手塚国光という男。

中学生男子の平均身長よりも高く、細いけれどしなやかな筋肉質の身体。けれども彼を年より大人びて見せる要因は、彼の顔立ちと気難しそうな表情にある。
眉間の皺が彼が常に深遠な思考に沈んでいるようにみせ、人を寄せつけない雰囲気を漂わせていた。だが彼がそのような表情をしている時、外観通り思い悩んでいるのは3割を切っており、残り7割は何も考えていないというのが真実なのだが。
さて。今も手塚の眉間には皺がある。
今回のこれは見たまま、不機嫌さを表していた。
くちづけを交わした相手がすぐ傍に居る。
ただし自分以外の男に囲まれて。






「おつかれさまー」
が呑気にぱちぱちと拍手をするその両脇を菊丸と不二が固めていた。微妙に皺がきつくなる。
本来なら部外者がコートに入るのは例外なく禁止だ。そしては部外者。ここに居ることを誰よりも手塚が許すわけにはいかないはずだった。
しかし、許可を出したのは他でもない手塚である。
レギュラーメンバーから苦情が出た。乾のドリンクじゃ余計萎えると。薄々手塚自身もそう思っていたので、乾以外の者に作らせることに了解を示した。だが、菊丸と不二はさらにこう条件を付けた。可愛い女の子に作ってもらいたい、という。却下しようとして、菊丸、不二はおろか、桃城、あまつさえ大石と河村の反対にあい、仕方なしに手塚は許可を出した。
ただそこから先にまた問題が発生したのだった。今日一日だけなのだから適当に頼めばいいものの、誰が良いあれが良いと5分待っても話が纏まらない。業を煮やした手塚は一喝すると、問答無用でに頼むことを告げた。
が手塚のものだと知っている者が恨めしげな顔を向けるが、そんなものは手塚が冷たい視線で「何か云いたいことがあるのか?」と問えば簡単に逸らされる。
鬱々としていたレギュラーも居たが、いざが来てみれば、彼女が別に手塚を贔屓したりせず、ドリンクだけではなくタオルを配ったりボールを出してくれたりしたので、次第に晴れ晴れとした顔になっていた。どうやら気分良く練習が出来たらしい。
ただそんなレギュラーの中で気分良く練習に専念できなかった者が一人。
手塚である。
桃城は意外と先輩を立てるようなところがあるから、に必要以上に構ったりしない。河村、大石もその辺義理堅い。海堂、越前に至ってはただのテニス馬鹿だ。
問題はこいつらだ。
菊丸と不二。
「手塚君、お疲れさま。はい、タオル」
するりと二人の間を抜け、自分の傍にやってきた
手塚は「ああ」と短く答え、タオルを受け取った。だが本当は汗など殆どかいてはいない。の傍に居る二人が気になったので、レギュラー候補の相手を秒殺して来た。
「手塚駄目じゃん、あれじゃ全然練習にならないにゃ〜」
「そうだよ、可哀想に」
自分の胸ほどしかない小柄なからは見えないのを承知の上で、手塚は二人に睨むような目線を流した。
一人はひたすら無頓着に、もう一人は解った上でその視線を受け流す。
菊丸はただ単に女の子が好きなのだろう。
誰にでもこんな調子だ。
不二は確かに可愛い女の子は好きだろう。
だがそれ以上にイヤガラセが好きなんだろう。
「ストレートで試合終わらして、一回もボール触らせてあげないなんて、何かコートの外に気になることでもあった?」
そうとしか思えない。
裏のない笑顔を浮べている菊丸と、少女のように優しげな笑顔を浮べているくせに毒を孕んだ不二。二人を半ば無視するようにに目をやる。
、ご苦労だった。もう今日はいい」
「ええ〜!やだよー!俺の試合まだじゃん、ちゃんに応援してもらいたいよー!」
に頼んだのはドリンクの用意だ。二人とも速くコートに入れ。後がつかえる」
口答えを許さない厳しい声音に菊丸はフェンスに立てかけておいたラケットを取ると、唇を尖らせながらしぶしぶコートに向かう。不二は子供じみた菊丸か、それとも手塚の方か、くすくすと小鳥が囀るように笑いながら菊丸に続いてコートに入る。
「ねぇ、あたしは別に疲れてないから大丈夫だよ?最後までやれるよ?」
は手塚がただ単にの体力を心配して仕事を切り上げたのだと思ったのか、そんなことを云う。些か見当はずれな内容に手塚の眉間の皺が僅かに緩む。
「いや、いい。十分助かった、礼を云う」
「そう?あんまりたいしたこと出来なかったけど、お役に立てて光栄です」
照れたように微笑むは、人の美醜に疎い手塚から見ても十分愛らしい。だから柄にも無く心配になる。
「コートの外まで送ろう」
フェンスのドアはすぐそこだが、何となく気になってそう云っていた。自分が目を放した隙にろくでもない事をされるのではと疑心暗鬼を誘うほど、菊丸と不二、というよりも不二が気になった。
「変なの。すぐそこだよ?」
がくすくす笑いながら、それでも嬉しそうに手塚の後を追う。無意識に、コートから隠すようにをフェンス側を歩かせていた。
「いたっ」
不意に上がった鋭い声に、手塚は機敏に振り向いた。
が右手で髪を押さえている。見ると風に煽られたのか、の腰まである黒髪が格子状のフェンスに絡んでいた。
「待ってろ。今取ってやる」
手を伸ばすと、手塚は引っ掛かっている一房を解きにかかる。しかしどういう訳か格子の隙間に挟まってすんなりと取れない。の髪を引き千切るわけにもいかず、隙間を広げようと指先に力を込めた時だった。
「危ない!」
「え?」
の微かに狼狽えたような声が胸の辺りから聴こえる。
危ない、というのは最低の警告の仕方だな、と思う。
その類の言葉は行動を制止させるばかりで、回避への判断力を逆に奪う。しゃがめ、とか、避けろ、のがより適切な警告といえる。
一瞬でそれらを考えつつも、何が危険か解らない状況下での髪が今だ引っ掛かったままでは手塚の選択肢はひとつだった。
その身でを庇う事。
どす、という音と共に鈍い質量が背中に激突してきた。
視界の端でテニスボールがてんてんと跳ねて転がって行く。危険の正体はこれだったのだろう。それを確認すると、に覆い被さっていた身体を離し、何事も無かったように手塚は再び絡まった髪を解く作業に取り掛かる。
「て、てづかくん!」
さっきは頑固なまでにフェンスにしがみついていた髪がするりと流れ、手塚の手のひらを零れ落ちる。
「取れたぞ」
「そんなのどうだっていいから!大丈夫!?」
頷く手塚の周りを辺りにいた部員どもがわらわらとやって来て、あっという間に2人を取り囲む。
「部長、大丈夫ですか!?」
それに再び頷く手塚の前に、ラケットを両手で握り締め、判決を待つ受刑者のように青褪めた一人の部員が進み出てきた。
「すいません、俺、グランド10周してきます!」
10周?何故コイツは走るんだ?俺にボールが偶々当たっただけだろう?
そう思って眉間に皺を寄せると、より青褪めてぶるりと身を震わす。
「足りませんよね!20周してきます!」
そう半泣きで叫ぶと、手塚が口を開くよりも早くすでに駆け出していた。
何か大きな誤解が部員との間に生じているような気がして、より手塚の皺が深まる。手塚は気付かなかったが、その様により部員達は恐れをなしていた。
「手塚、ボール当たったって?」
そこに乾がやってきた。眼鏡に隠れた無表情と、感情の篭もらない平坦な声。何よりもデータを珍重するこの男も、手塚とは違った種類の畏怖を部員達に与えている。モーゼの十戒のように自然、下級生達の人垣が割れていく。
「ああ」
「部室に救急箱あるよ。一応シップしときなよ」
手塚自身は別に放って置いても構わないと思っていたが、乾の言葉に頷く。この場を治めるにはその方が無難な気がしたから。
「私、貼ってあげる!」
はい、とが意味も無く挙手をして、手塚の腕を掴むと有無を云わさず部室に駆け出した。最も身長差が在る為、は小走りでも手塚はほぼ普通の速度で歩いていたのだが。
部室には当然ながらこの時間誰も居ない。
部屋の内部は男子運動部のものにしてはむしろ整然としすぎな感があるが、それは偏に手塚が雑然と物を放置し、共有スペースである部室を汚すことを許さないからだ。
が救急箱、救急箱と辺りを物色し始める。
手塚は着ていたポロをくるりと脱ぐと、左手を背中に這わしてみた。確か右の肩甲骨の下辺りに当たった気がする。その辺りを押してみたが特に痛みは感じられない。
あった、という声、だが次にぎゃっという声。
「何だ?」
「なっ、な、だって急に上、脱いで、るから…」
手塚から精一杯視線を逸らしたの声が段々小さくなる。
ああ、と右手に持った上着に目をやる。部室では着替える事が当り前になっているものだから何の抵抗も無く脱いでいたが、女の子の前では不適切な行動だったかもしれない。
「悪い。貼ってもらったら、すぐに着る」
手近に合った椅子を引き寄せ、に背を向けて腰を下ろす。
手塚の背中で今度はうわぁというの情けなさそうな声がする。
「もう痣になってるよ、これ」
「どこだ?まったく痛みはないが」
「どこって…触っていいの?」
「ああ」
変なことを訊く、と正直思った。別に今までだって自分に触れてきたくせに。
すとんと、自分のものとは違う滑らかな指先が一点に降りた。
「ここ」
そのままゆっくりと円を描いて名残を惜しむように止まってから、つっと離れていった。
「解った?」
「楕円形をしているな」
「え?何で解るの?」
「指でそう、なぞっただろうが」
ええ〜、すっごーい、との声がはしゃぐ。顔の見えない分、羞恥も薄れるのだろう。いつものペースにどこかほっとする。
「じゃあ、これは、これは!?」
の指が背筋を這う。
その感触を辿りながら、先程が躊躇った理由が今更ながら解るような気がした。裸の肌と剥き出しの肌。確かにくすぐったさ以外のものが在る気がする。それに気を取られて、手塚はの指から拾った言葉を何の考えもなしに口にしてしまった。
「くにみちゅ」
途端にの鈴のような声が弾けた。
「くっ、くにみちゅだって〜!て、手塚君がくにみちゅ!」
なおも笑い転げるに憮然とした視線を向けると、手塚は黙って立ち上がった。
「あ、あ、待って、だめだめ、まだシップ貼ってないんだから」
今だ口の端を引き攣らせながらが二の腕に縋りつく。ぶら下がるように体重をかけて手塚を逃がさない。
「もうしません、お願いだからちゃんと治療させて」
笑いを収めて、が殊勝な顔つきで懇願するので手塚は折れた。再び椅子に腰を下ろす。
しばらくはがシップを切る鋏の音だけが部屋を支配した。言葉の無い世界で、自分が無防備に裸の背を晒しているのに酷く不思議な気分になる。
安心感というものは心の内の何処に根を生やすのだろう。
信頼感は何故自分より弱い生き物にも生まれるんだろう。
「はい、オシマイ」
「助かった」
だが立ち上がろうとする背中は、が手塚の首に回した腕によって押し留められた。
「あの、ね。かばってくれて、ありがとう」
囁きは近い。当り前だ、密着しているのだから。
鼓膜を通り越して脳髄の中に直接響くような錯覚を覚える。
「すごい、嬉しかったよ」
そしてオマケのように首筋にからかってごめんね、と囁かれる。
「あとね、お願いがあるの。さっきのもっかいやっていい?」
「さっきのとは?」
「背中にかいたの当てるやつ」
手塚の眉間に皺がよる。
それを横から覗きこんだが必死に云い募る。
「もう、ふざけたりしないよ!ね、後いっかいだけお願い」
背中に字を書く行為自体がふざけてるような気がしたが、手塚は仕方なしに頷いた。
鍵をかけている訳ではない。何時誰が入ってくるやも知れぬ部屋でこれは拙かろう。しかし駄目だと云ってが簡単引くとは思えない。
手塚にしてみれば最も合理的に行動したつもりだが、それは客観的に見ればただという少女にひたすら甘いだけだった。
「一回だけだ」
「やった!」
すっと絡んでた腕が解かれ、熱が失われる。
の離れてしまった背中は酷く軽くて、寂しくなる。
「絶対当ててね」
の指が動き出したから、そんな心細さを振り払うようににそれを追って手塚も言葉を紡ぐ。

指はまだ動き続けている。


「 ア、
 イ、
 シ、
 テ」


手塚は一気に立ち上がった。
何て事を云わせるつもりだ。
くにみちゅのがまだマシだ。
突然指を弾き飛ばされてがあっと悲鳴のような声を上げる。
「手塚君、続きは!」
「知らん」
右手に持っていた上着を元通りに着る。だがポロと背中の間にまだの指の感触が浮いているようで落ち着かない。ざわざわする肺を持て余したままドアに向かう。
「ケチ!ケチケチ、手塚君のケチ!!」
しかし悔し泣きしそうな勢いで罵られて、溜息を吐いて手塚は歩を止めた。
上目遣いで睨む瞳としばらく黙って見詰め合う。
ふと悪戯に心を捉えられる。
「……交換条件だ。俺が続きを云う代わりに、お前は目を瞑れ」
の顔が一斉に晴れた。
「そんなのでいいの?いいよ、別に」
すぐさまが云われた通りに素直に目を閉じる。瞳を閉じた口元に嬉しさの余韻がある。
その表情を焼き付けるように一瞬凝視して。
手塚は身を屈めるとそのくちびるにキスをした。
すぐに身を引くと、同時にが驚きにめいいっぱい瞳を見開く。
信じられないことが起きたとでも云いたげなその色に酷く手塚は満足した。
滅多に零れることのない笑みが、自然手塚の唇に刻まれる。



「ル」



呆然としたを置いて手塚は部室のドアを開けた。
数秒遅れに、後ろから真っ赤な顔をしたが慌てて出てくる。
「ズルイ!手塚君、今のズル!」
「続きを云うと云ったが、最初から云い直すとは云っていない」
の「ばかー!」という怒声が背を叩く。




手塚国光という男。

眉間の皺が彼が常に深遠な思考に沈んでいるようにみせ、人を寄せ付けない雰囲気を漂わせている。だが彼がそのような表情をしている時、外観通り思い悩んでいるのは3割を切っており、残り7割は何も考えていないというのが真実だった。
さて。今も手塚の眉間には皺がある。
今回のこれは非常に稀なことだが、10割中のほんの例外、浮かれている自分を隠すために刻まれていたものだった。