「飛葉中は守りの堅いチームだ」

狭い部屋に渋沢君の声が染み込む。
その声を追いかけては拾って書き留めてるあたしの唇を割って入ってくるチョコレート。

「キャプテンの椎名翼を中心としたフラットスリーはレベルが高い。オフサイドトラップとして…」

スクリーンの中で少女のように可憐な少年が手を振り上げ前線に指示を出している。何だかふと昔読んだギリシャ神話が頭をよぎる。
渋沢君の変声期を終えた声は深みがあって、心に重く沈み込んでいくよう。視聴覚室に集まった一軍も誰もが聞き漏らさないよう耳を傾けてる。
それなのに、べりべりりり、と無神経な音があたしの横から沸き上がった。

一斉に寒い視線が集中して、あたしまで居た堪れなくなる。
渋沢君が呆れたように溜息を吐く。
「…藤代。ミーティング中は菓子を喰うな」



 

                                                       
 種動物



「もー。あたしがひやひやしちゃったよ」

そう云うと隣で藤代君がはははと軽やかに笑う。
いや、ここは笑うところじゃないってば。
「みかみん、すーごい目で見てたよ。ふじくん、明日苛められるよー」
日誌にペンを走らせつつ軽口を叩く。
云った途端に、えー!って心底焦ったような反応が返ってくる。
「マジっすか!? 俺、全然気が付かなかった…」

やだなぁ、キャプテンのニコニコしながらの鬼のような特練もヤダけど、三上先輩のチクチクしたヤツもヤダなぁ。

ちらっとノートから視線を上げて盗み見ると、いっこ下の後輩は眉毛を下げてぶちぶち云ってる。
再度手を動かしながら、奥歯で笑いを噛み殺す。

可愛いな、ってオトコノコに云う事じゃないかも知れないけど、でもやっぱりこの後輩は可愛いとしか云いようが無い。
素直なとことか、快活なとことかが可愛い。
あのヒネクレモノの三上でさえこの後輩は何だかんだ云ってても特別扱いだし。
純粋な強さは鮮やかで、時々は眩しいくらい。
それでもまだこの子は研磨されてない原石にすぎなくて、将来はもっと人を惹きつけて止まない宝石へと孵化するんだ、ってあたしは思ってる。
きっとそうなる。

「ま、いーや。はい、先輩、あーん」
いつものように雛のように口を開けると、藤代君の指から小さなシュークリームが口内に運び込まれる。
何でかこの子、あたしにこうしてお菓子をよくくれる。
まるで餌付けされたように慣れてしまった行為に、もう恥ずかしいとか照れたりすることもなくなってしまった。
どっちかっていうと、あたしのが飼い主で藤代君のが犬みたいなのになぁ、なんて、それはいくらなんでも失礼か。
かすかすしたシュー生地を噛むと、中からカスタードが出てきた。チョコのプチシューは良く見るけど、カスタードは珍しいなぁ。

あたしがむぐむぐしてる横で、プチシューはどんどん藤代君の口に放り込まれていく。
先輩、あーん」
その声に顔を上げる。
唇に藤代君の指先があたった。

「アレ?」

再びプチシューに伸していた腕を止めて、何だか指先をしげしげと眺めてる。
ペンを止めて思わず「どうしたの?」と首を傾げる。
「んー…いや、先輩、何かつけてる?」
そう云って今まで眺めていた人差し指で自分の唇をとんとんと叩いてみせる。
ああ、そういうことか。
「ごめん、付いた?」
色つきリップ。ほんのちょっとだけピンクがかってるだけだけど。
「いや、いっす、別に」
へへ、って笑って最後の一個を放り込む。さっきから食べどうしだし。
ああ、でも放課後だもんね、部活後じゃお腹空いたるよね。
「ありがとね、付き合ってくれて。ふじくん、いいよ、先に帰りな?」
「いやっす」

うわ、即答。

「いや、でも、オナカ減ったでしょ? 」
「だいじょぶ、これあるし。それに先輩ひとり置いて帰れませんから」
珍しく眉を顰めた神妙な顔でべりり、と箱を開ける。
俯いて視線を下げてる顔はちょっとかっこいい。
可愛い、じゃない顔なんてフィールド以外で、ましてやこんな至近距離で見たことなかった。数秒凝視してしまってから慌てて目線をノートに戻す。
藤代君は個別包装を開けようと手元を見てたから、あたしが見惚れてたのなんか気付いてないだろうけど。

「あーん」

何だかどぎまぎして顔を上げる。
やだなぁ、何か。ぎこちなかったらどうしよう。
噛み砕くと、頬の中に苺の味が広がった。

「あ。おいし」

無意識にそう呟くと、「やっぱなー」って声が重なる。
「ん?」
「いやー、先輩絶対コレ好きだと思ったんすよ」
そう云って満足げに箱を見せてくれる。
可愛らしいピンクの箱は『苺のミルフィーユ』。
でもこれを買っちゃう藤代君のがその何倍も可愛いと思うけど。

「わざわざ買ってくれたの?」
「そうっす!先輩のために!」

何だかその頭を撫でてあげたい衝動に駆られる。
そういえばくれるお菓子くれるお菓子、みんなあたしの好きそうな甘い系のばっかだった。藤代君、確かお菓子はお菓子でもスナック菓子が好きなはずなのに。
「ありがと、でも次からはふじくんの好きなの買いなね?」
すると唇を尖らせて不満げな顔になってしまう。
「いいんすー、コレは俺なりのジョウホなんですから」
「アハハ、ジョウホ?」
ジョウホって譲歩?
うわー、絶対今のカタカナで発音してるよー、この子。
ますますむーとした表情になる。
「何で笑うんすかー」
「だって、ふじくんがそんな難しい言葉知ってるなんて思わなくて」

くすくす笑うあたしの視界のはしっこで少年特有の骨っぽくて細い腕が空を踊った。

そしてあたしの唇に指が押し付けられる。
やわらかく押し潰してからゆっくりとその指は離れていく。
きょとんとするあたしに、フィールド以外じゃしない真剣さで、今度はその指を自分の唇に運んで。

未だに意味が理解できないあたしを、藤代君は指を当てたまま上目使いに窺う。


「間接キス」


ぼそっと一言。
は?
って思う。一瞬ホントにわかんなくて。

…………うわ、そういうことか!って理解した途端、顔がかーっと火照り始める。

「それともほんとにしていいっすか?」
「や、その、ええ?」

狼狽えるあたしの眼の前を再度しなやかな腕が空を滑る。
頬に触れて、その奥に忍び込んで耳朶を越えて髪に潜る。
じっとあたしを見つめる瞳はきらきらと濡れて光ってる。

目は口ほどにものをいう、って云うけど。
ほんとだった。
だって、目が云ってる。
昂ぶった感情が溢れてる。


あたしのこと好きだって。
すごく好きだって。


それがあんまり綺麗だからあたしは動くことを忘れてしまった。
藤代君が身を乗り出すのを黙って見ている。







「おい、監督が早くここ閉めろって云ってるぞ」


がらって、無遠慮な音がして。
あたしはぎぎぃって嫌な音を立てて思わず後ろに逃げていた。

視聴覚室の入り口には三上と渋沢君。
縋るようにあたしの方に伸ばされた藤代君の腕。
おそらく恐ろしいほど真っ赤な顔で、ドアが開いたというだけにしては嫌に驚いてるあたし。
一瞥すると、視線を藤代君に回して三上はにやりと笑った。
「神聖な学校でなぁーにやってたんだよ、エロガキ」
藤代君が凄い勢いで赤くなる。
がたんて、椅子も戻さず後ろの出口に向かう。
「みかみせんぱいのばかっ!」
そう云い捨てるとだーっと駆け出してしまった。
遠ざかる足音ともに「アホ、まぬけっ、自分のがスケベのくせにー!」とか尾を引く声が響く。
「藤代、ブッコロス!」
それを追って三上も弾丸のように飛び出していってしまう。

後に残されたのはあたしと渋沢君で。
呆然とするあたしに渋沢君は苦笑を浮かべながら頭をぽんぽんと撫でて、それから書きかけの日誌を取り上げて前の席で続きを書き始めた。



今更頬に血が上る。

どうしよう。
どうしよう。

可愛くて美しい獣を愛でているつもりだったのに。

どうしよう
ぜんぜん、あたしの手に負える子なんかじゃなかったんだ

恐いのか、嬉しいのか、あたしはぶるりと肩を震わせた。