その場に居る全員が重苦しい空気を共有していた。
皆、押黙って時計を凝視している。
たかだか六十秒が三回、たった三分が酷く長く感じる。
もう結果は解っている。揺るぎなく決定しているといっていい、どう足掻いても撤回は不可能だ。だがそれでも塵のような可能性を捨てきれず、ただひたすら時が過ぎるのを待つ。
それは多分ここに居る誰もがこの結果に納得が出来ないからだ。
「……時間です」
瞬間、重圧から解放されたようにあちこちで息が吐きだされた。
緒方も細く息を吐き、眼鏡を外す。
目の前の盤上は空虚だ。
その向こう、持てる知略を涸れさせてでも倒してやろうと身構えていた男の姿は無い。
「十段戦第三局、緒方九段不戦勝です」
その声に記者連中が立ち上がり部屋を出て行く。
碁盤の前で正座をした姿で、緒方は奥歯を噛んだ。
心中ではタイトルを貪欲に奪おうとする野心と、こんな形での勝利に納得できない青臭い潔癖さが鎬を削っている。
どちらも本心であるが故に延々決着がつかない。その所為でどうにもできない苛立ちだけが燻る。
「緒方先生」
おずおずと掛けられた声に顔を上げる。
時計係の新初段が申し訳無さそうに中腰ですぐ横に佇んでいた。どうかしている、これだけ近くに立たれているのに完全に気が付いていなかった。
「すいませんが片付けても宜しいですか」
「ああ、すまない」
緒方は眼鏡を戻すと立ち上がった。
廊下に出るとさっき真っ先に部屋を出て行った天野たち記者が居た。緒方に気が付くと、天野は「じゃあ頼んだよ」と会話を切り上げてこちらにやってくる。
「緒方先生、何はともあれ二勝目おめでとうございます。あと一勝すれば念願のタイトルホルダーですよ」
「不戦勝で拾ったタイトルでも?」
緒方の皮肉に天野が苦笑いする。
煙草に火を点け、灰皿を求めて歩き出した緒方の後を天野が続く。
「次は大丈夫ですよ。塔矢先生、気が付かれたそうですし、大事には至らなかったって話ですから」
「だといいが」
煙と共に気持ちの篭っていない返事を返す。天野は再度苦笑して、仕切り直すように「そういえば」と切り出した。
さん、中部戻ってから調子悪いみたいだね。最近ずっと黒星みたい」
灰を払っていた指が止まる。
「そうですか」
緒方はまだ十分な長さのあった煙草をそのまま灰皿に押し付け、捻り消した。
「明らかに調子落ちてますよ。あの子は女の子だったけど、結構伸びるんじゃないかと思ったんですけどねぇ。云い方は悪いけどアキラ君と同じ様に華があるから、ああいう子が出てくれると囲碁界も活気付くし、記事にしやすくてありがたかったんだけど。先生のところに連絡あったりするんでしょ?どうなんですか、彼女?」
「連絡なんてないですよ」
緒方はスーツの胸ポケットからラークの箱を取り出した。
そっけない回答に天野が目を丸くする。
「え?無いんですか?あんなに仲良かっ、た…あ〜いや失礼、面倒見てあげてたのに?」
「最近の若い子なんてそんなものですよ。新しい居場所を見つけたら過去の自分を振り返るような暇は無い」
新しい一本を咥え、安物の百円ライターを口元に翳す。
だが、かちかちと鳴るだけで肝心の火が点かない。七回目が鳴ったところで、瞳を眇めて緒方はライターを下ろした。
「いやあでもさんは礼儀正しかったし、先生にあれだけ懐いていたんだからそのうち連絡してきますよ。まあお母さんが具合悪いんなら仕方ないですよ、心配だろうし下の子の面倒とか家事の負担が全部あの子に掛かるんだろうし。せっかくこっちに来たのにとんぼ返りでしたものね、結局6月半ばで実家に帰ることになっちゃって。可哀想に、慌ただしかったなぁ、あの時は」
気遣うような天野の声を無視して灰皿の隣に合ったゴミ箱にライターを落とす。捨てられたライターは殆ど空に近かったプラスティックの底に激突してごとんと鈍い音を立てた。
「あれ、先生そういえばジッポー使ってませんでした?どうしたんですか、あれは?」
「無くした」







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盤上の線と線、それは同時に戦と繊だ。鮮やかな黒と白が踊る。その円やかな曲線を裏切る鋭さ。複雑な戦術と絡み合う単純な目的。闘う理由なんかひとつだ。
勝つ為に。
それだけだ。
心を占有するのはそれだけでいい。
むしろそれ以外、それ以上に心を奪われてはならない。それなのに。
(勝てる気がしない――)
「ここで緒方くんちょっと手堅くいっちゃったよね。塔矢さんの判断が……」
一柳の声は耳に入っている。はっきりと聴こえている。
だがその声は単純に鼓膜を響くばかりで、まるで自分一人だけが外部と内部の時間軸がずれた世界にいるようだった。周囲の景色を酷く遠くに感じる。
一柳の言葉が途切れた。惰性で口を開く。
「こっちに白から打たれるとつらい気がして………」
あの時は確かにそう思った。
しかし別の一手も思い付かなかった訳ではない。
「ここはこうツイで勝負に来られるかと思っていたよ」
「そうそう」
だが緒方はそうしなかった。
今更こんなこと云っても所詮結果論だ。だが今思えばそちらを選んでいたのなら付け入る隙を与えることも流れを手放してしまうこともなかったかもしれない。
第三局では叶わなかった対局がこうして実現した。前回は空白だった席に今は塔矢行洋が座している。勝敗は別としても望んでいた結果を緒方は手に入れたはずだった。
それなのに周囲で交されている言葉の群れは相変わらず遠い。胸に届かない。
囲まれているのに緒方は孤独だ。外界を拒み孤立して、空の淵から己さえ俯瞰している。
『勝てる気がしない』
ぼんやりと心臓の片隅に浮かんだ言葉。
けれど『勝てる気がしない』というのは少し違う気がする。
そうではない。

『勝つ気がない』、と云った方が近いか。

ぶるりと拳が震えた。意識の表層を過ぎった言葉に愕然となる。
馬鹿な。
自分で自分の考えにぞっとする。
そんなもの、棋士として致命的だ。
だがするりとその言葉は胸に落ち着いた。確かにそれならばこの情けない対局も納得が行く。端から勝つ気がなかったのならばわざとあそこで勝負を汚したのだ。
震えた拳を隠すように碁石を集め始める。みっともなくじゃらじゃらと小煩く石が擦れたが、それどころではなかった。
碁盤の上に置くと、底で擦れた白石が責め立てるように一際大きく鳴いた。
「すみませんがお先に失礼します」
緒方は逃げるように立ち上がった。
「緒方さん飲みに行くのなら私も!」
追いかけてくる声。
それを振り切るように足を速める。
『勝てる気がしない』、そして『勝つ気がない』。
けれどおそらく『勝つ気がない』というのも正解ではないのだ。

『勝ってはいけない』

それこそがきっと正しい。












「大事な一戦って来週?」
呆れたような顔をしながら八重子が髪を掻き揚げた。それでも連絡もなしに突然やってきた挙句、今度は唐突に帰ると云い出した緒方を玄関まで見送りに後を付いて来る。
草薙八重子。
緒方の『親しい友人』の内の一人だ。
「気ばらしに遊びに来るのはかまわないけど、少しは楽しそうにしたら?私といてもオモシロクない?」
「碁よりオモシロイものなどないよ」
その返答にふと既視感を覚える。
どこかで自分は似たような台詞を吐いた気がしたのだ。
「ま、つまんない男」
それを思い出す前に八重子の声が緒方を現実に引き戻した。
責めるでもなく、わざとらしく溜息を吐いたりもしない。だからこそ他の友人たちと違い、長い付き合いが可能なのだろう。八重子は緒方の知る限り哀しいぐらいに賢い女だった。
「ピリピリしてると負けちゃうわよ。応援してるわ、がんばってね」
「タイトル戦の名も知らないくせに」
そのまま背を向けようとして緒方は脚を止めた。いつもならとっくに中に入っているはずの八重子が未だそこに立ち尽くし、唇に指を当てて何かを躊躇うような眼差しで緒方を見つめていたからだ。
「どうした?」
「……何でもないわ。ごめんなさい、引き止めるような真似をして。タイトル戦の名前、次までに覚えておくわ」
上品な微笑はやわらかだがそれ以上の会話を封じ込む。続く追求を許さずに八重子は小さく手を振ってドアの向こうにするりと消えた。
逆に八重子を見送る形となった緒方は、閉じたドアの音を契機に一時停止させていた脚の活動を再開させた。だがエレベータの前まで辿り着いたところで緒方はふいに苦いものを口にしたように顔を顰めた。
さっきの既視感の正体。
真っ赤なタワーの麓。
車の中。
助手席の影。
緒方は舌打ちをして乱暴な足運びでエレベータに乗り込んだ。
駐車場に降りて、車に乗り込む。煙草を取り出すと、傷ひとつないジッポーで火を点ける。
ジッポーは例の不戦勝の愛媛から戻った足で銀座のデパートで適当に買ったものだ。何かに急き立てられているがごとく性急に購入したのは、多分天野にされた指摘が気に喰わなかったからだろう。
揺らぐ煙を見つめる。
「……本因坊戦は最終局で逃したが、今度の十段戦こそ」
口に出したのは決意の表れではない。
逆だ。目の前を泳ぐ煙のように揺らぎそうな自分を戒めるための。
第四局以降、緒方は自分の部屋でまだ朝を迎えていない。一昨日は店で、昨夜は八重子の部屋で夜を明かした。人恋しくてそんな真似をしているのではない。余計なことを考えない為にはそんな風に時間を喰い潰すしか手が思いつかなかったのだ。
十段戦、第五局は近い。
これに勝利すれば晴れて十段位を獲得できる。
本因坊を掴み損ねたのは純粋に緒方の力量の問題だ。精神的な脆弱さが駆け引きに出た。それ以外の所為ではない、絶対に。
あれぐらい大したことない。
それなのに。
どうして今更。
キーを捻りエンジンに火を入れる。
「帰る前にちょっと病院によって十段戦の相手の様子でもうかがうか」
子どもに云い聞かせるように口に出す。
そう。
きっと今の自分は駄々を捏ねている子どもと変わらない。







中央武蔵病院。
エレベータで7階まで上がり、ナースステーションの脇を角度のない会釈で通り過ぎる。
見舞いの品を持たない両手をポケットに突っ込み何気なく視線を向けると、塔矢行洋の病室の扉に昨日には無かった札が下がっていた。その札に書かれた文字を読み取った瞬間緒方は凍りついた。
「面会謝絶?」
口に出してみると途端に全身の血が一気に逆流し、汗が噴出した。
脳細胞が滅茶苦茶に空走し始める。
どういうことだ?
容態は安定していたはずだ、先日の対局の時だってもう心配ないように思えた。何も知らない人間なら行洋が発作を起したなどとは露にも想像しないに違いない、そう思えたのに。
何故。
何の前触れもなしにドアが開く。
心臓が止まるかと思った。
だが現れたのは食事のトレーを持った年配の看護婦ただ一人だった。毛ほどの慌てた様子もなく、落ち着いた仕草でドアを閉める。咄嗟に面会謝絶の人間が普通の食事など口にできるのだろうか、などと焦点のずれた疑問が浮かぶ。
訳が解らない、だが呆けている場合ではないと正気に返る。
「すみません!」
背中を向けて去って行こうとする看護婦を緒方は慌てて引き止めた。
「塔矢先生…何かあったんですか!?」
口にしてしまうと漠然としていた不安が現実めいて胸を締め付けてきた。

何か―

汗をかいているのに口内はからからに乾いている。
もしも塔矢行洋の身に何かあったら自分はどうすればいいのだろう。
右中指が痙攣した。
幻の碁石が自分の指の隙間から止めどなく零れ落ちていくような幻覚。
最悪のタイミングだ。
このまま塔矢行洋が儚くなったらきっと今度こそ自分は――
看護婦がちらりと面会謝絶の札に視線を投げた。
「ああこの札?」
緒方が今直ぐ聴きたいのはそんなことではない、塔矢行洋の容態だ。ほんの瞬きするほどの時間が酷く長く感じる。
「心配いりませんよ。塔矢さんに昨日頼まれて出してるだけですから。今日は一日人にジャマされたくないんですって」
その一言で緊張が解ける。何時の間にか握り締めていた右拳が弛緩して開いていく。
しかし今度は別の疑問が首を擡げた。続けざまに緒方は新たな疑問を投げる。
「ジャマ?」
「ネットで碁を打ってるんですよ。もうものすごく集中されてね」
「ネット碁?」
怪訝な顔で詰め寄る緒方に頓着した素振りもなく、看護婦はさも呆れたようにトレーを掲げてみせる。
「今だってホラ。食事をさげようと思って入ったんですけど手つかずで…」
確かに白米にも鮭にも箸で突付かれた痕跡はない。完全に手付かずのままだ。
「碁打ちは皆こうなのかしら」
去って行く太い背中を視界に収めながら、緒方の肺には安堵と入れ代わるように疑惑が湧きあがり充満していく。
暇潰しに、とパソコンを持ち込んだのは自分だ。入院中に退屈だろうし、何より十段戦の真っ最中だ。打てないことで調子を崩されてはこっちが堪ったものではない、現世の碁石とは勝手が違っても打てないよりはましだからと薦めた。
だから行洋がネット碁を嗜んでいても何ら不自然はない。
だが相手は誰だ?
面会謝絶にするほど、そこまで念を入れて対局を構える程の相手は誰だ?
緒方は踵を返すと、今し方やってきたばかりの病院を後にした。













薄闇に覆われた室内でパソコンのディスプレイが淡く発光していた。
部屋の中よりもむしろ街灯に照らされている窓の向こうの方が明るい。その所為で緒方の頬では反射したスクリーンセーバーが踊っている。
別に意識的に電気を点けないのでいるのではない、明かりを必要としない時間からここにこうして微動だにしていないだけだった。
さっきから脳内で何度も何度も再現されては崩れていく棋譜。
sai。
いったい何者なのか。
おそらく世界でも最強の棋士を跪かせた。
塔矢行洋が手を抜いていなかったことは明らかだ。そんな真似をするような男ではない、誰であろうと真剣に相手をする。
本物だ。
あの、saiだ。
しばらく姿を隠していた。
それが再び降臨した。
おそらくは塔矢行洋と打つ為に。
偶然ではない、では何時どこでどうやって約束を結んだ?
思い当たる人物は、居る。
突拍子もない推論にしか過ぎない。線として結ぶには根拠が曖昧だ。だが点として存在する彼の行動には不審な点が多い。
唇をなぞる。
さて。
どうやって口を割らせるか――
再度思考の海に沈もうとして緒方は現実に引きずり戻された。
床に放り出した上着、その下で携帯電話が震えている。
立ち上がったことで漸く緒方は自分の周囲が闇に塞がれているのを認識した。熱帯魚の水槽の明かりを頼りにジャケットをまさぐる。幸い救出した携帯のディスプレイの方は発光しているので暗がりでも困ることはない。
表示されているのは数時間前に別れたばかりの八重子だった。
「あ、もしもし緒方君?草薙ですけど、今お話しても大丈夫かしら?」
「ああ」
アーロンチェアーに再度腰を落ち着かせて、緒方は片手でデスクの上の煙草を探った。
しかし火を点けるよりも先に、ジッポーの蓋を押し上げようとしていた指の動きが八重子の言葉によって固まった。
「今朝云おうか云うまいか迷ったんだけど、終わりにしましょう、私たち」
咄嗟に反応することができず、取り敢えず中途半端に開いた蓋を閉じてみる。そんな緒方の沈黙をどう解釈したのか電話の向こうから八重子の楽しげな声が零れてくる。
「理由を云った方が良いのかしら?」
「教えてくれるのか?ずいぶん親切だな、せいぜい次回の参考にさせてもらうよ」
唇から指に煙草を戻しながらそう云うと、品の良さを思わせる囀るような笑い声が電話越しに伝わってきた。
その声とは正反対の溜息を吐き出しながら、背凭れに深く背中を押し付ける。僅かに仰け反ることになった視線の先にぼんやりと天井が映った。
確かに驚きはしたものの薄情なまでに何の感慨も覚えない。
実感が湧かない所為なのか、端から先のない関係と頭で解っていた所為か。
それとも。
「まず一つ目。あなたが私のことを何とも思っていないのは構わないわ、私もあなたを愛してないもの。でもね、他の誰かに心を奪われてる人に抱かれるのはごめんだわ」

八重子以外の誰かに心を奪われている所為か。

瞬間、無性に腹が立った。
八重子はとんでもない勘違いをしている。そんな訳が在って堪るか。
「おいちょっと待て八重子、俺は」
だがそれ以上は声が喉に張り付いて言葉にならなかった。
八重子を殊更大事になど思っていないのは事実だ。しかし今更嘘を吐いたぐらいで罪悪感を抱くほど青くはない。今までだってその場限りの幸せを買う為に嘘を使った。女を云い包める為の言葉なんか山ほど知っている。
なのにどういう訳か今だけは緒方の口はそれ以上の言葉を紡げなかった。
「それと…」
声を詰まらせた緒方の向こうの側の声も惑うようにそこで一度途切れる。
「多分決まったの、百瀬君に。あなたは覚えてないかもしれないけれど」
覚えている。
一度だけ聴いた。八重子の部屋で。
強かワインを飲んで悪酔いした美女はふらふらと部屋を出ると部厚い封筒を持って戻ってきた。そして自棄を起したように突然それをひっくり返して床に中身をぶちまけたのだ。
スーツ姿の男の写真だけが100枚近くあったか。その中からまるで神経衰弱でもやっているような不真面目さで八重子は数枚を抜き出した。
そして今にも泣き出しそうな顔のくせに笑いながらこう云ったのだ。
『あなたならどれにする?』
八重子の父は現在某大企業の専務理事の役職に就いている男だ。再来年の定年を前に子会社の社長として天下ることも既に決まっている。
そして八重子はその父親の後釜に座る男の下に嫁ぐことが決まっていた。
三年前初めて八重子と会った時、緒方は八重子をクシナダヒメと揶揄した。
当時八重子は女性の権利について論文を載せているような、本当に小さな出版社に勤めていた。仕事が出来ないわけではないが、父親のコネと明らかな腰掛ということで社内では浮いていたようだ。
女流棋士の特別枠という制度に関して取材に来た八重子を偶々天野に紹介された、それが付き合いの切っ掛けだった。
受け取った名刺を一瞥して「いっそクシナダと名付けようとは思わなかったのか?」と緒方は思いつくままに口を開いた。
下らない連想だった。スサノオノミコトが退治した大蛇の尾から現れたのがクサナギの太刀であり、その時読んだといわれる歌が『八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を』だったからだ。
意味が解らず瞬きを繰り返す天野を尻目に、八重子は美しく微笑んだ。
「そうね、その方が気が楽だったわ」
その時は八重子の言葉の意味など解らなかった。
だが大蛇退治の引き換えにスサノオに差し出されたクシナダヒメと同様に、八重子も見知らぬ男に献上されることが生まれた時から決まっていた。
それを知った時緒方はあの時の軽口を後悔した。
しかし生憎後悔したからといって容易く詫びを入れられるほどお互い若くはない。
「………そうか」
八重子の予断によって引き起こされた苛立ちは既に潮が引くように消えていた。
「俺は祝いの言葉を述べてもいいのか?」
「あなたが云うべきだと判断したのならどうぞ」
「なら止めとく。云える身分じゃないし、めでたいとも思えん」
「そうね、ありがとう」
やわらかく微笑む気配が伝わってきた。「ありがとう」に隠された意味を考えると少しだけ胸が痛む。
緒方は息を吐き出した。
「八重子」
凭れていた身体を起す。
「さっき君は俺が君のことを何とも思っていないし、君の方も俺をただの間男だと云ったが、少なくとも俺は」
「止めて。想い出を美しく飾ろうとしないで」
初めて聴くような清冽な口調。云い切られて緒方は言葉を失った。
ゆっくりと息を吐いて、そして再び身体を倒して椅子に身を沈める。
八重子の云う通りだった。今更何を告げるつもりだったのか。
「悪い……知らなかった、随分リアリストなんだな」
「女ですから」
八重子の声は誇らしげですらあった。
一瞬その強さに嫉妬に似た羨望を覚える。
「十段戦、頑張ってね、応援してるわ」
緒方は笑った。朝の台詞、『次までに覚えておく』。けれどもうこの次は無い。
「それから…、お幸せに」
緒方の言葉を待たずにぷつりと電話が切れた。おそらく掛け直しても繋がることはないし、明日になればこの番号からは無機質なアナウンスの応答のみが流れてくる。今ごろあのマンションももぬけの殻になっていることだろう。
携帯を握ったまま緒方は目を閉じた。
先程病院で感じた幻覚が甦る。
指の隙間から零れていく碁石。
幸せに。
八重子には悪いがそれは無理だ。
緒方は一生幸せになどなれないだろう。
脳裏に揺らめく棋譜。同時に閃いた考え。
打ちたい。
saiと打つ。
もうそれしか希望がない気がした。















いつもは人に溢れている待合室も日曜の早朝は閑散としていた。
気が急くままに脚を速める。
一晩の間に思いは膨張した。夜は今まで目隠しをして気づかぬ振りをしてきたことを引き摺りだしては暴いた。
saiが誰だろうとそれは構わない。ただ自分と一局打ってくれればいい。
緒方の望みはそれだけだ。
辿り着いた行洋の病室、漏れ聴こえる声にノックをしようとしていた拳を咄嗟に押し止める。
微かな声。
その声音はまだ幼い。その高音が脳裏に一人の少年の像を結ぶ。
緒方はそっとノブを回し緩めると、気配を殺し中へと入った。
「先生はそれでいいかもしれないけど、オレやだよ困るよ!オレのせいになるじゃん!」
思った通り――
進藤ヒカルだ、この声は。
その後に続いた言葉に緒方は目を見張った。

「saiとまた打ちたいんでしょ!?先生」

『やはり』なのか、『まさか』なのか。
不法侵入という非礼も忘れ、ふらりと緒方は脚を踏み出した。
「え?」
まるで誰かに呼ばれたようにヒカルが振り返る。
「おが――」
「saiだと?」
「うあっ………!」
緒方の言葉にヒカルが大声を上げる。その表情は雄弁だった。間違いないだろう、ヒカルがsaiの仲介者なのだ。
「やはりおまえがsaiと関係あるんだな!?」
詰め寄る緒方に気圧されたようにヒカルが後退する。
「ないっ!カンケイないっなんにもないっ」
「ウソをつけ!今おまえは――」
「緒方くん!」
「さよならっ」
行洋の声に一瞬注意を奪われた隙にヒカルが緒方の脇をすり抜ける。
「待てっ」
そう叫んだがヒカルは止まることなくドアを開けて飛び出していく。
「進藤っ」
ヒカルに続き緒方もドアまで引き返す。だが制止の声を受け入れずその背はただ遠くなる。
一瞬だけ迷う。ここは病院だ。
だが結局緒方はヒカルを追って走り出した。
「進藤っ」
「何してるんです!病院ですよ!」
看護婦の罵声を無視して廊下を駆ける。所詮は大人と子どもだ、出遅れた距離の分もすぐに埋まる。エレベータに逃げ込まれる前に緒方はヒカルの二の腕を捕えることに成功した。
「おまえが仕組んだのか!?saiと先生の対局は!?」
「違うよっ」
「おまえが、おまえがsaiを知っているなら」
ヒカルの反駁に許さぬように荒ぶる声を被せる。
軽い身体を木の葉のように振り回すと、突き飛ばすようにしてその背を消火栓に押し付ける。苦痛に歪めた顔を無視してその胸倉を掴み上げる。
「俺にも打たせろっ」
「お…緒方先生」
乱れた前髪の隙間から酷く驚いているヒカルの瞳が覗いている。その目に映りこんだ自分は憐れなほどに真剣な顔をしていた。
だが形振り構っていられなかった。
saiと打って確かめたいことがある。
まだ自分が碁を打てるのか、を。











厳しい表情で緒方は行洋の病室を出た。
だが何処に行ったらいいというのだ。行く当てのない緒方はドアの前から動けない。
あの様子では行洋はsaiが誰かを明かす気など露ほどもないだろう。時間をかければ進藤ヒカルの口を割らせることは可能かもしれない。だが緒方にはそんな時間は残されていない。
線が途絶えた。
saiへと続く道は塞がれた。
十段戦の最終局は近い。
云い様の無い焦りに奥歯を噛みしめる。
「どいてください!」
その声に緒方は緩慢な動きで顔を上げた。
数人の看護婦が必死の形相で駆けて来るから思わず一歩下がる。元々壁際に立っていた所為で背中にドアが当った。
先行の看護婦に僅かに遅れてまだ若い医師とさらに数名の看護婦がやってくる。興味というよりは、ただ刺激に対する反応で緒方はその群れを目で追う。
医師たちが入っていったのは行洋の病室の斜め前の部屋だった。
開け放たれたドアの向こう、初老の女性と若夫婦らしい男女の姿が見えた。息子なのか、中年の男性が初老の女性の肩を抱くようにして奥を見つめている。
声が遠くて医師や看護婦たちが何を云っているかは解らない、だがその激しい声音から連想されるものはひとつだけだった。
一際高い機械音が鳴る。
初老の女性が皺だらけの手で顔を覆う。怒声、飛び出してくる看護婦。
多分緒方の想像は間違っていない。
看護婦たちの鋭い声に紛れた泣き声に眩暈がしそうだった。


(止めてくれ)
(閉じていた蓋が開いてしまう)


緒方は顔を背けると、そこを足早に立ち去った。
だが逸らした視線の先、今度はエレベータの前の光景に思わず立ち竦む。扉の前には父親らしき年配の男性と小学生ぐらいの女の子が佇んでいた。仲睦ましく手を繋いだその姿に緒方は激しく顔を顰め、踵を返すと反対方向の階段へと逃げるように向かった。
辿り着いた踊り場で堪え切れなくなったように両手で顔を覆う。
できることなら叫びだしたい。
その指の隙間から止めどなく零れ落ちていく碁石の感触。
毎日飽くことなく触れてきた石だ。生々しい感触は容易く指先に甦る。
これが罰なのだろうか。
本当は。
大したことないなんてそれは嘘だ。
刺は未だ緒方の胸深く突き刺さっている。
脳裏を掠める映像。
忘却は不可能だ。
だから忘れたわけではない。封じただけだ。
細切れに引き裂いて沈めた。
それなのに何故今更蓋を抉じ開けようとするのだ。
緒方との対局の翌日に死んだ来栖聖二。
緒方との対局中に発作を起こした塔矢行洋。


緒方が勝ったら塔矢行洋も死ぬ。来栖聖二がそうであったように。


だから『勝ってはいけない』、無意識にそう自分を縛った。
それがどれほど馬鹿げた思い込みなのかは緒方が一番良く解っている。
だが二人の姿が重なってしまったのだ。
これはもう理屈ではない。
sai。
その正体は何だっていい。恥ずべき程に利己的な動機だ。だが緒方には今どうしてもsaiとの対局が必要なのだ。
そんな思い込みは馬鹿げていると緒方自身に証明せねばならない。たかが碁で打ち負かしたぐらいで人が死ぬわけはないと、そんな当たり前のことを云い聞かせなければならない。来栖聖二はあの時九段だった。行洋も五冠だ。誰でも良い訳ではない、少なくとも九段以上の人間でないと駄目だ。しかしそう簡単に高段の人間と打つことなど出来ない。だからsaiだ、プロでないのなら逆に都合が良かった。塔矢行洋を倒すほどの力を持ったsaiを捩じ伏せることが緒方には今必要だった。
しかし。
叶わなかった。
saiとの対局は叶わなかった。
勝つことの出来ない棋士など価値は無い。
けれどきっとこのままでは自分はまたわざと負けるような道を選ぶだろう。
一年前、手の届かないところを深く抉られた傷。
こんな形で自分を苦しめることになるとは思いもしなかった。
いったい、どうしたらいいのだ。
救いようのない苛立ちに縋るような弱々しさで壁を打つ。
そうやって片手が空いた為に、階段が一望できた。

―― まずどうしてこんなところに座っているのか、と自分以外の誰かがこんな場所に居ることに驚いた。

緒方の立つ踊り場のさらにその下、階段の一番下の段に蹲る人影。
壁を打つ音に振り返った華奢な肩。視線が合わさる。

ついに頭がおかしくなったのかと思った。

都合が良すぎる。

こんなところに居る訳がない。

背中を覆う長い黒髪。
濡れた瞳。
それは何度も見た泣き顔だ。


見間違えるものか。





文字通り一瞬だったはずだ。
なのに緒方にはその一連の動作が酷くゆっくりに感じられた。
互いに外すことも出来ずに視線を合わせたまま、見開かれた大きな瞳が瞬く。目尻から押し出され溢れだす涙。
それが頬を伝うより早く、ばねが千切れたようにその身が立ち上がり、手摺を掴み強引に身体を捻じ曲げるようにして下へと続く階段へ飛び出していった。
ふたつの足音が階段にこだまする。
理由など考える前に緒方はその影を追っていた。進藤ヒカルを追ったときとは比べ物にならないほどの真剣さでその背を求める。
指を伸ばすが空振る。たったそれだけのことで気が狂いそうになる。
丁度5階の踊り場、右手が緒方の指には余るほど細い手首を掴んだ。
折れるほどに握りしめ、その身体を自分の方へと引き摺り寄せる。それでも今度は上へと逃れようとするから、緒方は空いている片手を壁について閉じ込める。
言葉が発せられないのは息が乱れている所為ではないだろう。
いったい今更何を語ったら良いというのだ。
緒方は目を閉じて額を壁に押し付けた。
だが先に口を開いたのは少女の方だった。泣きながら震える声を絞り出す。
「……な、さい、先生、ごめ、なさい、怒らないで……」
即席の檻の中で少女が酷く怯えているのが解る。
どうしてお前が謝るのか。
そう云おうとして声が詰まる。
あの朝緒方は逃げ出したのだ。
本当は裁かれるべきは緒方の方なのに。
裁きたいのなら少女には裁く権利があるはずだ。
引き裂きたいなら緒方はそれを甘んじて受け入れるべきだった。
奪ったのは緒方の方なのだから。


緒方の碁が来栖聖二を殺したのだから。


それなのに自分の犯してしまったことを認めたくなくて目を背けた。怒りに転嫁することで少女を責めて裏切られたような被害者面をした。
本当の被害者は少女の方なのに。
…」
緒方は呻くようにその名を呼んだ。
今度こそ謝罪をしなければならない。
だが口をついて出たのは



「俺を許してくれ…」



捕えているのは緒方の方なのに。

捕われているのは緒方の方だった。