ガキは嫌いだ。

だから6年前のあの日、きっと自分は自分を呼び止めた少女を冷たく見下ろしたに違いない。




  
    『私、緒方先生の碁が好きです』(ガキにオレの碁の何が解るんだ?)

     『だから私と勝負してくれませんか?』(クソ生意気なガキだな)

     『もし私が勝ったら』(馬鹿らしい)

     『もし私が先生に勝つことが出来たら、弟子にしてください』(そんな事、あって堪るか)







          ≪01 synchronicity≫







3月、日本棋院。
合同表彰式と新入段棋士の免状授与式が執り行われるため、今日ばかりは平素からは考えられないほど騒がしい気配が充満している。
それを感じつつエレベータを2階で降りると、緒方はすぐに会場には入らずにエレベータ横の灰皿へと脚を進めた。
歩きながら愛飲してるラークを揺らして、一本口に咥える。
通りすがり様に中を覗いてみたが、まだ始まっていないようだった。時計を見ると開始予定時刻の5分前。ちらりと見ただけでは塔矢アキラが何所に居るのか解らなかった。彼の性格を考えると、遅刻してくるとは思えない。すでに中に入ってることは確実だろう。
灰皿に辿り着くと、緒方はゆっくりと煙を吐き出した。
自分も出席せねばならない合同表彰式の開始にはアナウンスが行われるだろうから、慌てることはない。煙草を味わう余裕は十分ある。
そうやって煙草を煙らせつつ何となしに人の出入りを眺めていた緒方だが、見知った顔に僅かに眉を寄せた。
同門の芦原が会場から出てきた。
ただ一緒に居る人物が妙だった。
都内に住んでいれば見かけることもある、某私立高校のセーラー服を身に纏った少女を連れている。今年の新入段棋士はアキラを始め3名とも男だし、女流特別採用試験に受かったのは中学生と二十歳過ぎの女性だと聞いている。彼女は今日免状を受け取る誰とも合致しない。
どういうつもりだ?
緒方の視線に気付くこともなく、芦原は明らかに脂下がった顔でにこにこと少女に話し掛けている。
今時珍しい真っ直ぐの黒髪。ルーズじゃなくハイソックスを履いた脚はすっきりと伸びている。後姿を見た感じでは中々だ。
現に芦原は目尻を下げている。おそらくそれなりに可愛いのだろう。
まあどの道ガキには興味ない―― 。
緒方が灰皿に灰を落とそうとした時、不意に少女が振り返った。
観察していた所為で、目が合ってしまう。
芦原も少女に釣られて緒方を認めた。
「あ、お」
「緒方先生!」
芦原が声を発するより先に少女がぱっと笑顔を作り、緒方の名を呼んだ。呼ぶと同時に緒方の下に走り寄る。
「緒方先生!」
「うわ!」
声を上げたのはいきなり抱きつかれた緒方ではなく、芦原の方だった。その芦原の声に廊下に居た連中と、入り口付近に居た連中が何だ何だと視線を向ける。
内心の舌打ちを殺した無表情で、緒方は火を点けたばかりだった2本目の煙草を灰皿に押し付けた。少女の肩をやんわりと押し戻しながら、凍えた色で芦原を見る。
「芦原くん、誰だね、この子は?」
「え、えっとこの子はですね」
緒方の視線の強さに芦原が口篭もる。対して身体を引き剥がされても堪えた様子もなく、少女は瞳を興奮にきらきらさせながら真っ直ぐに緒方を見上げてくる。
「緒方先生、です、あたしです!」
?」
緒方は眉間に皺を寄せた。
そもそも名乗られたって女子高生に知り合いなどいないのだ。緒方には端から思い出そうと努力をする気はない。
どうやって突き放そうかと思案し始めた緒方に少女が思いもかけないことを云った。
です。6年前弟子にして下さるって約束して頂いた、です」
「6年前……?」
思わず反復していた。脳裏に何かが過ぎった気がして、緒方はそれを捕まえようと記憶を探った。
「さあさあ、ちゃんも離れて離れて」
黙り込んだ緒方に代わって、芦原が今にもまた抱きつきそうなを数歩下がらす。
「ええと緒方先生、彼女はですねぇ、今年中部地区第1位で合格したさんです」
「中部?」
それで顔を知らないことに納得がいった。中部と関西の新入段棋士はまだチェックしてない。ただ何故東京の学校の制服を着てここにいるか、という疑問が新たに芽生えたのだが。
「女流特別じゃなくて、しかも一発合格です。こう見えてやりますよ、彼女」
芦原が我がことのように楽しげに話す。その言葉に緒方も眉間の皺を消して、を改めて眺めた。
女流特別を純然たる男女差別だと云う声もあるが、男と女では脳の空間把握能力が男の方が勝っているというデータが在るのも事実だ。碁を打つのは生れ落ちた瞬間から男に分があるのだ。実際段が上がるにつれて、女性の数は減少していく。
そういう点を考慮すれば女流特別は差別などではないといえるが、それでも心のどこかでやはり自分と同じ土俵を勝ち上がってきた者を評価してしまう傾向があるのを緒方は自覚している。
が芦原の言葉に照れたように微笑む。
「だって緒方先生、正棋士で一発合格じゃないと弟子にしてくれないって仰ったから」
「え?ナニソレ?緒方先生そんなこと云ったの?」
芦原がきょとんとした目で緒方を見る。


    『……いいだろう。
     ただしプロ試験に一回で合格しろ、オレがそうだったようにな。それ以外は認めん』



緒方は整った指で無意識に口元を覆っていた。
意味もなくリノリウムの床の模様を目で追う。
今の感覚。何時何所でまでは解らない。だが、おそらくどこかで云ったのだ、自分は。
云ったのか?
自分はこの目の前の少女に?
「チャンスは一回きり。確実に一回で合格するだけの棋力を培うのと、両親への上京の説得にあれから6年掛かりました」
に視線を戻すと、酷く真摯な眼差しで貫くように緒方を見つめていた。
らしくもなく緒方は言葉に詰まった。
『まもなく合同表彰式および新入段棋士の免状授与式をおこないます。ご出席の方は……』
「あ、ヤバイヤバイ、始まりますね」
「ああ。中に入らないとまずいな」
芦原の言葉に頷いて、緒方は内心の動揺を感じさせない落ち着いた足取りでの横を通り過ぎ、会場に入った。
式はすぐに始まった。
表彰式は緒方にとって年中行事のようなものだ。毎年出席して毎年何らかの賞状を貰って帰る。テープを再生してるかのごとく、今年も恙無く表彰式は終わった。
ただ今年はアキラが居るから、例年よりは新鮮味が在るだろうと思っていた。だが、まさかあのような少女が現れるとは。
壇上ではちょうどアキラが免状を受け取っている。それに拍手を送りながら、緒方は壇上の後列に座っているに視線を向けた。
アキラの方を見ていて、は緒方の視線に気付かない。
(面倒なことになったな)
今や緒方はさっきの台詞を緒方自身がに語ったことを確信していた。
の云う通り、6年前のことだ。
自分がまだ5段で、今年高校入学ならあの時はまだ小学生だったはずだ。場所は確か名古屋。名古屋のホテルで日本棋院が企画した催しには現れたのだ。


       『もし私が先生に勝つことが出来たら、弟子にしてください』


40センチは低いところから、真っ直ぐに緒方を見上げてそう云った。
ガキは嫌いだ。
その場に居たのが緒方一人だったのなら、きっと相手にしなかっただろう。ただ回りに居た人間は愛らしい少女の挑戦を一様にほほえましいと感じたらしく、緒方が口を挟む隙もなく一席用意された。
仕方無しに席に着いた緒方には互戦を申し込んだ。
なんて可愛げのないガキだ、とあの時自分は思った。それをついさっきはっきりと思い出した。
緒方はにぎることもせずに黒石をの方に押しやり、さらに黒石を掴むと躊躇うに有無を云わさず掴んだ分全てを置いていった。いったいあれは何子あったのか正確には覚えていないが、十五子はあっただろう。それでも緒方には勝つ絶対の自信があった。
です、おねがいします』
『ああ』
まともに打つことも出来ないじゃないかと危ぶんでいたのに、石を持つに迷いはなかった。
ぱちんっ、と威勢良く第一子を置いた。
対して自分は投げやりにぱち、と置いた気がする。
そして結局

負けた。








周りにいた大人たちは皆笑顔でに良かったねぇ良かったねぇと云った。緒方が子ども相手にわざと負けてやったと思っている顔だった。
とんでもない。
途中から緒方は真剣にやった。だが挽回できなかった。ハンデだけの所為じゃない。互戦を申し込むだけのことはある。もちろん互戦でやったとしたら10回やって10回とも緒方が勝つだろうが、がここに来た大人の誰より上手なのは紛れもない事実だった。
あれだけ石を置いたことが引っかかってるような顔をしていたが、はそれでも嬉しそうに笑った。
『緒方先生、これであたしを弟子にしてくれるよね?』
我ながら大人気ないと思いつつ、緒方は笑顔で自分を見つめるにあの台詞を云ったのだ。『プロ試験に一回で合格しろ』、と。
あの時点じゃ合格はまだまだ厳しかった。体よく追い払ったつもりだったのに。
(まさか本当に合格しやがるとは)
苦味虫を噛み潰したような顔で緒方は壇上を見やる。
、名古屋出身、15歳。中部地区第1位、転籍により所属が東京に移りました』
アキラの時と同じように拍手が上がる。緒方は壇上のセーラー服ではなく、周囲に視線を流した。横の芦原などはアキラの時よりにこにこと熱心に叩いている気がする。もっとあからさまなのが座間王座だ。にこにこを通り越して、頬が緩みまくっている。
いっそ座間のところにでも行ってくれれば助かるのだが。
緒方はそう思わずにはいられなかった。






立食パーティが始まると、案の定は座間、一柳、それから真柴辺りに囲まれてしまった。
「やれやれ…すごいなぁ、近付けませんよ」
輪に混ざるのを諦めたのか、芦原が笑いながら緒方とアキラの所にやってくる。
「そんなに近付きたいのか?」
煙草に火を点けながらそっけなく告げると、芦原はからかわれてるのを解ってるのか解ってないのか、あははと笑い飛ばした。
「お近付きになりたいと思いません?現役女子高生棋士ですよ、可愛いじゃありませんか」
芦原がにこにこしながら振り返る。
紫煙の向こうに透けて見えるは確かに平均以上に可愛い容姿をしている。だが生憎緒方の目には『女』ではなくただの『ガキ』としか映らない。
「ロリコンだったのか、芦原」
「ひどいなぁ、僕まだ二十歳ですよ、そんなに違わないですよ」
「十分だよ、5歳も離れてりゃあの年代から見ればおじさんだよ、なぁ、アキラくん」
「え?あ、いえ、そんなことはないと、思いますけど……」

ここで是と云ってしまうと、より若いアキラもまた緒方と芦原をおじさんだと思ってることになってしまう。聡いアキラは言葉を濁す。
それが可笑しくて、緒方は伏し目がちに小さく笑った。そんな緒方を見てアキラはさらに困った顔をして、そういえばと芦原を見上げる。
さんの棋力はどれぐらいなんですか?」
「強い強い。17連勝して文句無しに試験半ばで一位合格決定だもん。同期でも真柴じゃ相手にならないんじゃないかなぁ。アキラくんとおんなじで何で今まで出てこなかったのか、って中部でも云ってたらしいけど、さっきの緒方さんの話聴いて納得がいきましたよ。犯人は貴方だったんですね、緒方先生」
「え?」
芝居がかって指を突きつける芦原と緒方をアキラが不思議そうな顔で交互に見やる。
「まったく罪作りな人だなぁ」
「芦原、何でお前さっきあの子と一緒にいた?面識があったのか?」
違う違うと大袈裟なまでに芦原が手を振る。
緒方は灰皿に煙草を押し付けた。はまだ一柳に捕まっている。そのと一柳の背後を真柴がうろうろともの欲しそうな顔でうろついている。
「電話がね、あったんですよ、塔矢名人のところに棋院から」
「何故?」
思わぬ名前に緒方もアキラも目を丸くする。
「塔矢名人と彼女のお父さんが同門だったらしいんですよ。あ、彼女のお父さんも棋士だったらしいんですけどね、そのご縁でご挨拶したいって」
父親が棋士だったのか―― 。
それであの年であの強さか。未だ一柳に捕まっているに視線を投げる。
「それで今度は塔矢名人から僕のところに慣れないところを案内してあげなさいって電話がありまして。午前中は東京観光してきましたよ、女子高生とデートですよ、いやあ役得役得。あ、プリクラ見ます?」
「結構」
「家にいらっしゃったんですか?知らなかったな…」
「合格してからアキラくんも忙しかったしね、それにちゃんもほんとに挨拶だけして帰ったみたいだよ。まだこっちに引越しがすんでない時にご両親と新幹線で来て慌ててとんぼ返りだ…ねぇ、なんかアキラくん、あっちで呼んでるみたいだよ」
「あ、はい」
週刊碁の天野が、アキラに向かって手招きをしている。どうやらを含め新初段を集めて写真を撮るようだ。
身長の関係か、アキラの横にが並んだ。天野の指示の合間に、少しだけ首を傾げた笑顔でがアキラに話しかける。何となく芦原も緒方もしばらく黙ってその撮影風景を見ていた。
「親を説得とか云っていたが、彼女は一人でこっちに来たのか?」
「ああ、そうらしいですよ。そこら辺のことも塔矢名人にお願いしに来たみたいだったし」
迷惑な話だ、と緒方は心中苦々しい思いで一杯だった。
大人しく親元でくつろいでいればいいものを。
「彼女もねぇ、いろいろ大変みたいですよー」
全然大変そうじゃない口調で芦原が云う。
「何が?高校合格しておまけに超難関のプロ試験まで受かったんだ、この上何を望むんだ?」
煙草の箱を取り出しながら皮肉げに笑うと、芦原が唇をへの字に曲げてみせる。
「意地悪だなァ、もう。さっき云った彼女のお父さんですがね、棋士だった、って過去形で云ったでしょ?6年前突然事故死されたらしいんですよ」
火を点けようとしていた指が止まる。
6年前?
ならばあの時、は父を失ったばかりだったとでもいうのか?
あの時のの様子を思い出そうとしたが、無駄だった。
服装も髪型も思い出せないし、6年前の少女の顔を思い出そうとしても浮かんでくるのは視線の先に居る15歳になったの顔になってしまう。
「それからまぁ女手ひとつで、って感じだったらしいんですけどね、去年そのお母さんが再婚されて。しかも相手の人にまだ小さな連れ子さんがいて、さらに今お母さんのお腹に弟さんが宿っているそうで。こりゃあ誰だって家に居辛いでしょ〜?」
火の点いてない煙草を唇に挟んだまま、緒方はの笑顔を見つめた。
心から楽しそうに笑っている。
隣に立つ年下のアキラよりも、よっぽどの笑い顔のが幼くて曇りがない。苦労をしてきたようには思えない。
天野と談笑していたアキラが、一礼してこちらに戻ってくる。そのアキラの後をどういう訳かがついてくる。さらに真柴もの後を追おうとしたが、緒方を認めてうっと怯んで足を止めた。
ちゃん、お疲れ様。午前中もあれだけ歩いて、午後は午後でこれじゃ疲れたでしょ〜」
「あ、いえ、大丈夫です。健康・頑丈なのが取り柄ですから」
早速芦原がにこにこと話し掛ける。
「それより、すっごい恥ずかしいんですけど!皆さんスーツですかって棋院に電話で訊いてみたら、スーツや学制服ですよっていうから制服で来たら誰も着てないじゃないですか!あ〜もう失敗した、ちゃんとスーツ着てくるんだったぁ」
そう云って頭を抱えてみせる。
アキラが珍しくもくすくすと笑いながら、ドリンクを差し出してやる。
「平気ですよ、事務の方がそう云ったんなら別に問題ないはずですから」
「ありがと、アキラくんは良いよ、ちゃんとスーツだもん。白地に黒があったらどうしたって目に付くでしょ?さっきっからずーっと珍しそうにじろじろじろじろ見られてんだよねぇ」
そう云って盛大に溜息を吐いて、渡されたオレンジジュースを一気飲みする。
「ははっ、ちゃんが可愛いからだよ。オジサンはみーんな鼻の下の伸ばしちゃってんだから。どう?対局もセーラー服で出たら、多分座間先生とか勝手に自滅してくれると思うけど」
「そんなの勝ってもこれっぽっちも嬉しくないですよ、芦原先生がやれば?貸しますよ、これ」
その言葉には頬を膨らまして、芦原を睨んだ。本気で機嫌を損ねたようで、ごめんごめんと笑いながら謝る芦原を見捨て、ぷいとどこかに行こうとする。
意外にも矜持は高い。
もっとちゃらちゃらしてるのかと思っていたのに。
くん」
緒方は寄りかかっていた壁から身を起した。
まだ眉の辺りに不機嫌さを漂わせながら、それでもが振り返る。
「一局打とう」












(悪くない―― )
煙草のフィルタを咥えながら、緒方は盤上を俯瞰した。
勝手についてきて勝手に観戦していた芦原がアキラを交えながら検討を始める。それを聞き流しながら、緒方はを見つめた。は芦原の言葉に真剣に耳を傾けながら、碁盤を喰い入るように見つめている。
芦原の言葉通り真柴などでは相手にならないだろう。アキラとまでは行かないが、それでもとうに初段の域は越えている。それなのにこれまで試験を受けなかったのは。
(オレの所為、か)
確実に。
与えられたチャンスは一回。
その為に6年費やしたとは云った。
(オレも焼きが回ったな)
紫煙を吐く。
くん。オレは君を弟子にすることは出来ない」
弾かれたようにが盤から顔を上げた。
目を見開いて、そして今にも泣き出しそうに眉を歪める。
「何故ならオレ自身が塔矢名人の下で学ばせて貰っている身だからだ。君の云うような弟子、門下生を持つような身分ではない」
「でも、でも先生、あたし」
「最後まで聞きたまえ。ただし指導碁なら話は別だ。お互い時間が合うなら、いつでも打ってやろう」
すでに半分瞳を潤ませていたの顔がぱっと輝く。
物凄い勢いで、膝頭に額がつくほど身体を折って頭を下げる。
「それで十分です、ありがとうございます、緒方先生!」
「良かったねぇ…ん、ちゃん?」
は自分の膝に顔を埋めたまま、面を上げようとしない。「どうしたの?」、と芦原が心配そうにその横にしゃがみ込む。
緒方は溜息を吐いて、スーツから皺一つないハンカチを取り出した。
くん、これを使え。顔を上げなさい、芦原が困っている」
「……………すい、ません………ごめんなさい……ありがとうございます」
片手で恥ずかしそうに顔を覆いながら、緒方の手からハンカチを受け取る。
年頃の少女には不似合いなグレーのハンカチで頬を押えながら、が泣き笑いの顔で芦原に謝る。突然自分より年上の者に泣かれたアキラは、ただびっくりした顔でを見下ろしていた。
「……ごめんなさい、もう大丈夫です……なんというか、うん、気が抜けて……えへへ、小学生からの野望でしたから……」
笑った拍子にの目から最後の涙の粒が零れる。
それに心を動かされた様子は微塵もなく、緒方は皮肉げに唇を歪めた。
「君は何故オレに拘る?碁を見てもらいたいならオレよりよっぽど適任が居る。それに6年前といったらオレはまだ5段だ。そこの芦原レベルで、オレが君の立場だったらとても教わる気にはなれないと思うが」
「うわあ緒方さん酷いなぁ」
「6月27日の棋譜を見ました」
緒方は目を見開いた。
未だ瞳を濡らしてるくせに、が緒方の目を真っ直ぐに見返してむしろ淡々と言葉を紡ぐ。
「あれが全てです。私はこの人の元で学びたいと思いました」
くっと喉の奥から笑いが漏れた。
緒方は始めての前で笑った。
『6月27日――』
(アレか)
緒方の中で最も会心の碁。
もう6年前の話だ。だが6年後の今もあれよりも納得の行く碁が打てたことはない。
あの一局は重荷でもあり、まだ自分は上に行けるという支柱でもあった。
あれを見たのか。この小娘が。
そしてそれ故にオレを選んだというのか?


本当に
クソ生意気なガキだ


突然の忍び笑いにもアキラも芦原も、呆気に足られたような顔で緒方を見つめる。
碁盤の横に置いていた煙草を掴むと緒方は立ち上がった。
そのまま出口に向かう緒方に、が慌てて立ち上がる。
「先生!あたし先生の碁が好きです!」
「それはありがとう」
立ち止まることも振り返ることもせずに緒方はそっけなく云い放ち、ノブを回した。
「それから先生のことも好きです!」
「芦原、鍵返しといてくれ」
緒方はそれには返事をせずに、部屋を出た。