自分のことも他人のこともなるべく不幸とか可哀想とか思わないようにしている。
 些細なことで悲劇ぶって同情を求めるなんてのは悪趣味だし、誰かを可哀想と思うその瞬間は往々にして相手を自分より下と見做す瞬間でもあるからだ。
 でも、今は思い切り自分のことを可哀想だと思う。
 私は意思の力を総動員して、どうにかこうにか向かい合わせた机の向こうへ微笑みかけた。
「お願いだから真面目にやってくれるかな、藤代君?」





完 全 無 欠




「ヤダ」
 正直云ってその即答に怒りのあまり頬が引き攣りそうだった。
 休みなく手を動かすことで、顔面目掛けてホッチキスをぶん投げるチャンスを自分から奪う。息を吸い込んでささくれだった神経をむりやり宥めると、根性を総動員した笑顔で私は再度懐柔を試みる。
「でもね、これ終わらなきゃ藤代君も私も帰れないんだから。ほら、ダラダラやるのって時間の無駄だと思わない? ちゃっちゃとやって早く終わらそうよ」
「え〜…でもさー、俺こういうの嫌いなんだもん、超つまんなくねぇ?」
 唇を尖らせた藤代誠二はペン回しの要領でホッチキスを玩ぶ。
 だから無駄に器用にそんなくるくる回してる暇があるなら一本でも多く針を刺せというにこいつは。
 今にも飛び出しそうな罵声を吐息に換えると搾り出すように肺から吐き出す。穏便に行こうと我慢していたのだが、私は眉間の皺を隠すのを止めた。
 諦めよう。
 目の前にいるのは藤代誠二なのだから。
 廊下を歩けば女子の視線を一身に集め、体育祭や球技大会じゃみんなのヒーロー、サッカーボールを持たせりゃ天才的、テストの点が悪くとも無問題、お馬鹿なところだって彼にかかればそれも愛嬌、周囲から溺愛され優遇され甘やかされ放題だった藤代誠二くんはこういう我儘を云ってもいつも許されてきたに違いない。
 彼はその天才ゆえに俗世の些事から免責されているのだ。
 きっとやりたくないと駄々を捏ねれば、いつもそのうち誰かが代わりにやってくれたのだろう。
 ちなみにこの瞬間で云えばその『誰か』のポジションにいるのが私ということになる。凄い迷惑だがこの場には私しかいないので、早く終わらせたいのなら私が二倍頑張るしかない。
 酷い話だ。
 だが、いい加減中学生ともなれば世の中の仕組みも見えてくる。この世は平等に出来てなどいない。意識無意識を問わず個人の価値は値踏みされていて、気が付けば人は集団の中での優劣を定められている。私がいくらでも代替の利く没個性的価値しか有しないのに対して、藤代誠二はその才能を周囲にも認められている。どちらが弱者でどちらが強者なのかは火を見るよりも明らかだ。どれだけ理不尽であろうが、この不平等な暗黙の社会秩序に従わざるを得ない。
 私はむっつり黙り込み、単純作業に没頭する。
 本当はこれだって藤代誠二の所為なのに。
 あみだに負けて修学旅行準備委員なんて雑用係に任命されて、先週たまたま休んだ日の委員会を同じくババを引き当てた藤代誠二がサボり、翌日の先生からの呼び出しまですっぽかしたもんだから、罰として学年分の小冊子約二百冊の製本をさせられている。
 先生が彼ではなくて私の方に呼び出しを伝えるか、サボっていいからせめてその呼び出しを彼が私に教えてくれさえいればこんな事態は避けられたのに。
 ここのところ運が悪い、いや運の悪さを沙汰するならば藤代誠二と一緒の委員になった時点からか。
 腹立ち紛れにばちばちとホッチキスを打ち込んでいく。
 誰もなりたがらなかったくせに、男子が藤代誠二に決まった途端に一斉に女子の顔色が変わった。私は何も悪くないのに恨みがましい目を向けられ、やたらと羨ましがられた。私はぜんぜん嬉しくなかったけど。
 だって、悪いけど私は藤代誠二が嫌い。
 別に藤代誠二に何かされたわけじゃないけど見てると苛々する。
 今みたいに平気で自分勝手なことをやってのける他人に対する遠慮のなさや、どんなに気まずい状況だろうと物怖じしないで意見を口に出来る図太さが癇に障るのだ。
 顔もよくて運動神経もよくて性格は明るくて積極的でみんなに好かれている、そんな藤代誠二の完全無欠ぶりが私は許せない。
 ええ、ええ、僻みなのは自分でも重々承知していますとも。
 だが、別にいいではないか、私一人が嫌おうと彼にはその分好意を捧げてくれる人間が山ほどいるのだから。私一人が彼を嫌ったところで、どうせ藤代誠二は痛くも痒くもない。
 むしろ彼は天からギフトをたくさん与えられた恵まれた人種なのだから、凡人から醜い嫉妬を浴びせかけられるぐらいは甘んじて受けるべき不利益だろう。
 教室にばちばちと愛想のない音が響いている。
 その音の隙間にぱちんぱちんとやる気のない音が挟まる。手を動かしてくれるのは嬉しいが、類稀な運動神経を発揮してもっと迅速にやってくれないだろうか。
 注意しようかどうか迷う。
 ただし、私は既に不機嫌オーラを隠そうともしていないのだから、現在のこの逡巡はさっきと違って藤代誠二に気を使ってのことではない。問題はそこじゃなく、云っても無駄っぽいという点だ。どうせ聞き入れてもらえないんだから、口を開くだけエネルギーの浪費だ。
はさー、彼氏いんの?」
 口を噤む私の代わりに、唐突に藤代誠二が問いを発した。
「いません」
 手を休めることなく、私は棘のはえた声を吐き出した。
 くだらない質問をしやがってと腹が立ったが、例え窓の外の雨について早く止むといいねと云われてもやっぱり苛ついた気がする。
 藤代誠二が嫌いということは、結局のところ藤代誠二が何をやってもむかついてしまうということなのだろう。作業を真面目にやってくれたとしても、きっと私はそもそも藤代誠二の所為なのだからと感謝したりしないに違いない。
「じゃあ、男嫌いなんだ」
「はあ?」
 ばち、とホッチキスが鳴いた。
 その音はきちんと貫通してないことを伝えてきたが、やり直す気にはなれなかった。積み上げられた冊子の一番上に乱暴に打ち損じを叩きつける。
 気になる奴は自分で直すし、気にならない奴はどうせ乱雑に扱ってぼろぼろにするんだから構うものか。
 さすがに私の剣呑な空気を感じ取ったのか、視界の端で藤代誠二が小首を傾げる。
「あれ、違うの? じゃあさー、なんで俺に冷たいの?」
 うわ。
 なんだ、その物言い。
 私はついに手を止めて藤代誠二の整った顔をまじまじと眺めた。
 今の発言は、つまりはこういうことだろうか。 
 女はみんな自分に優しくて当たり前、自分に冷たい女は彼氏持ちあるいは男嫌いということか?
 無邪気というか厚顔無恥というか、よくもまあ平然と口に出来るものだ。よっぽど自分に自信があるのだろう。いったいどんな幸せな人生を送ってきたらそんな台詞が吐けるようになるのか私には理解不能だ。
 私はホッチキスを机に置くと、藤代誠二の目を真っ直ぐ見詰めた。
「はっきり云ってもいい?」
「うん」
「私、アンタが嫌いなの。てゆうか大嫌い」
 面と向かって誰かに嫌いと口にしたのなんて初めてのことだった。
 後悔なのか、口に出した今になってから胸がどきどきしてくる。
 そして、恐くなった。
 藤代誠二が怒ったところなんて見たことないけど、さすがにこれは怒るかもしれない。今頃になって殴られるかもしれないと、危機意識が湧いてきた。
「ふぅん」
 なのに、私の予想を裏切って藤代誠二は別段顔色を変えることはなかった。
 それどころか逆に興味をそそられたみたいに、目を輝かせて身を乗り出してくる。私は内心、藤代誠二が短気でなくて変人だったことに酷く安堵した。
「なんで? なあ、なんで俺のこと嫌いなの?」
「そういうふうに驕っているとこ」
 意味が解らないと云いたげに藤代誠二は泣きぼくろのある目元を僅かに顰める。
 腹を立てている気配がないから目を逸らさずにいられるが、はっきりいってこれは虚勢もいいとこだ。胸はどきどきしているし、藤代誠二が腕を動かすだけでもいちいちびくっとしそうになる。 
 横柄に胸の前で腕を組んでるくせに私は迷っていた。
 唇を薄く開いてみたが言葉が出ない。
 早くしなければ機会を逸してしまうかもしれないのに、私は腹に溜まっていた苛立ちの一切合切をぶちまけるべきか、それともこの期に及んで婉曲な物言いにするべきかを決断出来ずにいた。
 藤代誠二が急かすように机の端を黒く汚れた爪で叩く。
 その顔は好奇心に彩られているばかりで、私の険しい表情の理由なんてこれっぽっちも気にかけた様子はない。酷い台詞を投げ付けられる可能性なんて米粒ほども考えてなさそうな能天気さが腹立たしくて、覚悟が決まった。
 一度唇を舐めてから私は口火を切った。
「確かに休んだ私にも責任の一端はあるかもしれないけど、こんなことやらされてるの、自分の所為だとか少しも思わないわけ? 嫌だろうと決められた仕事なんだからやらなくちゃ仕方ないでしょ、なのにそれをサボって結果こういうことになったのに、藤代君全然真面目にやろうとしないのってどうなの? サッカーで忙しいんだって云うかもしれないけど、それを云ったら私だって家の手伝いとかあるんだから、みんなおあいこでしょ、部活は云い訳にならないよ。
 この際だから云わせてもらうけど、今回のこれに係わらず、藤代君っていっつもそうだよね、みんなが我慢してやってることもやりたくなかったらやらない。そういうの我儘って云うと思うんだよね、藤代君ってさあ、サッカー上手いらしいけど、それってそんなにえらいことの? 才能があるからって他人のこと見下してない? 悪いんだけど、ちょっと調子に乗りすぎなんじゃないの?」
 一気呵成に捲くし立てると、とうとう云ってやったという妙な満足感が四肢に満ちた。
 ざまあみろだ。
 けれど、そんなものは私の言葉を呑み込むなり、急にうんざりとしたように眉間を曇らせた藤代誠二の一言で一瞬で霧散した。
「またそれかよ」
 藤代誠二の顔つきが一変した。
 溜息を吐くと、長い睫毛を伏せて机の上のホッチキスのある辺りに瞳の焦点を合わす。背もたれに背を預け椅子の前足を浮かすと、腹の上で指を組みゆっくりと身体を前後に揺らし始める。
 私は当惑した。
 こんな神経質そうな顔をした藤代誠二は藤代誠二じゃない。
 頭の中で自分が口にした内容を反芻してみたり、藤代誠二の云ったまたかの意味を考えてみる。その途中で課せられた仕事を漸く思い出し、私は逃げるみたいにホッチキスへと手を伸ばす。作業に没頭してうやむやにしよう、そう考えたのだ。
 なのに、私がホッチキスを手中に収めるより早く、藤代誠二が顔を上げたのだった。
 感情の読めない眼差しで私のことを貫きながら、藤代誠二は抑揚に乏しい口調で語りかけてくる。
「あのさあ、お前が怒ってるなら今回のことは謝るよ。ごめんな。
 でもさ、俺は別に調子にのってるつもりなんてないよ。俺は俺のやりたいように生きてるだけだ。俺の態度が気に入らないならその場で云えばいいだろ、その時は黙ってたくせに後になってごちゃごちゃ云われたり、陰でこそこそムカつくとか云われるこっちの身にもなって欲しいんだけど。
 だいたい俺がサッカー上手いのってそんなに悪いことなワケ? どうすれば上手くなれるんだって訊かれても、俺は別になんにもしなくたってやろうと思えば出来るんだから教えようがない。なのに、それ云うとケチとか自慢かよとか嫌な顔されるんだよね。俺が上手いのは生まれつきだもん、なのになんで俺が悪いみたいに云われなきゃなんないの? 俺は練習の邪魔なんてしないから、俺より上手くなりたいなら俺と同じことが出来るまで死ぬ気で練習でも何でもすりゃいいじゃん。
 羨ましがるばっかでやることやらない奴らがバカなんだよ」
 あまりの言い草に吃驚しすぎて可笑しくないのに笑いそうだった。
 バカ?
 今世の中の大多数の凡人を指して藤代誠二は馬鹿と云い切ったな?
 唇を噛む。
 だから私はこいつのこういう他人の痛みを省みない傲慢で思い上がったところが大嫌いだ。
 私は思い切り藤代誠二を睨みつける。
 腹から押し出した声は波打つ感情そのままに震えていた。
「あんたって最悪だ。あんたが最低の馬鹿だよ。努力しろとか簡単に云うけど、いくら努力しても上手に出来ない人間だってこの世の中にはいるんだよ、あんたみたいに容易くほいほい出来る人間のが珍しいんだよ。それがその人たちにとってどれだけ悔しくて哀しいかあんた解ってるの?
 ねえ、あんたがなんでそんなの出来ないんだって笑うだけでも傷付く人間はこの世にいるんだよ。あんたの出来ることと自分の出来ることの落差に泣きたいぐらいの絶望を感じる人間はいるんだよ。あんたの所為でどれだけの人が傷付いたと思ってんの?」
 私はおかしなことを云ったつもりなんてなかった。
 言葉を選び唇で紡ぐ最中、聴き終えれば藤代誠二は反省して謝罪してくるんじゃないかと想像したぐらい自分の正義を疑ってなかった。
 なのに、馬鹿馬鹿しいと云いたげに、藤代誠二は恐ろしく冷たい表情で嘲笑ったのだ。
「勝手に傷付いたのまで俺の責任かよ」
 私は目頭が熱くなるのを感じて慌てて瞬いた。
 哀しかったんじゃない、悔しかったのだ。
 私なりに一生懸命選んだ言葉が伝わるどころか、侮蔑的にあしらわれたことが悔しかった。
「じゃあは誰も傷つけないように俺に引き篭もってろって云うんだ」
 皮肉げにそう口に出来る藤代誠二は完璧な人間で、彼のような人間は惨めな思いに苛まれるなんて痛みとは無縁なのだろう。
 だから、解らない、伝わらない、一向に話が通じないのだ。
 埋めようのないその差が悔しい。
 出来ることなら私だって藤代誠二になりたかった。才能に恵まれて誰からも愛慕される類稀な人間に生まれたかった。他人の顔色など窺わず、自由に生きたかった。
 けれど私は藤代誠二じゃない。私を含め大多数の人間は彼のようにはなれない。
 藤代誠二を殴る代わりに、私は机をばんと叩く。
「そんなこと云ってないじゃない、そうじゃなくてもっと言動に気を付ければいいってことを」
「言動に気を付けろって何だよ。云いたいこと我慢して何云われたって黙ってボールだけ蹴ってろってことかよ?」
 まさにああ云えばこう云うだ。
 どこか投げ遣りに揚げ足を取ってくるその態度がもどかしくて私は頭を振った。
「だからそうじゃな」
「お前らはいっつもそうだよ。俺に向かって勝手なことばっか云う」
 私の言葉に被せるように、藤代誠二は強い調子で吐き捨てた。
 …何だ?
 『お前ら』って、何のことだ?
 教室に沈黙が落ちた。
 窓の向こうで雨に打たれた木々がさあさあと鳴いている。
 私は金縛りにあったように動けずにいた。
 藤代誠二が漆黒の瞳で私を見ている。
「お前はさっき俺がわがままだとか云ってたけど、だったらお前の方はどうなんだよ」
「え?」
「俺に言動に気を付けろとかいう権利、お前にあるのかよ。ヘタな奴の劣等感を刺激しないようにそいつにあわせてヘタクソなシュート打ってればお前は満足なのかもしれないけど、そんなことしたら今度は別の奴らが文句を云うんだ、真面目にやれよって。そう云われたら俺はどうすりゃいいんだよ? 俺がわざと外した所為で試合に負けたら、サッカー部の奴らどうしたらいいんだ? 大会なんか一回負けたらそれで終わりなんだぜ、みんな死ぬ思いで練習したのを俺がヘタクソに気を使ったおかげで全部パーにしちゃった責任、お前がとってくれんのかよ」
「それ、は…」
 私は言葉に詰まった。
 そんな責任とれっこない。
「お前、さっき俺がどうしてそんなの出来ないんだよって笑うだけで傷付く奴がいるとか云ってたけど、は冗談のつもりでそうゆうこと口にしたことって一回もないの? 絶対に? 普通さー、友達と話してても間違えたらバカじゃんオマエとかつっこまねえ? 俺練習中とか、確かに何でできねーのって笑うことあるけど、俺以外の奴もそういうこと云うし、俺だって云われるよ。なのに、なんで俺だけそういうこと云っちゃダメなのさ。なんかヘンじゃねーの、それって」
 手のひらに汗の感触がする。
 堅牢だと信じていた私の正義は実際には砂上の楼閣だった。今まさに藤代誠二の手によって崩壊しようとしている。
「俺じゃない奴は良くって、ヘタとか弱い奴を思いやれって、それって結局俺のことが嫌いなだけだろ。俺がムカつくから俺一人にいろいろ我慢させてりゃいーやってそういうことだろ。単に俺に対する差別」
「ごめんなさい!」
 今度は私が藤代誠二の言葉を遮る番だった。
 私は藤代誠二の言葉に反論する術を持たなくて、彼の口から語られる言葉によって利己的な自分自身が暴かれていくのをこれ以上聴いていたくなかった、だから卑怯にも彼の言葉の邪魔をした。
「ごめんなさい…」
 机の上のホッチキス、その向こうには藤代誠二の日に焼けた手がある。さっきの名残で視界が少し潤んでいて、顔に似合わず意外と武骨な指先の線を滲ませた。
 きっと軽蔑された。
 恥ずかしい。蔑まれても仕方ないことを私は口にしてしまった。誰かの為みたいな振りをして、その実自分のエゴに基づいた奇麗事を臆面もなく口にした。私のすべてが偽善だった。
 藤代誠二のごつごつとした指が空を泳ぎ、私の方へ伸びてくる。
 何か罰を与えられるのかもしれないと思ったけれど、私は目を閉じて動かずに待った。だが、杞憂だった。藤代誠二は俯いている私の髪を一房掴むと、痛くない強さでひっぱって呆気ないほど簡単に笑ったのだった。
「そんな気にすんなよ、別に怒ってねーし。俺、慣れてるもん。いっつも頑張れとか無責任なこと云われてるから」
「え…?」
 私は目蓋を開き顎を起こす。無意識に眉が寄る。
 だって、今、藤代誠二は妙なことを口にした。
 訝しむ私の目の前で、藤代誠二が椅子に座ったまま両手を上げて伸びをする。
「あーあ。お前らは本当に気楽でいいよな。毎日毎日ゲロ吐きそうになりながら走りこみとかやるわけじゃないし、グラウンドの外から好き勝手なこと云ってればいいんだからさ」
 私は鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。
 藤代誠二がさっきから使っていた『お前ら』という言葉。
 それが指すのは、グラウンドの外で彼の為に声を上げている人たちのことだったのか?
「ちょ、ちょっと待って、それ違うよ、何云ってるの、私とその人たちは同じじゃないよ」
 私は混乱して違うとしか言葉が出てこなかった。
 確かに私は自分本位で勝手な理屈を彼にぶつけた。けれど、グラウンドから彼に声をかける人たちは違うだろう。彼らは藤代誠二に好意や憧憬を抱き、それ故に声援を送っている。それがどうして私と同じ『勝手なことを云う人たち』になってしまうのだ。
 何を思って藤代誠二が彼らと私を同一視しようとしているのかが理解不能過ぎて、狼狽えて重ねて違う違うと繰り返すしかない私を藤代誠二が屈託なく笑い飛ばす。
「何が違うんだよ。何にも違わないじゃん、自分の云いたいことだけは押し付けてくるんだから同じだよ。自分らは何にもしてないくせに、俺にはもっと頑張れって云うんだぜ。俺の為みたいな顔してるけど、そんなのは嘘だ。自分の為だろ、自分の応援するチームが勝てば自分が気持ちイイだけじゃん」
 藤代誠二が笑顔でそんなことを云うから、私はもう違うと口にすることすら出来なくなった。
 なんてことだろう。
 凡人の私と違って、こいつには本気で心の底から頑張ってと叫ぶ人間が何人もいるのに、本当にその気持ちが微塵も伝わっていないのか。
 頑張れなんて言葉に好意以外の何があるというのだ。
 意地悪で頑張れなんて、わざわざグラウンドまで行って叫ぶ人間がいるものか。
 素直に受け取ればいいのに、何故曲解するのだ。
 どうしてわざわざそんな捻れた思考をするのだろう。
「ねえ、あのね、確かに藤代君からすれば余計な口出しだって感じるのかもしれないけど、でもその人たちがわざわざグラウンドまで行くのは藤代君が好きだからだよ。悪気があってやってるわけじゃないんだよ。何か藤代君の力になりたくて、だからみんな頑張ってって云うんだよ」
「そうかもしれないけどさあ、俺がどう思うかとか気にしてない時点でもうお前らはお前らがやりたいことを優先させてるってことじゃん。それってやっぱ自分の娯楽の為に俺のこと都合よく利用しているだけだろ」
 また『お前ら』と呼ばれた。
 そのことが胸を刺したが、ひとくくりにしないでくれとは云えるわけがなかった。
 私は藤代誠二に何かを期待したり求めたりしたことはない。けれど彼を理解しようとしたことなど一度たりともなかったし、一方的に偏見とも呼べる嫉妬をぶつけていた。ストレスの捌け口として私も彼を利用していた。間違いなく私は彼の云うところの『勝手なことを云う人たち』だ。
 けれど、それでも私は藤代誠二の言葉に納得出来ない。
 彼を利用しようとしたり、迷惑をかける人間も中にはいるかもしれないが、それでも彼を取り巻く大多数の人間はもっと純粋に彼を愛しているはずだ。
 ほんの少しでも気をつけて観察してみれば、自分が校内の誰よりも親切にされていることも、クラスの中心に自分がいることも解りそうなものなのに。
 頑張れという言葉どころか、無視されて口もろくに利いてもらえない人間だって中にはいることに気が付きそうなものなのに。
 彼に向けられた頑張れという言葉は背中を押す為の言葉であって、決して無責任に叫ばれただけの言葉ではないことがどうして解らないのだろう。
 途方に暮れる私など、顎をそらして遠くを見詰める藤代誠二の視界に入っていなかった。
 椅子の前足を浮かして上体を揺らしながら藤代誠二は淡々と続ける。
「上手くなれば上手くなるほど、強くなって有名になればなるほど、名前も知らない奴にいきなり肩組まれたり腕掴まれたり勝手に写真とられることが増えてった、試合の後でこっちは疲れてんのにさ。大して親しくないのに勝手に友達面してくる奴も増えた。誰も頼んでなんかないのに、応援してやったぜって恩着せがましく云われたりもした。
 どいつもこいつも勝手な期待を俺になすりつけるだけで、誰も俺の迷惑とかは考えてない。自分たちがやられたら絶対ムカつくことでも平気で俺にしてくる。他の奴相手なら絶対やらなそうなことも俺相手だとやったりする」
 藤代誠二はそこで一旦言葉を切る。
 天井の方に向けていた視線を私の顔に戻す。
 そして、笑った。
「なあ、酷い奴ばっかりだと思わねえ?」
 私は頭を振った。
 少しでも藤代誠二の台詞を否定したかった。
 けれど、それ以上どうすればいいのか解らなかった。藤代誠二の思い違いを正せるだけの上手い説明が思いつかない。彼の中の狂った視座を破壊する為の決定的な言葉が見つからなかった。
 藤代誠二の目を見ていられなくて、私は自分の膝に視線を落とす。
 完璧なはずの藤代誠二が今の私の目には可哀想に映る。
 整った顔に無邪気な笑顔を浮かべている藤代誠二が憐れに思える。
 私は恥じた。
 この著しい欠陥を抱えた人間を完全だなんて嫉んだことを。
「…あんた…おかしいよ」
「え?」
 届いてなかった声援が憐れで、こんな人間がいることが腹立たしくて、大事なことを伝えられない自分が情けなかった。
「変だよ、どっか壊れてる」
「ああ、壊れてるってそれ何度か云われたことあるよ。お前、俺とまともに喋ったの今日が初めてなのに、よく解ったな。って頭いいんだ」
「解ってないのはあんただけだよ、可哀想なあんただけだ」
「カワイソウ? 俺が? それ、初めて云われた」
 あはは、と藤代誠二は軽やかな声をあげた。
 可哀想と云われて、そんな自分を笑っている。それも強がっているふうではなく、まるっきり他人事のように酷く突き放した顔をして。
 私からすれば藤代誠二のそんな反応は到底まともと呼べるものではなかった。
「どうしてあんたがそんなふうなのか私はそれが解らないよ。ねえ、なんでなの」
 咽喉が痛い。腹が立つ。どうして私がこいつの為にこんなふうに憤慨しなければならないんだろう。なんで私が、こんな。
 ぱたぱたと涙が膝の上の手の甲を打つ。
「なあなあ、俺ってそんなに可哀想な存在なワケ? 俺のこと嫌いだって云ってたが泣いちゃうくらい可哀想なの?」
 私は藤代誠二ともうこれ以上口を利きたくないと思った。こんな奴ともうこれ以上関わり合いになりたくない。
 机の横に下げていた鞄を視界に捉える。
 先生に明日怒られてもいいから、とにかくこの場から逃げ去りたい。
 立ち上がろうとしたその時、藤代誠二が思いも寄らぬことを口にした。
「そうだ、だったらお前が俺のこと助けてよ」
 私の足はその場から動こうとはしなかった。
 代わりに私は顔を上げていた。
 藤代誠二が曇りのない瞳でまっすぐ私を射抜く。
「お前、俺のこと可哀想がって泣いてんだろ。俺、今まで泣きながら非難されたことはあるけど、可哀想がられて泣かれたのは初めてだ。
 なんかさあ、お前俺より俺のことよく解ってるみたいだから、壊れてるんならどうすれば直るのかお前が考えてよ。そんで俺にそれを教えてよ。
 そうすれば俺、可哀想じゃなくなるんじゃない?」
 藤代誠二が得意げに笑う。
 そんなこと私に出来るわけがないのに。
 出来っこない。
「俺のこと見捨てないで助けてよ、
 それなのについさっき自分の無力さを自覚したはずなのに、私は今自らの持ち得るものを少しでも彼に与えてあげたいと思っている。
 不完全な彼の空隙が少しでも埋まるように、あんなに嫌いだった藤代誠二の為に何かしたいと思ってしまっている。
「なあ、いいだろ?」
 無邪気な願いに頷いてしまってから、ふと恐くなった。
 たった一時間にも満たない時間で、私の心を作り変え、捕らえてしまった藤代誠二のことが。
 
 不完全なはずの藤代誠二は完璧な笑顔で私を見ていた。