ほんの冗談だったのに


「ねーねーちゃん、俺、ちゃんとエッチしてみたいなー」

画面の中で絡み合う男女。
恋とか愛とか字は書けても、例えばクラスの女の子にぼんやり抱く感情がじゃあ愛なのか、といったら首を傾げるしかない。
テレビの世界は解り易い。
好きと囁いて、キスをして、そして灯りの消えたベッドへ。
それで愛情は成立するらしい。
世の中はそういうものなの?
不思議に思ったけど。
それを訊くことは自分が子どもだって云ってるようで嫌だっだ。
「好き」って言葉はこの頃はエッチより、全然恥ずかしくて神聖な響きを持っていた。
だからそう云った。
好きだって云ってるつもりだったのだ。
好き、とはっきり告げることが出来なくて、遠回しに愛情を訴えてるつもりだったのだ。
そしてほんの冗談だったのに。
は不思議そうに首を傾げた。
不愉快でもない、狼狽でもない、ただ興味深い生き物を観察するように。
「いいよ、別に」
そう云って、笑った。

初めてキスをして
初めて他人の服を脱がして
初めてスポーツ以外の興奮で呼吸を荒げた

その行為が気持ちよかったのかどうだったのか、余裕が無さ過ぎて全く解らなかった。
ただ
友人より先に大人になったような優越感だけがその手に残った。
本当に、それだけ。
ただ、それだけ。

その夜は幸福に包まれて眠りについた。

後に誠二は激しく後悔することになる。
この時の軽はずみな行動のために
心から望む人に受け入れてもらえない苦しみを長く味わうこととなる。
それを、この時は知らなかった。



                                                  
Beautiful pain



もうすぐ冬休みになる。
笠井竹己はベッドの上でぼうっとしている藤代誠二をこっそりと見た。
誠二は帰省の準備の手を中途半端に止めて、散らかった鞄の辺りを精気のない顔で眺めてる。
その様に竹己は眉を顰めた。
夏休み、冬休み、春休み、学生には3回も長期休暇がある。中一の時から同室の誠二は、帰省の度にいつも本当に楽しそうにしていた。
そして、必ずいつも意気消沈して寮に戻ってくるのだった。
竹己がそのことに気が付いたのは、中二の冬休み明け。
見るからに元気のない様子に風邪でもひいたのかと訊いてみたが、誠二はただ首を振るだけだった。不審に感じて、それでそういえば前回も前々回もこんな調子じゃなかったか?と思い出したのだ。
気が付いてしまうと気になった。
そして次の春休み。
思った通り、帰省する前はうきうきしているのに、酷く落ち込んだ顔をして帰ってきた。夏休みも同じだった。
皆はどうせ休みが終わった所為だろ、何て馬鹿にしていたけれど。
何となくそれだけじゃない気がするのだ、竹己には。
同室でいつも顔を突き合わせている自分だからかもしれない、軽々しく尋ねることの出来ない何かを予感させた。
明日にはここを出る。
なのに誠二は魂を奪われたようにぼんやりとしている。
まるで帰ってきた時のように、いや、それ以上に呆然として。
今回に限ってどうして。
「なぁ、誠二、どうしたの?お前変だよ」
迷った末に結局竹己は声をかけた。
見ているこっちが耐えられなかった。
「誠二」
「なぁ、タケミはエッチしたことある?」
「えっ!?」
予想もしてなかった問いに竹己は目を丸くした。
同時に頬が熱を持つ。
「な、何云ってんだよ、急に」
「俺、あるよ、小六の時に」
ますます目を丸くし、竹己は言葉を失って誠二を注視する。
どういう話なのか解らないが、もしかして楽しい話かもしれないと少し心が浮き立つ。
「すっげぇ好きな人と」
竹己の視線などまったく意に介してない。
相変わらず空ろな瞳で鞄の辺りを見てる。
「でも、そのせいで嫌われた」
膝の上で重ねていた腕の、その間に顔を埋める。
竹己の耳に届く声が少し遠くなる。
「そのひともうすぐ結婚すんだって」
それきり誠二は顔を上げなかった。
竹己は。
誠二の側で、まるでその哀しみが伝染したように顔を歪めた。

                                                       時間が無いんだ

誠二は真っ黒な夜に向かって息を吐き出した。
入れ代わりに吸い込まれた氷のような酸素が体の内部から身を凍らす。
気温の低い中でも当然試合も練習もある。
でもここはあの血を滾らせるようなフィールドじゃない。
ただの一軒家の玄関脇だ。
寒い。
猛烈に寒い。
頭の中にはひたすらストーブや炬燵の姿が踊ってる。
空想の中の暖かさはより寒さを強調した。
どれだけ帰ろうと思ったか。
でも、この寒さが誠二を余計に後の無い気分にさせた。
今日会わなければもう本当におしまいだ。
帰りたいと弱音を吐く度に頭に再生される言葉。
根拠なんか無いのに。
しなやかなはずの筋肉は今は棒のように硬い。今垂直飛びをやってもきっと30センチも飛べないだろう。それどころか着地の瞬間にガラスのように粉々に砕け散ってしまうそうだ。
がちがちになった肘をぎしぎし曲げて時計を見る。
21時47分。
彼女はまだ帰らない。
あとどれほど待てばいいのか。
寒さと不安が容赦なく誠二の心を蝕む。
何百回目の「もう帰ろう」をやり過ごせたのは、それでもに会いたかったからだ。
今日会わなければもう本当におしまいだ。
すでに感覚の無い唇を噛む。
目の前を白いものが通り過る。
空を振り仰いで、マフラーをしてこなかったことを後悔した。
雪が降ってきた。









時々頭を振って積もった雪を払い飛ばす。
2時間前は腹立たしいほど空腹だった。だが今はそんなものさえ感じない。
死んじゃうんじゃないか、と思うぐらい意識が朦朧としてきた。
近付いてくる車の音。
それが目の前で停止して、誠二は疲労に半分瞳の閉じかかった顔を上げた。
真っ暗でよく解らなかった車内に、ぱっと明かりが灯る。運転席の男が後部座席に手を伸ばしているところだった。
その助手席に居る女性。
だ。
男から鞄を受け取り、二言三言言葉を交して、男の頬に口付けた。男は笑って、の頬を片手で捉え顔を近づける。
そこで車内の灯りは消えた。
誠二はじっと我慢した。
本当は、飛び出していって滅茶苦茶にしてやりたかったけど。
そんなことをしたら駄目だと判断できる程度には自分は大人になった。
泣き喚けば玩具が貰えた幸福な子供時代は終わってしまったのだ。
やがて
誠二にとっては拷問のような時間は漸く終わり、助手席側のドアが開く。
真っ白なコートに身を包んだが降りてくる。
手を振って走り去る車を見送るの後ろで、誠二はのろのろと立ち上がった。
さん」
車が完全に見えなくなるまで見送って、それからやっと玄関の方に振り返ったは突然名を呼ばれてびくりと立ち止まった。
誠二はを「ちゃん」ではなく「さん」と呼ぶようになっていた。
「誠二君…」
は酷くくたびれた様子の誠二を見て一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑んだ。
「何してるの、こんなとこで」
本当にそう思ってるように。
誠二はその笑顔に愕然となる。

あれだけ
あれだけ毎年思いを口にしてきた自分に

それを云うのか、この人は

迷惑そうに眉を顰められた方が、きっと自分は傷付かなかった。
まだ予想出来たことだったから。
けれどこれほど残酷なことは予測できなかった。
こんな時間に、こんな雪の降る日に、こんな子どもが此処に何の用が在ると云うのだ。
に会う以外、理由など在る筈無いのに。
それが解らないはずなど無いのに。
冷え切った身体がぶるりと震えた。
「俺……」
挫けそうになる胸を奮い立たせる。
寒さと緊張に、自分の声とは思えないほどか細い掠れた音が漏れる。
さんに、アイツと結婚して欲しくない」
いろいろ遠回しな台詞を考えていたのに、出てきた言葉は惨めなほどに子どもじみたものだった。
でもどうせメッキじゃこの人を騙せない。
何ならばこの人を捕えることが出来るんだろう。
3年かけても駄目だった。
誤解なのに。あれは興味本位などではなかったのに。
ましてやの繰り返す、初めて寝た相手に固執しているだけなどでは断じてないのに。
信じてもらえなかった。
結局。
戦術としては最も愚かな術に頼らざるをえない。
さんは俺にとって何が一番大事なモンだと思う?」
雪がすべての音を吸い取ってしまう。
白い息は風に流れ闇の中に崩れ行く。
喋っているはずなのに、次の瞬間には次から次へと言葉が消え去ってしまうようだ。
ただ途切れることのない雪だけが、流れる時間を教えてくれる。
気が遠くなりそうな空間の中、灰色の空を背景に背負っただけがやけにはっきりと浮き上がって見えた。
「サッカーでしょ」
淀みなくは云い切った。
何も解ってはいないのに何もかも見通しているように。
やっぱりは微笑んでいる。
「チガウ」
誠二も強情なまでに云い切った。
首を振った所為で、頭に積もった雪が飛び散る。
誠二の視線の先でその破片がの頬で融け、涙のように頬から顎に線を描く。
「一番はさんだよ」
強張った顎で、誠二は云い聞かせるようにゆっくりと告げた。
今度こそ伝わればいい。
あの日。
武蔵森に入学してから、初めて帰省した夏休み。
学校は楽しかった。
新しい友達と先輩。
サッカー部は厳しかったけれど、充実感の方が勝った。
育った家を出た寂しさを感じる暇もない。ただ、に会えないことを思った。
家に帰って、父親に顔を合わせるよりも先に、この従兄弟の家を訪ねた。叔母さんは笑顔で誠二を迎え入れてくれた。はもうすぐ帰ってくるからと。
3時間ほど待って。
やっとが帰宅した。
はやっぱり笑顔だった。
誠二も笑った。
叔母さんがの分のお茶を用意しに台所に消えた隙に、誠二はの肩を抱き寄せた。
『なー、ちゃん、俺、年上の彼女がいるって云ったら、皆に羨ましがられちゃった』
会えた嬉しさに心臓がどきどきした。
『誠ちゃん、彼女できたの?良かったね』
有頂天でに口付けようとして、誠二は凍りついた。
『……何云ってるの?彼女って、ちゃんのことだよ?』
『え?』
本当に、心から不思議そうに、は誠二を見つめて瞳を瞬かせた。

誠二は自分が間違えたことを漸く理解した。

そうだ。
あの日から、誠二はを「ちゃん」と呼べなくなったのだ。
休みが来るたびに、の元に弁解しに駆けつけた。
だが頑ななまでに、は誠二の言葉を受け入れてくれなかった。
いつもいつも最後には自分の行動こそ軽はずみだったことを詫びて、誠二を帰した。
謝って欲しくなんかないのに。
もう自分には捨て身の作戦しか残されてない。
脳裏にサッカー部の連中の顔が浮かぶ。
竹己。
それから高校で自分を待っててくれる先輩たち。
時には敵で時にはチームメイトだった奴ら。

ごめん

多分それは裏切りだろうから。
そっと心中で詫びた。
さんは俺がサッカーが一番大事だと思ったんだよね?そうだよ、大事だよ。スッゲー大事。 でも、サッカースゲー好きだけど、プロになるつもりだったけど、さんが俺のことそれで許してくれるなら、引き換えにしたっていいんだ。
だって、さんが誰かと結婚しちゃうくらいなら、死んだ方がマシなんだ」
口に出すとそれ以上の真実など無いように思えてくる。
本当に、死んだ方がましだ。
そう思うぐらい、自分はこの人に恋い焦がれている。
手に入らないくらいならいっそ死んで楽になりたい。
誠二はの右手を、両手で包むように取った。
「武蔵森も辞める。普通の高校に行く。でも、絶対サッカー部には入らない。
一生、二度と、ボールに触らない」
本気だ。
いっそ睨むような激しさで誠二はを凝視している。
それなのには相変わらず穏やかで。
誠二はこの人が何を考えているのか、解った例がない。
だから必死になる。それしか手がないから、必死に云い募る。
さんは捨てられないけど、俺、サッカーは捨てられるよ」
雪の中、白いコートよりもの手は白い。
その薬指の指輪。
それをするりと引き抜いた。 
いまどき小学生だって知ってる。
カルティエのラブリング。
弁償など、今の自分にはどう転んでも到底不可能な高級品だ。
しかも相手はの叔父さんの会社の重役の息子だと聞いてる。
てのひらの上のちっぽけな指輪。
きっと見えない糸が沢山絡み付いている。
の右手を握ったまま、指輪を拳の中に硬く握り込む。
「だからいい加減、俺のこと信じてよ」
誠二は視線をに戻した。
はとても静かな表情をしている。
「嘘でも勘違いでも思い込みでもないよ。好きなんだ」
じっとの顔を見ていたら覚悟が決まった。
もっと嫌われるかもしれない。
責任を取るという響きに説得力を持たせるにはまだ自分は若すぎる。
絶対、こんなのは子どもの我侭なのだ。
解ってる。
それでも、
さんが、好きだ」
肘を引き、振り被った。
が驚いて小さく悲鳴を上げ、咄嗟に身を竦ませた。

銀色の軌跡は、雪に紛れ闇に呑まれて行った。

やってしまったことに息が荒くなる。
は肩を縮こませたまま、呆気に取られたようできょとんと瞳を見開いている。
さん」
誠二は軽くなった右手を再度両手で包み、掲げるように二人の顔の間に持ち上げた。
「俺と結婚してください」
本当に真剣だった。
それなのに。

それなのに、














は今まで見たこともない大声ではじけたように笑った。
やはり予測していなかった反応に、誠二はらしくもなく立ち竦む。
笑いすぎてブーツが滑り、が雪に膝を付く。
右手を握ったまま、誠二も慌てて身を屈めた。
さん?」
「まったくもう…………なんて子なのかしら」
が開いている左手で誠二の首を抱き寄せる。
「だから好きよ」
その囁きと抱擁に誠二は瞠目する。
「じゃあどうして!」
「私が悪い女だから」
が悪戯に笑って、目を見張る誠二に軽く口付けた。
「3年前、貴方が私と寝たいって云った時、嬉しかったわ」
はうっとりするほど優しい顔で語った。
その黒い瞳はきらきらと興奮に濡れている。
だから、嘘を言っている訳ではない事は確かだ。
しかし、ならば拒み続けた動機は何だったのだ?
「もう嫌だなんていっても遅いんだからね。責任とってもらうから」
はその様を可笑しそうに、そして少し哀しそうに眺め、もう一度口付けた。
誠二はその表情と内容に魂を奪われ呆然となる。
世間体、なんて言葉、誠二は知らないから。
一緒に居る以外の愛を誠二は知らないから。
ただ、こう思った。

なんて酷い人なんだろう。

の口付けを受けたまま、誠二も笑がこみ上げて来た。
誠二はこの人が何を考えているのか解った例がないのだ。
だから指を解いて大声で笑いながらを腕に抱き込む。
本当に、なんて酷い人なんだろう。
でもそれ以上に愛しくて仕方ない。
でもそれ以上に嬉しくて仕方ない。
云いたいことは沢山あったけれど。

誠二は取り合えず、
雪の中にを押し倒し、
噛み付くようなへたくそなキスを気が済むまで繰り返した。