「あれ?」
夏休みはとっくに終わってしまったというのに、影との境界線をくっきりと描きだす日差しは休むことなく未だに降り注いでいた。
そんな強烈な日差しに晒されているにもかかわらず、設楽兵助は汗の玉一つ浮かべていない白い肌で悠々と校庭を横切っていた。
向かう先、おそらくは達筆だったと思わせる程度にしか判別の出来なくなった明星中学蹴球部と書かれた看板のその下、そこにあるはずの看板と同じくもとは赤かっただろう日に焼けてぼろぼろになったコカコーラのベンチが消え失せていた。
「捨てられた?」
華奢で少女めいた外見に似合わない、低音で呟く。
昨日までは廃棄物一歩手前ぎりぎりセーフだったが、今日はアウトだったのかもしれない。
だが近付くにつれてそうではないことが解った。看板の真下から四本の線が部室の横の木陰までずるずると続いている。その黒々とした影の中、ベンチの上で膝を抱えてる小さな人影があった。
「なんだ。ちんか。何やってるの、そんなところで」



                                   S cream
                                     O f
                                   S trawberry



「何してんの?」
設楽がどさりと座り込むと、廃棄物寸前のベンチはぎしぎしと大袈裟に軋み、ぼろぼろと木屑を零した。隣の少女の身体も振動で前後左右にゆらゆらと揺れる。その動きに誘われたかのように、どこか嗅いだことのある甘い匂いが香った。
「ねえ、何してるの?」
返事の無い少女に気を悪くした素振りもなく、媚びるでもなく、だらしなく腰掛けた設楽はもう一度問いかけた。
ちん、暑くないの?」
「あっついに決まってんだろ!」
刺のある声で即答する。木陰とはいえ、炎天下の校庭に居るとは思えないほど涼しい顔をしている設楽が悪いのだ、とでも云いだしかねないような口調だった。
「そう。やっぱあちぃんだ。こんなとこ居るから暑くないのかと思った」
「……タカシちゃん、待ってるのっ」
と呼ばれた少女がふくれっ面でやっと最初の質問の返事をする。
同時に苛々とした仕草で、膝を抱えたまま今度は自主的に身体を前後に揺り動かし始めた。
「半に、って云ったくせにまだ来ない。もう50分だよ、すっげえムカツク…ッ!」
「鳴海なら今日来てないよ」
「はあぁぁ!?」
ちんその顔すっげブサイク。変。止めた方が良いよ」
の顔を指差して、さらりと設楽は失礼なことを云い放つ。
だがで設楽の無礼を無視し、自らを指す枝のように真っ直ぐな指を乱暴に握り込んで脇に追いやり、親の敵のような目で設楽を睨みつけた。
「何それっ!タカシちゃん来てないの!?何で!?」
「選抜」
簡潔に回答を与えてやるとはぶんと設楽の指を投げ捨て、ふっくらとした小さな拳でどんっとベンチを殴った。再度ベンチがたわみ、さっきの倍の木屑がばらばらとグラウンドを汚す。
「はぁぁぁ〜〜!!?ナニソレ!うわあ超超、ちょぉぉーおムカツクっ!!!!」
「何?ちん、鳴海と約束してたんだ?」
設楽はの手を取ると木屑を払い、とげが刺さっていないかどうかわざと時間をかけてゆっくりと確かめた。
「そうだよ!ってゆーか一方的に約束させられたんだけどね!」
「可哀想に。鳴海はホントに悪い奴なんだ。嘘吐きで馬鹿で乱暴者でいいとこなし。ちょっとガタイがいいからって威張り散らして、影じゃチームメイトにも嫌われてるんだぜ。ちんもホント付いてない、あんな最低ヤローが従兄弟なんてさ」
、13歳、明星中学一年生。
良くも悪くも、この明星中において知らない奴は居ないと思われる鳴海貴志の従兄弟。
小学生低学年かと見紛うほどの身長に身体つき、ハンドボールほどしかない顔のおかげで、例え平均的なサイズだとしても比率の問題でその目は漫画のキャラクタのごとく大きな印象を与える。
従兄弟の鳴海貴志などは中学二年にしてすでに180センチの大台に乗っているというのに、は誰がどう見てもミニモニだ。全く遺伝子とはかくも不思議なものである。
「ほんとそうだよ!」
がぷりぷりと幼い頬を脹らませる。設楽はその様をどこか満足げな表情で眺めた。
「で、今日はアイツはちんにどんな嘘をついたの?」
約束の反故をさりげなく『嘘』に摩り替えて、設楽はを宥めるようにその肩を叩いた。
「ドーナッツ!」
は横にあった籐のバスケットを荒々しく設楽と自分の間に置き、豪快に蓋を開けた。
途端、砂糖と油の甘い匂いが立ち昇った。
「先週ねぇ、タカシちゃんまたワガママ云い出しやがってさぁ、ドーナッツが喰べたい、じゃあ買えば?その辺で売ってんのなんかヤダ作れって、しかもねぇ、前日に作ったのは油っぽくなるからヤダ、当日の朝作って持って来い、しょうがないなぁー、じゃあいつー?来週の土曜に持って来い、練習前に喰うからよ…って云ったんだよー!!!」
よっぽど悔しいのか、頬が林檎のように紅くなっている。
八つ当たり以外の何物でもない怒声をぶつけられているというのに、その様に設楽は愛おしそうに目を細めた。
「あたし、仕方ないから朝6時に起きて朝から揚げ物したんだよ!このクソ暑い日に朝から!しかも終わらなくってガッコ遅刻しちゃったんだよ!それなのに、そーれーなーのーにー、アイツは居ないだとぉぉ――!?」
ふざけるなー!とベンチの縁を掴んでがたがた揺らしながらが絶叫する。
設楽は目元を緩めたまま、の形のいい頭を撫でた。
「よしよし。なんて酷い奴なんだろうな、鳴海は。きっとアイツにとってちんよりサッカーのが大事なんだぜ?じゃなかったら忘れるわけないもんな」
電池が切れたようにぴた、との動きが止む。
しばらくの間グラウンドを睨んでじっと考え込み、たっぷり一分は経過してからそろそろと縋るような目で設楽を見上げた。
「…………そう、なのかな…タカシちゃんにとってあたしサッカー以下………?」
設楽は心の中で舌打ちした。
失敗した。
やりすぎた。
あのクソ野郎め。
心の中で思いつく限りの暴言を吐き散らしながらも設楽はにこにこと笑顔を作り、首が揺れ動くほどぐりぐりとの頭を撫でまわした。
「ハハッ、信じた?鳴海が幾らサッカーバカつってもちんのが大事に決まってんじゃん。どうせ今日選抜行かなきゃならねぇのだって、約束した時は綺麗さっぱり忘れてたんだろ。ただのバカなんだよ、バカ」
途端曇っていた表情が晴れる。
が酷くほっとした様子で口元をほころばせた。
「ん、だよね、タカシちゃんはバカなだけだよね、バカバカ!」
「そうそう、アイツはバカなんだよ、大馬鹿」
無邪気なはどうせ気付いてもくれないだろうけど、外見と不釣合いに低い声にさらに渋みが混ざるのを止められない。
設楽はこの場に居ない鳴海を心の底から散々こきおろした。
一緒に過ごした時間が違う、血の濃さが違う、愛情の深さが違う。
解っていてもこうして目の当たりにすると腹立たしくて仕方が無い。
そう。単刀直入に云ってしまえば要するに嫉妬だ。
自分以外の誰かがこの子に一番に思われてるのが気にくわない。
それがどんなに醜くて浅ましい感情だとしても気にしない。矛盾するようだが、それぐらいどんな手段を講じてでも相手の気を惹きたいと望むのは恋愛においてよっぽど健全だ。
「ねぇ、設楽くん、ドーナッツ好き?」
結果的に、設楽の言葉に不安になった所為ではもう鳴海に対する怒りを浄化させてしまったようだ。ついさっきの癇癪など綺麗さっぱり洗い流した清々しい笑顔で、バスケットを覗き込む。
を哀しませるのは本望ではないからあの場はああ云うしかなかった。だが、そうは思ってもと違い設楽の方はそう簡単に失望も憤懣も消えそうにない。今日で何度目の失敗だろう?が傷付くことなく鳴海から離れるよう仕向ける作戦は難航していた。鳴海もいちいち牽制してくるのも遅々として作戦がはかどらない要因の一つだ。
(まったくほんとに邪魔な奴)
設楽は笑顔の下でチームメイトを有らん限りぶん殴り罵った。今ごろげっぷのひとつでもしているかもしれない。
「結構ねー、いい出来だと思うんだよねー。フツーのとねー、チョコとねー、抹茶とね、あとねぇ、あとシナモンがあるよ、設楽くんどれがいい?」
「シナモン」
「はーい」
が金色っぽいぴかぴかしたドーナッツを取り出して「はいどーぞ」と設楽に差し出す。まるでおままごとでもしているような気になった。
「いただきまっす」
そう云って設楽は金のわっかを齧った。ぱらぱらと鱗分のようにシナモンパウダーがシャツに零れていく。
は自分にはチョコレートでコーティングされたものを取り出して、女の子らしい配慮を欠いた大きな口を開けると齧り付いた。唇が離れたドーナッツはすでに四分の三だけになっている。
「おーいひーい」
頬袋のように両頬にドーナッツを溜め込んだは最高に幸せだという顔をしている。設楽も瞬く間に一つ目を喰べた。美味しかった。『愛は最高の調味料』という素晴らしく陳腐な格言はまさに正鵠を射ている。バスケットの中は順調に数を減らしていく。
「…………鳴海もほんとバカな奴。こんなウマイの喰い損なうなんて」
設楽は指に付着した苔のような緑色の抹茶を舐め取りながら、性懲りもなく再度鳴海イメージダウン作戦を試みる。
は一瞬きょとんとして(もうすっかりそもそもこれは鳴海貴志の為に作られたものだということを忘れていたらしい)、それからむっとしたように眉間に皺を寄せた。
「もうぜーったい、あのバカのゆーことなんかきいてやらないんだ。ねぇ、設楽君、月曜にタカシちゃんに会ったらドーナッツスッゲェ美味かったぜ〜って力一杯自慢して悔しがらせて」
「うん、いいよ」
無論設楽はに頼まれるまでもなくそのつもりだった。せいぜいいつも自分が味あわされているのと同等、いやそれ以上の深い悔恨の渦に突き落としやる。
でもきっとドーナッツなんかより何倍もあいつを悔しがらせる手段があることを設楽は知っている。
「もっと鳴海を悔しがらせる方法教えようか?」
「え……?教えて教えて!そんなんあるの!?」
が好奇心をむき出しにして身を乗り出す。
今その目の中に映り込んでいるのは設楽だけだ。
設楽はの心を独り占めしていることを感じ、嬉しさに鳥肌が立った。
「ヘースケ」
「あ?何?それ?」
が顔を顰める。
「だからその顔ブサイクだって。兵助。俺のこと兵助って呼び捨てにしてみな」
「なんで設楽くんを呼び捨てにすることでタカシちゃんが悔しがるのさ?」
「いいから。俺のことは兵助、でもアイツのことは絶対貴志って呼んじゃ駄目だ、何云われたってタカシちゃん呼ばわりしてやりな。そうすれば鳴海は憤死しそうなぐらい怒り狂って悔しがることが確実だから」
「ふぅん……」
がこれはさも難題だ、といった風に腕を組んで眉間に皺を寄せる。唇をへの字にひん曲げた外見に似合わない仕草で、きっと幼いなりにこのなぞなぞの答えを探しているんだろう。
設楽は黙ってその丸っこくて可愛らしい耳の辺りを眺めた。
この子が設楽の気持ちに気が付くのはいつのことだろう?
発育不良なのではないかと疑いたくなるほど小さな身体。薄い身体はどこもかしこも真っ平らで色気の欠片もない。不器用なわけでもないのに、髪を結ぶのが苦手でいつも母親に結わいてもらってると云っていた。だからそのレパートリーは三つあみ、ポニーテール、センターパートといたって少ない。口の利き方も雑で、時折その会話には男言葉が混じる。
設楽を思いつめた視線で見つめてくる女子とは大違いだ。
どうやってるのか不思議なくらい綺麗に髪を整え、女の子らしい仕草と言葉で誘惑してくる。
どうして設楽はじゃないと駄目なのか不思議だった。
「………ん、よくわかんないけど、まいーや。タカシちゃんがあたしのありがたさを思い知るならやるよ」
どこまでも鳴海中心の考え方に一瞬むかっとなる。
中学生に見えないガタイを最大限利用して自分は適当に遊んでいるくせに、鳴海はに近付く男は許さない。
鳴海にとっては一番ではないくせに、それでもあいつはの関心をこれほどまでに集めている。
はらわたが煮え繰り返りそうな怒りを押し包んで、設楽は笑顔を作った。
「うし。んじゃこのことはヒミツな。なんで俺のこと呼び捨てにしてるんだよって、絶対鳴海はひつこく訊いてこようとするだろうけど、ソレがミソなんだから絶対俺が持ちかけたって云っちゃ駄目だ。じゃないと意味ないからな、適当にお前にはナイショだってあしらうこと」
「オッス、了解しました」
何にも解ってないはおどけた仕草で敬礼しつつも神妙な顔で頷く。
名を呼ぶこと。
このことによって表面的には立場は逆転する。
鳴海はきっと気付かない。
が鳴海を懲らしめる為だけにこの提案を受け入れたことを。
本当は設楽なんかより、自分の方が大事に思われていることを。
真実は絶対に教えてやらない。当たり前の恩恵に気付かない奴が悪い。
恋愛なんか、勝ったもん勝ちだ。
「んじゃ、試しに呼んでみな」
「兵助」
さらりとが言葉を紡ぐ。
この世は本当に本当に不思議なもので満ちている。
誰に何百回名を呼ばれたって、この子のたった一回の価値には及ばない。
なんて安上がりな幸福。
大声で笑い出したいほどの興奮が胸の中で湧き上がる。

ザマァミロ。
せいぜい月曜の朝悔しがれ。

衝動を鎮めるためにから一旦視線を外して、腹の底から息を吐き出す。
次に顔を上げた時には、設楽は余裕を滲ませた穏やかな笑みを浮かべていた。そして枝のような指を伸ばして、の唇を汚している黄金の粉を拭ってやる。
「ん。ダイジョブだな、そんじゃ今日から兵助な」
それからふと、設楽は思いついた疑問を口にした。
「なあ、ちん。シスコンとロリコンの男だったらどっちがマシ?」
半開きになった桃色の唇を設楽の指の好きにさせたまま、はきょとんと目を丸くした。
「どっちもヤダ」
設楽の指の下、思いついたことをそのまま口にしたといった台詞。
その返答に我慢できずに設楽は白い首を仰け反らせて笑った。