「御爺様がこんな別荘を所有しているとは知りませんでした」
跡部先生に手を引かれ階段を下りながら、私は天井付近に嵌ったステンドグラスを仰ぎ見た。
「元華族が明治時代に立てたものを昭和の後期に改修した建物だ。趣味は悪くないだろ」
跡部先生は私の視線の行方に気付き、踊り場で脚を止めてくれた。しかし、先生自身はステンドグラスにさしたる興味もないらしく、気の無い素振りで無造作に額に落ちかかった髪を掻き揚げただけだった。
顎を引くと私は先生の顔へと視線を移す。
「いつ頃購入したものなのでしょう?」
私の問い掛けに先生は眼鏡の奥の瞳を意地悪そうに細めた。
「さあ?つい最近かもしれないし、ずっと前かもしれないな」
「そうですか」
私は軽い嫌がらせのつもりであからさまな嘆息を漏らした。やはり私に一切の情報を与えるつもりはないらしい。明確な年数が提示されればそれで納得がいくわけではないが、こう何もかもを秘密にされるというのは気持ちのいいものではない。
「ほら、気がすんだなら行くぞ、お嬢様」
相変わらずの横柄な口調で、跡部先生は再び私の手を引いて歩き出した。
これは身体の弱い私への親切とも受け取れるが、むしろどこか他所へと私が足を向けることへの妨害行為に違いない、などと考えることは穿った見解というものだろうか。
私は今食堂に向かっている。
昨日は結局一歩も部屋の外へは出なかった。跡部先生が食事を運んでくれたので、食事もベッドの上で済ませた。慣れない長時間の移動で私は疲弊していたのだ。
このまま流されるように生きることに疑問を感じているくせに、私は生きる為にだけ自分を労わった。そんな自分に嫌悪感や焦燥感を感じつつ、かといって自暴自棄にここの屋敷を飛び出すこともできない。
鬱々とした思いで一日を過ごし、一夜明けた今朝は体調はずいぶんと良くなった。
確かに手術をするのならば、安定し、体力を蓄えている今を措いて時はないのかもしれない。このような土壇場に来て、今更生きる意味に執心し始めた私が愚かなのだ。
誰か起こしに来る前に起床して、私は身なりを整えておいた。昨日は体調が優れず臥せっていたが、跡部先生以外にも来てくださっているという先生方にせめて挨拶ぐらいはしておこうと思ったのだ。
「おい」
着替えを終え髪を梳いていると、例のごとくノックと同時にドアが開いた。跡部先生に違いない。返事を返した後に開けるよう、昨日のうちに何度か苦言を申し立てていたのだが、一向に聞き入れる気はないようだ。
「ごきげんよう、跡部先生」
もはや諦めの境地で私は溜息と挨拶を吐き出した。着替えが終わってから開けられただけましだろう。
白衣をまとった跡部先生は返事もせずに、顔を見せるなりじろじろと私を眺め回す。その不躾な視線が少しばかり腹立たしいので、私もじろじろと跡部先生を観察し返してやった。
白いシャツに紅いネクタイ。縁のない眼鏡。後ろに撫でつけた髪がひとすじふたすじ額に落ちかかっている。とても賢そうに見えた。それから、私は確信した。
やはりこの人はとても綺麗な顔立ちをしているに違いない。
「今日は体調は良いみたいだな。だったらちゃんとテメエの脚で歩いて食堂まで降りて来い」
跡部先生は部屋には入らず、腕を組むとドアに寄りかかった。急かされる空気を感じて、私は手早く残りの毛先を梳くと櫛を置いた。
「あの、他の先生方はどちらにいらっしゃるのでしょうか。昨日は何のご挨拶もせずに失礼をしましたが、宜しかったらお食事の後にでもご挨拶をしたのですが」
「なら急ぐんだな。今なら全員食堂に揃ってる」
そう云うと跡部先生は何の断りもなく、まるで当たり前のように私の手を取ったのだった。
跡部先生の手のひらは弱くも強くもない力で私の手を捕えている。温かくもなければ冷たくもない。私と同じぐらいの体温のなのかもしれない。
少し前を行く、背の高い、均整の取れた背中を見上げてみる。
この人は信じるに足る人物なのだろうか?
それを決める為の尺度さえ私は持ち得ない。これまで私の周囲に居たのは全て御爺様が選んで連れてきてくれた人々だった。初めから私への害意などなく、私は自分で判断する必要などなかった。けれど、ここには御爺様はいない。私は私の責任で行動しなければいけない。しかし、療養という目的以外何の説明もしてくれない、昨日会ったばかりの名前しか知らない人を相手にそれはとても難しいことのように思えた。
そのように一方では跡部先生を完全に信認できずにいるものの、私はじわじわとこの状況自体は受け入れ始めている。
幸いにも昨日あの後に隣のクローゼットを覗いてみたら、そこにはきちんと私の服が用意されていた。その中にあった白い日傘が、私の跡部先生への猜疑心を和らげさせたのだ。
数少ない外出の折には欠かさず持って歩いている、御爺様がくださったこの日傘は私の為に特別に作らせたものなので同じ物はこの世にふたつとない。それがここに在るということは見山夫妻も私がこの屋敷に連れてこられることを知っていたに違いないのだ。常に警備員のいるところから日傘一本を盗み出すなんて馬鹿げている。香苗が用意して持たせてくれたと考える方が妥当だ。また、村田と長谷と見山夫婦が一斉に造反すると考えるのは無理がある。つまり、ここへの療養に関してなんら説明を受けていないのは私一人だけなのだろう。まったく何故私には話せないのだ。
私が溜息を吐くと、跡部先生の指に僅かに力が篭ったような気がした。視線を背中から絡んだ手のひらへと移して私はさらにもうひとつ溜息を零す。
まさか自分が素性も定かではない男性と手を繋ぐ日が来るなんて、一昨日には夢にも思っていなかった。
一階の廊下をしばらく進んだところで跡部先生は脚を止めた。今度はノックすらせずにドアを開けてしまう。何てことだと思いつつ、手を引かれるままに食堂に脚を踏み入れて私は驚いた。
そこに居たのは、全て跡部先生と同じくらい若い男性だったのだ。
今までの経験から跡部先生のみが若いだけで、さすがに他の先生はもっと年配だろうと私は勝手に想像していた。若い男性に囲まれたことのない私の胸に、瞬間的に拒絶というに相応しい衝動が沸き上がる。しかし、皆白衣をまとっているし、昨日跡部先生が云っていた私のための医療班というのは十中八九この人たちに違いない。
「…ごきげんよう、皆様」
それでも何とか挨拶を口にして私は微笑んだ。内心はどうあれ、そう無様な態度ではなかったはずだ。だが、目の前の先生方はどうした訳か硬直してしまった。
私はごく普通に挨拶をしただけだし、鏡の前できちんと身なりを整えてきた。おかしなところはないはずなのだが、先生方は目を見張って私を凝視している。
私から見て左側に座っている、この中では一番年若い感じの穏やかな容貌の先生はまじまじと私を見つめているし、その隣の短髪で頬にうっすらとしたかすり傷を負った先生などは僅かに頬を引き攣らせている。
テーブルを挟んで向かい側に座っている、女性のように肩まで髪を伸ばした先生もきょとんと目を丸くしていて、いい加減、不愉快になってきたところで唐突に笑い声が弾けた。
「いやあ、かなわんわぁ、うん、ごきげんよう、ちゃん」
髪を伸ばした先生の隣、眼鏡をかけた先生が大きな声を上げて笑っていた。つられたように、他の先生方もそれぞれ笑う。
何が可笑しかったのか解らずに横に立つ跡部先生を振り仰ぐと、苛立たしげに鋭く息を吐いたところだった。繋いでいた手をほどくと、押し出すように私の背中に手を添えた。
「忍足、うるせえよ、黙れ。おい、お前ら、今更説明の必要もないが、こちらがお嬢様だ。で、お嬢様、あの知性の欠片もなさそうな眼鏡が忍足、その隣が向日、テーブルを超えて宍戸、鳳、それからあれは樺地だ」
跡部先生が名を呼ぶごとにそれぞれが軽く会釈してくれたので、すぐに名前と顔が一致した。
最後の樺地と呼ばれた先生は奥の扉から丁度お皿を運んできたところだった。手を伸ばせば天井に届きそうなほどに背が高く、私は軽く目を見張った。けれど名を呼ばれて肩を竦めるように頭を下げた仕草や、朴訥とした表情はあまり圧迫感を与えない。何よりそんなに背の高い、体格のいい男性が白衣を着た姿で給仕をしている、というのはむしろ微笑ましい姿だった。おかげで先程よりも自然に笑うことができた。
と申します。宜しくお願い致します」
跡部先生に促されてテーブルに着くと、先生方が代わるがわるに挨拶をしてくれる。私は内心安堵していた。若い男性に慣れていない私は彼らに対して軽い抵抗感を覚えたのだが、先生方の振る舞いはごく自然で、私が心配したような粗野な素振りは特に見当たらなかった。
私は自分の右隣に座っている跡部先生をつい窺ってしまう。やはり跡部先生がこの場の責任者と考えて間違いないようなのだが、その跡部先生が一番態度も口調も荒っぽい。普通は逆なのではないだろうか。
反面教師、という失礼な言葉が胸中を過ぎった。
「おい、お嬢様」
食後の紅茶を口に運んでいると、跡部先生に声を掛けられた。ノックの件と等しく、この呼び方も先生は改めてはくれない。
「何でしょう?」
私が視線を向けると、先生は顎でご自分の正面の方向を指し示す。確か丁度跡部先生の正面には窓があったはずだが、どういう意味だろう。
「喰い終わったなら日光浴がてら散歩に行って来い」
私は昨日の会話を思い出して、些か呆れた気分になった。あれは本気だったのか。
「おい、樺地。お前もお嬢様の散歩に付き合ってこい。それと」
「あ、俺一緒してもええよ」
忍足先生が軽く挙手する。私が視線を向けると、先生はにっこりと微笑んだ。
「てめえは駄目だ」
けれども忍足先生に跡部先生は冷たい眼差しを向けたのだった。実は食事の最中にも跡部先生が忍足先生に非常に冷え冷えとした視線を送ることが間々あり、仲が悪いのではないかという疑念を私に抱かせていた。
「何で?俺一番暇やから適任やで。樺地もおるんやから、ちゃんを獲って喰うたりせえへんよ」
「俺はお前のドラテク以外は信用しねえことにしてるんだよ、引っ込んでろ」
「あ、ほんまに?テクは信用してくれてたんか。いっつもぐちぐち小煩く云うさかい、そっちの方にも不満があるんやとばっかり思うとったわ。思わぬところでええこと聴いたわ」
「アァン?誰が不満がないなんて云ったんだよ。俺は信用って言葉は口にしたが満足してるなんて云っちゃいないし、テメエを褒めたつもりもねぇぞ」
「跡部先生は照れ屋さんなんねんな」
「やっぱりその歯ァ、がたがたにされてぇらしいな」
私は音を立てないよう、いつもの倍以上の細心の注意でカップをソーサーに戻した。
何だか…跡部先生の眉間にどんどん皺が寄って行っているような………。
生まれて初めて感じる不穏な空気にどうしたらいいのか解らず、跡部先生の隣で私が身を竦ませていると鳳先生が機敏に立ち上がった。
「跡部さん、僕が行きますよ。忍足さんと違って僕なら問題ないですよね?」
「ああ」
跡部先生が忍足先生から視線を逸らす。
それを見て私はほっと吐息を漏らしていた。
跡部先生は眼鏡を外すと、剣呑に瞳を眇めたままカップに口をつける。別に私が悪い訳ではないはずなのだが、何だかますます居た堪れない気分になった。
けれど当の忍足先生は微塵も気にした様子もなく朗らかに笑っている。
「チョタ、自分、今さり気なく俺を貶しとらんかったか?そういう悪い子にはあとでお仕置きやで?」
「宍戸さん、すいませんがあっちの方お願いしてもいいですか?」
忍足先生には返事をせずに、鳳先生は宍戸先生を振り返る。頷く姿に会釈を返して、こちらに顔を戻した鳳先生には優しい微笑が浮かんでいた。
ちゃん、飲み終わったら散歩に行きましょうか」
「あ、はい」
私はいつにない素早さで腰を上げた。
何故なら一刻も早くここから離れたかったのだ。



鳳先生と共に一旦部屋に戻り、帽子と日傘を手に階段を下ると玄関ホールには大きな姿が既にあった。ドアの前に立つ樺地先生はまるで聳え立つ彫像のようだ。
「お待たせしました」
「ウス」
こくりと頷くと、樺地先生はドアを開けてくれる。だが、『うす』、というのは何だろう?
内心不思議に思いながらも、私はドアを押さえてくれている樺地先生の脇を通り、外へと踏み出した。
壁のない世界に私は思わず目を細める。
東京のように高層ビルのない空はいつになく高く感じた。
あまりいい天気ではなかったが、やわらかな光の気配はする。剥き出しの首元や手元を撫でる空気は若干冷たいけれど、寒くはない。
目の前にある木々には緑が欠けていたが、寂しい感じはしない。寂しいというより、厳かという言葉の方が似合う風景なのだと私は思った。
「……あの」
久しぶりに感じる外の世界に心を飛ばしていると、遥か頭上から思いも寄らない言葉が降ってきた。
「手、繋ぎますか」
私は正直に云って酷く面食らっていた。
差し出された大きな手のひらと朴訥とした表情を交互に見比べてみる。
先程の跡部先生と私を見て、樺地先生はこう申し出てくれたに違い。……だが、手を繋げなければ歩けそうにないほど、そんなに私は弱々しい様子だったのだろうか。私としては介抱というよりは連行されている気分だったのだが。
憐れまれている自分が許せずに、私は自分の視線に険が混じることを止められなかった。
そんな私の眼差しに動じることもなく、樺地先生は少し猫背気味に眠そうな顔で黙って私を見下ろしている。
きっぱりと断ろうとして、私は開きかけた唇を途中で閉ざした。
何か判断を間違っている気がする。樺地先生からは驕った空気は感じられないのだ。それなのに憐れまれていると感じるのは、私の卑屈な心根による捻じ曲がった解釈からではないのか?
私は樺地先生と目を合わせた。
確かに樺地先生は私を見下ろしている。見おろしてはいるが、見くだしている様子は全くない。これはただ純粋に好意から云ってくれているのではないだろうか。
私の唇は自然とほころんだ。この地に来て初めて素直に笑うことができた気がする。
義務でも同情でもない、その好意が嬉しかった。
「ええ、お願いします」
私が右手を重ねると、大きな手のひらがゆっくりと包み込んでいく。無骨な指は私の甲を覆っても余るほどで、私の小さな手など爪の先がほんの少し覗くのがやっとだった。
跡部先生と違い、温かく大きなその手は幼くして死に別れた父の面影を私に思い起こさせ、密かにせつない感傷をも呼び寄せた。
「じゃあ、行きましょうか」
鳳先生が日傘を開き、私に差し掛けてくれる。
私はまるで父に手を引かれているような気分で森の方へと脚を向けた。樺地先生も鳳先生も私に合わせ、とても緩やかな歩調で進んでくれる。姿は見えないが、どこかで知らない鳥の鳴き声も聴こえた。
「…跡部先生と忍足先生は大丈夫でしょうか」
しばらくはぽつぽつと他愛もない会話を楽しんでいたのだが、軽い沈黙の後、結局私はそれを口にしてしまった。逃げ出すようにあの場を後にしてきてしまったが、やはり気になっていたのだ。
「まあ…あの二人はいつもあんな調子なので気にしないでください」
鳳先生を振り仰ぐと、数分前とは打って変わって困ったような顔をしていた。私の頭上でくるくると回転し始めた日傘がそのまま鳳先生の心中を表しているようだった。
「いつもなのですか?」
「ええ。でも仲が悪いのともちょっと違うというか、いや、多分違うのかな?みたいなというか…」
語尾が曖昧な上にずいぶんと妙な云い方である。
頼りない言葉に心配になって思わず背後の屋敷を振り返ると、鳳先生が慌てて笑顔を浮かべてみせた。日傘の回転率が上がった気がする。
「でも、二人とも大人ですしちゃんの前で本気で喧嘩なんてしませんから安心してください。大丈夫か大丈夫じゃないかって話なら、二人ともプロ意識のしっかりした人たちなので大丈夫です、まさか仕事で来ているのに私情で喧嘩をしたりはしませんから。あの人たちが険悪なムードになっててもちゃんは気にせずに放っておいてくれて結構です、な、樺地」
「ウス」
「そうですか」
そうまで云われたのなら、私にはそう返事をするしかない。私は跡部先生のことも忍足先生のこともこれっぽっちも知らないのだから。
靴裏で乾いた枝が砕けて鳴いた。
「あの」
「何ですか?」
「何が起こっているんでしょう?」
鳳先生が目を丸くする。私が脚を止めると、半歩遅れて二人も脚を止めてくれた。
私は自分に差し掛けられている日傘に手を伸ばすと、それを静かに奪い地面に落とした。遮蔽物を排除し終えた私は、自分よりも遥かに背の高いふたりを振り仰いだ。
「何の理由があって私はここに連れてこられたのですか?」
真正面から私の視線を受け止めた鳳先生は、軽く溜息を吐くと潮が引くようにその目から感情の色を消し去った。そうするとさっきまで優しく笑っていた人とはまるで別人のようだった。
「跡部さんはなんて?」
「跡部先生は何も教えてくれません。ここがどこなのか、それすらも教えてくださいませんでした」
鳳先生はやはりとでも云いたげに今度は天に向かって溜息を吐きだす。それからちらりと樺地先生を見やり、けれど鳳先生とは異なり散歩に出てからずっと表情に変化のない、どこか眠そうなその顔に再び嘆息を零す。溜息を吐き通しで、何だか鳳先生は気苦労の絶えない人に思えた。最も今先生を困らしているのは私なのだが。
私が申し訳ない気分になり始めていると、鳳先生は膝に手を突いて私と目線を合わせた。
相変わらず困ったような表情をしていたが、嘘のない、優しい目をしている。
「ごめんね。ならば僕は君に何も語ることはできない」
砕けた口調が返って真摯に聴こえた。
「何故ですか?」
目線を同じくしたまま、鳳先生は苦笑を浮かべる。
「それが跡部さんの判断だから。跡部さんがちゃんに何も話さないと決めたのなら、それは複数の可能性を全て考慮した上で最も効果的だと判断された決定のはずだから。あのね……もしかしたらちゃんは跡部さんの態度に不信感を持っているのかもしれない」
云い当てられて私はどきりとした。
恥ずかしいことにその動揺が顔に出てしまったのか、鳳先生は声に出して笑いながら私の額をちょっと突付いた。
「でも全部君のためだよ。跡部さんも忍足さんも、宍戸さんも向日さんも、僕も樺地もちゃんのためにここに居る。跡部さんは君に冷たく振舞うかもしれないけど、それだってきっと何か意図があってのことだよ。振舞おうと思えば、跡部さんはいくらだって君に相応しい優雅な振る舞いができる人だから」
本当に、そうなのだろうか。
跡部先生の整った顔を思い浮かべる。
口が悪く尊大に振舞う、あの綺麗な人に私への悪意はないのだろうか。
「あの方を…私は信じてもいいのでしょうか」
鳳先生に判断を委ねるのは卑怯なことだと認識する程度の分別は私にもある。
でも私は訊かずにいられなかった。
私の躊躇を知ってか知らずか、鳳先生はとても穏やかに微笑んだ。
「うん。信じていいと思うよ」
迷いのない鳳先生の答えに、私は逆に躊躇った。尋ねたくせに、その返答にどう答えて良いか解らず、私はまばらに散った枯葉の上へと視線を伏せた。
こうもはっきり云い切るからには、鳳先生には跡部先生を深く信頼するだけの根拠と、そして他人への信頼を計るだけの確固たる基準が存在しているのだろう。
やはり駄目だ。人に意見を縋っても、私は結局その言葉に自分の意思を委ねられずにいる。鳳先生のように、私自身が尺度を築き、そしてそれに準拠した意思決定をくだせる様にならなければ、私は全てにおいていつまでも中途半端な地点で足踏みをしている状況を抜け出せないに違いない。
鳳先生が視界の端で私が払い落とした日傘を拾い上げた。
「もう少し天気がいい時にでも外でご飯を食べようか。ちゃん、ピクニックってしたことある?敷物を敷いて、皆でお弁当を囲んで。きっと楽しいよ」
私の頭上に再び影が差し掛かる。
鳳先生の笑顔。そういえば私はこの人に好意を抱いている気がする。同じように樺地先生にも。
どうしてだろう。
接した時間ならば跡部先生の方が長いのに、私はこのふたりの先生の方に心を許している。優しくされたり親切にされたりするだけで、容易く信じてしまうのは危険なことのはずなのに。
「外で…ご飯を食べるのですか?」
私たちは再び散策を開始した。
薄曇りだった空が晴れいくのに合わせて、足元の影もゆっくりと色を濃くしていく。
「うん。ああ、そういえば食事はどう?」
「美味しかったです」
いつも口にしていたものとは味付けが違ったが、世辞ではなく、本当に美味しかった。そういえばあれは誰が作ったのだろう。昨日跡部先生が云っていた通り、屋敷には先生方以外誰も居ないようだが。
「そう、良かった。僕たちのゴハンはね、全部樺地が作ってくれてるんだよ」
「え?」
私はびっくりして繋いだ手の先の人物を振り仰いだ。
「何か食べたいものはありますか…?」
冗談かと思ったら、否定もせずに頭上からそう問われた。どうやら本当らしい。
確かに東京の屋敷でもシェフは男性だった。だが、繋いだ手はとても大きく無骨だ。この手を持つ樺地先生が、白衣で鍋の前に立つ姿を想像するととても可笑しかった。
私は樺地先生に申し訳ないと思いつつ、声に出して笑ってしまった。



を部屋まで送り届け、ベースに戻ってから鳳長太郎が真っ先にしたことは肩を落とすことだった。
「なー、チョタ、自分、湿布がどこにあるか知らん?」
二日の間にすっかりそこを指定席にしてしまった忍足が、どういうつもりなのか裸の上半身に白衣を羽織った姿でソファでふんぞり返っていた。
「何でそんなカッコしてるんですか、忍足さん……風邪ひいたって知りませんよ」
白衣を脱ぎつつ、鳳は深い溜息を零す。
樺地は昼食の下準備で厨房へと直行したので当然だが、居ると思っていた跡部の姿もベースにない。同様に向日の姿もなかった。
路上を歩いていたら一発で捕まりそうな姿の忍足の横を通り過ぎ、鳳は奥のモニターへと向かう。
「どうもありがとうございました。跡部さんと向日さんは?」
宍戸に軽く頭を下げてそう尋ねると、どういう意味か宍戸は馬鹿馬鹿しいと云いたげな顔で肩を竦めて見せた。内心首を傾げつつ、席を替わってもらうと一応最低限のチェックを開始する。どのカメラも正常に稼動しているようだ。
だが、真っ黒になっているモニターについ電源を入れてしまい、映し出された映像に鳳は慌てた。
丁度ワンピースのボタンを臍の辺りまで外し終えたの映像を、反射神経を最大限に駆使して瞬時に画面から消し去った鳳は自己嫌悪にまた溜息を吐く。
若い女の子の着替えを覗くなんて、変態のすることだ。
自分からの着替え中には電源を落とすことを提案しておいて、そのくせ自分で破るなんて不覚過ぎる。
任務の対象者に私情を投影するのは厳禁だと己を戒めながらも、鳳はに対してごく一般的な好意を抱いた。
深窓のご令嬢、ということである程度の我侭は覚悟していたのだが、は高慢な要求をするどころか、非常に大人しい女の子だった。かえって純粋培養というか、はそこらの女の子よりもよっぽど素直で聞き分けが良いように鳳には思えた。
両親と死別し、心臓に重度の欠陥を抱えた自由の利かない身体。その上今回は自分たちの手によって殆ど拉致監禁である。財閥令嬢という恵まれた身分のはずなのに、の境遇はあまりにも寂しいものに思える。
無理矢理ここに拘束することには変わりないが、せめて快適に過ごしてもらうにはどうしたらいいのだろう。モニターを睨みつつ、そんなことを考えていると背後から呑気な声が投げつけられた。
「なあ、湿布知らんかって訊いとるんやけど」
万歳をするように腰を伸ばして去っていく宍戸と入れ替わるように忍足がやってくる。
「知りませんよ。樺地なら知ってるかもしれませんが。大体何に使うんですか?」
「湿布ゆうたら患部に貼る以外の使用目的は俺は知らんなぁ。それともマニアックなプレイだと別の使い道があるんか?」
「はいはい、そうですね、貼る以外の使用目的はありませんね」
モニターのチェックを終えた鳳は、今度は背後のパソコンに向かおうと振り返ってぎょっとなった。
「なんですか、それ!」
さっきは気が付かなかったが、白衣の影、忍足の左脇腹には青黒い痣がくっきりと浮かび上がっていた。
「だから湿布が必要なんやねん。何?自分、俺が意味もなく裸白衣してると思っとったんか?変質者じゃあるまいし、先に脱いでから湿布探したんやけど見つからへんから仕方なしにしてるだけや」
「あ!それ僕の!」
「悪い子にはお仕置き〜ってさっき云わんかったか、俺?」
鳳の秘密のおやつのシュークリームをもぐもぐと口に含みながら、忍足はあっけらかんと云い放つ。裸白衣は仕方なしにかもしれないが、わざわざ鳳が戻ってから目の前で食べる行為は物凄くわざとだ。
最後のひとつだったそれを無情にも奪われた鳳は、抗議する気力すら奪われて虚ろな視線を部屋へと彷徨わせた。知らないと云ったが、おそらく湿布の入った救急キットはどこかに在るはずなのだ。
指に付着したクリームを舐めとりつつ、忍足は白衣をめくって青黒い脇腹を見せつけながらからからと笑う。
「危うく歯ぁ、がたがたにされるとこやってんやけど、顔は隠せへんからお嬢様への配慮でこれで勘弁してくれたらしいわ」
「ハハ…ソウデスカ……」
先程に云った己の言葉が胸に痛い。
跡部も忍足も大人でプロ根性に満ち溢れているので任務中に私闘なんてするわけないと信じていたのに。任務の遂行に関しては鳳は今だって不安を覚えてはいない。このメンバーのみでも能力的にはなんら問題はないと思っている。だがしかし、榊指令の不在がこんな形でメンバーシップに影響を与えようとは…。
行ってよし、というあの重低音が恋しくて鳳は溜息を止められない。
「忍足さん、そのうちほんとに跡部さんに殺されますよ」
そういえば予備のコードの入ったダンボールの側で救急キットを目にしたような気がする。そう思って立ち上がり、そちらに向かう鳳の後をだらだらと忍足も着いてきた。
これだけ喋って歩いているのだから肋骨は折れてはいないのだろう。さすがに骨折させては唯一信頼しているというドラテクの方にも支障が生じると判断するぐらいには跡部は冷静だったようだ。だが、それにしたって拳の痕が鮮明に残るほどの打撃を喰らっているのに、忍足には微塵も痛がる様子はない。
どっか壊れているんじゃなかろうか、などと口にしたら叩かれそうなことを思う。
「その時は骨拾ったってや」
「ヤですよ。あ、それからその場合任務中の負傷じゃなく単なる自爆ってことで処理しますからね」
鳳の耳に忍足の笑い声がするりと忍び込む。
咽喉の奥で殺したような低いその声に、鳳は思わず忍足から飛び退って振り返った。
内心でどれほど呆れ返っていようが忍足は仲間であり味方のはずだ。それなのに今鳳の体内では経験から培われた警鐘が鳴り響いていた。
振り返った視線の先、忍足は白衣のポケットに両手を突っ込んでいる。
別に鳳に危害を加えようとしていたような素振りはない。当然だろう、忍足と自分は仲間なのだから。当たり前のことに安堵している自分を鳳は滑稽だと思った。
そんな鳳の眼前を忍足が何の気負いもなく横切っていく。
鳳の視線からどこに向かおうとしていたのか察したのか、忍足は迷うことなくコードの収まったダンボールへと向かう。
大きな独り言のような忍足の声音はいつもどおり軽いものだった。
「全くせちがらい世の中やわぁ」