ドアを開けてもいつも煩いぐらいにじゃれついてくる猫の姿は無かった。
緒方は無表情の奥深くでほんの幽かに眉を顰めた。
出迎えがないことを不審に思うより先に、一抹の物足りなさを感じるなど自分も腑抜けたものだと思う。
靴を脱ぎながら頭の中でカレンダーを捲る。
棋士などやってると一般人と比べて曜日の感覚はあやふやになる。何時何時までに何々を仕上げなければならない、という事が殆ど無いからだ。
今日は平日の金曜。
だとしたらは学校があったはずだ。時刻は夕方の6時、夏を目前にした空は今だ明るい。もしかしたらまだ帰っていないのかもしれない。
ならば仕方の無いことだ。子どもの約束が大人のものより軽いなんてことは無い。にだって友達付き合いがあるのだから、緒方よりそっちを優先することだってあるだろう。そもそも空港への出迎えを断ったのは緒方の方なのだから、落胆するのは自分勝手というものだ。
スーツケースは玄関脇に残して、緒方はへの土産の入った紙袋だけ持って居間へ向かった。
紙袋の中身は北海道土産の六花亭のバターサンド。
お願いだから買ってきてくれ、絶対忘れないでね、と3日前空港でしつこいほどに念を押されたものだ。むしろ激励の言葉より、そっちの台詞の方が何度も聞かされた気がする。
緒方は昨日まで札幌だった。もちろん観光ではない、対局があったのだ。本因坊戦・第二局目の。
だが負けた。
これで振り出しに戻ってしまった。
一々一々神経を逆なでしてくるあの老人と顔を合わせる度に緒方の中で敬老精神とやらは痩せ細り衰えていく。いっそ縊り殺せたらどんなに気分が晴れるか。
脳裏に見たくもない猿面を思い出して忌々しさに目を細めつつ、緒方は居間のドアを開けた。
瞬間、緩い風が頬を撫でた。
同時に僅かなエナメルの匂いが鼻を突く。マニキュアの匂いだ。
ベランダに面した大窓が開いており、三分の一ほど下ろされたブラインドが薄く揺れている。
は――
居た。






          
≪05 E≫






大窓の前、こちらに背を向けているソファの端から黒髪が零れている。
ダイニングテーブルに紙袋を置くと、緒方はソファへと回り込んだ。
果たして予想通りはそこに居た。
白いソファに制服のまま、はその瞳を塞ぎ眠っていた。
腹の上で組まれた指が呼吸に合わせてゆっくりと上下動する。その爪は艶々と輝き、ソファの前のガラステーブルには色とりどりの小瓶が並んでいた。
緒方はその小瓶を脇に押しやると、行儀悪くそのガラステーブルに腰を下ろした。
シャツの胸ポケットから煙草の箱を取り出し、顔を出した一本を唇で引き出す。火を点けると、小瓶の群れの後ろから灰皿を引き寄せた。
一緒に暮らして解ったのだが、どうもは爪をいじるのが好きらしい。さすがに学校に色を塗って行くことはないが、休日や手合いの前日にはいつも爪を整えている。最早好きというより趣味の域だろう。細やかな図柄や細工は爪に関心の無い緒方の目から見ても素人にしては上手いように思えた。
今も乾かしている間に寝てしまった、どうせそんなところだろう。
に向かって流れていかないよう、顔を背けて細く煙を吐く。
無防備に目を閉じた少女。
3日前はまだ冬服だったのに、今身に纏っているのは涼しげな白い夏服へと変わっていた。衣を違えただけのはずなのに、印象が変わった。
瞳を閉じている所為かもしれない。
裸足の足の爪に目を向けるとやはり指先と同じ色が塗られている。
足首を強調する踝。
滑らかな曲線を描く脹脛。
紺のプリーツスカートの際では膝が見え隠れしている。
夏服の白の上で組まれた細い指。その薬指は多分9号より細い。
スカーフの隙間から覗く鎖骨。日に焼けていない首、顎、唇、そして睫毛。
自分にとってこの少女の価値とはいったい何なのか。
これまで関係を持った女たちと比較してみる。
造形的に見れば好みの身体つきをしている。
黙っていれば凛と上品な顔もまあ好みの部類だ。
だが性格は問題外だろう。
ガキ特有の我侭に無神経さ。何より煩くて色気が無い。
だが子ども特有の素直さは美徳だろう。小狡い媚を売ったりしない。
どうして侵入を許した?
自分のテリトリーに誰か他人の侵入を許す日が来ることなど想像もしてなかったのに。
甘い砂糖菓子のようには緒方の日常の中に溶けていった。
背中から吹いてくる緩い風が零れた黒髪を揺らす。
薄く甘い匂いが薫る。
は香水などつけない。だとしたらそれは自身の匂いだ。
おかげで気が付いてしまった。
何より自分が空腹だということに。
緒方は珍しく根元の辺りまで吸った煙草を灰皿に押し付けた。
「…………何時まで寝た振りをしているつもりだ?」
規則正しく上下していただけの腹が、ふふふと揺れた。
目を閉じたままの唇が嬉しそうに笑う。
「おかえりなさい」
「ああ」
緒方は手を伸ばすと、の片手を取った。よく見ると左手の薬指の爪には小さく薔薇が描かれている。
「無用心だな」
「どうして?」
が漸く瞳を開けて、緒方の肩越しに窓に視線を向ける。
「だってこの階なら泥棒も登ってこれませんよ?」
「そういう意味じゃない」
緒方は溜息混じりに息を吐きながら、の手の甲に口付けを落とした。
「アハハ、お姫様みたい!」
無邪気に喜ぶの手を取ったまま、緒方は立ち上がるとの腰の辺りに席を移した。体重をかけないように気を付けながら身体を倒す。
「……ふ…ふふふ…先生、くすぐったいよ」
額や眦に啄ばむような口付けを受けてが笑いながら身を捩る。
緒方はそうやって黙ってキスを与えながら指を髪に潜らせ、ゆっくりとその首が仰け反るように仕向けた。
「……んっ…」
痛いのか気持ちいいのか境界の曖昧な感覚。
が漸くいつもと様子が違うことに気が付いたのはその時だった。
頬を過ぎ顎を通り、いつのまにか緒方の唇は首へと下りていた。
セーラー服の襟を潜るように首の付け根に落とされた口付け。
やわらかい唇が去った後も痺れたようなじれったさが残る。
今までそんなことされたことなかったのに。
それどころか緒方はこの部屋に居るかぎりに極力触れようとはしなかった。
キスでさえくれたのはいつも外だった。
起きているつもりで、それでもまだどこか微睡んでいた感覚が全て覚醒する。
「…せんせい……?」
戸惑いを含んだ呼びかけに、緒方は鎖骨の間に埋めていた顔を上げた。
目が合う。
瞬間。
これまで解った例も無かったくせに。
は初めて緒方の意図を理解した。





「ぁ…」
一気に硬くなった身体から緒方は身を起した。
ネクタイの結び目を指で押し広げながら、緒方は自分自身に呆れたかのような深い溜息を吐いた。
「まったく……制服に欲情する奴なんかただの変態だと思ってたのに」
「えっ!?」
がびくりと肩を揺らす。
咄嗟に逃げるように動かした脚は革のソファの上で滑ってスカートの裾を乱しただけだった。半分泣きそうな顔で慌ててがスカートを直す。
解いたネクタイを床に投げ捨て、緒方は煙草に手を伸ばした。からすればこんな場面に信じられないぐらいの余裕でいつも通りに火を点ける。
「落ち着け。保証はしないがどうしても嫌だというなら途中で止めてやるから」
「……せんせぇ、それ矛盾してるぅ…」
泣き出しそうに強張った顔でがぎこちなく微笑む。
滅多になく優しい顔で笑いながら、緒方は指を伸ばしての顎の辺りを擽った。
「何ならこういう時の常套句を延々囁いてやるぞ。『大丈夫だ。優しくするから』って具合に」
あはは、とが力なく笑う。けれどほんのちょっとだけさっきよりは表情が緩む。
それを見て緒方は煙草を唇に挟み、の制服へと視線を落とした。
はどきりとして性懲りもなく身動ぎする。今度こそスカートを乱さないようにしながら、懸命に背中をソファに押し付けることでほんの僅かだけ後退を果たす。
けれどそんな抵抗も空しく、どうして知っているのか緒方はあっさりとセーラー服のファスナーの位置を見抜いた。
スカートと同じ様に身体の右側面に沿うように縫い付けられたそれを躊躇うことなく開けていく。その手の周りで、蜜蜂のようにの両手がどうしようもなく右往左往する。
「せ、先生!先生!」
結局その手を制止することが出来ずに全開にされてしまったファスナー。
当たり前のことだがそれだけで済む訳がなく、その隙間から侵入して直接素肌に触れた指をは両手で必死に取り押さえた。
「何だ?」
「…ぅた…っ、煙草!灰が落ちそうだから!」
解っているくせに意地悪く問うてきた緒方を咎める余裕なんてにあるはずもない。首まで真っ赤にして、とにかくこれ以上の侵入を阻止しようと試みる。
「ああ、そうだな」
緒方はあっさりと身体を引くと灰皿を引き寄せ、まだ大したことのなかった灰を払った。
とりあえず去った危機にはほっと息を吐く。
自分を護るように胸の辺りでぎゅっと握った両手を見つめる。
多分、嫌なわけではない。
そうじゃなくて。
今の自分の心情を自分自身に説明することさえ難しい。
握った手の平がべとべとする。それで酷く緊張していることに今更気がついた。
「嫌なら止めよう」
その言葉には弾かれたように顔を上げた。
「止めるか?」
緒方は煙草を燻らせながら笑っていた。
まるでが「はい」なんて絶対云わないことを知っているかのように。
ほんのちょっと触られただけでパニックに陥る自分とはあまりに違う。
の中で何かが切れた。
熱い塊が濁流のように喉に押し寄せてきて泣きそうになる。
こうなることを望んでいたはずだ。
この家に初めて来た夜に覚悟をしたはずだ。
なのに。
こんなはずじゃなかったのに。
こんなふうに土壇場で怖気づいて格好悪く足掻く予定じゃなかったのに。
もっと綺麗に抱いてもらうはずだったのに。
こんな臆病な自分、嫌いだ。
「止めない。嫌じゃない。そうじゃなくて……」
云っていて本当に泣けてきた。
余計に情けなくて、こんな顔見られたくなくては片手で顔を覆った。
ソファが僅かに揺れる。
緒方が動いた所為だ。
腕を捕まれて顔を上向けられてキスをされた。
強い煙草の匂いがを包む。その苦い味に思わず眉間に皺が寄る。
「………せん…せ…」
ソファに重なった身体、緒方の広い手の平がファスナーから浸入し、背中へと潜る。
意識を逸らそうとすればするほど、肌が敏感にその指の動きを伝えてくる。身体の芯から熱が沸き起こり、その熱を吐き出そうとすると口から自分のものとは思えない声が漏れてはぎょっとした。
脊髄を辿っていた緒方の指は、やがて下着のホックを発見するとそれを外してしまう。彷徨う手の動きに合わせて揺れては擦れる布の感触だけで気がふれそうだった。
聴きなれた衣擦れの音さえ今は卑猥な音として部屋に響く。
そのまま布の海を泳いで前に回ってきた手の平が未発達の胸を包む。
逃げ出したい衝動をは無我夢中で耐えた。
歯を喰いしばった顔は絶対色っぽくも可愛くもないはずだ。でもそうでもしてないと恥ずかしい声を漏らしてしまいそうで、それに比べたら不細工な顔の方がにはまだマシに思えたのだ。
緒方は真一文字に唇を引き結んだの顔を覗き込み。
そして笑った。
それはの幼さを馬鹿にしているような笑みではなかった。
には理解できない笑みを浮かべたまま、緒方は片手で器用に眼鏡を外す。
その仕草に直感する。
多分、緒方はもう止めてくれとお願いしても止めてくれないだろう。
でもそれで良いと思う。
緒方の背中の向こう、窓の外の空は少しずつ薄墨を流したように黄昏を深くしていく。忍び寄ってくる夜の気配をいつもより厳粛に感じる。
明日晴れればいい。
それで大好きな人に笑顔でおはようを云って朝食を一緒に取るのだ。
きっと生まれてから一番素敵な朝になるに違いない。
そう想像すると漠然とした不安や恐れが和らいで薄れた。
ガラステーブルに眼鏡を置いた緒方が再び身体を重ねてくる。
緊張した顔で、それでも少しだけ笑いながらは指を伸ばし緒方の唇に触れた。
「先生は好き。先生とのキスも好き。でも煙草を吸ったばっかの先生とのキスは苦くて美味しくないから嫌い」
別に思ったことを口に出しただけなのに。
緒方は面食らったように一瞬動きを止めた。だがくっと喉の奥で笑うと、嫌がらせのように煙草の味のするキスを与えてきた。
そして眉を顰めたに意地悪く笑いかける。
「慣れれば美味いと感じるようになる。安心しろ、慣れるまでたっぷり付き合ってやるから」
真っ赤な顔で絶句したの胸元のスカーフを緒方はゆっくりと引き抜いていった。