その日、空は曇天だった。

見上げた先の鉛色の空は今直ぐにでも雨が降りそうだった。けれど、降りだしそうだから屋敷に戻りましょう、と提案することすら私にはできない。少し前を行く背中には明確に不機嫌の二文字が貼り付いていて、声をかけることすら躊躇われた。
仕方がないので、黙って後を付いていくしかない私はこっそりと吐息を漏らす。
初めて会ったときから私に対して愛想のある人ではなかったが、幾らなんでもこれはあんまりではないだろうか。私がこんな居心地の悪い思いをしなければならないいわれはないはずだ。どう考えてもこれはとばっちりというやつである。
いっそ鮮やかなまでにご機嫌麗しくない跡部先生は、私に意向を尋ねることなく自分の気の向くままに歩いていってしまう。私の散歩に付き合ってくれているはずなのに、これでは私が跡部先生の散歩に付き合っているようなものだ。
白衣のポケットに両手を差し入れたまま、私の心中などお構いなしに跡部先生は黙々と歩を進めて行く。
私は気付かれないよう、音のない溜息を吐いた。
そういえば鳳先生も頻繁に溜息を吐いていたが、その原因が理解できる気がする。あの人たちと行動を共にしていれば、それは溜息も吐きたくなるだろう。
跡部先生の不機嫌の理由は、ほんの数十分前の朝食の席上に隠されている。
三日前、鳳先生と樺地先生とで散歩に出かけて以来、翌日から朝食後の散歩が私の日課になった。滞在三日目のその日は前日と同じように鳳先生と樺地先生が、四日目の昨日は向日先生と宍戸先生が私の散歩に付き添ってくれた。宍戸先生は無口な方なのかあまり話してはくれなかったが、ぶっきらぼうな素振りに似つかわしくない恭しさで私の手を引いてゆっくりと歩いてくれた。向日先生は驚くほど身の軽い方で、私は初めて後方宙返りというものを目にした。ふたりとも十分過ぎるほど親切に接してくれたと思う。
昨日はこの散歩の他に、午後に樺地先生と向日先生と一緒にスコーンを焼いた。小麦粉やバターを分量通りに計り、混ぜ合わせて型を抜いてオーブンに入れるだけの簡単なものだったけれど、お菓子どころか厨房に脚を踏み入れること自体が初めてだった私にはとても楽しい経験だった。
三種類のスコーンを作ったのだが、最初向日先生はずっと「何で俺が」と文句を云っていて、樺地先生に教えてもらいながら私が作っているのをただ見ているだけだった。それなのに焼きあがると次々つまみ食いをするものだから、途中で樺地先生に追い出されそうになってしまった。向日先生には申し訳ないが、ふたりのその攻防は傍で見ている分にはとても可笑しかった。もうしない、と右手を上げて宣誓することで、追放を免れた向日先生はその後はちゃんと手伝ってくれたのだが、今度は型抜きが面白かったらしく、「あとは俺がやる」と私と樺地先生の分の仕事まで奪ってしまった。私と樺地先生は顔を見合わせると、向日先生が楽しそうに刷毛で卵黄をぬっていく脇で黙々と後片付けをし始めたのだった。
三時のお茶の時間に食堂で皆に振舞ったのだが、私の練習と称してずいぶん大量に作ったので、余ってしまうのではないかと心配していたがそれは杞憂に終わった。七割がお茶の時間の間に、残りは今朝鳳先生に尋ねたところ夜食として全て平らげてしまったそうな。
因みにこのスコーン作りは鳳先生の私が退屈しないように、という気遣いだった。樺地先生にお礼を告げると自分ではなく鳳先生の提案だと、そう教えてくれたのだ。
私は彼らに医師と患者という関係以上に良くしてもらっていると思う。
ここに来て今日で五日になるが、私は鳳先生と樺地先生、宍戸先生、向日先生にそれぞれに感謝も捧げているし、好意を抱いている。信頼していると云い換えてもいい。
残りのふたりのうち、忍足先生はほとんど口を利いたことがないので、好きなのか嫌いなのかどちらとも云えない。好意や信頼以前に、それを判断する情報を私は持ち得ていないのだ。本当は今日のこの散歩は跡部先生と忍足先生がご一緒してくれるという話だったので、もし実現していればどちらに傾くにせよ何かしらの感想をきっと持ったのだろうが。
そう。
もし実現していれば、なのだ。
食事が終わる頃には状況は変化していた。再び跡部先生と忍足先生の間に二日目のような険悪な雰囲気が漂ったのだ。
このとき、私は鳳先生と宍戸先生とでお菓子の話をしていたので、ふたりの先生が何を話していてそのような雰囲気になったのか解らない。どこどこのシュークリームがおいしいよとにこにこしていた鳳先生が、ふと私の背後に視線を投げて瞬時に硬直した。何事かとその表情につられて私が振り返った先では、もう既に空気は凍てついていたのだ。
正確に描写するならば、薄い刃のような色をその目に湛えていたのは跡部先生の方だけで、信じられないことに忍足先生の方は全く無頓着に場違いに朗らかな笑顔で応じていたのだが。
鳳先生は違うと云っていたが、もはや私にはどう見たってふたりは仲が悪いようにしか思えない。
忍足先生には「ついてくんな」、私には「行くぞ」と告げながら、冷え冷えとした表情で跡部先生は椅子を鳴らして立ち上がった。
その恐ろしく艶のある低い声音に抗う術はなく、私は部屋に帽子と日傘を取りに戻りたいとも云えないまま、引き立てられるように散歩へと出発した。
別段跡部先生が早歩きしているわけではないのだが、私は親犬からはぐれることに怯える無力な子犬みたいにひたすら必死でその背を追いかけた。けれど、跡部先生がちらりとも私を振り返ることはない。
少し前を行く、振り返らない背中に私は思わず目を伏せる。
跡部先生は初対面のときからずっとこの調子だ。
部屋まで迎えにきてくれても、他の先生のように横に並んで歩いてくれない。いつも少しだけ前を歩く。それは対等に扱わないという意味にも受け取れたし、拒絶に等しい何らかの壁の存在をも連想させた。
今だって私にあわせてゆっくりと歩いてくれてはいるものの、振り返りもしないし、話しかける素振りもない。まるで居ないもののように振舞っている。
診察や食事の時間をあわせれば、跡部先生と過ごした時間がここに居る六人の先生の中で一番長いかもしれない。
それなのに、時間に反比例して私の中で跡部先生への思いはますます錯綜していた。
医師としての仕事なら跡部先生はこの五日間きちんとこなしてくれている。薬や食事の管理など、私が東京に居た頃となんら変わりなく過ごせるよう努めてくれていた。
朝の診察も欠かさず行ってくれているので、むしろ東京に居たときより細やかな対応だと云ってもいい。跡部先生は私に対する義務を必要以上に果たしてくれている。医師としてなら十分信頼できる人物であろう。
当初、私は彼が信じるに値する人かどうなのかの尺度を求めていたはずだった。ならば、もうその答えは出たはずなのだ。彼の云うとおり、彼が私に危害を加えることはないし、彼は信頼するに足る優れた医師だ。
なのに、何故私はそれに満足できないのだろう。
どうしてか素直に彼を信じる気になれない。何か胸に引っ掛かりを覚える。
跡部先生の広い背中から、私は茶色い土塊の覗く地面へと視線を下げた。
私は、もしかしたら傲慢で利己的な人間なのかもしれない。
鳳先生たちのように優しく親切に扱ってくれる人だけは信じて、跡部先生のように冷たく乱暴に扱う人は信じられない。
好意を与えてくれる人にだけ好意を返し、好意を与えてくれない人には好意を返さない。
だが、彼らは医師として仕事でここに来ているのだから、そもそも医療を離れた私への親切は慈善行為であって彼らの職域ではないし義務ではない。義務を果たしてくれている人間に、他の人がそうしてくれているからという理由だけでそれ以上のことを望む。恩を恩と感じられず、貪欲に求め、不平を抱く。
自分が恐ろしく醜悪な人間に思える。
たった三回の散歩で繋いで歩くことに慣れてしまった手が寂しい。
一昨日も昨日もあんなに楽しかった散歩なのに、今の私は早く帰りたいと願っている。
これまで私の周囲に居た人は誰しも私に優しくしてくれた。私の身体を案じ、労わって献身してくれた。それを当然のように思い、どうして彼らが優しくしてくれるのかなど私は考えたことはなかった。
けれど私が当たり前のように享受してきたそれらは、きっと少しも当たり前のことなんかではなかったのだ。
私は酷く恵まれていた。
本当は私のことが嫌いで、邪険に扱う人々がいたってなんら不思議ではなかったのに、そんなことにすら気付かなかった。幸福な檻の中で安穏と暮らしていた私は、他者に厭われるということが身体の痛み同様に苦痛を伴うことだということを知らなかった。
…跡部先生は、嫌だ。
一緒に居るとつらくなる。
それが身勝手な被害者意識だということを重々承知していながら、それでも私は跡部先生を恨まずにはいられなかった。
どうして、他の人同様に優しくしてくれないのだろう。少しでもいいから、いや、せめてこんなあからさまに嫌っていることを示さないで欲しい。
これ以上私を傷つけないで欲しい。
その浅ましい想いに私は唇を噛んだ。私はなんて自分勝手なのだろう。解っているのに、ゆらゆらと膨らんでくその想いを止められない。
御爺様の手の内からいきなりここへ放り出されたあのときだってこんな気持ちにはならなかったのに、どうしようもない自己嫌悪で私は泣き出しそうだった。
唇を噛み締めて苦い想いに耐えながら、とにかく機械的に脚を動かしていると何かが肩に当たった。
気のせいかと思ったら、今度は頬にぶつかって砕ける。
雨だ。
やはり降ってきたのだ。
私が顔を上げ空を仰ぐのと同時に、前方から舌打ちが聴こえた。
「降ってきやがったな」
跡部先生の舌打ちは私に対してではなく、雨に向けてのもののはずだ。けれど私には自分に向けられたもののように思えて仕方がなかった。またひとつ傷がつく。
堪え切れずに私はわざと顎を上げ、頬へと雨を受けた。雨粒が針のように尾を引きながら堕ちてくる。その一筋が狙いすましたように私の瞳の中に落ちて視界を滲ませた。刺すような痛みに生理的な涙が浮かび、やがて涙は雨と混じって頬を流れ落ちていった。
「グズグズしてんな、濡れちまうぞ」
急に視界が遮られた。咄嗟にそれを取り払おうとするより先に右手を取られる。なにやら解らないものを頭に乗せた状態で、私は促されるままに走り出した。走るといっても、私の場合は歩いているよりほんのちょっと速い程度のスピードでしかないのだが。
被せられたものは白衣だった。私が天を仰いでいる間に聴こえた衣擦れの音は跡部先生がこれを脱いでいるものだったようだ。小走りとはいえ、走っている所為で風圧に背後に飛ばされそうな白衣を私は必死で押さえる。
跡部先生がどこを目指しているのか解らないので、私は進行方向の景色ではなく、その背中に焦点を合わせていた。
白衣ではない、見慣れない白いワイシャツの背中。
この前と変わらない、強くも弱くもない力で私の手を包み込む跡部先生の指。
好意ではなく、ただ私を急かすためだとしてもその手が私は嬉しかった。
それなのに涙が出てくる。
私は白衣を僅かにずらして、わざと顔に雨がかかるように仕向けた。
雨脚は段々と強くなっていく。
このままでは本当にずぶぬれになってしまう、そう不安に思い始めたところで、漸く跡部先生がどこを目指しているのか察しがついた。他のものと比べれば割合葉の残った木が見えたのだ。おそらくあそこで雨宿りを考えているに違いない。
予想通りのその木の根元に辿り着くと、跡部先生は自分より先に私の身体をその梢の下へと乱暴に押し込んだ。
よろけて思わず手を伸ばし、両手で木の幹に縋ってしまった私の髪から白衣が滑る。
あ、と思ったときにはもう頭が軽い。だが、肩を落ちきる寸前に跡部先生は機敏に白衣を捕らえていた。
「ちゃんと被っとけよ。風邪でもひいて肺炎にでもなったらテメエは命取りだろうが」
そう呟きながら、跡部先生は今度は丁寧に私の髪へと乗せ直してくれる。跡部先生が私の胸の辺りで身頃を合わせてくれたので、私は内側から両手でその部分を握り込み、前がくつろがない様にした。
「どうもありがとうございます」
我ながら蚊の泣くような声だった。俯くことで私は濡れた頬を隠す。丁度硬い襟の部分が額の辺りで庇のようになってくれていたので、そうすれば私の表情は先生からは見えないはずだった。
菱形に切り取られた視界の中で、先生がネクタイの下の方を掴む。痺れた頭でぼんやりとその指先を追っていると、何故かネクタイごとそれは私の方へと迫ってくる。
ざらざらとした硬い布が私の頬を擦るまで、私は何故ネクタイがこちらに向かってくるのか検討もつかなかった。
触れて漸く、私は先生が濡れた顔を拭おうとしてくれていることに気付いた。だが、まるでやすりのようなその感触につい私は眉を顰めてしまう。思わず顎を逸らして逃れようとした所為か、先生はすぐにそれを止めてくれた。
すれた頬が少し痛む。けれどもそれ以上にそれが跡部先生に与えられた痛みだという事実が、私の胸を針のように刺した。きっと親切からの行動だったに違いない。しかし、惨めな気分に打ちのめされていた私には、わざと意地悪をされたように感じられたのだ。
硬いネクタイでは全然水分を吸い取ってはくれず、相変わらず私の頬は濡れたままだ。
ますます惨めな気分で唇を噛む私の頭上で、跡部先生の呆れたような溜息が零れる。同時に先生の左手が私の視界から消え、背後の木が僅かに揺らいでばらばらと雨粒を零した。私の右上辺りの幹へと手を突いたようだ。私がついその気配に気を取られていると、先生はとんでもないことを囁いた。
「何で泣いてんだよ」
その言葉は、まるで鈍器で頭を殴られたような衝撃を持って私に降り注いだ。
確かにそれは事実だ。けれど、私は恥も外聞もなく大声をあげてもいないし、零した涙だって精々幾粒かでしかない。しげしげと顔を覗き込まれた訳ではないし、ぱっと見ただけでは雨に濡れたのと大差ないはずなのに、どうして見抜かれてしまっているのだ。
気付かれていることに動転し、声もなく瞠目する私の視線の先で跡部先生の手が再び私の頬へと伸ばされた。
自分とは違う皮膚の感触。私は痛みではない、何か別の理由から思わず瞳を細めた。
私と同じぐらいの体温を持つその手は、私の頬に触れるとネクタイでは拭うことのできなかった水滴を掃っていく。
右の頬を親指の腹で、左の頬を人差し指と中指でやわらかく撫でて、その指は去っていった。
「ほら、もっと奥に行かねぇと濡れちまうぞ」
名残を惜しむようにその指を視線で追っていると、軽く肩を押される。その力に私はよろめき、そのまま倒れるように背中を堅い幹へと預けた。跡部先生も一歩距離を詰める。
おかげでほんの少し会釈しただけでも額がくっつきそうなところに跡部先生のネクタイがぶら下がることになってしまった。
何故こんなふうに密着する必要があるのか解らず、けれどそこを退いてくれと云う勇気にも欠けた私にはますます俯いて身を硬くするしか道がない。
跡部先生も濡れたくないのなら私の横に並べば良いのに、と、私は酷く緊張しながらそればかりを考えていた。その堂々巡りの思考の最中、雨粒が葉で砕ける音を私は初めて耳にした。
ぱらぱらと軽い音が時折音程を変える。
泣いてしまったことを指摘された気まずさもあり、しばらくその音色に耳を傾け私は黙りこくっていた。
妙なことに気が付いたのは、聴こえてくる雨音がどんどん激しくなってきた所為だった。葉を打ち付ける音は強くなったのに、白衣があるとはいえ私は一向に濡れている気配がない。
それで漸く気が付いた。
私の周囲だけ雨が止んでいることに。
まさかと思いつつ、それでも思いついたことを確かめずには居られずに、慌てて顔を上げた私はまたしても泣き出しそうになった。
跡部先生は私の頭上の幹に両腕を幹重ねるようにして、さらにその腕の上に額をつけていた。そうやって、自分が私の傘代わりになってくれていた。
いよいよ本格的に降り出した雨によって、先生の着ているシャツは水を吸ってみるみる内に色を変えていく。当に先生の髪はずぶぬれで、明るいその色を深く濃くしていた。
あまりのことに身動きできずに目を見張る私の視線の先で、やがて雨脚はうなじを伝って首筋へ、こめかみから頬へと雫となって滴り始めるほど激しくなっていく。
私はちっとも濡れてないのに。
跡部先生が私を雨から遠ざけてくれている。
私は先生の白衣に包まりながら、ぶるりと震えた。
こんなのは、ずるい。
私は結局泣き出していた。けれどもうそれを隠す気にはならなかった。
跡部先生はずるい。
これまで乱暴に扱ってきたくせに、こんなふうに大事に扱われたら誰だって嬉しいに決まっているではないか。
でも、もっとずるいのは私だ。
私はやはり好意にしか好意を返せない人間だったのだ。
おそらく、私は最初から跡部先生に好意を抱いていた。
だってこんな綺麗な人を、私は知らない。
昔読んだ童話の王子様のようなこの人を好きになるなという方が私には無理だ。
私は泣きながら目の前の跡部先生に見蕩れていた。
きっとこの雨はとても冷たいに違いない。明日には跡部先生は風邪を引いているかもしれない。自分は髪一筋も濡らさぬよう庇ってもらっておきながら、しっとりと濡れたその様に心奪われるなんて、我ながらなんて人間なのだろう。でも雨に打たれた跡部先生はどうしようもなく美しかったのだ。
だが、この綺麗な人が私に好意を抱いてくれているとは到底思えなかった。むしろ、冷たく乱暴に扱われて、嫌われているのだとしか思えなかった。
優しくされることに当たり前のように慣れてしまっていた私は、自分を嫌悪している人物にどう対処していいか解らなかった。
好きになってもらうにはどうしたら良いのか解らなかった。
だから、私は持て余す感情を信頼という言葉に隠した。私の好意と跡部先生の嫌悪の齟齬を埋めるために、信頼という言葉に置き換えたのだ。
本当はそんなものどうでもよかったのに。
私は好意を与えてもらえない代償に自分も無条件に好意を与えることを拒み、けれど結局は完全に割り切ることもできずにずっと懊悩していた。
「だから何で泣いてんだって訊いてんだろが。いつまでシカトしてるつもりだ、テメエ」
すでに跡部先生は白いワイシャツが肌に張り付いて透けるほどずぶぬれになってしまっている。それでもまた指を伸ばして、さっきよりは乱暴に涙を拭ってくれる。
けれどそれが余計に私の視界を歪ませることとなった。
濡れそぼった指はもう私の頬を拭うことは叶わず、パレットの上の絵の具のように私の頬で雨と涙を混ぜ合わせただけだった。すると、意地になったみたいに、先生は私の頬を何度も擦る。
私に触れるその指が嬉しくて余計に涙が溢れてくる。私はもう自分が何故泣いているのかすら解らなかった。私の頭の中はどんどん支離滅裂になっていく。もうめちゃくちゃだった。嬉しさとか苦しさとか、相反する感情が同時に生じて荒れ狂ってせめぎあっている。
だが、ただひとつはっきりしたことがある。
満足できないのなんて当たり前だったのだ。
医師としての腕など関係ない、私が求めていたのはそんなことではなかった。
私はただこの人にこうやって優しくされたかっただけなのだ。
甘やかされた私には優しくされることが愛情と同義であり、つまり私は無意識の内にこの人の愛情を強請っていたのだ。
私の頬を拭い続ける先生の綺麗な頬を涙のように雨粒が流れ落ち、私の額に命中した。
ぶつかって砕けたその雫は、まるで見えないスイッチだった。
私の中の何かのスイッチをいれてしまった。
私は軽く噛んでいた唇をほどくと、多分最初からずっと訊きたかった台詞を口にしてしまっていた。
「先生は…どうして私が嫌いなんですか……?」
「ああ?」
跡部先生は一瞬怪訝そうに眉を寄せた。それから私が後悔するよりも先に盛大に溜息を吐くと、忌々しそうに瞳を眇めてまたもや指を伸ばして私の額を打った水滴を拭ってくれる。怒ったような表情とは対照的に、その指は甘く優しかった。
「誰が嫌いなんつったよ。…ん?ちょっと待てよ、まさかお前そんなことで泣いてんじゃねぇだろうな?」
咄嗟に上手い嘘も吐けず、私が視線を逸らして肯定も否定もせずに黙りこくっていると、間違いなくこれまでで最大級の溜息が頭上で発生した。けれど、思わず身を竦めた私の頭を、跡部先生は濡れた大きな手で白衣の上から乱暴に撫で回したのだった。
「別に嫌ってねぇよ。見当違いのことでめそめそしてないで心臓に悪そうだからいい加減泣き止め。ったく……長太郎みたいに砂糖菓子みたいに扱えっていうのか?冗談じゃねぇ、なんで俺様がお前みたいな小娘に傅かなきゃなんねぇんだ」
私はもう跡部先生のその言葉に傷つきも腹が立ちもしなかった。それどころかその乱暴な口ぶりと仕草が嬉しかった。
愛しかった。
「…跡部先生」
雨の中、私は故意に囁いた。
このとき、私は生まれて初めて賭けをした。
自分の命を賭けた賭けを。
一週間後には死んでしまうかもしれないが、それでも口にするのはこれが最初で最後の機会で、明日も明後日も二度と口にすまいと決めた。
今、この瞬間に跡部先生に声が届かなかったのなら、それでいい、そう思って囁いた。
「何だ?」
それなのに先生は私の言葉を見逃さず、容易く捕えたのだった。
私は泣き笑いの顔で跡部先生に告げた。
「明日お願いしたいことがあるのです…」


雨上がりの帰り道、跡部先生は私の手を引いて歩いてくれた。ゆっくりと歩きながら、私の代わりに雨を受けた所為で冷え切ったその手が、私の体温と混ざり合い、段々と熱を取り戻していく様に不思議と満ち足りたものを感じていた。
そして、写真ではない本物の虹を目にした私は、あまりに神々しく美しい光景にまた泣き出しそうになったのだった。