「……はぁ」
 俺は溜息を吐いた。
 もう、午前中から数えて五十回は吐いている気がする。なんせ昼飯を喰っている最中にさえ口から勝手に零れていたのだから。
 溜息を吐くと幸せが逃げていくという話を聴いたことがあるが、生憎今朝起きた時点で俺は逃がすだけの幸せを失っている。
 どうしてだ?
 どうしてこんなことになっちゃったんだ?
 誰も俺を、本当の俺を覚えてない。
 寿樹以外誰も、だ。
 腹の立つ男だが、もし寿樹まで俺が昨日も一昨日も女だったと云っていたなら、俺は自分の記憶を信じることさえ出来ずにおかしくなっていたかもしれない。
 男だった俺はいったい何処に行ってしまったんだろう?
 どうしてみんなの記憶は改竄されてしまったんだろう?
 俺は肺の奥底から重たい息を吐き出した。
「こら」
 ぽこんと頭を叩かれる。
 机にへばりつけていた首をのろのろと擡げると蓑本安良木が立っていた。
 男のくせに女の名を持つ俺が云うのもなんだけど、安良木というのも相当変な名前だ。もちろん俺同様、こいつも本名なんだけど。
「さっきから溜息ばっかり。辛気臭いなぁ、いったいどうしたの?」
 百四十六センチしかない小さな身体で胸を張り、唇をわざとらしく尖らせている安良木ははっきり云ってかなり可愛い。鴉の羽のように真っ黒い髪はつやつやのさらさらだし、黒目がちの大きな目は吸い込まれそうに深い夜空の色をしている。
 それに、単に顔立ちが整っているだけじゃなく、何と云うか蓑本安良木には妙な引力があった。痒い云い方をすればどことなく神秘的な空気を纏っているというか、浮世離れした感じ(まあ、他の女子と違ってベタベタ群れたりキャーキャー喚いたりせず、平然とした顔で単独行動をとってたりするからそう感じるだけかもしれないけど)。
 淡白で頭の回転も速いから付き合いやすいし、恋愛感情とは違うけど俺は安良木のことが好きだ。
 だから、いつもなら安良木に構ってもらうのも嫌いじゃないんだけど、生憎今日はそんな元気はない。
 再び机に張り付くと俺は虚ろな調子で口を開く。
「ちょっと人生の路頭に迷ってまして…」
「ごめんなさい、それどこで笑えばいいのかしら? 残念だけどネタとしてはちょっと面白くないわねぇ」
 ネタ扱いされて俺はちょっと傷付く。
 もちろん安良木も俺が男だったことを忘れている。俺も覚えてない方がいいって思っていたんだから、これでいいはずなのにやっぱり何か切ない。
「いや、ネタじゃなくてさあ、マジに弱ってるんですけど…」
「はいはい、解ったから立って。次の五限、体育なんだから」
 アイタ〜、おもっくそ軽く流されちゃいましたよ〜。
 がくりと机に突っ伏した俺の腕を安良木が引っ張る。
「ほら、起きて。男子は今日自習だけど、女子の方はちゃんと授業あるのよ。私、須釜君にを連れて行くよう云われてるの、起きて」
「……どこに?」
「着替えに決まってるでしょ。、サボりそうだから女子更衣室まで連れて行くようにって頼まれたの」
「よし、行こう」
 俺は立ち上がった。
 そうだよな、俺って今女子なんじゃん?
 女子更衣室とか女子便入りたい放題じゃん?
 体育、男子と一緒で女子もC組と合同のはずだよな。C組の女ってレベル高いんだよなぁ、まずなんていっても金子貴子だろ、あと谷口玲奈に江草千夏も…って何ウキウキしてんだ、俺は!
 さっきまで人生の路頭に迷ってたんだろ、超悲壮感漂ってはずだろ!?
 女子更衣室でお手軽に浮上しちまう程度か、俺の十四年間は! 自分で云うのもなんだけど安っ!
 天国から地獄へと一人芝居状態な俺を、安良木がきょとんとした目で覗き込む。
「ねえ、本当に今日はどうしたの?」
「……いえ、何でもアリマセン」
 そう返事をしつつ、俺は邪な期待に胸を膨らませずにはいられなかった。安良木のブラウスの胸元に吸い寄せられそうになる視線をどうにか引っぺがす。
 嗚呼、ゴメンナサイ、俺、君の着替え見ないようにするよ。
 可能な限り出来るだけ。


 普通の女同士がどんなことを話しているのかいまいち解らんので、当り障りのない会話をしながら俺は安良木と廊下を歩いていた。
「あ、
「え?」
 何気なく呼びかけに振り返り、そこに立つ星川ナナを認めた瞬間俺の脳内で悲鳴が木魂した。
 星川はチア部のキャプテンをしている。同い年なのに変な云い方だが、キレイなお姉さん系というか、きりっとした美人だ。
 俺は密かに星川が好きだった。
 学校のサッカー部じゃなく、俺は近所のユースの方に所属している。なのに、星川はわざわざ試合の応援に来てくれて、それ以来よく話すようになった。
 向こうも俺に好意を持っていたといっても良いだろう、俺がよっぽど酷い勘違いをしていない限り。
 自分の迂闊さを呪う。流石に星川にだけは会う決心がつかなかったから、午前中はあれほど慎重に避けていたのに何こんなところでうっかり呼び止められてんだよ。生着替えに目が眩んで浮かれまくっいてたとしか思えん、俺のバカアホスケベ!
 やっべえ、どうしよう、星川も寿樹みたいに俺が男だったこと覚えてたら。
 いや、もちろん女だって認識されているのも嫌だけど、でも、男だった俺がスカートはいてる今のこの現実を星川に知られる方がもっと嫌だ。
「な、なに?」
 どぎまぎしてどもってしまった俺に、星川は首を傾げる。
「どしたの、?」
「なんでもねーよ、ええと、何、どしたの?」
 挙動不審な振舞いを見せた俺を星川は不思議そうに眺めている。けど、他の連中同様、俺を見つめる星川には気味悪がっているような素振りはない。
 安堵すると同時に、俺は今日一番がっかりしたような気持ちに襲われていた。
 覚えていないでくれと願ったはずなのに、俺は本当は星川には覚えていて欲しかったのかもしれない。
 本当の俺を覚えていて、でも、俺を気味悪がることなく、俺と一緒に驚いて嘆いて元に戻る方法を探して欲しかったのかもしれない。
 俺は奥歯をこっそり噛む。何だか自分が酷く女々しい気がして恥ずかしかった。
 星川はまだ不思議そうにぱちぱちと瞬きをしていたが、苦い思いを噛み殺しながら俺がもう一度促すと結局再び口を開く。
「いや、ただね、もスガ君にばっかくっついてないで、いい加減、ウチの部に来てくれないかなーって例によって勧誘したかっただけ。
 結局三年間フラレっぱなしだったけど、ぐらい運動神経よければ、最後の大会に間に合うからしぶとく悪足掻きしよっかなーって思ってたのね」
 ……何だ?
 どういう話になってんだよ?
 俺は帰宅部だったんだぜ?
 つーか俺男だしチア部になんか勧誘なんかされたことねぇっつーの。
「え〜ああ、うん、え〜と考えときます」
 顔の筋肉が痙攣しそうな俺はそれだけ云うのが精一杯だったのだが、どういう訳か星川は妙に含んだところのある笑いを零した。
「あーあ、でも駄目ねー。馬に蹴られたくないし」
「え? なぁに?」
 安良木が興味を示すと、星川はますます可笑しそうにちらりと俺を見た。
 何だ、と思う俺と目を合わせて、うふふ、とますます意味深な笑いを漏らす。
「さっきそこでスガ君に会ってね、最後くらいをウチに貸してよって云ったらね……今朝漸く僕のものになった、悪いけどもう一分一秒でも手放せそうにないからごめんね、って云われちゃった」
 一拍置いて、ぷちんと頭の中で音がした。
「……なっ…なんじゃそらー!」
 俺の絶叫に周りの奴らがびくっと振り返る。
「あらあら、真っ赤よー」
 怒りのあまり頬に血を上らせた俺を、思い切り見当違いの勘違いをした安良木がからかう。
「あのバカそんなことほざいたのか!?」
 俺の剣幕をこれまた勘違いしたらしい星川が、またもや「ウフフ」と嫌な笑い方をする。
「あれだけ一緒にいるんだもん、もうとっくなのかと思ってたらまだだったのねえ。そんなに照れなくてもいいじゃない、おめでとさーん」
 全然これっぽちもメデタクねぇよ!
 つうか何かスゲエ嫌な勘違いされてるぞ!
 俺は声も出せないくらい怖気を覚えているというのに、曇りのない心からの笑顔でぱちぱちと拍手を浴びせてくる星川の姿に俺はちょっと本気で泣きたくなった。
 畜生、冗談じゃねえぞ。
「あのアホどこだ!」
 が、星川が返事するより早く、俺は無駄にデケエ姿を廊下の先に発見した。
「あ、
 安良木の声を振り切り俺は寿樹に向かって駆け出した。
 走り出した直後は俺が避けなきゃならなかったが、すぐにモーセの十戒のごとく自動的に道が開けた。一様にみな頬を引き攣らせていることからその理由は明確だろう。自分でも何となく鬼の形相をしているのが解る。
 寿樹と話をしていた梨本もふとこっちを向くなり笑顔を凍りつかせた。寿樹の馬鹿は俺に背を向けている。梨本の表情の変化につられて振り返ったがもう遅い、俺はその膝裏を思い切り蹴り飛ばした。
 寿樹の身体ががくんと沈む。
 体勢の崩れたその顎目掛けて掌底を繰り出したが、またもや寸でのところで躱される。
 流石に焦った顔で慌てて寿樹は俺から数歩距離をとった。
「何、? どうしたの?」
「どうしたのじゃねぇ! 何星川にフカシこいてんだ! 何でお前はそう嘘ばっかなんだよ!」
 一瞬の間の後、寿樹は「ああ」と納得がいったとばかりに頷く。
 そうしてまた例によってにっこりと笑ってみせる。
「別にフカシでも嘘でもないでしょ? だって、はもう僕なしじゃやっていけない身体なんだし」
 すぐ後ろにいる梨本が何を想像したのか「えっ!?」と声を上げちょっと赤くなりやがった。
「なぁんだ、やっぱりさっきの反応は照れてただけで、はやっぱり須釜君の手で大人になっちゃったのね。おめでとう、お祝いに明日お赤飯のおむすび作ってくるわ」
 追いついてきた安良木が俺の心をさらに抉るようなことを云い出す。
「祝われるようなことは何ひとつ起こってねえ!」
 むしろ逆だ、呪われているとしか思えないことが朝から起こりまくりだっつーの!
 俺はスカートだということも忘れ、寿樹の延髄目掛けて足を振り上げた。
 だが、そもそも怒りのあまりメチャクチャな姿勢から放った蹴りだ。あっさりいなされた挙句、簡単に背中を取られて抱きすくめられてしまう。
 要するに、朝の二の舞。
「はぁぁなぁせぇよぉぉ〜〜!!」
「ほんとには可愛いねぇ…」
 寿樹はムカつくわ、己のアホさ加減も腹立たしいわで、ヒステリー気味に叫ぶ俺の頭に顎を乗せ、寿樹はわざとらしい溜息を吐く。
 俺は朝と同じに足を踏むという進歩のない作戦を遂行しようと視線を下げた。
 今度こそ力一杯踏んでやろうと狙いを定める俺の耳の真横で、寿樹は絵に描いたような猫撫で声で「」と俺の名を呼んだ。
 その低い声にまた勝手に肌が粟立った。
 寿樹は薄く笑いながら甘い毒のような声で囁く。
「ねえ、ちょっと考えてみてよ、。僕しかが男だったことを覚えている人間はいないんだよ。ならば当然、君は僕以外の誰にも自分の境遇を相談出来ないんじゃないのかな? でも、その僕さえいなかったらどうするの? いったいどうやって自分の過去を確認するの、他には誰も当てにはならないのに。
 それに、もし僕が口を滑らせて君が本当は男だったことを第三者に話してしまったりしたら、君は些か面倒なことになるんじゃない? ああ、けれどもちろん僕としても君を窮地に陥れるなんてことは非常に不本意だし、誰かにの秘密を口外するつもりなんてないから安心してくれていいよ。
 まあ、そんな感じにね、僕なしじゃやっていけないっていうのは、僕としてはあながち間違ったことは云っていないつもりだけどな〜」
 電池が切れたように、俺はぴたりと寿樹の腕の中でもがくことを諦めた。
「……てめえ、それって脅迫って云うんじゃねぇのか?」
「そう? 僕の辞書じゃ忠告ってことになってるけど?」
「てめえの星ならそうかもしれねえけど、地球じゃそう云わねえんだよ、この地球外エロ生命体」
 弛んだ腕を俺は乱暴に振りほどく。
 だが、憮然とした顔つきで安良木のもとに向かおうとしたところで腕を掴まれる。何だと睨むと、無駄に美声で下品な注意をしやがった。
「夢の花園だからってあんまり興奮しないようにね、女の子なんだから女の子の生着替え見て濡れたりしたらちょっと恥ずかしいよ」
 俺の膝蹴りは寿樹の股間にヒットせず、虚しく空を切っただけだった。


 夢の花園に到達したはずなのに、濡れるどころか俺は酷くガックリしていた。
 何か違う。
 俺が期待していた夢の花園とは何かが違う。なんつーか、無言でテキパキ着替えているのも、上半身ブラ一丁の姿のまま駅前でのナンパを自慢しあっているのも、何か違う。
 頼むからこの間のキスは駄菓子の味がしたとか報告するな、超貧乏くせーとかゲラゲラ笑うな。てゆうか、何がショックって、陸上部の爽やかカワイ子ちゃんのはずの江草千夏がそのよっちゃんイカキスの発言者だってことだよ……。
 やべえよ、今度田坂(現陸上部主将、前から江草と付き合っているんじゃないかと噂があったが事実だったようだ。どうやら家に常備しておくほどのよっちゃんイカフリークらしい)に会ったら俺噴出すよ、よっちゃんイカのCMが頭の中でエンドレスリピートだよ、畜生。
 あ〜しかし、何だかなぁ……。
 俺は制汗スプレーと奇声の飛び交う中、一人打ちひしがれていた。
「ねえ、本当にどうしたの、。具合でも悪いの?」
 横の安良木が心配そうに下から見上げてくる。俺は肌蹴た胸元へと向かいたがる視線を強引に顔の辺りに固定しつつ、力なく首を振った。
「いや、人の二面性とよっちゃんイカと白って意外と人気ねーんだなーってことについて思いを馳せてるだけだから気にしないでくれ」
「何云ってるか自分でちゃんと解ってる?」
「うお」
 え〜。
 断じて狙っていた訳ではない。
 首を振っている最中、学年ナンバーワン美少女と名高い金子貴子の生着替えが飛び込んできたのは偶々だ。
 何だ、結構胸ちいせえんだな、などと不埒な感想をコンマ一秒で抱いた俺と金子の目がかち合う。
 やべ、と焦ったが、でも今の俺は女なんだしと思い直す。とりあえず誤魔化し笑いを浮かべようとした俺を、金子はきっと睨むとつんと顎を逸らした。
 ……え…ええ〜なんでぇえぇぇ〜?
 学年ナンバーワン美少女に睨まれたことにショックを隠し切れない俺の隣で、安良木はくすくすと控えめな笑い声を立てている。
「…何だよ?」
「もう噂になってるのかしらねえ」
「だから何がだよ」
唇を尖らせて拗ねてみせると、悪戯っぽく笑いながら安良木がこっそり俺を手招いた。膝を曲げて耳を貸すと、思ってもみなかったことを教えてくれる。
「貴子ね、須釜君のこと好きなのよ、だからアナタに嫉妬してるの」
「はあぁっ!?」
 俺は慌てて口を塞ぎ、ボリュームを下げた。
「マジ? マジで? 金子ってそうだったの? 趣味ワリィ〜な〜、マジかよ〜」
「じゃ、アナタも趣味悪いってことね?」
 俺はそれを有らん限りのプライドを賭けて完膚無きまでに否定しようとして、だが、開きかけた口を閉ざすと鋭く辺りを見回した。
「どうしたの?」
 急に厳しい顔付きになった俺に安良木が首を傾げる。
 俺は耳を澄まして、事実だけを短く口にした。
「音がしてる」
「え?」
 音の発信源を求めて俺はきょろきょろと更衣室内を見回す。
 悪いが断じてスケベ心はない。実際、この時見たはずの大量の生着替えのことなんかこれっぽっちも覚えてない。
 絶え間なく飛び交っていた声がふと途切れた瞬間、俺の耳にするりと忍び込んできた音があった。こうして意識して聞き耳をたててみればもう間違いない。
 この場にそぐわない音がしてるんだよ。
 じーじーって感じの。ビデオとかカセットテープが回ってるようなさ。
 空耳や勘違いは在り得ない。
 だから、俺、本当に耳良いんだって。
 猫避けの超音波を置いている家の前通り過ぎるだけで頭痛がするぐらいでさ。
 神経を集中して音の出所を探る。やがて視線が定まった。
 あれか。
 部屋の隅、それだけ他のと違うボロいロッカーに俺はつかつかと歩み寄る。そこから音がしているのは確かだ。
 着替え途中の中途半端な姿でいきなりロッカー目指して突進していく俺を、他の女子も何事かと着替えを止めて注目し始める。
「どうしたの?」
 その問には答えず、俺は乱暴にロッカーを開けた。
 じーという音がより鮮明になる。
 中には汚いモップと箒が一本ずつ入っていた。俺は音に導かれるままその上へと目を向ける。
 ちょうど閉めたら扉に付いている換気口が目の前になりそうな上段部分、そこに置かれた十五センチ四方の物体。
 俺はそれを力任せに掴んだ。
 本体と、それからずるりと長いコードを無理やり引き出す。本体を手のひらで転がしてみる。余計なスイッチなどは一切見当たらない、一見するとカメラに見えない。だが、無機質な視線がこの部屋を覗いていたことに最早疑念の余地はない。
 直径一センチにも満たないレンズを俺は睨みつけた。
「小型カメラだ」
 俺の宣告に一瞬その場がしんとなる。
 だが半瞬後には更衣室は喧騒の坩堝と化していた。
 きゃーとかいやーっとかいう無意味な悲鳴の隙間、俺の耳は今度は壁の向こうからがたんという、椅子を蹴倒したような音を拾った。
 直感する。
 いるんだ、向こうに。
 コードが二本もついている。バッテリーなら一本で間に合うはずだ、なのにもう一本あるってことは録画するだけじゃなく向こうの部屋で生中継ごっこでもしてやがったんだ。
 騒ぎ立てる女子を残して廊下に出る。音のした隣が何の教室か俺は知らなかったが、ちらりと見た札には体育準備室と書かれていた。
 ノックもなしにドアノブを回す。
 がちんと鍵が鳴る。
 開かなかった。
 でも中からさらに何かを倒す音が聴こえ初める。
「おい! てめえそこにいんのか、盗撮犯!」
 がんがんドアを蹴りつけ、ドアを揺さ振ると中の音もそれに比例して余計に激しくなる。がしゃがしゃと棚を引き倒すような激しい音も聴こえ始め、それである可能性に気付く。俺は急いで女子更衣室に取って返した。
「おい、退け!」
 役に立たない女どもを掻き分けている途中で隣からがらがらと盛大にアルミサッシの開く音がする。予想通りの展開に俺は舌打ちをして、ようやく辿り着いた窓へと手を伸ばす。
 すっかり硬くなっている鍵を押し上げ、すべりの悪い窓を開けると大量の埃が舞い上がる。
、やめて!」
 安良木の制止の声を無視して、俺は懸垂の要領で身体を引き上げ、窓から身を乗り出す。
 いた。
 窓の下を通り過ぎる、まさにその瞬間だった。
 考えるより先に俺の身体は動いていた。
「テメエ、待てよ!」
 外壁に両手を突き、狭い窓から身を押し出すようにして俺は男に飛びかかる。
 俺に飛びつかれた男の身体が僅かに傾ぐ。
 男が首だけ振り返る。間近に見たそいつの顔はベレー帽にサングラス、やけにデカイマスクで覆われていた。その時代錯誤っぷりに笑っている場合じゃないのに一瞬笑いそうになる。
 でも、それだけだった。
 確かにガタイのいいオッサンだったが、それにしたって飛びかかったというのに本当に数歩たたらを踏ませることしか俺には叶わなかった。
 次の瞬間にはいとも容易く片手で振り払われちまったんだから。
 空を切っていることを理解する間もなく、衝撃を受けて息が詰まる。直後に短く落下して今度は地面に激突。ボールみたいに側頭部がバウンドする。星が見えそうな痛みに俺は顔を顰めた。
 転がっている無様な自分が嫌で俺は肘を突き強引に上半身を起こすと、最初に衝突した元は白かったであろう薄汚い壁に背を預ける。
、大丈夫!?」
 頭上から安良木の泣きそうな声がする。
 それは聴こえていたけれど、俺が返事をすることはなかった。
 俺には別の音しか聴こえちゃいなかったんだ。
 走り去るクソヤローの足音しか。
 身体が痺れたように動かない。力が入らない。妙に息苦しい。最初に打ち付けた背中や後頭部がじんじんする。
 視線の先で男の背中はどんどん遠くなっていく。
 げほっと無理矢理息を吐き出す。透明な石が詰まっているようだったが、そうすることで胸への圧迫感が少しは薄れた。
 ……別にさぁ、俺は正義感ぶって飛び出したわけじゃねぇよ。覗きなんて最低です、とかそんな清く正しく明るい大義名分振りかざすつもりなんて毛頭なくて、ただ何となくその場のノリで、ってのが正直なところだ。
 だから別にいいんだよ、逃がしちまったってさぁ。
 恨みがあるわけでもねえし、捕まえなきゃならねぇ責任が俺にあるわけでもねえし。
 でもなぁ。
 むかつくんじゃねえの、コレ。
 何だよ、この状況は。何吹っ飛ばされたりしてんだよ俺、だっせえ。男の時にはありえねえよ。ああ、男だったら余裕だったよ、あんなオッサン。
 俺は頭を振ってみた。大丈夫だ、眩暈とかはない。
 やっぱ冗談じゃねぇ。
 冗談じゃねぇぞ。
 これだから女の身体は。
 俺はのろのろと立ち上がった。どうにも上手く身体が動かない。震えている腿を一発殴ると俺は顔を上げた。
 思い切り肺に酸素を吸い込む。
「駄目よやめて!」
 俺の意図に気付いた安良木が悲鳴のような声を上げる。
 走り去る背中を捉えると俺はよろめきながらも駆け出した。




「て…っめえ!」
 足が縺れて何度も転びそうになったが、無理矢理走っている間にどうにか全身の痺れは治まった。
 おかげで足の回転率は上がったが、最初に遅れをとった所為で未だ追いつけずにいる。
 おまけにクソ長い髪はばたばたと風に靡いてやたらと重い。はっきり云って滅茶苦茶邪魔だ。これがなければもうちょっとスピードが上がる気さえする。
「待てやコラァ!」
 女子更衣室が校舎の端の方にあった為、盗撮犯が脱出するには校舎の間を突っ切るしかない。けれど、チャイムが鳴り終わったばかりだから、みんな教室に入ってしまっていて盗撮犯の障害物になるようなものはない。
 校門の外に出られたら厄介だ。でも、このままじゃ校門前で追いつけるか微妙だった。
 疾走しながら俺は心中舌打ちする。
 どうする、と焦りが生まれたその時。
 これはラッキーだったと云って良いのかどうなのか。
 校舎の真ん中に設けられた、壁のない一階渡り廊下に、にゅっと背の高い影が現れたのだ。
 俺はそれに向かって殆ど無意識に叫んでいた。
「寿樹止めろ!」
 現れた三人は一様にぎょっとしたように立ち止まった。
 にーちゅ(注・西沢忠司、寿樹命名)とマックスエイティー(注・小早川義春、小学校の時最高で八十キロまで太っていたということから寿樹命名)がビデオデッキを運ぶ中、どう見たって一番背が高くて一番力のありそうな寿樹の手にはビデオテープが一本あるだけ。
 ああ、そういう奴だよな、お前って奴は。
「寿樹!」
 寿樹は俺達を見て目を丸くしたが、すぐに俺の意図を察してテープを持ったままこっちに向き直る。
 盗撮犯の足が鈍った、そう思った瞬間、奴はフルブレーキングで急停止すると反転して俺に向かって突進してきやがった。
 どうせ男の寿樹より、女の俺のが御し易いとかセコイこと考えたんだろう。実際さっきは容易く吹っ飛ばされちまったし。
 にーちゅが「危ない!」とか何とか叫んだ気がするけど、いい具合にブチ切れてる俺はその方向転換が嬉しくて仕方ない。
 その卑劣ぶりに拍手喝采万歳三唱だよ、願ったり叶ったりだ。
 上等だよ、バーカ。
 スピードを殺さないようにしつつ、正確に奴との距離を測る。
「退け!」
 マスクの奥からくぐもった獰猛な恫喝が放たれる。
「退くかよ!」
 叫ぶと同時に俺は踏み切った。
 空中で身体を縦に捻る。
 力がないなら。
 勢いつけて叩きつけるまでだ。


 ベレー帽目掛けて振り落とした踵から、ごつっという鈍い音と共に一気に足の先から衝撃が骨を貫く。
 ちゃんと足から着地したものの、勢いの残滓に踊らされて数歩たたらを踏む。
 よろけつつもとにかく振り返ると、声を上げることも出来なかった盗撮犯は仰向けで倒れていた。
 膝に手を突き、荒い呼吸を整えながら俺は声もなく笑う。
 みっともなく弛緩した様に溜飲が下がる思いだった。
 ざまーみろ。
 ついでだ、額に肉でも書いたろか?
「無茶するなぁ」
 学ランのボタンを外しながら、とろとろとちっとも緊迫感のない足取りで寿樹が近寄ってくる。
「無茶じゃねぇよ、胴廻しだ」
 切れ切れの呼吸を押し殺しながらそう云い返すと、「胴廻し回転蹴りなのは解ってるよ、そういう意味じゃない」と寿樹は呆れた顔で学ランから自身の腕を抜く。そして何を思ったか、脱いだそれを俺の肩へと着せ掛けた。
 うっわ、何だコレ、超でっけえ。女の俺じゃあ肩が全然余りまくってるし、丈も尻どころか腿まで隠れるし。
 畜生、新手の嫌がらせか、この野郎。
 むっとした俺が脱いで突っ返すより先に、寿樹は勝手にボタンをどんどん留めていってしまう。もがもがと学ランの中で腕を移動させ袖を通すと、俺は寿樹が留めたばかりのボタンを外してやろうと手を伸ばす。
「ほんとに何てカッコしてるのさ、君は」
「う」
 るせえ、と云おうとして、俺ははっとなる。
 ……そういえば、俺、着替えの途中だったん、だよ、な。
 下は短パン穿き終えていたけど、上はブラウスのボタンをちょうど外している最中だった。スカートを脱いだ時にちゃんと履かずに踵を踏ん潰していた所為か、廊下に出た時までは確かに履いていたはずの上履きがどっかいっちまっている。恐ろしくてタンスを開けられなかったから靴下をはかずに家を出た。つまり足元は完全なる裸足。
 ということは…また……俺はやっちまったのか?
 Tシャツにパンツ一丁に続いて、今度は朝想像したエロ本モデルとほぼ同じ格好で校内を疾走していたらしい。
 …………ぐわぁ〜〜〜、俺のアホ〜〜〜!
 家ならまだしも外で何やってんだ、俺は。
 頭を抱えた俺の葛藤なんて露知らず、寿樹はふらりと盗撮犯に近付くと爪先で突っつく。
「あれ? これひょっとして重田先生じゃない?」
「えっ!?」
 羞恥なんて一瞬で吹き飛ばし、俺は慌てて寿樹の横に並ぶと盗撮犯の顔を覗き込んだ。
 サングラスが外れマスクが半分ずれたその素顔、何よりベレー帽の下から露わになった物悲しいバーコードヘアーは見間違えようがない。
 俺はごくりと唾を飲み込んだ。
 おいおい、ドッキリじゃねえだろな。
 俺が追いかけ退治した盗撮犯の正体が「貴様ら外周十周だ!」が口癖の罰則大好き鬼体育教師・重田だなんて。
「……マジかよ」
、どうして追いかけてたの?」
「女子更衣室にカメラがあった、ちっせえヤツ。多分壁一枚隔てただけの向こうの映像見ながらハアハアしてたんじゃねぇの、俺がそのカメラ引きずり出してやったら直後に隣の部屋でがたんて何か倒した音がした。んで、犯人だって思ったから、出て来いってドアガンガンやったら外に逃げた、だから追いかけた」
「ふぅん…これまでも自習結構多かったよね。当然の帰結として自習の度に今日と同じことをしていたと考えられるから、ほぼ間違いなく余罪がありそうだよね〜」
 口を半開きにして気絶した、最早社会的抹殺は免れないだろうオッサンの脇に寿樹がしゃがみ込む。
 何をするのかと思ったら、おもむろに寿樹はシャツの胸ポケットからマジックを取り出した。
「えい。そんな悪いことするような人には肉って書いちゃうぞ」
 俺が止める間もなく、寿樹はほんとに額に『肉』と書いてしまう。
 ……いや、俺も思ったよ、書いてやろうかって。
 けど、思いはしたが、俺は思っただけで誓って本気でやるつもりなんてこれっぽっちもなかったんだよ。
「ついでだ、バロン閣下にして差し上げよう。ぱぱらぱっぱっぱ〜、シゲタは品格が一上がった、威厳が百下がった」
 おまけにフザケタ具合にカールしたヒゲも描いてるし。
 オイオイ、忌々しき事態に青褪めて駆けつけてきた人たちが噴出しちゃうだろが、そんなバーコードハゲに肉とかヒゲとか書いてあったら。
 お前は現場を台無しにするつもりか、この野郎。
 袖を捲りながら俺が笑うのを堪えていると、寿樹はやおら立ち上がり右膝を後ろに引く。
 それはまったくごく自然な動作だった。
 が、次の瞬間、空を裂いてその爪先は鋭く重田の脇腹を抉った。
 気絶したまま重田はがふっと呻き、口の端から泡を零しつつより深く昏倒する。
 既に気を失っている人間にそこまでするとは予想していなかった俺は、思わず手を止めて凍りつく。
「さ、これで警察が来るまでオネンネしてくれてると思うよ〜。縛るのなんて面倒臭いもんね、まさぐって楽しい身体をしている訳でもないし、むしろ臭そうだから触りたくないし〜」
 十センチ近く巨体を浮かせるほど容赦ない蹴りを喰らわせといて、直後に平然と笑える寿樹は本当に本気で危ないと思う。こいつに比べたら俺なんかマジで常識人だよな。
 再び袖を捲くりながらも、俺は深い溜息を零す。
 己の不徳が招いたこととはいえ、ちょっぴり重田に同情したい気分だ。あーあ…白目剥いちゃってるよ、口半開きで泡吹いておまけに肉とヒゲ。ここに現れたのが寿樹でなかったら、せめてここまで醜態晒すこともなかっただろうに。
 それから金子貴子にも心からの忠告を送りたい。奴の上辺に騙されているととんでもない目に遭うぞ、って。
 須釜寿樹は我々の理解の範疇を遥かに超えた宇宙人なんだから。
「ねえ、
「何だよ」
 やっと両袖を折り終わり、邪魔くせえ長い髪を掻き揚げていたら名を呼ばれた。
 いつものように投げ遣りに振り仰いで、今日に限ってその先に浮かんでいた表情に俺は声に詰まる。
「…なんだよ」
 寿樹の顔を見たら俺は思わず口調を緩めて問い直してしまっていた。
 あんまりにも痛いぐらいに寿樹が哀しそうな顔をしていたから。
「僕のいないところで無茶なことはしないでよ、心配だから」
 そう云って苦く笑う。
 盗撮犯をぶっ倒したんだ、むしろ誉められて然るべき行為のはずだ。なのに、寿樹の顔を見た途端、何だかとても悪いことをしてしまったような気がした。
 いつもなら憎まれ口を云い合ってそれで終わりだろ、それなのになんでそんな顔すんだよ。
 何か言葉を口に乗せようとして、でも何を云ったら良いのか思い浮かばない。俺はどう対処すればいいのか解らず、結局口を噤むとうやむやにひとつ頷いてみせた。
 選択の余地がなくて黙るしかなかった俺へと寿樹は手を伸ばす。朝のチチ握りという前科があるというのに、どうにも避ける気にもなれず突っ立ったままでいると、乱れた髪を撫で付け、絡んだ埃を丁寧に取り除いてくれる。
 まったくもって宇宙人の思考回路は理解不能だ。
 別にこれぐらいのことこれまでだってしてきたし、もっとヤバイ連中に囲まれたことだってある。それに、朝は俺のこの変化には心配する素振りを微塵も見せなかったのに、どうしてこれしきのことでそんなふうに思い詰めたような表情を浮かべてみせるのか。
、怪我は?」
 髪の次は顔に向かって手が伸びてきた。大きな手のひらで俺の頬に触れると何かを拭う。
「ないよ」
 俺はつっぱねるように即答した。
 気味が悪いぐらいに優しい口調と笑顔で尋ねられて、しかもそれに普段こいつが女相手にやってるような演技っぽさがないもんだから、俺はますます自分のペースを乱されていくような気がする。
 こいつの魂胆が見透かせなくて、気持ち悪いし居心地が悪い。
 頬を擽る指を顔を振ることで俺が追い払ってしまうと、寿樹は今度は俺の足元に急に跪いた。
 何をするのかと思ったら、汚れた俺の脚を手に取る。いきなり足首を掴まれた俺は仰向けに転倒しそうになって、慌てて重心を前に傾け寿樹の背中に手をついた。
「おっまえ、危ないだろが!」
「どうして正直に云わないの? ああ、それとも鈍いだけなのかな? 結構酷いなあ、これ…まあ、裸足であんなに全力疾走なんてしたら、こうなるのも当然だよね」
 いつもは拝むことのない頭頂部を無防備に俺に晒しながら、俺の下で寿樹が溜息を吐く。
 そう云われれば……。
 俺は寿樹の肩に手を置いて身体を真っ直ぐに正すと、踵を浮かせて足の裏を覗き込んでみた。
 見ると同時に眉が歪む。
 途端に痛くなった気がしたからだ。
 土踏まずを除いて足裏全体に小石が喰い込んでいるし、特にダッシュする時体重を乗せる部分は石が皮膚を突き破って皮下にめり込んでしまっている。
「とりあえず保健室行こうか。重田先生は当分起きないし、にーちゅ君に他の先生呼ぶように頼んどいたからいい加減そろそろ来ると思うし。まったく、君はほんとに仕方がない子だなあ」
「こ」
 ども扱いすんな、中学生の皮を被ったエロジジイ、って云おうと思ったのに。
「うわわわわわ!!」
 俺の口から発されたのは情けない悲鳴だった。
 脚が空を掻き、身体全体が重力に逆らう。
 寿樹が俺を横抱きにしやがったんだよ。
 畜生、最悪だ、いわゆるお姫様抱っこってヤツだよ、くそっ。
「色っぽくない声だなぁ」
「降ろせ!」
「駄目〜」
 寿樹が「よいしょ」というジジ臭い掛け声と共に俺を抱え直す。一瞬だけ俺の身体は何も掴まるもののない空中へと投げ出される。
 本能的な落下の恐怖に思わず女みたいに身を摺り寄せた俺を、寿樹はニヤリと笑って見下ろした。
 ……こいつ、解っててやりやがったな。
 俺は拳を握った。口で云っても解らないなら身体に解らせるべきだろう。この態勢と距離なら外しようがない、朝からの恨みも込めて思い切り強烈なのをお見舞いしてやる。
 だが、前方に視線を戻した寿樹が独り言のように語りだしたその内容に、俺は発射まで秒読み段階だった拳を引っ込めない訳にはいかなかった。
「今僕が攻撃を受けたりしたら、誰かさんも酷い目に遭っちゃうから大変だよね〜。もしも殴られた拍子に手が滑っちゃったりしたら、約一メートル五十センチの高さから背中から落下だもん。受身を取り損ねたら結構拙いことになるかもね〜。でもまあ僕の方は十分気を付けてるから、うっかり手を離すなんて過失を僕からは絶対起こしたりしないので安心してね、
「…あとで覚えてろよこのウスラトンカチ」
 顔面の筋肉がぴくぴくしそうな俺とは対照的に、寿樹は何がそんなに嬉しいのか非常に楽しそうだ。
 畜生、俺なんか今日は朝から最低なことばっかなのに。俺よりよっぽどコイツの方が人類として有害なくせにへらへらしやがって。
 死ね、この野郎。
 ただし俺を巻き添えにしないで世界の果てでひっそりと死んでこい。
 一頻り胸の中で毒づくと、何だか俺は全部が全部面倒臭くなってきてしまった。面倒臭いというか、不幸過ぎてあれこれ考えるのも馬鹿馬鹿しくなってきたというか、腹を立てることにすら疲れてしまった。
 息を吐き出すと、目を瞑り寿樹の肩へと身体を寄り掛からせてみる。
 実はさっきから足がかなり痛い。
 頭に血が上っている間は相手をぶっ倒すまで痛みなんか全然関係なくなっているけど、我に返った時には結構痛みに弱いんだよな、俺って。
 だから、正直云うと寿樹が運んでくれるのは凄いありがたい。
 運ばれ方は納得行かない姫抱っこだが、非常に楽ちんなんだよなあ。こうしているだけでもちくちく針が突き刺さるように痛いのに、歩いたりしたら一歩踏み出すその度に余計に石が喰い込んでくるだろ、そんなの想像するだけで痛いじゃん。
 しかし、そうは云っても、寿樹相手じゃ感謝と反発が背中併せなもんだから素直に礼を口に出来ないけどな。
「ずいぶんサービス良いじゃねぇか。男の時は肩さえ貸さなかったのによ」
 目を閉じたまま俺が憎まれ口を叩くと、寿樹の胸板が揺れて直に笑う気配が伝わってきた。
「僕は紳士ですから。困っている美しい女性を放ってはおけません」
「紳士っーのはいつから異常者を指す言葉になったんだ、この変態」
 また振動が伝わってくる。何か面白いな、これ。
 あ。
 微かな音に俺は耳を澄ませてみる。慌しい複数の足音。やっと到着か。
 俺は寿樹の胸を軽く叩いた。
「寿樹、やっと先生たち来たみたいだぞ。面倒くせえから俺寝た振りしてるから、お前適当に云っといてよ」
「了解」
 寿樹は保健室に向かいかけていた足を止め、わざわざ少し引き返す。ほんの微かな縦揺れを感じた。さっき寿樹たちが丁度出てきた渡り廊下の、二段分の短い階段を上ったんだろう。
 ここからだと校内を通るより、外から直接回った方が保健室は近かったんだけど仕方ない。
 もう片が付いたことをいちいち大人に説明すんのは本当に面倒だ。ばっくれたいが今回は流石に無理だろう、事が事だし。だったらさっさとすませた方がいい(って云っても俺は寝た振りしてるから、説明すんのは寿樹だけどさ)。
「須釜!」
 寿樹が校舎に入るのと殆ど同時に、まるで待ち構えていたみたいに声がかけられる。
 この声は学年主任の渡辺だな。
「変な男が追いかけて校内に侵入したって、け、警察には連絡したが、そ、そのぐったりしてるのはか、ま、なに、まさ、その」
 おいおい、ちょっとは落ち着けよ、渡辺。国語教師のくせに日本語おかしいぞ。
「あ! 渡辺先生あそこに!」
 どうやら外を覗いたらしい渡辺じゃない誰かの声(この声は俺誰だか解らん)。
「あそこに倒れているのが盗撮犯もとい重田先生です」
「えっ!?」
 面倒臭いから狸寝入りをしようと思っていたのに、そのあまりの音量につい顔を顰めそうになる。まあ、素っ頓狂な声を上げてしまう気持ちは痛いほど解るが。
「す、須釜、馬鹿なこと云っちゃあいかんよ、ど、どうして重田君がそんな」
「ええ、僕も信じられません。重田先生は決して私情を挟まず、それでいて礼節を失うことなく、厳しい姿勢で僕ら生徒に臨まれる非常に尊敬出来る先生でしたから」
 ……本当にこいつはどういう舌の構造してるんだ。
 よく云うよ、厳しいってとこ以外全部反対じゃねぇか。自分が苛々してりゃあ平気で生徒に当り散らすわ、口汚く罵るわ、嫌悪こそすれ、重田を尊敬していた生徒がいるとは到底思えん。
「けれど、あれは間違いなく重田先生です。さすがの彼女もショックだったようで、気を失ってしまったのですが、僕がさんに聴いた話では」
 さっき俺が話した内容を、寿樹がもっと丁寧で簡潔な言葉で語っていく。
 俺は心の中で欠伸を漏らした。あとはもう放っとけば寿樹が事を収めてくれるだろう、俺と違って弁が立つしこういうのが得意な奴だから。
 本当に欠伸が出そうになって、寸でのところで噛み殺す。
 危ない危ないと思いつつ、俺はどんどんとろとろと眠りの淵に引きずり込まれていく自分を止められなかった。
 だって温かいんだもん、寿樹が。
 うとうとしながら、人の体温って結構気持ちいいんだなぁ、って思う。
 そういや、体温が伝わるほどの距離で人と触れ合うのなんか何年ぶりだろう?
 一丁前に親離れしてから、こんな風に人肌に触れることなんかなかったからなぁ。俺、彼女いなかったし……。
「あれ、本当に寝ちゃったの、?」
 その声と振動に、いつのまにか本当に自分が寝てしまっていたことと、いつのまにか寿樹が移動を再開していたことを知る。
 一瞬、返事をしようか迷ったが、例え数分でも惰眠を貪ることを選択した。
 朝からずっと緊張しっぱなしだし、いつもは寝ている授業中にもとてもじゃないが昼寝なんか出来なかった。何だか一気に眠気が押し寄せてきている感じで、目を開けられそうにない。
? ハニーちゃーん?」
 ハニーちゃんとは、例によってこの珍名ジジイが昔俺につけた呼び名だ。
 命名の理由。
 蜂蜜みたいに甘そうな髪の色だから。
 本当にもう、こいつのネーミングセンスはどうかしてるんだ。
 俺はマックスエイティーほど寛容じゃないので、絶対呼ばせねーけど。
 呼ぶ度にマジにガチンコの殴り合いにまで発展させたから、それでやっと呼ばなくなった。
 そこまでやらなきゃ解らないほど、学習機能もこいつは壊れているらしい。
 ただし、俺はこの時酷く疲れてあまりにも眠かった為に、今回に限ってはこのまま寝た振りをして勘弁してやろうと思った。
 次の一言がなければ。
「あーあ。可愛い寝顔しちゃって。
 それにしても、ここまで上手く行くとは思わなかったなぁ。
 まさか本当に女の子になっちゃうなんて」




 俺はばちっと目を見開いた。
 眠気なんて一瞬で吹き飛んだ。
 驚愕のあまりまつげが震える様までも、不思議なことにこの時は感じ取れた。一気に口の中が干乾びてからからになって上手く舌が回らない。
「おい、寿樹……どういう意味だよ、今の…?」
「あれ、起きてたの? やだなあ、嘘寝?」
「答えろよ!」
 寿樹は相変わらず笑っていた。
「昨日、河原でね、おかしな人に会ったんだ。男なのか女なのかも良く解らないような。どうも記憶が曖昧でよく思い出せないんだけど、悪魔ってこんな感じかなって思った」
「その先を云え!」
「何か願いごとを叶えてやろうって云うんだ、その人が。
 だから僕は頼んでみたんだ、『を女にしてくれ』って」
 昨日のドラマのあらすじを語るような調子で寿樹は喋っている。
 俺は寿樹のその横顔を見詰めながらただ呆然とするばかりだった。
「明日には女になってる、って云うから、だから僕は今朝を迎えに行ったんだ。そうしたら本当に女の子になっちゃってるから、びっくりするやら嬉しいやら」
「……冗談だろ?」
 それだけ云うのがやっとだった。
 だって、冗談だとしか思えない。だってだって、一体どうやったらそんなどこの誰かも解らない奴に頼んだぐらいで性別を変えるようなことが可能だっていうんだよ?
 在り得ない。
 そんな話は在り得ない。
 こいつはまた嘘を吐いている。俺を騙そうとしている。
「嘘だ、そんなの」
 なのに、寿樹は俺の悲痛な声なんて全然聴こえていないみたいに、あっけらかんと満面の笑顔で云い放つ。
「嘘じゃないよ」
 俺はぐいっと寿樹の胸を突き放し、身を捩って寿樹の腕から逃れた。寿樹もそれを拒まず、むしろ俺がきちんと足から着地出来るよう助けた。
 誰もいない廊下は電気が消えていて、少し薄暗い。寿樹の背後には長い廊下が伸びている。
 俺は長方形の空間で笑顔を絶やさない寿樹と対峙した。
「……嘘だ」
「嘘じゃないよ」
「嘘だ。だって、どうやったら願うだけで俺が女になるって云うんだ」
「でも現には女の子になったよ」
 俺は言葉に詰まる。
 寿樹が一歩俺に近付いた。
「何故そんなにも嘘だと思うの? 願うだけで女の子になるのがそんなに変? でもたった一晩で君の身体を作り変え、僕たち以外の記憶を改竄するなんて不条理な現象、むしろ願いみたいに不可視で不安定なもの以外で説明出来ないんじゃないの?」
 誰も居ない廊下に寿樹の声はよく響いた。
 逃げるように俯いて唇を噛んだ俺の頬に寿樹が手を伸ばす。冷たい指がゆっくりと強引に顎を上向けさせる。
「一体どうやって君の身体を作り変えたのかは僕にも解らない。一般化や数値化が困難な神秘現象を無条件に信じることが出来ないのは人の心理として当然のことだと思うよ、僕だってこの目で見るまで疑っていたんだから。でもね、もしそれがもう確かに存在する事実であるならば、あえて言葉を尽くす必要はないんじゃないのかな」
 目が合う。
 寿樹はやっぱり笑っていた。
 詭弁だと思いつつも惑わされる。可能か不可能かの議論は寿樹の云う通り無意味なことなのかもしれないと心が傾く。実際に俺は女になってしまっているのだから。
 本当にこれは寿樹が願った所為なのだろうか?
 けれど、祈ることでこんな理不尽な変化が叶うのなら、戦争や飢饉が未だに起こったりするわけがない。願うだけで望みが叶うなんてこと、やっぱりある訳がない。そんな都合の良いことがまかり通るのはおとぎ話か妄想の世界だけだ。
「何故僕だけ君が男だったことを覚えているのか、それは僕がそう望んだからだよ。僕だけが君と秘密を共有するように、それが願いの一部だったから。
 君は僕が願ったから女の子になった」
 なのに、寿樹はまるで俺に云い聞かせるように繰り返す。
 本当に寿樹の所為なのだろうか。
 寿樹が願ったことが、この変化の原因なのだろうか。
「………ん、で…」
 胸がじりじりと焦げ付いているようで気持ち悪い。
 解らない。俺は寿樹の云っていることが真実なのか判断できない、そんなの信じろという方が無理だ。無理だけど、俺には自分の身体という動かし難い証拠があるが故に頭から否定することも出来ない。
 混乱の渦の中、それでも俺は声を絞り出して口にしていた。
 寿樹がそれを望んだというのなら、最大の疑問となることを。
「なんで、そんなこと」
 俺を女にするなんてこと、寿樹が願うのか。
 幼馴染で十年以上一緒に居て、一番傍で楽しいことや悪いことや危ないことをして、サッカーでも最高のチームメイトだった。
 そして、多分親友だった。
 それがどうして女になんかしたがるんだ? 何故? 何の目的で?
 寿樹が笑う。
 嗤った。
 俺の目にはその顔がとても嬉しそうに映った。
「君のことが好きだから」
 嘘だ。
 頭の芯が氷のように冷たくなった。
 周囲では相変わらず混迷が渦巻いていたけれど、俺の立つ場所だけはぽっかりと嵐が止んでいるような気分に包まれる。
 自分は今酷く屈辱的な扱いを受けている気がした。
 これまでの人生で最も不当な扱いを受けていると感じた。
 こいつは嘘吐きだ。
 好き? 俺を? 笑わせるな。
 どこをどうしたらそうなる? 好きならこんな酷い真似出来ないだろ、勝手に人のこと滅茶苦茶にしてとんだ裏切りじゃねぇか。こいつにとっちゃ俺なんてどうでもいい、そういうことだろ?
 強張った手のひらを握り込む。
 俺は緩慢に腕を振りかぶった。
 
 この嘘吐きめ。
 
 寿樹は俺の拳を避けなかった。
!」
 別に安良木の声に躊躇った訳じゃない、そうじゃなくて興奮して頭に血が上っていた所為で上手く殴れなかっただけだ。
 俺は無様にもよろけてよりによって拳を振るった相手の胸へと転がり込む。
! どうしたの、アナタ今」
 走り寄る安良木の足音が寿樹の肩越しに耳を打つ。俺は突き飛ばすように寿樹の身体を押しやって身を起こす。
「なんでもねえよ」
 長身の寿樹を回りこんで現れた小柄な安良木からも顔を背ける。みっともない面をしていそうで、顔を見られたくなかった。
 寿樹に向かって何かを云いかけたその腕を強引に掴むと、俺は引き摺るように歩き出す。乱暴に移動を促した所為で胸に抱えた何かを落としそうになっていたが、それでも俺は逃げるように足を止めない。
「ねえ…ねえ、ってば。大丈夫なの? 怪我は? 酷いことされなかった?」
 安良木の心配そうな声にも俺はろくな返事も出来なかった。イエスともノーとも受け取れる曖昧な相槌をおざなりに返す。
 振り切るような荒々しさで歩んでいるのに、寿樹は俺の後を追ってきていた。気配でそれが解る。ますます俺の苛立ちは募った。
 踏み躙るような足取りで辿り着いた保健室、そのドアをノックもなしに俺は開く。
 持て余す感情をぶつけるように部屋を睨みまわしてみたが、人の気配はまったくなかった。安良木の腕を解放すると、俺は勝手に中に入る。空気の動きに合わせて独特の臭いが鼻を掠めていく。
「先生、いらっしゃらないようね」
「ああ」
、そこに座って。まずは足を洗わなきゃ」
 俺は二番目の声を無視した。
 自分の足で作り付けの流しに近付くと、傍においてあったプラスチックのバケツに水を張っていく。
「ねえ、、私アナタの着替え持ってきたんだけど」
 安良木のその言葉に、俺は漸く自分の格好を思い出した。ブラウスと短パンの上に、寿樹の学ランを羽織っただけだ。
 自分の身体を見下ろすと、肌蹴たブラウスから覗く白い乳房が映った。
「着替えた方がいいんじゃないかしら。あのね、私先生にに服を届けるからって教室を抜けてきたんだけど、空知先生、みんなが落ち着いたら自分も行くからって云ってた。これ、水が溜まったらそこのベッドまで運んであげるから、その間に着替えてちゃんとした方がいいわ」
 俺は頷くと背後を振り返った。当然視界に寿樹が入ったが黙殺する。ベッドの上に着替えらしきものを発見し、そちらに向かって足を運ぶ。
 歩きながら脱いだ上着を、俺は殴りつけるような強さで寿樹の胸に押し付けた。
 そのまま一度も目を合わせずに通り過ぎ、俺は着替えに手を伸ばす。とりあえずスカートをはいて、ブラウスのボタンを閉めにかかる。
 けど、なかなか上手く行かなかった。
 ボタンを閉めながら俺は苛々と髪を追い払う。だが、長い髪は頭を垂れる度にさらさらと零れ落ち、背中に払っても払ってもすぐに肩を滑っては手元に被り邪魔をする。
 俺は苛立ってボタンを諦めると、再び室内に視線を巡らせた。
 目当ての物を見つけると俺はそちらに歩み寄る。
? どうしたの? お水、持ってくわよ?」
 走るだけでも妨げになった。今だって手元を狂わせた。
 こんなもの、俺はいらない。こんな女みたいに長い髪、俺には必要ない。
 邪魔だ。
 机の上から鋏を取ると、俺は長い髪へと開いたそれを押し当てた。
!」
 寿樹の声、安良木の悲鳴。それからばしゃん、って水音。みっつは殆ど同時だった。
 俺は正気の沙汰とは思えない行動に呆然となる。
 数本の蜂蜜色の糸が空を漂い、紅い雫が床を汚す。
、駄目だよ」
 寿樹は鋏の間にその手を差し入れ刃を直に掴んでいた。
 関を切ったように溢れ、腕を伝っていくそのあまりの赤さ。瞬きさえ忘れて棒立ちになった俺の手をそっと抉じ開け、寿樹は鋏を取り上げた。
 空になった指で俺は頬に触れてみた。僅かだが、飛び散った寿樹の血が俺の指を汚す。
 さらりとした血はまだ寿樹の体温を残して生温かいような気がした。
 寿樹はその背を屈めて、少しだけ切れた唇で「」と小さな声で囁く。
「その髪は今朝になって突然、女の子の身体になった君に合わせてわざわざその長さになったものだよ。普通に自然に伸びたものじゃないんだ、大丈夫だとは思うけど、もしそれを切ることで何か良くない影響が出たらどうするの? お願いだからそんな真似はしないで」
 寿樹はまるで怪我に気付いていないみたいに平然とした顔をしてそんな台詞を口にしていて、全く自分の右手に頓着していなかった。今こうして喋っている間にも、その右手の小指からは壊れた蛇口のように血が滴り落ちていくのに。
「それにさ」
 笑いながら綺麗なままの左手で俺の髪を手に取り、その手のひらからさらさらと零してみせる。
「こんなに綺麗なんだもん。切ったりしちゃうの、もったいないでしょ?」
 安良木が驚いて取り落としたプラスチックのバケツ。
 そこから薄く静かに広がっていくその小さな海は、ついに俺の足元に辿り着きゆっくりと裸足の足を濡らしていく。
 けれど、俺は自分のしてしまったこと、そして血を流したまま痛がりもせずに笑う寿樹にぞっとして動けずに立ち竦んでいた。


 こいつは気が狂っている、そう思った。