今の時期ならドライヤーを使わなくとも勝手に自然乾燥するだろう。額に零れてきた前髪を再度掻き揚げつつ、緒方は窓に面したソファへと歩み寄った。
一番手近に落ちていた自分のシャツを掴むと取り合えず目の前のソファに放り投げておく。これはどうせクリーニング行きだ。
それからソファを回り込み、ガラステーブルとの間に落ちているセーラー服の上着を拾い上げる。こちらの方は皺を伸ばしながら丁寧にハンガーに吊るしてやる。
同様にプリーツスカートもハンガーにかけた。
腕を伸ばして少し遠目で眺めてみる。
やはり一晩ぐちゃぐちゃの状態で放置しただけあって、微妙に皺が刻まれてしまっている。
近所のクリーニング屋は今日の午前中に出せば明日には仕上げてくれる。だが流石に女子高生の制服を堂々と持ち込めるほどツラの皮は厚くない。
これは家でアイロンをかけても大丈夫なのだろうか?
緒方はそのままの姿勢で僅かに眉を顰めた。






          
≪05 thanatos≫







緒方は肌を弄る感覚に薄っすらと目を開けた。
「……あ…」
左手で頬杖を突き、が緒方の顎を擽っていた。
「先生、ごめんね、起しちゃった?」
慌てた様子で手を引っ込める。緒方は首を振ることで否定と眠気覚ましを同時に行った。
昨日。
肌を全て暴いたところではか弱い抵抗を見せた。
自らシャツのボタンを外していた緒方に、身を縮こまらせて必死に両手で自分を抱き締めながらがここじゃ嫌だと潤みきった瞳で懇願したのだ。
云われてみれば居間のソファはスタンダードな場所ではない。
別にソファに拘るつもりもないし、つまらない意地悪をして余計萎縮させても仕方がない。
緒方は裸の胸にを抱き上げると寝室へと向かった。ある意味これは所謂初夜に対するサービスの一環だ。はお姫様抱っこだと無邪気に喜んで笑った。
最もが笑っていられたのはベッドに降ろされるまでのことだったが。
「えっと…、あの……おはようございます」
はにかむようにが微笑み、頬を染める。
その初々しさはこっちが赤面したくなるほどだ。これがその内我が物顔で全裸で歩き廻るようになるのだから恐ろしい。緒方は未だローギアな頭でどうやったらがそうなるのを阻止できるか考えそうになって止めた。馬鹿げてる。
下らないことに思考を飛ばしそうになっている間に、が再度手を伸ばして緒方の顎に触れる。
「ヒゲ伸びてる。変なの、寝てる間に伸びるの?」
髭なんて特別珍しいものではない。男なら当然のことだ。だがが6年前実父と死別していることを思い出す。現在の義父との関係がどうなのかは知らないが、こんなふうに気軽に肌に触るなんてことは難しいのかもしれない。
ブラインドの隙間から差し込む朝日に目を細めつつ、緒方はシーツから腕を引き抜くと僅かに寝癖の付いたの髪を撫でつけてやった。
「一応訊ねておくが昨日と比べておかしいと感じるところはないか?」
「えっ!?」
の顎が手の平から跳ねた。それは不自然なぐらいの驚きようだった。
「あ、うん、ないです、平気、大丈夫です」
「まだ何か入ってる気がする?」
「なっ…!?」
図星だったのか違うのか、一瞬で首まで朱に染まる。
それは以前関係を持った女に目が覚めて開口一番に云われた台詞だ。当時は床を共にすることと女性に対して今よりはずいぶん夢を見ていた緒方にその台詞は結構なダメージを与えた。
ヘッドボードに背中が当たるよう肘を使って身体をずらして、緒方は一瞬顔を顰めた。首の後ろの周囲には爪を立てるなんて可愛いもんじゃなく、加減の無い力で爪を突きたてられた傷跡があるはずだ。その傷が擦れて痛んだのだが、何でもない顔をして緒方はサイドテーブルの煙草を取り上げる。
「生憎もう何も挿れてない。本当におかしいところはないんだな?」
生々しい台詞にさらに真っ赤になった顔では緒方を睨みつける。今にも非難の言葉をぶつけようとしていたのに、だがそこで不意に瞬きをひとつするとゆっくりと口を閉ざした。
緒方の言葉はいつも素直ではない。
酷くて鋭くて回りくどい響きの先に本音が隠されている。
は肘を突いた両手で薔薇色の頬を覆うと、シーツに視線を落としてぽつぽつと言葉を選んだ。
「うん、ほんとに大丈夫………ちょっとお腹痛いけど、ほんとにちょっとだけだし我慢できなくないし。変なところは無い、と、思います…えっと、思ってたより、あの…」
「気持ち良かった?」
「ちっ、ちがっちがいます!痛くなかった、です!」
「だから結局同じ意味だろ、それは。どこが違うんだ?」
「バカ!先生のバカ!先生もうほんと最低!」
が肘を伸ばして緒方を叩こうとする。腹筋の辺りに載せていた小さな灰皿をひょいと持ち上げ、その攻撃から灰が飛び散るのを防ぐ。
「全然ロマンチックじゃないんだから!全然女の子の気持ち解ってない!」
がふくれてぷいと顔を逸らす。
再び腹の上に戻した灰皿で灰を払いつつ、緒方はにやにやと意地悪く笑うだけでそれには反論をしなかった。そうそう映画のような展開を期待されても困る。第一それを云うならも男の気持ちなど解っていない。
「あのね、先生、これ絶対絶対ナイショよ、この前ね、私の友達がね、別にそんなに好きじゃない子とその……しちゃったんだって。それでね、物凄く痛かったって云ってたの、死ぬほど痛くて失神するかと思ったって。だから私すっごい恐かったんだからね」
どうせ相手も初めてだったんだろう。
を避けて細く煙を吐き出しながら、緒方は馬鹿馬鹿しいと云いたげに瞳を眇めた。
正確な知識もないくせにガキが色気づき、準備段階をすっ飛ばしてとにかく突っ込んだりしたらそんなの痛いに決まっている。
が大した苦痛もなく多少なりとも快楽を味わえたなら、それはそれは大事に緒方が時間をかけてその身体を蕩かしたからだ。
「…何でそんなことしたのって訊いたら早くしてみたかったから、って云うのね。その時は黙ってたけど、ホントは信じらんない、なんてことすんだろ、って思ってた」
そこでは外していた視線を緒方に再び合わせた。
情事の名残を残した身体で、拗ねたような目つきのくせにあどけなく微笑む。
「だって私は小学生の頃から先生が好きで、先生だけが好きで、先生以外の誰かとそういうこと絶対したくないもの。だから友達なんだけど、あ、それからだって普通に仲良くしてるよ、でも好きでもない人と興味だけでそういうことしちゃえるのに驚いた。
 あのね、云ってなかったけど、私、キスだってこの前のが初めてだったんだから。私のファーストキスは先生なんだからね、全部先生が初めてなんだから」
緒方は溜息を吐くと吸殻の入った灰皿をサイドテーブルに戻した。
そしての両脇の辺りに両手を差し込むと、ずるりとシーツの海から自分の上へと引っ張り出す。
「人のことを云う前にお前も男について勉強しろ。男はそういう台詞を吐かれると誘っていると都合よく解釈して発情する生物なんだ」
「え?え?はつじょ…?」
が裸の胸を隠すことに気を取られている間に、緒方はその白い首筋に噛りついた。
まんまと捕食されてしまったは未だ深い夢に捕われている。
とりあえずセーラー服はに与えている部屋に持っていき、作り付けのクローゼットに掛けといてやった。さすがに着替えを漁るのは気が引けるので、の眠るベッドの上には緒方のシャツを出しておいてやってある。
がらんとした部屋を後にする。
一週間ほどでベッドを用意してやる、と云ったが未だの部屋にベッドは無い。なかなかの気に入るものに出会えなかった所為だ。
が借りていた部屋、例の櫻田に不法侵入された部屋のベッドは動かせない。あの部屋はカモフラージュ用にそのままにしておくことにした。結局の両親には緒方のもとに転がり込んだことを報告していない。だからベッドも家具もあの部屋に置いておく必要があるのだ。
けれどこうなってからは買い渋っていて正解だったのかもしれない。
眠れないことはないが、緒方が今使っているベッドは二人では狭い。があんな妙な時間に目覚めてしまったのも恐らくはそれが原因だろう。シングルではなく、ダブルかセミダブルを購入する方へと選択肢を広げて検討した方が良い。
そのままキッチンに移動して冷蔵庫を開けてみる。
のおかげでここ最近の冷蔵庫は実に充実している。ちょっと前まではビールとハムとチーズぐらいしか住んでいなかったのに、今では野菜や卵が当然の顔で収まっている。
だが主食が無かった。パンは切らしていたし、米は炊かねばならない。
時計を見る。
まだ10時だ。おそらくはまだ目を覚まさないだろう。
駅前のパン屋。そこのパンが美味しいと云っていた。
判断は一瞬、緒方は財布と煙草を掴むと玄関に足を向けた。
相手が喜ぶだろうことを正直にしてやることなど酷く久々だ。
歳を取ってからはわざと相手の期待を裏切ってやる為だけに、相手の心情を洞察していたのに。
の価値。
それが朧げながら解った気がした。
は子どもじみた潔癖さで言葉を使い不可視の愛情をどうにか具象化しようとする。
未完成の身体を差し出してまでも自分の愛情を示そうとする。
愛情の肯定など、緒方が最も避けたい行為だ。
それは束縛や禁戒に繋がる。
けれどもは人類史上最も愚かな約束・『永遠』を望んだりはしなかった。
それだけじゃない、唇を重ね身体を合わせたくせに実は緒方は未だに自分の気持ちを伝える言葉を吐いてはいない。
それなのには緒方から強引にその言葉を毟り取ろうともしない。
ただ与えるだけならそれは無償だ。
だからこそ愛しい。
何故が自分を選んだのか解らない。
幼いあの日に優しくしてやった覚えなどない。それどころか自分は冷たく振舞ったはずだ。
再会してからもそう。なのにあしらって突き放してもが去っていくことはなかった。
の思いが崩壊することはなかった。
子どもじみた青い初恋の思い込みなら、いくらでも愛想を尽かす機会はあったのに。
帰ったら―

この先二度と口にするつもりのない言葉をただ一度だけ吐いても良い。

ドアを開けながら、緒方はそう思った。











外に出ると雨の匂いがした。
空はまだ青い。けれど雲の流れは速く、風は生温く湿り気を帯びている。
一雨来そうだ。買物を済ませたならさっさと帰った方がいい。
そう考えつつマンションのエントランスを出て、煙草に火を点ける。
ジッポーから視線を上げて、そして飛び込んできた映像に一瞬緒方は脚を止めそうになった。
けれどその針のような鋭く細い躊躇を表面に出すことなく、ごく自然な足取りで歩道へ続く短い階段を降りる。
今日この日とは思っていなかったが、これは久我山から電話を貰った日からある程度予測のついていた事態だったからだ。
「コンニチワ」
いやに馴れ馴れしい口調と声。
緒方は煙を吐き出しただけでそれには返答しなかった。
「驚かないんだ、あんたがビビるとこ見たかったのに」
マンションの前、曇天の隙間から僅かな日光が涙のように降り注ぐガードレール。
そこに腰をかけている櫻田は喉の奥でひひひと笑った。
嘲弄するようなその響きを相手にせず、緒方は皮肉げに唇を歪めた。
「ホテル暮らしは快適だったか?」
「クソくらえだ」
櫻田が道路に向かって唾を吐く。
一週間前まで櫻田は留置場に拘束されていた。
久我山から釈放されたという連絡を受け、緒方はに注意を促していた。おそらくまたこうして姿を現すと踏んでいたからだ。今度こそ告訴を考えており、そのために弁護士にも当りを付けている。
櫻田は留置場に居た割に痩せ衰えたといった変化は見られなかった。それどころか逆に病的に頬の辺りがむくんでおり、太ったようにも見えなくもない。
中途半端に笑った卑屈な顔で緒方を見上げてくる。
「アンタんとこに居んだろ、知ってんだ、俺。いろいろ調べたから。全部調べたから。なあ、もうヤッた?」
「ホクロの位置でも教えて欲しいのか?」
その充血して澱んだ眼差しに生理的不快感を感じながら、緒方は冷たく云い放つ。
緒方の挑発にまたナイフでも出してくるかと内心身構えていたのに。
櫻田は身を二つに折って狂ったように笑い出した。
「アハハ!アンタ可哀想な男だな!」
冷静さを欠くな、と解っているのだがそれでも感に障る声に苛立ちが胸を焼く。拳を固めそうになる右手を煙草を口元に運ぶことで何とか堪える。
煙を吸い込むと緒方は火が点いたままの煙草をげらげらと笑い続けている櫻田の方に向かって指で弾いた。
前回はあからさまな恐れを見せて逃げたくせに櫻田はそれを避けようとはしなかった。
気付いていないはずがない。それなのに、じっとりと緒方に視線を合わせて飛んで来る危険に目もくれない。
くたびれた白いTシャツの胸に煙草は当り、灰が砕けて落下していった。
桜田は未だ笑っている。
緒方は判じるように瞳を細めた。
気が狂っている。そうとしか思えない。
「殺されたくなかったら失せろ。戻ってきてまだ貴様のその面がそこにあったら息の根を止めてやる」
相手をするだけ無駄だ。緒方は背を向けて歩き出す。
それなのに櫻田の声はしつこく追い駆けてきた。
「アンタはあの魔女に愛されてなんかいないのさ!」
緒方は無視して先を急いだ。
雨の匂いは強くなってきている。遠くで空が鳴動し始めた。
その隙間から絡みつく狂声。煩い。
今にも降り出しそうだが、櫻田の前を通り過ぎてまで傘を取りに戻る気にはなれない。
「来栖聖二!」
最初耳にした時は解らなかった。
聞き覚えはあるがすぐには思い出せなかったのだ、その名の持ち主が誰だったのか。
しかし瞬きの直後、海馬が引き出した情報に反射的に脚を止めそうになる。
緒方でさえ忘れかけていたのに何故その名をここで出すのか。
真意を確かめたい衝動が唆すように疼く。だがこれは間違いなく罠だ。
脚を止めたら櫻田の思うつぼだ。
「あの魔女の本当の父親の名だ!そしてお前が殺した男の名だ!」
二歩、三歩と歩みを進め。
緒方は

脚を止めて振り返った。










「何だと……?」
喉の奥から漏れたのは低く擦れた声。
それは驚駭を殺し平静を装う為の代償だった。
「やっぱり知らなかったな」
刺すような鋭い眼差しを喰らって尚櫻田は笑っている。それどころかその表情に先程までには無かった喜色が混じっているのが見て取れた。
「調べたらさぁ、いろいろ面白いことが解ったんだ。あいつはとんでもない女だ、魔女なんだよ。は再婚相手の苗字だ、本当の父親は来栖聖二、珍しい苗字だよな、アンタと同じ名前だしさぁ、忘れてないよなぁ、アンタ、6年前を覚えてるよなァ?」
櫻田の声も口調も、最早それどころかその存在までもが不快だった。
だがもし櫻田の云うことが事実だとしたらいったいどういうことだ。
不快感以上に櫻田が知っていて自分が知らなかったということに対する苛立ちが胸の底で渦を巻く。
来栖聖二がの実父だなんて初耳だ。
初めて会ったあの会場で、確かに芦原はの父が棋士だったことを告げた。6年前事故死したとも云っていた。けれど正確な名前までは出さなかった。あの口振りではおそらく芦原もあれ以上のことは知らなかったに違いない。それはいい、構わない。
だが、緒方はの口からそんなことは聴いてはいない。
云い忘れた?それはおかしいだろう。
何故ならが目にし、だからこそ緒方の元で碁を学びたいと願う切っ掛けとなった6月27日の手合い。
その相手こそ来栖聖二なのだから。
父の名を出さないことは却って不自然だろう。
そしてもうひとつ、櫻田の後半の台詞。
『殺す』とは何だ。緒方はあの日以来、来栖聖二に会ったことなどない。云い掛かりも甚だしい。
やはり全て狂人の妄言なのか。
緒方は判断に迷い、だからこそ視線を強め理不尽なまでの激しさで櫻田を睨みつけた。
桜田はにやにやと穢れた笑みを貼り付けて、緒方の挙動を見逃すまいとするかのように目を見開いてこっちを凝視している。
「まだあの魔女が10歳だった時だ。アンタは名古屋で碁を打った、来栖聖二と。その翌日何があったと思う?なあ、何があったと思う?
死んだんだよ、自殺したんだよ、来栖聖二は。アンタに負けたことを苦にしてな!」

一瞬。
何を云われたのか理解できなかった。
頭が勝手に否定と拒絶を命じたのだ。
「なあそんなふうに父親の自殺の原因を作った男をそうと知ってて好きになる女が居ると思うか?居ないよなぁ、居るわけねえよなぁ。アンタ知らなかったんだろ、来栖聖二のこと。なんで云わなかったのかなぁ、おかしいよなぁ、なぁ何でだと思う?」
けれど放たれた言葉はそれを許さなかった。
その意味を、その先に意味するものを、両目を覆った指の隙間を割り、閉ざした目蓋を抉じ開けて無理矢理突きつけようとする。
緒方はそれに抵抗した。
手当たり次第に記憶を探り知識を求め、その言葉の呪縛から逃れる為の理を造り出そうと足掻いた。
貴様の話が事実だという証拠がどこにある?
そう打ち消そうとして、声が喉の奥に張り付く。
妄言を振り払う根拠を探していたはずなのに。
思い出してしまった。
あの時。
愛情の欠片もない目で少女は何と云った?


緒方の胸に『刺』が刺さった。


凍えた頬をぬるい水滴が打った。
縫い付けられたように動けない緒方の頭上で怒ったように空が鳴り始める。
「復讐だよ」
その言葉は喰い込んだ刺から毒のように緒方の心に染み込んだ。
ふらりとガードレールから立ち上がると、櫻田は妙に肩を左右に揺らした不安定な足取りで緒方に向かってくる。
まばらに降り出した雨が立ち竦む身体を打ち、コンクリートで砕けていく。
「アンタに近付いたのもアンタと寝たのも全部復讐の為だ。恐ろしい女だ、そうやって油断させて寝首を掻くつもりなのさ」
口を開こうとしたが失敗する。
頭のどこかで櫻田の言葉に抗えず、受け入れている自分が居る。
櫻田がにやにやと嬉しそうに笑いながら、そして下から強引に緒方の目を覗き込む。
目が合う。
その顔は相変わらず笑っている。
なすりつけるような低音で櫻田は再びゆっくりとその言葉を繰り返した。
「アンタはあの魔女に愛されてなんかいないのさ……」
見開かれた瞳。
その目がゆっくりと三日月形に歪んでいく。
「ザマァみろ…」
櫻田が擦れた声で囁いた。
緒方は唐突に櫻田の濁った笑みの理由を理解した。
その深淵に澱むのは漆黒の悪意。
自分を傷付けた相手を傷付け返すこと。
それに喜びを見出しているのだ。
ぶるりと右腕の筋肉が痙攣する。
気が付いた時には櫻田はコンクリートの歩道に四つん這いになっていた。
右の拳が衝撃で痺れている。
殴られた頬を抱えるように蹲りながら、コンクリートに額を擦り付けて櫻田が狂ったように大声で笑う。
緒方は踵を返した。
絡みつく声を振り切るように足早にマンションへと引き返す。
エントランス内の、丁度閉まろうとしていたエレベータに右手を突っ込む。普段なら絶対やらない野蛮な行動だった。
不服そうに愚鈍に開いていく扉の隙間に無理矢理身体を割り込ませる。
コントロールパネルの前に居た女性が緒方に強張った顔を向け、背中を壁に押し付けた。その視線をまるっきり無視して、殴るようにボタンを押す。
びくりと肩を跳ねさせた女性は慌ててボタンを押すと、5階を待たずに怯えたように2階で降りていった。
一人になった個室の中で緒方は腕を組み強く息を吐き出した。
傷口から染み込んだ毒は神経を捩じ切るように締め上げてくる。
『6月27日の棋譜を見ました』
『好き、先生が好き』
『ねぇ先生……』
『あれが全てです。私はこの人の元で学びたいと思いました』
『すき』
『6年掛かりました』

『復讐だよ』

緒方は力任せに壁を殴った。衝撃で箱が一瞬揺れる。
櫻田の言葉。
の言葉。
隠された事実。
示された事実。
自分の知っていること。
自分が目の当たりにしてきたこと。
それら全てが脳内を掻き毟り引き裂いていく。
血を流し傷だらけになったその先に現れてきた真実。
真実。
ぎり、と奥歯を噛む。
隠匿と無知はいったいどちらがより罪深いのか。
緒方は開き始めた扉を抉じ開けるように廊下に出た。





ドアは勢い余って壁に激突して跳ね返り、緒方の肩を打った。
だがよろめくどころか、さらにドアを突き飛ばすようにして大股でベッドに向かう。

グレイのシーツに描かれた曲線が僅かに蠢いた。
「起きろ、
「な…に…?」
眠そうな声、うつぶせの身体が緩慢に身じろぐ。
その動きに合わせて露わになった二の腕を掴むと、緒方は半ば強引にの身体を仰向けさせた。
「来栖聖二という男を知っているか?」
瞬間。
の表情が凍りついた。


握りしめていた指から力が抜ける。
開いた手の平からの腕がシーツへと落下していった。
充分だった。
今の反応だけで充分だった。
「………復讐か」
「え?」
が眉を顰める。
だがすぐに激しく首を振って叫んだ。
「違う!」
長い髪が乱れる。
強張った顔で慌てて身を起す。シーツを跳ね除けて何も纏っていない白い身体が現れた。
丸みを帯びた胸やしなやかな二の腕ばかりでなく、その臍の横にまで充血して赤くなった痕が残されている。
深い情欲を刻み付けられたその身体を今は酷く醜く感じる。
自分がやったくせに、目を瞑り緒方はその身体から視線を背けた。
「黙れ」
「違う、そんなつもりない、私は」
「何が違う!」
びくりと肩を揺らしてが口を噤んだ。
冷静になる為に息を吐く。
刺が疼く。
が何故緒方の言葉を欲しがらないのか。
簡単すぎて見過ごした自分の愚かさを笑う気も起こらない。
そう。
簡単なことだ。
何故なら緒方の言葉など初めっから欲しくないからだ。
言葉も行為も全部目眩しだったのだ。
憎悪を隠す為の。
だがはたったひとつミスを犯した。

「『私は緒方精次を倒さねばならない』……お前はあの時こう云ったな」

それは始まりの言葉のはずだった。
緒方がに興味を抱くきっかけとなった台詞だ。
だが本当は始まりではなかったのだ。
それは終わりの言葉だった。
「出て行け」
緒方は踵を返した。
ベッドに少女を置き去りにして。





寝室を出て緒方は居間に戻った。
一瞬躊躇して結局ソファに向かう。居間を通らねば貸し与えてやった部屋にも玄関にも行けないが、窓に面したソファなら背後を通り過ぎるの顔を見なくて済む。
苛々と煙草を唇に咥え、火を点ける。目の前のガラステーブルの灰皿を引き寄せようとして昨日のまま放置されていたマニキュアの小瓶たちと目が合う。
薙ぎ払ってしまいたい衝動が生じたが目を逸らすことで耐えた。
そんなことをするのがどれほど惨めか客観視できるぐらいには冷静さが残っているようだ。
一本を吸い終ろうとした頃、漸く寝室のドアが軋んだ。
その入り口で立ち止まった気配。
体温や呼吸が、何より視線がそこに立ち竦む人間の存在を訴える。
けれども緒方はその気配も視線も、空気中を伝播してくる感情全てを拒絶する。
耐え難いほどの怒りが今にも肌を突き破りそうだった。
そうやって暴発する代わりに静かに滲み出した怒りが水のように部屋に満ち、背後に立つ少女に口を開くことを禁じる。
新しい煙草に火を点したところで空気が動いた。
足音を殺して居間を横切り、奥の部屋へと消えて行く。
吐き出した煙のように、胸の内で湧き上がる感情。
贖罪を受け入れるつもりは無い。
なのに贖うこともしないその態度も許せないでいる。
醜悪で傲慢な自我だ。自覚をすることで一層憤りも嫌悪も深くなる。けれど荒れ狂う感情はどうしようもなく、どれほど見苦しく卑しいか認識は可能でもそれを自分で制御できない。
代償に噛み潰したフィルタはもう役目を果たすことが叶わず、緒方は挟んだ指で火を点けたばかりの煙草を真っ二つに折ると灰皿に投げ込んだ。
何度目かライターを口元に翳したところで、背後で躊躇いがちにドアが開く音がした。
衣擦れの音。
おそらく玄関への廊下の辺りか。
立ち止まり緒方の背中を見つめている。
だが緒方はを拒絶した。
残酷なテレパシー。
言葉にせずとも伝わってしまう。
跳ね返った愛情は強烈な憎しみに姿を変えた。
だからこその静寂。
どれぐらいそうしていたか。

が細い声で何かを呟いた。

けれど同時に鳴った幽かな金属音の所為で殆ど聞き取れなかった。
遠ざかる気配。
靴を履く音。
そしてドアが開き、閉まる音。
苦々しい終焉だ。
どうでもいい女との別れだってもう少しマシだった。
緒方はただ黙って煙草を吸っていた。
それを根元まで灰にしてから灰皿に捨てた。
新しい煙草に火を点け、消してはまた新しいものを咥える。
空になってしまった箱を握り潰し、新しい箱を開ける以外はひたすらその行為を繰り返す。
だが、やがてジッポーは火花が散り、煙が揺蕩うだけになってしまった。
火が点かない。
オイルが切れたようだ。
忌々しげに放り投げてから、緒方はやっとそれがのくれたジッポーだということに気が付いた。
眉を顰めて、視線をはぐらかす。
部屋はいつのまにか暗くなっていた。
日が暮れて部屋が暗闇に包まれてやっと。


緒方は自分が傷を負っていることを知った。



                                     窓の向こうは嵐だった。