でこいつは正面から抱き締めたりしてんだよ、嫌がらせか、嫌がらせだなこの野郎。
「てめ、気色わりーんだよ、さっさと放せよこのド変態め」
「ああ、本当に女の子だね、ちょっぴり疑ってたんだけど」
 嫌悪感丸出しで云ってやったのに、何だかうっとりしたようなかつてないほど幸福そうな声が上から降ってきた。その上、身を捩る俺の抵抗を綺麗さっぱり無視して、人の髪に頬を寄せた寿樹は妙に高いテンションで嬉しそうに笑う。かなりキショい。マジでキモイ。
 ああ、くそっ、どうしてコイツはいっつもいっつもマイペースなんだよ(そういえば、散々脅しをかけてきた上級生の話が終わった途端、「じゃあ、見たいアニメがあるのでそろそろ帰っていいですか?」とか云うもんだから、おかげで俺まで目の敵にされる羽目に陥ったこともあった)。
 俺は苛々と頭を振って寿樹の顔を追っ払う、追っ払った後に頭突きをかましてやればよかったことに気付いたが後の祭りだ。出来るだけ寿樹との接触を減らそうと身を反らしながら俺は刺々しい声を吐き出す。
「放せって云ってのが聴こえないのか、このバカ。いよいよ耳が遠くなったのか、中学生の皮を被ったエロジジイ。それとも日本語通じてねえのか、和製宇宙人」
「酷い云われようだなあ。僕はただ感動に浸ってるだけなのに」
 頭上の溜息と同時に、俺を捕えている寿樹の腕に力が加わる。
「ちょ…っ」
 強く抱き締められて息が詰まる。
 今まで想像もしたことなかったが、男の腕は硬くて痛かった。それが二本背中に喰い込んでくるし、寿樹と余計に身体が密着するわでイタキモチワルイことこの上ない。
「はな、せ…てめ、ほんとに苦しんだよ…っ」
 俺は唯一自由になる足で、床をメチャクチャに踏み散らす。
 一階はさぞ煩かっただろうがそんなこと知ったこっちゃない、あわや酸欠になりそうな苦しさの前には階下の迷惑など塵に等しい些事だろう。
 寿樹の足を踏んづけることは叶わなかったものの、爆撃を避ける際に力が弛んだおかげで俺は変質者の腕からようやく脱出することが出来た。
「てめぇ抱くなよ、気持悪りーな!」
「僕は気持ち良かったよ。ずいぶん膨らんだものだねぇ、Dカップはある?」
「んなこと知るかこのクソボケ!」
 こっちはぜえぜえしながら罵倒してんのに、寿樹のアホは無意味なまでに爽やかにセクハラ発言をかましてきやがる。
「ところで、一応確認しときたいんだけど下はどうなったの? まさかあったりしないよね?」
「ねぇよ!」
 完全に他人事の顔してむしろ喜んでいるっぽいアホに向かって俺は怒鳴った。
 乳が生えてきた代わりにナニはキレイさっぱりなくなっている。理不尽極まりないことに、たった一晩であっという間に完全無欠の女の身体が一丁上がりだ。……まぁ、乳も在ってナニも在った方が最低だったかもしれないが。
「ふぅん、良かったねぇ、
 全然良くねえだろが馬鹿野郎…っ。
 人の話ちゃんと聴いてたのか、こいつ。口を開くとムカつくだけなので、もう寿樹のアホは放っておいて、俺は必死で頭を働かせようとした。
 寿樹のおかげ……って凄い腹立たしい云い方だが、とにかく、この和製宇宙人はちゃんと俺が昨日まで男だって覚えているんだし、俺が昨日眠りにつく前までは男だった、ってことに間違いはないんだよな。ええと、それでもって………それで…。
 たかが数秒の思考の後、俺は生え際に左手を突っ込むとぐしゃぐしゃと髪を掻き毟った。
 俺は男だった、それはやっぱり間違いないんだよ、でもじゃあ、なんで今朝になって突然俺は女になってるんだ?
 何でこんなことが起こったか、どうやったら元に戻れるか、とか依然として疑問だらけだ。
 それ以外にも、何で母親の雛子が俺が最初から女だと思い込んでいるのかとか、これからどうしたら良いのかとか、疑問だけは大量にあるのに、満足な回答はなにひとつ思い浮かばない。
 結局、振り出しに戻っただけじゃねぇか。
 闇雲に時間が過ぎ去っただけで、何ひとつ解決はしていない。
 焦りだけがどんどん増幅する。
「ねぇ…ねえってば、無視しないでよ、。実は僕は好きな人に冷たくされると本来の姿であるウサちゃんに変化してしまうというラヴラビット星の騎士ラビット須釜なんだぞ。だからが時には娼婦のように時には聖母のように優しく包み込むように接してあげないと、バニーガールもまあびっくりな愛らしいウサ耳が生えちゃったり語尾がぴょんになっちゃうんだぴょん」
「真顔でぴょんとかぬかすなー!」
 鳥肌が立つほどの言葉の暴力の前に、ついにシカトしきれなくなる。今にも噛み付きそうな勢いで返事を返すが、寿樹は相変わらずこれっぽっちも意に介さない。俺が床に散らかした写真を数枚拾い上げると順々に眺めていく。
「にゃんのが良かった? ふぅん…写真まできちんと女の子の姿に変わってるんだ。ずいぶん手が込んでるね。で、女の子になっちゃったはこれからどうするつもりなの?」
「……そんなの、俺が一番教えてもらいたいぜ」
 答えられない腹癒せに俺は寿樹を睨みつける。
 見終わった写真を机に置きながら、寿樹は何でもないことのようにさらりと凄い台詞を口に乗せた。
「じゃあ、教えてあげましょうか」
 俺は零れ落ちそうなぐらい大きく目を見開いた。
 あるのかよ、男に戻る方法が!?
 思わず期待に鼓動が速まる。
 が、寿樹のアホたれはあっさりと俺の期待を裏切ってくれたのだった。
「では、そのいち〜。とりあえず、学校に行って状況確認をしてみましょ〜」
「冗談じゃねェ!」
 語尾を打ち消すように叫ぶ。
 アホか! という気分だった。原因も解らないのに外になんか出られるわけがない。
「みすみす見世物になるなんて冗談じゃねぇよ! テメェ、もうとっとと帰れよ、二度と来んな!」
「じゃあどうするつもりなの? いつまでもこの部屋に引き篭もってる訳にも行かないよね?」
 うっと言葉に詰まった俺は、寿樹から顔を背けて見慣れた床へと視線を落とした。
 その質問にも俺は満足な答えを返すことは出来なかったから。
「君のさっきの態度から推察するに、雛子さんは君が最初っから女の子だった、って云ったんじゃないの、違う?」
 俺は黙っていることで肯定を示した。
 切れそうなほど唇を噛む。
 けど、そんなことしたって痛いだけで、何も解決しない。
「実の母親である雛子さんまでそう云うんだよね。でも僕は君が昨日までは男だってことを覚えている。
 ならば、二種類の人間がいる、って考えられよね」
 床に向けていたはずの顔を上げ、いつのまにやら俺は寿樹の言葉に真剣に聴き入ってしまっていた。
 それに気付いて内心顔を顰める。
 藁にも縋るってこういうことかよと、俺は嫌な感じに実感していた。藁は藁でもこんな捩れに捻れまくった性悪な藁にだけは何があっても縋りたくなかったのに。
 寿樹が小指と薬指を折った右手を上げる。
 そして言葉に合わせて順々に折っていく。
「君が昨日まで男だったことを覚えている人間。
 君が昨日まで男だったことを忘れてしまっている人間。
 さーて、どっちの割合が多いかな〜」
 人が窮地に陥っているというのに、こんな時でも笑顔を絶やさないその神経が憎たらしくて仕方なかったが、こいつに腹を立てることで自分の置かれた理不尽な状況に対する怒りは収まりつつあった。
 ……確かにこの部屋にいつまでも引き篭もっている訳にもいかないだろう。
 雛子でさえ俺が昨日も一昨日も生まれた時から女だったって主張した。寿樹の云う通り、産みの親だってそんな調子なんだから、誰がどっち側の人間なのかは実際に会ってみないと解らない、っていうのも多分正しい。
 ただ、俺が女だったって云う奴だらけなのも勿論嫌だが、雛子以外の全員が俺が男だったことを覚えている場合はもっと最悪なんじゃないか?
 そうだった場合、まさに俺晒し者以外の何者でもないじゃん。
 どうするよ? 檻の中に入れられたり、手術台に縛りつけられたりしたらさ。
 腕を組んで真剣に懊悩する俺のハの字に曲げた眉の辺りに寿樹の呑気に笑っている視線を感じる。
 どうせお前にとっちゃ面白可笑しい珍事件なんだろうよ、畜生。
 間違いなく奴は今、俺内『ぶち殺したい奴』ランキングぶっちぎりナンバーワンだ。
「…その一ってことは、まだあるんだろ? その二の方教えてくれよ」
 睨みつけたいのを懸命に我慢して、俺は渋々そう申し出た。
 本来ならぶん殴って口を割らせたい場面だが、どうせ今の身体じゃ無理だし。
 こいつに媚び諂って教えを請うなど屈辱以外の何物でもないけど、もし物凄く良いアイデアならプライドよりも優先させるべきだ。というか、哀しいことに今の俺にはプライド云々を問題にしていられるような余裕もなければ選択肢もない。
「まぁね。僕的にはそっちがオススメ」
 寿樹がふらりと足を踏み出す。
 俺の方は脹れっ面で顔を背ける。
 畜生。アイデアさえ手に入ればこいつにもう用はない、後はポイだ、ポイ。生ゴミのように捨ててやるぜ。
 寿樹が俺の目の前で立ち止まる。
「そこのベッドで君が本当に何から何まで女の子になっちゃったのか、いろいろ微細に検査する。つまり、変化の確認をしてみる」
 自分からそっぽを向いたくせに、俺はびくりと肩を揺らして寿樹を見た。云われた内容に反応したんじゃない、奴が喋りながら俺の耳に触ってきたことの方に驚いたのだ。
 つねられるとか直接的な害がなかった分、首から肩へと下降していく指先を果たして弾き飛ばしていいものか逡巡したのが不味かった。
「平たく云うならお医者さんごっこ? こう見えても保健体育は得意だから安心していいよ、絶対痛くしないから」
 世迷言を述べ終えると、目の前の宇宙人はむにっと音がしそうなくらい思い切りむにっと握った、俺の胸を。
 何とも云えない初体験の感覚に俺は凍りつく。
 とても人のチチを掴んでいるとは思えない爽やかさで寿樹が笑う。
「じゃあ、とりあえず上脱いで横になってくれるかな〜?」
「もったいぶるだけぶっといて要はセクハラかこの野郎!」 
 左肘で胸に触れてる腕を跳ね除け、コンパクトに右の拳を突き上げた。寿樹がそれを避ける隙にバックステップで距離を取る。
「勝手に揉んでんじゃねぇよこのエロ宇宙人!」
 男のくせに胸掴まれたくらいで何で頬が熱くなるのか自分でも説明困難だけど、でも、男だろうと女だろうとコレは俺の身体だ、勝手に他人にいいようにされて堪るか。
「てめえには常識ってもんがねーのか、俺が女だったら警察に突き出してるとこだぞ!」
 俺の罵倒も右から左へ、まったく悪いと思ってない面で寿樹はくすくす笑う。
「ごめんごめん、でも、そんな美味しそうな格好で歩き回られたら僕の方が可哀想なんじゃない? 今のは不可抗力だよ」
 そんな格好?
 寿樹を警戒しつつ、そっと視線を下げてみる。
 でも、最初は昨日まではなかった乳が山となって視界を塞ぐばかりで、イマイチ寿樹の云うことが理解できなかったんだ。
 一瞬眉を顰めて、それから俺は思い出した。
 胸があることにびっくりして慌てて下を調べた時、パンツも女物になっていた気がする。
 それどころじゃなかったから深く気にしてなかったけど、気にしてる余裕なんてなかったけど、Tシャツだって丁度いいサイズだし、これって身体だけじゃなく身に着けていたものまで女物になってるってことだよな?
 ということは、今の俺って女のくせして男の前でTシャツにパンツ一丁?
 無言と化した俺に向かって寿樹が清々しい微笑みを向けてくる。
「ごちそうさまでした〜」
 その感謝の意味を考えると俺は眩暈がしそうだった。
 脳裏に過ぎるのは男物のYシャツ一枚でセクシーポーズをきめてるオネエチャン。オカズにしたことがあるアレと大差ねえよな、この格好って。くっそ〜何で俺が寿樹にゴチられてんだよ、超納得いかねえ。
「で、どうする? もう九時過ぎちゃったよ、とりあえずそろそろ学校に行かない?」
 どんよりとした眼差しを向けると、寿樹はさっき暴れた所為で乱れた制服を直したりしている。相変わらず人を無視したそのマイペースぶりにさらに気が滅入った俺は、ふらふらとベッドに歩み寄るとどさりと座り込んだ。
「お前一人で行けよ」
「どうして? 一緒に行こうよ。そもそも僕はを迎えに来たんだよ」
「何で今日に限って迎えになんか来たんだよ、いつもは迎えになんて来ないだろが」
「ん〜、ま、いいでしょ、それは別に。それより、はい、速く準備しなよ」
 額に手を当てて項垂れている俺の目の前に、ひらひらしたものが突き出される。
「だから行かねぇつってんだろ、しつけぇなあ」
 邪険に『それ』を手で押し返す。だが、視界にちらつくそれがどうにも見覚えあるよう気がして、俺は胡乱な目を向け、その結果愕然と凍りついた。
 もう一生分の驚きなんてとっくに使い果たした気分だったのに、俺はまたもや視線の先にあるものに度胆を抜かれてしまう。
「……何だよ、これ」
 恐る恐る指を差す。
「制服だよ」
 寿樹が差し出しているそれは、確かにウチの制服だった。
 だが、女子用の。
 ブレザーにプリーツスカート、シャツ、それからちゃんと俺の学年を表す臙脂のリボンまである。
「お、お前、どっからこんなモン…」
 言葉を失い喘ぐ俺に、寿樹がちらりと背後に視線を向ける。
「そこ」
 タンスの隣、床に置かれたドラムバッグの真上、そこは俺がいつも制服をかけていた場所だった。
 ただし寿樹が着ているのと同じ男物の制服を。
「…………はは、マジかよ……」
 渇いた笑いが零れた。
 そうだよな、パンツだって変わってたんだもんな、制服だって女物になってたって不思議じゃねえよな。
 この分じゃ、タンスの中もスカートだらけかもしれない。
 俺は新たな絶望を感じ、やけくそになって制服に手を伸ばした。
「出てけよ、寿樹、着替えるから。こうなりゃお望み通り学校行ってやるよ、誰なら俺が男だったの覚えてるのか首実験しようぜ。
 まあ、現に俺はもう女なんだし、いつまでも家に引き篭もって隠れたりしてる訳にもいかないよな。それにもしかしたら俺とお前の方が間違ってるのかもしれないしな、アハハ」


 そう云いつつも、俺は一縷の望みを託して往生際悪く健康手帳と母子手帳を調べずにはいられなかった。


 両方とも女だった。
 あ、そーって感じだ。
 最早何のショックも受けない。
 嘘です。
 賢者の石探しの旅に出そうなぐらいショックです。
 もともと薄かった脛毛がつるつるになってるのも軽くショックでした。
 そのつるつるの足をスカートに通しながら、俺は更なる憂鬱な気分に襲われていた。文化祭の時に無理矢理女装させられたことはあるが、まさか学校行くのに女物を纏わなアカン日がこようとは…。恐ろしくて鏡を見る気にはとてもなれない。
 股間と同時に男の沽券までをもなくした俺が喪失感に打ちひしがれているというのに、寿樹のアホは俺を見るなり「わーよく似合うよ」と嬉しそうに拍手をした。馬鹿にしているとしか思えない。
 けど、俺はもう本当に本気で心の底からやけくそになってきているのも事実で、『俺は昨日までは男だったけど今日からは女ですが何か?』ぐらいの勢いでばーんと勢いよく玄関を開けて家を出た。
 歩きながらチキンとオニオンスライスとレタスを無理矢理挟んだ厚切り食パンをもりもり喰ってる俺を見て、通りすがりの人がみんな一様に一瞬ぎょっとしたような表情をしていくが俺は完全に無視した。
 パンを歩き喰いしていることにぎょっとするのか、それとも女装(?)している俺にぎょっとするのか、もう考えるのも面倒だった。
 ただし、口を半開きにした若いサラリーマンがわざわざ立ち止まってまでこっちを見たのには流石に腹が立ってガンつけたけど。
「ったく、じろじろ見んじゃねーっーの」
 すぐに目を逸らして慌てて歩き去ったが、思わずそう毒突く。
「そんなに睨んだら可哀想だよ。だって、僕があの人の立場にいてもきっと足を止めたもん」
 寿樹が歩きながら俺の後頭部の髪を撫でつける。梳かしたり身だしなみを整える気にもなれなかったから、酷く乱れているのかもしれない。どのみち俺にとっちゃどうでもいいことだ、今の俺には頭が鳥の巣だろうが爆発コントみたいなアフロだろうがそんなの朝起きたら突然女になってることに比べたら些細なこと過ぎる。むしろフカワばりにマッシュルームになってた方がマシだった。
「見たことないほど可愛い女の子が朝から食パン歩きながら喰べてたらショックだもん、思わず立ち止まって凝視しちゃうのも仕方ないよ」
「……はあ? 何云ってんの、お前。バッカじゃねぇの?」
 俺は思い切り顔を顰めた。
 昨日まで男だった奴のどこがカワイイってんだ、この嘘吐きは。
 俺は寿樹の戯言を相手にする気にもなれず、髪を撫ぜる手を振り払うように足を速めた。




 通学途中の鼻息の荒さは何処へやら、俺は恐る恐る教室のドアを潜った。
 陰気な顔した英語教師は特に何も云わずにちらっと見ただけで、読経のようなジャパニーズ・イングリッシュを再開する。
 俺は神経の磨り減る思いで、たった数メートル先の自分の席へと移動した。
 寿樹も俺の後を欠伸を噛み殺したような顔で付いて来る。どういう訳か俺とこいつは三年間一緒のクラスだった。
 なるべく音を立てないように椅子を引いた俺の後ろで寿樹が無神経にぎーっと椅子を引き出す。びくっとして思わず俺が振り返ると、結局こっそり欠伸をしたところだった。
 畜生、後で殴ってやる。
 涙目で強がりながらも、俺は不安で不安でちらちらとクラスの奴らを窺わずにはいられなかった。
 でも、誰も俺へと怪訝な眼差しを向けてはこないし、隣近所でひそひそ話を開始するような素振りも見当たらない。
 ほっと身体の力を抜いたところで、シャーペンで肩甲骨ら辺を突付かれた。
 そっと椅子を下げ、身体を倒すと寿樹が耳に顔を寄せてくる。
「このクラスはとりあえず誰も君が男だってこと覚えてはいないみたいだね」
 俺は昨日よりも寿樹の顔が近くにあるような気がして気持悪くて、少し身体を前にずらした。
「まぁな。まだ休み時間になってみねーとわかんねーけど」
 そうだと良いと思いつつ、用心深く俺はそう答える。
 カレー味のウンコとウンコ味のカレーと同レベルの選択肢だが、『俺が昨日まで男だったことを覚えている人間』と『俺が昨日まで男だったことを忘れてしまっている人間』のどっちがマシかを学校に着くまでの間に俺は俺なりに真剣に考えてみた。
 結論としては、『俺が昨日まで男だったことを忘れてしまっている人間』のがマシ。
 だって、現時点で俺は云い逃れが出来ないぐらい完全に女になっちまってるし、どうやったら元の身体に戻れるのか見当もつかない状態だ。なのに、お前どうしたんだとデカイ声で叫ばれたり、変態とか後ろ指をさされるぐらいなら、まだ最初っから女だって思われて放っとかれている方がマシな気がする。
 中には同情してくれる奴らもいるかもしれないけど、とにかく下手に覚えている奴らが多いと余計な騒ぎになって変な研究機関に拉致られたりするかもしれねーし(つーか古い映画や特撮モノみたいに捕らえられてモルモットに、ってのが今一番恐い)。
 そんな俺の心境を知ってか知らずか、寿樹は咽喉の奥で小さく笑うと俺が逃げた分だけ身を乗り出した。
 至近距離での囁きに、またほんのちょっと鳥肌が立つ。
「僕は覚えているけどね」
 うっわ、ほんとこいつむかつく。
 俺は裏拳を振り上げたが、寿樹はそれもあっさりと避けた。


 休み時間になっても、クラスメートの誰も俺を怪しむような気配はない。
 身構えていた分、いっそ拍子抜けなぐらいだった。
 それでもいまいち信用出来なくて睨むように教室を眺めている俺の横では、だらしない感じに机に肘を突いた寿樹が危機感のない顔をしている。
「ねぇ、そんな風にきょろきょろしている方がみんな変に思うんじゃない?」
 今にも欠伸が出そうな声。
 窓際の一番後ろは日当たりも良くて昼寝をするには最高だ(ちなみに俺と寿樹はこの特等席をくじに細工するというベタな不正行為によって毎回確保している)。本日も陽光を燦々と浴びた寿樹は早くもとろとろと夢見心地に溶けかかっていた。
 いつもの俺なら一緒になって寝ているとこだが、生憎と今日は頭がキンキンに覚めている。
「起きろよ、寿樹。マツたちのとこ行くぞ」
「ぐ〜ぐ〜」
 俺は寿樹の後頭部をひっぱたいた。
 面倒臭そうにというよりもただ単に眠そうに息を吐く。寿樹はじじ臭く「よいしょ」と呟くと立ち上がり、俺の後に続いて教室を出てきた。
 でも、よくよく考えてみたら別にこいつが一緒である必要はないんじゃん?
 俺がそう気が付いたのと、寿樹が俺の肩に手を回して前から来る生徒の為に道を開けさせたのは殆ど同時だった。おかげでぶつからずにすんだが、今の俺と長身の寿樹との身長差がカップル的に丁度良いものになっていることにまで気が付いてしまった。
 新たに発見したムカツキポイントに俺は顔を顰める。
 畜生、十三センチでも十分腹立たしかったのに、いったい今どんくらい差が開いてんだ?
は一人じゃ不安なんだよね」
 それは俺が身長差に気を取られる前まで考えていたことだ。
 見透かされたようなタイミングにびっくりして、俺は寿樹の手を振り払うことも忘れてその顔を振り仰ぐ。
 逆光気味ではっきりしなかったが、寿樹の口元には笑みが浮かんでいるように俺の目には映った。
 咄嗟に『ばっかじゃねぇ』って云おうとして言葉に詰まる。
 だって。
 多分、そうなんだ。
 わざわざ寿樹を連れて教室を出たのは。
 認めたくはないが、それでも今校内で俺が唯一頼れるのはこいつだけだ。
 いや、実際は頼りになるというより、俺を心の底から苛々させているだけだけど。
 情けなさに唇をぎゅっと噛む。
 人の話は聴かないし誰かに合わせようなんて考え微塵も持ってないくせに、何でこいつは他人の機微を察知する能力に長けているんだよ。
 それでも寿樹に弱みを見せたくなくて、俺は精一杯憮然とした顔を作ると乱暴に肩に置かれた手を払い除けた。
「何意味不明なこと云ってんの、お前。寝言は寝て云えよ、頭腐ってんじゃねえ?」
 俺は足取りも荒く、寿樹を見捨てて歩き出す。
 けど、くすくす笑っている寿樹の気配はちゃんとついてきている。眠たそうだったし、今度こそ一人で教室に戻るかと思ったのに。
「可愛いなあ、は」
 耳に忍び込んできたその笑いを含んだ声。俺は口の中で今度こそ「ばっかじゃねぇの」と呟いた。さっきっから何云ってんだ、コイツは。
 俺は可愛くなんかねえし、そもそもこういう場合は可愛くねーなだろ?


「マツ」
 教室に赴くまでもなく、マツは容易く見つかった。
 ちょうど俺も顔だけは知っている奴らと廊下で立ち話をしていたのだ。
 ちなみにマツの本名は小松でも松本でも何でもなく、柳川多助という。
 小学校低学年の時から坊主頭でマッチみたいな頭の形をしているからマッチ、それが変形していつのまにかマツになった。
 誰とは云わないがこの常人には理解不能のあだ名を付けたのは、俺の隣にいる馬鹿でノッポな宇宙人だ。マイブームだったのかなんなのか、一時期こいつは意味不明のあだ名を友人知人につけまくっていて、挙句無理矢理それを浸透させてしまった。俺は馬鹿げた呼び名を絶対許さなかったが、気のいい連中や気の弱い連中は中学にあがってからもその妙なあだ名を未だに引き摺っている。
 俺が声をかけると、マツは話を切り上げてこっちに来てくれた。ただし、何だか昨日よりもその顔がにやけているように見える。
「おーう、どしたー」
「あのさー、にーちゅのクリーム、今誰が持ってるの? 俺、借りてーんだけど」
「えっ!?」
 マツは目玉が飛び出そうなほど狼狽した。マンガみてーに一瞬びょんって飛び上がったほどだ(ちなみにクリームってのは制服系エロ本だ)。
 噴出す俺の視線の先で、どういう訳かマツは縋りつくような視線を寿樹に送る。
 その必死のサインに気付いているのかいないのか、全く思考の読めない顔でにこにこしながら寿樹はちょこっと首を曲げてみせた。
「すみません、後で僕がお仕置きしておくので軽く聞き流してあげてください」
「ああ? 何で俺がてめーにお仕置きされなきゃならねんだよ!」
 噛みつく俺を置き去りに、マツの方はあからさまにほっとした顔になった。「ちょっとごめん」と俺に断り、寿樹の腕を掴むと俺に背を向ける。
 何だよ、俺はハブかよ?
 むっとして二人の背中を睨んだものの、俺はすぐさまニヤリとする。そして、わざわざ一メートルほど距離をとった二人の方へと耳を澄ましてみた。
「お前何考えてんだよ、に変なこと吹き込むなよな」
 ほーらな、ざまあみろ。
 声を押さえたって無駄なんだよ、俺は耳が良いんだからな。小声だろうと、この距離なら余裕で聴こえるぜ。
「やだなぁ、別に僕が教えたわけじゃありませんよ」
「絶対嘘だ! お前が教えたんじゃないなら、なんでがクリームなんて知ってんだよ」
「さあ〜? 前世の記憶なんじゃないかな? の前世はスクール水着とセーラー服に憧れて、昼はシスター夜は看護婦として働いていたコスプレ好きな女の子だったんだよ、きっと」
「前世じゃなくてイメクラじゃねーか、それ。とにかく止めろよな、にそういうこと云わせていったい何が楽しいんだよ」
「強いてあげるならば日常会話では一生使用しないような淫靡な台詞を云わせた後にその意味を教えて羞恥心を抱かせることに成功した瞬間の顔?」
「お前はやっぱり変質者だ! お前のその醜く歪んだ暗黒世界に俺たち一般人を巻き込むな!」
 アホくさ。
 興味が失せて俺は二人の後姿から視線を逸らした。
 何気ない素振りを装い廊下を見回してみたが、俺を見て何か云っているような奴らはやっぱりいない。
 良かった。
 とりあえず安堵して、俺はひとつ溜息を吐くと歩き出した。マツ以外にも確認したい奴は沢山いる。
 階段を下りかかったところで、俺に追いついた寿樹が横に並ぶ。
「酷いよ、僕を置いて行くなんて」
「俺をハブって内緒話をしていた奴に酷いなんて云われるスジアイはねーな」
「何? ヤキモチ? 嬉しいけれど出来ればマツ君じゃなく女の子相手のときにして欲しいなぁ」
「だからキショいことゆうなっつってんだろ。その口自分で閉じられねえなら、こっから突き落として無理矢理黙らすぞ」
「遠慮しとくよ、いろいろと心残りが多すぎるもん」
「その手は何だエロジジイ!」
 尻に伸ばされた手のひらを俺は即座に払いのける。見せつけるようにその手をさすりながら、寿樹は芝居がかった仕草で切なげに溜息を漏らした。
「とりあえず次からはゲームソフト貸してとかにしてね。今の姿でエロ本貸してなんて云ったら、僕が君に羞恥プレイを強要している変態のように思われちゃうらしいから」
「それは俺の所為というより、お前の日頃の行いがモノをいってんじゃねーのか、この変態」
「うん、そうとも云うかもしれない」
 結局、俺は午前中の休み時間をフルに使って友達巡りの旅をした。
 けど、小学校からの付き合いの奴らですら、俺が昨日まで男だったということを覚えていなかった。
 誰も本当の俺を覚えていない。
 たった一人、寿樹を除いて。



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