「上座に座ってお待ちしてますよ」






          
≪ep re-pray≫






緒方はエレベータを降りると、迷いのない足取りでロビーに向かった。
部屋を出ようとする間際に電話がかかってきた。おかげで下で待っていろと云ってから軽く10分は経過してしまっている。これなら部屋に来させた方が良かったかもしれないが、それも所詮は可能性の後付だ。電話がなかったのならそれこそ余計な手間になったはずなのだから。
歩きながら上着を持った左手首に視線を投げる。
16時37分。
緒方の脚さばきが速度を増す。一瞬ではじき出された18という数字。10分どころではなかった、着いたという電話を貰ったのは確か19分だ。緒方なら5分待たされたら間違いなく帰る。
だが飛び込んできたロビーの風景に思わず歩みが緩む。
は容易く見つかった。
最後に会ったのは四ヶ月前だ。例のホテルで、そしてあの翌週緒方は十段位を獲得した。その後は仕事の都合で緒方の身が空かないまま碁聖戦が始まってしまったこと、それからには学校があったし生憎東京での対局が無かった為にそんなにも間が空いた。
久しぶりの生身のその姿にじわりと心までも緩む。
昨日の碁聖戦。
生き残ったのは緒方だった。
縺れて、だが粘り押し切った。
あまり認めたくはないが、あれだけ粘ったのもとの約束が頭のどこかに引っ掛かっていたことは否めない。
第五局は偶々名古屋のホテルが会場に選ばれていた。それを知ったがせっかくだから会いたいと云ってきたのだ。しかし敗北の苛立ちに神経がささくれだった状態で会ったとしても、お互いの為にならないことは目に見えていた。負けた時の自分が性質が悪いということはわきまえているつもりだ。実際それで駄目になった関係もある。だからしぶとく喰い下がれた。
要するに名古屋には碁を打ちに来たはずなのに、何時の間にかそこには気分良くと再会する為に勝つという目的までもが加わっていた。
自覚するとどこか苦い。
今までは何に付けても碁が一番だった。女なんて絶対同列じゃなかったのに、は勝手に順位を上げてくる。多分下らないプライド辺りが苦いと感じているのだろう。
はロビーのソファに腰掛けて手元の携帯電話を覗き込んでいる。誰かと待ち合わせしています、という雰囲気がその全身からは強烈に感じられる。その緊張感はおそらくホテルのロビーで待ち合わせるなんてことに慣れていない所為だろう。
誰かに咎められることを怯えているように、は一心不乱に携帯を見つめている。チョコレート色のカシュクールワンピースをその身に纏い、足元は以前に緒方が買ってやったジミーバルディニーニのサンダル、それと同系色のストールを肘にかけている。指輪はないが、その爪には十分代わりとなる装飾が施されているのが遠目にも解る。
前髪が最後に会った時より伸びていた。
その所為か長い髪を真っ直ぐに垂らした横顔は大人びて見える。
が携帯の携帯のボタンをいじり、その動きに合わせて左手首が光った。気が向いたので送りつけたダイヤのテニスブレス。付けて来たのか、とどこか満足を覚える。これは下らない独占欲辺りの感慨だろう。
そのから少し離れたソファの男。緒方がを見つけてからずっと新聞の影に隠れてを見つめている。面白そうだから男が声を掛けるまで黙って観察してようか、と意地の悪いことを考えて益々歩調を緩めていると、不安そうに瞳を曇らせていたがふと顔を上げた。
目が合った、と思った時にははもう立ち上がっていた。
「緒方先生」
素直としか呼べないような笑顔では小走りに駆け寄ってくる。
その動きに合わせて何本かの視線も一緒に移動する。久我山が云っていた日本の男は皆ロリコンだという極論が頭を過ぎる。だがその場に立ち止まりを待ちながら、ロリコンかどうかは別にしてもこれならば仕方ないとも思う。
昨夜二冠になったことで今朝の朝刊に緒方の写真が小さく載っていた。だがそんな緒方よりも、ただ単純に美しいというだけでの方がどう考えてもこの場では目立っている。
「先生」
満開の笑顔でが緒方の腕に指を絡める。
どうやら待たせたことに対するお咎めは無しのようだ。そう判断して無言で踵を返すと、も緒方の動きに合わせて歩き出す。
エレベータホールに戻ると、四基ある内の一基が丁度降りてきたところだった。中年夫婦が降りてしまうと中は空白になる。扉を押さえつつ、を先に乗り込ませた。
緒方はボタンに指を乗せたが、その指が地下二階を押す前にふいに腕ごとぶれた。扉がまだ完全に閉まりきっていないのに、我慢の限界を迎えたとばかりにがぶんぶんと緒方の腕を揺さぶり始めたのだ。
「先生おめでとうおめでとう、本当におめでとう!」
シャツが皺だらけになりそうなぐらいしつこく振り回して、漸くは気が済んだようだ。今度は緒方の腕を抱き締めて頬をすり寄せてくる。まったくこういうところは見かけを裏切って子どもだ。
「そんなに暴れるな」
零れてきた髪をかきあげてやる振りをしつつ、緒方はの頬に手を添えてごく自然に上向かせた。だがその身を屈める前に滑らかに扉が開き始める。
現れたコンクリートの灰色と蛍光灯の白々とした明かりが降車を促す。
仕方がないので何食わぬ顔で緒方はエレベータから降りた。だが果たしてが今の行為の意図に気が付いているのかどうか。
気付いてないことに全財産だ。
現に緒方の腕に両腕を絡めたまま、が絶望的なまでに曇りのない笑顔を向けてくる。
「ねぇ、先生、タイトルホルダーってどんな気分?」
「別に」
それは昨夜散々訊かれた質問だ。
ろくに口も利いたこともないような連中に本音を語るなんて馬鹿げている。全く記憶に留まらないぐらい適当な美辞麗句を喋った気がするが、にまでデコラティブな言葉を使う必要もないだろう。
だから至極正直に語ったまでなのだが、は不満げに唇を尖らせる。
「別に、って…何かあるでしょう?だって頂点ですよ、なりたくたってなれるものじゃないし、一応棋士の憧れじゃないですか」
緒方は薄く唇だけで笑った。
の云ってることは最もだ。実を云えば緒方もタイトルホルダーになれば何か変わるのではと漠然と想像していた。
だが実際には何も変わらなかった。
十段を獲得した時も一月近く経って漸く実感が湧いた程度だった。ふたつのタイトルホルダーになって解ったことは、所詮タイトルは人が人の為に生み出したものだということだ。つまり環境という外部に存在するものであり、そんなもの個人の内部には存在し得ないのだ。結局緒方は死ぬまでただ一棋士だということを貫くしかない。
けれど例えば同じことを何年も繰り返していると、何故自分がそんなにも連々と修練を重ね続けるのか忘れてしまう。それでも惰性のように蠕動し続ければ、昨夜のように熾烈な一局にぶち当たることで痛烈に思い出す。
碁が好きだ。
勝ちたい。
それこそが根源の動機のはずだ。
もし外部的評価の獲得という目的以外にタイトルに価値があるとすれば、緒方にとってはそれを思い起こさせる激しい対局を用意してくれるということだけだ。
の期待しているような感動的な感慨など緒方にはひとかけらも無い。
「俺の解答に納得が行かないなら自分でなってみたらどうだ?倒すんだろ、俺を」
大人気ないとしか云いようがないほど馬鹿げた理由、つまりさっきキスをしそこねたことで緒方は微妙に機嫌を損ねている。皮肉るようにそう云うと、がその頬に僅かに朱を差しながら口篭もる。
「あ、あれは……だって、パパが……えっと、それに私辞めようと思ってるんです、棋士」
緒方は目を見張った。咄嗟に立ち止まりそうになる。
そんな話、初耳だ。
詰問にならぬよう、ごく普通の口調で質問を告ぐ。
「何故だ?」
が俯いたから緒方の角度からは長い睫毛の一本一本まで鮮明に認識できた。瞬きに揺れるその光景に何となく肺の辺りが熱っぽくなる。
の歩みが微妙に鈍り、緒方の腕に絡めている指が無意識にシャツを握る。
「何か……負けた人とか、何年もやってるのに上に行けなくて苦しんでる人とか見るの辛くて……実際、私もなかなか勝てなくて、プロなのにどうして勝てないんだろう、勝たなきゃ勝たなきゃってそればっか考えて一時期凄く辛かった。あの、私だって勝てば嬉しいんです、でも、『ありません』、って相手の人に云われた時のあの空気とかは凄く嫌。…私そういう競争とか好きじゃない。だから碁は好きだけど、プロとしては向いてない、って思うんです」
「そうか」
に合わせて歩調を緩やかにしつつ、否定も肯定もせずに緒方はそれだけを口にした。
敗者も才能の格差も緒方にとっては当たり前のことだ。勝つ者がいれば負ける者がいるのも、能力の不平等さが招く現実の存在も緒方は疑ったことはない。
の考えに賛同は出来ない、だから「そうか」とだけ口にした。だが否定する気もない。がそう選択したのなら緒方が口を挟むことではない。
しかしそうやって自分の行為を正当化させながら、緒方は公式戦で結局と対局せずに済んだことにどこか安堵していた。
「それにやりたいこと見つけたの。私、ネイリストになりたいんです」
「ネイリスト?」
緒方が眉を顰めると、が空いている方の手を誇らしげに掲げてみせる。
ワンピースのチョコレート色に合わせてか、幾分茶色がかった淡いベージュにゴールドで蔦のような繊細な紋様が描かれている。それだけじゃなく小粒なラインストーンやパールも飾られており、全くこの狭いスペースに信じられないくらいの細やかな装飾が施されてる。
「こういうふうに爪を整えたりネイルアートする人。ほんとは高校出たら専門学校行きたいんだけど、お父さんがせめて短大くらい行きなさいって、どうするか今話し合ってるとこ。あ、でもね、どっちにしても東京に行くつもり!先生、嬉しい?そうしたらいつでも会えるよ」
が嬉しそうに緒方を見上げてくる。
けれど丁度愛車の止めてある位置まで来たので、緒方は車のキーを取り出してロックを外すことでその質問の答えから逃れた。
車に乗り込みながら、先送りにし続けていたことを思い出す。
天井に響いたワイヤレスキーの甲高い電子音。にではなく、何か世間一般から一斉に非難をぶつけられた気分になる。
世間から見れば限りなく悪者は緒方の方に違いない。女子高生を誑かし、しかもいつも質問をはぐらかして本音を明かさない男。そろそろ潮時だ。いい加減、はっきりさせとくべきだろう。
エアコンのスイッチを入れながら、緒方は何気なく切り出した。
「そういえば、お前は俺がお前のことをどう思ってるか訊いたりしないな。何故だ?」
「え?だって先生、私のこと好きでしょ?」
シートベルトに片腕を通していたが、まるで変なことを訊かれたといった風にきょとんとした顔で振り返る。
だが予想もしてなかった角度からの返答に、緒方は思わず呆気に取られた。
断言できる。
一度だって緒方はに好きだなんて言葉を囁いたことは無い。
だから今わざとが言葉をねだるように仕向け、仕方なさを装って本心を吐露しようと計ったのに。この返答は完全に埒外だった。
そんな緒方の様子を目にして、緒方以上に呆然となってしまったの手からシートベルトがするりと離れた。
大きな目が不安げにぱちぱちと瞬く。
「………えっと、違うの?先生、私のこと好きじゃないの?…え、ちょっと待って…だってだってじゃあ好きじゃないのに先生私にあんなことしたってこと?………え……い…いやーっ!ちょっとヤダー!違うの違うのー!?」
自問自答の末に、はパニックに陥ったように叫んだ。
その様を見て、緒方は自然と笑いが湧いてきた。
俯いて漏れそうになる笑い声を殺す。
そうやって何が面白いのか自分でもよく解らないまま笑いつつ、これから先傷付けた分を大事にしてやろうと思う。
だがハンドルに手を伸ばした緒方が口にした言葉は相変わらず正反対のものだった。
「そうか。どれだけ俺がお前のことを大事に思ってるか切々と語ろうかと思ってたが止めた。解ってるなら必要ないな」
「いやー!!駄目っ!私ぜんぜんわかんない!先生が私のこと好きかどうかなんてちっともわかんない!」
が本気で泣きだしそうに眉を歪めて叫ぶ。
意地悪く唇の端で笑いながら、緒方はの声を無視してシフトレバーを入れ替える。
「シートベルトをしろ。出すぞ」
「あっ、あっ、先生ちょっと待って!」
が慌てて小さなバッグをまさぐる。緒方は再びニュートラルに戻して、を待った。
「これ」
が涙目で差し出した封筒は水に濡れたように皺が寄っていたし、所々に黒っぽい染みがあった。
これでラブレターだとしたら最先端過ぎて緒方には理解不能だ。とりあえず受け取りながらも、緒方の眉の辺りは不審げに歪む。
だが次のの言葉に眉間の皺など吹っ飛んだ。
「パパの最後の手紙。私の宝物。先生には読んでもらいたくて」
視線を上げると、真っ直ぐに自分を見詰めるの瞳とぶつかった。
一瞬だけ躊躇う。
だが結局緒方は、真っ直ぐに切り取られた切り口から慎重な手つきで便箋を取り出した。
やはり中の便箋も水を吸って引き攣れたような皺が刻まれている。黒い点々、おそらくこれは来栖聖二の血痕なのだろう。
だが不思議と気味悪いとは感じなかった。三つ折の便箋を慎重に開く。
几帳面で滑らかな書体。
理由もなく覚悟を決めると、緒方は視線を走らせ始めた。
「……宛名は塔矢先生になってるけど、塔矢先生にも見せたことない。書いたのは先生との対局の翌日。これを出しに行く途中でパパは事故に遭ったから、もし塔矢先生が変に気に病まれるといけないからその方がいいねって、お母さんとそう決めたの。だから身内以外でこれを見せるのは先生がはじめてだよ。私のお守りなの、それ。最後の手紙だからお母さんも欲しかったと思う。でもお前が持ってなさいって、私に譲ってくれたの」
読み終えた緒方は静かに封筒に便箋を戻した。
無意識に唇を噛んでいた。
言葉も無い。
これほど何て云ったらいいのか解らないと感じたのは、生まれ落ちてから初めてだった。
「あとね、私がね、先生にあんなこと云ったのはね……先生?」
ハンドルに額を押し付けてしまった緒方を気遣うような声。が運転席に身を乗り出してくる気配。
それに縋るように緒方は手を伸ばした。最初に触れたものを、とにかく逃すまいとその指が握り込む。小さく細い悲鳴とそれ以上に細い感触。掴んだのはきっと髪の毛だ。
上げた視線の先、突然髪を引っ張られたは痛みと困惑に眉根を寄せている。
封筒が膝から足元に滑り落ちた。
「え、せんせ、なに?」
怯えたような仕草を無視して空いている腕を伸ばし、その肩をシートに押し付ける。すくめた首を強引に仰け反らせてこれまでで一番乱暴なキスをする。
慈愛と凶虐、どうにもならない衝動が今緒方の中で暴れている。
もしもあの日来栖聖二との対局が存在しなかったら一体自分は今何をしているだろう。
もしも来栖聖二が生きていたら、父に手を引かれたと平和で退屈な出会いを果たしていただろうか。
そうしたら緒方は同じ様にを愛したのだろうか。
『運命』なんて馬鹿馬鹿しくて緒方が一番大嫌いな史上最低の言葉が脳裏に浮かぶ。
ぶるりと首を振り、また深く口付ける。
これまでだって緒方は自分の道は自分で切り開いてきた。行動決定権はすべて緒方にある。運命の奴隷になるなどまっぴらだ。
だが緒方は来栖聖二の祈りに触れてしまった。
たとえ運命なんて言葉は信じられなくとも、六年前のその言葉たちなら信じてもいい。

呼吸が乱れることで逆に冷静になる。
キスを受けて咄嗟にの手は顎を捕えた緒方のシャツを握り込んでいた。
だが、きつく皺になるほど握り締められていたはずなのに、緒方がやっと唇を外した時には何時の間にかその指はぱたりと力なく膝に転がっていた。
その手を取ると、今の扱いを詫びるようにその甲に唇を落とす。
「……さっき何を云い掛けた?」
髪を撫でてやりながら擦れた声で問うと、の唇からは音にならない息だけが漏れた。何、という唇の動きを読んだ緒方は質問を繰り返す。
「お前が俺に何故あんなことを云ったのか、そういうことを云いかけてただろ?」
が瞑想するようにゆっくりと目を閉じた。
リップグロスの艶を失った唇が呪文のように言葉を紡ぐ。
「私は緒方精次を倒さなければならない…」
その言葉に緒方の頬が強張る。
さっきは自分だって冗談にしたくせに、の口から再びこの言葉を聴くと傷跡を引っ掻かれたような不快感が全身に走った。
だがは目蓋を閉ざしていた所為でそれに気付いた素振りもない。潤んだ瞳を開けると気だるい仕草で首を傾げて微笑む。
「あの日…先生とパパの対局の次の日、私があんまり熱心に先生とパパの対局を並べてるから、私が先生のお嫁さんになりたいって云い出すんじゃないかとかパパがからかってきて、それでその後こうも云ったの。
『挑みなさい、彼は棋士だから挑む限りはその間だけでも傍においてもらえるよ』、って。
パパは冗談のつもりだったのかもしれないけど、結局それが最後の言葉になった。だから私、最初に先生に会ったイベントでも挑戦的だったでしょ?」
がさもおかしそうに笑う。
確かにそうだった。幼い少女が無謀にも弟子にしてくれだとか互戦で打てとか、正直腹立たしかった記憶がある。
黙って続きを促す緒方に、は恥ずかしそうに視線を指に落とす。
「私、東京に行ってすぐの頃、先生が私のことウザったいって思ってるの解ってた。
だけど傍に居たくて、でも好きになってもらうにはどうしていいか解からなくて、パパの云う通りにするしか思いつかなかった。でもね、先生は私のこと切り捨てなかったでしょ?だからあの日から本当はもうそんなことどうでもよかった、挑む必要なんか無かった。
だって先生に勝てなくても、先生が傍に置いてくれるならそれで私はもうそれで十分だったんだもの」
緒方は細く息を吐き出した。
長い間擦れ違い続けていたものがやっと埋まったような感覚。
一体それを何と呼べばいいのか。
そこで何を思うかは想像もつかない。
だが東京に帰る前に来栖聖二の墓前に花を手向けに行こうと誓う。
緒方はエアコンを消すと、エンジンを止めてキーを引き抜いた。
「部屋に戻るぞ。食事は後回しだ」
「え?でも」
緒方は薄く笑いながらの耳朶に唇を寄せる。
「何ヶ月会わなかったか解ってるか、?」
くすぐったそうに緒方の囁きから逃れようと肩をすくめていただが、与えられた言葉を飲み込むと数秒緒方を見つめ、それから頬を薔薇色に染める。
そして嬉しいような困ったような、相変わらずモザイクのように複雑な表情では緒方を睨む。
けれどその瞳はきらきらと幸せそうに濡れている。

「先生のえっち」

緒方は笑う。

多分幸せになるために。











































塔矢行洋 殿

拝啓

先日はご丁寧なお見舞いの品をどうもありがとうございました。
ご心配をお掛けしましたが、少々持病の方をこじらせただけで身体の方はもう大丈夫です。
お医者さまにはもっと健康に気を付けろと釘を刺されました。私は酒も煙草もやらないしこれ以上気を付け様がないと反論したならば、寝食を怠るなと怒られてしまいました。時折そういうこともあるので、これには反論のしようがありませんでした。
ですが私としてはもうすっかり健常人のつもりです、ご安心下さい。

さて。
門下生の件なのですが、申し訳ありませんがご辞退させて頂きたく存じます。
貴方がわざわざ私を推薦してくれたことはとても光栄なことと感謝しております。けれども病勝ちの身体ですし、何より弟子を取って子細に面倒をみるようなことに向いている性分だとは思えません。
中部棋院ならば私よりも芥川九段の方がきっと適任ではないでしょうか。差し出がましいようですが、宜しかったら一筆書かせて頂きます。

ところで昨日、緒方精次五段と対局しました。
貴方も覚えているかもしれませんが、私は『そんな風に呑気だからお前は駄目なんだ』と師匠によく怒られていました。こんなことを云うと相変わらず怒られそうなのですが、負けてしまったことがどうでも良いことに思えるほど、とても楽しい碁を打たせてもらいました。
貴方の門下生ですから、貴方が一番よく解っていると思いますが、彼はきっと伸びるでしょう。これからがとても楽しみです。
東京に行く機会があったら、是非簡単な対局の場を設けては頂けないでしょうか。

それからもうひとつ、折り入ってお願いしたいことがあるのです。
私の娘のことです。緒方君の碁が気に入ったようです。昨夜私が負けたといったら相手は誰だと怒っていたのに、棋譜を並べて見せたらそんなことはもう忘れてしまったみたいに白石を褒め称えています。
彼女が将来私たちと同じ道を目指すのかは解りません。
しかし、緒方君と私の対局を見て、初めて彼女は真剣に碁を学びたくなったようです。彼女には私よりも碁打ちとしての才能があります。
もしも彼女が将来真剣に碁の道を志す時が来たら、緒方君のところに預けさせてはもらえないでしょうか。私では与えられなかった影響力を少なくとも緒方君は持っています。そういう人に出会えることは人生においてとても幸福なことだと思います。

大変あつかましいお願いですが、その時が来たらどうか宜しくお願い致します。


娘が夏休みになったらディズニーランドに連れて行けとねだるので、その折にでもご挨拶に寄らせて頂きたく存じます。
長くなりましたが、これからは十分に休養し、皆様にご心配をお掛けしないようにする所存です。どうぞ、貴方もご自愛くださいますよう願っております。

                                        敬具
                                       来栖聖二