私はそっと右隣を仰いだ。
 ……やっぱり。
 鳳君は子どもみたいに無防備な表情で固まったまま微動だにしない。
 なんていうか、神経質な理数系ほど突発的状況に弱い気がするのは大雑把な文系の僻みだろうか。
 まあ、この状況ならいっそお手本にしたいくらいの茫然自失ぶりも仕方がないとは思うけど。
 東京駅を出るときからやばそうだねー早く帰ろうねーと云っていたものの、モノが超高額の画像解析機器な上、上司からはお前が必要だと思うならば買えと信頼という名の責任放棄をされ、学会で発表したことはあってもタヌキ相手の交渉なんてしたことない『ザ・お坊ちゃま(忍足命名)』がどうしても買わせたくてしかたない百戦錬磨の営業からの接待を断り続けることなど出来るわけもなく、いわゆる高級料亭で自分の父親ほどのオッサンから酌をされて恐縮しまくりで、またしても始まった売り込みトークを馬鹿みたいに真面目に聴いたりするもんだから料理に箸をつける暇もなく、そんな彼の代わりに私が美味しくすべてを平らげた二十一時を回ったところで「そろそろ鳳主任もお疲れのようですので〜」と笑顔という名のゴリ押しでお開きにさせて、まだご馳走様でしたとか頭を下げている袖を引っ張って黒塗りのハイヤーに押し込んでほっとしたところで告げられたのは残酷な一言。
『お客さん、お宿の方は大丈夫ですか? この天候の所為で飛行機も電車も止まってしまっているんですが』
 二人して一瞬まっしろ。
 とりあえず駅に向かってもらったものの、窓を打つ雨音の激しさに絶望感のみが募っていく。徐行運転のおかげでいつもならとっくに着いているはずの駅は未だ見えず、運転手さんが気を利かせてつけたくれたラジオも好転どころか更なる事態の悪化を伝えてくるばかり。
 私はこれはもう無理だと溜息を吐きながら携帯を取り出した
 
 
 のが約一時間前の話なのだが。
 で、だ。
 飛行機は飛ばない、新幹線も止まっている、おまけに時間も時間、状況も状況でやっと確保出来たのが何と古臭いラブホの一室という笑うしかないオチに今まさに到達したところだったりする。
 いや、でもね、これ以上探し回るには気力も体力も限界でもうここでいいよねしょうがないよねってお互い納得の上で入ったんだからラブホなのはまだいいんだ、問題はまさかここまで悪趣味な内装だなんて夢にも思ってなかったことなわけで。
 接待で足止めされて台風で帰れなくて後輩とラブホで一泊なんて一昔前のトレンディードラマみたいなオチだけでお腹いっぱいだったんだけど、まさか更なるネタに襲われるとは思わなかったよ。
 うわーすっごーい(棒読み)。
 何で今時天井が鏡張りなのー?
 シーツがドピンクなのー?
 ベッドが円形なのー?
 いやあ、もういっそ清々しいまでに悪趣味。
 忍足とか日吉にまたお前のネタ遭遇率は異常とか云われそうだなあ。
 とりあえず写メるか。
 溜息を吐きつつも鞄から携帯を取り出そうとして、私は隣の可愛い可愛い後輩が未だに石化したままなことに気が付いた。
 どうもあのオッサン連中は私のことを鳳君の秘書だとでも思っていたようだが、どちらかといえばお目付け役の方が正しい。業務の性質上彼の方が役職が上なものの、実務経験重視の職場なのでキャリアの長い私の方が立場が強い。
 今回は鳳君しか使わないというか使いこなせないであろうモノのため、前述の通り上司が彼にすべての判断を委ねたものの、昨年まで院でぬくぬくと研究に励んでいたような人物をひとりで行かせるのはいくらなんでも鴨ネギ過ぎるだろうと私がつけられたわけだが、本当にカモられそうになるまで奴に対応させろという跡部の指示を真に受けてみたので私は大人しくタダ飯をむさぼっていただけだ。ときどき鳳君が縋るような眼差しを向けていたような気がしたが極上の鮎が見せた幻に違いない。
 慣れない商談にオッサンどもの相手、移動の疲労に加えお酒まで入っているところにテカテカのドピンクサテンシーツなんて突きつけられたんじゃ、そりゃあ普段は恐ろしく頭の回転が速いこの子でも思考停止に陥るわよねぇ。
 私は何気なくその腕に手を伸ばした。
「ほら、いつまでもぼうっとしてないで」
 風邪引くから早くシャワー浴びてきなさい、って続けるつもりだったんだけど。
 室内は微妙な沈黙で満ちていた。
 ヤア、コンニチハって感じの位置に右手を浮かせたままの私は傍から見たらさぞや滑稽だろう。
「あ…す、すみません、ちょっとびっくりしちゃって」
 …………ちょっと待て。
 軽く腕にさわったくらいでびくっとされた上、何おどおど謝られてるの、私。
 てゆうか何でこの子の方がそんな女の子みたいな反応するのよ。既に今後のネタにしようと三秒で立ち直って写メろうとまでしていた私の方がよっぽど男らしいじゃない。
 そういえばさっきの狼狽えようも凄かったな。車の中で悪天候により帰還は不可能なので泊まりますって上司に連絡いれたら、鶏が首絞められたような奇声発してたっけ。
 ということは。
 さっきは相談もなしにさくっと宿泊決定しちゃったことに単に驚いただけと片付けていたが、これはアレか。
 そんなにイヤということか、私とのお泊りが。
 あれー嫌われてないと思っていたんだけどなあ。宍戸にあからさまに贔屓してんじゃねーよと詰られても向日にずいぶんデケエ猫被ってんなーとせせら笑われても華麗にスルーで、私はそれはもう健気に懇切丁寧に優しく接してきたつもりなんだけどなー。
 うわ、痛いな、これ。
 やだなあ、私ひとりで空回ってたのか。恥ずかしいし、いろんな意味で本当に痛いなあ。やだなあ、馴れ馴れしいとか思われてたり、それどころか迷惑だったかもしれないわけだ、うわあ。
 出来たばかりの傷口から目を逸らしながら、私は努めて平静に腰に手を当て鳳君を軽く睨んだ。
「あのねえ、そこまで嫌そうにしなくてもいいじゃない。しょうがないでしょ、帰れないんだから。そりゃ、私と一晩過ごすのは不本意かもしれないけど」
「違います!」
 いきなり大きな声を出されて私はちょっとよろめいた。自分でも驚いたのか声をあげた本人も目を丸くしているが、きっと私も同じような顔をしているに違いない。
 視線が絡むと鳳君は僅かに頬を染めて顔を背けてしまう。
 その瞬間、私の胸に去来したのは萌えだった。
 机が目の前にあったなら突っ伏してバンバン叩きたいくらいだ。その可憐な仕草に思わず私はTPOも弁えずうっかりちゃっかりときめいた。
 ああ、だからこの子はなんでこんなに可愛いんだろう。
 上司の榊氏を筆頭に跡部と忍足は云うに及ばず、最年少の日吉ですら可愛げなんて塵ほど持ち合わせていやしない。そんなむっさい連中ばかりの職場だったから、この子が配属されたとき私がどれほど嬉しかったことか。私が求めていた癒しはこれだったのかと我がことながら初めて理解した。
 さっきの傷心なんてどこ吹く風で、ついその愛らしい様子を内心ニヤニヤしながらガン見していると鳳君は居心地悪そうにかすかに眉を顰める。
 ああもうほんとでかい図体にこの繊細さというアンバランスさがたまらん。同じようにガン見しても跡部なんか絶対『お前何俺様に見惚れてんだよ』と薄ら笑いを浮かべるに決まっている、だからどれだけ顔が綺麗でも萌えられないんだよ、あの男は。
 それに比べて鳳君は素直で驕ったところがなくて愛嬌がって、ああもうほんと癒されるわあ。
「…あの、誤解しないで下さいね、先輩」
 一瞬だけちらりとこちらを窺ったもののすぐにまた視線を逸らす。この可愛さは最早異常だ。私が黙っているのをどう解釈したのか、ばつが悪そうにネクタイの結び目をいじり始める。
「別に…先輩と泊まるのが嫌とかそういうんじゃ断じてないんです。そうじゃなくて、なんか俺びっくりしちゃって。その…なんていうかあんまりにも違うから」
「違う?」
 意外な台詞に私が首を傾げると、鳳君ははっとしたように口元を手で覆った。
「違うって何が?」
 再度問を重ねたが鳳君はあらぬ方向に視線を彷徨わせる。明らかに不自然極まりない。この子誤魔化すの壊滅的に下手ねえなどと思いつつ、無言でガン見し続けていると観念したのか漸く私と目を合わす。
「だから…前の彼女と入ったとことですよ。そこはもっと普通のホテルっぽかったのに、なんでここはあんな……」
 尻すぼみになっていく語尾に私は必死で笑うのを堪えなければならなかった。
 ああ、どうしよう、この子可愛すぎる。
 純粋培養というか、いまどき擦れてないというか、抱き締めて猛烈にもふもふしたい気分だ。
 だが、実際にそれをやったら痴女の烙印を押されかねないので、ドSと呼ばれる私がしたのは真逆のことだった。
 私はにっこり微笑んだ。
「ああ、なるほどね、うん、最近出来たようなホテルじゃあんなピンクの回転ベッドなんて置かないでしょうね。で、鳳君は彼女と何をするためにホテルに入ったのかな?」
 そんなことを云われるとは夢にも思っていなかったのだろう、鳳君はぽかんとしたあどけない視線を私に向けてきた。
 まるで不思議な生き物を見ているような眼差しが可笑しくて我慢出来ずに噴出す。それで漸くからかわれたことを理解したのか、鳳君の眉間に不快を示す皺が寄った。一瞬罪悪感に似た感情が脳裏を掠める。
 でも、このときの私には不機嫌そうなその表情すら可愛く映ってしまっていて、そんなもの大した抑止力にはならなかった。言い訳をするなら、このときの私は軽く躁のスイッチが入ってしまっていたのだ。
 正直に告白するとこの可愛い後輩に嫌われているかもしれないということが私にはかなりショックだった。だが、それがどうやらそうでもないらしい。ほんの数分間に地獄と天国を往復した反動が私を子どもじみた意地悪へと走らせていた。
「中学生じゃあるまいし。何を云わせたいんですか」
「まあ、そうよね。目的なんてひとつだもんね。じゃ、何回ぐらいこういうとこに来たの?」
先輩には関係ないことです」
「好みのタイプはー? あ、その前にこれまで何人と」
「いい加減にしてください」
 明らかに苛立った声で吐き捨てられて、私は流石に口を噤んだ。
 部屋に沈黙が広がって鳳君は気まずそうに微かに唇を噛む。けれどすぐに微妙な空気を振り払うみたいに笑顔を作った。
「それより風呂ですよ、濡れたままじゃ風邪引きますから、先輩、先どうぞ」
 私もにっこり笑顔を作った。
「あら、君が殆ど私の方に傘を傾けていてくれたおかげで私はそんなに濡れてないもの、長太郎君こそお先にどうぞ」
 瞬間、鳳君は中途半端な笑みのまま凍り付く。
 さらに次の瞬間には右手が彼の表情の殆どを覆っていたが、隠される直前、その頬が朱に染まったことを私は見逃さなかった。
 …………ええと、何て申しましょうか、私の頭の中のお花畑を蝶々が高速で飛びまわっているというかなんというか。
 いくら可愛くても鳳君はもうとっくに成人した男性なのに、拭うような荒々しさで甲を押し付けた仕草が潔癖な少年みたいで、その外見とのアンバランスさが逆に妙な色気を醸し出していた。おまけに眇められた目元と顰められた眉間。その歪んだ表情につい見蕩れてしまう。これ以上ドS認定されたくないので口にしたことはないが、正直男の人の苦しげだとか我慢している様にはそそられる。まったく鳳君ときたらそんなに私を喜ばしてどうするというのか。
 名前くらいで赤面する鳳君の純粋さも自分のその邪な思考も何もかも可笑しくて、私は我慢出来に声をあげて笑ってしまった。
「ほら、上着脱いで、タオルとドライヤーで乾かしてみるから。湿っぽかったら明日の朝嫌でしょう?」
 私が笑いながら手を出すと、鳳君ははっきりと目元を険しくしていた。からかい過ぎたかと胸が冷えたが、鳳君は云われた通りに上着のボタンに手をかける。
 内心ほっとして、とりあえずタオルはと部屋を見回していると、ちょうど背を向けたベッドの方でばさりと布がはためくような音がした。
 その音に何気なく振り返るとベッドの上に鳳君の上着がある。放り投げられたと思しきそれは自分の重みに耐えられず、ベッドの端からずるずると床に向かって落ちていくところだった。
 手を出しているのに何であんなところに、と思ったところでまた衣擦れの音。
 鳳君に顔を戻すと、ネクタイを引き抜いたところだった。
「六回です」
「え?」
 何が、という問いが咽喉に痞えた。
 さっきは赤い顔を隠す為に使われていた右手が開かれる。蛇のように空を這ってネクタイは小さな山を築いていく。二人して黙ってそれを見守っていて、何だか急に鈍くなってしまった気がする頭の片隅であれ私たち何やってるんだろうって思ったところで、見たこともないような無表情の鳳君が一歩私へと踏み出した。
「だから、六回ですよ。俺が過去この手のホテルに入った回数は。お互い独り暮らしだったから普段は自分たちの部屋で済ませてましたから」
 背中が壁に当たって私は驚いた。いつのまに私は後退していたのか。
 表情を消し去ったまま鳳君がまた一歩踏み出す。自分に向かって伸ばされる腕に、私はおもわずびくりと肩を揺らした。
「何回ですか?」
 とん、と耳のすぐ横で軽い音。
 肩のすぐ上に突かれた手のひらは『檻』という単語を連想させた。
さんは何回男とこういうとこに来たんですか?」
 鳳君がライトを背にしている所為で、その影が私を覆いつくしていた。おかげで室内に居るのに日陰に居るような感覚が現実感を侵食してくる。
「俺は質問に答えたのに、自分の番になったらだんまりですか。ずいぶん卑怯ですね」
 卑怯、という響きに我に返る。
 反射的に顎を上げそうになったが、目の前に鳳君の喉仏を見つけて慌てて視線を下げた。自分でもどうして俯いたりしたのか解らなくて、どうしてと自分で自分に問いかける。自分のことを自分に訊ねるなんてそんな間の抜けたことをしている自分自身を馬鹿だと笑いそうになって、漸く私は今自分が酷く狼狽していることを自覚した。
「あとはなんでしたっけ。好みのタイプか。そうですね…小柄な女性は好きですよ」
 私は今恐ろしく狼狽えていて慌てていて落ち着きを失っている。
 そして何より怯えている。
 鳳君と目を合わすのが怖い。だって、顔を上げたらきっとそこには私の知っている『可愛い鳳君』じゃない『誰か』がいる気がする。
「どうしてだか解りますか?」
 このとき、多分本能で私の身体は動いていた。
 非常に原始的な理由だ、頭で考えるより先に身体の方が危険を察知して逃げようとしたのだ。
 なのに。
「自由を奪うのが楽だからですよ」
 私は逃亡に失敗した。