緒方は無言で扉を開けた。
作り付けのクローゼット、それからユニットバスへと通ずるドアを通り過ぎ足早に奥へと向かう。格別良いホテルではないが特別安い部屋でもない。ベッドにデスク、テレビの載ったキャビネットと云ったホテルには平均的な家具の質も悪くないし、天井も高い。配置された家具と部屋の面積の比率も十分ゆとりがあるはずだった。
なのに空気が重い。
その重みを切り裂くような足取り。後ろを振り返ることも促すような言葉をかけることもなく、緒方はベッドの足元に腰を下ろした。
反動でスプリングが軋む。
その音に重なるドアの閉まる音。
僅かな空白の後、細い指を祈るように組み合わせながら、消えてしまいたいぐらいに肩を縮こまらせたが現れた。






          ≪
restrict / release≫ 






は立ったままだ。
緒方はベッドに腰掛けている。
細い身体を抱き締めるように立ち尽くすはまるで叱られている小学生のようだった。幼い素直さ故に理不尽な叱責をも受け入れてしまう。本当は何も悪いことはしていないのに、教師の云うことを絶対的に信頼して胸を痛めるのだ。
緒方はに気付かれぬ程小さな舌打ちをした。こんな時によくそんな穿った例えが思いつくものだ、と自分自身に益々嫌気が差す。
「座れ」
おかげで緒方の口からは尖った口調でそんな言葉が吐き出された。云ってしまってから塵のような後悔がまたひとつ降り積もる。
が迷うように視線を泳がせ、そしてデスクに目を止めた。そして足音を殺すようにゆっくりとそちらに歩み寄る。その足取りはまるで音を立てたら空気が罅割れてしまうのじゃないかと怯えているような慎重さだった。
がそっと静かに椅子を引き出す様を緒方は黙って見つめていた。
言葉を交わすことが必要なことだと感じたから今ここでこうしている。
病院の階段で捕えた腕を解放してもはもう逃げなかった。その代わり言葉は無かった。ただ無言で二人で階段を降って、無言で車に乗り込んだ。
あんな別れ方をしておいて緒方の部屋にを連れて行けるわけがない。だが喫茶店で話すような話ではもっとないだろう。誰にも邪魔されない場所を考えた時、ホテル以上に適した場所は思い浮かばなかった。行き先も告げずにホテルに向かったが、やはりは何も云わなかった。愚かなほどの従順さで黙って後をついてくる。
だが、いざこうして向き合うと何をどう語ればいいのか、何もかもが解らない。
いったい本当に会話が必要だったのかでさえ今ではとてもあやふやな気分だった。
が座ってしまうと室内からは物音が消えた。耳鳴りがしそうで余計に気が滅入る。
「…何か飲むか?」
返事は解っているくせにそんなことを云ってみる。
予想通りはゆるゆると首を横に振った。
それでも少しだけ息苦しさが薄まった気がする。そもそも息苦しさからして錯覚だ。しかし溺れるのを恐れるように、息の継げる内に緒方は言葉を続けた。
「母親の具合は?」
「…もう大分落ち着きました」
今度は声を引き出すことに成功する。
けれどその懐かしい声音は細く硬い。耳に馴染んだ甘えるようなやわらかさは欠如していた。現には緒方を見ようとしない。整った指にじっと視線を落としたその仕草が何を意味しているか緒方は知っている。
拒まれていることに何処となく傷付いている自分を自覚する。
の声を聴きながら、そんな自分勝手さに呆れを禁じえない。
「まだ2週間に一回は病院に通ってますけど、もうお医者様は大丈夫だって……」
「そうか」
それ以上お互いに言葉を継げず、また沈黙が水のように広がっていく。
緒方の指が苛々と膝を叩き始めた。
こんな消耗戦をしたかったわけではない。耐え切れなくなった方が叫びだすのを待っているなんて馬鹿げている。
タイミングを計っていたって無意味だ。きっとそんなものはどこにもない。
緒方は溜息と共についに核心に触れる言葉を吐き出した。
「何故あそこに居た?」
がびくりと肩を揺らした。
喉を鳴らし、薄く開いた唇で浅い呼吸を繰り返したが声はない。もう一度喉を鳴らして、それからやっと震える唇でが言葉を紡ぐ。
緒方はから意識的に視線を外した。
「……昨日、対局があって…金倉三段と、あの」
ああ、そうかと曖昧で不安定な言葉から納得性を拾う。
は未だ初段だ。低段者と高段者の対局を行う場合、低段者の方が高段者の元に赴く慣例になっている。
「だから…お見舞いに、あの塔矢、せん……」
そのついでに塔矢行洋の見舞いに来たということか。名古屋に帰ったはずなのに何故東京に、しかもあの病院に居たのかがそれでとりあえず腑に落ちた。
しかし声はそこで不自然に途切れたまま続かない。
だから緒方は意味もなく辿っていた絨毯の紋様からつい視線を上げてしまった。
「………ごめんなさい…」
涙に曇った声。
白い頬を覆う両手に緒方は顔を顰めた。
そんな緒方を置き去りにして、からは堰を切ったように言葉が溢れ出す。
「あたし、汚いの、塔矢先生のお見舞いに行ったくせに、用事は終わったくせにもしかしたら先生に会えるかもってあそこから帰れなかった。ズルイの、汚いの、嫌われてるの解ってる、でも先生に会いたくてしょうがなかった、ごめんね先生、ごめ」
「もういい!」
云い募る言葉を強引に打ち切り、緒方は毟り取るように眼鏡を外した。
「解ったから、もう解ったから止めろ」
これ以上の顔を見ていたくなかった。ごめんなさい、と再度繰り返された細い謝罪の声が容赦なく緒方をえぐる。
膝に肘をついた腕で前髪を掻き毟り、の嗚咽を聴く。
(頼むからこれ以上お前が俺に詫びたりするな)
罵られ物を投げつけられた方がまだマシだった。そうであればここまで嫌な気分にならなかったはずだ。責められることで逆に罪悪感が薄れることがある。罵倒を耐えることで何かを贖っている気分に浸ることができるからだ。
もう嫌だ、とその言葉しか知らない子どものように胸の内で繰り返す。
それなのにどういう訳かここを立ち去る気にはならなかった。
嫌で嫌で仕方ないのに、何かを期待しているかのごとく身体は動かない。
しかしかといって最早口を利く気力もなく、緒方は黙って膝に肘を突いた右拳を額に押し付けて苦痛に耐えていた。
だがこれぐらい、当然の報いのはずだ。
そう思って緒方はここを離れられないに違いない。
の細い声が緒方を裁くのを待っているのだ。
緒方はだからこうしてじっと佇んでいるのだろう。
の嗚咽が収まるまで、が声を取り戻すまで、緒方は黙って目を閉じていた。
漸く泣き声が途切れ部屋が再度静寂に塗り込められ、それでも数分が経過してからやっとの細い声が緒方を呼んだ。
「…先生、訊いてもいい…?…あのね…先生……どうしてあの日……」
の声がその続きを躊躇うように滲む。
あの日。
それが何時を指しているのかは明らかだった。
緒方は顔を上げた。
と目が合う。潤んだ瞳は哀しげだった。
緒方は謝罪せねばならない。
その為に今こうしているはずなのだから。
口を開く。
「マンションの前に櫻田が居た。奴から聴いた。お前の父が来栖聖二で」
口にしたくない。
一瞬言葉が千切れた。
手の平が強張っている気がする。
まただ。
零れ落ちていく石。石。石。
人はどうして中途半端に繊細で鈍感な生物なのか。
逃げた方が楽だろう?
簡単だ。
碁を捨てればいい。
忘れてしまえ。
だからねじれた声を吐き出した。

「俺の所為で死んだことも」

緒方が捨てられるわけがなかった。
碁を。














が立ち上がった。
けれども結局惑うようにそこに立ち竦み、悪戯に時間だけが過ぎていく。緒方の視界の端で、の指だけがこの空間の中で握ったり絡めたり緩やかに動いていた。やがて覚悟を決めたかのようにその指が堅く組み合わされる。
毛足の長い絨毯がその足音を吸い込む。そして緒方の額の辺りにか弱い影が差し掛かった。
静かに傍らに立つ細い身体は緒方ならきっと容易く壊せる。
けれど緒方はを恐れていた。
頭の上から涙で擦れた声が降ってくる。
「パパが死んだのは先生の所為なんかじゃない」
「嘘だ。櫻田が云ってた。遺書があった、自殺だったと」
緒方は即答した。
しかし顔を上げられずに、丁度目の前にあるの指に視線を合わせていた。
珍しくその爪に色はなかった。マニキュアのない所為でその薄紅い桃色は血の巡りを想像させる。触ったらきっと温かいだろう。
けれどもその指は近くにあるのに悠久に遠い。
息苦しさといい、距離感といい、さっきっからこの部屋では万物の物理的法則が全て狂っている。
まるで船酔いしているようで最悪だ。
「…これは……推測でしかないけど…私やお母さんだって本当のことは解らないけど。現場の傍にね、母猫の死骸があったの」
何が云いたいのか解らず、緒方は思わずの顔を見上げてしまいそうになった。
それを目の前の指に集中することで踏み止まる。
「交通事故だった。トラックの運転手はパパの方が飛び出してきたって云ってた。パパは猫が好きだった。慢性気管支炎って持病があってうちじゃ飼えなかったけど、動物好きな人だった。あの日雨が降ってて見通しが悪くて、多分、パパは道路をうろうろしていた子猫を助けようとしたんだと思う。あの日、あの辺に子猫が3匹居たってお葬式で近所の人が教えてくれたから。それぐらいしか道路に出た理由なんて考えられない。確かにあの時、パパは手紙を持っていた。でもあれは遺書なんかじゃない、絶対」
「嘘を吐くな、
緩く首を振る。
(そうじゃないだろう)
さっきから責めるような言葉は違う。そうじゃない。謝らねば。
謝って――

何を?
どうやって?

どうやって贖うつもりだった?

噛み合わない違和感。
緒方は眉を顰めた。何かおかしい。
気付かない内に自分は何を間違えたのか。
贖罪の言葉を捜す為に記憶の海に潜る。だが空っぽだった。
そんなもの無かった。
代わりに別の言葉なら溢れている。
それで漸く緒方は自分の思い違いを知った。
違う。
裁かれる為にここに居るんじゃない。

『俺を許してくれ』

咄嗟に口にした言葉。
何よりあれこそが本心だ。
本当は
救われたいのだ。





本当は謝罪なんてどうでもいい。
緒方はただに許されたくて、こうして向き合っているのだ。





堅く目を瞑り、片手で額を覆う。
泥沼に最悪の気分だ。
父を奪い憎まれているのを知っていて尚、そんなことを願う。願えてしまう。
本当に、己の醜さは絶望的なまでだ。
「嘘を吐くな…」
それでもを責める自分自身に緒方は勝手に傷付いた。
そんな風にしか生きられない自分が憐れでとても惨めな気分になる。
「嘘じゃないわ」
羨ましいほど迷いのない口調でが云い切る。
しかしその言葉にさっきの倍もあからさまに首を振って抵抗する。
の言葉が信じられなかったのだ。
卑屈で歪んだ自己が騙されることに怯えている。
櫻田の云う通りだ。父親を殺した男を愛する女など、きっといない。ならばが緒方を許すことは無いはずだ。
どこか遠くの場所の自分がその脆弱な様を蔑む。そうやって自覚することで箍が外れて、云うつもりのなかった恥知らずな言葉までもが飛び出した。
「なら何故お前は黙っていた?俺を怨んでいたからじゃないのか?」
「そんなの先生を傷付けたくなかったからよ!」
が初めて緒方を怒鳴りつけた。
悲鳴のように声を荒げ、同時にその手の平がきつく拳へと収縮する。
「あの時一社だけパパが負けたから自殺したんだ、って書いた馬鹿な新聞があった!私もお母さんもそれに物凄い傷付いた、そんなわけないのに!
だから!…だから、先生が知らないならそれで良かった、先生に何にも責任はない、あれは事故だったんだから………もう止めて、パパを侮辱しないで。絶対そんな真似する人じゃない」
声に合わせて握り締められていたの指も花が開くように開いていく。
緒方はただその様を見つめているしか出来なかった。
同調も反駁も出来ず、視線の先で惑うように微かに曲げたり延びたりを繰り返すの指を見つめている。
だが。
ただの願望かもしれない。
その仕草が、その指が緒方に触れたがっているように見えた。
細い指がもう何度目かの小さな拳に変わる。
だがその拳は震えていた。
「ねえ、先生……私は先生が好き」
通常より全然儚い声。
それで漸く理解した。
も緒方を恐れているのだ。
「あんな人の言葉を信じないで」
何故緒方がを恐れているのか。
力ではが緒方に敵う訳がない。それは物質的なエネルギーではない力だ。ならばどうしてが緒方にそれを行使できるのか。
もしも来栖聖二がの父でないなら緒方はこれほど苦痛を味わうことはなかったはずだ。それどころか嘲弄したかもしれない。たった一度の敗北で死を選んだ愚か者だと気にも止めずに忘れ去っただろう。
だが来栖聖二はの父だった。
他の誰かなら忘れてしまうようなこともだから出来なかった。
の指が緒方の目の前を通り過ぎる。
「私の言葉を信じて」
何故なら緒方はが愛おしい。
だから憎まれて騙されるのが辛い。
誰よりも嫌われたくない、疎まれるのが恐い。
純然たる依存の心理。
憎悪ではなく、慈しみ、愛情と愛撫が欲しかった。
何をしても、誰が許さなくても、からは無条件に許しが欲しかった。
「パパはいつも云ってた。、幸せにおなりって」
怯える子猫に触れるような慎重さでの手の平が緒方の肩を撫でた。
撥ね除けられないことに勇気を得て、が自分の胸に緒方の身体をゆっくりと引き寄せた。
華奢な少女の腕が精一杯の力で抱き締める。
に抱かれたのなど初めてのことだった。
やわらかな熱が緒方を包み込む。
緒方の髪に顔を埋めてが泣き出しそうな声で囁いた。
「私は先生と幸せになりたい」
緒方は右の手の平を顔に押し付けた。

泣き顔なんて死んでも見られたくなかった。















目を覚ました時、の姿は既になかった。
緩慢な動きでシーツをまさぐると既に熱の気配は無い。がベッドを抜け出たのは今し方という訳ではないだろう。
内蔵されたデジタル時計を見るともう昼近い。よく寝たものだと自分自身に呆れていると、ガラス製のミニ灰皿の下敷きになっているメモが視界に入った。
指を伸ばして引き抜くと、ホテルの備え付けのメモにボールペンで『今日は帰ります 』という色気のない内容が綴られている。一瞬で目を走らせると、緒方は息を吐いて身体を仰向けに転がした。
ベージュの天井を背景に右手を自分の顔の前に翳してみる。
昨夜初めては父の想い出を語った。
の言葉の端々に存在する来栖聖二は穏やかな男だった。
あの日を思い起こす時、盤上の向こう側はいつも黒い人影しか思い浮かばなかった。自分の打った碁にしか興味がなかった。
けれど6年前の古い記憶の底、影すら思い起こせなかったその姿は今は淡く彩られている。夢の中で出会ったなんて非科学的なことを云うつもりは毛頭ない。
だが今ではその影に名前がついている。
来栖聖二と。
何と自分は愚かだったことか。
後悔することは山ほど在る。
だがそれよりも幸せを願おう。
来栖聖二がそうであったように。
緒方は瞳を閉じ、その手の甲を押し当てることで完全に視界を閉ざした。

もう零れ落ちていく碁石の幻覚は消えていた。
緒方は取り戻したのだ。
碁も。

も。