≪The Oath of Hippocrates≫


I swear by Apollo the Physician, and Aesculapius, and Health, and All-heal, and all the gods and goddesses, that, according to my ability and judgment, I will keep this oath and this stipulation-to reckon him who taught me this art equally dear to me as my parents, to share my substance with him, and relieve his necessities if required; to look upon his offspring in the same footing as my own brothers, and to teach them this art, if they shall wish to learn it, without fee or stipulation; and that by precept, lecture, and every other mode of instruction, I will impart a knowledge of the art to my own sons, and those of my teachers, and to disciples bound by a stipulation and oath according to the law of medicine, but to none others. I will follow that system of regiment which, according to my ability and judgment, I consider for the benefit of my patients, and abstain from whatever is deleterious and mischievous. I will give no deadly medicine to anyone if asked, nor suggest any such counsel ; and in like manner I will not give to a woman a pessary to produce abortion. With purity and with holiness I will pass my life and practice my art. I will not cut persons laboring under the stone, but will leave this to be done by men who are practitioners of this work. Into whatever houses I enter, I will go into them for the benefit of the sick, and will abstain from every voluntary act of mischief and corruption of females or males, of freemen and slaves. Whatever, in connection with my professional practice, or not in connection with it, I see or hear, in the life of men, which ought not to be spoken of abroad, I will not divulge, as reckoning that all such should be kept secret. While I continue to keep this oath unviolated, may it be granted to me to enjoy life and the practice of the art, respected by all men, in all times ! But should I trespass and violate this oath, may the reverse be my lot!




 私は至極真面目な顔つきで携帯電話に見入っていた。
 携帯メールを打っているのである。だがしかし、両手を使っているくせに、はっきり云ってそのスピードは亀並みだ。私が座っているこの階段教室の最後尾からは教室全体が良く見渡せたのだが、先程まで斜め前方に座っていた女の子などは授業の前に物凄いスピードでメールを打っていた。私に云わせれば神業に等しい。
 どうやったらこんなに打ちにくいものでああも容易くメールが打てるのだ、と己に対する不甲斐なさも手伝って理不尽な反感を覚える。パソコンのキーボードだったらこのスピードの四倍はイケるのに、と負け惜しみじみたことを思いながら、私はのたくたと親指を往復させる。
 ちっみっちゃい携帯だと私の指が極端に遅くなる所為もあるのだが、でも、パソコンだったらこの四倍、という部分はあながち負け惜しみでもない。何故ならこう見えても私は職業作家なのだから。
 私の名前は、駆け出しの推理小説家だ。
 自慢にもならないが、毎日部屋に引きこもってパソコンに向かっていればタイピングの腕は自然と上がる。ただし書いてる内容も早打ちの技術につりあうだけのハイレベルなものなのかと問われれば思わず頭を垂れてしまう。ベストセラー作家には程遠いと正直に答えるしかない。だが、ベストセラーなんて、誰が読んでもそこそこ面白い、要するに毒にも薬にも記憶にも残らなくて益体もないものに私は興味ないから別にいいのだ。……と、もっともらしいことを語ってみたって、ぺーぺーの新人作家の私の弁では所詮負け犬の遠吠えにしか聴こえないのだからむなしい。
 そんなふうに吹けば簡単にアラスカまで飛んでゆきそうな零細推理小説家のさんがこんなところで何をしているのか?
 ああ、こんなところとは失礼かもしれない。ここは京都の私学、英都大学八号館二階の大教室だ。改修されたのか、それとも新しく増設した校舎なのか、歴史の割にはそこそこ綺麗な教室である。その定員二百名程度の階段教室では、ついさっき、きっかりチャイムと同時の三分前まで、英都大学では最年少で助教授になった先生による犯罪社会学の講義が行われていたのだった。
 職業作家ということからもお判りのとおり、もちろん私はここの学生ではないし、とっくに大学を卒業している年齢でもある。ええと、まあ、つまり、あれだ、勝手に授業に潜り込んだのだ。……あまり褒められた所業ではない。だが、ここの生徒さんから『何でこんなババアが居るんだよ?』という類の胡乱な眼差しを向けられることはまずなかった、哀しいぐらい無かった。
 云いたくないが私はかなりミニマムだ。大学生どころか、恐ろしいことに未だに子供料金で映画を見ようとしても多分咎められたりはしないだろう。小学三年生のときから1センチだって成長していないのだ。おかげでなるだけ目立たないよう、一番後ろの席を陣取っていたのだが、『何でこんなババアが居るんだよ?』ではなく、その反対の『何でガキが居んだよ?』と云いたげな優しさの足りない視線の方は何本か頂戴した。
 そんな屈辱的な思いを我慢してまで何故に私がこの講義に潜り込んだのかというと、犯罪社会学というその内容もさることながら、それを語る張本人にも興味が掻き立てられたからなのだ。
 火村英生。
 少なくとも、表向きはただの犯罪社会学者だ。もしかして気鋭の、とか、将来が嘱望された、とか、付けるべきなのかもしれないが、生憎私は彼の論文や著作にふれたことがないのでその辺は良く解らない。まあ、よしんば目を通したとしても、素人の私にその判断がつくとも思えないのだが。
 話を戻そう。そんな一介の学者である彼の何が私の興味を引いたのかというと、実は彼は助教授にして探偵だというのだ。
 探偵。
 推理小説家でなくとも、おそらくは誰でもちょっとした好奇心を刺激される響きであろう。もちろん、火村助教授が副業として、研究室にでかでかと『火村探偵事務所・依頼大募集中』なんてふざけた看板をぶらさげている訳ではない。それどころか、彼は自分が警察の犯罪捜査に加わって、事件の早期解決に多大なる貢献をしていることに関して重く口を噤んでいる。火村英生という研究者はただ文献を読み漁り理論を構築するようなタイプではなく、自ら犯罪の生まれた現場に踏み込み、犯人の残したささやかな痕跡を暴き、そしてその怜悧な頭脳によって真相を導き罪を犯した人間を告発することをその研究方法としているというのだ。
 なんともまあ、心惹かれる先生ではないか。
 では何故そんな正規の犯罪社会学科の生徒でも知らないような秘密を部外者の私が知っているのか、というのは当然の疑問であろう。しかし、何のことはない、実はこの火村先生と同窓生だった私の兄からたまたま教えてもらったからなのだ。
 もっとも火村先生は社会学部で、私の兄は法学部だったからその交友の程は定かではない。実際、友達だったのか、と尋ねてみたところ兄は「友達…?」などと呟き、首を傾げていた。なので、現在も連々と続く火村先生との親交によって兄がその秘密を知っていたのではなく、兄の職業が職業なだけに、噂話でも耳にした折、犯罪社会学者の火村ってもしかしてあの同級生だった火村か? という具合に、火村なんてそうそう見かける苗字でもないし、それですぐに推断できたのではないかと私は勝手に思っている。
 まあ、とにかく、そんな創作意欲を逞しくしてくれそうな先生なら一目見てみたい、と思い、掲示板で犯罪社会学と火村で教室を検索して、本日無事講義に紛れ込んだのだが…。
 火村先生は……率直にミーハーな云い方をすれば物凄くかっこよかった。
 全身をインテリジェンスな鎧で覆っており、口調もシャープでとにかく冴えている。背も高く、スーツの似合う体型をしていた。最後尾の私の位置からは顔の造作などはよく見えなかったのだが、そんな目鼻立ちなんぞどうでもいいぐらい、纏っている雰囲気がひたすらかっこいいのだ。列の前列に学校に来ているだけにしてはやけに綺麗に着飾った女の子たちが多い気がするのにも納得。彼女たちは火村先生のファンなのだろう。前列を熱心なファンが占めているなんて、まるでアイドルのコンサートのようだ。
 肝心の講義の内容に関しては、犯罪社会学の講義なぞ初めて受けた私には単語ひとつとっても全くといっていいほど馴染みがなく、少々戸惑いはした。「関連」ではなく「連関」と書かれたときには書き損じ? とか、自分の無知を棚に上げ、失礼なことを思ってしまった。しばらくするとそういう不慣れな響きが逆に新鮮で、理解できないなりに十分面白く拝聴することができた。プリントも配らず、板書も殆どしないので、熱心な生徒は助教授の深みのある声を追いかけて忙しなくノートを取っていく。おしゃべりをする者もなく、皆真剣に助教授の言葉に耳を傾けている様は、いまどき死語かと思っていた硬派と形容するに相応しい、厳格な学び舎の空気を教室中に充満させていた。良い授業だと私は思った。
 来週も聴きにこよう、と私は早くも心を決めていた。ぽちぽちと鈍足でメールを打ちながら、ちゃんと聴講生になるにはどうしたらいいんだろう、などとぼんやりと考えていたので、不覚にも私は全く気が付かなかった。
「お忙しいところを失礼」
 私は凍りついた。
 誇張でもなんでもなく、硬直した。それまでは何とかたどたどしく動いていた指も一瞬でがびがびに固まった。そのくせ、全身から一気に汗が噴出してくる。
「お名前を伺っても宜しいかな」
 声を聴いただけでもう誰だか解っていたけれど、私はぎぎぎと音がしそうなほど不自然な動きで首を上向けた。
 緊張が極限を突き抜けて、私は意味もなく笑いそうになってしまう。
 遠目から見ていただけだが、間違いない。服装も同じだし、何より深みのあるこの声はもう耳に馴染んでさえいた。
 火村英生助教授が私を見下ろしていた。




「ええと…」
 時間稼ぎでもするように、そんな意味のない言葉をついつい吐き出してしまう。
 先程まで壇上にいた助教授は、近くで見てもやはり揺るぎない叡智をその全身に漂わせている。たださっきまでと違うのは、その顔の造作まではっきりと見て取れることだった。長めの前髪の隙間から、どこか冷めたような目が私を見つめている。知性と対極にあるようなその穏やかならざる色に私は軽く驚きを感じていた。何となく賢者の眼光はもっと静かなものだと思っていた。
 物凄い美男子というわけではないが、鼻の高い十分整った顔立ち。なによりやっぱりその雰囲気がいい。人によっては獰猛と受け取るかもしれない目つきと、身に纏ったその知性の鎧とのアンバランスさが彼を何倍も魅力的に思わせる。もし同じ顔の男が居たとしても、この硬質な空気が欠けていたら多分そいつはどこにでもいるただの凡庸な男としか認識されないだろう。
 ネクタイをした獣。
 多分この手の男に弱い女性は多いだろうなぁ、などと危機的状況にも関わらず、私はそんな馬鹿げた感想を抱く。
 不意に背中を汗が伝う感触がはっきりと感じられて、はっと我に帰る。
 いかんいかん、見惚れている場合ではないのだ。
 おかげで脳細胞の半分は相変わらずパニックを起こしていたが、残りの半分がぐるぐると回転し始める。
 何故火村先生が今日初めて講義に参加したような小娘にわざわざ名前を尋ねるのか。
 一目惚れ? まさか! というか、哀しいことにこれしかないって理由が私にはもう思いついてしまっている。つまり、コレだろう。
『お嬢ちゃん、どこの子? 大学は小学生が遊びに来るところじゃないんだよ?』
 おお、なんて自虐的な。しかし、これしか思いつかない。小学生ではなく、成人してるんです、と反論してみたところで学生でも聴講生でもないのに勝手に授業に潜り込んだという負い目がある。無断で講義を拝聴、これって一体どれぐらい罰せられるものなのだろう? 早くもゴメンナサイと頭を下げてしまいたいのを我慢して私は漸く声を出す。
「……と、申します」
「そうですか。それじゃあ…ああ、ちょっと失礼」
 何かを云いかけて助教授は言葉を切った。そして手に提げていたジャケットのポケットから携帯電話を取り出す。
「お待たせしました、火村です。……ええ、大丈夫です、ついさっき終わりましたから」
 そう云いながら助教授は、私の目の前の机の端に浅く腰を下ろした。電話から漏れ聴こえるのは男の声で、電話越しの所為か酷く野太く聴こえる。助教授が殆ど口を挟むこともなくその声は間断なく喋り続けていて、彼の注意はそちらに向けられているように見えた。
 そろそろと携帯電話を鞄へと仕舞いつつ、卑怯者と誹られるかもしれないが、正直私は何とかこの隙に逃げられないものかと思案した。思いはした、思いはしたがしかし、助教授の長い脚が私の座席の丁度真横の方に放り出されていて、逃亡に際してこれを蹴散らしていくだけの勇気が私には足りないのだった。
 仕方なく黙って助教授の電話が終わるのを待つ。死刑執行を待つ囚人ってこんな気分かしら、とまたもや馬鹿なことを思ってしまう。何か良い言い訳を考えようとはしてみたが、ただでさえ平常心を失っている上、相手がこの恐ろしく賢そうな助教授では何を云っても無駄な気がした。大人しく謝って怒られる方がダメージが少ないし、心証も好いはずだ。ああ、怒られついでに、来週から聴講したいんですが、とお願いしてみよう。もうこうなったら事務課に行く手間が省けましたぐらいの図太さを発揮してやる。
 助教授にとっては迷惑であろう覚悟を決めてしまえば、私はすることもなく、そろりと上目遣いに助教授を見上げてみた。よく見ると頭髪には白いものがちらほらと混ざっている。いわゆる若白髪というやつだろう。そのまま黙って観察を続けていると、表情を変えることなく電話に応じている助教授だったが、おもむろにネクタイの結び目に長いその指を二本引っ掛け、もともと緩めに締められていたものをさらに緩めた。…不味い。ちょっと今悩殺されかけた。でも、こんなだらしないネクタイでは、もし助教授がサラリーマンだったら上司から小言を喰らうのは確実であろう。私が上司ならもちろん許すが。
「…はい…はい、解りました…ええ、そこなら行ったことがあるので解ります。…ええ、それでは後ほど」
 やっと電話が終わった。
 だが喜ぶべき状況にも思えない。私は身を硬くして、慌てて視線を机の上に戻した。
 ええと、なんだっけ、そう、さっさと謝って怒られてお願いするんだっけ?
 図太く行こうと決めたはずなのに、早くも私は一人で勝手に狼狽え始める。
「さて」
 助教授の声が上から降ってくる。腕時計に目を落としながら腰を上げた助教授は、叱責を覚悟して身を縮みこませた私に思いもかけないことを告げたのだった。
「まだ早いから、あなたも一緒に行きましょうか」
「は?」
 私は思わず無礼な反応を返してしまった。
 だが、それも仕方ないことだろう。だって、今助教授はなんと云った? 私に、今日会ったばかりの私に? 一緒に来るか、だって?
 俯けた視線を急いで振り仰いでみたが、助教授はもうこちらに背を向けて歩き出してしまっていて、その表情から少しでもその意図を探ろうとした私の試みは空振りに終わる。
 鞄とショートコートを掴むと、私は急いでその後を追った。よく解らないけれど、とりあえず尻切れトンボのようなこんな別れ方は嫌だ。なぞなぞを主題しておいて答えはまた今度、なんて人類として最低の振る舞いではないか。何の目的があって私を誘ったのか、このままでは気になって夜も眠れない、…なんていうのは大袈裟か。
 火村助教授は長い脚で颯爽と歩いていく。
 来るか、と人を勧誘しておいて返事も待たずに、おまけに付いてきているかの確認もしない。ええと、これはいくらなんでも失礼ですよとか抗議した方がいいのだろうか? ……無理だ。ただでさえ人見知りの激しい私がこの強面の助教授相手ににそんなことを云うのは限りなく不可能。
 競歩どころか殆ど小走りにその背中を追いながら、そういえば結局兄にメールし損ねたことに私は気が付いた




「今朝、死体が発見されました」
 助教授は彼の愛車に乗り込むなり煙草を咥え、さらりと何でもないような口調でとんでもないことを口走った。あとちょっとで固定されるはずだったシートベルトが私の手から思わず離れて、しゅるると巻き取られていく。
 一旦助教授の研究室に立ち寄って、それからすぐに教職員専用の駐車場に来て、ベンツはベンツだがちょっと形容の難しい状態の助教授の車に乗ることを促され、それでもって死体が発見された? さらに続けて、助教授はわりと有名な森林公園の名を出し、そこが現場だと告げる。
 したいとか、げんばとかって……何だかさっきまで聴いていた犯罪社会学の講義の最中に私は居眠りしてしまっていて、そのおかげで質の悪い夢でも見ているのではないかと疑いたくなってくる。くらくらと眩暈がしてきそうだ。
 煙草を深く吸い込んでから助教授は漸く車を発進させた。急いでいるようなのに煙草に火を点けることを優先させたあたり、よっぽどのヘビースモーカーなのかもしれない。そういえばウチの車にはない匂いが車内にあるが、どうもこれは煙草のにおいっぽい。
 助教授は大通りへと車を出しながら、私に気を使ってか、まだ肌寒い三月だというのに窓を開けた。その所為でアスファルトをタイヤが噛む音がごうごうという酷く大きく聴こえて、そういえばと思い、私は慌ててシートベルトを締めた。別に助教授の車があまりにボロいから恐くなったのではない…はずだ。
「被害者の名前は倉山紫帆。神戸の女子短期大学に通う十九歳。被害者の財布はコートに残されたままで、その財布の中に学生証が入っていたおかげで簡単に身元が割れました。実家は鹿児島、高校までは地元の学校に通い、去年からこっちで一人暮らしをしている。被害者を発見したのは犬とジョギングしていた四十三歳の会社員。最近少々肥満気味で、腹の贅肉が自己管理のできない証明として昇進の妨げになることを恐れ、目下自らの三段腹と格闘中だったらしい。警察はこの会社員と被害者の背後関係も洗っているが、おそらくは無関係でしょう」
 前を向いたままの火村先生は、時折煙草の灰を払いながら淀みなく喋った。ああ、そうか、先程の長い電話はきっとこのことだったんだろう、と語られた内容とは無関係な感想を私は抱く。
「で、この会社員がひいひい云いながら走っていると、突如伴走していた犬が舗装された道の向こうの林に顔を向けた。ビーグル犬だそうだが、なかなか利口な犬でリードをつけなくてもちゃんと主人の後をついてくる犬だったそうです。それで今朝もつけずにジョギングしていたのだが、この犬にはちょっと変わった嗜好があって、コーヒーが大好きだったらしい。会社員は犬がいきなり脇に逸れて林に駆け込んでいったとき、またかと思ったと語っています。前にもコーヒーの空き缶の匂いにつられて、制止を無視して駆け出していったことがあったそうで。だが、捨ててあるならいいが、飲みかけを持っているどなたかに迷惑をかけては大変だと、彼は慌てて愛犬の後を追い、そして、被害者の遺体を発見した。その脇には缶コーヒーが落ちていた」
 私は目を閉じた。私の頭の中では助教授の語った内容が、まるで映画のように映し出されていた。
 林の中の枯れ落ちた枝葉、その上に横たわり朝靄の曇天に向けられた彼女の目はもう何も映さない。
 それは私がこれまで書き綴ってきたフィクションではない。
 現実に起こったこと。
 助教授の声が途切れてしまえば、車内にはごうごうという音が満ちる。耳の中で渦巻くその轟音が頭の中の映像をまるで嵐の日のできごとのように歪ませていく。
 彼女はどうしてそんなところで死んでいたのだろう?
「会社員は倒れた被害者を見て、初め自分の愛犬が飛びついた所為だと思ったそうだ。それで慌ててすいません、すいませんと謝罪しつつ駆け寄った。しかし、返事がない上に被害者が寝転がったままなのを不審に感じ、とりあえず顔を覗き込んで仰天した。どう見たって生きているとは思えなかったと証言していて、事実、警察も被害者がこの時点で死後二時間ほど経過していたはずだと所見を述べてます。彼が悲鳴を上げることもできずにへたり込んだら、脇からどさりと音がした。顔を向けると、愛犬が泡を吐き、痙攣していた。飼い主である彼が死体に驚いている間に、目下被害者の命を奪ったと見なされている、毒物入りの缶コーヒーの残りを舐めてしまったんだ。驚き、這っていって急いで抱き上げてみたが、可哀想なことに一分もしないうちに絶命してしまった」
 それまで淡々と語っていた助教授の話に、初めて「可哀想」という、彼の主観らしきものが混じったことに私は軽く驚いた。犯罪社会学の講義での彼の鋭い語り口や、今の死体発見までの経緯を綴る静的な口調によって、私の中で助教授の印象は恐ろしく合理的で冷徹な高性能マシンのようなものになりつつあったようだ。私は小さく首を振ってその先入観を振り払う。ろくに喋ったこともないのに、決めつけたりするのはよくない。
 そんなある意味不審な行動をとった私を気にした様子もなく、助教授は短くなった煙草を灰皿に投げ捨てる。
「財布が残っていたことと死因が毒物によることから、物取りによる犯行という可能性は極めて低い。現時点ではそれぐらいで、自殺か他殺かの断定もできていません」
 私に話しかけているというよりは独白に近かったので、私は特に返事をしなかった。
 それから助教授が口を開くことはなく、私も何を語ったらよいのか解らず、車内には沈黙が満ちた。それを気まずく感じたわけではないが、私は何となく流れ行く窓の景色に目を向けた。
 自分が今、死体を目指して急いでいるのだと思うと、とても不思議な気分がした。




 森林公園の前にはパトカーが二台停めてあるだけだったが、火村先生も車を停めた裏手の駐車場の方にはそれらしき車両が沢山停まっており、公園内は右を向いても左を向いても警察官といった有様だった。
 すでに公園の入り口は封鎖され、一般人は立ち入り禁止になっていたが、物見遊山な見物人はわざわざその入り口に立ち止まり、首を伸ばしてお巡りさんがゴミ箱を漁っている様を眺めたりしている。火村先生はすいすいとその人垣を泳いでいく。
 腕を背中で組んだ姿で、門番のように入り口で立ち塞がっている制服姿の警察官に火村先生が名乗ると、彼はすんなりと私たちを通してくれた。火村先生に続きつつ、私は自分は呼び止められるのではと、びくびくと会釈をしながらその脇を横切る。
 しかし、火村先生の後光のおかげで、途中擦れ違う警察官の方々に誰何されることはなく、その行き交う人員の多さから、そこが「現場」だと知れる林まで私は無事に到達することができた。
「お、これはこれは」
 火村先生が声を発するよりも先に、向こうの方から先生を発見して声をかけてきた。
 私は失礼だと思いつつ、その発信源の人物をついついしげしげと見詰めてしまった。愛嬌があるというか……個性的なおじさんだった。実はおじさんどころか、府警本部捜査一課の船曳警部といい、要するに現場の陣頭指揮をとるような一番エライ人である。だが、このときの私がそんなことを知る由もなく、そのつるりとした頭部やハンプティ・ダンプティみたいに丸みを帯びた腹部をより強調するサスペンダーといういでたちに思わず目を奪われてしまったのだった。
「おはようございます、警部。ご連絡ありがとうございました」
「朝からお呼びだてして申し訳ない、火村先生。ガイシャはもう搬送してしまったんですが、写真があります。ここが現場ですから、こちらで詳しくご説明しましょう」
 船曳警部が丁度彼の立っている左下の辺りをふくよかな人差し指で指し示す。予想に反した展開だが、死体がないことに私は却ってほっとしていた。
 しかし、ここでひとつ問題が。火村先生は躊躇うことなくそちらに向かっていくけれど、果たして私がそこまでついていっても良いものなのだろうか。途方に暮れて立ち竦んでいると、それまで長身の火村先生の影に隠れて目に入っていなかったのか、漸く警部は私に気が付き、おや、っとでも云いたげに目を丸くしてみせる。
「君は話を聴かなくてもいいのか?」
 船曳警部の視線の意味を悟り、火村先生が振り返る。問われて私はかくかくと首を縦に振った。だが、情けないことにこれはただの形態反射であり、もし「こっちにきて一緒に話を聴かないか?」と誘われたなら、それでも私は同じようにこくこくと首を縦に揺らしたに違いない。
 そんな私の心的動揺を知ってか知らずか、助教授はそれ以上何も云わずに、ひとつ頷いただけで警部の横に並んだ。そしてジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま、背中を丸めるようにして警部に何事か囁く。助教授の言葉に耳を貸しながら、船曳警部は時折「へえ」とか「ふぅん」とか相槌を加えていたのだが、不意にこっちに視線を流す。
 恐ろしいことに目が合ってしまった。
 助教授が一体何をどう説明しているのか皆目検討もつかなかったが、狼狽しつつもぺこりと会釈してみる。ノンポリ野郎と蔑まれようと、私は長い物にはとりあえず捲かれる主義だ。
 だが、私の心配を他所に船曳警部は私の会釈ににっこり笑顔を返してくれた。部外者が邪魔なんだよ、とか睨まれなかったことに安堵しつつ、しかし、今の笑顔の裏には『お嬢ちゃん、ちっちゃいのに礼儀正しい、良い子だね』というニュアンスが含まれていたように思えるのはきっと気の所為じゃない。もし警部が飴玉を持っていたなら多分私の手のひらに問答無用で載せてくれただろう、そんな笑顔だ。
 私は春を前に薄曇りの空を仰いだ。
 そして小学生のような己の外見に屈折した感謝を捧げる。
 そんなふうに私が喜劇的な自己嫌悪に浸っている間に、船曳警部と火村先生は真面目に事件いついて語り始めていた。端っこによって座ってようかと思ったのだが、その端っこの木の根もとの葉っぱの溜まった辺りを何やらがさがさ捜索したりしている。私は辺りを見回してみるが、どこもかしこも制服やら作業服やらスーツやらの警察関係者の方で溢れており、何だかどこにいっても邪魔になりそうだった。
 …どうやらこの中途半端なところで突っ立っているのが一番邪魔にならないようだ。
 私は溜息を吐くと、ショートコートのボタンを留めた。もう三月も終わりだし、一頃に比べればなんてことない寒さになった。でもいつまでここでこうしているのか見当もつかないし、風邪でも引いたらまた兄に迷惑をかけてしまう。
 そうだ。
 兄にメールをしなくては。
 私は鞄から慌てて携帯を取り出す。メールの続きを打とうとして、指が止まる。
 この状況を何と説明すればいいのだろう?
 火村先生に連れられて死体発見現場に来ています?
 だからどうして火村先生は私を連れてきたのだ? 死体とか、非日常の会話に流されてころりと忘れていたけれど、結局何故なのだ。
 私は携帯電話から視線を上げ、上目遣いに助教授を盗み見た。ポラロイドらしい写真に視線を走らせながら、要所要所で警部に何やら質問している。教壇に立っていたときよりも眼光は鋭さを増している。
 かっこいいなぁ、なんて私がまた死体発見現場にそぐわない感想を抱いたところで、背後からがさがさと枯葉を踏みしだく音が近付いてきた。この現場で唯一するこのない私は音につられて振り返ってみる。
 仕立ての良い、高そうなスーツを来た若いお兄ちゃんがこちらに向かって走ってくるところだった。
 お兄ちゃんと云ったが、年の頃は二十代でおそらく私とそう変わらないはずだ、向こうが私を同年代だと認識してくれるかはまた別の問題として。
 私の兄や火村先生に比べると瑞々しく、未だ元気一杯といった雰囲気を漂わせているからついついお兄ちゃん、などとふざけた呼び方をしてしまったが、スーツ姿でここに居るということは捜査一課の刑事さんなのだろう。だとしたらそれなりに有能なはずで、お兄ちゃん、なんてえらい失礼な呼び方かもしれない。
 心の中で詫びをいれていると、お兄ちゃん、いえ、若い刑事さんは「け」と口を開きかけて、私を見つけて不自然に言葉を途切れさせる。不審に思ったというよりは、単純にびっくりして目を丸くしているだけなのが読み取れる表情だった。しかし、私自身、自分が何でここに居るのか解っていないので説明もできない。
 相変わらず長いものに捲かれてしまえとばかりに曖昧に会釈をすると、つられたように刑事さんも会釈する。不思議そうな顔で私の前を横切り、船曳警部と火村先生の元へと駆けていく背中はすっきりと背筋が伸びていた。素直で清々しいその様子に私が好感を抱いたこの若い刑事さんは、後に捜査一課に配属されたばかりの森下さんということが判明する。
 何となく森下さんの背中を視線で辿っていると、ポラでも見ているものと思っていた火村先生と目が合いそうになって私は驚いた。
 ついつい視線を逸らしてしまったが、別にそんなことする必要はなかったことに気が付いて、だが、視線を戻したときにはすでに火村先生は船曳警部と森下刑事から何事か報告を受けている最中だった。
 なんとなく残念というか、微妙な後悔にじわじわ侵されていると、再び背後からがさっと唐突に枯葉が鳴いたから私はびくりと肩を揺らす。
 眼鏡をかけた、学者風の容貌の男性と目が合う。訝しむでもなく、彼は表情も変えずに私に一礼する。慌てた私が兎のようにぴょこっとする間に、彼はさっさと私の前を通り過ぎてしまう。火村先生よりある意味よっぽど象牙の塔の似合いそうなこの人は鮫山さん、やはり府警本部の捜査一課の警部補だ。
 火村先生たちの輪に加わるその背中を見て、ああそういえば、警察官は二人一組が鉄則なんだっけ、と推理作家らしいことを思い出す。そう、私は推理作家なのだ。
 私ははっとなって、急に辺りを見回し始める。そうなのだ、こんな実際の事件現場に脚を踏み入れる機会など、もう二度とないはずなのだ。本物の現場検証を観察するチャンスではないか、ぼけっと突っ立っている場合ではない。
 作業着姿の人々がピンセットで何やら慎重に摘んで、お肉なんかを冷凍庫で保存するのに私なんかも良く使う、ジッパー付きのビニルにひとつひとつ落としていく。
さん」
 そんな作業に漸く注意を払いだしたところで、話が終わったのか、こちらの方へと四人がぞろぞろやってくる。…悪いことなんてしていないのだが、ちょっと腰が引けそうになる。
「ちょっと失礼」
 そう云って火村先生は私の前で膝を折り、おもむろに私の手を取った。
 一瞬頭が真っ白になる。
「あなたはあまり爪を伸ばしたりしませんか?」
「ハ、ハイッ」
 内心の動揺がバレバレの無駄に大きい声。だが仕方ないだろう、だって膝を折って私の手を取ったっていうのは、つまり昔の童話で王子が姫にかしずく姿に酷似している訳で。
 火村先生は私の手に、手というより指先にじっと視線を落としていて、一緒に来た船曳警部たちも同じように腰をかがめて私の爪に注目している。さらに周囲にいた鑑識課の人たちまで何事かと作業の手を休めてこっちを窺っている。
 もともと人前に立ったり、人目を引くことを非常に苦手とする私としては、これは二重三重に緊張を強いられることだった。落ち着けー落ち着けーと自分に云い聴かせる。
 顔を上げ、刃のような視線で火村先生がまっすぐ私の目を貫く。
「つけ爪をした経験は?」
「昔、一、二度だけならあります」
 何でそんなことを訊くのか謎だった。相変わらず私の脳は窮地に弱く、一昨日爪を切ってやすりをかけておいて良かったとか、返事をしつつもそんなくだらないことを考えている。だが、アホなことが云えるだけマシかもしれない。実は緊張のあまり火村先生に捕らえられた手が今にも痙攣しそうなのだ。しかし、先生の質問はまだ終わらない。
「そのとき、つけ爪をしたまま、缶のプルトップは開けることができましたか?」
「え? プルトップ?」
 これです、と森下さんが親切にも缶の写ったポラを差し出す。ふちのところに僅かに溜まった液体の色から、それがコーヒーの空き缶だということが解る。
 別にプルトップの何たるかが解らなかったのではなく、その質問の意図が解らなかっただけなのだが、一応森下さんにはどうもとお礼を告げる。
 質問に対して私は首を振った。
「解りません。そのときは缶ジュースを飲んだりしなかったので」
「開けることは可能だと思いますか?」
 今度は鮫山さんから質問を受ける。なんだろう、と思いつつ、私は当時の記憶を探る。毎日やらなきゃならない家事もあるし、接着剤ではなく、あのとき私は接着剤よりお手軽なシールでくっつけた。ちょっとしたことでぽろりと外れてしまったので、きっとシールではプルトップの開封は無理だろう。
「つけ爪の長さとか、接着剤にもよると思いますけど、シールでくっつけただけではおそらく爪がとれてしまうと思います」
「シール? 爪がシールになっているの?」
 男性陣がそれぞれ微妙に嫌そうな顔をする。心境としては、『なんだそりゃ、そんなもん知るか』といった感じか。仕方がないので、つけ爪もつけるのに接着剤やシールがあること、今はスカルプチュアといって自爪の上にアクリル樹脂を載せて直につけ爪を作るものもあること等を簡単に説明する。
 鮫山警部補が苦いものでも噛んだような顔でメモをしていた。
「…なるほど。あとで確認してみましょう。あともうひとつ教えて下さい、爪との接着方法は別にしても、この長さで開けられると思いますか? 因みに道具は一切使わずに、です」
 鮫山さんの言葉に、森下さんがさっと写真を差し出す。
 肌に張りがあり、一目で若い女の子のものだと解る、手のアップの写真だった。右手のその五指には、綺麗にネイルアートの施された二センチ半はある爪がくっついていた。
 私はそれで漸く合点が行った。鈍いにも程がある、先生はさっき車の中で被害者は缶コーヒーの毒物によって死亡したようだ、と云っていたではないか。
 私はさっきよりはっきりと首を振る。
「無理ではないでしょうが、その爪の持ち主ならまずプルトップを開けようとはしないでしょう。
 接着剤でつけたものだとしても、スカルプチュアの爪だとしても、その長さではプルトップを開けるのは困難だと思います。絶対開けられないということはないでしょうが、爪が外れかけたりひび割れたり、あるいは先端のマニキュアが剥がれたりする可能性は高いでしょう。
 正直に云ってそんなに長いといろいろと邪魔なんです、ストッキングをはくのもジーンズのファスナーをあげるのにも気を使わなくちゃなりません。それでも長い爪を維持していたってことは、不便さよりも綺麗に飾ることにより関心があったことの表れだと思うんですけど、ならばなおさらせっかくの爪を台無しにするようなことはしないんじゃないでしょうか」
 捜査一課の三人は何かを目配せしあう。火村先生は親指で私の人差し指の爪をすっとひと撫でしてから立ち上がった。
「どうやら関係者に詳しく話を聴く必要があるようですね。彼女に飲み物を振舞っても怪しまれない人物、彼女が缶の開封を頼めるような気安い人物に心当たりがないか」
 胸の中でまっ黒い感情が渦巻き始める。
 あんな爪で缶コーヒーを開けられるはずがない。写真の爪には割れた形跡などなく、綺麗なままだった。取れかかっているようにも見えない。ボールペンでも使えばてこの原理で開けられるだろうけど、鮫山さんの口振りではおそらく道具を使用した痕跡はないのだろう。
 だとしたら、誰か居たのだ。
 彼女に毒入りの缶コーヒーを渡した誰かが。
 私は慄然として、自分の右手を左手で握りこんだ。
 火村先生に触れられた人差し指の爪だけが、火が点いたように熱かった。

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