左腕に視線を落とす。
この腕はもう駄目かもしれない。









コートから離れた芝生の上で大石と竜崎先生を待ちながら、動かすなと云われたにもかかわらず手塚は試さずにはいられなかった。
第一関節をたかが1センチ、指先をわずかに動かしただけで腕全体を痛みが貫く。
その激痛をあえて無視して、拳を握ろうとしたが身体にそれを拒否される。見えない卵でも手のひらに包んでいるような無様な角度に曲げるのが限界だった。
自分のもののはずなのに云うことを利かなくなってしまった左腕。それを無表情に見つめてもう一度思う。
この左腕はもう駄目かもしれない、と。
力を抜くことで指がじわりと弛緩していく様を手塚は怜悧な視線で眺めた。まるで機械の動作試験でも観察しているみたいに感情の篭っていない目をしているのが自分でも解る。
フェンスの向こうからボールの弾ける音やプレイヤーの裂帛の気合、コートを駆ける足音、それから舞台に注がれる声援が聴く気がなくとも勝手に耳へと流れ込む。
それがどうしようもなく神経に障る。
何年も何百時間もテニスに費やしてきた自分には日常と化した音のはずなのに、今は酷く遠い。耳に馴染んだはずの音が神経を蝕む騒音にしか聴こえない。
いっそ見て見ぬ振りでもしてればいいのに、何故そんな風に感じるかの理不尽な理由も手塚の頭の中には理路整然と示されてしまう。
それが余計に手塚を苛立たせる。
もう一度拳を握ろうとして、手塚は今度こそ激痛に顔を顰めた。
まるでそこに心臓が宿ったかのように左腕全体が脈を打ち、激しい熱を帯びて鉛のように重くなっている。
確かに己の肩へと繋がれているくせに主の命に従わない左腕。
眉間に皺を寄せると、意地になったかのように手塚は再び指先に力を込めようとした。
悉く痛みを無視して。
まるで壊れかけの玩具を完全に破壊しようとするかのように。
骨が悲鳴を上げる。
だが痛みはまだこの腕が自分のものであることの証に思えた。
本当に恐れるべきはきっと何も感じなくなることの方だ。
神経が軋む。
どこまでやったら壊れるだろう?
「手塚君」
その声に手塚は驚いて顔を上げる。
誰かが近付いてきていることにも全く気付いてなかったし、まさか今日ここに来ているとは思ってなかった。
手塚は左腕を半ば無意識の内に身体の陰へと隠した。
。来ていたのか」
が丘のように盛り上がった芝生を踏んで手塚に向かってくる。
緩い傾斜とがうつむいている所為でその表情は見えない。
手塚は自分の右側に置いてあったバッグを掴むと、それを背中の方に押しやる。後方に聳えた巨木の日陰の中に手塚は居るのだが、左側の方には20センチほどしか日陰がなく、いくらが小柄だといってもいくらなんでもそれでは狭すぎる。
こちらに向かってくるからには手塚に用が在ってのことなのだろうと、だから座る為のスペースを設けてやったのだが。
は手塚の右隣に腰を下ろさなかった。
「…おい、
手塚は疲れた声で嘆息した。
は手塚の正面にがくりと膝を突くと、何を思ったのかその胸に手塚の頭を抱きかかえたのだった。
手塚の髪に頬を摺り寄せるは可愛かったが、同時に腹立たしくもある。
無神経な抱擁など今の自分には必要なかったし、何より一人にしておいて欲しかった。苛立ちから見苦しく振舞う様を誰よりに見せたくない。そういう意味ではは今一番手塚が顔を合わせたくない存在だった。
それに医務室に行って応急処置をしてもらう間の部長代理を頼んだ大石や、大会関係者への挨拶を終えた竜崎先生とここで落ち合う約束をしている。二人以外にも誰が横切るかも解らないし、いくら手塚が第三者からの評価に疎くともここに居る人間に自分の顔が広く知れ渡っている自覚ぐらいはある。公衆の面前で中学生がこれは不味いだろう。
抱きつかれている所為で肩を突き放すこともできず、わずかに逡巡してから手塚は首に回ったの腕を外そうとその細い手首へと右手を伸ばす。
。離せ」
「てづかくんはまちがってないよ…」
それは幼児のような稚拙な発音だった。
なのにそっと囁かれた言葉に手塚はその身を強張らせた。
「あれで良かったんだよ。だって手塚君はキャプテンだもんね、みんなに対して責任があるんだもんね、全国大会で優勝するのが手塚君の夢なんだもんね、大和部長さんとの約束だったんだもんね、だから手塚君は間違ってなんかないんだよ」
の細い肩越し、手塚は呆然と青く晴れ渡った空を見上げる。
大石や竜崎先生だって気付かなかったし、チームメイトの誰だって手塚が無表情の奥で抱く思いを読み取ることなど不可能だったに違いない。
もともと感情を表に出さない上、キャプテンになってからは精錬潔白に振舞うよう心掛けてきた。
だから誰も気付かないはずだった。
それなのに何故に見抜かれてしまったんだろう。
無表情の奥の、深淵に隠した真っ黒な感情を。


決断を下したのは自分だ。
誰に指図を受けたわけでもない。
後悔はしないつもりだった。
コートに立つあの瞬間は自分の正しさを疑うことはなかった。
義務より責任より何より勝利したかった。それが正義だった。
その為になら何を犠牲にしても良いとさえ思った。
左腕も。
未来も。
なのに。
それなのに、今心の奥底で荒れ狂っている感情がある。
醜い後悔だ。
これ以上ないぐらい汚い言葉で激しく自分自身を責め立てる。
なんと愚かなことをしたのだ、と。
この先二度とテニスができなくなったらどうする?
存在したかもしれない輝かしい未来を自らの手で粉砕したのではないのか?
あんな真似をするべきではなかったのではないか?
果たしてそこまでする価値が真に在ったのか?
本当は自分は選択を間違ったのではないのか?

間違ったのではないのか?


「今までで一番かっこよかったよ…」
ふと耳に触れた冷たい感触に手塚は無意識に空へと視線を投げた。
晴れている。
けれどもう一度耳に零れ落ちてきた水滴。
手塚はを引き剥がそうと伸ばしていた右腕を静かに下げた。
晴天の雨粒。それがなかったら見過ごしていたかもしれない。
が泣いていることを。
「大丈夫……間違ってないよ…」
また耳に涙が落ちてきた。
耳の裏を滑り、失速しながら首へとさらに流れていく。
自分と違って感情表現が豊かで笑いたいときは笑い、泣きたいときは泣いていたくせに。
泣いていることを隠して今だけは平静な声を装い、いつになく強い力で自分を抱きしめる少女。
ほの暗い絶望に沈んでいた手塚の口元にかすかな笑みが滲む。
母性というものが本当に女の体内に本能的に備わっていることを手塚は初めて知った。
「泣くな」
がびくりと震える。
「泣いて、な、んか…」
それ以上は言葉が詰まり、一瞬だけ緩んだ腕が再び強く手塚を抱き締める。回された腕が背中のシャツを握りこむ感触と飲み込まれる嗚咽。
手塚の身体に注ぎ込むようにかすれた声で何度もは「大丈夫」と繰り返す。
根拠などない優しい嘘に癒される。
しかし自分の為に偽りを吐く少女に対して愛しさは募っても、その言葉に容易く頷くことができない。
今では指先ひとつ動かさなくとも左腕は激痛を訴える。
「大丈夫、絶対大丈夫なんだから。絶対、絶対、腕は治るよ。絶対大丈夫」
「ああ、そうだな」
それならどんなに良いか。
きっと瞳を見られたら本心が露見する。
だからそう返事をしながら手塚は目を閉ざした。
青空から一転、目蓋を落とした暗闇に光はない。
皮肉なことに希望を与えようとするの言葉で逆に手塚は冷えていった。
繋がった腕から届けられる痛みが希望を根こそぎ奪い去っていく。昨年の秋とは比較にならない激痛。最早痛みというよりもそれは熱に等しい。
これから向かう病院で告げられるであろう残酷な内容に覚悟を決め、そして起こってしまったことに拘泥するのを止めるよう自分を仕向ける。
この腕が元通り回復するとは到底思えない。
一生疵を引き摺ることになるかもしれない。
だが、こうして自分のことを思い遣って心を砕いてくれる人が居る。何を無くしたとしても、自分の為に泣いてくれる人間が一人でも居ることこそが幸せというものだろう。
ならばせめてそんな人物に心配をかけるべきではない。
暗闇を抱えるのは自分一人で十分だ。
これ以上無様な自分を晒したくない。
手塚はがおそらく望んでいるであろう台詞を口にした。
「お前の云うとおりだ。きっと大丈夫だ」
しかしそれが口先だけで、けして信じてなどいないことすら見透かしたのか、偽りを責めるようにが悔しそうに手塚の背中を打つ。
弱々しい力で何度も背中を叩き、強い口調で必至に言葉を重ねる。
「私、毎日お祈りする。手塚君の腕が完治するように。ねぇ、きっと世界中のどこかに手塚君の腕を治してくれる人が居るよ、お金が必要なら私バイトもするしなんだってその人のいうこときく、それで絶対直してもらうの」
現実感の薄い言葉は余計手塚の諦めの心を誘った。
少々呆れた気持ちで手塚は閉ざしていた目を開け、右手を伸ばしての小さな後頭部をなだめるように撫でる。
「少し落ち着け。何でも云うことをきくなどできるわけがないだろう。死ねと云われたらお前は死ぬつもりか?」
のしがみつく力が強くなった。
まるで溺れているようだと手塚は思う。
「いいよ、死んだって。手塚君の為なら命だってあげる」
手塚は溜息を吐いた。
馬鹿なことを云っている、と。
どうもは少々興奮しているようだ。
を身体から離す為に一旦は下ろした右腕を再び伸ばす。いい加減そろそろ離れた方が良いだろうし、それに危惧した通りにの言動に少々苛立ち始めている。
「馬鹿なことを…」
「バカなんかじゃない!」
耳元で叫ばれて、思わず手塚の身体が後方に逃げた。一瞬だが咄嗟に左腕を突いてしまい、走った痛みに顔を顰める。
だがはもっと容赦なかった。
手塚の身体を突き飛ばすようにして離れると、膝立ちの姿勢のまま手塚の頬を平手で打ったのだ。
痛みより殴られたことに驚く手塚を涙目で睨みつけ、さらには声を荒げる。
「あたしは本気だよ!だってテニスできなくなったら手塚君どうするの!?みんな手塚君のことを天才だとかいうけどそうじゃないでしょ!朝錬だって放課後だってみんなより努力してた!バカな奴に怪我を負わされたりイヤミ云われたり嫌がらせされたりいっぱい我慢してやっとここまで来て、なのにこんなたった一回の試合でそれが全部駄目になっちゃうの!?ねぇ、それでいいの?最後の試合が負け試合でいいの?何達観したみたいな顔してんの?もっとちゃんと考えて!ねぇ、手塚君は本当にこれでいいの!?」
口を挟むこともできず黙っていると、堪えきれなくなったようにの顔が歪んだ。
「あたしは…あたしはそんなのイヤ。それぐらいならあたしが死んだ方がいい…ねぇ、どうしてなの?どうして手塚君ばっかこんな目に遭わなきゃならないの…?」
の目から涙が溢れ出し、自らが殴った手塚の頬を今度はそっと撫でる。その指は頬を辿り首へと下り、そして手塚の頭を引き寄せて自分の肩へと押し当てた。
そして震える声を搾り出し、もう一度きつく手塚を抱き締める。

「でも大丈夫。あたしが絶対治してあげる。あたしが手塚君を護ってあげる」





試合が決したのか、目の前のコートでひときわ大きな歓声が上がる。
コートで生まれる音たちはさっきまで手塚の劣等感を刺激した。その音への苛立ちの中には自分が二度と立つことを許されないかもしれない場所への憧憬と、そこに立つことを許された者への自分勝手な嫉妬が隠されていた。
だがもうそんな雑音、気に障ったりしない。
そんなものどうでも良かった。
浅ましい後悔も消えている。
抱き寄せられた視界は暗闇。
の身体と髪と心が檻となって手塚を閉じ込める。
けれどそれは暗闇であって暗闇ではない。
誤った選択をしたのではないかという自分への誹り、そんな選択をせねばならない状況に自分を陥れた周囲への怨嗟、そして居るかどうかも解らない神への呪詛は浄化され、その代償に手塚の胸には温かい光が生まれた。
何故自分ばかりがという醜い憎悪も全て自分の代わりにが吐き出してくれた。
右腕を伸ばす。
そして痛む左腕を動かす。
ほんの些細な動きでぎしぎしと筋肉が悲鳴を上げるが感じない振りをする。
そしてを抱き締める。
抱き寄せて髪を撫でて、手塚は云い聴かせるようにゆっくりと囁く。
今度は偽らざる本心だということを伝える為に。
「お前の云うとおりだ。俺はどうかしていたようだ。あがく前から諦めていた。この後病院に行くがそこで駄目だと云われたのなら、また別の病院を捜す。直してくれる医者が見つかるまでそれを繰り返す。必ず腕を完治させる。そして、コートに還る」
何故かの慟哭が激しくなった。
を抱く左腕に視線を落とす。
自ら壊そうとしていた左腕に。
動かすなと云われていたのに動かさずにいられなかったのは、中途半端な壊れ方をするぐらいなら修復不可能なまでに壊してしまいたかったからだ。
例えかろうじでプレーすることができたとしても、これまでのように思い通りに動かないかもしれない。ならばいっそラケットが握れないほど滅茶苦茶になってしまった方が気が楽だった。いつまでも再起の希望にしがみつき、いつ終わるかも解らない治療を延々続ける苦痛から逃れる為に破壊を選んだ。
何故なら逃げる方が戦うより容易いのだから。
けれど手塚はもう逃げない。
何よりがそう望むのだから。
壊れたのなら直すまでだ。
どれほど長く、どれほど辛くとも必ず。
「必ず、直す」
縋りつくが泣きながら何度も頷く。「絶対大丈夫なんだから」と涙に混じって声が届く。
「ああ、そうだな」
だが、手塚はにひとつ嘘を吐いた。
本当はこうしてやわらかい身体を抱き寄せているだけで刺を抱くように激痛が走っていた。
その痛みのひとつひとつがさらにこの腕を壊していくのかもしれない。
直すと誓いながら壊す行為を同時に行う矛盾、それを隠した。
しかし別にそれでも構わなかったのだ。
もしを胸に抱いたこの所為で腕が壊れても構わないとさえ手塚は思っていたのだ。
今こうしないことの方がきっと後悔する。
例えこの先テニスができなくなっても自分は生きていける。

再起を渇望しつつ、だがそれ以上にこの左手に最後に残るのがならもうそれだけでいい、そう思ってしまったのだから。