明かりの無い廊下。


湿った肌がフローリングの床を踏むと、吸い付くような独特の音を立てた。

エレクトリックな電燈も点いてない、ロマンティックな月明かりも届かない、その上眼鏡も掛けてない眼前の世界は水底で溺れているみたいに歪んでいて距離感を狂わせる。
だがそれでも住み慣れた部屋では目測を誤ることも無い。

廊下の突き当たり、見えているかのような正確さで緒方は寝室のノブを掴む。

タオルで拭っただけの濡れた髪を左手は乱雑に掻き揚げたくせに、右手は細心の注意でノブを回転させていく。

室内に身体を滑らせると身を包む闇の濃度は深くなり、より視界を曇らせたが緒方はそれでも明かりを点けようとはしなかった。

迷いの無い足取りでベッドを目指し、その褥に側近く寄れば眩んだ視力でもそのシーツが平らではなく不自然に丸みを帯びているのが解る。
頭のおかしい泥棒でもない限り、緒方のベッドに忍び込んだそれが誰なのかは明白だった。
頭痛がしそうに素敵な状況に緒方の瞳が細められる。


今日はまだ一人で寝ろと云ったはずなのに。


深夜に嘔吐して発熱した
3日ほどで熱は37度以下に下がったが、今度はその微熱が平熱に戻るまでさらに2日を要した。

一緒に眠るのを当たり前のこととに沁み込ませたのは自分なのだし、別に完治したのか疑わしい風邪を移されるのを嫌がっているわけではない。

そうではなく、具合が悪いときは一人で悠々と静かに睡眠を得た方が良いなんて自明過ぎて今更議論すべき必要なんて無い話ではないか。

のことを慮って云っているのに、何故耳を貸そうとしないのだろう。
腹が立つとまでは行かないが薄く炙られた様な苛立ちを覚える。
聴かせたいのかそうじゃないのか微妙な音量で溜息を吐くと緒方はシーツを捲くった。


「…先生」


待ち侘びていたみたいなタイミングで届けられる声。
だが緒方は無駄の無い動きでベッドとシーツの隙間に身を滑らせると、無言でに背を向けた。

おしゃべりに付き合うつもりはない。
それどころか云うことを聞かずにこっちで寝ていたことに加え、まだ起きていたのかと今度こそ腹が立つ。

衣擦れの音はおそらく反対を向いていたがこちら側に寝返りを打った拍子のものだろう。

「先生」

再度呼びかけられても早々に目蓋を閉ざしてしまった緒方は黙殺する。
どうせ口を開いても険のある声しか出そうにない。
の行動は十分叱責に値すると思うが、なにも昨日まで寝込んでいた人間を怒鳴りたくなどない。
気遣いと不機嫌の意思表示の半々で緒方は無視を決め込んでいた。

一方のからは一瞬の沈黙。
それからベッドが軋んで、さっきよりも長い衣擦れの音と空気の流動する気配。

それらの情報が勝手に緒方の頭の中で、身を起こし上から自分を覗き込むという映像を結ぶ。
実際にそれを証明するように、横を向いた緒方の首の後ろに質量の軽い髪が零れて触れてきた。

「先生、どうして怒ってるの?私もう熱下がったもの、もう大丈夫だよ」

緒方が返事をしないでいると、しばらくして遮蔽物が取り払われた首の後ろをひやりと空気が撫でた。

が身を引いたことで緒方は一度だけ目蓋を開け、その目に先程と変わりのない闇を映して、それからゆっくりと再び視界を閉ざす。


もこれで諦めて寝るだろう。
小言は明日だ。


そんなふうに漠然と考えていたから驚いた。

緒方の背中のすぐ側が二箇所沈む。
おそらくが手を突いたのだろう。
頭上に熱源を感じたときには手遅れだった。
察知すると同時に反射的に目蓋が開く。

ここ数日は忘れていた甘い匂いと共にこめかみの辺りに降ってきたやわらかい唇。



荒々しく寝返りを打つ。
今度こそ真剣に腹が立った。

こういうやり方で機嫌をとられるのは嫌いじゃない。
だがそれも平時に何かねだられるときのみ可愛く思うものであって、怒りを逸らす為の手段として使われるのは我慢できなかった。むしろ恥ずかしげもなくそういう真似する女を緒方は軽蔑さえしている。

だから余計に腹が立ったのだろう、振り返る直前までは多分感情に任せて怒鳴りつけてやるつもりだった。

「もう、大丈夫だよ…」

寝返りをうって、珍しく見上げる角度で視線を合わせたの顔は何だか泣きだしそうだった。
の浮かべたその表情に怒気はあっさりと退いてしまう。

「熱下がったもん」

その表情の訳を探ろうとじっと見つめてやると、居た堪れないとでもいうように膝の上の指へと目線を下げる。

「…、お前」
「やっぱいい、先生ごめんね、おやすみなさい」

逃げるように早口で告げると、は急いでシーツに潜ろうとする。

本音をオブラートで包んだような行動の理由を理性が理論立てて推測するより先に、本能が一足飛びでその回答に辿り着く。


そこに在るのは暗黙で明白な欲望だった。


できるだけ遠くに離れようとする身体を無理やり抱き寄せると、緒方は半分圧し掛かるみたいにその肩口に顎を乗せてみた。
布越しのその肌は熱を帯びてやけに温かい。
それが最早風邪による発熱の所為ではないのを知っているから、緒方はついからかうように笑っていた。

「ヤラシイ笑い方…」

耳の付け根に唇を寄せると腕の中の身体が僅かに身じろぎ、それを隠すようにそんな憎まれ口を叩く。

だが丁度絡ませた腕の下、やわらかなふくらみと薄い肌の下からはやけに嬉しそうに乱れた鼓動が伝わってくる。意趣返しにそれを指摘してやろうかと思ったが、今度はオヤジくさいとでも云われそうだから止めておく。

ボタンを緩め、首筋を横切り肩口に顔を埋めると一層甘い匂いが強くなる。
わざと痕を付けるように吸い付いた緒方の唇は未だ微かに笑っていた。

「先生…」

緒方の忍び笑いをどう思ったのか、が戸惑うような咎めるような声で啼く。別に緒方はの直球で不器用な誘いを嗤っているのではない。
そうではない。
から隠れて笑うその笑みの意味は至極単純だ。
誰かに望まれるというのは心地良いことだ。
緒方にしてみればそれがなら尚更。
つまり、きっと緒方は幸福だったのだろう。


笑みを浮かべてくちづけたその肌からはボディローションの味がした。





一体自分は何をしているのだろうか。

自問自答しては、行洋の顔つきは険しくなっていく。
己の容姿が親しみ易さや朗らかさに満ち溢れているなんて厚顔無恥なことを思ったことはない。ただでさえ自分がこんなところに突っ立っているのは不審げなのだから、せめてそんな顔は止めようと思うもののどうにも煩悶は収まらない。

こんなところとは――つまり女学校の正門前、である。

延々と逡巡を繰り返す内に、ついに囀るような少女たちの声が聴こえてきた。
睨みつけていた路上の石ころから顔を上げてみて、そのあまりの数の多さに何となくぎくりと身が竦んだ。近付いてくる少女たちは揃いの紺の制服姿で、そして聴いた通りに皆一様に長い髪をおさげにして肩に垂らしている。

ぞろぞろと堰を切ったように溢れ出てくるその紺色の波は、行洋に妙な圧迫感を与えもしたが一方でほっとさせもした。
女学校が何時に終わるのかなど、そんな情報を正確に知っていたわけではない。何となくこの時間なのではないか、という頼りない勘を働かせてこの時間を選んだだけだ。幽かに届いた終業と思しき鐘の音の後も、一向に静まり返ったままのこの場所を温めることに不安を感じ始めていたのだ。
しかし勘の的中を喜ぶどころか、行洋の表情は時を追うごとに凄みを増していく。

時折、というよりほぼ全ての少女たちが行洋に目を留める。
訝しげだったり、不思議そうだったり、その目の色は様々だったが、行洋を居心地の悪い気分にさせたのはどれでも変わりがなかった。

おまけに中には視線が合ってしまう少女も居る。
びっくりしたように瞳を見開いて、そしてそそくさと急に足早になって立ち去っていく後姿を横目で見送る度に益々表情に険しさが滲む。
その所為で通り過ぎる少女たちが怯えたような表情を浮かべ始め、不機嫌そうなその眼前から身を縮みこませて通り過ぎる。その少女たちにさらに居心地が悪くなり、すると眉間の皺はますます深まっていく。
負の悪循環に陥っていることにも気付かず、行洋は闇雲に耐えていた。

まさに正しく針のむしろとしか云いようのないこの状況に、本当は視線を下げてしまいたかった。
だがそれでは見つけることができない。

明子を。



明子が突然訪れなくなった。
何の前触れも無く、ただの一言も無く、毎週火曜日という出来たばかりの習慣をあっさり壊して明子の影は消えてしまった。

(否―)

本当は、在ったのかも知れない。
前触れも、言葉も。
ただそれを自分が見過ごしてしまっただけなのかもしれない。

お世辞にも自分は人の機微というものに敏いとは云い難い。
一月半前、自分以外の誰かなら察知できた合図を明子は送っていたのかもしれない。
一月半前、自分は何か恐ろしく不快な思いを明子に味合わせていたのかもしれない。

だとしたら、愚鈍な己が悪いのではないか。


こんなところに突っ立って自分は一体何がしたいのだろう。


ついに行洋は折れた。
少女の群れから視線を地べたへと伏せる。


第一、明子と会ってどうするというのだ。
来なくなったその訳を問い詰めでもする気か。
別に確たる期間を定めたわけでもないのだから、明子の気が済んだのでそれで仕舞いと云われてしまえばそれまでなのに。

だがそれならそれで良い。
理由が欲しかった。
ちゃんと明子の口から聴けばきっと納得出来る。そうしたら自分はもうぐずぐずと思い悩むことも無くなるはずだ。

顔を上げろ、さもないとここに立つ意味はない。
奮い立たせるように胸の中で己を煽る。
だが、今更ながらにこんなところに自分が待ち伏せしていたら明子に迷惑が掛かるかもしれないことにいきなり思い至った。

不味い。
自分の都合ばかり優先させ、明子の立場というものを完全に失念していた。

表情にこそ出さないものの、内心行洋は恐ろしく狼狽て急いでその場を後にしようとした。
だが、顎を上げたところで行洋の動きが止まる。





ああ。

やはりだ。
どれほどの人込みだろうと関係ない。


自分が明子を見紛うはずがないのだ。


友人と並んで歩く明子の姿は半月前となんら変わらぬものだった。
相変わらずのおさげ。
その髪のやわらかさを行洋は知っている。

咽喉に石が詰まったように声が出ない。
ぼんやりと案山子のごとく棒立ちに明子だけを凝視していると、不意に視線がかち合った。

瞬間、全身から冷や汗が噴出す。
逃げたい、と真剣に思った。

けれど下駄を翻すよりも早く微笑んだのだ、明子が。

「行洋先生」

久方ぶりに明子に名を呼ばれて、どういう訳か行洋は眩暈に似た感覚に襲われた。
友人に二言、三言何事かを告げると明子は嬉しげに小走りに駆け寄ってくる。

「ごきげんよう、行洋先生」

向けられたやわらかな眼差しに胸が軽くなる。
迷惑そうな顔をされなかったことへの安堵が全身を貫き、今の今まで説明のつかなかった自分が何故ここに居るのかの理由を鮮やかに浮かび上がらせてしまう。

子どもみたいに自分を「トーヤ」と呼ぶ男の、それ見たことかと云わんばかりのくすくす笑いが聴こえる気がする。
腹立たしい幻聴のはずなのに大声で笑いだしたい気分だった。

「今日はどうなさったんですの?もしかして、私に何かご用事でもおありになって?」
「いや…用事………用事というか」

明子が可愛らしく小首を揺らす。
おさげも揺れた。
行洋の心はもう揺れなかった。

だから、とても穏やかに自然と口元に笑みを刻むことが出来た。

「出来れば貴女を妻に迎えたいのですが」





「それで?」
「それでって、俺にあと何を語れというんだ。あの二人が一緒にいるという事実以外、あとはもう何もない」

が濡れて赤く色付いた唇を尖らせる。

「先生、どうしてそういう意地悪な云い方ばかりするの?」
「別に意地悪なんてしてないだろうが」
「してる。なんだかお前はバカだなあって云われてるような気がしたもん」

緒方は咽喉の奥で苦笑して、裸の肩を宥めるように指先でなぞる。
汗が引いた肌は少し冷たくなっていた。

「なら今の質問を芦原がした場合、俺がなんて答えるか教えてやろう。『お前は馬鹿か』、以上だ。俺としてはお前には格別親切に接しているつもりだが、まだ何か不満でも?」

くすくす笑いながら、が酷いと緒方を詰る。
腕を伸ばしてランプのスイッチを落とすと、部屋には一瞬で闇が流れた。

「もう寝ろ。与太話は終わりだ」

はぁい、と返事をして甘えるようにが身を寄せてくる。
肩を抱く手とは反対の腕でシーツを肩まできちんとかけてやってから緒方も目蓋を閉ざした。


だが、一分も経たない内に緒方の皮膚に鋭い痛みが走る。

「……ねぇ、ちょっと待って先生。今ひょっとして与太話とか云ってなかった?」



翌朝。
明け方近くまで出まかせを口にしたことを叱られた上、無数の引っ掻き傷が散った己の胸板を目にして、緒方はらしくもなく腹の底から溜息を吐いたという。