あの出会いを偶然と呼ぶか必然と呼ぶかなんて、そんなものは単なる主観の問題であり、無意味でくだらない行為だと観月は考えていた。
 そもそも『見知らぬ他人同士が一日に違う場所で二度出会う』と表現するとその出会いになんら因果関係が存在しないように感じるが、『同一の趣味嗜好を持つ他人同士がその趣味嗜好に関係する場所で一日に二度会う』とするとずいぶんと印象は変わってくる。
 つまり、観月との出会いもその程度のものなのだ。せいぜい蓋然と呼ぶべき程度のことで、運命的な何かの力の介入などありえない。
 けれど、の方はそうは思っていないのは明らかだった。彼女が度々口にする『あの日の出会い』は時間の経過と共に色褪せることもなく、ささやかに装飾された繊細な首飾りとなって常にの胸の中心で輝いている。がその話を持ち出す度、観月は鷹揚に微笑むことしかしない。おかげでは観月の方もそう感じているに違いないと誤った認識を抱いている。だが、現時点で観月にはそれを正すつもりはなかった。
 何気ない仕草でその光り輝く首飾りをむしりとってやったときのの姿を想像するだけで、今はまだ十分だった。


 返却には十秒とかからなかった。
 ここまでくる移動時間の十分の一にも満たない。夕方の市立図書館は人もまばらで、人込みの嫌いな観月は清々しい気分でそこを後にしようとしていた。あとは最早用済みとなった、たった一冊の為に作った図書館カードを処分するだけだ。
「あ、あの」
 呼びかけられているのが自分だとは気付かず、危うく立ち去るところだった。数歩進んでしまってから背後に気配を感じて、それで漸く観月は足を止める。振り返った先にはセーラー服を身に纏った女子高生がいた。
「あの、お忙しいところを呼び止めてしまって、申し訳ありません」
 上擦った声で落ち着きなく視線を彷徨わせながらも女子高生は丁寧な口調でそう述べた。観月は静かに少女を見下ろす。身体の向きを変えようともしない観月に、緊張からか女子高生の頬は一段と血色を増した。対照的に観月の視線の温度が一層下降する。次に吐き出される言葉を想像して早くも観月の胸に苛立ちが芽吹く。
「あの、先程カウンターに返却された本のことなんですけど、あれって高校生程度の英語力でも読めるものか、よかったら教えて頂けないでしょうか」
 意表を突かれて子供みたいに瞬く。
 それは予想とはまったく異なる台詞だった。
 思わず女子高生をまじまじと見詰めてしまう。
 誕生日を越えて数ヶ月、どういうわけか女性から声をかけられることがやたらと多くなった。一月ほど前には駅でいきなり女子高生に腕を掴まれたばかりだ。見ず知らずの女子高生に声をかけられる理由など見当たらなかったし、真面目そうに見えてもどうせその手の手合いだろう、そう判じて慎みに欠ける恥ずべき人間と早々に負の烙印を押したのだがどうやら違ったようだ。
「……そうですね」
 早とちりで冷ややかな眼差しを浴びせてしまったことへの詫びを込め、振り返り軽く微笑んでやると女子高生からあからさまに安堵の空気が放出される。それでもやはり視線は観月の顔ではなくネクタイの辺りを漂っていて、今時珍しく本当に男慣れしていないことを窺わせた。
「文法的には高校生レヴェルでも問題ないと思いますよ。ただ、内容的にどうしても中学・高校英語じゃ習わない単語が多く出てくるし、中には探しても辞書に載っていない単語もあります。解らない単語があっても意味を推察し読み進める力は鍛えられるかもしれませんが、受験英語の勉強の為に読もうとしているのなら僕はお勧めできません。そういう目的ならもっと適した本がありますからね。ただし個人の興味から読むのであれば、それだけの苦労をするだけの価値のある本だと思いますよ」
 最後の言葉にぱっと女子高生の顔が輝く。顔が輝く、なんてのは今時陳腐な表現だと思うのだが、今のはまさにそんな感じだった。きらきらとした瞳で初めて観月の目を真っ直ぐに見返す。
「勉強の為じゃなく、個人的にあれが読みたいんです。でも、ぱらっと見た限り、仰るとおり知らない単語だらけで、私じゃ無理かなってずっと借りるの迷ってたんです。でも、私借りてみます。辞書引きます」
 口元が無意識に綻んだ。
 とても美しいものの輪郭をそっと指先でなぞったような、そんな満足感があった。
「そう。では、頑張って」
 女子高生も屈託なく微笑んだ。「はい、ありがとうございました」と綺麗な角度で頭を下げると早速カウンターへと足を向ける。棚に戻されるのを待てずに、すぐにでも貸し出してもらうべく交渉するのだろう。その健やかな背中を数秒見送って、観月も出口へと踵を返した。
 観月は元来図書館を好まない。小さな頃から読みたい本があるならそれは買って手元に置くべきだと考えていたし、不特定多数の誰かが触れた本を自室に持ち込む行為に抵抗感を覚えてもいた。
 それにも係わらず何故図書館に来たのかというと、目当ての本が既に絶版になっていて入手困難だったからだ。比較的借りやすい場所にあったのが職場から数駅のこの市立図書館で、目当ての本はどう見ても最初に管理のためのバーコードが貼られて以来人の手が触れた形跡はなかった。そのことに呆れもしたが、やはりそれが何にしろまっさらな雪原に初めて足を踏み入れる作業は気分がいい。観月は小さな幸運に微かな喜びを得つつページを繰った。
 そんなふうについ先日まで誰にも省みられなかった本。そして、ついさっきまでは観月の手の中にあった本が、今度はあの少女の手に渡るのかと思うと妙な気分だった。
 けれど、もう彼女と会うこともないだろう。
 あの本は現在この市立図書館からそう離れていないミニシアターで上映されている、仏映画の監督が子供の頃に読んで影響を受けたと紹介していたものだ。観月はそもそもその映画監督の作品が好きで、それで興味を持った。
 少女もそうなのかもしれない、そんな推測が頭を過ったが確かめる術はない。先週、貸し出しの際に見たばかりだが、ここまで来たついでにもう一度ミニシアターに寄って帰るつもりだ。上映時間までは、まだ三十分以上ある。
 観月は回答の出ることのない思考を停止すると、ここに来る途中でめぼしを付けていたカフェへと足を速めた。


 目を向けた後で、何故自分が目を向けたのかが解った。
 聞き覚えがある声がした、それで身体が勝手に反応したのだ。無意識に行われた自分の行為に納得すると、観月はそれでもう興味を失った。背中を向けているセーラー服から視線を外すと、扉から離れて映画を見るときのいつもの定位置に着くべく踵を返す。
 向こうは気付いていないようだったが、声の主は先程の女子高生だった。やはり彼女があの洋書を読みたい理由と件の映画監督には関連がありそうだ。変に懐かれても鬱陶しいだけなので彼女の目に留まらないよう願う。願ったのだが。
 観月は足を止めた。
 振り返る。
 今、「放してください」と聞こえた。か細く今にも泣き出しそうな声で。
 さっき気付かなかったのが不思議なくらい、小さな背中は緊張で強張っている。少女が身をよじった拍子に、軽薄そうな男に右手首を囚われているのが見えた。まるで宝物を護るみたいに胸の前で例の本をきつく抱きしめているのも。
 観月は眉を顰めた。久々に露骨に眉間に皺が刻まれるほど不快だった。用心が足りない馬鹿な少女にも、自分が綺麗だと思ったものに汚い手で触れている男にも、面倒なことに進んで首を突っ込もうとしている自分自身にも腹が立つ。
 けれど、そんなものは綺麗に隠して薄い笑みを唇に刷くと、観月は小声で揉めている男女の元へと近付いた。
「こんなところに居たんですね」
 左肩に触れるとたいした力も加えてないのに、少女は容易く観月の胸へと転がり込んだ。
「待ち合わせ場所にいないから捜してしまいましたよ。でも、これで解ったでしょう、云うことを聴かずにふらふらしているとこういう目に遭うって」
 手首を掴まれている所為で、まるで挙手するみたいに宙を漂っていた手。観月はその手をそっと握りこんだ。そして、感情を消し去った瞳で、少しばかり低い位置にある男の顔を凝視する。
 突如現れた観月にぽかんとしていた男だが慌てて手のひらを開く。握っていたのが実は熱いフライパンだったかのような大袈裟な勢いに観月は薄く笑う。
「行きましょうか」
 右手を滑らせて、所有権を主張するみたいに男が触れていた細い手首を軽く撫でる。深い意味はないつもりだった。感覚としてはお気に入りのガラスの器につけられた醜い指紋を拭っただけというのが一番近い。それでも、観月の胸に預けられていた少女の身体が一瞬震えた。
 殆ど無自覚の内に行われた行動だったので、少女のその反応に観月も思わず固まりそうになる。だが、目の前の男のことを思い出すと、左手で少女のてのひらを掴みなおして観月は何食わぬ顔で歩き出した。少女は無言でついてくる。そうさせているのは自分自身のくせに、その従順さにまた少しばかり苛立ちを覚えた。
 己の定位置のはずの左端三列目の席に少女が座り、観月はその隣に腰を下ろす。ちらりと視線を向けると、少女は未だ強く本を抱きかかえたままだった。真っ白な指先も蒼白な頬も酷く痛々しい。さすがの観月もきつい叱責を与える気にはなれず、深く溜息を吐いた。
「あの男を弁護するつもりはありませんが、こんな時間に制服でひとりここへ来たあなたにも問題がありますよ」
「はい……ごめんなさい」
 消え入りそうな声に重なるようにブザーが鳴った。ゆっくりと照明が落とされていく中、観月はもう一度溜息を吐き出して右の肘掛に肘を突く。
 二回目となる予告編は退屈だった。頬杖をついている右手の人差し指がこめかみの上で単調なリズムを繰り返している。本編が始まってもそれは止むことはなかった。電気がそこだけ供給されていないかのように微動だにしない左手の代わりとばかりに、勤勉に活動している。
 少女が何度目かの深呼吸をしたのが伝わってきた。泣くのを我慢しているのかもしれない。こんな状態では映画を楽しむどころではないだろう。密やかに嘆息する。
 観月の左手に繋がれた少女の右手は酷く冷たいままだ。少女の小さなてのひらに観月の体温が移る気配は一向にない。特別温かいとまではいかなくとも、観月の手は決して冷たいものではないのに。
 映画の内容は自分好みのはずだ。二回目なら二回目なりの発見があるので、十分楽しめるはずだった。それなのに集中できない。
 何故自分は名前も知らない少女に左手を貸し出したままなのか、何故少女は見ず知らずの男に手を握られていることに嫌悪を覚えないのか、くだない問いが脳裏を過る。
 几帳面な反面、面倒くさがり屋の観月は無駄が嫌いだ。回答の得られない思考など非合理的極まりない。だから、映画を見ている間中、観月の眉間には深い皺が描かれたままだった。


 映画は一時間ほどの短いものだった。
 気の早い客はエンドロールが流れると同時に席を立ってしまうが、観月は照明が灯るまで動くことはない。
 今日に限っては照明が灯ると同時にそっと左手が軽くなった。少女に目を向けると、本を通学鞄にしまおうとしている。それが終わるのを待って観月は立ち上がった。
 ロビーまで肩を並べて歩く。お互い無言だったが観月はそれを気まずく感じるような可愛げは持ち合わせていなかった。反対に、ちらちらと自分を見上げてくる少女の方は居心地悪そうにしている。生憎、行き掛けの駄賃とばかりに駅まで送ってやろうかなどと考えている観月は彼女の安全面に配慮してやる気はあっても、精神の快適さにまで労力を払ってやるほど寛容ではない。
 あと数メートルで出口というところで、「あ、あの」と図書館で聞いたものよりさらに上擦った調子の声があがる。観月は立ち止まった。そして、少女に視線を落とす。
 少女は観月が足を止めたことに安堵の色を滲ませたが、絡む視線にすぐさま落ち着きを失った。一度床へと目を逸らした後、覚悟を決めたように細い顎を上げる。
「あの、今日は本当にありがとうございました、あの、あの」
 頬を紅く染めている彼女が何を云いよどんでいるのか観月には簡単に察しがついた。
 けれど、口を噤んだままで少女の言葉の続きを待つ。
「よ、よかったらお名前とご連絡先を……」
 せっかく勇気を振り絞ったというのに呆気なくしぼんでいく声。観月の視線に耐えられなかったのか、少女は俯いて目を伏せる。長い睫の下で瞳が潤んでいく。
 愚かだな、と思った。
 この少女が持つ無垢さや透明感はあまねく誘惑を賢く回避してきたことに由来するものだ。煌びやかな蝶々にも甘い匂いの果実にも目もくれずこれまで自身をあらゆる危険から護ってきた、それなのに今まさに自ら進んで厄介な獣に挨拶をしている。
 自惚れでもなんでもなく、彼女が自分に惹かれる理由を観月は客観的に即答できた。同年代のガキと比べて恐ろしく紳士的で大人の余裕を持った男がそれこそ恋愛漫画のヒーローのように少女の窮地を救ったのだ、これで彼女に心を揺らすなと云う方が酷だろう。
 そうはいっても別に観月が特別というわけではない。観月くらいの年齢になれば多かれ少なかれ女の扱いを覚える。それに、彼女は可愛らしい。偶々観月が初めてだっただけで、今後彼女を観月と同じかそれ以上の待遇で扱う男は山と出てくる。
 良識のある大人なら、少女の好意に気付かぬふりをして立ち去るべきだろう。今夜は哀しい思いをするかもしれないが、そう遠くない日に美しく装飾された思い出へと変わるに違いない。
 だが。
「条件があります」
 少女が弾かれたように顔を上げた。見開かれた大きな瞳は澄んでいて、汚いものなど映したことはなさそうだ。疑うことを知らない少女は、ひたすら観月の言葉の続きを求めている。
「僕の名前を教えるその前に、あなたの名前を教えてください」
 観月の言葉に羞恥に染まっていた少女の頬が幸福そうな薔薇色へと一瞬で印象を変化させる。少女は花がほころぶように笑った。
 鏡に映したように観月も微笑を浮かべる。
 そうやって笑いながら制服を纏っていた頃の自分では考えられない厚顔無恥ぶりに自分自身を嘲笑う。
 少女の清らかさは好意に値するし、そんな少女から縋り付くような眼差しを向けられるのも悪い気はしない。愛らしいと思うし、庇護欲をそそられる。つい一時間ほど前に自分が余計な真似をしたのはまさに彼女を放っておけなかったからだ。その反面、付け入る隙を与える愚鈍さや他者の善意を信じきっているような無防備さが癇に障る。
 このとき観月が少女に向けていた感情は混沌とした状態だった。親愛と嫌悪、相反するものが同じ鍋の中に放り込まれている。そして、観月が少女の申し出を受けたのは嫌悪からだった。
 それが何にしろまっさらな雪原に初めて足を踏み入れる作業は本当に気分がいい、それだけの理由だった。
 もっとはっきり云えば蹂躙したい、そう思った。


 それが観月との出会いだった。