本当に。
 何故にどうして私はこんなところにいるのだろうか?
 意味不明過ぎてガラス越しに曇天を望む目線だってついつい亡羊としてしまう。八畳ほどの一室に押し込められているこの状況に納得いくよう、お願いだからどなたか説明して欲しい。
 しかし、押し込められているといっても別に拉致監禁という訳ではなかったりする。客観的には私は十分自由意思によってこの某大学の研究棟の一室にいるように映ることだろう、ただ主観的にはあれは問答無用だったという思いが拭えないだけで。
 私の気分そのままの灰色の雲から視線を外して、斜め上の鼻の高い横顔をちらりと盗み見る。
 そう。
 何故か未だに私は火村先生と行動を共にしていたりする。
 英都大学から森林公園へ移動し、ついにはこの大学までやってきた。常日頃自宅に引き篭もっていると云っても過言ではない私からしてみれば、これは信じられないほどのアクティブさである。
 あの後、先生は警部と一緒に事件の関係者と思しき人物に話を聴きに行くことになり、先生の車はひとまず公園において行くこととなった。じゃあ、私はどうやって帰ろうかなあと思っていると、どういう訳か「さんはどうしますか?」等の確認は一切なしに、「じゃあ、行きましょうか」と当然のように私も警察車両に連行、いえ、同乗させて頂いていた。
 被害者の倉山紫帆の以前の恋人、まあ平たく云えば元カレがこの大学の医学部で、今カレもここの医学部で、彼女と親しくしていた女友達も午後からサークルの関係でこの大学に来るらしい。関係者と思しき人々が見事にこの大学に収斂しているので、大学側に便宜を図ってもらい、こっそりとこの一室を提供してもらえることになったそうな。三流推理小説なら間違いなくこの中に犯人がいる展開だ。
 森下さんと鮫山警部補は元カレの鈴置晃二を迎えに行っているので、現在部屋には船曳警部と火村先生とグリコのオマケのような私しかいない。
 室内にはテーブルと椅子とキャスター付きの黒板、そしてグレーのゴミ箱があるだけで、日でも差し込んでいればもうちょっと違うのかもしれないが、生憎今日は天気が悪いので余計に殺風景に感じる。
 船曳警部は普通にテーブルの前に座っているが、私と火村先生は壁際に椅子を移して座っていた。私はただ先生に倣っただけだが、やはり犯罪学者とはいえ民間人に過ぎない火村先生は一応遠慮してのことなのかもしれない。
 今度は盗み見るのではなく、私ははっきりと火村先生の横顔を見上げてみた。
 結局兄に連絡しそびれている。
 訊いてみようか、兄のことを。那弦という男を知りませんか、あなたと同じ時期に英都大学に在籍してたんです、と。もし先生が兄のことを知っているなら、この不可解な状況がまだちょっとは説明出来る気がするのだ。
「あ、あの」
 しかし、私は口を塞がざるを得なかった。
 古びたドアが些かせっかち気味にコンコンとノックされたのだ。こっそり溜息を吐きながら、私は火村先生からそちらへと視線を移す。
「…学者の先生です。度々、捜査に関して有力な助言を頂いておりまして、今回もご協力をお願いしています」
 肩越しに話しかけながら鮫山警部補がドアをくぐる。
 次いで現れた人影を目に止めた瞬間、私は凍りついた。
 ジーンズにパーカーという学生らしいラフな服装、こざっぱりした髪と理知的な顔立ち。医者の卵だというその男は走ってきたのか、三月だというのに額に汗を浮かべている。
 動くことも叫ぶことも出来ない状態で、私は自らの愚かさを呪う。
 浮ついた気分でこんなところまで足を運ぶべきではなかった。
 何故私はこの可能性を考慮してみなかったのか。これは私が頭の中で構築し言葉に起こしているような虚構の事件ではない。被害者がいて、犯人がいて、そして火村先生や船曳警部たちは犯人逮捕の為の捜査をしていて、その過程で多大なる悪意を以って他者を害した殺人者と当然顔を合わせることもありうることをどうして私は見過ごしていたのだろう。まさか今日の今日でいきなり犯人に出くわすことはないに違いないと高を括っていたのが仇となった。
 足元から『音』が這い上がってくる。
 拒むことなど許さずに、二度と聴きたくなかった『音』が私の心に絡みつく。
 金縛りにあったようにじっと視線を注いでいる私の存在になど気付くことなく、狼狽を必死で押し殺しているような硬い表情で男はぎこちなく頭を下げた。
「はじめまして、鈴置です、ええと、あの紫帆は、紫帆、は本当に」
 続く言葉が舌の上で縺れたみたいに、男は顔を顰めて口を閉ざした。鮫山さんがそっと着席を促すと、項垂れて静かに腰をおろす。
 悲歎にくれた表情に動揺の見え隠れする仕草。
 けれども、どんなに悲劇に打ちのめされた様子を取り繕っていようと、目の前の男が彼女を殺した犯人に間違いなかった。




 人殺しに会ったのはこれで二人目だ。
「まさか…信じられません、こんな…ついこないだ…二週間くらい前に会ったんですよ…電話だったら四日前にもしたし……本当に信じられない……」
 目の前の男はこれ以上なく苦しげに言葉を紡ぐ。今にも泣き出しそうな面持ちを冥福を祈るがごとく握り合わせた拳へと押し付ける。
 きっと誰の目にも悲痛な姿に映るに違いない。だが、嘘だ。これは演技だ。
 この男は人殺しだ。
「恨み、ですか…………紫帆は、いや、倉山さんは派手な外見やはっきりと物事を云う質の為に周囲から誤解を受けやすい面もありましたが、殺されなきゃならないほどに恨まれる人間ではないですよ。…ええ、もてましたよ、非常に魅力的な女の子でしたからね。そういう意味では振った男から逆恨みされることもあったかもしれません。明るくて、可愛くて、付き合えることになった時、僕はまさに天にも昇る気持ちでした。そうです、僕の方から云いました、付き合って欲しいって」
 私の内側でごうごうと耳の潰れそうな音が走り回っている。
 それはこの人殺しの憎悪の音だ。命を奪うぐらいに強烈な憎しみは、電車が猛スピードで暗いトンネルを駆け抜けていく時の轟音に似ていた。私の神経を掻き回すこの陰鬱な音は怨嗟と憤怒と愛憎に加え、これは裏切りに対する正当な報復だという子どもじみた自己弁護を飽きることなく叫び続けている。
 どうにかその音を振り払おうと別のことに意識を集中しようと試みるが、そうすると余計に音が酷くなる。
「知り合いに紹介されたんです。一年以上交際は続きました、もっと正確に云うなら一昨年の十月中旬から今年の一月までです。ええ、二ヶ月前に別れたばかりです、いえ、もう大分気持ちの整理もついてきたので。別れた理由は…僕の方に問題があったんです。医者になることが小さい頃からの僕の夢で、それで学業の方に専念するあまり、彼女とちゃんと向き合ってあげなかった。段々と一緒に出かけてもあげなくなって、気が付いたら二週間も口を利いてなくて、慌てて電話したら……新しい彼氏と一緒でした」
 ああ。
 また一段と音が激しくなった。
 もう顔を上げているのもつらい。見ないようにしていても視界の端をちらつく鈴置晃二の姿に嫌悪が募る。
 意志の力を総動員して硬くなった首を曲げていき、膝の上で握り締めている手へと視線を落とす。けれど、私の意思なんて無視して、いつのまにか指先はかたかたと震え始めていた。不味い徴候だ。
「あの…黙っていてもその内解ってしまうことなのでお話します。実は彼女、妊娠していたんです。相手は今付き合っている人で間違いないと彼女は云ってました。………変ですか、僕がそんなことを知ってるなんて。でも、別れたカップルが不仲にならなきゃいけない理由なんてないでしょ。……正直に云って、僕はまだ彼女のことが好きだったから、彼女から頼られるだけでも嬉しかったんですよ。相談の内容はまだ学生だから堕胎した方がいいと思うけど、お腹の子どものことを考えると迷うってことでした。相当参ってて、眠れないとか、ちょっとノイローゼっぽいことも云ってて…だから…最初に連絡を頂いたとき、僕の頭には自殺って言葉が過ぎりました」
 嘘で塗り固められた言葉に比喩でもなんでもなく本気で吐き気を覚える。
 音と言葉の両方が私の内臓をぐちゃぐちゃにしていくようだ。
 私はぎゅっと目を閉じた。
 この現象に私は長い間苦しめられている。
 私にしか聴こえていないこの『音』の正体が何なのかは未だにはっきりしない。しかし総合的に考えると聴こえてくるのはどうやら本音や真意というべき人の偽らざる声なのではないかと思う。
 届くのは音であって言葉ではないのだが、音の存在を認識した瞬間、私の意思とは無関係に自動的にその音は読み解かれ、理解の容易い言語情報に置き換えられる。
 この音が聴こえるようになった当初は他人の感情が大量の音となって押し寄せてきて気が狂いそうだった。人込みの中を普通に歩くことも出来なかったし、とてもじゃないが教室にいることに耐えられなくて、小学校三年の冬から私は学校に通うことが出来なくなった。
 今は大抵の音を遮断できるようになったので、酷く疲れたり体調を崩したりして弱っている状態でなければ外出も可能だ。
 けれど、どう足掻いても防ぎきれない音がある。
 一番聴きたくないのにどうしても逃れられない。
 人を憎んだり、人を恨んだり、人を害したいと願ったり、私が初めて聴いた他人の心の音でもある強烈な悪意の奏でる音だけはどれだけ耳を塞ぎたくとも塞ぐことが出来ない。
「その時間帯だったら、六時半からバイトだったので、それ以降のことは誰か証明してくれると思います。ああ、バイトはコンビニです。今日は早番で」
 けれど、違う。この男だ。
 この男が殺した。
 気を失ってしまいそうだ。身体の方がそうしたがっているのを感じる。私だって出来ることなら求めに応じて意識を手放してしまいたい。でも、駄目だ、ここは家でもないし、傍に兄もいない。こんなところで倒れる訳にはいかない。
 この部屋から出たい。でも身体が動かない。
 嫌だ。あの音もあの男も嫌。
 もう聴きたくない。
 聴きたくない。
 音が痛い。
 嫌。
 聴きたくない。
 聴きたく
 
さん」
 
 音が途切れた。
 目蓋を開ける。目の前には震えている私の手があった。それでここがどこだか思い出す。駄目だと云い聞かせていたのに、気を失いかかけていたようだ。
「どうかしましたか。気分でも悪いんですか?」
 声に合わせて電波が乱れるように醜悪な音が千切れる。
 私はロボットみたいな不自然さで顎を上げた。
 火村先生が私を見ている。
 助教授の瞳は底の知れない闇と同じ色を宿していたが、それを私は恐ろしいとは思わなかった。だって、この人は今日初めてあったばかりの私を本気で心配してくれている。波紋のように静かに微かに伝わってくる音でそれが解って、そのことに何だか泣きたくなった。
 助けてと縋りつきたい、でも私の話を信じてもらえるわけがない。救いを求めても無駄だという諦めの気持ちが胸を刺したが、私はそれでも先生の瞳から目を離せず、数秒たってから漸くほんの僅かに首を横に振った。
「あの、その子、具合が悪いんですか?」
 その声に咽喉がひっと鳴った。
 嫌だ。鈴置晃二の視線を感じる。その所為か遠退いた音がまた強く鳴りだした。そんなことをしたって意味はないのに、私は思わず強張った両手で耳を塞ごうとした。
「僕でよかったらちょっと診ましょうか? といってもたいしたことは出来ませんけど」
 伸ばしかけた手が耳の横で凍りつく。
 あまりの恐怖で総毛立った。
 何てことを云うのだ、この男は。
「いっ…いや!」
 私は咄嗟にすぐ横の火村先生の腕にしがみついた。
「絶対私に触らないで…っ」
 先生の腕に額を押し付けながら私は叫んだ。
 あんな奴に触れられるなんて冗談ではない。だってそんなことをされたらきっと一生私の肌にこの気の狂いそうな音がへばりつく。不可視の刻印のように、鈴置晃二の悪意が張り付いて離れなくなる。生涯私の耳からこの音が消えなくなってしまう。
 嫌だ、そんなの。恐い。嫌だ。
 夜も昼もこんな音を聴いていなくちゃならないなんて耐えられない。
さん」
 温かい手のひらが背に触れた。
 ごうごうと鳴り響く音が罅割れて壊れていく。
「大丈夫。落ち着いて、息を吸い込んでごらん」
 ささやかな光を感じて私は縋るように云われた通り息を吸った。
 震える背中を先生が撫でてくれている。その手が纏わりついた悪意を払い落としてくれるのか、蝋で塗り固められたように強張っていた手足がやわらかくなっていく。
「誰も君に危害を加えたりはしない。解るね?」
 また少し掠れ散って遠ざかっていく音に安堵して私は頷いた。
「いい子だ」
 先生の手が今度は髪を撫でてくれる。
 例の音は霞みはしても鳴り止まない。けれど、火村先生のおかげでさっきに比べれば全然我慢出来る気がした。
 先生からは煙草のにおいがするし、低い声は融けた飴のように艶がある。父母を亡くし二人きりになってからは、ずっと私の傍にいて私のことを護ってくれていた兄とはこの人はずいぶん違う。唯一安心を与えてくれる兄とこの人は似ていない。私はこの男の人のことなんて何ひとつ知らない。
 それなのに、私は安らぎを覚えていた。
 触れる手も囁く声も不快じゃない。
 先生からは鈴置のような悪意の気配は窺えない。見返りや下心があって親切にしてくれているわけでもないし、虚栄心を満足させる為の振る舞いというわけでもない。混じりけのない善意からこの人は私の身を案じてくれている。
 その名前の通りやわらかい炎が空気をとかすような音色に惹かれ、私は目を伏せて助教授の肩に身体を預けた。
 降り注ぐ悪意は止まないが、助教授に寄り添うと雨宿りでもしているようにどこか距離を置いて聴こえる。
 この人のそばにいたい。
 もっと近付きたいと、無意識に願う。私は少し扉を開けた。そこから抜け出して助教授に手を伸ばすと、感じるはずのない温かさにまで触れられたような気がして嬉しくなる。両の手のひらで触れて頬を押し当てると、玲瓏とした音色が私の中で鮮明さを増していく。
 完全に目蓋を落としながら私は煙草のにおいを吸い込んだ。




「一人だけ妙なことを云っている人間がいましたね」
 先生は缶コーヒー片手に窓の向こうを見ている。灰色の雲を眺めて少しだけぼんやりとした表情をしているのは、煙草が吸いたいかららしい。
 事情聴取が実りのあるものだったのかどうか私には判断がつかないが、鈴置の後は今カレの金子弘、それから被害者の女友達三人から順に話を聴いていった。私が鈴置の時に取り乱したこと以外、特に何の問題もなかったように思う。
「鈴置のことですね?」
「ええ。彼だけが被害者の妊娠を主張していました」
 自分の考えが論理性に欠けてはいないか確認する為に助教授はコーヒーに口を付ける。ほんの一秒で作業を終えると、外に向けていた視線を先生は船曳警部たちへと移した。
「複数の証言を総合すると、被害者はかなり上昇志向の高い女性だったという印象を受けました。友人に対して口癖のように繰り返していたという『絶対医者と結婚してやるんだから』という台詞が事実だとすると、自分を孕ませた未来の医者に隠れて堕胎する行為は矛盾していると云わざるを得ません」
「こっそり産婦人科に行って堕胎するより、妊娠を楯に結婚を迫るという行動をとる、と考えた方が自然ですな」
「どうもあの男の態度には引っ掛かるもんがありますわ。出来すぎというか。それに奴だけが被害者の脇にコーヒーがあった点については何も言及していない」
 良かった。
 火村先生も船曳警部もあの男の嘘に騙されたりしていない。
「あ」
 その声につられて助教授から視線を動かすと、森下さんが携帯を取り出したところだった。
「はい、森下です」
 森下さんがちらりと船曳警部をみた。
「……そうですか。ご苦労様でした、はい、失礼します。警部、両親に確認が取れました。被害者がカフェインに対するアレルギーを持っていたのは事実だそうです」
 部屋に奇妙な沈黙が落ちた。
 火村先生は蜘蛛の巣のように張り巡らされた思考をまとめている。
 あの男が犯人で間違いなかったが、私は黙ったままでいた。云ったってどうせ頭のおかしい奴だと思われるのが関の山だからだ。
 先生は人差し指で唇をひと撫でしてから、淡々とした声で告げた。
「彼ともう一度話をさせてもらっても構いませんか。ひょっとしたら実際に被害者を殺害した凶器を彼はまだ持っているかもしれません」




 春を待つ晩冬の空は早くも紫紺に色を変え、蛍と呼ぶには情緒に欠ける電灯の灯りが火村先生と私の足元に黒い影をいくつも落としている。
 グラウンドの隅に設けられたベンチの一郭には既に鈴置晃二が座っていた。
 彼に巣食った悪意の音は今は大部分が鳴りを潜めている。彼の内面では現在再び呼び出されたことに対する焦燥や不安が猛烈に渦を巻いて荒れ狂っているからだ。
 大丈夫だ、さっきは上手くやれたはずだと云い聞かせて、故人を悼む風情の仮面を作っては貼り付かせようと努めている。それと同時に必死に自らの心の一部を封印しようとしていた。彼の中には今日という日に一人の女性を死に至らしめた記憶が眠っている。どこでもない彼自身に犯罪の証拠が残されているのだ。どういう経緯で彼女が死んだのか、犯行に手を染めた者にしか知りえない情報も彼は握っている。だから口を滑らしてしまうことを恐れ、彼はその体験を封じ込め、何も知らない顔を貫こうと考えている。
 けれど、それは赦されることではない。
 鈴置晃二は超えてはならない境界線に足を踏み入れてしまった。彼は罰としてルールに則りペナルティを科されるべきだ。その為にはまず彼が境界を越えた犯罪者だということを認めさせなければならない。
 だが、それをやるべきは警察であって大学の先生の仕事ではないはずだ。
 約束通りに少し離れたところで足を止め、私は鈴置の待つベンチへと向かう白いジャケットを見送った。
 どうして火村先生はこんなことをしているのだろう。
 探偵業もこなす異能の助教授に興味があったから、私はのこのこと英都大学まで足を運んだ。その助教授が実際に犯人を追い詰める様を目の前で見ることが出来るのだから、これは願ってもない千載一遇のチャンスのはずなのに、私は喜ぶどころかミーハーな気持ちで近付いたことを後悔していた。
 鈴置のもとへ一歩一歩前進しながら、先生は自らを戒めている。告発を楽しむことも誇ることも禁じ、ただ自分が為せることを冷徹に完遂することを誓う。そしてこんな真似を働くことによって周囲から浴びせられるであろう非難にも甘んずる覚悟をする。孤独な背中が奏でているのは痛々しいほど真摯で潔癖な音だった。
 研究者なら研究者らしくもっと他にやりようがあるだろうに何故なのだ。本来、研究者というのは基本的に観察者であるべきはずだ。現象に対する詳細な調査から事実や理論を明らかにすることが本分なのに、火村先生はその現象に直接介入しようとしている。
 いったい助教授は犯人と対峙することで何を解き明かそうとしているのだろう。
 好き好んでやっているふうでもないのに、火村英生は何故こんな役割を演じなくてはならないのだ。
「お待たせしました」
 先生が声をかけると、鈴置が気が付かなかったと云わんばかりに慌てて顔を上げる。本当は気付いていたのに、傷心ぶりをアピールする為の小賢しい芝居だ。
 風が吹いて私の髪を揺らす。
 空の下に立つ二人。
 犯罪者と断罪者。
 私はただの傍観者で、それなのに助教授のことを思うと胸が張り裂けそうな痛みを覚えていた。
「いえ、それよりどうしたんですか、先生。まだ何か訊きたいことでもあるんですか」
 強張った笑顔を浮かべつつも鈴置は火村助教授に真っ直ぐ目を向けた。視線を背けずにいられることで自らの潔白を証明したがっている。
 木製のベンチに腰を下ろしながら火村先生はその眼差しを無表情に受け止め、鈴置晃二の胸に根差した闇を量るかのごとくじっとその目を見返した。
「あなたは倉山さんは何故亡くなったとお考えですか?」
 鈴置の口元から少しだけ力が抜ける。
「答えられません。僕は先程あなた方から紫帆がここで倒れて死んでいたという話を伺っただけで、詳しい死因までは聴いてませんから」
「倉山さんの傍らに落ちていた缶コーヒーから塩化第二水銀が検出されました。昔は薄めたものを病院で消毒剤として使用していたこともありますが、塩化第二水銀は致死量が1mg/kgという猛毒です。遺体の状態からみておそらく死因はショック死でしょう」
 病院という単語に鈴置の肩が僅かに震えた。
 ほんの一秒、先生から視線を外す。
 もうそこまで解っているのかと怯え、医者の卵である自分とこの事件を警察が結び付けようとしているのではと感じ、けれど鈴置は崩れそうになった仮面をどうにか維持した。
 瞬きで眼差しが逸れたことを誤魔化し、唇をひと舐めするとまたしてもぎこちなく笑みのように歪める。
「毒ですか。じゃあやはり自殺なんですか?」
 だが、彼は気付いていない。
 先生の言葉に乱れてなどいない振りを続けながら、彼が今浮かべている表情がこの場に相応しくないことを。数時間前に現れたときにはあれだけ悲歎にくれてみせていたくせに、どうして彼は笑っていられるのか。取り繕っているつもりで彼の行動は既に破綻している。
「自殺とするには不可解な点があります。倉山さんの爪には缶を開けるのは困難なほど長いつけ爪がついた状態でした。あの指でいったいどうやってプルトップを開けたのかという謎が残ります」
「困難ってことは絶対無理ってことじゃないですよね。それに、何か道具を使えば開けられるんじゃないですか」
「落ちていた缶には傷やへこみといった痕跡は見当たりませんでした」
「……それで何なんですか。彼女が何らかの道具を使って缶を開けた痕跡がないって話をする為に僕をここに呼んだんですか」
「いいえ」
 鈴置の顔つきに僅かに剣呑さが混ざり、声にも苛立ちが滲んだ。
 それでも先生の声は揺るがない。
 淡々と紡ぐ低い声は空に吸い込まれていく。
「それ以外にも解っていることはあります。あの缶に残された指紋は倉山さんのものだけでした」
「だから!」
 鈴置が叫んだ。
 辺りの空気はすっかり冷え込んでいるというのに、額にうっすらと汗を浮かべて声を張り上げる。
「だから何なんです! 何で僕にそんな話を聴かせるんです! 紫帆が死んだのに! それなのに、なのにあなたは無神経だ!」
 すっと先生が右手を上げた。
 この程度の罵声には慣れているし、わざと激昂させて揺さぶりをかけられればという狙いがあるようだ。
「落ち着いてください。気分を害されたのなら謝ります。あなたをここにお呼びしたのはひとつ伺いたいことがあったからです」
 張り詰めたものを今度は一気に緩めて、鈴置はまた歪に微笑む。
「何ですか」
「あなたは何故倉山さんがコーヒーを持っていたと思いますか」
「寒いからでしょう」
 馬鹿馬鹿しいと云いたげに吐き捨てる。
「日の当たる日中ならともかく朝や夕方はまだ寒い。実際今だって寒いじゃないですか、誰だって冷たいものより温かいものが欲しいでしょう。普通の神経してたら爪が折れようが指が折れようが温かいコーヒーを飲みたいと思うのが当然なんじゃないんですか」
「しかし彼女は飲んでいません。彼女はコーヒーは飲まないんです」
「ええ、そうですね、そういえばいつもジュースみたいなのばかり飲んでましたね、でも寒いんですよ、飲むでしょう嫌いだって温かいコーヒーが手元にあったら」
「いいえ、味が嫌いといった嗜好の問題ではなくて倉山さんは本当に飲めなかったんです。カフェインに対するアレルギー体質だった為に」
「え…?」
 鈴置晃二の顔が顰められる。
 そして、次の瞬間愕然と表情を強張らせた。唇を僅かに開いたが何も言葉にならない。
 焦りと不安と怯えの混在する音がどんどん大きくなっていく。
 不味いという単語が鈴置の心を占拠している。洗浄してから処分しようと思っていたペットボトルがまだ鞄に入っているらしい。
 反論を受け付けるかのごとく先生はしばらく黙っていたが、鈴置が項垂れたことを契機に静かな声が再び場を支配する。
「私はその点をはっきりさせたかったのです。あなたはこの事実をご存じだったのか、そうでなかったのか。
 倉山さんはカフェインを摂取すると口唇の膨張や蕁麻疹、酷い場合は呼吸困難といったアレルギー症状を引き起こしてしまう体質だったそうです。倉山さんのお友達にコーヒーの缶が落ちていたことを告げると、皆さん一様にそれは絶対に彼女が買ったものではないと口を揃えておっしゃっていました。小学生の時にコーヒー牛乳を飲んで気管支収縮を起こし病院に搬送されるという経験をして以来、彼女はコーヒーや紅茶といったカフェインの含まれる飲み物は一切口にしなくなっていたそうです。
 彼女が毒物の入ったコーヒーを何者かから受け取ったことは、もはや間違いないと考えていいでしょう。誰かが彼女に既に開封済みの缶を手渡したんです、おそらくは手袋をして。まだ肌寒いこの季節なら手袋をしていてもそう不審がられることはないでしょうから。ただし、倉山さんは受け取りはしても口をつけてはいない。彼女の身体は何のアレルギー反応も起こしていません。だとすると、彼女はあの毒入りコーヒーを飲んで亡くなったわけではないということになり、同時に自殺の可能性も完全に消えました。
 では、どのようにして犯人は被害者を毒殺したのか。
 せっかく人気のない早朝を選んだというのに、倉山さんは一向にコーヒーに口をつけようとしない。このままでは二人でいるところを誰かに目撃されてしまう。打開策として犯人は手元にあるもの、すなわち自分の飲んでいたものに再び塩化第二水銀を混入し、倉山さんに与えたのではないでしょうか」
 鈴置の肩が隠しようもなくびくりと震えた。
「つけ爪によって我々は早々に他殺の線を疑ったわけですが、犯人としてはあわよくば自殺に見せかけるつもりでわざわざ毒物という手段を選んだのでしょう。だとすると、実際に倉山さん殺害に使用した缶あるいはペットボトルが発見されると厄介なことになる。犯人は凶器を洗浄して毒物の痕跡を消し去ってから処分しようと、まだ所持している可能性があります」
 拳を握り、唾を飲む。
 顎を上げると上目使いに火村先生を睨む。
「……そんなのどうだったかなんて僕が知るわけないじゃないですか。まるで僕が犯人だと云いたげですね。僕を疑うのは勝手ですけど、アレルギーを知らなかっただけで犯人にされちゃ堪らないですよ。証拠があるんですか。あなたの云っていることは全部仮定の話だ」
「現時点ではありません。けれど司法解剖が済めば犯人の動機が白日の下に晒されることになると思いますよ」
「どういう意味です?」
 もはや何ら表情を取り繕うことなく盛大に眉を顰める鈴置に先生は無表情な声で告げた。
「医者を志すあなたが知らなかったことが意外なんですが、今は出産前でも羊水あるいは絨毛膜を使用することでDNA鑑定が可能です。
 あなたは倉山さんが妊娠していると云っていましたね。そして、それは新しい恋人との子であって、彼女は堕胎すべきか否か酷く悩んでいたと。けれど、金子さんはそんな話は倉山さんから聴いたことはないとおっしゃっていました。鑑定の結果で、少なくとも誰が事実と異なることを口にしているのかがはっきりします」
 再び俯いた鈴置は唇を千切れるほど噛み締めている。
 数秒待ってから、先生は淡々とした口調で告げた。
「失礼ですが、所持品検査をさせて頂けませんか」
 返事の代わりに呻き声が唇から漏れた。
 乱暴に両手で顔を覆うと、身体を折って鈴置は地面に向かって叫んだ。
「僕は赦せなかったんだ! 妊娠した、僕の子だって云われて僕は嬉しかった! 僕は結婚しようって云った、なのに紫帆はあんたとは結婚なんて出来ないって、中絶するから金をくれって……僕はせっかく授かった命をそんなふうに扱おうとする紫帆が赦せなかった!」
 詭弁だな。
 授かった命を憐れめるなら何故殺人など犯せるのだ。
 被害者の友人の話によると、彼らが別れた本当の原因は鈴置が昨年の医師国家試験に失敗したことだったらしい。そして、鈴置と別れてすぐ被害者は無事試験合格を果たした金子弘と関係を結んだ。
 被害者の振る舞いは彼を深く傷つけたのかもしれないが、私は彼に同情なんてしない。どれほどその叫びが悲痛であろうと彼は人を殺した罪人だ。
「紫帆が悪いんだ、紫帆があんなこと云わなきゃ…っ」
「ヒポクラテスの宣誓もご存知ありませんか」
 先生の声は一貫して冷静で、その台詞だって責める響きを帯びてなどなかった。
 けれど文字通り鈴置が凍りつく。
 ヒポクラテスは古代ギリシアの医者であり、原始的な医学から迷信や呪術を切り離し、科学的な医学を発展させたことから医学の父と呼ばれる人物だ。医師の倫理性と客観性を説いた『ヒポクラテスの誓詞』は現在でも語り継がれている。だが、一部に現代にそぐわない部分があるとして、国際的な新たな医の倫理規約として誕生したのがジュネーブ宣言だ。その現代版ヒポクラテスの誓いとも云うべき宣言にはこう記されている。
 『私は、たとえいかなる脅迫があろうと、生命の始まりから人命を最大限に尊重し続ける』、と。
 鈴置は医者になることが小さい頃からの夢だったと語っていた。
 しかし、彼は自らの手を汚すことによってその資格を永久に失ったのだ。
 悪夢から覚めたように疲れ果てた顔で火村先生を見詰めると、鈴置はゆっくりと首を左右に振った。
 
 

 
 
 力ない肩を森下さんと鮫山警部補に支えられるようにして鈴置は去っていく。
 火村先生と二、三言葉を交わしてから、船曳警部も遅れてその後をゆったりとした歩調で追う。
 ベンチに座って私はその三つの背中を見送った。
 私の頬を冷たさを増した風が撫でていく。空に目を向けると、闇に染まった天井には星がちりばめられていた。レモンのような月も煌煌と光を降り注いでいる。
 呆気ないなと私は胸で呟いた。
 人が一人殺されたのに、犯人確保という事務的な意味においてはこれでこの事件は決着したことになるのだろう。残された者にとっては平穏を奪われただけでなく深淵なる哀しみを与えられてしまう出来事も、世間一般からすれば犯人の確保がイコール事件解決なのだ。理不尽な奇禍によって唐突に娘を奪われたご両親は、この先ずっと忘れることの叶わない喪失感に苦悩し続けていくに違いないのに。
 仕方のないことだと頭では解っていても、苦い遣る瀬無さを私は完全に拭い去ることが出来ないでいた。
「悪かったね、おかしなことに巻き込んでしまって。もう全て片付いたから安心していいよ」
 その声にはっとなって反らしていた顎を戻す。
 ぼんやりと記憶の海に沈んでいる内にいつのまにか助教授がすぐ隣に立っていた。
 穏やかな表情で私を見下ろしている。
 だが、その顔を見た途端、私は泣きたい気分に襲われた。
 この人はちゃんと自分で気付いているのだろうか、自分が傷付いていることを。
 犯罪者を白日の下に引き摺りだすことにどこか罪悪感を覚えている。どうしてその行為に後ろめたさを感じているのか解らないが、けれどきっとこの人はこんなことをしていちゃいけないのだ。こんな真似を続けていたらこの人は壊れてしまう。
 私は唇を開いた。
「どうして先生は」
 瞬間、私は我に返った。
 驚いて咄嗟に伸ばした手のひらの下にはコートのポケットの中で震えている携帯電話がある。その硬い感触が私に自分が何をしようとしたのかを自覚させた。
 急激に色を取り戻していく現実感にざあっと一気に血の気が失せる。
 狼狽えながら「すみません」と先生に断りポケットを探りつつも、誰だか知らないがいいタイミングでありがとうと心からの礼を述べる。
 もし携帯が鳴らなかったら、私は危うく妙なことを口走って助教授から思い切り不愉快な眼差しを向けられていたに違いない。
 あの音から少しでも気を逸らしたくて清涼で心地良い音を爪弾く先生に波長を合わせた挙句、悪意が鳴り止んだ後もずるずると云わば聞き耳を立てた状態を維持し続けてしまった。久々に強烈な悪意を受けとめて頭が馬鹿になっていたにしたって、弁解の余地がないくらいかなり最悪な行いだ。
 私のあれは他人の心に土足で踏み入る行為に準ずるものであり、悪意のように私自身がどうにも出来ない場合を除き、特定個人の音に故意に耳を傾けるなんて盗撮盗聴以上に質の悪い行為といえる。証拠は残らないがある意味一種の犯罪だ。
 今更遅いけれど、とんでもないことをしてしまった。
 どうしようとそればかりが頭の中をぐるぐるしていて、誰だかろくに確認もせずに私は通話ボタンを押した。
「はい、です」
、今どの辺にいるの』
 呑気な声は兄の那弦のものだった。
「どの辺…っていうか、とある大学にいるんだけど…ええと…あのね、ナツにぃ…」
 英都大学に潜り込んでくることは告げて出てきたが、いったいどこから話せばいいものか。
 返答に窮する私に「からか?」と助教授が問うてきたから、ますます私の頭は混乱した。何だその気安い調子は、それじゃまるでお友達みたいじゃないか。
『あ、見つけた。おーい』
「え? 何、見つけたって」
『左、左、違うよ、そっちじゃなくてちゃんとから見て左の方』
 訳が解らないままきょろきょろと周囲を見渡すと、云われた通りの方向に闇に融けるような暗いスーツの人影があった。
 上背もあるしスーツが似合ってないわけでもないのに、どこか頼りない風貌の我が兄がこちらに向かって手を振っている。求刑が厳しいと評判の検事らしいが、こうしているとまったくそんなふうには見えない。銀行窓口とか保険の外交員とかのがよっぽど性に合うんじゃないかと思う。
 携帯をポケットに収める間に兄は私たちのいる場所に辿り着いた。
「ナツにぃ、なんで、ここに」
 私の混乱なんて目に入ってないように瞳を細めておっとりと笑う。
「ああ、だって一時間くらい前に火村からの留守電残ってたから。この大学にいるっていうから駅で待ち合わせるより合流した方がいいかなって思って」
 じゃあ、やっぱり二人は知り合いなんだな。
 私が尋ねたときは友達じゃないような返答だったが、あれは親しい友人をわざと貶してみせる一種のポーズだったのか。何だか酷く損をした気分だ。最初からそれが解っていれば、この疲労も心労も半分ですんだ気がする。
 溜息を吐く私の頭上で、ちりっと焦げるような音がした。火村先生の苛立ちが伝わってきて、私は今度こそ慌てて心の中で耳を塞いで大声で謝罪を叫んだ。
「おい、。お前何考えてんだ」
「え?」
 首を傾げる兄を火村先生は睨みつけた。
「えじゃねえよ。どういうつもりで、この子を寄越したんだ、お前。妹が推理小説家で俺のやってることに興味があるから会ってやって欲しいって話だったが、来れないなら素直にそう云えばいいだろ。確かにお前の云うとおりの外見をしていたが、最初に見たときずいぶんと幼いと思ったんだ。それでもどれだけ小さくても二十歳超えてるからっていうお前の言葉を信じて連れてきたら、容疑者の話を聴いてるだけで震えるぐらいに怯えだしたんだぜ。可哀想じゃないか」
「火村、ちょっと待って火村」
 見当外れの義憤に棒を飲んだように立ち竦む私の横で、酷く狼狽した様子の兄が先生の台詞を遮る。
「勘違いしてるようだけど、正真正銘これが僕の妹なんだ」
「だから悪趣味な冗談は止めろよ。だいたいこの子はどこの子なんだよ。親戚の子か?」
 私は無言で鞄からパスケースを取り出すと、兄を睨みつけている助教授に向かって差し出した。
「見えなくて申し訳ありませんが、本物です、これでも。コンニチハ、ハジメマシテ、那弦の妹のです」
 私の免許証に助教授が胡散臭げな視線を注いでいる。
 助教授は段々と無表情になっていく。たっぷり十秒は眺めてから、私と兄を見比べておもむろに口を開いた。
「あんまり似てねえ兄妹だな」
 似てなくて悪かったなこんにゃろう。
 百九十センチ近い兄と違ってどうせ私はドチビだよ、似てないよ、デコボコ兄妹で悪かったな。
 ということはなんだ、あの善意は私がちびっこ故の優しさだった訳だ。子どもとお年寄りには優しくするのが当たり前ってアレですか。あーそうですか、ジェントルマンなんですね、先生は。先生が鈴置に会いに行くときもついていきたいって云ったら少し離れた場所までなら一緒にきてもいいよって許してくれたのは、私としては張り詰めた様子の先生が気懸かりだったからなのだが、先生は私がお子様で置いていかれるのを寂しがってるとか思ったワケですね。
 …………くそう。
 殴りたい、兄も先生もまとめて両方殴りたい。
 だが、この身長差じゃ上手くビンタも出来ない。
 ああ、むかつく。なんて不便な身体なんだろう。
 私は息を吸い込むとにっこり笑った。
「先生今日はどうも子守りお疲れ様でした。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでしたね、では失礼します」
 云うだけ云うと私は身を翻した……といえば聞こえはいいが、つまり助教授が目の前にいると腹が立って腹が立って憤懣やるかたないので逃げ出しただけ。
、待ってよ! 三人でご飯食べに行こう!」
「いらない!」
 怒鳴ったところでがっと爪先が何かに引っ掛かった。背後で兄が「あっ!」っと叫んだときには私はべしょっと芝生の上に転んでいた。
 芝生で良かったとか思う間もなく、ぐずぐずしてたら兄が駆け寄ってきてしまうので素早く身を起こす。「、大丈夫?」という兄の声が聴こえた気がしたが、恥ずかしくてもう返事もしたくない。
 ああ、もう最悪だ。
 顔が熱い。痛みの所為じゃなく、涙が滲んでくる。

 嫌いだ、助教授なんて。