咽喉の奥から小さな咳が零れた。
その拍子に目元に押し付けていたタオルが外れて、自分の左膝に淡い光が宿っていることに気が付く。
「大丈夫か?」
頭を撫でていた指が髪の下に潜り込み、厚い手のひらが薄い背中をさすってくれる。
こほこほと咽喉を鳴らしながら頷くと、光を辿り首を巡らす。吸い寄せられた先、木の葉を透かして見えたのは手の届かない位置にある細い月の姿だった。
数秒間その輝きに目を奪われて、けれどほんの数センチ先にある横顔に気が付くと今度は心を奪われる。
渋沢もにつられたように顎を上げて果てのない天井を見上げていた。
肩を胸に預けているから、と渋沢の物理的な距離はゼロに等しい。夜に染まってその眸が色を濃くしているのだってよく見える。
それから日に焼けた精悍な頬の上にも月の破片が踊っているのも。
泣き過ぎた所為で却って乾いて瞳は痛むが、閉ざすとか瞬きを増やすとかは思いつかなかった。ごわつく眼でぼんやりとはその横顔を眺める。
昔というにはそれほど遠くない。
けれど、昔と呼びたくなるぐらい、自分の中で変わってしまったものがある。
にとって渋沢克朗は頭上の輝きに等しく、触れることの出来ない存在のはずだった。
なのに今はその人に触れるどころか、こうして抱えてもらっている。
不思議なこともあるものだ。
もっとも、手の届くところに存在し、触れることが可能ならば必ずしも人はそれを手に入れられるわけではないのだけれど。
の視線を感知したのか、渋沢が首を戻す。
目が合う。
渋沢はやわらかく微笑んだ。
「三日月だな」
返事の変わりに小さく首肯し、絡んだ視線を振り解く。は降り注ぐ月光が肌に触れないようにほんの少し膝を自分の胸へと引き寄せた。
薄墨色に濡れていた地面が、代わりにそこだけ草の緑を取り戻す。
渋沢の指が再びの髪を梳き始めた。
声を我慢して泣いた所為か呼吸器官が痛む。また少し咳が出そうになったが、そんなことをしたら本格的に渋沢に心配をかけてしまうかもしれない。
そう思い息を詰めて咳を封じ込めながらも、は焦りを覚え始めていた。
三人と別れてからどれぐらい時間が経ったのだろう。
今見たばかりの空の色はさっきよりも明らかに夜に近付いていた。
その発見のおかげで門限や夕食といった、さっきまで綺麗に忘れ去られていた単語が脳裏に閃き、続いて見失っていた現実感が容赦なく押し寄せてきた。
自分の行動を振り返るとなんてことをしたのかと胃が痛くなりそうだ。実際は生まれた時から健康で、は胃痛どころか胃が正確には腹のどの辺にあるのかもいまいち理解していなかったけど。
どうしよう。
馬鹿なことをしてしまった。
恥ずかしい。
あんなことで泣いたりして本当に馬鹿だ。
渋沢は優しいから嫌な顔をしたりはしない。軽々と抱き上げると人目から隠すようにグラウンドの隅の木々の隙間に連れてきてくれた。それからを下ろして、今も胸に抱えて温めてくれている。
優しくしてもらえるのは嬉しい、けれど渋沢に迷惑をかけることはそれ以上に苦しい。
練習で疲れているのにつまらないことに時間を使わせてしまった。
渋沢が悪い訳じゃないのに、渋沢に非はないはずなのに、自分が勝手に泣き出しただけで渋沢がこんなふうに決壊した堤防の復旧作業がすむまで付き合う必要なんてなかったのに。
大事なキャプテンをこんなことで煩わせるなんて何て最悪なマネージャーなんだろう。
は息を吸い込んだ。華奢な胸部が酸素で膨らむ。
ごめんなさいを云おう。
それから、もう大丈夫だということも伝えなければ。
けれど、肺の動きを察知したのか、待ち構えていたように渋沢が口を開く。
、手を出して」
頭のすぐ上から降りてきた声に、感電したみたいにびくりと肩を震わす。
その拍子に準備していた台詞までもが二酸化炭素と一緒に体外に排出されてしまい、一瞬返事に詰まる。
ただし、身体の方は非常に正直で、既に両手は隠すように強く鎖骨に押し当てられていた。
「……い…いや、です…」
か細い抵抗の声に渋沢が朗らかに笑う。
ちょうど右腕を見るように横向きに胸に凭れているの眼前に、渋沢の大きな手のひらがすうっと差し出される。
「嫌じゃない。藤代には許して俺には許してくれないのか? あいつは良くて俺は駄目だなんて傷付くな」
言葉に詰まっては一層身を縮込まらせた。
頭の中でふたつの選択肢が羽を広げて旋回している。
ぼろぼろの手を見せてなんて酷い手だ渋沢に目を丸くされるのと、ぼろぼろの手を隠し通してなんて強情なんだと渋沢に眉を顰められるのと。
はっきり云ってどっちも嫌だ。
どちらも選びたくはなかったけれど、仕方なくは少しでもましだと思える方を選ぶ。
ぼろぼろの左手を差し出す方を。
木陰と夕暮れの混ざり合った薄暗がりの下でも、の目には十分その手はみすぼらしく映った。
さっきは構わないって云ってくれたけど、実物に触れたら幻滅するかもしれない。
は奥歯を噛んで目に力を込めた。
泣いたりしたら自分の所為だと責任を感じるかもしれない、だから渋沢がどんな反応をしたって絶対泣いたら駄目だと自分に云い聞かせる。
視線を背けたい気もしたが、どうしてか逸らせない。
童話に出てくる魔女の老婆のような手を、渋沢は何の躊躇いもなく大きな手のひらで包み込んだ。
そして気遣うようにゆっくりと親指で甲の肌をなぞる。
「何だ。この程度ならわさびはすれそうにないな」
からかいを含む囁きには嫌悪感は微塵もなかった。
むしろいつもより少しだけ低い声には慈しむような響きが混ざっていた。
呆気なくさっきの決心は崩れ去り、どうしようもなく視界が滲む。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
渋沢の言葉は時々をおかしくする。
正常な判断力が見る間に減退し、自分でブレーキが踏めなくなってしまう。
ついさっきあんなに馬鹿だと思ったことを繰り返そうとしている。全くさっきと同じだ、酷いことを云われたわけじゃないのにどうして泣きたくなるのだろう。
右手でミニタオルを握り締める。
ポケットの中にこれがあって良かったと心底思う。
涙はともかく、鼻水なんて渋沢の目に触れさせたくない。その渋沢に手ずから洟をかませてもらったのなんてほんの数ヶ月前のことなのに、なんてことをさせたのかと自分自身が本当に信じられない。
にとってまだあの頃の渋沢は神のように遠い存在で、その背中に向けていた感情の殆どが憧れだったからだろうか。
ほんの刹那に言葉を交わすだけで、部活動の先輩後輩以上の係わり合いを持つことなどないと諦観していたからだろうか。
自分とは違う生き物のはずの渋沢が自分に対して特別な感情を覚えるわけがないと、何の期待も持っていなかったからだろうか。
でも、そんな期待なら今だって持ってない。
渋沢が前よりも優しくしてくれるようになったのは偶々のこと。
あの日の偶然がを単なるマネージャーよりも少しばかり鮮やかに渋沢に印象付けただけ。
平均的中学生よりもちびのくせに頑張っている自分を妹のように微笑ましく思って、あれこれと目をかけてくれるようになっただけ。
渋沢が自分を構ってくれるのは愛玩や愛護であって、愛情ではないのだ。
だから、期待してはいけない。
けれど、本当は希望している。
神に等しいはずだった渋沢も今は近い。
言葉を重ねて時間が積もれば、渋沢は自然と神の位置から人へと降りてきた。だが、それは決してを失望させる類のことではなかった。むしろ却って加速度的にの心を渋沢に傾倒させた。
渋沢に向けていた思いがいつのまにか憧憬から恋慕に変わってしまっていることに気付いてしまった時から、本当は渋沢の特別になれたらいいと願っている。
例え無理だと解っていても。
表面張力の限界を超え、水膜が雫へと変化する。

タオルを頬に押し当てるよりも早く、渋沢がの頭を自分の胸へと引き寄せた。
押し当てられた渋沢のTシャツがの涙を吸い込んでいく。
「俺はの手がどれだけ荒れていようが、が気に病んだようなことを絶対に思ったりしないよ。だから、俺に隠したりしないでくれ。俺はが好きだから、そんなことをされると落ち着かなくなるんだ」
渋沢のその声はいつも通りの声だった。
穏やかで温かく、わざとらしい強調も特別な云い回しもない。
本当に何でもない話のようにさらりとが好きだと告げてきた。
ますます視界が潤む。
渋沢が嘘を吐くとは思えない、だから告げられた言葉の本心を疑うつもりはない。
ただちょっと種類が違うだけなのだ。
が望む、と同種の『好き』とは違うだけ。
子猫や何かを可愛がるのと同じ種類の『好き』なだけ。
悔しいのか情けないのか、哀しいのか嬉しいのか、胸が疼いて訳の解らないエネルギーが湧き上がってくる。
この人を困らせたくなかったし、我儘を云いたくなんてなかったし、良い子だってずっと思っていて欲しかったのに、そんなもの全部どうでもよくなった。
は渋沢の胸に額を強く擦り付けた。
「すき」
半分泣きながら上擦った声で云ってしまってから、瞬時には後悔する。
溺れているような必死さが篭っているばかりで全然可愛い云い方じゃなかった。誰が誰をという部分も綺麗に抜けている。
云い直したい、というかむしろ取り消したい。
なかったことにしたい、でもどうやって?
焦りと恥ずかしさから頬はどんどん熱くなり、開いたり閉じたりを無意味に繰り返すだけで唇からは何も出てこない。
どうしようどうしようと呪文のように胸で呟き続けていると、繋いだ手がするりとほどかれた。
「あ」
背中に腕が回された。
反射的には額を浮かしかける。
だが、逃れようとするその身体を閉じ込め、渋沢はの耳元に唇を寄せた。
「俺も好きだよ」
瞠目するに向かって渋沢は「大好きだよ」と繰り返す。
宥めるように渋沢がまた髪を撫でる。その所為で隙間の出来ていた額がぺたりと再びくっついた。
背中に渋沢の腕と、額に渋沢の胸を感じながら、の身体はじわじわと体温を上昇させていく。
頭の中では疑問符が踊っている。
それはもう見事に踊り狂っている。
好きって、大好きって、それは特別な好き?
と同じで誰より一番好きの好き?
そんなの在り得ないと思う。
でも、抱き締められている、間違いなく。どう違うのか上手く説明できないけれど、これはさっきここに連れてきてくれた時のようなだっこじゃない。子どもとか妹とかにする、そういうのじゃない気がする。
嬉しいけれどとにかく在り得なさ過ぎて神経も筋肉もがたぴしと不吉な音を立てそうだ。
石のように全身を硬直させているを腕に、渋沢はさもおかしそうに笑う。
「もう藤代と手を繋がないでくれないか、時々嫉妬のあまり無性にあいつの頬を捻りたくなる」
逆らうことなんて考えられずに云われるままに頷こうとして、この体勢では渋沢のTシャツで顔を拭う格好になってしまいそうで慌てて止める。
はいと返事を返したものの、動揺丸出しの裏返った変な声だった。
恥ずかしい、あれでも今思わずはいって云っちゃったけど、何約束したんだろ?
「ありがとう、これで練習に集中出来そうだ」
その声は無邪気で嬉しそうで、今何て云ったんですかなんて非常に訊きづらい。
どうしよう。
心臓が猛烈に稼動していて、手も足も火が詰まっているように熱くて、うなじの辺りにはじっとりとした汗の感触を覚える。
「あ、あの…」
は渋沢の胸に向かって呟いた。
手足を動かすどころか、実はさっきから錆びたブリキの玩具みたいに全身がちがちで指先ひとつ動かせずにいる。
「うん?」
息がくすぐったいのか声が甘い。
耳のすぐ傍のその声に物凄い勢いで鳥肌が立った。
また何を云おうとしていたのか、解らなくなる。
「えと、あの……わ…私…渋沢先輩が好き、です」
一瞬の間の後、背中を抱く腕が僅かに強くなった。
されるがままのの頬が渋沢の胸に張り付く。聴こえてきた心臓の音は少しだけペースが乱れている。
「俺もが好きだよ」
何もつらいことなどないはずなのにまたしてもじわりと視界が潤んできた。
手が届かないと思っていたものに、手が届いてしまったことが恐かったのかもしれない。
でも、大丈夫だ。
不安に思う必要なんてない、渋沢が酷いことをするわけがないのだから。
は目蓋を落として、手足から力を抜いてみた。
強張った身体から緊張がとけていくにつれ、渋沢の胸の中ではゆっくりとその重みを増していく。
は溶けたように渋沢の胸に凭れたまま、その心臓の音に耳を澄ませてみた。やっぱり若干速めで、それを何となく嬉しく思う。
流れてきた雲が月を隠したのか、辺りが瞬間に闇に呑まれた。
それは気のせいだったかもしれない。
の髪に渋沢の唇が触れた気がした。



「おい、
はいと返事をして振り返ったら、お赤飯のおにぎりを手渡された。見覚えがある、購買で売っているやつだ。も喰べたことがある。
だがしかし意味が解らない。
何でいきなりこんなものをくれるのだろう。
別にご褒美をもらえるようなことをしていないし、お腹だってへってないし。むしろきっちり筋トレメニューをこなしていた自分の方がはらぺこなのではないだろうか。いらないにしてもすぐ傍に万年欠食児がいるのだから、そっちにあげればいいのに。
小さな両手に丸いおにぎりをのっけたまま、の眉間に皺が寄る。
「……あの、三上先輩。何でこれ私にくれるんですか?」
解らないので正直にそう問うてみる。
すると、問われた相手はにやりと不敵に笑ったのだった。
あ。
ヤーな予感。
そう思った一秒後に予感は的中する。
「お祝い」
簡潔過ぎる回答だ。
だが、あげたのがお赤飯、あげた相手が、しかもそのは昨日貧血を起こして倒れかけたという事実を足して加えると、自ずと導き出されるものがある。
たっぷり十秒は機能障害に陥ってから、いきなりは右手をがばっと振りかぶった。
「ばっ…ばかーっっ!」
ぶん投げられたお赤飯が三上の横を通り過ぎ、藤代の後頭部にヒットした。
悲鳴のような罵声を残しては部室を飛び出していく。
艶のある黒髪が靡いてめくれる。熟れた苺のように真っ赤に染まったうなじと耳を、笠井は憐憫を込めて見送った。
腹の底から嘆息。
まったく、なんつー真似をするのだろう。
笠井だって急にへなへなと座り込んでしまったにもしやと思わなくもなかったが、そっとしておいてあげる程度の良識は持ち合わせているつもりだ。
かなりの確率でそういうことで間違いなかったから、大丈夫なのかと尋ねることすらこの場合アウトだろうと思ったのに。
それをわざわざ捉まえてお祝いとほざいて赤飯を渡すなんて。
凄いセクハラだ。明らかにセクハラだ。どっからどう見てもセクハラだ。
でも、三上亮なら赦される。
何故なら顔がいいからだ。
非モテの不細工が口にしようものなら速攻殺人ビームが浴びせられるような台詞も、三上が使うと妙な期待を抱かせてみたりと正反対の効果を発揮する。
もっとも今のは乙女心ではなく羞恥心しか刺激しなかっただろうけれど。
それでもその顔面に赤飯を投げ付けられはしなかった辺り、先輩という点を差し引いても腐っても三上亮といったところか。
じっとりと蔑むような視線を向けてみたが、相変わらず意地悪く瞳を眇めて皮肉るように左の口角だけで笑っている。暇つぶしのように雑誌を捲り始めたその横顔には反省した様子は微塵もない。
とっくに着替え終わっているのにわざわざ部室に残っているのは、十中八九もう一方の獲物を待ち伏せしているのだろう。
笠井はこれ見よがしに溜息を吐いた。
どうせ笠井が声を大にしてその非常識さを誹ったとしても三上は聴く耳を持たない。溜息なんて吐いて見せるだけ無駄なのだが、小さな嫌がらせも積もり積もればいつか大きな天誅になるかもしれないと儚い望みを捨てられずにいる。
「あ」という呟きと共にピコピコ音が途切れ、ゲームオーバーを知らせる陰鬱なメロディーが流れる。
「あーあ、死んじゃった。なあ、さっき俺になんかぶつけたの誰?」
野球部の大掃除で出てきたという、年代もののゲームボーイに勤しんでいた藤代が唇を尖らせながら振り返った。
「なんだこれ、赤飯? 喰っていいの?」
訊いた端から発見したおにぎりのセロファンを剥いている。
どうやらゲームに熱中していて、さっきのやり取りは耳に入ってなかったらしい。
笠井はさっきよりもさらに盛大に息を吐き出す。
例によって例のフレーズが脳裏に浮かんだ。
着替え終わったし、藤代もゲームの手を休めたし、ちょうどいいから藤代を引き摺ってさっさとここを後にした方が賢明かもしれない。
そう考えて腰を浮かしかけたところでドアが開いた。
渾身の溜息と共にへたり込むように笠井は尻を戻す。
出るタイミングを失った。
哀しいかな、身に付いた習慣で着替えてもいないキャプテンの前を横切りとんずらすることに心的抵抗を覚える。
「お疲れ様です」
練習前と練習後に、渋沢は決まって桐原のもとを訪れている。毎日行く必要なんてないじゃんと思うのだが、渋沢は欠かしたことがない。その行為の重要性がいまいち笠井には理解不能だが、監督への心遣いもキャプテンの仕事のひとつらしい。
は?」
自分のロッカーに向かいながら、渋沢は誰ともなしに問いを発した。
笠井の思い過ごしかもしれないが、の名を呼ぶその声からは遠慮が消えた気がする。
渋沢はに甘かったが、それでも一応という個人の境界を越えようとはしてなかった。を構いはしてもの私生活を侵食しようとはしなかった、なのに最近の渋沢にはが自分の傍らにいるのが当たり前だと思っているような素振りすら見受けられるのだ。
の方には特に変わりはないのだが、それ以外にも渋沢の言動には変化が顕著に現れている。
座っている渋沢の前をが通りかかると、わざわざ手を引かせて起き上がるのを手伝わせてみたり、にこっそりと何事か囁いては困らせてみたり。
ほんのりと桜色に頬を染めて弱ったように自分を見上げてくるの髪を、渋沢は笑いながら宥めるように撫でていた。
似たような光景は以前も見たことある気がしたが、何かが決定的に違う。
笠井の目にはそれはまるで渋沢がに甘えているように映った。
二人とも何も云わないが、この間何かあったのは確実だと笠井は睨んでいる。
「さあね、さっき出てったぜ」
セクハラに耐え切れず飛び出していきましたなどと真実を告げる訳にもいかず、仕方がないので黙していると三上がさらりとそんなことを云った。
どんだけこの人はツラの皮が厚いんだと、笠井は内心で呆れ返る。
「ああ、そうそう」
非常にわざとらしい声をあげると、三上はポッキーよりも小さくてチョコレートよりはちょっと分厚い箱を渋沢へと放り投げる。
うわあと思って、笠井はその放物線から目を逸らした。
だから何でこの人はそういう嫌がらせが大好きなんだよ!
心の中では滝のように汗が流れて止まらない。
視界の端で渋沢が難なくそれをキャッチする。渋沢は掴んだ箱を一瞥すると、興味なさげに背後のテーブルの上に置く。それから平然と自分のロッカーを開ける。
がちゃりという音は笠井の正面から聴こえた。
つまり、渋沢のロッカーはテーブルを挟んで笠井が今座っている席の目の前で、要するに、笠井から直線距離にしてほんの一メートルほど先のところに例の箱が据え置かれてしまった訳で。
頼むからそんなところに置かないでくれえぇえぇぇと情けない絶叫が笠井の胸の内でこだまする。
「やるよ、それ。良かったなぁ、これで禁欲の日々ともおさらば出来るな」
「何の話だ?」
だよ、昨日のアレ、そういうことだろ。これで心置きなく手ぇ出せるじゃん」
くるりとTシャツを脱ぐと、渋沢は「ああ」と他人事のような調子で呟いた。
テーブルの上の物体を可能な限り視野に納めないようにしながら、笠井は現実逃避気味に渋沢の背中をうっとりと眺める。
腹筋の方は畝が出来るほど筋肉質ではないのに、渋沢の背中は無駄のない筋肉に覆われていた。
骨の上に均等に筋肉がのっていて、綺麗な凹凸を描いている。脂肪なんてどこにもなくて、どこもかしこも硬そうだ。
筋肉に対する執着もマッスルボディに対する憧憬も笠井は持ち合わせていないが、渋沢の背中は格好よくて好きだ。そんなことを口にしたら変態の烙印を押されてしまいそうだから、誰にも話したことはないけど。
渋沢が卒業してしまう前にやっぱりどういうトレーニングをしたらそんな風になれるのか訊いておこうかなあ、と笠井は一メートル先にあるブツを無理矢理無視して温く微笑んだ。
「要するにお前が云いたいのはに生理がきたなら俺も抵抗なく手を出せるなってことなのか? どうも誤解があるようだが、ならとっくに初潮を迎えていたぞ」
「はっ!?」
がくりと笠井の顎が落ちた。
生々しい小箱を視野から外す余裕などなく、耳を疑うような台詞を吐いた整った背中を凝視する。
動揺しているのは笠井だけじゃない、三上もこの思わぬ反撃に顔を強張らせていた。
「マジか、てか何でお前がそんなこと知ってんだよ」
そうだ、その通りだ、と珍しくも笠井は握りこぶしで三上に無音の声援を送る。
「肌の匂いでも解るし、一月のうちやけに体温が高い時期があれば普通気が付くだろう」
普通じゃないことをごく普通の口調で語りながら渋沢がシャツを羽織る。
全然フツウじゃない、絶対それフツウじゃないって。
そう思ったが声に出来ない。
この分じゃ当たり前のようにの身長体重スリーサイズに血液型まで知っていそうだ。
その考えにぶるっと背筋が震えた。
「じゃあ何で手ぇださねえんだよ」
唸るように三上が問う。
好奇心というより強引に軌道修正を図ることで、落ち着きを取り戻そうとしているようだ。
ばたんとロッカーが閉まる。
「お前の云われたことであることに気付いてしまったからかな」
振り向いた渋沢は晴れやかに笑っていた。
「ところで、そろそろいい加減にと呼ぶのを止めてみないか?」
「独占欲かよ。人を正すよりテメエも呼べばいいだろうが、ちゃんって」
「あの子がそう望むならな。俺はあの子の望まないことをして嫌われるのが恐いんだ」
後を通り過ぎ様、渋沢はぐしゃりと三上の髪を掻き混ぜていく。
を探してくる。戻ってきて戸締りするからお前たちは先に帰ってていいぞ」
渋沢が部室を出て行くと、部屋にはピコピコ音が響いた。
ピコピコピコピコ、黙々とした空間のピコピコ音が耳に痛い。
腹の中がむずむずする。
今回も笠井は口を噤んでいることが出来そうにない。
「…先輩、キャプテンに何云ったんですか?」
迷った末に問うていた。
両手の指を生え際から突っ込み、乱された髪を整えようとしていた三上が動きを止める。
すっきりと額を露わにした三上は古の賢者のようだ、もっともにやにやしないで黙っていればの話だが。
しかし、賢者は云い過ぎだとしても、端正なその顔は十分知性的だ。
事実、三上は異常に成績が良い。
テスト前じゃないと机に向かっている姿は見ないが、小難しそうな雑誌や本を読んでいる姿は頻繁に見かけるし、洗濯室で恐ろしく流暢な英語で何がしか歌っているのを耳にしたこともある。
わざと斜に構えているような言動は反発も呼んだが、それ以上に羨望を集めた。
腹の立つことも多いが笠井はこの人が嫌いじゃない。
どこか遠くを見詰めながら、三上は予言を紡ぐような重々しさで口を開いた。
「『そんなの突っ込んだら壊れるんじゃねえの?』」
笠井は本日最大の溜息を漏らした。
愚者と賢者は紙一重のようだ。



はすぐに見つかった。
部室を出て左に曲がったその先のグラウンド、この間自分が座っていたのと同じ場所に座っている。
芝の上で膝を抱えている背中に、早く見つけて欲しかったのかもしれないと漠然と感じた。

声をかけると、は肩を揺らして振り返る。
立ち上がろうとして芝に靴底を滑らせたを渋沢は手を上げて制した。の横を指し示して、自分がそちらに行くことを伝える。
渋沢はなるだけゆっくりと歩み寄った。
グラウンドの方へと視線を戻したは再び膝を抱える。
背中の黒髪がほんの僅かに揺れて、微かに右肩が動いたことを渋沢に教えた。三上が何を云ったのか凡その見当はついたので、何をしたのか見当がつく。
渋沢は黙って隣に腰を下ろす。
二人の間には十センチほどの空白が存在する。
やはりは肩を寄せたりしてはこなくて、渋沢はそれを少し残念に思う。
そっと横顔に目を向けてみると予想通りに大きな目は薄っすらと潤んでいた。
「月が綺麗だな」
気付かない振りを装ってそう告げると、は誘われたように天を見上げた。
頭上で燦々と輝く月は純白で無垢で穢れがない。
「満月ですね」
声は少し震えていた。
曝け出された首はとても白かった。
頬は赤みを帯びていて瞳は濡れて艶やかだった。
小さな身体が十分やわらかいこともが見かけほど子どもじゃないことも本当は渋沢は知っている。
けれど、手を伸ばさない。
飢えを満たすのは簡単だが、そうはしない。
向こうがどう思ったかは解らないが、三上に語ったことに嘘はなかった。
三上としては皮肉のつもりで口にしたのだろうが、「お前、今まで付き合った女のこと本当は好きじゃなかっただろ? 単に告られて流されただけで、実はが初恋なんじゃねえの」という台詞に目から鱗が落ちる思いだった。
三上の指摘通り本当に渋沢は初めてその身に正しい恋心を宿したのかもしれない。
確かに渋沢は自分から告白したことはなかった。
好きだと云われて嫌いじゃないから付き合った。
「嫌いじゃない」と「好き」は大差ないものと捉えていたが、を目の前にして実際にはこんなにも違うのかと初めて思い知った。
本当はが望むまで抱き寄せたりしないと決めているのは、の為なんかじゃない。
万が一を怯えさせて、それで嫌われたりするのが恐くて仕方がないからだ。あるいは清浄な月を濁らせたくないのと同じように、の美徳である清明さを曇らせたり歪ませたりはしたくないから。
今はまだ頭上で輝く衛星同様遠くから愛でるだけでいいと云い聞かせ、やろうと思えば出来るのに我慢している。

手のひらを差し出すと、は少し照れたように瞳を細めて小さな手を重ねてきた。
繋いだ手は華奢で、触れる体温はやわらかで、握り締めることで得られる与奪の感覚は酷く甘くて、渋沢に絶え間なく悦びと痛みを齎す。
「渋沢先輩…」
腕の筋肉がゆるやかに引き摺られていく。
繋いだままの渋沢の手のひらをが胸に抱え、宝物にするみたいに両手でさらに包み込む。
面喰らって動けずにいる渋沢には残酷なまでの無邪気さで微笑んだ。


渋沢にとって隣の少女はまさしくだった。