緒方は指を止め、顔を上げた。


無言でパソコンデスクの前から立ち上がりドアへと向かう。
開けた途端に耳に飛び込んできた細く微かな音。

「どうした?」

自室のドアに縋る様にして咳き込むのもとに大股で歩み寄る。
何でもないという風にが首を振り、だが口を開こうとして失敗した。押し殺していた咳が激しくなり、緒方はそんなを引き寄せると有無を云わさず抱き上げた。

ドアから僅か数メートル先のベッドまでそのまま移動すると、硝子細工でも扱うようにゆっくりとその身体を横たえる。

乱れて頬に散った前髪を掻き揚げてやりながら、緒方はその顔を覗き込んだ。
力ない身体の中で唯一生命を感じさせる熱に潤んだ瞳がぼんやりと緒方を見上げる。

「どうしたんだ?」
「……ず飲みたくて…」

擦れて初めの部分は聞き取れなかったが、云いたいことは理解できた。

「待ってろ」

緒方は汗で湿った頬を撫でると立ち上がった。
足早にキッチンに向かい、冷蔵庫に手を伸ばしかけて止める。
代わりに棚から買い置きのミネラルウォーターを取り出す。空きっ腹に冷えた水は身体に障りそうなイメージがそうさせた。

は昨日から熱を出して寝込んでいる。
明け方にベッドを抜け出してからしばらくたっても戻ってくる気配がない。妙に気になって見に行ったら、トイレで吐いていた。
熱を測ったら38℃だった。

今日は吐いてないが、それはほとんど何も口にしていないからだ。昨日の様子を知っているから無理に喰えとも云えない。
自分から水を飲む気になっただけでも進歩だろう。

緒方はすぐ手近に在ったのマグカップを掴み、しかし触れただけでそれから指を離した。
作り付けの棚から引き出物で貰ったバカラのグラスを取り出して、漸くその場を後にする。

部屋に戻るとはその目をぴたりと閉じていた。ほんの少し苦しげにその眉がゆがんで見える。
ベッドの横のフローリングに緒方が直に腰を下ろすと、まるで壊れかけのおもちゃみたいなぎこちなさでが目蓋を押し上げた。

「飲めるか?」

背中に腕を差し入れるとパジャマ越しでもその肌を覆う熱を伝えてきた。
その熱さに眉を顰めそうになりながら、再び視界を閉ざしてしまったの唇に繊細なカッティングのグラスを当ててやる。すると待ち侘びたように咽喉を鳴らして嚥下し始める。

だがグラスに押し潰された唇からひとすじ滴が溢れて顎を伝い堕ち始めた。

顎から咽喉に、軌跡となってその質量を損なうごとにその速度は緩やかになってゆく。
結局鎖骨に辿り着く前に推進力が足りずに水滴は咽喉の中途半端な位置で停止した。

「もっと飲むか?」

その首に唇をつけてその水滴を奪いたいという衝動から目を背けながら緒方は優しく問う。
しかしは緩やかに首を振る。

「じゃあ眠れ。眠れないなら子守唄でも謡ってやるぞ」

緒方の言葉にが少しだけ頬を綻ばせる。その弱々しい笑顔に緒方は背中を伸ばすと額に口付けた。
けれどが慌てて首を反らす。

「やだ、お風呂はいってないからきたないよ」

緒方は笑ってもう一度唇を近付けたが、が本気で嫌がる素振りを見せるので直ぐに諦めた。こんなことで暴れた所為で悪化したらそれこそ笑えない。

「解った、もうしないから本当に寝ろ」
「……じゃあ、眠るまででいいからここにいて?」

熱で潤みきった瞳に思い詰めたような表情で願われて緒方は苦笑した。
きっと放置してきたパソコンの画面では、主人の下心を笑うかのごとく味気ないスクリーンセーバが踊っていることだろう。
緒方は片手を毛布に突っ込みの手を握り、もう片方を枕と並べてその上に顎を載せた。

「居てやるから眠れ。じゃないとよくならないぞ」

目蓋を堕としたがうわごとのように言葉を紡ぐ。

「先生、子守唄のかわりに子守話して…」

緒方は仕方ないと云いたげに口元を緩ませ、その目を一瞬だけ遠くに飛ばす。

「あれから塔矢先生は……」








「塔矢サン、アンタ鷹宮のお嬢さんとデキてるって話本当かい?」

その言葉に一瞬周囲が静まった。
全身をアンテナのように強張らせて、皆一様に行洋の口から吐き出される言葉を聞き逃すまいと身構えている。

「いえ。私と明子さんは一柳さんがおっしゃっているような間柄じゃないですよ」

だが云われた方の行洋は相も変わらず、乱れた様子もなく落ち着いた口調で反駁する。

「ハハハっ!こりゃ失敬!いやいや噂話でちょいと耳にしちまったんで、つい訊いてみたくなっちまって。いやはや、下衆の勘繰り、こいつは失礼した」
「いえ」

斜め前で一柳が豪快に笑い、ぴしりとすでに薄くなっている額を打つ。かと思えばもう鍋に箸を突っ込み、肉をさらっていく。なんだか一日に行洋の何倍もエネルギーを消費していそうだ。

一柳の話はそこで終わりのようなので行洋も視線を鍋に戻した。
だが肉を挟んだところで自分の前の席の茶碗には白菜しかないのに気が付き、眉を厳しく顰める。

「来栖、肉も喰え」

命令口調でそれだけを告げると、行洋は問答無用でその茶碗に肉を次々放り込み始める。

「あっ、止めてよ、僕いらないよ」

来栖が慌てて茶碗を持ち上げ、行洋の箸から隠す。しかしすでにその茶碗には肉が山盛りに積まれて白菜の姿など見えなくなっていた。

「喰え」

ほとんど睨む様にして云ってみるものの、当の来栖は大量の肉を非常に嫌そうに顔で見下ろすばかりで箸をつけようとしない。

「いや、来栖さん、アンタ喰わなきゃ駄目だよ、そうだよアンタが今日主役なんだしさ、これから嫁さん養っていかなきゃいけないんだから力つけないと」

そう云われて来栖が「はあ…」と気の抜けた返事を返す。それでも漸く箸を掴むと、わざわざ細切れにしてから肉を口に運ぶ。いい年して、まるきり子供の食べ方だ。
それでも『養う』という言葉の響きひとつで嫌いなものを口にする気になるのだ、来栖の溺愛振りがなんとなく窺える。

「こっち離れるのは寂しいけど、お互い棋士やってりゃいずれぶつかるわな。名古屋行っても元気でやりなよ」

まあ恋人の為に東京を離れることすら厭わない男だ、それに比べれば肉くらい容易いものか。
今日まで同じ門下生として精進しあっていた来栖聖二は明日東京を離れる。
恋人の両親が結婚するならこっちに住め、とどうしても譲らないそうだ。
それで本当に行ってしまうのだから恐ろしい。

何となく行洋はそれが面白くなかった。
これまで親しんだ師匠や仲間を捨ててまで来栖は名古屋に行く。
来栖自身の決断なのだから、と思いながらもたかが女の為に碁を汚されたような気分だっだ。

「いやあ、来栖さんが出し抜けに結婚するって云うからさ、だからこりゃ塔矢さんの話も本当なのかなって思っちゃったのよ」

話がまた最初の場所に戻った。
大量の肉に悪戦苦闘している来栖が誰かの茶碗に肉を密輸しないよう横目で監視しながら、行洋は一柳に視線を合わせた。

「何故ですか」
「いやあ、塔矢さん一見冷静そうだけど結構意外と火が点いたら凄いんじゃないかなと思いまして、いやまたこりゃ下衆の勘繰りだな、でもだらだら付き合って仕方なしに結婚なんていう俺みたいなパターンはないと思うんだよねぇ」
「僕もそう思う」

茶碗から顔を上げた来栖が悪戯を思いついたような顔をしていた。

「トーヤは頭固いんだよね。別に僕は碁より彼女を選んだわけじゃないのに、白黒はっきりさせないと気がすまないんだよね。全然別の話だよ、それは」
「俺はそんなこと云ってないぞ」

口にしてないはずなのに、胸に燻ぶるわだかまりを見抜かれて行洋は思わず云い返していた。
相変わらずの緊張感の無い口調で、それなのに来栖の視線はまっすぐと行洋の目を射抜く。

「君だってほんとはあるはずだよ。会いたいと願うこと、顔を見るだけでも嬉しいと感じること、思わず触れてしまったり、触れたかったり、自分ではどうにもならない気分。そういう気持ちと碁への気持ちを比べたって無意味だよ。そんなの我慢する方がどうかしてる」

僅かに鳥肌が立った。
それは後ろめたさからかもしれない。

来栖を自分の理屈で軟弱者扱いしてたのに、その来栖に云い当てられてしまった。
確かにあの日、自分はどこかでそんなことをしたら明子が怯えるかもしれないと知りつつ、その髪に手を伸ばした気がする。
本当はしてはいけないことだったのかもしれない。


碁の先生と生徒なら、してはいけなかったことかもしれない。


「俺は違う」

行洋は頑迷に云い切った。
長い付き合いだから、来栖は何か行洋自身でさえ気付いていない変化を見抜いているのかもしれない。
けれどそれを認めて、来栖の言葉に素直に迎合できるような性分を行洋は持ち合わせていなかった。

「潔癖だなぁ、トーヤは」

幼い少女のように小首を傾げて、来栖が仕方ないとでも云いたげに微笑んだ。


翌日は駅の一角が見送りにきた人々で埋まった。
昨日のお別れ会同様、一柳みたいな門下生ではない人間の姿も多く見られる。
それぞれと別れを惜しみながら、来栖は最後に行洋に囁いた。


「あんまり清廉に物事を求めても道を誤るよ」


と。





緒方はそっと膝を立てた。

衣擦れの音さえ恐れているのか、酷く静かに立ち上がりつつ毛布の中からゆっくりと指を引き抜く。
その毛布をかけ直してやろうと手を伸ばしかけて、緒方はふと動きを止めた。


何かを迷うような沈黙。


本当に触れるだけのキスをすると、緒方は今度こそ毛布を掴んだ。

毛布を直し終えると、緒方は指を伸ばしての咽喉に微かに残った水滴の残滓を掬い取った。せいぜい今はそれが精一杯だ。

足音を殺して去っていく背中。

部屋の電気が落とされた。













は暗闇でうっすらと長いまつげを震わせた。
不透明な視界、そこにはもう緒方の姿はない。

今のキスで目が覚めてしまったと云ったら、いったい緒方はどういう顔をするだろう。
眉間に皺を寄せて渋々続きを話してくれるのだろうか?

誰も居ない闇の中で、は寝返りをうちながらこっそりと笑った。
けれどその声は最後には吐息となって吐き出された。

本当は話の続きより欲しいものがある。
本当は今のキスの続きが欲しい。

緒方を識ってからずいぶんとフシダラな女の子になってしまった気がする。

はまるで胎児のように身体を丸めて、その瞳を閉ざした。


一秒でも速くよくなって、キスの続きをねだるために。