滑稽だな、と国光は片目を細めた。
 いつのまにか溢れ来る人波からを探していた。
 顔を知らないのだから見つけられるわけがないのに。
 愚かな真似をするものだと、国光は自分の行為に他人事のような酷評を下す。
 彼は祖父の代わりにここに来ただけで、今日からしばらく祖父が預かるという少女の素性も事情も知らなかった。
 自分よりよっつ年上の十八歳だときいているので、その年頃の娘にそれとなく目を止めてみるが誰もが改札前の柱の脇に立つ国光を素通りしていく。携帯片手に最後尾を歩いていた中年男性が改札を抜けてしまうと人通りは完全に途絶えた。四時頃着くと云っていたが、さっき到着した車両には乗っていなかったようだ。
 がらんとした構内に無機質な静寂が敷き詰められていく。
 腕組みをしたまま時計を見上げると、ふと大石秀一郎の声が耳に甦った。
『大丈夫なのか、その子』
 昨夜突然自分の代わりに迎えに行ってくれまいかと祖父から申し付けられただけの国光には、その問いに答えるだけの情報が欠けていた。さあなと返答すると誠実を絵に描いたような男はますます眉を顰める。
『十八っていったらまだ高校生だろ。それがこんな中途半端な時期にお祖父さんが預からなきゃならないなんて、いったい何をしでかしたんだ?』
 云われてみれば確かにその通りだった。親戚でもない少女が休学してまで手塚の家に身を寄せるのにはそれなりの理由があるに違いない。
 訳ありの少女というのはどういう姿をしているのだろう。
 は祖父と一緒に写っている自分の写真を持っているらしいが、国光が知っているのは名前と年だけだ。
 。年齢十八歳。
 暇つぶしに想像しようとしてみたものの、元来自分はもとより他人の風貌になど毛ほども興味を抱かない性分が祟ってか、改札の奥の階段を見詰める国光の脳裏には影絵のような黒く薄っぺらい人影が浮かぶばかりで少しも具体的な映像は結ばれない。
 国光はそれ以上の映像化をあっさりと放棄した。
 とりあえず凄まじい女なんだろうと大味な結論を下してみたところで、大石のあの心配の意味を自分がちゃんと理解していなかったことを降って湧いたように悟る。
 そうなのだ。
 凄まじく素行が悪い可能性があるのだ。
 おそらく大石は訳ありの少女を単純に怪しんでいただけではなく、その『凄まじい女』が国光に何らかの迷惑をかけることこそを危惧していたのだろう。
 祖父は食事こそ一緒にとるものの、母屋を国光の父に譲って今は数年前に増築した離れの方で暮らしている。の部屋もその離れの二階に用意するということで、朝から母が大慌てで片付けているはずだ。
 国光は太陽のあるうちは殆どの時間を学校で過ごすし、家に帰っても母屋の自室にいることが多い。食事の時間以外で顔を合わすことなどないだろうと軽く考えていたのだが、何らかの問題行動を起こすような少女なら平然と国光の生活に土足で上がり込んでくるかもしれないのだ。
 漸くそのことに思い至った国光の眉間に皺が寄る。
 今頃になって気が重くなってきた。
 可能な限り係わり合いにならないようにしよう、そう決心したところで、こつん、こつんという靴音に自然と視線が吸い寄せられた。
 他に人影のない階段の上で黒いスカートが歩みに合わせて揺れている。
 左手に黒い鞄、右手に黒い傘。
 唇を真一文字に引き結び、じっと足元に眼差しを落としながら確かめるように一段一段ゆっくりとおりてくる少女。
 睨みつけるような激しさとは裏腹にその瞳からは涙がいつ滑り落ちてもおかしくない気がした。
 彼女はどうしてあんな思い詰めたような顔をしているのだろう。
 本人すら気付かぬ間に国光の眉間の皺は疏薄なものから疑念へと変化していた。
 国光が見守る中、少女は最後の一段に足をかける。そこで思いがけないことが起こった。憂いを断ち切るように、少女が勢いよく俯けていた顎を上げたのだ。
 不意打ちに逸らす間もなく黒い瞳と真正面からぶつかった。
 一瞬だけ驚いたように見開いた後、少女は恐れることなく国光の目を見返す。
 だ。
 彼女がに違いないと本能が囁く。
 同時に国光の身体を後悔という名の薄膜が包んだ。
 何故見入ってしまったのだろう。
 法的に不味いことをしたわけではない、国光はただ見ていただけだ。けれど、非は自分にある気がした。彼女の様子は今にも折れそうなほど脆弱で、見てしまったこちらが後ろめたくなるような類のものだった。それなのに、自分はと係わり合いになるつもりがない、つまり助けてやる気なんてこれっぽっちもないはずなのに、その様子をただ眺めていた。
 顔を知らなかったとはいえとんだ失態だ。普段はあれほど他人に無関心なくせに、どうして今日に限って凝視などしたのか。らしくもないことをしてしまった己を痛罵する。
 も自分に見られていたことを快く思わないだろうと、嫌悪の眼差しを覚悟しながら会釈する。
 しかし、はまるでさっきのすべてが嘘だったかのように、仏頂面の国光に向かってやわらかな微笑みを浮かべたのだった。
 切符を自動改札に吸い込ませると、少女は呆気に取られる国光の前に立つ。
「ごめんなさい、一番後ろの車両に乗ってたから階段まで遠くって。迎えに来てくれてありがとう、国光くん」
 そう云ってもう一度笑ったは、さっきの憂苦は本当に国光の幻覚だったのでは思えるくらいにいたって普通の少女に見えた。

 
 


 
 

 大石の心配は杞憂に終わった。
 との生活が始まって二日が経とうとしているが、拍子抜けするほど国光の生活に変化はない。
 は一ミリたりとも国光の境界を侵すことはなかった。祖父の代わりに迎えに行った日に、ほんの小一時間並んで歩いただけでそれっきり口を利いていない。
 礼儀知らずなわけでもなかったし、粗暴な振る舞いをしたわけでもなかったが、の印象を尋ねられたら国光ですら変わった人だと答えるだろう。
 沈黙に彩られた手塚邸への道のりは絶え間なく話しかけられるよりはよっぽど気が休まったが、が当たり前の顔で黒い日傘を広げていたことには当惑させられた。透き通った影が白い頬をベールのように覆っていて、落ち着かない気分に襲われたのを妙に鮮やかに覚えている。日傘など母の世代の女性が日差しの強い夏の日にさすものだと思っていたので、のように若い女の子が、しかも日差しの優しいこんな六月に使っている理由が理解不能だった。
 おまけに手塚邸に着いたら着いたで、は予想もしていなかったことを健康的な桜色の唇にのせた。母に丁寧な挨拶をした後、は自分のぶんの食事の用意は結構ですとにこやかに微笑んだのだ。驚いてではどうするのだと母が問うと、自分でなんとでもする、人前でものを口にするのを好まない質なのだと共に食卓を囲むことをはやんわりと拒む。ならば離れに運んであげるからと母が根気強く説得したことで、双方の主張にどうにか折り合いがついた。
 の欠けた夕食の席で母が祖父に対して語ったところによると、少女は居ないのかと思えば部屋に居て、居るのかと思えばいつの間にやら部屋から姿を消しているらしい。それでも息を潜めるようにじっと部屋に篭っている時間が圧倒的に長いようだが。
 彼らの会話に口を挟む気など毛頭なかったが、母や祖父の表情からは『腫れ物に触る』という言葉を連想せずにいられなかった。
 元警察官で現在は県警で剣道を教えている祖父を頼ってくる人間は未だに後を立たず、国光はその繋がりでは手塚家に預けられたのだろうと半ば確信している。
 だが、は自由に外出しているようだし、祖父にも彼女を監視するような素振りはない。大石の危惧したような問題児というわけでもない。
 は何故この家に来たのだろう。
 問えば祖父は教えてくれるかもしれない。けれど、国光はその答えをあえて求めようとはしなかった。
 駅で見た彼女の表情が忘れられない。
 深淵に一人佇むようなあの様子を知っているのに、興味本位で首を突っ込む気にはとてもなれなかった。
 それに、何より国光は係わり合いにならないことを一度決めている。誰に咎められる訳でもないのに翻意を嫌い、その頑なな潔癖さが国光にとの間に距離を置くことを遵守させていた。
 祖父たちの会話から耳を塞ぎ、国光はお茶と一緒に疑問を咽喉の奥へと流し込む。そして云い聞かせるように胸で呟く。
 自分には関係のないことなのだ、と。
 

「ただいま帰りました」
 相変わらずと一言も口を利かないままさらに三日間が過ぎたが、国光は『居るけれど居ない同居人』の存在にすっかり慣れてしまっていた。
 おそらく国光がを構いさえしなければ何事も起こりはしまい、そう思えるほどは国光に無関心だった。国光の方にも干渉する気はないのだから、本当にがこの家を出ていくときまで会話を交わさないかもしれないとすら思う。
「おかえりなさい、国光。今日は遅かったわね」
 本日の朝食もは欠席で、そしてやはり玄関で出迎えてくれたのも母一人だった。エプロンで軽く手を拭いつつ、おっとりとした母は小首を傾げる。
「今お父さんがお風呂使っているの。先にご飯でもいいかしら?」
 脱いだ靴を揃えていた国光の手がふと止まる。
 父は手塚家では一番の長風呂だった。推理小説を持ち込んでいたりして、早くても一時間は出てこない。しかし、出来ることなら食事の前に埃を落としてしまいたい。
「いや、ならば」
 離れの風呂をと口にしようとして、殴打されたようにいきなり言葉が千切れる。
 駄目だ。
 今は向こうの家にはが居る。
 普段は国光の方が早く帰宅するのだが、偶に部活が長引いたり父の帰宅が早かったときなどは離れの浴室を使わせてもらっていた。
 専用のタオルが置いてあるほど何度も借りているが、しかしが居るとなると話は別だ。
 そんなことをしたら必然的にと口を利かなくてはならないではないか。
 顔を合わせることを考えると、国光は自分でも驚くぐらいに強い躊躇を覚えた。具体的な理由を挙げられるわけでもないくせに、とにかく不味いと頭の中で警鐘が鳴っている。
 国光が何故黙ったのかを察した母は、今度は反対方向に首を傾けてちょっと考える素振りをする。
「あのね、ちゃんなら今ちょうど居ないみたいよ。一時間前にお洗濯物たたみに行ったときも返事がなかったし、お義父さんも今日はお留守だから今もまだ電気が消えたままでしょう。お義父さんだって使ってるんだし、いいんじゃないかしら、ちょっとだけ借りちゃっても」
 国光は窓に寄りカーテンを捲ってみた。
 確かに離れの電気は消えたままだ。
「なんなら玄関に今お風呂を使ってますって張り紙でもしておいたらどうかしら。そうすればあなたが向こうに居たって、帰ってきたちゃんがびっくりしなくてすむでしょう?」
 無表情の奥で国光の心がぐらぐらと揺れる。
 離れの浴槽は母屋のものより小さいが檜製で、密かに国光のお気に入りだった。こちら側が空いていても一週間に一度は向こうに浸かりにいっていたぐらいだ。そういえば最後に入ってからもう十日近くご無沙汰していることに国光は気付いてしまう。
 それでも数秒逡巡してから、眉間に重苦しい皺を寄せて国光は母を振り返った。
「向こうを使わせてもらうことにします」


 『風呂を一時お借りします 国光』という張り紙を律儀に実行してから国光は玄関を潜った。
 しかし、薄闇に染まる上がりがまちの前で足を止めて眉を顰める。
 線香のにおいがまったくしない。祖父は朝晩祖母の仏前に欠かさなかったので、いつ来てもこの家の中にはあの独特のにおいが漂っていたのに。
 国光は線香のにおいが嫌いではなかったが、確かに若い女の子は嫌がるかもしれない。仕方のないことだと気を取り直して、上がってすぐの居間の明かりを点して室内の様子にますます違和感を覚える。畳の上に乱雑に詰まれていた新聞や本は姿を消していて、代わりに座卓の上に花が活けてあった。
 雨戸を閉めようと思ったのだが、なんだかそんな気が失せた。下手にいじらない方が良さそうだ。たった一週間の間にこの家の異分子は自分の方になってしまったらしい。
 電気を元通り消して、再び廊下に出る。階段の下から二階に向かって一応「さん」と呼びかけてみたが何の返事もない。
 はやはり留守なのだろう。
 国光はそう結論付けて、あとはもう無表情に脱衣所を目指す。
 たいして大きな浴槽ではないので十五分もあれば湯は張れる。髪と身体を洗っている間に半分は溜まるだろうから、四十分ほどでここを引き上げられるはずだ。がどこに行っているのか知らないが、ひょっとしたら顔を合わせずにすむかもしれない。そう思うと少しは気が晴れた。もう余計なことはせずに急ごうと決めると、余分な思考は一切捨ててただ黙々と足を運ぶ。
 脱衣所は薄暗かったが、一秒を惜しんで電気も点けない。それに明かりがなくともどこに何があるかは知っている。迷いなく脱衣籠の上に着替えをおろすと、国光は浴室の戸に手をかけた。脱いでいる間も湯を入れておこうという算段だ。
 
 ――国光は機械のように合理的な行動をとる性癖があって、このときも自然に身体が無駄を省いていただけだった。
 
 左手で引き戸を開き、右手でスイッチを押す。
 光が溢れて闇を払拭し、同時に目を刺した。不快げに片目を細めて、それでも自分の意思に反する遮断を拒むかのように目蓋を閉ざさない。
 けれど、中に足を踏み入れようとして国光は文字通り凍りついた。
 たった一秒前には眇められていた瞳が今は大きく見開かれている。慣れ知ったはずの風呂場の奥を、信じられないものを見たような顔で凝視する。否、確かに信じられないものがあったのだ。
 戸を開けてすぐに洗い場があって。
 洗い場の奥には浴槽が。
 その国光のお気に入りの、檜製の浴槽の中。
 居るはずがないのに。
 がいた。


 
 腰の高さほどしかない水の中で、はゆるく膝を抱くようにして座っている。
 風呂場なのだから当たり前かもしれないが、は裸だった。
 実際にそこにいるのに、まだ『まさか』という言葉が頭の中でこだましている。
 だって、電気は消えていたではないか。
 何をしているのだ、この女は。
 闇に沈んだ浴室でひとり膝を抱えて。
 状況に頭が追いつかない。
 思ってもみなかった事態に国光は呆然と立ち竦む。だが、活動停止状態の理性の代わりに本能は酷く正直に裸の女から目を逸らそうとはしなかった。
 濡れた髪が肩に張り付いている。頬にも。薄く唇が開いていたが物云いたげな様子ではない。少しだけ眩しそうに、ぼんやりとした表情で国光を見上げている。
 数秒そうやって無言で対峙した後、が不意に瞬いた。やっと合点がいったように「ああ、そっか」と掠れた声で呟く。
「ここ使いに来たのよね。ごめんなさい、すぐ出るから」
 ぱちゃりと水が鳴いた。
 その音で夢から覚めるように国光は我に返る。
 だが、次の瞬間我が目を疑った。
 まだ国光がそこにいるというのに、はざばりと水面を揺らして半身を起こしたのだ。
 国光は咄嗟にスイッチを切った。再び闇に沈んだ浴室の引き戸を乱暴に戻すと、ちゃんと閉まったのか確認もせずに足早に脱衣所を後にする。
 顔が熱い。
 汚れてもいないのに意味もなく拳で頬を拭う。
 国光は猛烈に腹を立てていた。
 慎みという言葉を知らないのか、あの女は。
 恥ずかしがるどころか、平然と立ち上がろうとした。華奢な外見と違って相当図太い神経の持ち主のようだ。年下とはいえ男の前で肌を隠しもせずに、いったい人のことを何だと思っているのだろう。
「気でも違ってるのか、あの女」
 らしくもなく口汚く毒づく。
 濡れた髪のはりついた白い肌が脳裏から消えない。
 湯気はなかった。ということは、あれは水だったのではないか。あるいは湯気も出なくなるほどの長い間、あの女は湯船に浸かっていたとしか思えない。
 母は一時間前に訪れたときもの姿はなかったと云っていたし、電気も点けずにいったいどれだけの間ああしていたのだろう。
 いったい何故。
 玄関の前で足を止めると、一拍の後、深く息を吸い込む。身についた習性でそうするだけで頭が急速に冷えていく。
 衝動的に母屋に帰ろうとしていたが、その前にしなければならないことがある。
 国光はに謝罪していない。
 一般的にみて運が良かったのは国光で、不運だったのはの方のはずだ。それにさっきのあれだってもしかしたらも動転してあんな行動に出たのではないか、そう考えついてしまうとどうにも罪悪感が重く圧し掛かってきた。
 あれだけぶしつけに眺めたのだから、正気に返った彼女に殴られるぐらいのことは覚悟しておいた方がいいかもしれない。
 重苦しい息を吐き出すと、踵を返して国光は居間へと移動する。
 どうしようか迷ったものの、結局雨戸をして明かりを点す。けれど、どうにも落ち着かなくて座る気になれない。新聞でもと周囲を見回してみたが、生憎目に付くところに置いてなかった。
 どれぐらいそうしていたのか、手持ち無沙汰に突っ立っているとやがてふすまがからりと開いた。
 目が合う前に国光は頭を下げる。
「先程は大変失礼しました。詫びて済む話ではないかもしれませんが、無礼を許してください」 
 入り口で佇んだまま、は無言だった。
 本当に殴られるかもしれないと急に眼鏡のことが心配になる。
 外しておくべきだったかと眉間に皺を寄せていると、罵声ではなくくすくすという軽やかな笑い声が耳に届いた。何が可笑しいのかと顔を上げると、黒いワンピース姿のがぺたぺたと裸足で向かってくるところだった。ワンピースは薄い素材らしく、照明のあたり具合によってはその身体の線を浮かび上がらせる。どうかすると反芻しそうになる、今は黒い服に包まれている白い肌の残影を国光は頭の中から強引に追い払った。
「気にしないで、見られるのには慣れてるから怒ってなんかないよ」
 濡れ髪のが微笑む。
 その笑顔に対してかつてないほどばつの悪い思いを味わいながら、国光は「申し訳ありませんでした」ともう一度謝罪を述べた。
「ねえ、国光くんてさあ、本当に中学生? 失礼とか無礼とか申し訳ないとか、ずいぶんジジくさい言葉で謝るね」
「……そうですか?」
 歯に衣着せぬ物云いに憮然と返答しつつ、国光は先程のの言葉にひっかかりを覚えていた。
 見られることに慣れているというのはどういうことだろう。国光も普通の人よりはよっぽど見られることには慣れているが、の場合は『裸を見られることに慣れている』というふうに聴こえた。
 国光の脇を通り過ぎたは座卓の前に腰を下ろす。肘をついて何をするでもなくぼんやりと花を眺め始めたその姿は、もう国光がすぐ傍に居ることなんて忘れてしまったかのようだった。
 おかしな人だ。
 国光は身体の向きを変えてを見下ろす。不躾に視線を注いでも、それでもは何の反応も示さない。人の視線に慣れているという言葉の意味は、周囲に対して無関心であることと同義のようだ。
 檜風呂に入っていないがもういい、もう帰ろう。同じ屋根の下にいるという緊張感に晒されるより、待たされようが檜じゃなかろうが家風呂の方が何倍も気が休まるに違いない。
 国光は立ち去ろうとして、実際に数歩進んで、しかし足を止めてしまった。
 眉間に皺が寄らないように注意しながら振り返る。
 彼女は大丈夫なのだろうか。
 があまりにもぼうっとしたまま動かないから恐くなったのだ。今もほんのすぐそばの国光の挙動になど毛ほども気にも留めていない風情で、それは無関心という表現で片付けてしまうには国光の目にはあまりにも奇異に映った。
 ひょっとしたら何か病気を患っていて、それでうちに預けられたのだろうか。
 それはとても説得力のある推論に思えた。それならば休学の理由も監視されるわけでもなく自由に外出していることにも納得がいく。裸を見られることに慣れているというのも、医者に診せることにという意味ではないだろうか。療養に向いているわけでもない手塚邸に何故という疑問は、残念ながら国光の目に留まることはなかった。
 病に取り付かれた少女という推論に取り憑かれた国光は最早放っておくことが出来ず、進んだ分を引き返しての隣に膝を折って正座した。
「どこか具合が悪いのですか?」
 たたぼうっと空を眺めているだけに見えたが、本当は単に深い黙考に沈んでいただけなのかもしれない。遠くに行っていた心を身体に戻した、そう思わせるほどが国光の方へ顎を上げる仕草はゆったりと流れるようだった。
 目が合う。心底不思議そうな色を浮かべた黒い瞳は子供みたいで、そういう顔をされるととても年上には見えなかった。
「なぜ?」
 逆に問い返されて、国光はたじろぐ。
 の顔を見たら急に自信がなくなってきた。確かに彼女の頬は白かったが、それは不健康な色ではない。さっきまでの確信に容易く罅がはいっていく気配に、国光は早くも声をかけたことを悔やみ始めていた。
 それでも表面上はそうは見えなくとも重い病を抱えている場合もあると自分を励まし、国光は何故そう思ったのかを真面目くさった顔で語る。
「尋常じゃないくらいぼんやりされているからです。それから、先程電気も点けずに湯船に蹲っていたのも、具合が悪くて動けなかったのではと思ったもので」
「ああ、あれはね、昔のことを思い出そうとして浸かっていただけ」
 国光はつい正直に顔を顰めてしまった。
 意味が解らない。水風呂に浸かることで懐古される思い出とはいったいなんなのだ。
 は国光のその疑念を感じ取ったかのように少しだけ笑う。
 そして、左の袖に手をかけた。
「私の母はちょっと頭のおかしい女だったの」
 内容の割にの口調は『今日のうなぎは美味しいね』と夕飯の話をしているのと同じくらい軽かった。
 けれど、捲り上げられた袖の下から現れたものに、国光はまたしても心臓が止まるような衝撃を味わわされる羽目に陥った。
 紅い蝶だった。
 露わになった二の腕の、ぬけるように白くてやわらかそうな肌の上を舞っているのは紅蓮の蝶だったのだ。
 まさかという思いが勝ってなかなか本物だと認められない。しかし、にふざけている気配はなく、国光は悟らざるを得なかった。
 健やかに伸びた腕を飾っているのは、やはり本物の刺青なのだということを。
 国光の驚愕など目に入っていないかのように、袖を戻しながらはただ物憂げに淡々と唇を開く。
「十二のときに母にむりやり彫らされたの、これ。ここだけじゃなくまだ他にも背中や足にもある。近所の悪がきに投げつけられたゴミの所為で背中に怪我をしてね、傷口は塞がったんだけど赤い線みたいな痕が残っちゃったの。そうしたら母がこんなみっともない傷跡なんて嫌だって癇癪を起こして、彫師のところに強引に引き摺ってかれた。嫌だったなあ、こんなものがあったんじゃもう一生泳ぎにいけないじゃない」
 傷跡を隠すためとはいえ、娘の身体に刺青をいれさせるなんてどんな母親なのだ、それは。
 取り繕うことなくあからさまに唖然とした表情を浮かべている国光がおかしいのか、はくすくすと囀るような声をあげる。笑いながらもの話は続く。
「母は売れない画家でね、お風呂場の電球は何年も切れたままで放置してあったし、急に作品のインスピレーションが湧いたっていって、七歳の子供を湯船の中に一晩置き去りにするような女だった。それが夏ならまだしも秋の終わりだったら、おかげで肺炎にかかって危うく死に掛けた。さっきはそのときのことを思い出してたってわけ」
 はなおも笑った。
 しかし、笑っているのにの表情は楽しそうには見えない。実際、楽しいと思える話でもない。それなのに笑い続けるの笑顔は、国光というよりも自分のことを嘲笑っているように思えた。
 藪蛇という単語が自分の頭上で哄笑している気がする。普通じゃない。どういう理由なのかは知らないが、彼女はやはり訳あってこの家にきたのだろう。妙な勘違いをして声をかけるなんて馬鹿な真似をしてしまった。
 さっさと会話を終わらせて、今度こそ母屋に戻ろう。国光は溜息を混ぜながら、少々投げ遣りに口を開く。
「そうですか、思い出せて良かったですね」
 途端、千切れるようにの笑顔が掻き消えた。
 国光は珍しくはっきりと後悔した。国光には辛辣なことや無礼なことを云った認識はない、けれどにとってはそうでなかったのかもしれない。
 急に黙り込んだは駅で見かけたときのように目を伏せて、黒い瞳の上にさらに暗い影を落としていた。
 悪気はなかったし、ろくに話したこともない相手の禁句を自分が知っているわけがないのだ、だから仕方ない、そんな云い訳が勝手に脳裏を駆け抜けていく。ひとしきり弁明が終わると、国光の胸には悔恨と罪過の念だけが残った。
 傷つけてしまったのかもしれない。
 不用意な発言を国光は悔いた。大抵のことはまあ仕方ないかで済ませてしまうのに、に関しては後悔ばかりしている気がする。苦い気分で奥歯を噛んでいると、ふとがさっきからしきりに自分の右の薬指を撫でていることに気が付く。
 よく見るとそこには指輪が嵌っていた。立て爪に白い石がひとつ。結婚十年目の記念にと父が母に贈ったものとよく似ていて、若い娘がそんな指輪をしていることに国光は違和感を覚えた。だが、そんなことよりも沈黙が一秒ごとに罪悪感を刺激してくる。ジジくさかろうととにかく謝罪をと思いついて口を開きかけ、けれど手元からその顔へと視線を移した国光は咽喉に台詞を詰まらせた。
 は駅で見せた思い詰めたような顔つきをしていたわけではない、むしろ感情を塗り潰してしまったみたいに無表情だった。
 けれど、国光はから何か悲壮なものを感じ取っていた。
「ええ、ほんと。おかげで絶対に負けるもんかって気になった」
 言葉を失った国光が見詰める中、瞳を闇色に染めたは指輪をなぞりながらまたしても不可解な台詞を口にしたのだった。