「あ」

ほんの微かに爪の先へと触れた瞬間、まるで反発し合うプラスとマイナスみたいにびくりと跳ねたの手のひら。
渋沢は斜め下へと視線を落とす。
横に並んだの手元に指を伸ばした自分の行為は殆ど無意識といってよかった。
まるで娘のように溺愛している少女と手を繋ぐことは渋沢にとって、最早ごく日常的な習慣と化している。例えそれが傍から見たらどれほど周囲の人間を慄かせていようが、温和な様で我の強い渋沢は針の先ほど気にしていない。
「どうした?」
立ち止まり、渋沢は笑う。
先日、三上に可愛くて仕方ないって感じにに笑いかけるのを止めろと云われた。部活が終わった後だろうといくらなんでも示しがつかないから、と。
その時はそんなことはない、ただしそう見えたのなら今度から気をつけよう、と答えた。けれども、指摘された今なら何となくあの三上の渋い顔の意味も解る。確かにきっと今自分は『が可愛くて仕方がない』という顔をして笑っているに違いない。
思い出した指摘にそれでも少しばかりは苦いものを笑顔に滲ませ、渋沢はへと左手を差し出した。
にとってもこれはありふれたことのはずだった。時には自ら渋沢の手を求めてくる。小さな手が小指と薬指をやわらかく包んだ様は、まるで迷い子に縋りつかれているようで渋沢を妙に落ち着かない気分にさせたこともあった。
守りたいような苛めたいような、混沌とした感情が俄かに甦りそうになって渋沢はそれを捻じ伏せる。半ば無理矢理、目の前の状況に意識が向くよう自分自身を導いた。
だが、当然すぐに握り返されるものだと思っていたのに、は胸の前で両手を握り締めるばかりで一向に渋沢の手を取ろうとしない。
「どうしたんだ、?」
もう一度問うてみると、はますます狼狽たように両手を握り込む。
「あ、あの、あのさっき石灰入れるのに失敗しちゃって、零れた分を手ですくったので、あの、手が汚くて」
「そうか、後でよく手を洗っておけよ。口や目に入ったら大変だから」
宙ぶらりんで行き場を失っていた手のひらでの頭を渋沢は撫でた。まるで咽喉を撫でられて喜ぶ猫のようにがその目を僅かに細める。
渋沢も目を細めた。布きれの下のの背中や腹の皮膚も視線の先にある頬と同じようにきっとやわらかく滑らかなのだろうと思って。
と目を合わせていると、時折水面下から泡が浮かびあがるように何の脈絡もなく不埒な推測が脳裏を掠めることがある。
その泡沫を押しつぶすのは簡単だ、瞬きひとつで事足りる。ほんの一秒、開けて閉じてを施せば、後ろ暗い妄想はすぐに消え去る。
艶のある黒髪の上で手のひらを二往復させると渋沢は歩き出した。二、三歩の小走りの後、が渋沢と肩を並べる。
ちらりと視線を流すと相変わらず華奢な両手は胸の前で組まれたままだ。
渋沢は密かに透明な溜息を吐き出す。
が横に居るのに自分の手のひらは空っぽ。
その事にどうしてこれほど明確な落胆を感じなくてはならないのか、渋沢自身不思議で仕方なかった。


柔肌は白百合の純潔



芝生に座ってグラウンドを見下ろしながら、渋沢克朗十五歳は重い溜息と共に呟いた。
「お父さん、かっこわるーい、もうお父さんとなんて手なんか繋ぎたくないわーってやつなのか? …駄目だ、そんなことを云われたら俺はどうすればいいんだ」
瞬間、二対の冷ややかな視線が向けられた。
時刻は既に夕暮れ、正規の練習時間はとっくに終わっている。現在武蔵野森サッカー部グラウンド周辺には、発言者の渋沢、その少し後方で柔軟をしていた三上、後片付けをしていた笠井、それから河原の土手のように傾斜を下った先のグラウンドに藤代とが居る以外人影はない。
従って、渋沢の台詞を耳にしたのは三上と笠井だけだったのだが、これは不幸中の幸いだったかもしれない。こんなダメなオッサンのような独白は、それこそ渋沢を神のごとく崇拝している連中には特に聴かせたくない台詞だ。
甘く垂れ気味の目元を冷淡に顰めながら、三上は前屈していた上体を起こす。そしてそのまま胸を反らして背後に手を突くことで身体を支える。表情といいそのポーズといい、全身から余すとこなく『お前馬鹿?』オーラを惜しみなく発散していた。
「何云ってんの、お前? またまた中学生のくせに〜とか慰めて欲しいワケ? それともアレ? やっぱりお前年齢詐称してて実はもう隠し子でもいてその告白の為の前フリかなんかか?」
三上ほど露骨ではないものの、笠井の方も淡々とした無表情で片付けを再開し始める。
「大丈夫ですよ、キャプテン。キャプテンよりも明星の鳴海の方がよっぽど嘘っぽいですから。制服さえ着てればウチの生徒だって云い張れますし」
「それとも恥ずかしいからもうお父さんとは手を繋ぎたくないわーの方か?」
「うわ、人が親切に突っ込んでやったのに無視したよ、コイツ」
「どうします? 何か悪いものに取り憑かれてるとしか思えないようなことを口走ってますけど」
「とりあえずお払いと称して蹴落としとくか? 転がってるうちに正気に戻るかもしれねぇし」
「なあ、お前たち」
武蔵森式除霊術を発動させようと、三上が片足を振り上げたところで渋沢が振り返る。
交互に三上と笠井を見やると、渋沢は真顔でこう続けた。
が手を繋いでくれなくなったんだが、どう思う」
二対の視線の温度はさらに低下した。
最早マイナス零度と云ってもいい。だが、そんな極寒の眼差しに晒されていようと、当の渋沢は一向に気にする様子がない。
顎に手をあて、苦渋に満ちた顔で言葉を続ける。
「この間から急になんだ。最初は石灰で汚れているから、その後も泥だ砂だ糊だジュースでべたべただの云って拒むんだ。一体どうしたんだろう、俺は特に何も思い当たる節はないんだが。確かに年頃の娘が部活動の先輩とはいえ……何だよ、三上」
三上がスパイクで渋沢の腹を突付いている。先程から蔑むような半眼を惜しみなく友人に注ぎまくっている三上がグラウンドへと顎をしゃくった。
渋沢だけでない、つられて笠井も振り返る。
三人が見下ろすグラウンド。
藤代とはグラウンドの方の片付けをしていた。つい先刻、笠井に悪霊憑きと云わしめた呟きを渋沢が漏らしていた時には、ボールの入った籠と壁を用具室へと転がして押していく二人の姿があった。
渋沢がグラウンドに背を向け、三上を振り返った直後にはごーんという扉の閉まる音。それからどういう訳か藤代の『おも、ちゃの、ちゃちゃちゃ! おもっ、ちゃのっ、ちゃっちゃっちゃっ!』という、何だか妙な歌い方のおもちゃのちゃちゃちゃが聴こえていたが、某エースストライカーの奇行はいつものことなので渋沢は気にも留めてはいなかった。
自らの責任を問われる可能性が高くない限り、基本的に渋沢は藤代を野放しにしている。
だがしかし、今は責任なんて全然関係ないけどとてもじゃないが見過ごすことが出来そうにない。
「繋いでるじゃないですか、誠二とは」
そっけない笠井の一言は的確な上、容赦もなければ配慮もなかった。
笠井の云う通り、グラウンドのと藤代は仲良く手を繋いでいる。向けられた眼差しに気付くこともなく、どういう遊びなのか、藤代とは手を繋ぎ相変わらず妙な調子でおもちゃのちゃちゃちゃを歌いながら、両足で前方と右方向へのジャンプを繰り返しながらこちらに移動している。
「…………三上、フォワードが一人いなくなってもウチは負けないよな?」
「ゴールキーパーのお前が一点も取られなきゃ物理的にウチが負けるってことはねぇな。ただしフォワードが点を取らなきゃ何時までたっても勝つこともねぇってことを忘れるなよ、キャプテン」
無言で立ち上がると、渋沢は芝生を滑り下りていく。
渋沢が残していった飲みかけのドリンクを片すついでに芝を覗き込んでみると、見事に一直線に緑が抉れて土が露出していた。ドリンク片手に笠井は重い溜息を吐く。
どうして同室の友人はああも巧みに狙ったようなタイミングで地雷を踏めるのだろう。ある意味感嘆に値する才能だ。
「オイ、お友達を助けに行かないのか?」
三上がにやにやと笑みを浮かべながら笠井を見上げてくる。
「どうして僕が馬に蹴られなきゃならないんです? それにキャプテンが誠二に何かするとしたら今じゃなくてのいない後ででしょ」
「ほう、馬に蹴られるっつーことはお前さんは渋沢がに惚れてると見てるんだな?」
「三上さんはどう思ってんですか?」
笠井は真面目な顔でしゃがみこむ。
「質問に質問で返すな、馬鹿」
「僕は好き合ってると思います」
「好き合ってるねぇ……」
はぐらかすかのように、三上はゆっくりと立ち上がる。嫌な顔をしながら笠井も再び腰を上げた。
「違うんですか?」
「笠井な、ああ見えて渋沢は結構手が早い」
「…そうなんですか?」
「まあな、あいつは好きだと思うとさらっとキスしたりすんぞ。まあ、そういうことする場合は相手も自分のことが好きだって本能的に確信しているみたいだけどな。でだ、そういう意外とケダモノな渋沢克朗君がちゃんには一切手をつけようとはしない。これは何でだ?」
「でも、じゃあアレはなんですか?」
笠井がグラウンドの人影を指さす。
仲良く手を結んでいる少年少女へと驀進していく渋沢の背中には、嫉妬とか独占欲とか藤代ぶっ殺すとか非常に解りやすくでかでかと書かれているような気がするのに。
「おもっ、ちゃのっ、ってあーまた間違えてるよ!」
「えっ!? ウソ!? ここ右……あれ?」
「前だよ、本当にはどんくさいなー、何でこんな簡単なのが出来ないの? すっげーナゾ」
「うるさいな! 人には向き不向きがあるのー! 藤代だってケーキ作れないでしょ!」
「ああ、なるほど。ならはもっとどんくさくてもいいよ、その分ケーキが美味いから。ってことで明日なんか作ってきてよ、にんじん入ってないやつ」
「全然『ってことで』じゃないよ、嫌だよ、忙しいのに」
「えーえー作ろうよーくーいーたーいーよー」
藤代が腕をぶんぶん振ると、の腕までぶんぶん揺れる。
「駄々こねても駄目なもんは駄目、あ、すみません、お待たせしました」
渋沢に気が付いたのはやはりと云うかが先で、用具室の鍵を回収に来たとでも思ったのか、笑顔で渋沢に握っていた鍵束を差し出す。
別に欲しくもないそれを渋沢も笑顔で受け取り、「じゃあ、帰ろうか」と自然な仕草でへと手を伸ばした。
しかし、空ぶった。
渋沢が空いている左手を掴むよりも速く、がさっと身体の後ろに腕を引っ込めたのだ。
びしりと空気が歪んだような気がした。約一名だけは少しも気にした様子はなかったが。
行き場を失った手は一瞬沈黙したものの、すぐに息を吹き返した。さり気ないようで、それでいて静かな圧力を秘めてすうっと隠された手のひらの傍へ寄って停止する。
。どうしたんだ?」
渋沢はとてもにっこりと笑った。
の顔はとてつもなく引き攣っている。
「え…でも…あの……」
「今は石灰も糊も使ってないしジュースには触ってないし泥や砂で汚れているのは俺も同じだから気にする必要はないぞ」
「キャプテン、スゲー。よく舌噛みませんね」
? 藤代とは繋いでいるんだから、別に問題なんてないんだろう?」
とてもとても優しく甘い声音のはずなのに、その声がの白い額に薄っすらと汗を浮かび上がらせる。
は俯いたまま視線を合わせようとしないから、渋沢にはそれがよく見えていた。だが、気付かない振りを装い、唇には笑みを刻み続ける。
「もしかして俺とは手を繋ぎたくないのかな、は」
渋沢の言葉にが顔を上げる。泣き出しそうな表情を目にしても渋沢はの前から手を引こうとはしなかったし、それ以上に追及の手を緩めなかった。
「俺はに嫌われるようなことをしてしまったようだな」
「ち、ちが……ちがうん、です…っ」
そう口にしながらまた俯いてしまう。けれど、繋いだままの右手に気付いて、は藤代の手をそっと放した。落ち着かなげに視線を地面のあちこちに彷徨わせていた所為で、それを見た渋沢の目に嬉しげな光が宿ったことをは知らない。
「どう違うんだ? すまないが俺には全然解らないよ」
「いい加減にしとけよ。子ども相手に言葉責めしてんじゃねーよ、馬鹿」
珍しくもあからさまに機嫌を損ねた仏頂面で渋沢が振り返る。
渋沢の後を追う三上の背中についてきた笠井は、今度はその顔に邪魔すんじゃねえよという文字が見える気がした。
「悪いが三人で鍵を返しに行ってくれないか。俺はまだと話があるから」
「話じゃなくてイビってるようにしかみえねーな。鍵はお前が返しに行きやがれ」
「頼んでも聞き入れてもらえないなら命令してもいいんだが?」
「生憎と公私混同された命令に従うほどボケちゃいねぇよ」
「……て…てが」
の声に渋沢と三上は同時に舌鋒を閉ざした。
自分たちと比べると頭ひとつぶんは低いところにある黒髪に揃って目を落とす。
「手?」
「手が荒れてるんです」
声は震えていて涙を堪えているようだった。
「せ、洗剤、この前洗濯に使った洗剤、凄く綺麗になったけど、凄い手が荒れて。その後も仕事してたらどんどん酷くなっちゃって、つ、繋いだら、触ったら、解っちゃう…」
藤代はまだの隣に居たから、渋沢と三上はの正面に居たけど近過ぎたから、きっと見えていない。
だから、地面を見詰めるの表情をちゃんと見ることが出来たのは、渋沢と三上の後ろに立っていた笠井だけだったに違いない。
唇を噛み締め涙を我慢しているみたいにじっと瞳を見開いているの姿が、あまりにも女の子のようだったから笠井は内心酷く驚いていた。
が女の子なのはそんなの見れば解るし知っている、だから女の子のようだというのは表現としては正しくないのかもしれない。もう少し正確に述べるなら、自分の知らない女の子のようだったことに、しかも自分たちの前じゃ絶対しそうにないその顔を可愛いと思ってしまった自分自身に驚いていたのかもしれない。
ぼんやりと見惚れる頭の片隅で、それにしても決定打だと笠井は思う。
一昨日のことだろうか、ふざけて自分の腕を叩いたの手は何だかいやにざらりとしていて、それを指摘するとは肩を竦めてあっさりと白状した。洗剤にやられちゃった、あんたらのその練習着の白さには私の乙女心が犠牲になってるんだからねー、とからからと笑っていたぐらいだ。
それなのには渋沢には隠したかった。
ざらざらに乾燥してひび割れて、おおよそ少女の手らしからぬ存在になってしまった自分の手のことを渋沢には知られたくなかった。
これはもう間違いないじゃないか。
当事者はあくまで渋沢とであって、笠井自身は全然関係ないはずなのに、どういうわけか頬に血が集まってくる気配がする。
の瞳の堤防がついに決壊した。
笠井は慌ててそっぽを向いての顔から目を逸らす。あの顔は自分が見ていいものじゃない、あれはあんな表情をにさせている渋沢のものだと思ったから。

渋沢は純粋にどこまでも優しげな声で少女を呼んだ。
膝を屈めるとの頭を自分の肩へと引き寄せる。はまるで当たり前みたいに何の抵抗もなしに渋沢の首の付け根辺りに額を埋めた。
耳の真下にある所為で、隠し切れない涙の気配が容易く渋沢に滑り込んでくる。前は声をあげて泣いたくせに、今はこんなふうに声を殺して泣く様がどうしようもなく可愛い。
「辛いことを云わせてしまって悪かった」
そう云いながら渋沢はグラウンドに膝をつく。の身体が傾いて、より深く渋沢の胸へと誘い込まれる。
「でも、こんなふうに泣く必要はないよ。恥じる必要も傷付く必要もない。俺は働き者のの手が好きだよ。頑張っているその手が好きだよ」
「ざ…ざらざら…わさびすれそう……」
ああ、まただ、渋沢はそう思う。
子どもみたいな言い草に愛しさが募る。
愛しさだけが蓄積されて、どこかが壊れそうになる。
の髪を梳こうとして、渋沢はそれが三つ編になっていることに気が付いた。ゴムを滑らすと、艶の強く腰のある黒髪がはらはらと勝手にほどかれていく。
「手を繋いでもらえない方が摩り下ろされるよりも堪えるな。ざらざらでおろし金みたいでもちっとも構わないさ、俺はの手なら何だって好きだよ」
の手がそろそろと這い上がり、渋沢の首に遠慮がちに絡みつく。それを待っていたかのように、渋沢はを抱いて立ち上がった。
三上もそれを待っていたのか、嫌味たらしく盛大な溜息を吐き出すと渋沢に手を突き出す。
「鍵寄越せよ。返したら俺たちは帰るけど、お前もあんまし遅くなんなよ」
「ああ、ありがとう」
そう云った渋沢の顔はとても幸福そうに笠井の目には映った。
渋沢の肩に顔を埋めているからは、堪えられなくなったように嗚咽が溢れ出していたけれど、その声に哀しい響きはなかった。を今泣かせているのはもっと違う理由なのだろう。
嫌そうな顔をした三上がこっちを振り返って歩き出したからその後に続く。ちゃんと誠二がついてきているかの確認なんだと、自分に云い訳をプレゼントしてこっそりと振り返ってみる。
自分たちとは反対方向に去っていく渋沢の背中には、ほどかれたの髪が雨のように降り注いでいた。あんなふうにしがみついて男の背中に髪を散らしているその様は、を信じられないぐらいにか弱い生き物のように思わせた。


六十円の紙パックジュースを餌に、三上は藤代に鍵の返却を申し付けた。
普段なら無料のはずが今日に限って報酬つきだったのは、三上も自分と同じような疲労を感じていて、必ず勝てるが六ターンは要する勝負が面倒くさかったのかもしれない。横柄に藤代に仕事を云いつける三上の横で、内心笠井は中学生のうちから金にモノを云わせて面倒を回避するなんてこの人の将来は大丈夫なのだろうかと余計な心配をしていたのだが。
ばたんとロッカーを閉める。
三上が黙ったままなので口を噤んでいたが、着替え終えてしまうとやっぱり口にしないと気がすまなかった。
どこか心あらずといった態の三上の視界に無理矢理割り込んでみる。
「ねえ、三上さん、やっぱりあの二人絶対好き合ってますって。、俺や誠二には全然平気で手ぇ見せてたのに、キャプテンにだけは見せたくなかったっていうのは、どう考えたってキャプテンのこと好きだからバレたくなかったってことじゃないすか。キャプテンの方もどっからみたって嫉妬だったし、の手なら何でも好きって、それってが好きって告ってるようなもんじゃないですか」
なんでこんなに捲くし立ててるんだ、と常にない自分の興奮振りが恥ずかしい気もしたが、一向に舌は休まらない。
「さっき三上さんはキャプテンが手を出さないのは変だって云ってましたけど、それだってムチャクチャ大事にしてるってだけですよ、絶対」
「笠井」
やっと三上は笠井の顔へと焦点を合わせた。
「何ですか?」
「あのな、ってもう生理きてんの?」
整理整頓、と今この瞬間に思い出すには間抜けすぎる四字熟語が目蓋の裏にそれは綺麗に浮かび上がった。きっと一種の現実逃避に違いない。
「…バ…っ…………そんなの俺が知るわけないじゃないですか!」
根性でどうにか先輩を馬鹿呼ばわりすることは回避できたが、罵る口調は拭いきれない。
だが、三上は笠井の激昂など意に介す様子もなく、賢そうな唇を人差し指でなぞる。
「フェロモンって聴いたことあんだろ。フェロモン香水とかフェロモン女優とか、フェロモンつーとイロモンつーかうさんくせーイメージあるかもしれんが、言葉を持たない昆虫とかだと、そのフェロモンが仲間を呼んだり危険を知らせたり重要な役割を果たしてんだ。
ハムスターなんかは発情したメスが交尾の用意があるってアピるフェロモンを出すしな。あとこれは眉唾くせー説だけど、生理中の女は性ホルモンの増加に伴いフェロモンも増えるらしいし、人間の鼻ん中にもそのフェロモンを感知する器官があるらしい」
何が云いたいのだ、この男は。
畜生、どうして俺の方が赤くならなきゃならねーんだよ、このタレ目、エロ目、部のマネージャーにセなんとかがきてるかなんて普通の神経してたら口に出来ねーぞ、てゆーか俺に訊くなよ馬鹿野郎。
通常なら速攻チョークスリーパーをかけられてもおかしくないほど刺々しい声で返事をする。
「何が云いたいんすか、全然イミわかんねーんすけど?」
「ひょっとしたら渋沢の奴、がまだ女になってねーのを嗅ぎ分けて、無意識にセーブかけてんじゃねえかって思って」
脳裏から三上への罵詈雑言が吹っ飛んだ。
白くなった頭は確実に拒否反応を示している。だが、三上は容赦しなかった。止めてくれればいいのに、非常に下世話で理解の容易い表現を紡いでしまう。
「つまり、青い実が熟して食べ頃になるのを待っている?」
三上の云っていることの意味を飲み込んでしまうと、図らずしも鳥肌が立った。
確かには背が小さい。元気が良くてよく笑う。可愛いことは可愛いが、色気とか女らしさは全然感じない。云っちゃあ悪いが胸なんてぺたんこだ。渋沢じゃないが、同い年のはずなのに妹みたいなとこがある。未だにセなんとかがきてなくともおかしくない気がする。
だがしかし、嗅ぎ分けるって何だよオイ。
食べ頃になったらどうするつもりだよオイ。
俺いいもの見たっていうかちょっと感動したっていうか一生忘れないかもとか思ったのに微塵も美しくないどころかそれが事実なら実はかなり質の悪い話なんじゃねーのかオイ。
笠井が機能停止状態に陥ってから数分後、藤代はバナナオレをちゅーちゅーしながらご機嫌でおつかいから戻ってきた。三上は「んじゃ帰るか」と何事もなかったかのように腰をあげる。
「み、三上先輩、キャプテンとは…」
「ああ? あいつらはあいつらで気がすみゃ勝手に帰んだろ、ほっとけ」
アンタの話を聴いた後では、放っておくのが非常に恐いんですけど。
自分の仮説が笠井の頭上に特大の隕石を落としたことなど気付いてないのか気にしてないのか、三上自身はすべてが腑に落ちたとばかりに妙にすっきりとした風情だ。
空になったパックをゴミ箱にシュートしながら藤代がぽつりと零した。
「あーあ、はいーよなー。キャプテンに可愛がってもらえてさー」
びくりと肩が揺れる。何となく今は『可愛がる』という表現が危険極まりないことのように思えた。
バカって羨ましい、笠井は心底そう思った。