緒方は何の躊躇もなしにその首に刃を差し込んだ。

中骨に当たるまで切り込みを入れ、ひっくり返すと同様に包丁を入れていく。骨に達すると一気にその頭を落とす。
「おい、頭はどうするんだ?これも鍋に入れるのか?」
緒方の問いにすぐ横で野菜の下茹でをしていたがぎょっとした顔になる。
「入れないですよ!ヤですよ、そんな生首入ってたら!」
生首という表現が気に入って、緒方は三角コーナーに鮭の頭を放り込みつつ咽喉の奥で笑った。
胴体をみっつに切り分け三枚におろしていると、下茹でを終えたが横に並んで緒方の手元を覗き込む。
「先生、石狩鍋喰べたことないの?入ってなかったでしょ、頭なんて」
「ダシが出るかと思った」
「出ませんよ、多分」
呆れたような口調では一口サイズに切ったものに塩をふっていく。
緒方の師匠である塔矢行洋の下には季節ごとに様々な物が届いた。蜜柑、林檎といったスタンダードな果物から、松坂牛、ラム肉、蟹、地酒、チーズ、さくらんぼ、とありとあらゆるものが届けられる。その中で毎年鮭を送ってくる人物もいるのだが、今年は間の悪いことに一週間と開かない内にもう一人送ってきた者がいた。
それで緒方の所に丸々一匹の秋鮭が転がり込んできたのだが。
料理するのは女に押し付けているくせに、どうして魚をさばくことは男の仕事だという文化も日本にはあるのだろう。
別に毎回やらされるわけじゃないし、すこぶる不満があるわけではないが不思議だった。
一部を鍋用に、残りを切り身や冷凍庫保存用にさばき終え、手を洗いながらそんな矛盾を考察してみる。全くもってどうだっていいことだ。
「先生ごくろうさまー」
捲っていたシャツの袖を戻しながら台所を出ると、は卓上コンロの火力を調節していた。土鍋の蓋を取って中を覗き込むとまだ昆布が悠々と泳いでいるだけだった。
「煮立ったら赤味噌溶かして砂糖とみりん入れるの。具を入れるのはそれから」
「時間かかりそうだな」
その言葉に可笑しそうにが瞳を細める。
「そういう時間をかけてゆっくり喰べるのもお鍋の楽しみだと思うんですけど?いいじゃない、今日ぐらいゆっくりしましょ。先生、このところ忙しかったんだから。なんなら携帯の電源オフにしておいたらどうです?」
土鍋の前の椅子を斜めに引き出すと腰を下ろして脚を組む。煙草と灰皿に手を伸ばしながら、その一瞬の間に携帯を切っておいた場合どうなるかをシミュレートする。
「却下。打ち合わせの調整が今日中にできなかったら不味いことになる」
「ワーカホリック。そのうち病気になっちゃうんだから。塔矢先生だってきっとそんなふうだったから急に倒れちゃったんだよ」
「入院したらナース服着て深夜に触診に来てくれ」
「もうバカじゃないの、先生」
鍋の様子を見ながらが笑った。鍋から顔を背けて煙を吐き出しながら緒方も笑う。
だが蓋を戻していたが何かを思い出したように不意に「あ」と小さく呟いた。
「先生、急須どこ?せっかくだから良いお茶買ったの。さっきちょっと探してみたんだけど見つからなくて」
「この家に急須なんかないぞ」
「えっ!?」
まるで感電したみたいにがその目を見開く。
テーブルに両手を着くと、緒方の向かい側から慌てて身を乗り出してくる。
「嘘でしょ!?えっと確かに私今まで見たことなかったけど、普通どこの家にもあるものでしょ、急須なんて?」
「その理屈で行くと生憎ウチは普通じゃないようだな」
「そんなぁ〜」
へなへなとの身体がテーブルの下にしぼんでいく。鮭や白菜の載った大皿の向こうに平べったいパッケージを発見して、緒方は身体を捻ってそれを引き寄せた。
八女星野村玉露、50グラム、2300円。
裏を返して値段を見てもいまいち緒方にはピンと来なかった。玉露が高級品であることは知っている。味も判る。師匠である行洋の家で出されるものの方が明らかに棋院で出されるものより美味い。だが緒方は普段コーヒーしか飲まないし、は紅茶党だ。自分で買わないので50グラム2300円がどの程度のものなのか判断がつかない。
興味を失った緒方はの傍らにお茶を放り投げる。
「別に急須じゃなくてもお前のアレで日本茶ぐらい淹れられるだろ」
「私の大事なワイルドストロベリーちゃんで淹れろって云うの!?先生ヒドーイ!」
沈み込んでいたの首が勢い良く出現する。
何が酷いのか緒方には理解不能だが、『私の大事なワイルドベリーちゃん』とはが大事にしている、幸福な妊婦みたいに丸みを帯びたウエッジウッドのティーポットのことだ。専用のカップを買いに行った時にそのティーポットの入った陳列棚の前から動けないという、非常に解りやすい行動を見るに見かねて買ってやったものだ。
その後も砂糖壷やら皿やら気が向けばご機嫌伺いに利用した所為で、緒方には恐ろしく不似合いな苺柄の陶器が今では結構な種類この家にはあるはずだ。
「構造的には急須だろうとティーポットだろうと大差無い」
非常に大雑把かつ正鵠を射抜いているその言葉に、今度ははその額をテーブルに突っ伏してしまう。
「ああもう〜予定ってこうして狂ってくのね〜。じゃあ先生、湯飲み茶碗も無いよね、ああもう私のバカ〜どうして買いに行く前に確認しなかったかなぁ〜」
「湯飲み茶碗はあるぞ」
「え?」
云ってしまってからしまったと思う。
あることはあるが、アレは自腹を切って大枚はたいてでも全てこの世から回収してしまいたいようなブツだった。
自分らしくもない迂闊な発言に内心舌打ちをする。
「お寿司屋さんのでも別に良いですよ?」
緒方の渋い表情をどう解釈したのかがそんなことを云う。
「そうじゃない」
いや、アレを引っ張り出すぐらいなら寿司屋ので十分だ。しかし訂正を重ねる前にが立ち上がってしまった。
「先生、どこにあるの?私探してくるからお鍋見てて」
その言葉を無視して緒方も席を立っての後を追う。
煙を吸い込みながら脳内で忙しく数パターンの選択肢を展開していく。寿司屋が持ってきたものかどうかは忘れたが、とにかく貰い物のセンスの悪い湯のみは確かあったはずだ。下手に今更湯のみがないというよりはそれで場を濁した方が賢明だろう。
そう思って咥え煙草で台所に踏み込んだ緒方はぎょっとした。
まるで謀ったようには緒方が隠そうとしているものの仕舞ってある棚に屈み込み、おまけに開けた扉の奥から丁度手のひらほどの小さなダンボールを取り出したところだった。
しかも上手い制止の言葉を捜す前に、は蓋を開けただけで最悪の正解を吐き出した。
「アレ?これもしかして先生の湯のみ?」
踵を返すことで現実から目を逸らした緒方の背中にさらにが追い討ちをかける。
「えー何だか懐かしいー。私、実家でコレ使ってたんですけどー」
咥えた煙草の先から灰が床に落ちた。
それを踏み躙って緒方はテーブルに戻る。ふと顔を上げると、赤っぽい味噌と砂糖と、おそらくはみりんらしきものが取り分けられた小鉢が目に入った。
おもむろに土鍋の蓋を開けると、緒方はそのみっつを全てぶちまけた。
そして混ぜもせずに鮭の切り身に白菜、長ネギと立て続けに適当に放り込んでいく。
汁が溢れそうになるまで具を入れると、漸く気がすんだのか蓋を閉める。
そして額に祈るように組み合わせた拳を押し当てると深々と溜息を吐く。
緒方の湯のみ。
それは緒方が九段になった時に、棋院のオリジナルグッズとして「遊神」という揮毫と「緒方精次」いう文字を入れて発売された湯のみを指す。
緒方にしてみれば自分の名前入りの湯のみの存在など最大級の羞恥プレイもいいとこだ。これほどの拷問はそうざらに無いと思う。
そんな緒方にとって人生の汚点とも云うべきものが何故この家にあるのか。
あの棚の奥深くに沈めてあったものは、ご丁寧にも湯のみが完成した時に緒方の分にと棋院が確保してくれたものだ。一部の棋士の間では名入りの湯のみの発売が一流の証といった、緒方に云わせれば下賎な趣味の風潮は未だひっそりと存在する。
そんなくだらないミエから知り合いに配る棋士も居るので、気を使ってわざわざ持ってきてくれたのだ。もちろん緒方にとっては全く持って大きなお世話だ。実家にさえこんなもの送っていない。
最近では無意識に身体が売店に近付くことを拒んでいたので、その存在を無かったものと綺麗に忘れていたのに。
まさかこんな形で思い出させてくれるとは。
緒方は再度深々と溜息を付く。
しかも実家で愛用していたとはなんなのだ、も。
あんな趣味の悪いものよく使う気になる。
だいたい遊神という文字が解らない。
いったいどこから付けたのか。
唐突に緒方は弾かれたように顔を上げた。
不味いことを思い出した。
あの湯のみ。
確かあの中に紛れて。
椅子を蹴って立ち上がり、振り返ったところで緒方は目を見開く。
が微笑みつつ背後に立っていた。
「先生、コレ、なぁーあに?」
微笑んでいる。微笑んでいるが、その瞳はこれまで見たことが無いほど冷え冷えと透き通っている。
そしてそのワンピースの胸元には両手で掲げられた緒方精次と名の入った湯のみが在った。
だがその横の遊神という文字、その横に黒マジックででかでかと『女』と文字が書かれているのだった。
舌打ちをする気にもなれず、緒方は椅子に逆戻りすると皿の上の鮭を睨む。
全ての元凶はコイツな気がした。
「あと他にも夜遊神とか寝技遊神とかホテル王とかホステスキラーとかいつか刺されますよとか色々書かれてたんだけど、何?」
緒方はの無表情な言葉たちを聴きながらとりあえずこう思っていた。
芦原殺す、と。
が持っている誠に芸術的な『女遊神』の湯のみの製作者は芦原弘幸だ。
棋院の人間が緒方にと湯のみを持ってきたのは行洋の自宅で研究会を開いている時だった。
できたての湯のみを師匠である行洋の目にも触れさせてやろうという、非常にありがたい心遣いによるものだったらしい。この時の緒方は血管が千切れそうなほど嬉しかったに違いない。
行洋が持ってきた人物と話し込んでいる最中、できることなら叩き壊したいのを我慢する為に緒方は外に煙草を吸いに行った。その隙に芦原が一文字書き加えたのだ。
緒方が外から戻ってきた時、すでに数点の湯のみに先程がそらんじてみせたような戯言が黒マジックで書き込まれていた。
そんな下らないことで心底楽しそうに大騒ぎする芦原たちに、緒方は馬鹿かこいつらはと呆れた。だがこの悪戯に気付いた行洋はせっかく持ってきてくれたご好意になんてことをするんだ、兄弟子にも失礼だろうと怒って、確か主犯格である芦原と数人はあの広い家の全ての廊下の雑巾がけと窓拭きをさせられたはずだ。
結局、立場上仕方なしに別に私は気にしてませんよと仲裁に入って、問題の湯のみもそのまま緒方が全て引き取って持ち帰った。帰り際どこか適当に捨ててしまうことも考えたが、自分の名前の入ったものを放置するのも後味悪く、どうせ台所の棚などがらがらだからと思って持ち帰ったものだ。
あれからこの湯のみがあそこに住み着いてからもう数年が経過している。
これまでただひっそりと余生を送っていたものが、まさかこんな因果をもたらすとは。
「聴いてるの、先生?」
身に覚えのある、ここしばらくは忘れていた修羅場特有のぴりぴりした緊張感が忌々しい。
褒められた過去じゃないがしかし今更責められるのも納得がいかない。
「ああ、聴いてるよ」
「嘘ばっかり」
いつになくきつい口調で云い捨てると、は湯のみを些か乱暴にテーブルに置いて部屋を出て行ってしまう。
緒方は深々と溜息を吐いた。
ほとんど義務感からとりあえず後を追わねば、と脳が指令を出しかけたところでが戻ってきたから緒方は驚いた。
てっきり篭城か失踪のどちらかだと思ったのに。
不機嫌そうな足取りで歩み寄ってきたが緒方の額に影を落とす。顎を上げて目を合わせてみると、やはりの瞳にはちらちらと苛立たしげな色が滲んでいる。の行動を読みきることは難しい。どうせ外れるなら初めから憶測は捨て、緒方はじっとの瞳を観察する。
何かを云えば云ったで怒るくせに、何も口にしない緒方を責めるみたいにが唇を尖らせた。
殴られるとは思ってなかったが、程度で云えばそれは殴られるのと同じレベルで意外だった。
ふわりと甘い身体が緒方の胸に凭れてきたのだ。
思わず条件反射で緒方はその腰を支えていた。
何の前触れも無く膝の上に座ったが緒方の左の腕を取る。そしてまるでさっきのまな板の上の鮭みたいにテーブルに載せた。
握られたの右手の中で何かがきらめく。
「おい、
シャツの袖を捲り上げられたところで緒方はの目的を察知する。
だが胸で抱えるように押さえ込まれ、緒方は抵抗を諦めた。無理に引き抜けば腕を取り返すことなど容易かったが、これでの気が済むなら安いもんだと打算が働いた。
冷えたルージュが肌を走る。
「…ふーんだ。先生なんてそれで外歩けばいいのよ」
目的を遂げたが軽やかに膝から逃れる。
嫌々ながら左腕に視線を落とすと、可愛らしいピンクのルージュでこう書かれていた。

女好き エッチ星人

指でこすってみたが掠れただけで薄っすらと色が残る。
全くもってのセンスも最悪だ。
おそらくクレンジングを使わないと落ちないだろう。
だがマジックでない分まだマシだと思うべきなのかもしれない。黒マジックよりは口紅の方がまだ色気がある。
シャツに付着しないよう、袖を捲り上げていた指が止まる。
顔を上げる。少し離れた位置から唇を尖らせて自分を睨み付けている恋人。
その手に在るルージュ。
我ながら馬鹿なことを思いつく。
緒方は立ち上がった。
「な、に?何、先生?」
無言で立ち上がった緒方にが一歩後退る。
「だって先生が悪いんだよ、どうせ女遊神とか云われちゃうようなこといっぱいやってたんでしょ?」
早口でまくしたてるのは恐れの裏返し。
すり抜けようとするその身体を緒方は抱き締める。
そして片手でワンピースのファスナーを一気に引き下ろした。
「先生!?」
狼狽えるの手からルージュを奪う。
緒方は細い腰を抱くようにして強引にテーブルの前まで移動させると、片手でを拘束したまま置いてあった皿を脇にずらす。
「先生!」
抗議の悲鳴に耳を塞いで、ぐるりとその身体を回すと半ば無理やり押し付けるようにしてテーブルにうつぶせにさせた。首をおさまえると背中と布地の隙間に指を突っ込み、左右に広げる。下着のホックを外すとのもがく様が一層激しくなった。
「嫌!先生離して!先生ってば!」
その声に全く耳を貸さずに背中や肩を覆う艶のある黒髪を適当に左右に分ける。
瑕ひとつない、白い背中が露わになった。
うなじを左手で捕らえたまま、緒方は唇でルージュのキャップを外す。
1センチほど先を伸ばすと、その先端を右の肩口に押し付ける。
「大人しくしてろ」
後はほとんど迷わなかった。
躊躇うことなく腕を動かす。
時折指を使って輪郭をぼかすと、の身体は大げさなぐらいに震える。
描ききった頃にはいつのまにかも静かになっていた。
「……動いてもいいぞ」
緒方がそう告げて拘束を解くと、重々しい吐息を吐きながらが身を起こす。
「先生、ばかじゃないの…」
片手でワンピースがずり落ちないよう胸の前で押さえつつ、ぎこちなく乱れた髪を梳くその背中。
右の肩口の花群から始まって、左の肩甲骨と腰に向かって蔓を伸ばす花々。
まるで刺青のように白い肌で鮮やかに咲いている。
それを眺めて緒方は酷く満足げに口元を緩めた。
ギュスターブ・モローの描いたヘロデ王の前で踊るサロメ。
衣の変わりに刺青を纏った淫蕩で清純で邪悪な女。
ヘロデ王に踊ることを要求されたサロメはその褒美として自分の愛する男、ヨハナーンの首を望む。
オスカー・ワイルドの戯曲でのサロメはさらに強烈だ。自分を拒み続けたヨハナーンの首を手に入れたサロメは、その唇に口付けて恍惚となる。私はおまえに接吻したわ、と。
激しい恋情に身を焦がした狂った女に緒方はどこか惹かれていた。
「先生、これどうするつもり?」
服が汚れることを恐れているのかはさっきから微動だにしない。機嫌を直したというより、それに気を取られたの口調は元通りになっている。
緒方は点けっぱなしだったコンロの火を消した。そういえばさっき自分はとても適当に鍋を製作してしまった気がする。嫌な予感がするので蓋を開ける気にもならない。
「食事って気分じゃなくなったな」
ルージュのキャップを戻していると、ふと湯のみが目に付いた。あの芦原作・女遊神の湯のみだ。
もし芦原が何かの手違いと人生の幸運を全て費やして偶然九段になって、緒方と同じように湯のみが商品化されたとしたら、あいつが二段になった時にせがまれてソープに連れて行って筆下ろしさせてやったことや十八まで素人童貞だったこと等の芦原の輝かしい下半身の歴史を仔細に書き記した湯のみを売店のサンプルとすりかえてやろうとさっきまで考えていたが、それは勘弁しておいてやろうと思う。
たった数分でずいぶんと短くなったルージュをテーブルに立てると、へと指を伸ばす。ワンピースを肩から滑らせながら緒方は笑う。
今夜はヨハナーンのように緒方はの唇を拒むかもしれない。
の背に在るのはモローの描いたアラベスク文様ではない。昔緒方がどこかで見た宗教画の唐草模様に近い。だがどうせならその一夜限りの刺青を眺めてを抱きたかった。
「とりあえずベッドに行くか?」

確かに芦原の云う通り、緒方は『女』で『遊』んでいた。