十六歳まで生きられないだろうと云われた。




overzealous intruder





けれど、私は生きている。
毎日大量の薬を飲み、何度かの手術を繰り返し、日光を避け家に閉じ篭り生き長らえた。私を支えていたのは、十六まで生きられない、そう予言した医者への反発心だった。
何故そんなことを云われなければならないのか?
神でもないくせに、何故私の生殺与奪の権利を握ったような発言をするのだ。
医者の言葉にショックを隠しきれない祖父とは対照的に、私は耐え難い怒りからその能面のような顔を幼いながらに睨みつけていたような気がする。
その後私は祖父の制止も聴かずに病院を換え、意地になったようにとにかく生きてきた。
そう。まさにただ『生きてきた』のだ。
自分の意思以外で運命を決定されることが我慢ならずに、絶対十六歳まで生きてやると決めた。そして、何様のつもりか予言者ぶって私の未来を語ったあの医者をせせら笑ってやるのだと、そう自分に云い聞かせて痛みに耐えてきた。
その甲斐あって、あと数ヶ月で私は念願の十六歳を迎える。
だが、いざ十六歳を目前として私はこれまでの自分に初めて疑問を抱いたのだった。
一体、私は何をしてきたのだろう。
ただひたすら生きる為に一人部屋に閉じ篭り、何もせずに無為にベッドで過ごした。
私が知っているのなど薬の味と病院と家の往路だけだ。
一体、私とは何なのだろう。
いや、そうではない。
私はいざ十六歳を迎えるに当たって、漸くあることに思い至ったのだ。
目標としてきた十六歳を向かえた瞬間、それから先私は何をすればいいのだろう。
これまで私はただ生きることのみに固執して、それ以外は二の次だった。窓の向こうに虹が見えようと十五夜の月が輝こうと、具合が悪ければけして身体を起こさず、美しい光景を見送り続けた。私はひたすら生を繋ぐ為に暮らしてきた。そんな風に時を過ごしてきた、あまりにも何も知れない私はこの先どうすればいいのか。
遅かれながらそれに気付いた私は、初めて死以外を恐いと思った。
振り返れば私は祖父が何の仕事をしているのかも良く解っていなかった。会社を経営しているのは確かだ。けれど、何の会社なのかも解らないし、どれぐらいの規模の会社なのかも解らない。何もできない私を両親の代わりにこうして可愛がり養ってくれていることから、それなりに大きな会社なのではないかとか、その程度の推測しかできない。
これからどうすればいいのかも含め、私には祖父に尋ねたいことが山ほどあった。この不安から救って欲しかった。
けれど、ここに祖父の姿はない。今ここに居るのは私だけだ。六歳で祖父の元に引き取られてから、両親のようにずっと世話をしてくれた見山夫妻さえ居ない。
私は昨日半ば無理矢理にここへ連れて来られたのだ。
昨夜遅くに祖父の秘書である村田がやって来て、とにかくお急ぎくださいと、寝巻きにガウンを羽織っただけのあられもない姿で車に押し込められた。
車中でもろくな説明はなかったが、とくに不快だとも思わなかった。村田は信用のできる人物だ。何か理由があってのことだろう、目的地に着けば祖父が待っていて何らかの説明をしてくれるはずだと高をくくっていた。
だが、この屋敷に祖父の姿はなかった。
村田を問い詰めてもとにかく迎えに来るまでここで養生しろとの一点張りで埒が明かない。では、迎えは何時来るのかと問い詰めても解りません、ならば祖父と話をさせろと詰め寄ってもできません。あげくの果てにお体に障るので興奮なさらないでください、だ。馬鹿にしている。
さすがに腹が立ったので、私は村田を捨て置いてさっさと二階に上がって寝てしまった。
一夜明けた現在、時刻は午前9時になろうかとしているがまだ誰も姿を見せない。
いつもなら見山の妻の香苗が八時半には朝食を用意して起こしにくるのだが。
どうも様子がおかしい気がする。
私は改めて窓の向こうの風景に視線を向けた。
殺風景なものだった。それ以外の言葉はない。
百メートルほど離れたところに林があるだけで、本当にそれ以外何もないのだ。少なくとも窓からはこの屋敷以外の建物は全く見当たらない。
療養の為に私をここに連れてきた、と村田は云っていたが本当だろうか。それにしては景観は優れないし、どうにも外の空気は私には少し冷た過ぎる気がする。それに何よりこうして放っておかれるのもおかしい。
だが、何も知らない、あまりにも無知な私にはこんな時どうすればいいのかが解らない。いつも私は待っているだけで良かった。これまでは待ってさえいれば、いずれ愚かな私に誰かが何かを与えてくれていたのだ。
私はぼんやりと薄曇りの空を見詰めた。
幸い空腹も感じない。別に一日食事を抜いてもいいだろう。しかし、薬は飲まねばなるまい……ああ、その薬の在りかさえ私は知らない。
私は溜息を吐いた。
やはり自分から階下に人を探しに行くべきなのだろうか?だとしたら服に着替えたいが、この屋敷に私の服はあるのだろうか。少々はしたないが、ガウンを羽織って降りてみるべきか。
そうやって一人窓辺で私が逡巡していた時だった。
ノックがした。
けれど、私が返事を返す前に、無礼にもドアは開かれたのだった。



私は声も出なかった。
まず、返事の前にドアを開けてしまうその配慮に欠けた行為にもだが、何より入ってきた人物に驚いたのだ。
白衣をまとった、まだ若い男性だった。
一年の殆どを床で過ごしてきた私には自分と同年代の少女とさえ接する機会は滅多になく、若い男性となると最早記憶にある限り数える程しか口を利いたことはない。見山も村田もとうに四十路のはずだし、病院の主治医も技師も皆妻帯者と思しき年齢だった。なので、どう見ても二十代の男性と二人っきりで向かい合うなどという経験は私にはなかったのだ。
後ろ手にドアを閉めながら、硬直して立ち竦む私をじろじろと無遠慮にその男性は眺め回す。無礼を叱責する余裕さえない私に、その上彼はさらなる暴言を浴びせ掛けたのだった。
「白い服着て窓辺に立ってんじゃねぇよ。ブラもつけてねぇ扁平胸が透けてんぞ」
私は何を云われているのか解らなかった。
内容もさることながら、その口汚い口調がショックだった。こんな口の利き方をする人は私の周囲にこれまで居なかったのだ。
唖然として身動きできずにいると、彼は苛立たしげに舌打ちをして大股でこちらに歩み寄ってくる。
思わず逃げようかどうしようかとまで考えた私の腕を掴むと、彼は引き摺るようにベッドへと私を連行し、肩を押さえつける様にして強引に座らせた。
「いいか?誰が見てるか解らねぇんだから二度とテメエは窓辺に立つな。解ったな」
自身は僅かに開いたカーテンの隙間を直しに引き返しながら、またもや高圧的に云い放つ。テメエというのは……やはり私のことなのだろうか。
尋ねてみたい気がしたが、おそらくそうなのだから放っておくことにした。代わりにもっと重要なことを口にしてみる。
「あなたは誰ですか?」
私の質問に彼はふんとせせら笑うように唇を歪ませた。
「跡部景吾だ。見ての通りのここでのお前の主治医だ」
私は新たな衝撃を受けていた。確かに彼は白衣をまとい、首から聴診器を垂らしていた。けれど、これまで私の見知った医師たちに比べ恐ろしく若い。そして何より粗野だ。だから精々新米の研修医か何かだと思っていたのに、彼が主治医だと云うのか?
…彼に身体を診せるのは……はっきり云って嫌だ。
私は唇を引き結ぶと顔を上げ、跡部景吾と名乗った青年を真正面から見詰めた。
「失礼ですが、私はあなたに診て頂きたくありません」
「何故だ?」
跡部医師は胸の前で腕を組み、意地悪く眼鏡の奥の瞳を細めた。
「私はあなたを信用できません。廣石先生を呼んでください」
「廣石?ああ、あの東京の主治医か。無理だ」
「何故です?」
「廣石先生にも都合がある。彼が来られない代わりに俺が派遣された」
「廣石先生に都合があってこちらに来られないとおっしゃるのなら、私をあちらに戻してください」
「それも無理だ。お前はしばらくここで療養する。それが御爺様の決定だ」
私は一瞬唇を噛み締めた。
御爺様の決定。
ならば私は従うしかない。けれど、一点だけ譲れないことがある。
私は背筋を伸ばすと跡部医師を見据えた。
「なら、あなたが主治医を降りなさい。廣石先生でなくとも構いません。太田先生か如月先生を呼んでください、お二人には診て頂いたことがありますから」
云い切って睨みつけると跡部医師は声をあげて笑った。
失礼なことを云った自覚は在る。なのに、彼はむしろ気持ち良さそうに笑ったのだった。理解に苦しむ。
「悪いな、お嬢様、それも無理だ」
笑いながら、まるで鞠をつくようにぽんぽんと私の頭を撫でる。慣れない行為に私の頭はゆらゆらと不安定に揺れたが、無礼だと振り払っていいものかも判別がつかない。
ただ、初めに見せたあの意地の悪そうな顔と違って、今彼が浮かべている笑顔には悪意があるようには見えなかったので私は好きにさせておいた。若いお医者様には年若い患者にこうやって接することが当たり前のことなのかもしれないので、それならば我慢すべきだという思いもあった。
「何故です?」
「これも御爺様の決定ってやつだからだ。お嬢様はいいと云われるまで、必ず俺を主治医としてここで静養しなきゃならない」
私は唇を噛んだ。
いいと云われるまでとは……一体、何時までここで待てということなのだろう。
もうすぐ十六歳になってしまうのに。
再び滲み始めた不安を堪えようと益々唇に力を込めると、何の予告もなしに顎を摘まれた。
「おい、そんなに唇を噛むな。形が悪くなるぞ」
瞠目して硬直している私を無視して、跡部先生は親指で押し潰すように私の下唇に触れた。
頬がかっとなった。
「は、放してください!」
慌てて両手でその手首を掴んで振り払う。
彼は気分を害したように目を細め、また舌打ちをした。
だが、私はそれどころではない。
何ということをするのだ、この人は。
本当に医者なのだろうか。私の心臓が悪いことを知っているはずなのに、こんな驚かすような真似をするなんて。
跡部先生は手近にあった椅子を引き寄せ、尊大な態度で腰を下ろした。
「失礼な奴だな。思いっきり嫌そうな顔の上にちょっと触ったぐらいで放してくださいだと?この俺様のどこに不満があるんだよ」
嫌そうな顔は跡部先生にというよりはこんなところに無期限で閉じ込められることが原因だ……まあ、確かに多少は跡部先生への不満もあったのは事実だが。
私は言葉を捜して僅かに首を傾げた。
「跡部先生の医者としての技量も知らないくせに、主治医を降りろというのは確かに失礼だったかもしれません。ご気分を害されたのなら謝ります。ですが、私は跡部先生のような若い方と接したことが殆どないのです。それ故、気心の知れた馴染みの先生に」
「そうじゃねぇよ」
跡部先生が私の言葉を遮った。
そうじゃねぇ?ええと…そうではない、ということは、どういうことなのだろう。
「では、先生は何にお気を悪くなさったのでしょう?」
跡部先生は私の質問に盛大な溜息を吐いた。
私は何かそんなにおかしいことを云ってしまったのだろうか?
「この俺様が主治医なんだぜ?ありがたがりこそすれ、嫌がるなんてお前どっかおかしいんじゃないのか」
私は混乱した。
もしかして、この跡部先生は私が知らないだけで名立たる名医なのだろうか?だから御爺様はこの方に私を預けたのだろうか?
「あの…私は本当にものを知らなくて…跡部先生は心臓外科では有名な方なのですか?」
「アァン?お前マジでどっかおかしいんじゃないのか?目ぇ、悪いのか?オラ、俺様を良く見てみろよ」
「そ、そんなに近付いて頂かなくともちゃんと見えていますから!離れてください!」
慌てて逃げようとする私に気付くと跡部先生は近寄るのを止めてくれた。
先生が椅子に座るのを見届けてから、私は云われた通りにその顔を観察してみた。
当たり前のところに目、鼻、口。
右目の下に泣きぼくろ。
額の真ん中で分けられた髪。
眼鏡は廣石先生がかけていたようなものと違って、縁のないものだった。
観察を終え、何だか自信満々で腕を組んでいる跡部先生を私は恐る恐る見上げた。
「あの…」
「解ったか?」
「ええと…特に変わった点はない、と思うのですが」
跡部先生が信じられない生き物を見たとでも云いたげに目を見張る。私は肩を竦めた。
「ごめんなさい、私本当に解らなくて」
「ああ、ああ、もういい、お嬢様ってヤツは世間一般とどっかズレてんだろ。ほら、体温計、熱計れよ」
「あ、はい。……あの、ごめんなさい」
跡部先生は返事もせずに不機嫌そうにカルテに何事か書き込み始める。
居た堪れない気分で私は体温計を耳に当てた。
すぐに検温完了を知らせる電子音が鳴ったそれを先生に差し出すと、組んだ膝にカルテの挟まれたボードを置き、片手に体温計、片手にボールペンで器用にもさらさらと書き付けていく。
「次、血圧。腕出せ」
私は云われた通りにネグリジェの袖をまくって先生に差し出した。
すると、先生は今度は眉間に皺を寄せ叫んだ。
「なんっだ、この腕は!骨と皮じゃねぇか、おまけにこの色は何なんだよ、お前日光浴びてねぇだろ!」
「し、仕方ないじゃありませんか。運動は厳禁なんですから」
「動かなくたって日光浴はできんだろ。お前明日から日光浴させるからな」
でもあんまり強い日差しを浴びると気持ち悪くなってしまうのです、と云おうとして私は言葉を飲み込んだ。
「邪魔くさいな」
私の手首を掴んでいた跡部先生が、袖を掻き揚げる為に二の腕に触れたのだ。温かい手だった。私が低体温症な所為で余計にはっきりそれが解る。
私は……良くないと解っているのに動悸が速くなるのを抑えることができなかった。
「固定するものがないな。仕方ないからこうするか。おい、動くなよ」
「…はい」
跡部先生は私の肘を手のひらで包むと、水平になるように私の腕を白衣に包まれた自分の腕の上へと重ねた。
血圧を計る時は水平に。それは解るけれど。
今日会ったばかりの男の人と部屋で二人っきりで、お医者様とはいえ若い男性に肌を触れさせているのも、何もかもが私には初めてのことだ。恥ずかしい。
私はできるだけ気を散らそうと、疑問を口にしてみた。
「この屋敷には私と跡部先生と、他にどなたがいるのですか?」
「お嬢様と俺様と、それからお嬢様の為の特別医療チームの五人だけだ」
お医者様と私だけ?
では食事や掃除はどうするのだろう。
「昨夜は村田に御爺様に連絡がとれないと云われました。でも、まさかここに居る限り電話もできないなんておっしゃったりしませんよね。とにかく一度御爺様とお話したいのですが」
「悪いがそのまさかだ。お嬢様にはここに留まる限り外部との連絡は一切絶ってもらう」
「そんな!何故です!?」
「心臓が悪いんだろ?そんなに興奮するなよ。…ああ、云わんこっちゃない、なんだこの数値は」
跡部先生は血圧計を見てやれやれと肩を竦める。
きっと異常な数値は質問の回答よりも先生に触れられた所為なのだが、そんな恥ずかしい理由ならあえて誤解をとこうとは思えない。
「血圧くらいなら自分でも計れるので、あとでもう一度計っておきます。それよりどういうことです、何故私は外部との連絡を絶たねばならないのです?」
私はもどかしげに腕に巻かれたマジックテープを外しながら必死に言い募った。
それなのに、跡部先生は椅子の前足を浮かして行儀悪く前後に身体を揺らすという、そんな不実な仕草で微笑んだのだった。
「お嬢様の身体に障るからだ。煩わしい外部や小煩い文明に惑わされることなく、この大自然の中でお嬢様に療養して頂くのが目的だからな」
「……嘘ですね」
私が睨みつけると、跡部先生は心外だとでも云いたげにわざとらしく眉を上げてみせた。
「何故そう思う?」
「嘘だからです」
私の言葉に跡部先生は笑った。私にはその笑い声が肯定に聴こえた。
けれど何故私を閉じ込めるかの本当の理由を教えてくれるそうな気配はない。これも答えてはもらえないだろうと思いつつ、私は一応問うてみる。
「ここはどこです?」
「嘘の地名でいいなら答えてやろうか?」
「ならば結構です」
私は嘆息した。
苛立ちよりも、やはり、という思いしか最早湧いてこない。
「ま、安心しろよ。事情があって理由が云えないだけで、俺たちはお前に危害を加えることは決して無いからな。あんたの御爺様に頼まれたってことだけは神に誓って真実だ」
私は返事をする気になれず、先生から視線を逸らして俯いた。
御爺様に頼まれた……というのは信じていいのかもしれない。私を迎えにきた村田が御爺様を裏切るとは思えない。車を運転していたのも長年御爺様の運転手を勤めている長谷だった。二人揃って私を謀る可能性は低いように思える。
けれど御爺様に連絡できないのは解せない。
膝の上で拳を握る。
少なくとも事情が明確になるまで、あまりこの跡部景吾という人物に気を許さない方がいいかもしれない。
決意を結んだ私の視界に何かが過ぎった。
「解ったんなら脱げ」
「な…!?」
鎖骨の中心の真下の辺りに跡部先生の指が触れた。
頭で理解するより速く、私はとっさにその手を弾き飛ばしていた。既に半分外されかけていたボタンを両手できつく握り込む。
「いっ、嫌です!」
「ふざけんなよ、テメエ。服着たまま診察しろってのか?」
跡部先生が不愉快そうに眉間に皺を寄せ、再び手を伸ばしてくる。私は身を捩って横に逃げた。
本当にこの人は先生なのだろうか?きっと私は今正真正銘真っ赤になっているに違いない。動悸も速くなっている気がする。これで死んだらこの人はどうするつもりなのだろう?大体何故この人がわざわざ脱がそうとするのだ、これまで複数のお医者様に診て頂いたが患者の服を自ら脱がそうとするような先生はいなかった。
私は殆どベッドの上でうつぶせになって、寝巻きを暴こうとする先生の腕から必死でボタンを守った。
「それで結構です!」
「もうすぐ手術なんだろ、くだらねぇ我侭云ってんじゃねぇぞ」
「手術は受けません!」
「あ?」
肩に掛かっていた跡部先生の指が外れた。
私は恐る恐る顔を上げた。
先生の指はもう近くにはない。私はそれでも用心深くボタンを隠すようにして、胸に手をあてがいながら身体を起こした。
「手術は受けません…御爺様への電話もそれについてお話したかったのです」
「何でだ?」
乱れた髪を直していると訝しげな声が降ってきた。
顔を上げると跡部先生が胸の前で腕を組み、眉間に皺の寄った、殆ど睨みつけるような顔をして私を見詰めていた。
「何故手術を受けない?」
私は返答に困って顔を伏せた。
卑怯だと思いつつ黙っていると、視界の端で長い脚が組み換えられた。
、十五歳。財閥総帥の光次郎の唯一の肉親。両親はが六歳の時のセスナ墜落事故で他界。同乗していただけが奇跡的に生還、だがその時に左心室に著しい損傷を受ける。これまでに計五回の手術を受けている。今年六回目の手術を予定、体力・気力的にも安定している今なら手術の成功率は八十%、成功すればほぼ常人と同じ生活を送れるようになる、俺はそうお前の主治医から聴いてきたんだが?お前だって一年前から手術の為に体調を整えてきたんだろ、何故今更止めるなんて云い出す?」
まるで調書のように朗々と読み上げられた全てが事実だ。
両親の不幸な事故も、手術の回数も何もかも。
先生の云う通り、今度の手術は十六歳まで生きることを目標としていた私が望んでいたことだった。
けど、今は違う。
「…………とにかく嫌です」
わざととしか思えない、厭味なほどに盛大な溜息を吐くと、跡部先生はカルテ片手に立ち上がった。
「我侭なお嬢様だな。後でまた来る。ちゃんと血圧計っとけよ」
云いたいことだけ云い終えると、本当に足早にドアへと向かってしまう。脚が長い所為なのか、あっという間に歩を進めてしまうその背中に私は慌てて声を掛けた。
「あの、跡部先生」
「なんだよ?」
「そのお嬢様というの、止めてくださいません?私にはという名前があるのですが」
ドアの前で脚を停めた跡部先生はくっと唇を歪ませた。
「それは気づかずにご無礼を働きました、お嬢様。それでは失礼致します」
慇懃無礼な口調で吐き捨てると、跡部先生はまるで王侯貴族のように胸に手を当て優美にお辞儀をしてみせた。
揶揄しているとしか思えないその仕草に私は眉を顰めてその均整の取れた背中を見送った。
腹立たしさを覚えつつ、私は漸くあることに思い至った。
もしかして、あの跡部先生というのは凄く綺麗な方なのではないのだろうか?



「ったく…」
「お。おつかれさーん、跡部センセー」
気分そのままの乱雑な足取りでベースとして使用している一階の部屋に戻ってみれば、豪奢なアンティーク家具のソファでふんぞり返っている部下の姿が真っ先に飛び込んできた。跡部は益々眉間の皺を深くすると、かけていた伊達眼鏡をむしりとるように外して忍足の胸元に投げつける。
「忍足、テメエサボってるとぶっ殺すぞ」
あからさまに機嫌の悪そうな声で威嚇すると、忍足は膝に広げていた大きな紙切れをひらひら揺すってみせる。
「嫌やわぁ、ほんと跡部先生怖いんやから。サボってるんとちゃうよ、村田さんが用意してくれた三枚の地図、それぞれ微妙に違うとるとこあるきに後で現状調査しに行く為の下調べしてるんよ。なぁなぁそれより、あれ、お嬢様やで、そこらの女の子とチガウんよ?蝶よ花よと育てられた女の子なんやから、もうちっと優しくしてやらなかわいそうやで?」
「ガキは甘くするとつけあがる。最初が肝心って云うだろ、あれくらいで丁度いいんだよ。長太郎、どうだ」
白衣を脱ぎ捨て、ネクタイを緩めながら跡部は部屋の奥、壁一面に並んだモニターの前に座っていたもう一人の部下へと話しかける。
コンソールの上の彼の手の動きにあわせて、瞬きのように画面が入れ替わっていく。
「良好です。固定カメラ、高感度カメラ、サーモグラフィー共に機材は正常に稼動中です」
目まぐるしく映像の入れ替わるモニターに視線を巡らしながら、跡部はふとある一点で目を止める。黒いままの右隅のみっつのモニターを横柄に顎で指し示す。
「これは?何故映ってないんだ?」
跡部の指摘に鳳は気まずそうに口篭った。
「ええと…まだ設置が完了しておらず……今、向日さん、宍戸さん、樺地が設営に向かってます」
「馬鹿が。ただでさえ予定が押しているのに何ちんたらやってんだあいつらは」
跡部は舌打ちすると、鳳の着けていたインカムを問答無用で奪い取った。
「オイ、樺地」
『…ウス』
「今直ぐお前だけ戻って来い。朝食を作れ」
『えー!樺地戻ったらこのクソ重いカメラどうすんのさー!』
突如割り込んできた大声。
跡部はさも煩そうに片目を眇め、インカムを顔から遠ざけた。跡部の横では鳳が苦笑を浮かべている。
「うるせえぞ、向日。お前ら二人で運ぶに決まってんだろ」
『あと十五分くらい待っててよ』
「駄目だ。お嬢様にさっさと薬を飲ませなきゃならない。それに俺は俺が戻ってくるまでに済ませておけって云ったはずだぜ、ただでさえ予定時間をオーバーしてんのにごちゃごちゃ云ってんじゃねぇよ。それともそんなに重てぇのが嫌ならお前がメシ作ってみるか、アァン?」
『…設置頑張ります』
「解ったな、樺地、三分で戻ってこい」
『ウス』
「それからあと十五分って云ったからにはお前ら二人も二0分以内で戻って来いよ。一分でも遅れた場合は榊指令に報告する。そうしたら降格だな、お前ら」
『ギャー!ひっでー!!オニ!』
『そうだぞ、跡部!無理だ、絶対無理だ!俺たちは樺地じゃねぇんだぞ、お前はいっつも命令するばっかであのカメラがどんだけ重いか』
「うるせえよ、五分増やしてやっただけでもありがたいと思え。解ったな」
一方的に通信を打ち切ると跡部はインカムを鳳に返し、身を屈めてコンソールに指を伸ばした。鳳がキャスター付きの椅子を一歩退けると、身体を入れ替えて本格的にコンソールを叩き始める。
カメラの角度や切り替えタイミングをチェックすると、気がすんだのか跡部は機敏に振り返る。今度はモニター脇のパソコンへと向かっていた鳳に問いかける。
「何か連絡は?」
「榊指令からは何も。村田さんからは定時連絡、あとは東京の本当の主治医の方から薬、処方箋、え〜と、なにやらいっぱい注意事項とか書かれたものが届きました。これは僕らが読んでも解らないので、跡部さんが読んでおいてください。それから容態が安定しているとはいえ、せめて三日に一度は最低限の情報は欲しいと云ってきています」
「村田さん経由でいいなら毎日でも送ってやる。次の定時連絡で村田さんに訊いといてくれ」
「跡部先生、これ何語?」
何時の間にかこちらに来ていた忍足が跡部の持ち帰ったカルテをひらひらと振ってみせる。
「ドイツ語だ」
「何で日本語で書かんのや。気障ったらしい」
「医療用語はドイツ語が多いんだよ」
「そうなん?」
「さあ?僕に訊かれても」
すぐ隣に居る鳳と忍足に構うことなく、既に跡部は廣石から送られてきた書類に猛スピードで視線を走らせている。
肩を竦めて鳳はモニターの前へと戻り、やることのない忍足はひょいっと跡部の手元を覗き込んでみた。だが、素人には意味不明の羅列としか映らないその文字列は正視に堪えなかったのか、すぐさま視線を外してしまう。
たかが10秒で肩がこったとでもいうのか、ぐるぐると首を回しながら忍足はずいぶんと大きな独り言を呟く。
「それにしてもかわいそうやな、ちゃん、すっかり怖い先生に苛められて。俺が変わってあげたいわぁ」
跡部は速くも四ページ目を捲りながら、じろりと上目遣い気味に忍足を睨んだ。
「別に変わってやってもいいんだぜ?お前が途中で放り投げた研修をちゃんと受けてからならな」
「それは無理や」
忍足は降参とばかりに肘を曲げて両手を上げて見せる。
「だったらくだらねぇこと云ってんじゃねぇよ」
吐き捨てて視線を戻した跡部に忍足はにやにやと目を細めた。身体を斜めにしてモニターと二人の様子を交互に見ている鳳の眉毛は困っているみたいな角度に下がっている。
暇な時の忍足の悪い癖なのだ。暇が高じると誰彼構わず絡んで遊ぼうとする。
「なあ、あれ、ほんまにあの子が胸はだけさせたらどうするつもりやったんやん?」
「あ、跡部さん、それ僕も訊きたかったんですが、さっき跡部さん彼女にカメラのこと云いませんでしたよね。だから当然ちゃん、普通にあの部屋で着替えちゃうと思うんですが、その時カメラの電源オフにした方がもちろんいいですよね?」
「ああ。一応そうしろ。だが精々五分が限度だ」
「え?速すぎません?女の子だからもっとかかるんじゃないですか?」
「五分もありゃ完全な下着姿じゃなくなってるだろ。電源落としてるその間に何かあってみろ、目も当てられねぇぞ」
「…はい」
鳳は不承不承という風に頷いた。
ちらりとモニターに視線を流すと、お嬢様は自分が出て行った時と寸分違わぬ位置にまんじりともせずに座ったままだ。僅かに苛立ちの混じった嘆息を漏らすと、跡部はプリンターの横に置いてあった紙束を全部掴んで先程忍足の座っていたソファへと移動した。
その隣に用もなく忍足も腰を下ろす。
いい加減そんなに暇ならいっそ便所掃除でも命じてやろうかと思った矢先に、相変わらず忍足は益体のないことを笑顔で云い放つ。
「ほんまもんのお嬢様相手にほんまもんのお医者さんごっこするってどんな気分?」
「仕事に気分もクソもあるか」
「仕事やねんけど役得やん。あの子ほんとお人形みたいにかわいい子やないか。前髪ぱっつんと切り揃えて、今時ネグリジェなんてほんま貴重やん」
「確かに人形みてーにガリガリの腕してたぞ。お前、ああいうのが好きなのか?」
忍足の悪癖を鳳同様熟知している跡部は意識の99%を手元に向け、残りの一%で気のない返答を返す。
「まあね、華奢なのも嫌いやないよ。ガリガリの腕にそんでもって扁平の胸?」
「ああ」
「よう見取るやん、自分。実はナイチチ派?生チチ診れずに残念賞?ところで日本の男はロリコンの気が強いんやって。どう思う、跡部先生。あ、どうしても答えたくないようならええよ、個人の性癖は自由やから」」
「テメエ…」
ゆらりと跡部が書類から顔を上げる。
「いい加減にしろよ。仕事もしねえでくだらねえことばっかほざきやがって。二度と馬鹿げた台詞を口にできないようにその歯がたがたにしてやろうか?」
「嫌やわぁ、この年で入れ歯なんて」
射殺すような眼光の跡部、にこやかに笑う忍足。
その後方、ただ一人成り行きを見守っていた鳳は嫌な汗を止めることができない。
跡部と忍足と己しか居ないこの状況でどうやって二人を止めるべきか、否、自分一人でどうにかなるのか?
跡部はやると云ったら躊躇しない男だ。きっと本気でやる。
だが忍足も黙ってやられる男ではない。躱すだけならいいが反撃したりしたら、それこそ跡部の逆鱗に触れるだろう。そうなったら最早泥沼だ。
いつもならこういう時は榊指令が例の『行ってよし』を発動させて罰走二0週で場を収めるのだが、今回の任務では指令は不在だ。
跡部と忍足を為す術もなく見守っている鳳は心の中で尊敬するミスター・ダンディこと榊指令の名を絶叫していた。
(榊指令ーー!!!助けてくださーい!!今猛獣が檻から解き放たれようとしていまーす!!)
僅かに跡部の左腕が身じろいだ。
不味い、と思った時だった。
ばーんと何の予告もなしに観音開きのドアが開いた。
のそりと蠢く影。
「…ウス。先に車によって食材を調理場に置いてきたので遅れました」
聳え立つ巨体は樺地だった。一応白衣は着ているものの、胡散臭いくらいに似合っている跡部や忍足に比べて全く似合ってない。
その姿に毒気を抜かれた鳳の視線の先で、跡部までもがあっさりと忍足から視線を外してソファから立ち上がってしまう。
「ああ、ご苦労だったな。何が作れる?」
「ウス。大抵の物は作れます」
「お嬢様は別にアレルギーはないようだ。村田さんがお嬢様の先月と先々月分の献立のデータもよこしている。これを参考に何か適当に作ってくれ」
「ウス」
樺地と一緒にベースを出て行こうとする跡部に気が付き、鳳は慌てて腰を浮かせつつ声を掛けた。
「跡部さん!樺地の手伝いなら俺がやりますよ!」
相変わらず書類を離さないワーカホリックぶりで跡部は肩越しに振り返る。やはり先程の剣呑とした面差しも緊迫した殺気を放っていたのも見間違いかと思うほど、さっぱりとした笑顔を浮かべていた。
「お前はモニターの監視を頼む。ついでにその馬鹿にいい加減機材の使い方を覚えさせといてくれ。担当が違うからって基本も解らないようじゃ話にならん」
「あ、はい、解りました」
会釈をすると、跡部は樺地を伴って今度こそベースを後にした。
跡部景吾は榊太郎の片腕だ。
その上誰がどう見ても美人だと認めるしかないような容色の持ち主だ。この榊直属のチームに選ばれた時、それ自体はもちろんのこと、密かに憧れていた跡部と同じチームになれたことも鳳は嬉しかった。
傍若無人や唯我独尊とよく評される跡部は確かにそのような一面も持ち合わせていたが、同時に後輩の面倒を見るいい先輩でもあった。ただの憧憬に尊敬が加わり、今では跡部は鳳の中で重要な位置を占める人物となっている。それなりに長くなった付き合いで跡部の気分屋な一面は解っているつもりだが、それでも今のように呆気ないほどあっさりした切り換わりを見せ付けられると戸惑ってしまう。
結局、自分はまだまだ跡部のことを理解してなどいないのだ。そもそも誰かを完全に理解できるなどと考えること事態傲慢な行為なのかもしれないが。
溜息を吐いて浮かせた腰を再び椅子に落ち着けると、白衣のポケットに手を突っ込んだ忍足がぶらぶらと近寄ってくる。
「ちょっと突付いたらえらいことになってしもうたわ」
跡部と違って忍足の眼鏡には本当に度が入っている。そのレンズ越しの忍足の目はさっきのことなど忘れたように笑っている。鳳は全く悪びれた様子のないその顔を軽く睨んだ。
「そこ。座ってください。今日こそちゃんと覚えてもらいますよ」
「ええ〜?いややわぁ〜。俺、担当ちゃうんやから覚えたって豚に真珠、猫に小判、巨人軍に四番打者やで」
「何です?最後の巨人軍に四番打者って?」
「狩り集めるだけ集めても狙い通りに機能しない。要するにやるだけ無駄」
「…………も、いいから座ってください」
鳳は再び深い溜息を吐いた。
忍足も理解に苦しむ人物だ。
今後の活動に一抹の不安を覚えつつ、とりあえず樺地が帰ってきたらささやかな感謝の証に、こっそり持ち込んだシュークリームをひとつ分けてあげよう、鳳はそう思っていた。