揉みあうというにはあまりにも一方的だった。
 当たり前だろう、長身の鳳君と小柄な私じゃ話になるわけがない。
 腕を掴まれた私は呆気なく鳳君へと引き寄せられ、その拍子に手から滑り落ちた鞄が左足の真横でドスンと鳴いた。見掛けよりもかなり重いそれがあたらなくて良かったなんてことを考えた隙に首筋を撫でられて生理的な反応で肌が粟立つ。悲鳴なのか罵声なのか、我ながら色気のない声を上げたところで目が合う。
 鳳君は苛立った目で私を見ていた。
 そのくせ片手で私の身体を拘束し、もう片方で半ば無理矢理顎を上向けさせる。私は彼のその行為自体にではなく、彼の動きが明らかに慣れていることの方にムカついた。
 だってこんなの可愛い可愛い鳳君にふさわしくないじゃない。
 自分勝手極まりない理由だが、さっき感じた恐怖なんてすっかり消え失せて酷く腹が立った。何を云おうとしたのか自分でも定かではないが口を開こうとして、けれど、彼が次にしようとしていることがまるで天啓のように頭の天辺に突き刺さたから思わず口を噤む。
 古ぼけたライトの下、鳳君の薄く開いた唇が呼吸をしたのが解った。
 それが何の為の準備が解った。
 キス以外の何物でもない。
 思わず見蕩れた。同時に鳳君の身体を押し返そうとしていた腕が鈍る。ろうそくの炎が一息で吹き消されたみたいに抵抗するのが急に馬鹿らしくなった。鳳君の唇はとても美味しそうに見える。私は彼に少なからず好意を抱いている。
 なのに何故拒む必要があるのか。
 その思考が毒のように私の四肢を一瞬にして溶かした。束縛を拒絶していたはずの身体がじわりと鳳君へと靡く。あからさまに身を預けたわけじゃない、ただ肘が微かに触れただけ。でも私の心変わりを伝染させるにはそれで十分だったようだ。
 唐突な敵意の消失に鳳君の腕が僅かに緩む。彼の纏う空気が変わった。その気配に私は眉を顰める。
 私は受容したのにどうしていまさら揺らぐのだ。
 鳳君は悪い魔法が解けたみたいにすっかり可愛い後輩の顔に戻ってしまっていた。
 今にも謝罪を叫びだしそうな目で私を見下ろしている。そんなものはいらないのに。口付ける為に用意されたはずの唇が今にも別のことに使われようとしている。舌打ちしそうだ。
「抵抗されないと燃えない?」
 後になって考えると我ながら穴があったら飛び込みたいくらい恥ずかしい台詞だ。今後二度と使う機会はないと思いたい。
 でも、効果はあった。今にもごめんなさいと謝って私を解放しようとしていたくせに、逃げる素振りに腕の力は強まった。本能に忠実なその反応が可笑しい。こんな状況なのに私が笑うと、戸惑いを浮かべた可愛らしい顔がゆっくりと硬くなっていき、そして不快げに歪められていく。
 ああ、意外と眼鏡似合うかもなあ。今みたいな表情で是非かけてほしい、鬼畜眼鏡キャラっぽい感じに。
 だからこんな状況なのにあまりにも危機感の足りない自分が可笑しくてまた笑いそうになって、でもそれより先に深く抱き寄せられた。
 身長差があるから仕方がないとはいえ、またしても思い切り強引に顎を上向けられる。絶対わざとだ。殆ど直角に近い姿勢に私はまた腹が立つ。
 目が合う。
 鳳君の眉間には依然として憮然とした縦皺。けれどきっと私とて似たような顔をしているに違いない。
 苦しいだろうが馬鹿。お前がもっと屈めよ。
 罵倒しているくせに、私は目蓋を塞ぐことで睨む視線を和らげた。閉ざされた闇の向こう側で衣擦れの気配、鳳君の体温が堕ちてくる。
 そして、私も唇を開いた
 
 
 の、だが。
 いや…ちょっと…ほんと勘弁してよ。
 マジでありえない。洒落にならん、何これ。
 多分私と同年代なら誰でも知っている曲、「8時だョ!!全員集合」の「加藤茶のちょっとだけよ」で流れてた、なんてゆーか狙い過ぎてて笑えるヒワイさの曲。確かTubuとかゆうやつ。
 足元から立ち上るそのメロディが部屋の張り詰めた雰囲気を縦横無尽に破壊しているワケで。
 背後のサテンピンクのお馬鹿ベッドにはこれ以上はないほどぴったりな曲なワケで。
 うっわマジコントだわ、あはーおっかしーい。
 つーか誰だよこんなん携帯の着メロにしてるの。
 ああ、そうですね、もちろん私ですが何か。
 やっだーもーはずかしーい☆
 
 ……………………か…かおが、あげられん…。
 
 携帯が鳴った瞬間ふたりしてびくっとして、音の出所を瞬時に理解した私は鳳君の腕に抱かれたまま思わず猛烈な勢いで顔を伏せてしまったのだが、そんな中途半端な真似をするくらいなら何故マッハの速さで携帯を拾って電源を切らなかったのだ三十秒前の私よ。
 うわ、ちょ、しつけーよ跡部、まだ鳴らしてやがる、切れよ、いい加減に。奴専用の着メロをコレにしといた私への嫌がらせか、跡部のくせにセコイ真似するなよ、くそー。
 てゆーかホントこの事態に私はどうオチを、じゃない、収拾をつけたらいいの?
 今からでも拾うか?
 いやでも拾ってどうするの、出るの、それとも切ってにっこり微笑んで再開を促す?
 ……アハハハ、超ムリだわーそんなのー。
 冗談きっつーい☆
 いやだから脳内独りコントしているバヤイじゃなくてね、私はどうすればいいのよ?
 頭の方はぐるぐると益体のないことを垂れ流すばかりだし、身体の方も相変わらず機能停止中。瞬きも忘れて薄ら笑いで鳳君の革靴をガン見していたら不意に身体が開放感を覚えた。去り行く体温に絶望する。
 終わった。
 何が終わったのかさっぱりだけど、とにかく終わった。
 イメージ的にはすっかり灰と化した私の視線の先で、突き放すでもなくごく自然に腕をほどいた鳳君は、長身を折ると鞄から零れていた私の携帯を拾う。珍妙なメロディを奏でているその液晶を一瞥すると、当たり前みたいに二つ折りのボディを開いて通話ボタンを押した。
 あまりのことに私愕然。
「もしもし」
『なんでの携帯にお前がでんだよ』
 部屋が静かな所為か、それとも奴の声がでかいのか、激しく愉快そうな跡部の口調まではっきりと響いた。呪われろこのやろう。
 完全に私を置いてきぼり状態のまま、いくらでも表舞台での就職口があったろうに何でウチのような日陰部隊に来ちゃったのかというと、スカウトに行った榊司令と跡部の制服姿に『これぞ現代の正義の味方、リアルスーパーヒーロータイムだ』とまんまと騙されてしまったのね、と誰もが納得するほど跡部リスペクトオーラが初日からダダ漏れだった鳳君とは思えないほど嫌そうな顔つきで応答し始める。
先輩は今お風呂洗ってくれてます。跡部さんたちなら急ぎの用件かもしれないので、僕も知ってるZAIの人に限って対応してくれって頼まれたんです。で、用件は何ですか?」
『ああ、用件な。ところで良かったじゃねえか、経費で憧れのお姉さんとお泊り出来て』
「用がないなら切りますね」
 冷淡に云い放つと鳳君は本当にぶちっと通話を切ってしまった。
 うわあ、あれえ、この子こんな素っ気ない態度とるタイプじゃないはずなのに、むしろ凄い愛想のいい子だったのに、うわーちょっとー誰かーこの子キャラ変わっちゃってるんですけどー。
「勝手に出てしまってすみませんでした。でも先輩完全にフリーズしちゃってるから、今は跡部さんと話したりしない方がいいかと思って」
 ハイと差し出された携帯をアリガトウとか受け取って。
 ああ、そうね、確かに今奴と話したりしたらインサイト発動されるまでもなく自分から色々とゲロりしそうだわ、うん。
 未だ鈍い頭なりにもっともだわとか思っていると鳳君は跪いて私の鞄から溢れたものを集めだしたりしたもんだから私も慌ててしゃがんでペンケースやらポーチやら受け取ってまたしてもアリガトウとか条件反射で口走ってしまって、云ってから違和感というか何というか腑に落ちないものを感じたりしたわけでホント今私頭回ってない。
 名刺入れを軽くはたいている鳳君の顔を見る。
 つい自宅にいるときの癖で部屋に入るなりマナーモード解除しちゃって、それだけならまだしもよりによってあんな着メロにしといた私が悪いんだけどね。
 なんてゆーか、さっきまでの緊迫感は今何処?
「先輩、風呂入りますよね?」
 鳳君はハイでもローでもない、起伏が感じられない平坦なテンションで問うてきた。やっぱりキャラ違う。機械っぽい、っていうか、何考えてるのか解らなくてちょっと怖い。
 でも、渡された名刺入れを鞄に収めながら私もなんでもない素振りを繕う。
「あ、うん、入るけど鳳君先どうぞ。君のが濡れてるし、私、髪乾かしたりいろいろ時間かかるから」
「そうですか、じゃあお先に失礼します」
 あっさり云い放って鳳君が立ち上がる。文字通り見上げるばかりの長身に私は一瞬たじろいだ。
 思わず身構えたものの、鳳君は振り返りもしなかった。黙って浴室へと消えていく。
 私はしばらくそのままでいた。
 しゃがんだまま意味もなく鞄の中身の整理を繰り返す。
 やがて水音が聞こえ始めた。
 身を起こしたが足が痺れていてすぐに動けそうにない。麻痺しているとき特有のちりちりした痛みを棒立ちのままやり過ごしていると、営業停止中だった脳ミソが漸く活動を再開し始めて段々地味に怒りが湧いてくる。
 これは『魔が差しただけ』と彼の中で処理されたってことでFAだろうか。
 安易に身をゆだねようとした時点でその後何が起きようが私が被害者面する資格を失ったことは解っている。大人なんだしお互い様だというのも当然理解している。でもなんか納得いかない。
 ベッドの足元に置いてある趣味の悪いサテンのクッションが目に入る。
 足早に近付くと、私はその物体をピンヒールで力いっぱい踏み躙った。



 洗面所を出ると部屋は薄闇に覆われていた。
 ダウンライトなんてないらしく、玄関付近のものがひとつだけ点いていたがそれで十分室内の様子は見て取れる。
 明かりの下ではグロテスクなほどのピンク色をしていたベッドは今は黒く沈んだ色へと姿を変えていた。うっすらと光を浴びた場所だけが艶々と濡れたように輝いている。
 安っぽいスリッパは歩く度にぱたんぱたんと喚いた。まるで子どもがふざけているみたいでまったくこの空間にふさわしくない。雨を掻き分けてごうごうと走り去る車の音が薄い壁をすり抜けて断続的に部屋を穿つ。私はベッドの前で足を止めた。
 きっちり半分より右側になだらかな稜線が描かれている。薄暗いが目を凝らすまでもなくこちらに向けられている後頭部と静かに上下している身体は判別できた。
 数秒突っ立ってみたが何の反応もない。溜息も出ない。
 冷たい沈黙の中、私は無表情で空いているスペースに身を滑り込ませた。
 枕がやわらかすぎて気持ちが悪い。天井にいるもう一人の私は能面のような顔をしている。
「さっきはすみませんでした」
「なにが?」
 眠ってなどいないことは解りきっていたから、驚きもせずに氷の塊みたいな反応を瞬時に打ち返す。
 唇しか動かしていない鏡の中の私は死体みたいだ。隣の鳳君もそう。今私たちはベッドではなく棺桶に横たわっているのに違いない。だとしたら私たちを包むこの暗澹とした圧迫感はむしろ当然のものなのだと納得出来る。
「乱暴な真似を働いてしまい、申し訳ありませんでした」
「謝るならちゃんと人の顔みたら」
 返事がない。ただの屍のようだ。
 この状況にか、可愛げのない自分に対してか、細い吐息が漏れる。
 もう寝よう、そう思ったのにこれも一種の未練なのか、私の唇は予想外の直球を吐き出していた。
「で、謝るってことはなかったことにしたいってこと?」
「ええ」

 う っ わ ー 。

 まさに冷水を浴びせかけられた気分。
 ちょっと天井のさん、びっくりしたのは解るけどあなたちょっと目玉かっぴらきすぎ、この世の終わりに直面したような顔してる。
 しかし、うわあ、お風呂に浸かりながらこの展開も考えていたけど、ここまできっぱりはっきり単刀直入にくるか。
 うわ、ちょ、やばい、泣きそうかも、やばい。
「…嫌なんですよね」
「え?」
 横を向いたら涙がこめかみを流れる感触がして私は焦った。悟られないよう素早く且つ慎重に髪をかきあげるふりをしてさりげなく目尻を拭う。
「状況に流されて非理性的な行動をするの。さっきあんなことをしておいて云える立場じゃありませんけど、今日こんな状況であなたに手を出したくないんです。不誠実な態度をとりたくない。だから今日のことは忘れてください」
「…それだけ?」
「ええ」
「私の理解力がおかしいのかもしれないけど、なんかこの状況じゃなければ手を出したいって云ってるように聴こえたんだけど」
 手を伸ばせば届く位置にある後頭部から返ってきたのは沈黙。
 けれど、その沈黙はさっきまでのものとはまったく違う。むしろじわじわと冷えた心を温めて、ちりちりと私の胸を擽った。零れそうになる笑みを隠す為に口を開く。
「ねえ、ひょっとして鳳君て私のこと好きなの?」
 すぐ真横にある背中が硬くなる気配がした。
 凝っていた空気が静かにひび割れて、背を向けていた身体が緩慢にのそりと動く。衣擦れの音と共に伸ばされる黒い影を待つ。重みで枕が揺れて一緒に身体も揺れた。
「……そういうこと訊きますか、この状況で」
 鑑の中で私は笑う。
 両手を私の頭の横に突いてこちらを見下ろしている鳳君の方は不快げに目元を眇めている。
 同じことを同じ人にされているのにもう怖いとは思わなかった。
「私はねー鳳君のこと好きかもなー」
 そう云うと鳳君は面喰ったように一瞬身じろぎした。でもすぐさま忌々しそうに顔を顰めて右手で枕に散っていた私の髪に触れる。
「かも、ってなんですか」
「かもしれない、ってこと。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「……さん、鬼ですか」
「え? さん? 先輩じゃなくて?」
 これ以上ないほど憮然とした表情で、鳳君は弄んでいた私の髪を手放す。同時に頭上を覆っていた影も去り、視線の先に喜色満面の笑みを浮かべた私の姿が現れる。
「もう寝ますよ。目覚まし七時にセットしましたけど、それでいいですよね」
「ねえってば、長太郎君は私のことが好きなのー?」
 不機嫌な背中から返ってきたのは耳慣れない単語ひとつだった。


「イレブンナイン」


 私が唐突に放った一言に鳳君が振り返る。
 その怪訝な顔に向かって私は空気を読まずにニコニコと微笑みかける。
「やっと意味解ったわー。この間跡部に教えてもらったの、9が11個並ぶからイレブンナイン。半導体結晶の純度を示す値で、99.999999999%という限りなーく100%に近い純度で精製された結晶のことなのね。あの質問に対して限りなく100%って返すということは、ある意味遠回しに愛の告白されちゃってたみたいね。ごめんね、気付かなくってー」
「…さん」
 半分以上顔を出していたファイルが無情にも元の位置へと押し込められる。
 わざわざ身体ごと私に向き直ると、鳳君が心から呆れたように嘆息した。ちなみに心から呆れたのところは心底バカにしくさったにも置き換え可。最近のこの子は私の前では徐々にいいこちゃんの仮面が剥がれ始めていて、その生意気な口ぶりや態度もなかなか趣きがあってよろしい。
 微かな換気扇の音しか存在が許されていないはずの資料室の静謐を、鳳君はスチールラックの空きスペースに抱えていたファイルを乱暴に積み上げることで無遠慮に破る。
 そしてあの夜と全く同じに手を伸ばす。
「学習能力のない人だな。何で密室でふたりきりのときにあのときのことを持ち出すんです。俺を挑発するとどういう目に遭うかこの間ので解らなかったみたいですね。みんなさんのことドSだって云ってますけど、実はドMの間違いなんじゃないですか」
 またしても檻に閉じ込められた。おっとりしているように見えて実は意外と束縛とかするタイプなのかもしれない。
 威嚇するみたいに見下ろされたが、私は場違いに微笑む。
「あらあ、残念ながら苛められて喜ぶ趣味はないのよねー。だって長太郎君は私に手出し出来ないんですもの」
「何故? ああ、監視カメラですか。残念ながらそのカメラを管理しているのは僕です。いじろうと思えばいくらでも改竄出来るし、コピーをとることだって可能です」
「まあー長太郎君は凄いわねー」
 ぱちぱちと手を叩くと焦れたように眉間に皺が刻まれる。
 右手がラックから離れ、私に向かって泳ぐ。けれど、その指先は肩にかかっていた髪を一房掬い上げただけだった。
 鳳君が悔しそうに私を睨む。
「何故俺が手出し出来ないと確信しているんです」
「自分で云ったじゃない、不誠実な態度をとりたくないって」
 だからどれだけ私が隙だらけであろうと鳳君はお互いの合意が得られないままその隙を突くことはない。潔癖なのはいいが少々苛々する。あれからいったい何日経ったと思っているのだ。
「意思の確認もなしに私に触れるのは不誠実な態度でしょ」
 鳳君は一瞬だけ目を見開いて、すぐに自嘲的に唇の端で笑う。
「…俺はあなたが好きかもしれない」
 私も笑った。悪戯に指に巻き取られていた髪がしゅるりと音を立てて解放される。頬に触れる指先の感触に私はさらに微笑みを深くする。
「そうなの? それってどのくらい?」
さんは俺のことが好きかもしれないんですよね。どのくらい?」
 
「イレブンナイン」

 図らずも綺麗にハモった。
 覚えたての言葉にはしゃぐ幼児みたいに笑い合う。
 指先に促され、私は目蓋を閉じて顎を上げた。