≪00 pray≫

ぱちん、ぱちん、という碁盤に碁石を打つ音。
その規則正しい音を背景に、男が手紙らしきものに視線を走らせていた。
その骨ばった指には紺の万年筆が握られていて、おそらくは無意識だろう、ゆっくりと揺蕩うように揺れている。
随分と肉の薄い男だった。痩せた身体に洗いざらしのシャツを纏い、今時珍しい文机に几帳面に正座をして向かっている。
だが神経質な感じはしない。むしろ目元は優しげに緩み、鋭さとは無縁の穏やかな空気に身を包んでいる。
読み返し終えたのか、一番下の空白に署名を入れているところで丁度背後の音も止んだ。既に宛名の書いてあった封筒に三つ折にした便箋を仕舞い、封をすると男は立ち上がった。
「終わったの?」
「うん」
それなりに値の張りそうな重厚な碁盤の前にはまだ小学生ほどの少女が座っていた。少女の手元に碁笥が二つともあり、盤上に並べられた石たちが少女の手によるものだと推測できた。
男が隣に腰を下ろすのが待ちきれないように、少女がうっとりとした口調で呟く。
「キレイな絵だね…」
盤面を描いているのはもちろんただの黒と白の碁石だ。何ら意図のある絵図らに見えない。それなのに少女はそれを絵に例えた。
男はそんな少女の横顔を眺めて微笑み、その艶のある長い黒髪を愛おしげに撫でた。
「君は碁の才能があるよ。これがどれだけ優れているのか解るのだからね」
その言葉も耳に入っていないようで、少女は夢見るような眼差しをじっと碁盤に注いでいる。男は今度は淡く苦笑して、再び立ち上がると文机へと脚を向けた。そして机上の写真立てを取って来ると、再び少女の隣に座る。
「ほら。真ん中に写っているのがパパのお師匠さんだよ、挨拶に行ったことがあるから知ってるよね?そのお師匠さんの隣にいるのが塔矢君といってね、今二冠の座にいる男だよ。僕と昨日この碁を打った青年はこの塔矢君の門下生なんだよ」
「ふぅん…」
差し出された写真に興味を惹かれたのか、少女の視線がやっと碁盤から離れる。写真立てを受け取って、きらきらと輝く瞳を切り取られた記憶に落とす。写真の中の男は今よりも幾分若くて、今よりも少しだけ健康そうに見える。
「……名前は?」
「ん?」
無垢な瞳で男を見上げながら、少女が細い指で盤上を指差す。
「これ打った人」
「ああ」
男は昨日のことを懐かしむように僅かに目を細めて微笑んだ。
「緒方精次五段だよ」
「優しい?」
「どうだろう。若いからね、まだちょっと肩に力が入り過ぎてるようなところがあったけど」
「それって恐い人ってこと?やだなぁ」
少女ががっかりしたように唇を尖らせる。
その仕草と言葉に男は声を立てて笑った。
「写真、見るかい?きっと捜せばあるよ。結構かっこいいお兄さんだからね、写真を見たら君はお嫁さんになりたいって云い出すんじゃないかなぁ」
「云わないよ!そんなこと!」
大きな目をさらに大きくして、少女の頬が一瞬で紅くなる。その反応に悪戯を思いついたように男は口元を緩めた。
「ほんとに?まあ、いいや、あのね」
男が少女の耳に口を寄せて何事か囁いた。すると少女はこれ以上ないほど紅くなって、男の肩を小さな拳で打った。
「だから云わないって云ってるじゃん、もう!」
ぶたれたことさえおかしいのか、男は益々笑う。おかげで少女の方は完全に臍を曲げたようだ。膝を抱えて仏頂面で再び碁盤へと視線を向け、男の存在を一生懸命無視しようと努める。
やっと笑いを収めると、男はやわらかく微笑みながら首を傾げて訊ねた。
「お前は棋士になりたいかい?」
「解んない」
今だ機嫌を損ねたままのぶっきらぼうな口調で少女が簡潔に返事を返す。それに気を悪くした様子も無く、男はまた艶々と光る少女の髪を梳く。
「そうだね、まだ解んないか。まあ、何を選ぶのも君の自由なんだからゆっくり構えてれればいいよ。別にパパが云ったからって碁を選ぶことはないんだからね、君の好きなことをやりなさい。ただね」
男の言葉に何かを感じたのか、少女がふと碁盤から顔を上げた。
きらきらと輝く瞳で真っ直ぐに父親の姿を射抜く。
「何を選んでも幸せにだけはおなり、
その言葉には微笑んだ。




外は雨だった。