本当にそれは偶然。
たまたま触れてみたドアノブはくるりと回った。









「手塚君!」
押し殺した声。同時に興奮しているのがはっきりと解る乱暴な仕草で手塚の学ランの裾が揺さぶられる。
書架に本を戻す作業を中断させられた所為かそれとも制服を引っ張られた所為か、僅かに眉間に皺を寄せつつも手塚は律儀に振り向く。
見下ろす先では小柄な少女が全開の笑顔を浮かべていた。
「手塚君、手塚君!」
手塚のその表情をまったく意に介した様子もなく、は再度名を呼ぶ。さらに一生懸命背伸びをして耳を貸せというように手招きをする。手塚の眉間の縦皺は深まったが、それでも要求通りに屈んでやった。
「あのね!開かずの扉が開くの!」
一瞬怪訝そうな表情を浮べた後、の来たと思われる方角を見やり手塚は納得がいった。開かずの扉とは云えないこともない。
あの方向には閲覧禁止の部屋があったはずだ。
彼らは図書館に居た。
「室」ではなく「館」と云うだけあって、青春学園の図書室は大きなものだ。小中高、大学兼用なので地下2階を含め計6階建ての広大な面積と蔵書量を誇る。日直の2人はここに世界史の授業で使った本を返しに来ていた。
手塚の手にある本がそれなのだが、何もが手塚に仕事を押し付けてさぼっているわけではない。見ての通りは小柄だ。142センチしかないでは手伝いたくても最上段の書架に手が届かない。自分のできる範囲の物を仕舞い終えたは手塚の仕事が終わるのを待つ間何となくぶらぶらしていたのだ。
曲げていた膝を伸ばすと手塚は中断していた作業を再開した。
「ね、見にいこう?」
「駄目だ」
ハードカバーの本を棚に押し込みながら手塚はにべもない云い方をする。大概の人間はそれで撃沈するのだがは怯まなかった。
「何で?こんなチャンスこれから高校行って、大学行ってもないかもしれないんだよ?」
「見つかったら拙いだろう」
「大丈夫だって。ほら早く行こうよ、閉まっちゃうよ」
「駄目だと云っている」
「ほーらー。はーやーくー」
袖を掴んで引っぱっていこうとするの頭上で、手塚は重厚な溜息を吐いた。
「いい加減にしろ。どうしてお前はそう聞き分けがないんだ。中はどうせ本があるだけだろ。しかも普段鍵をかけてるくらいだから高価なもののはずだ。傷でもつけて問題になったらど」
「あっそ!じゃ、もーいいよ」
鬼部長の台詞を遮るなどという部員なら恐ろしくてできない真似をした上、は手塚を睨みつけた。
一方手塚の方は髪一筋も表情を乱すことなく平然とを見下ろした。第一睨む、というよりほとんど上目遣いになっているだけでまったく可愛いものなのだ。
怒っているのに、どこか悔しそうな哀しそうな瞳では手塚を睨む。
「こんな面倒な仕事の日に日直になって、でもご褒美みたいにせっかく面白そうなこと見つけたから手塚君と半分こしたかっただけなのに、もういい、そんなこと云うなら。
あたしだけで探検ごっこして、ひとりで見つかって怒られて、いつのまにか傷付けた本のせいで大問題になって、それで学校に居られなくなって、手塚君とも今日でばいばいだけど、もーそれでいい。じゃあね」
云いたいことを云いまくると、くるりとは背を向ける。一人で探検ごっことやらに向かうつもりなのだろう。

怒っているはずの細い背中を呼び止める。呼び止めてやはりと思う。脚を止めただけでは振り向かない。振り向けないのだ。
云いたい放題の台詞の中の本心。
2年以上も顔を付き合わせていれば自然とそれが解る。
「どこだ?」
自分にしては優しい声だったと思う。
横に並ぶと慌てたように手塚の手を引いて前を歩き出した。繋いだ手とは逆の手で髪をかきあげる振りをして目元を拭うのも解ったけれど、手塚は半歩後ろからごく一部の人間しか解らないほど微かな苦笑を浮べただけだった。





「うわ……」
中は思ったよりもずいぶんと広かった。普通の教室程度かと思っていたのに、その5倍以上はあるだろう。中は等間隔に背の高い本棚が並び、薄暗い黄色灯と空調の音が不思議な空間を作り上げていた。
の云った探検という言葉もあながち的外れではないなと手塚は思う。見慣れないのも手伝って不気味な雰囲気にも取れなくもない。
「…何か変な感じ」
「探検するんじゃなかったのか?」
「するよー、すればいいんでしょー」
些か意地の悪い云い方をすると、拗ねたようにずんずんと歩き出す。
自分よりも30センチ以上も小さな背中の後をゆっくりとした足取りで追う。
書架に収まった本に対してのの感想に曖昧な返事を返しながら、手塚は本よりも何となくの背中ばかりを見ていた。
自分とは余りにも違う細く艶のある髪と華奢な手足。
そんなもの自分は持っていない。
一年生の時偶々同じクラスになって、何故か周囲に一歩距離を置かれがちの自分には無頓着に話し掛けてきた。確か最初の会話では『ホントに一年生なの?』などと失礼な質問をされた気がする。
2年になってクラスが別れても、成績も良いし記憶力だって悪くないはずなのには頻繁に教科書や辞書を忘れては借りに来た。呆れて注意しても直ることは無かったし、それどころか『だってどうせ忘れたってあたし専用の手塚図書館があるしー』とやはり失礼なことを云われた。
2年の間に背は伸び筋力も増し、手塚は高さと硬さを手に入れた。
反対にはあの頃と比べて殆ど背が伸びたようには見えない。けれど変わってなどないはずなのに、その身体はやわらかさと丸みを帯びたように思える。
2年前は自分ももどうせ子どもで、あの頃は性別なんて無いに等しかったのに。
それが今まで気にも止めていなかったが、何時の間にか全然違う生き物になろうとしている。
違う。
初めから違う生物だったのに、愚かにも手塚が全くそれに気付いていなかっただけか。
「…何か変な感じだな」
「それ、さっきあたしが云ったよ?」
振り向いたが笑う。それがあまりにも鮮やかだったから、封じたはずの言葉が飛び出した。が隠したいのなら見なかったことにしようと思ったのに。
「悪かったな」
がきょとんとして首を傾げた。
「何が?」
「さっき泣かせたことだ。だが、あれぐらいで簡単に泣くな。お前に泣かれると俺が困る」
大きな瞳をさらに大きくして、一瞬での白い頬が真っ赤に染まる。
「なっ、なっ、な……っ!」
「あまり大きな声を出さない方がいい」
頬を押えるの手は細い。自分なら簡単に折れるな、と妙な感想を抱きながら手塚は冷静にそんなことを云う。
あまりにも平然としている手塚を数秒訝しむように見つめ、やがては呆れたように盛大に溜息を吐いた。
「手塚君…あんまし、そういうコト云わない方がいいよ。誤解されるよ」
「誤解?」
未だ頬を染めたまま、が苦笑する。
「そ、誤解。口説かれてるのかなーって勘違いしそう」
「なら他の奴等には云わない」
冗談ぽくこめかみの辺りを掻いていたの手が止まる。ゆっくりと下ろされていく手。濃い睫毛を持つ瞳が真っ直ぐに手塚を見た。
「………ねえ。あたしが泣くとどうして手塚君が困るの?ほっとけばいいじゃない」
(変な感じだ)
とまた思った。
空調の音。圧迫感のある本棚に囲まれて、黄色灯の下の少女はガラスケースの中の出来のいい人形のようだ。
ふと手塚はその響きに引っかかるものを覚えた。
人形という言葉を選んだのは無意識だった。
だがそれはつまり深層心理で自分はは人形のように端整な顔立ちをしている、と認識しているということなのだろう。
おそらくは美人なのだ。
2年の時間を経て漸く手塚はその事実に気付いた。
そういえばクラスメートの男子にと仲の良いことを度々羨ましがられた記憶がある。おそらくあの男子はに気があったのだろう。あれはそういうことだったのか、と今更腑に落ちる。
そうやって自己完結して間にもは酷く真剣な表情で自分を見上げていて、その目はまるで手塚の言葉を催促しているようだった。
自分は今何をどうしたいのだろう?
何故あんな台詞を吐く必要があった?
だが答えを見つける前に、人工的なドアの軋みがその場を壊した。
「ひ…っ」
が悲鳴を上げそうになったから、手塚は咄嗟にその唇をてのひらで塞いだ。
「まったく…新しいのが来る度にいやんなりますなぁ」
「はは、まったくです」
の口を覆ったまま、もう片方の手で小柄な少女を掻き抱くと手塚は足音を立てぬように入り口から一番奥へと遠ざかった。
書架の隅はますます薄暗くて、そこに蹲ると黒い学生服の手塚は闇に溶けるようだった。
きゅるきゅるという台車の音、どすんという重そうなものを机にのせる音。
「ええとぉ…今日来たのは、と…」
「梁塵些少のと、あと今鏡関連と、仏典、法華経とかですから…Bでいいんでしょうかね?」
「CかBだけど…うーん、Bでいいんじゃないですかね」
「じゃ、Bの棚ということでラベルつくります」
と中を見て回ったときの事を思い出す。
何となく見ていただけだが書架のそれぞれに分類のアルファベットや数字がつけられていて、Bの棚というのは入り口から入ってすぐの所のはずだった。
黙って息を潜めていればやり過ごせるかもしれない。
そう思う手塚の骨ばった手の甲が遠慮がちに叩かれた。
手のひらの下で滑らかでやわらかい唇が何か言葉を紡ぐ感触がする。きっと離して欲しいと云っているのだろう。
それに気付いて手塚はやっと腕を解くと、音を立てぬようにそっとを自分の腹から下ろしてやった。
自由になったは息をひとつ吐くと、再び手塚に寄り添った。耳を貸せという仕草に手塚が従うと、先ほどよりも至近距離で囁かれる。
「手塚君、スパイ?」
「そんな訳ないだろう」
「だってすごい素早かったよ、慣れてるみたいに。びっくりしちゃった」
「見つかったら困るだろうが」
「そうだよね、どうする、これから?」
「運がよければあの人たちが帰るまでやり過ごせる」
「でもこっち来るかもよ?」
「整理する本は入ってすぐのBの棚らしい。この16の棚には気紛れでも起こさない限り用はないはずだ」
「やっぱりスパイだ」
囀るような細い笑い声が手塚の頬を擽る。
見つからないように自然声は潜められ、それを聞き取るために身体は余計に密着した。触れた腕から伝わる体温は緊張のためかずいぶんと高く感じる。
ふとお互いが黙った。
ほんのわずかな距離で囁きあっていたから、それを止めるとさっきは全然気にならなかった空調の音さえも酷く大きく聴こえる。
「そういえば先生、ここ鍵開けっ放しにしてたんですか?」
「あー…、取りに行く10分くらいいいかな〜って」
「生徒が入っていたらヤバイですよ〜、探検とか云って〜」
「あはは、やばいな〜、そしたら俺、責任問題かも」
離れたところからでも、辺りが余りにも静寂だから声が良く通る。
がまた手塚に頬を寄せる。
「ね、責任問題だって」
蹲った手塚の折り曲げられた膝にはの手が添えられていた。囁くときにはその小さな手に力をこめて背伸びをするように身を寄せてくる。
「あの人たちのためにも見つかれないね」
こんな状況でも楽しそうなに手塚は、どうしてこいつはこんなに無防備なのだと思う。何となく腹立たしくてお前の行動の方がよっぽど誤解を招くと注意してやろうかと思った矢先、の方が先に妙なことを云い出した。
「手塚君、吊り橋効果って知ってる?」
「いや…」
「あのね、ゆらゆら揺れる吊り橋だとね、男の人と女の人が恋に陥りやすいんだって。
何でかって云うとね、ゆらゆらして恐くてどきどきしてるのと、恋にどきどきしてるのを勘違いしちゃうからなんだって」
出端を挫かれた手塚はが何を云おうとしているのか解らず、眉間に皺を寄せての顔を見つめた。
は困ったように微笑むと再び手塚の耳元に唇を寄せた。
「だからね、今あたしが手塚君にちゅーしたいって思うのって、ただの勘違いか、それとも手塚君にヨクジョーしてるのとどっちなんだろうね…」
憮然ではなく、唖然とした手塚の顔などお目にかかれるものではない。
それを引き出したくせには小首を傾げ、頬をわずかに染めて上目遣い気味に手塚を見つめる。
複合的な感情が雲のように胸に湧き上がった。
の顔を見つめながらそれを解き明かそうと試みる。
だがすぐに手塚は諦めたように溜息を吐いた。
感情を上手く整理することが出来なかった。支離滅裂な思考に走りそうになる。原因は抑制不可能な欲動が思考力を奪ってしまうからだ。こんな状態じゃ論理的思考なんかできる訳がない。
だから手塚は本能に任せて、一番今自分がやりたいと思うことをすることにした。
抱き寄せる必要もないほど傍にいる。
ほんのわずかの身動きでそれは叶った。






「さ、これで…大丈夫ですな」
「ええ、結構かかりましたねぇ、時間」
入ってきたときとは逆にきゅるきゅるという台車の音が遠ざかる。バタンという扉の閉まる音、そしてがちゃり、という施錠の音。
単調な空調の音と、校庭でちらほらと始まった部活動の掛け声が時折聞こえてくるだけになった。
「…行ったみたいだね」
「ああ」
「出る?」
「すぐに出であの先生たちがそこらに居ないとも限らない。もう少し時間を置いたほうが無難だな」
「でも、部活遅刻しちゃうかもよ?」
「仕方ない」
「校庭30週、するの?」
「未必の故意だ」
「え?」
未必の故意。
その行為をすることで犯罪を引き起こすことが確実ではないが、犯罪という結果が発生するかもしれないことを表象し、且つ発生するならばしてもよいと認容する場合をいう。
遅刻するかもしれないが、それでも構わないと思う。走れというなら走ってやる。珍しく自棄を起したように手塚は結果発生の容認をする。
「なぁに、密室の恋ってどういう意味?」
聞き間違えたが不思議そうに小首を傾げた。
訂正しようとして開きかけた口を閉ざす。
密室の恋。
偶発した密室で何の計画性もなしに実った恋。
それは堅苦しい言葉よりもよっぽど美しい響きに思えた。
隣に居るにも解らないほどほんの微かに手塚は笑った。
「奇蹟みたいな確率で発生したもののことだ」